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一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

おいしい本が読みたい●第十話

2009-05-24 22:54:15 | おいしい本が読みたい

おいしい本が読みたい●第十話              読点は語る
 

        “彼女は切った、乱暴に、根元から、ひと房の長い髪を。   
        ―それをとっといて下さいね! お別れです!“ 
               

 ひょんないきがかりで再読することになった、フロベール『感情教育』のクライマックスシーンでの一節である。ほぼ二十年ぶりに再会した、初老のアルヌー夫人と年下のフレデリック、訪ねてきたのが彼女なら、別れの言葉を口にするのも彼女で、男は小説の最初から最後まで煮え切らない。場所は彼のアパルトマン、時は三月下旬のとある夕刻。目だけがはっきり見えるようなコスチュームで、日暮れ時を選んだのは、やはり相応の理由があるだろう。  

 わたしたちの身体のなかで、目はもっとも老化に抵抗すると言われる。薄暗がりのなかで、帽子をかぶったままの夫人の目を見る男は、二十年前の麗しの夫人を幻視する、おそらく彼女の計算どおりに。男は独身である。それでも何事も起こらないのが、軟弱男フレデリック・モローを主人公にすえたフロベールの新しさだった。  

 新しさついでに言えば、このクライマックスで物語が終わっていたなら、ある種の映画のラストシーンのような、それなりの余韻を残す効果があっただろうと思える。しかし作者はそうせず、フレデリックはもうしばらく無味乾燥な、さほど面白くもない人生を生きることになる。リアリズム文学の元祖と称される所以はこの辺にもある。  

 フロベールのこの小説の何が見事といって、読点と余白の使い方ほど見事なものはない。その好例が冒頭にあげた一節であった。余白については若干留保がいるかもしれない。というのは、作者が余白を計算に入れていることは明らかだけれども、彼が意図したのは初版の余白であって、わたしの眺めているポケット版では多少模様が異なるはずだからだ。  

 その点、読点は心配いらない。それにしても、さして長くないこの一文に読点が三個。副詞「乱暴に」とあいまって、この三つの読点が最大の効果を与える。ことばで名指すのではなく、ことばとことばの狭間の空白に、空白の息遣いのなかに、女の内面を封じ込めようとしたのだろうか。語りえぬものは、感じさせるしかないのだろうか。  

この手の読点多用でいつも思い起こすのは、谷沢永一の文である。ただし、谷沢の場合は、フロベールのようにここぞというところで用いるのではなく、延々読点オンパレード文体で攻める、泣き落とし戦術に近い。引用は、親友だった開高健への挽歌とも言うべき『回想 開高健』(新潮社)の最終行。    

      “その、開高健が、逝った。以後の、わたしは、余生、である。”
                                                                                                                                       むさしまる


おいしい本が読みたい⑨

2008-10-05 22:46:21 | おいしい本が読みたい

おいしい本が読みたい●第九話       名著を味わう  

 家人はまったく期待しないが、ときに厨房で腕を振るうこともある。小泉武夫先生まがいの、名の知れぬ一品が得意の分野だけれども、世間並みの料理に挑戦することもやぶさかではない。ただ、“異分野”に手を染めるときはやはり道案内がいる。すなわち、料理本である。 

 あらためて数えると、わが家のキッチンにも相応の数の料理本が並んでいて、それぞれお世話になった時期がある。「時期がある」と記したのは、年齢や流行とともに味覚も変遷したからだ。しかし、風雪に耐え、ここぞというときに紐解く座右の書といえるのは次の二作に尽きる。  

 まずは、『ごちそうさまが、ききたくて』(栗原はるみ、文化出版局)。ショウガやニンニクを調味料に使う料理がわたしと相性がよい。全般的に味付けが多少濃い目のところも好みがあっている。不精男が挑戦する料理本だから、けして手の込んだ逸品なぞではありえない。どれもこれも、それこそちょっとした家庭料理の域を出ない。が、それでいて、出来上がった品々は、これはいける!と納得させるところが筆者の非凡さであろう。  

 「食いしんぼうの夫にひっぱられて…」と、どこかに書いてあったが、こういうサラっとした言葉づかいの端々に、栗原はるみの晴朗さが感じられて、そのあたりもこの本を気に入る理由になっている。むろん、夫どころか、本人が食いしん坊そのものだからこんなに工夫して料理をつくるにきまっている。言葉づかいといえば、「わけもなくせん切りが好きで…」の一句をはじめて目にしたときは、思わず拍手したものだ。あのリズムと音と感触は、得がたい快感のひとつではあるまいか? サクサクサクサク……   

 もう一作は、『お母さんのちゃぶ台』(生井洋子、女子栄養大学出版部)という。カバー写真に写った、使い込んだちゃぶ台に〔大豆ごはん〕と〔じゃが芋と玉ねぎのみそ汁〕だけ、という構図からも、タイトルからも予想されるように、徹底してなじみのある食材を使う料理本だ。ありふれた食材で、ということは冷蔵庫に残っている確率の高いものだが、そういう材料でいかに変化に富んだ、うまさを引きだすか、そのためのちょっとしたひと手間こそ、この本の真骨頂である。

 身近な素材を工夫する術の多くは母親や義母のおかげ、と筆者は先人の教えを力説する。その点からするとこの本は、明治から昭和四十年代くらいまでの、日本の平均的主婦が連綿と作りつづけてきた品々の集大成であって、いわば共著か。なるほど、たとえばシイタケの軸も使いきる姿勢といい、ぎりぎりの分量の調味料といい、限られた自然条件から最大限の効果を生みだそうとするその創意工夫のエネルギーこそ、日本の食文化の原動力にちがいない。

 と、このように、わが厨房には立派な指南役がいる。残るは、こちらの技量である。天ぷらを揚げたとき、最後には中華なべの底に、キッチンペーパーでぬぐうだけの油しか残らない、そんな天晴れな職人技をめざして、いざ!

むさしまる 


おいしい本がが読みたい⑧

2008-02-21 16:30:48 | おいしい本が読みたい

おいしい本が読みたい●第八話     童心に帰れるかな?  

 「こんなに言い訳してもたりないというのなら、ぼくはこの本を、子供時代のこの大人にささげたいと思う。大人はだれしも最初は子供だった(それをおぼえている人はすくないけれど)。ということで、ぼくはこの本をささげることばをこう直そう:子供のときのレオン・ヴェルトにささぐ」

 見覚えのある一文ではないだろうか。そう、かの『星の王子さま』の献辞を締めくくる部分である。名文家サン・テグジュペリならではの見事な一節だと思う(拙訳では原文の流麗さは味わえないだろうが)。

 木と花と虫と魚と蛙と鳥と鼠と狼と熊と山姥と神さまが、みんな隣にいる時代はいっそう思い出しにくくなっている。いや、忘れられているだけではない。はじめて海を見た少年が「うわぁ、海がきた、海どんどん!」といえば、すかさず親が「海じゃないだろ、波どんどん、だろ」と、“適切な”標準表現へと修正を迫られ、それとともに子供の視線を喪失してゆく。

 ゆがんだ視線を直すには童話(児童文学)にかぎる。わたし好みでいうと小川未明の『金の輪』や有島武郎の『一房の葡萄』、そして作者は忘れたが『銀のおおかみ』だ。この順番はわたしの年齢をさかのぼる配列で、それぞれ大学生、中学生、季節保育所時代(人口三百人のわたしの村では農繁期などにのみ開設された)となる。『銀のおおかみ』は表紙がぼろぼろになるほど繰り返し読んだ。熱心だったというより、雪が降り続いて外遊びができないときは、それくらいしか暇つぶしの手段がなかったといったほうが当たっている。ともかく、再読、再々読々のおかげで表紙の図柄とストーリーは今も鮮明だし、なにがしの感受性を与えられた気がする。しかし、やはり忘れていた。  

 おぼろげになっていた幼年時代の感覚を取り戻させてくれたのが、『小さなお城』(文:サムイル・マルシャーク、絵:ユーリー・ワスネツォフ、訳:片岡みい子)である。家人が留守のとき(ちょっと気恥ずかしいから)、音読してみた。不思議なものだ。あの頃の故里の山河がよみがえるではないか。ついでに、三・四年のあいだ毎晩娘を寝かしつけるときに読み語っていた、自分の若きお父さん感覚も。このお父さん役のときは、父親の役割はもちろん意識していたが、同時に、子供と同じ目線でも語っていたのだった。だから、この絵本を手にしたら子供に読ませるのではなく、ぜひとも語ってもらいたいと思う。わたしの好きなハリネズミを筆頭に、すばらしい絵の味わいも忘れずに。                                                         

むさしまる   


おいしい本が読みたい⑦

2008-01-20 21:52:48 | おいしい本が読みたい

おいしい本が読みたい●第七話   時代小説がんばれ

 じつは時代小説ファンである。とりわけ藤沢周平には目がない。だから彼の衣鉢をつぐと目される寡作の乙川優三郎も愛読する。このニ作家に熱いまなざしを注ぐのファンは少なくない。そんな愛好家同士で盃を傾けながら、「文学」の鎧をとりはらった楽しい座談となれば、一夜語り明かしても足りないはずだ。心に残る名品はさほどに多い。しかし、大好きな料理はまたの機会にとっておこう。  

 今回味わうのは第137回直木賞をとった松井今朝子『吉原手引草』である。花魁にかぎらず歓楽の世界の女性をあつかうのは、時代小説の十八番にちかく、それこそ無数の作品がある。いわば純文学における恋愛小説のごとく、江戸の傾城ものは時代小説の王道といっていい。そして、たいがいの作品が安手の人情話か結末見え見えの悲恋と堕す。たとえば『甘露梅 お針子おとせ吉原春秋』(宇江佐真理)のように。  

 そんな手垢のついた分野をあえて選んだ作者には、おそらく、ひとつの勝算があったのだろう、形式という勝算が。そして、あくまで時代小説かぎっての話だが、この形式の新味が直木賞をもたらしたとおぼしい。すなわち、いわゆる作者の客観的な叙述という手段を使わず、物語全体を主人公の関係者の証言によって構成したのだ。  

 裁判の調書に近いこのモンタージュ手法によって、人気花魁の人となりとその殺人事件はまさしく語られる。20名近い証人の文字通り主観的な断片があつまって、それなりに客観的な全体像を構成する仕組みだ。次第に核心にせまるよう証言が布置されていることはいうまでもない。  

 どうやら松井今朝子はこうした複数の視点というのが持ち味のようで、『辰巳屋疑獄』などにもその傾向がうかがえる。しかし、『吉原手引草』の場合には証言の複数性が効果を発揮したのにひきかえ、こちらの作品では、事件の関係者への作者の視点の分散が、人物像の不鮮明さをもたらした気がする。もっとも、人物より事件を描きたかったのかもしれない。   

 最後にひとこと、苦言を呈しておこう。賞をとって名が売れると、時代小説家はすぐ捕物帳などのシリーズ物に手を染める。松井もまたしかりで『一の富』からそれが始まった。悪いが、駄作である。手を染める理由はいわずと知れている。いま作家に必要なのは、書かない勇気ではないか。                     

むさしまる            


おいしい本が読みたい⑥

2007-09-29 11:47:41 | おいしい本が読みたい

おいしい本が読みたい●第六話    師匠はつらいよ  

 出藍の誉れ、一将功なりて万骨枯る、どっちが好みの表現かと聞かれたら、わたしは後者だ。だから、四方田犬彦『先生とわたし』(月刊新潮三月号)のような作品を読むと、ちょっと得意顔の弟子より、半分なきべそかいてる師匠のほうに気を惹かれてしまう。

 弟子はいうまでもなく、「わたし」こと四方田犬彦、そして師匠は英文学界の碩学として著名な由良君美。いずれもインテリ度はきわめて高い。ただし、インテリが人間的にどうかというのは別の話であって、とりわけ大学に閉じこもる学者などは、いびつな欲望が肥大しがちだ。したがって、彼(女)らの物語はなかなか味わいがある。

  『先生とわたし』の見どころは、大学生時代から師と仰いだ「由良君美」を、適切に相対化してついに「由良さん」と記すまでの、四方田の精神的遍歴である。ときに顔を覗かせる自画自賛にいつもの四方田を思い出してげんなり、という向きもあるだろうが、それを差し引いても、この私小説的物語は読ませる。それなりに真摯に苦悩しているからだ。

  だが、先にも書いたように、私の関心は半泣きの先生のほうにある。碩学と謳われながら、東大では外様としていじめられ、方法論をもたぬ学者・批評家連を痛罵のはてに四面楚歌、そのはてにアルコール依存症となり、身も心もずたずたに。まるで無頼派の作家のような趣ではないか。ひらたく言えば、傷つきやすいええかっこしい男で、ある種の情が濃い。

 そしてその情には、とりわけ四方田へのそれには、そこはかとないエロスがまぎれこんでいる。ともかく、弟子の著作への過剰な反応、酔ったうえでの暴力、そうしたいささか常軌を逸した行動の背景には、弟子の成長を素直に喜べない師匠の屈折した思いがあったはずだ。どうやら出藍の誉れは、なかなか師匠の誉れになってくれないらしい。

 ところで、師匠のつらさで思い出すのは、『聖の青春』(大崎善生、講談社)の森信夫と村山聖の師弟関係である。こちらは実力だけがものを言うプロ将棋の世界だ。師匠森六段の実力はたいしたことはない。かたや弟子の村山はおそるべき終盤の読みと集中力を誇る怪童で、最初から勝負はついていた。

 しかし、幸いなことに、森という棋士は弟子に追い越されることを恬として恥じない、およそ世間体とは無縁の不思議な人物だ。幼少で病に冒され、夭折を宿命づけられた村山聖の、不運を埋め合わせるかのように現れたのが、この天真爛漫な中年将棋指しだった。二人の関係はあるいは肉親以上の濃度だったろう。たとえば、冬の夜更けの大阪城公園を、将棋の練習をおえて、病気の体のためにとぼとぼ歩む中学生の弟子を、通りがかりの師匠が見つけ、街灯の下で、爪が伸びてないか手を取り心配る姿は、いっそ動物の親子のようだ。

  怪童村山は、予想通りA級八段に駆け上り、二十八歳の若さで逝った。いつか森に、村山との歳月を書いてもらいたいものだ、師匠の悲しみを乗り越えて。                                          

むさしまる    


おいしい本が読みたい⑤

2007-07-09 09:33:40 | おいしい本が読みたい

おいしい本が読みたい●第五話    辣腕編集者一代記        

 純文学であろうと大衆文学であろうと、文学作品の成立には、作者と読者の需給関係が深くかかわっている。そこで等閑視されやすいのが、両者をつなぐ黒子、すなわち出版・編集である。時代の流れに抗して、人々の安易な欲望に掉さしつつ良書を世に問う気骨漢もいれば、無内容ながら大人気の小説家を育てる企業人もいる。ただ、洋の東西を問わず、良貨は悪貨に駆逐されやすいのが不滅の現象らしい… 

 さて、この黒子にスポットライトを当てた力作が出た。『名編集者エッツェルと巨匠 たち』(私市保彦著、新曜社、2007)である。舞台は十九世紀フランス。政治的激動 の波にもまれながら出版業界が自己を確立してゆく、まさに手に汗を握る時代だ。巨 匠たちには、ユゴー、スタンダール、バルザック、サンド、ミュッセ、ベルヌといった豪華 メンバーが顔をそろえる。

 これらの大家たちと読者を、書物という商品を介してつないだのが、出版人エッツェル だった。市場の動向を伝え、ときには内容や表現に注文をつけ、意気消沈した作家が いれば励まし、手元不如意とあらば援助を惜しまぬ。だから、作品というものは作家と 出版・編集人の共同作業といっていい。生活者としての素顔が見えにくい文豪たちと、 理想に燃える辣腕編集者との、そうした作業の舞台裏に案内してくれる点に本書の功 績のひとつがある。

 ところで、人目に触れぬ舞台裏とくれば、私信を利用せぬ手はない。いかにも本書は 繰り返しエッツェルの書簡を引用する。ここに第二の功績がある。つまり、筆者の地の 文とエッツェルの書簡という図が自然に溶け合い、幸福なバランスを築いてゆくのであ る。エッツェルへの深い共感がなければこうはゆくまい。ともかく活字の手紙がいわば 肉筆の風貌を帯び、そのことによって、わたしたちは歴史の激動に文字通り手に汗握 るわけだ。

 フランスの出版業は現在、大手の半数以上が軍需産業関連会社の息がかかってい る。そのうえ次期大統領にサルコジを選んだフランスだ。予想通りとはいえいささか気 落ちしていた折だから、過去の人ながら、気骨漢にめぐり合えた幸運には、やはり感 謝したい。                                              

むさしまる


おいしい本が読みたい④

2007-02-04 00:41:28 | おいしい本が読みたい
おいしい本が読みたい●第四話   ベートーヴェンの横顔が見える

 二世紀近く先を歩む人であれば、その後ろ姿は二百年の霧に包まれておぼろげになる。まして個性的なエピソードに事欠かぬベートーヴェンのような人は、なおのこと虚像の歪みも大きくなるだろう。わたしたちの大方は、いびつな「英雄」ベートーヴェンを仰ぎ見てきたにちがいない。

 青木やよひ著『〔決定版〕ベートーヴェン 〈不滅の恋人〉の探求』(平凡社)を読めば、そんな時間の霧や人々の曲解によるオーラのない、鮮明なベートーヴェン像が手に入る。なぜか。

 ひとつには、筆者みずからの足を運んで参照した一次資料が豊富なこと。大学などのアカデミックな制度のなかに籍をおく者ならいざしらず、いわば在野でこのような現地調査をやる気迫はすごい。そして、もうひとつは、透徹した推理と論理性に貫かれていること。おそらく読者は、文体からある種の論理的リズムを受け取り、そのリズムが波線となって音楽家の像を縁取るのを感じるだろう。

 ここに至ってわたしたちが手にするのは、もはや彼の後姿ではない。わたしたちの隣人と呼んでもいいような彼の横顔である。彼との距離が一挙に縮まったのだ。ただし、このことだけは銘記しておきたい。ベートーヴェンがわたしたちに近づいたのではなく、わたしたちのほうが彼に近づいたのだということを。凡百の伝記作家は、才気ある創造者が生活人としてもたねばならぬ世間的、通俗的側面を強調することで、世人の関心を買おうとする。そうやって天才をわたしたちのレベルに引きずり降ろしても、得るものは何もない。

 この本の著者はちがう。音楽家のあまりに人間的な闘いぶりを見つめているわたしたちのほうこそが、しらずしらずのうちに、自分のうちにもそのような闘いに向かう気構えが備わってくるように思えてしまうのだ。勇気がわく、といっていいかもしれない。このとき、わたしたちは少しばかりベートーヴェンに近づいているのだ。もちろん、著者の筆の力によって、である。                                       

むさしまる  

おいしい本が読みたい③

2006-12-10 11:38:54 | おいしい本が読みたい

おいしい本が読みたい●第三話  作家と出会う人々

 映画『サンチャゴに雨が降る』の背景を知りたいと思い、ネルーダの自伝と一緒に図書館から借りたのが『精霊たちの家』だった。といってもアジェンデ政権を崩壊させる国内外の政治的、社会的背景ではない。社会主義政権下で近代化をめざす小国チリで、人々がどんな感覚をもち、どんな夢を描いていたのか、それが知りたかったのだ。

 望外の収穫とはこのことだろう。アジェンデ家年代記ともいえる『精霊たちの家』には無数の人物が登場するが、彼らのおかげで、学術書や旅行記や案内書のたぐいではけして知り得ない、人々の息づかいを感じることができたのだ。いうまでもなく多くは架空の人物である。しかし、さながら、文字という表現手段をもたない者たちが自己を語るべく憑依したかのように、ある種のエネルギーをみなぎらせて、生き、行動する。一瞬の無口な横顔でさえ、ふしぎな光芒を行間に残して去ってゆく。

 どうやら作者のイサベル・アジェンデは、幻視力という特異な能力の持ち主らしい。『パウラ、水泡なすもろき命』を読んで、これにはいよいよ確信をもった。難病で死につつある愛娘の病室から、現実とも虚構ともつかない過去へと、またその逆方向に、作者は自在に往還する。それは、小説的戦略より以前に、ほとんど体質的な問題だったようにみえる。

 ところで、すぐれた作品は時代を象徴し、人々の声を代弁する、としばしば言われる。典型的人物を創造することはその最たる例だろう。けれども、アジェンデの作品を読んでいてあらためて思ったのは、能力のある作家の存在だけですぐれた作品がうまれるわけでなく、そもそも人々の生きるエネルギーが凝縮し、はけ口を求めていなければならない、ということである。

 イサベル・アジェンデの幻視力と人々の生の欲望の幸運な出会い。

むさしまる


おいしい本が読みたい②

2006-11-07 05:24:29 | おいしい本が読みたい

おいしい本が読みたい●第二話   南アメリカを旅するには  

 
日本の対蹠地である南アメリカはかぎりなく遙かな地だ。でも、太古の昔、ベーリンジアを渡ったモンゴロイドが今も暮らしていると思うと、そして写真で見る日焼けした人々の顔立ちにわが爺婆の面差しの名残をみとめた気がすると、遠国であることをふと忘れる。そんな遠くて近い土地をせめて本のなかだけでも旅したい、と思って手にしたのが『パタゴニア・エキスプレス』(ルイス・セプルベダ)だった。

 期待を裏切らない旅を堪能した。チリ人の作者が訪ねる最果ての地の住民たちは、人生を降りた者に特有の、なんともいえない柔らかな眼差しで迎えてくれる。「列車は八時から十時の間に来て、十時から十二時の間に満員になったら出発します」などと駅員が臆面もなくいい切る、去りがたい地方だ。

  セプルベダの旅は、南アメリカをエクアドルから西海岸沿いに南下するものだが、このルートをアルゼンチン側からまわって北上すれば、『チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行日記』となる。昔日の旅路とはいえ、これもいい。医学生ゲバラと親友アルベルトの弥次喜多道中は、適度の冒険に若者らしい好奇心と純真さが味つけとなって、じつに楽しい。

 ゲバラ日記を締めくくるのは、アマゾン川沿いのハンセン病療養所だ。そこから「半レグアも歩けば原住民族が住んでいる密林」がある。その密林を、奥地を、訪れずしてどうして南アメリカを旅したといえようか。たしかにセプルベダもアマゾンは見た。しかしそれは、軽飛行機から“眺めた”だけだ。植民地への空からの視線でなく、土を踏みしめながら見つめるには、『悲しき熱帯』(レヴィ=ストロース)以上の作品は考えられない。西洋近代を相対化する視線に教えられることが多いばかりでなく、描写力たるや凡百の作家を軽く凌駕する。ただし、この著作にかぎっていえば、安上がりの文庫本は日本語訳に問題があって、旅の安全は保障しかねるが…                                        

むさしまる


おいしい本が読みたい①

2006-10-02 09:34:46 | おいしい本が読みたい

おいしい本が読みたい●第一話  冒険小説はお好き?

 通説によれば、十六世紀のマゼランが企てた世界周航により、(西洋近代人にとって)世界はそれまでの平面から丸く閉じた球体となった。しかし、閉じたのはあくまで東西の横ラインであって、南北の果てには、いぜんとして厳寒の異界がはてしない空間をひろげていた。

 とすれば、想像力を自由に行使できる、この南端・北端を物語の舞台としたくなるのも自然だろう。人呼んで「極地小説」(知ってるのはわたしだけだが)。南極・北極が踏査され、ひとまず縦のラインが閉じるのは、十九世紀も中葉以降のことで、それまでこの「極地小説」は大手を振るってまかり通っていた。いい時代だった。

 ところで、衛星写真を利用した詳細きわまる大地図ができて、昨今では「極地小説」も出る幕がないのではないかと懸念されるところだが、どっこい大衆冒険小説のなかでは、まだまだ健在なのだ。その最新版がここにご紹介する『アイス・ステーション』(マシュー・ライリー作)である。

 米の南極観測基地のさらに千メートル下の氷塊のなかに、奇怪な飛行物体らしき異物が発見される。地球外文明のものか、かつて存在したかもしれない超古代の先進文明の遺物か、ともかく調査に赴く人々はことごとく惨殺される。あたかも何かに守られているかのように。そして、軍事的覇権をもたらしてくれそうなこの異物をめぐって、英米仏の争奪戦がはじまる…

 作者の描写力にはちょっと疑問符がつく。冒頭近くの百ページに及ぶ戦闘シーンも冗長といえば確かにそう。けれども、色物抜きのスリルを楽しみたい人には満足してもらえるだけの材料がそろっていると思う。冒険小説よ永遠なれ! 
                                                                                                       
むさしまる