この欄に大学の授業評価に対する大学教授の批判意見が載った。授業を評価する学生たちの無責任な態度を挙げ、「記各式にすべきだ」などと改善点を求めながらも、学生が評価すること自体を疑問視する内容として読めた。
しかし、授業評価は大学の授業のレベルアップのために不可欠のものであり、改善すべき点は別のところにあるように思う。
先の教授は、まず米国などでの授業評価を紹介し、「学生が教員の生殺与奪を握ることになった」と記している。しかし、米国の大学院を経験した方などの情報によると、日本と違って米国では大学教員を養成する制度が大学院時代にあり授業評価は教員の再訓練などを含んだ授業改善プログラムのパッケージの1つとして行われているという。
決められた時間内なら予約なしで学生が研究室を訪ねることができる「オフィスアワー」制度などが活発に利用され、学生と教員とのコミュニケーションが日ごろからある。事前に学生が知り得るシラバス(授業概要)にも、学生に求める課題や成績のつけ方などが明示してあって「契約書」の役割を果たしており、このため、授業評価の結果次第で教員の待遇が変わるのは、とりたてて不思議なことではないようだ。
しかし、日本ではこのような双方向性や、学生からの評価を生かすプログラムが不十分なまま米国型の授業評価が導入されている。そんなこともあり、学生は真剣に回答せず、教員も不満をあらわにするのだろう。
まず、学生と教員にそれぞれの責任に対する自覚をうながす必要があり、授業をより良くする組織的なサポート体制の充実が大切だと考える。そして、教員は授業評価によって気づかされた点を授業に反映し、学生は評価者としてのモラルをいっそう高めることで、互いに向上していく姿が理想のように思われる。
日本の教育制度の中で幼・小・中・高の教員は免許状がなければ教壇に立つことはできないが、大学の教員は免許をとる必要がない。大学教員になるために特別な課程を履修する必要はなく、ほとんどの大学院生が何の訓練も受けないまま大学の「先生」になる。
ところが、日本の学生の約8割は私立に通わなくてはならず、年間100万円近くの高い授業料を払っている。学生がそれぞれの教員の授業に高い満足度を求めるのは正当なことであり、これからの大学には研究と教育のより高度な両立が求められている。
先の教授は、学生の劣化を嘆いていた。だが、教える側にしても、教育者としての自覚もなく教壇に立っている大学教員が、きちんと授業できているわけではないだろう。学生からの評価によって日々の授業を反省する機会は必要と思う。
ところで、現在、無記名式で行われている授業評価を記名式にすることの是非はどうだろう。成績をつける教員はもともと優位な力関係にあるわけだから、学生は正直に答えることができなくなるのではないか。米国では「匿名性による公平さ」を前提に無記名式であると聞く。記名式にして学生に「自粛」を求め、教員を手厚く守るという発想は、大学の教育を向上させようという本来の目的からそれるのではないか。
いずれにせよ、大学の授業をより良いものにするために知恵を出し合い、より有効な評価のやり方を探っていくことが大切だろう。
(朝日、2005年06月21日。原文には実名がありましたが、ここでは載せませんでした)
感想
免状の必要な小・中・高の教員が大学教員より優秀とかまじめとは言えないと思います。入り口で審査するだけで、結果責任は取らなくていい制度(学生も事実上同じ)に問題があるのだと思います。
「授業をより良くする組織的なサポート体制の充実が大切だ」というのはその通りだと思いますが、それが「学長の責任」だということを見抜いていないところがこの方の限界でしょう。これはこの方が悪いのではなく、こういう根本的なことを教えない大学の責任でしょう。
「優位な力関係」などということが問題になったら、その時には既に「師弟関係」は終わっていると思います。それをアンケートで解決するなどということは土台無理でしょう。