一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

東アジアを超える「東アジア共同体」の構想を②

2010-02-14 07:42:31 | 「東アジア」共同体構想


    本稿は、2009年9月にソウルで開かれた国際シンポジウム『二一世紀の東アジアを構想する』
    での基調講演に加筆したもので、すでに月刊誌『世界』2010年1月号に掲載されています。
    ここでは、4回にわけて掲載します。本稿の
コピーや転載を禁じます(知と文明のフォーラム)。
    
   
   
見出し一覧 
    導入 ●二一
世紀の挑戦・・・・・・・(その1)
     ●東北アジア共同体の条件 ●非核共同体 ●不戦共同体・・・・・・(その2)
    ●安全保障のイニシアティヴ ●体制改革のイニシアティヴ ●国家の境界を超える「共同体」
    ●東アジアのアイデンティティ ●東アジアを超える「東アジア」

   東北アジア共同体の条件

 「東アジア共同体」という理念や政策提言は、これまでにも数多く述べられてきた。しかし、その大部分は、通例、日韓中を軸とした「東北アジア」の協力組織と、ASEANに代表される「東南アジア」の地域組織化とを連結して構想するものが多い。ところで、その中でとくに日韓中を柱とする「東北アジア」の協調に力点をおく考えは、それ自体としては、きわめて建設的な構想であるが、意識的に、あるいは事実上、北朝鮮の参入を後回しにすることによって、現実には、しばしば北朝鮮を包囲する体制を築く機能や目的をもつことになりがちである。

 そこで、私は、ここでは逆に北朝鮮問題を中心にすえて、一体これをどのように解決することを通じて二一世紀の東アジアを創るのか、という課題を考えてみたい。

 朝鮮半島の南北分断は、二○世紀の冷戦が二一世紀に続いている世界で唯一のケースだが、それは米ソの「冷たい戦争」と呼ばれ、ギャディス(John Gaddis)などが超大国中心の視点から「長い平和(long peace)」とさえ呼ぶ対立が、ここでは血みどろの戦闘と同胞殺戮によって深い傷痕をのこしただけに、それを癒すことは容易ではない。この困難を端的に示すのは、近年の北朝鮮の核武装である。これは、分断ドイツにも分断ヴェトナムにもなかった問題である。

ここで、われわれは問題を二つに分けて考える必要がある。

   非核共同体

 第一は、核兵器そのものの反人間性である。一九四五年八月に広島・長崎に投下された二発の原子爆弾が、日本帝国崩壊の重要な決め手の一つになり、朝鮮半島・中国を含むアジアの多くの人々が歓声を挙げたことは、十分理解できる。しかし、二発の爆弾で、即時に約二○万の人間を殺し、その後の放射能障害で、さらに数十万の人々を今日に至るまで苦痛と死に陥れているという現実は、単に日本帝国主義の終末だけでなく、世界人類の終末を予示する恐るべき「核時代」の始まりを意味するものであった。それを示すのは、広島・長崎での犠牲者の圧倒的多数は、もはや両市に多くの戦闘員が残されていなかった日本の軍隊ではなく、女性、子ども、老人などの非戦闘員だっただけでなく、植民地から連行されてきた朝鮮の労働者、つまり植民地支配の犠牲者も数多く殺されたということであり、さらに、少なくとも長崎には米英の俘虜がいることを承知で、原爆が投下されたという事実であった。これは、核兵器が、もはや一国の国民を超えて、ついには全人類を殺戮する力をもつに至ることの前兆だった。

 日本の湯川秀樹がこれを「絶対悪」と呼び、バートランド・ラッセルとアルバート・アインシュタインが核戦争の絶対的防止を訴え、オバマ大統領が「核兵器のない世界」を目指すと宣言したのも、核兵器の悪魔的破壊力を考えれば、余りに当然である。したがって、われわれは、北朝鮮であれ、どの国であれ、核兵器の開発保有には絶対に反対の声を挙げなければならないし、その点で、少なくとも日韓の国民が一致協力すること、それが東北アジアに「共同体」を創ることができるかどうかの、第一の試金石である。

   不戦共同体

 しかし、核保有国のすべてが、その核兵器は、攻撃のためではなく、戦争の「抑止」のためだと言って、正当化している。ここに、第二の問題がある。現に、オバマ大統領も、北朝鮮も、その核保有は「抑止」つまり戦争防止のためである、と主張する点では一致している。一方が戦争「抑止」のための核保有を正当化すれば、他方も戦争「抑止」のために核保有を正当化し、こうして「抑止」戦略は核兵器の拡散を「正当化」する。同様に、北朝鮮の核開発に対して、韓国と日本の政府は「戦争抑止のための核の傘(extended nuclear deterrent)」を強化しようとしている。だとすれば、反対し廃絶すべきものは、核兵器そのものであるよりは先ず「戦争」である。われわれが戦争を防止できれば、核兵器が使われる可能性はなくなり、それは兵器庫に保存されるだけで終るはずである。現に、英国は一六○発、フランスは三○○発の核弾頭を保有しているが、かつての敵国ドイツの国民でこれを脅威と受け取る人はいないだろう。また英国の核兵器が、冷戦時代のように「ソ連」つまりロシアに対する「戦争の抑止力」として正当化できるかどうかも、現在では不確かである。英国で二○○六年、核兵器積載のトライデント潜水艦の老朽化にたいして、新たに莫大な費用を投じて後続艦を作るべきか否かが議会で真剣な議論になったが、それは、ロジアその他との戦争の可能性が減少したからに他ならない。

 だとすれば、今われわれが全力をあげるべきことは、北朝鮮との戦争の可能性を極小化しゼロにすることであり、また、北朝鮮が、戦争の可能性はないと信じるような政治状況を国際的につくることである。まさにそれが「東北アジア共同体」建設の第一歩であり、先ず「不戦共同体
(security community)」の形成なくして「東北アジア共同体」などありえないはずである。

                           (その3へ続く)



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