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ながく、牧野紀之の仕事に関心を持っていただき、ありがとうございます。 牧野紀之の近況と仕事の引継ぎ、鶏鳴双書の注文受付方法の変更、ブログの整理についてお知らせします。 本ブログの記事トップにある「マキペディアの読者の皆様へ」をご覧ください。   2024年8月2日 中井浩一、東谷啓吾

市場(いちば)

2014年08月29日 | ア行
 市場を「いちば」と読むか「しじょう」と読むかについてどういう基準があるのだろうか、という問題意識から、調べ、考えた事をまとめます。

 「新明解」に、「『しじょう』は『いちば』の字音語的表現」という説明があります。つまり「しじょう」より「いちば」の方が先だったと推定されます。常識的に考えてもそうでしょう。

 しかるに、それは「市(いち)」から「市の立つ場所」という意味で使われるようになったのでしょう。「立つ」は「始める」の意だそうです(大言海による)。実際には、以下に見ますように、「市」の中にはその場所も含意されていたようですので、市場の「場」は余計だったと思いますが、こういう重言みたいな表現は言語の常ですから、善悪を論ずる事柄ではないと思います。

 「市」の字形については、常用字解は象形文字とし、「市の立つ場所を示すために建てる標識の形」と説明しています。

 市を『漢字字源辞典』(山田勝美・進藤英幸、角川書店)で引きます。字義は「彼我の物品の公平な値段の定まる所の意」としています。市という字が「平」の意符と「止」の音符から成っているのはそのためだと説明しています。なお、参考として、「市場は起源的には、物々交換をする所であった」という説明もあります。

その上で4つの意味を挙げています。これは現在使われている意味を分類したのでしょう。第1は「多くの人が集まって品物の売買をする所(市場、魚市)」。第2は「売り買い。あきない(市価、市況)」。第3は「まち。多くの人の集まる所(市井、都市)」。第4は「地方自治体の1つ」、です。

 第1の意味と第2の意味は分けるのが難しいくらいですが、「市(いち)」の立つ場所という事から、そこで行われる行為自体を表すようになったのではなかろうか。常用字解は第1の意味と第2の意味を一緒にして「いち、うる、かう」としています。いずれにせよ、第1と第2の意味から第3の意味、更に第4の意味の出て来ることは容易に分かります。

 さて、「市場」の読み方です。

 まず、現在の語釈を、従って両者の使い分けを「明鏡」と「新明解」の記載(ほぼ同じ)からまとめますと、ほぼ次の通りです。

市場(いちば)──A・毎日または定期的に商人が集まって商品の売買を行う所。市。青物市場、市場町。B・小売店などが集まった、常設の共同販売施設。マーケット。

市場(しじょう)──C・売り手と買い手が集まって商品や株式の取引を行う特定の場所(明鏡)。株式や特定の商品が定期的に取引され、そこでの売買が一般取引価格を決定づける場所(新明解)。中央卸売市場。証券取引所など。D・商品の売買や交換が行われる場を抽象的にいう語(明鏡)。需給関係から総合的にとらえた概念(新明解)。国内市場、国際市場。金融市場など。E・販路、商品の売られる範囲。

 では「しじょう」という読み方はどのようにして発生し、拡がり、優勢に成ってきたのでしょうか。以下、私の推測です。

 新明解によりますと、「しじょう」は「いちば」の字音語的表現ということですから、「いちば」を商売人がわざと音読みしたことで出来た言い方なのではなかろうか。この「或る集団が字音読みで自分たちの優越感などを味わう」という心理はよく見られることだと思います。記憶が薄れていますが、軍隊では「編上靴(あみあげぐつ)」を「へんじょうか」と言ったとか聞いたように覚えています。

 そして、特定の業界の専門用語が一般化することがあるというのも言語現象の1つの法則だと思います。これも記憶に頼ることですが、「定番」はアパレル業界か何かの業界用語だったはずです。それが他の業界でも、更に一般人にも使われ、理解されるようになったのだと思います。明鏡でも新明解でも「特定の商品番号」の意といった説明はありますが、このような経緯の説明はないようです。新明解には「衣料品を主として、食品にも言う」とあって、かすかにその変遷を示唆しています。

 最後に、漱石が「こころ」の中で「いちば」でいい所を「しじょう」と読ませている(「しじょう」の用例06)のを考えます。大言海をみますと、「しじょう」では「『いちば」と同じ』としていますが、その「いちば」では上のAからEの5つの意味の内のAとBくらいしか考えていないようです。つまりかつては特に現在で広く使われているC、D、Eは無かったのだと思います。字音読みはあったのでしょうから、後は筆者の癖か感覚の問題でしょう。

 同じ対象について「青物市場(あおものいちば)」と「青果市場(せいかしじょう)」との2つの言い方があるのは分かります。訓読みと音読みの違いです。しかし、海鮮市場(かいせんいちば)(ラジオ深夜便、2014年08月25日)というのを聞きました。

 そもそも「卸売市場」は今やほぼ完全に「しじょう」と読むようですが、これはどうなのでしょうか。私の記憶では、かつては「いちば」だったのではないでしょうか。それとも、「ニュース番組等で、しばしば築地市場の場所を指して『つきじしじょう』と呼ぶことがあるが、場所を指す場合は『しじょう』ではなく『いちば』である」(ウィキペディア)と書いてありますから、その「場所」を指す言葉を「そこで行われている活動」のことと(私が)誤解していたのでしょうか。

 結論として言いたい事は、辞書は語釈にばかり熱中しないで、こういう点を考えるのに役立つ情報も伝えてほしい、という事です。

 なお、似たような問題では、「工場」を「こうば」と読むか、「こうじょう」と読むかの問題もあります。これについては、明鏡も新明解も「『こうば』は『こうじょう』よりも規模の小さいものをいうことが多い」と説明しています。「多い」のであって、決まっているわけではないようです。

  用例

 ★ 市(いち)の用例

 01、「オークションが毎日のように行われているんですか。」「神田の古書会館でやっています。それは業者だけの市なんですけど、一般の人の所有品なども、古書店が買ったり預かったりして出します。(『ラジオ深夜便』2014年9月号。八木正自)

★ 「いちば」の用例

 01、市場(いちば)のイドラ。(イギリス経験論の祖フランシス・ベーコンは人間の認識にとっての先入見を4種あげた。洞窟のイドラ(偶像)、劇場のイドラ、市場のイドラ、種族のイドラである。市場のイドラとは「人々の交際と言語に対する過剰な信頼から起きる偏見」のことだから、「いちば」と読むべきである。)

 02、アムステルダムに住む移民の人たちの多くはイスラム教徒です。市場(いちば)の店先には彼らのための食材も並んでいます。市場(いちば)にはいろいろなお店があります。(NHKTVの番組「アムステルダム」のナレーション)

★ 「しじょう」の用例

 01、西国の豊かな物資が市場(しじょう)に溢れている(NHK「太平記」の中での足利高氏の台詞)。
 02、私たちはずっと薬草やナッツ、ベリーなど、林産物を採ってきました。これからは市場(しじょう)に出さなければと思います。市場(しじょう)に商品を提供し、利益を上げていかなければなりません。(テレビ朝日の登場人物の言葉)

 03、今の市場の要望に応えようとすると、難易度が高くなる。(朝日、2014年08月21日。秩父銘仙の機屋の言葉)
 04、「東京の市場に適合しすぎると、どこでも通用する普遍的な作品をつくれなくなるのでは」と懸念する。(朝日、2014年08月21日夕刊。演劇人の話)

 05、成長が期待できる新市場を育てる観点が必要だ。(朝日、2014年08月24日)

 06、赤い色だの藍色だの、普通市場(しじょう)に上らないような色をした小魚が~(漱石「こころ」第3部28)

 感想・「いちば」と読ませたら、「市場(いちば)に出ないような」となるのでしょう。

Parataxis、並置

2014年08月27日 | 読者へ
 01、Er ist mein Freund, mein einziger Freund.

 説明・これは付置ではなくて、念のために同じことを言い直しただけの並置である。「規定する力」を持った付置と、単に同じ事をもう一度言い直す、あるいはいろいろなものを並べて置く「並置」。しかし、両者の差は「程度の差」でしかない場合が多い。(定冠詞 S.70)

 ☆ 「文法」の700頁(⑤換言的並置)を参照。


御礼

2014年08月25日 | 読者へ
 漱石の「こころ」の「市場」の読み方について、そこつさんから丁寧なご教示をいただきました。ありがとうございます。

 「市(いち)」と「市場(いちば)」と「市場(しじょう)」の関係について調べ、考えています。一応の結論を問題提起と共に、近日中に発表できると思います。

 まずは御礼まで。

2014年08月25日、牧野紀之

驚く

2014年08月21日 | ア行
驚く(驚かされる)(「あわてる、あわてさせる」を含む)

 ①驚の字は、形声(オンを表す部分と意味を表す部分から成る)。音符(オンを表す部分)は「敬(けい)」である。敬は「祈りをする者を殴(う)って、これを戒める」という意味である。馬は特に驚きやすい動物なので、注意されて驚く馬が「驚」で、「おどろく」の意味を示した(常用字解。戒の字は原書の字が出ないので、こう替えた)。

 ②「おどろく」の「おど」は「おぢ(怖)」からの転であろう。意味は「動揺する」である。「目を覚ます」の意味もある。(大言海)

 ③「オドロ」はどろどろ、ごろごろなど、物音の擬音語。刺激的な物音を感じる意が原義。はっと目が覚める。にわかに気が付く。意外な事にびっくりする。(岩波古語辞典)

 感想・②と③では意味の挙げる順序が逆です。

 ④「愕く」「駭く」とも書く。(明鏡)

 ⑤新明解は、「感心する」やその反対の「あきれる」とか「素晴らしい事物に接し、高揚した気分になる」の意もあげ、「驚くなかれ」「驚くほど」といった熟語的表現も載せています。「目を覚ます」の意は「雅語」としています。

 ⑥基礎日本語辞典は、「関連語」の欄で「びっくりする」と「驚く」の比較を行っています。結論として、「驚く」は精神の作用についての客観的な説明で、「びっくりする」は驚かされたことによって生ずる精神の結果、としています。

感想1・私の見たどの辞書にも載っていないことは、「驚く」と「驚かされる」の使い分けです。⑥に言及しました「基礎」では何回か「驚かされる」を使った用例も出しているのに、この問題を扱っていません。著者(森田良行)にこの点の問題意識がないのでしょう。

 私の感覚では「驚いた」で十分な場合に「驚かされた」と受け身表現を使う人が多い、と言うより、どんどん多くなっているように思います。私英語が入ってきてbe surprisedという表現に慣れた人がそれの直訳を使うようになって「驚かされた」という言い方を奇異に感じなくなったのではあるまいか。

 「驚くべき事」といった言い方はありますが、「驚かされるべき事」とは言わないと思います。しかし、他の語では「或る目的が達成さるべき順序」とも「或る目的を達成するべき順序」とも言えると思います。逆に、「言うべき事を言う」とは言いますが、「言われるべき事を言われた」とは言わないと思います。このように、繋がり方も考えてみなければならないでしょう。

 いずれにせよ、辞書はこういう事にも触れてほしいと思うのです。

 「驚かされる」の用例

 01、授業で大学1年生と一緒に文学作品を読んでいていつも改めて驚かされるのは(東大『知の技法』68頁)
 02、私は急に驚かされた。(漱石『こころ』上12)
 03、帰って無い積もりの借金が大分あったに驚かされた(漱石『門』4)

 04、原発を導入した町が必ずしも豊かにも幸せにもなっていないという事実に、改めて驚かされた。(2001,12,23, 朝日)
 05、93歳まで指揮棒を振り続けた生命力には驚かされる。(2002,1,14 、朝日)

   「驚く」の用例

 01、記者会見で辞任を表明した国防相は、涙を流してわびたという。/驚いた。軍がらみの事故でこれほどの透明性は初めての経験だ。(2001,11,13, 朝日)
 02、これは驚くべきことである。

   「あわてる、あわてさせる」の用例

 01、平穏に思えた大晦日の昼過ぎ、ロシア南部のチェチェン共和国からのニュースにあわてさせられた。(2002,1,8, 朝日)

 感想2・日本語辞典(日日辞典)は、漢和辞典も古語辞典も兼ねるべきだと思います。それぞれの専門の辞典ほど詳しくなくてもよいとは思いますが、現代語を理解・運用するのに必要な知識は書いてほしいと思います。

和食

2014年08月20日 | ワ行
 01、和食は一汁三菜がベースになって献立が作られています。一汁三菜は、室町時代から戦国時代にかけての本膳料理から変形して、江戸時代に完成した食文化です。一汁というのは汁物のことで、飯茶碗(めしぢゃわん)のわきに付きます。ふだんの食事では味噌汁になります。

 三菜は三つのおかずという意味で、魚や肉などの主菜に、副菜、副々菜があります。副菜は野菜料理、例えばゴボウやサトイモ、ニンジンといった、根菜系の煮物やおひたしなどです。副々菜は大豆製品が多く、豆腐や凍り豆腐、油揚げや納豆などのほか、煮豆などがあります。

 ごはんと漬物が一汁三菜に数えられないのはなぜでしょう。じつはここに和食の鍵があるのです。日本人が食事をするということは、ごはんを食べること。そして、ごはんには必ず漬物が付く。それが和食の基本です。そのうえで一汁三菜が付くのです。

ごはんは日本人が働くためのカロリー源となる炭水化物、つまり米で、主食としてすばらしい食品です。粒のまま加熱炊飯し、よく噛むので、唾液がたくさん出で消化がよくなります。また、欠かさず食べる漬物は発酵食品ですから、乳酸菌、酵母菌、麹菌などと共に豊富な酵素を含んでいます。ごはんを食べて漬物を食べることが、健康な体を保つうえで重要なのです。(『ラジオ深夜便』2014年9月号。永山久夫)

 感想

 漬物の代わりにサラダとかの生野菜を取る人が多くなっていると思います。キャベツの千切りを出す食堂も多いと思います。その一因は、発酵させていない「ニセ漬物」ないし「漬物もどき」が多くて、それを食べた人が「漬物は美味しくない」と思ってしまうからだと思います。本当の漬物は美味しいものです。

 02、日本の食は一汁一菜が基本

 室町時代から伝わる小笠原流の礼法では、「ご飯三口にお菜が一箸(ひとはし)」といって、ご飯を3回口に運んだら、おかずを1回口に運ぶようにと教えています。ご飯の割合が多くて、栄養のバランスが悪いと思うかもしれないけれど、日本人は古来そういう食生活を続けてきたんです。

 何よりも、歯のつくりを見れば、人間はご飯をたくさん食べるようにできていることがよくわかります。人間の歯は一般的に32本あり、32本のうち20本は穀物を噛み砕く臼歯です。そして8本は野菜、豆、根菜や果物を、残りの4本は犬歯で魚介や肉を引き裂くのに具合のいいようにできているわけです。

 歯のつくりから考えても、「ご飯三口にお菜が一箸」のバランスは理にかなったものなんです。(中略)

 一汁の「汁」は味檜汁。一莱の「莱」は、煮物、和え物などの野菜料理。ご飯を主食とし、味噌汁と野菜料理に漬け物を加える。これが日本の正しい食事のスタイルなんです。(若杉友子著『これを食べれば医者はいらない』祥伝社、88-9頁)

 感想

 4本の歯のための肉と魚はどの程度、どういう風に取ったらよいかまで書いてくれると、穏当だったと思います。

03、配膳

 ふだんの配膳でも、ごはんを中心に考えて左手前、次の汁が右手前、お刺身など菜の主役を右奥に置く。左奥は後から食べる煮物などになるのです。/ 和食では、常に食べやすさという親切心と、きれいという美意識を第一に、お料理は整えられているのです。(『ラジオ深夜便』2014年9月号。土井善晴)

教えてください

2014年08月17日 | 読者へ
 朝日新聞に漱石の「こころ」が100年前と同じ形で再掲されています。その82回(第3部の28)が8月15日に載っていました。

 それを読んでいましたら、「赤い色だの藍色だの、普通市場(しじょう)に上らないような色をした小魚が~」という文がありました。気になったのは、「市場」に「しじょう」と仮名が振ってあったことです。

 「市場」は今や「いちば」と読むより「しじょう」と読む方が断然優勢に成ってきています。この問題を考えているのですが、漱石がここを本当に「しじょう」と読ませたのでしょうか。青空文庫を調べようとしたのですが、昔は簡単に読めたのに、今は私には分かりませんでした。

 そこでお願いですが、①青空文庫で仮名の振ってあるものでここを見て、どうなっているか、②その他、「こころ」の本でここに振り仮名のある本ではどうなっているか、この2点を教えてほしいのです。

 よろしくお願いします。

8月17日、牧野紀之

幻想を持つ権利 ナルシシズム

2014年08月16日 | ナ行
  鶏鳴学園の生徒に川口はじめ(筆名)という人がいる。方言のことが話題になった折に、「川口さんは少し発音が違う所があるね」と言った所、「いや、そんな事はない」との返事であった。「僕はNHKのニュースの発音を基準にして考えるんだけど、あまり違うことがないので、自分のでいいと思っている」と続けたら、「自分も違わない」と頑なに主張した。私は「あヽ、そうかね」と笑って応じながら、「開き直ったな」と直感した。

 今、私はこの直感を更に反省して考えた事を書きたいのだが、その前にもうひとつの問題を述べておかなければならない。つまり、方言は悪いことか、恥しいことかという問題である。私としては、方言を悪いとも低いとも思っていないし、方言をからかうなどは最低だと思っているが、方言を異にする人々が話すには共通語が必要だということも認めている。そして、その共通語教育が日本の小中学校の国語教育の中で正しくなされていないことには大いに不満である。だから、川口さんの発音が共通語と違うと言っても、別に悪いとか低いという意味ではなく、まして川口さんに全責任があると言うのでもないのだが、川口さんは自分に方言を認めること自体を快く思わなかったらしいのである。

 さて、先に触れた「開き直り」の件である。なぜ私がそう直感したかというと、その時の彼の言い方の頑なさも一因ではある。しかし、それと共に、丁度その頃迄続いていた鶏鳴学園の「現実と格闘する時間」で、私は川口さんには問題意識がないと批判し、更に、彼が問題意識として述べた発言に対しては、「それは問題意識ではなく、『私には何でも分っています』と言うのと同じである」と批評していたという背景があるのである。川口さんとしては私の批評の正しさを認めずにはいられなかったので、今度は「自分は正しい。だから自分には問題はなく、従って問題意識を持つ理由も必要もない」と開き直ったのだと思う。

 私は、川口さんという人は社会人として標準以上のマナーを身につけた人だと見ているので、この頑なな態度はこうとしか説明できなかった。すると、今度は、私が鶏鳴学園のゼミの中に「現実と格闘する時間」を設けて、無理にも発言させ、問題意識を出さない人をそれとして指摘し、問題意識でない発言を批判したことが正しかったかという事が問題になってくる。これはやはり一種のオルグであり、間違いだったと思う。

 人間は誰でも、余程の例外的な人を除き、又、余程ひどい目己嫌悪にでも陥って『人間失格』のような気分になっている時を除き、あるいはそういう時ですら心の奥底では、自分を過大評価しているのではあるまいか。分りやすく数字で表現するなら、十の力を持っている人間が自分を十一と思い十二と考えているのである。これが普通だと思う。「人間は誰でも、みな、ナルシストである」という言葉をどこかで読んだ記憶があるが、その言葉の意味を私はこう捉え直している。

さて、そうだとして、その時、「お前の本当の姿は十なのだ」と言ってやる必要がどこにあるだろうか。問題意識を持っていると思い込んで幸せに生きている人が、それで何も悪い影響を与えていないのに、「お前には問題意識がないのだ」と、鏡を目の前に突き付ける権利が誰にあるだろうか。

 私が他人を批評する時、私を支持して下さる人々にさえ「きつすぎる」という印象を与えているようだ。父を批評した文については「よくあそこまで書けるな」という感想も伺った。確かに私にも言い分はある。まず第一に、私の言葉が「きつく」見えるのは、それが客観的で全面的であり、しかもそれを立体的に構成して、その人の実像を浮かび上がらせているからだと思う。私がこういう態度を取るのは、「汝の敵を愛せ」とは、その人が正確な自己認識を持って正道に帰るのを助けることだと考えているからである。それに思考力と文章力が加わって効果を大きくしているだけのことである。

 第二に、私が批判する人は、十の自分を二十と思い三十と考えている人であって、十一や十二と思っている人ではない。そして、それが社会的にマイナスの働きをしている限りで、止むを得ず批判するのである。

 そして、私が特に注目し考えていることは、この「自分の極端な過大評価」が、革命運動家とか社会運動家とか、慈善家などに多いということである。統計がある訳ではないが、私は自分の経験から、社会運動をやっている人はとかく他人の間違いを批判するのに急で、自分に対する批判を嫌い、感情的に反発する人が多い、という印象を持っている。つくづく人間の罪は深いと思う。人を裁くことが、社会改革運動をすること自体が、その運動の担い手自身を思い上らせ、堕落させる働きをも持つのである。この最悪の実例がスターリンであった。

 このように私にも言い分はあるし、それはそれで正当だと思ってはいるのだが、時々「悪い事をしているのではないか」と考えることがあるのも事実である。そして、必要もないのに「幻想を持つ権利」を犯したことがあるのも事実である。(1985,09,28)(拙著『囲炉裏端』67頁以下)

 ・今回ほんの少し加筆しました。(2014年08月16日)

雑穀食 体質改善

2014年08月13日 | サ行
 日本雑穀協会のホームページには次のように書いてあります。

──雑穀は時代背景や主食の変化につれ、その捉え方も変わってきています。
現代の日本人の主食は白米であり、キビ、アワ、ヒエ、モロコシ、ハトムギ、オオムギなどイネ科作物の他、イネ科以外のソバ、アマランサス、キノア、ゴマに加え、ダイズやアズキなどのマメ類、また、普段食される機会の少ない玄米や発芽玄米も広く雑穀に含めております。(引用終わり)

 私は雑穀食を軽蔑していたつもりはありませんが、事実として、一年余り前までは実行しませんでした。玄米食も雑穀食の内だとする考えならば、試みたことはありますが、あまり美味しく炊けないので、長続きしませんでした。

 理由はともかく、1年余り前から、雑穀食を始めました。そして、今では「これが一番いいかな」と思うほどに成っています。1つは、明らかに、自分の体質が改善されたと実感できるからです。

 身体の事ですから具体的には書けないこともありますが、一番はっきりしていることは、左手の人差し指のリューマチが知らない内に治っていたことです。毎年だんだんひどくなり、2012年から2013年にかけての冬には痛くて困り、必死にマッサージをしてしのいだこともあった程です。それが2013年から2014年への冬には、忘れていた程、傷まなくなったのです。

 第2には、美味しいので他のご飯を食べたいと思わないからです。以前との違いの1つは土鍋で炊くという事です。圧力鍋では美味しく炊けないという考えは既にかなり広く行き渡っているようですが、私が知らなかっただけでした。

 私の雑穀食は、現時点では、次の通りです。米は三分搗きにして、糠も鍋に入れて炊きます。加える雑穀は米が100gまでなら、塩1gのほかに、アワ、キビ、ヒエ、黒米、押し麦、そばの実、芽ひじき、小エビです。それぞれ2gくらい入れます。最後の2つは雑穀ではありませんが、好みで入れます。ハトムギもそのうち、加える予定です。

 米も含めて、洗うとか研ぐとかはしないで、水を入れて、すぐに炊き始めます。なお、これは昼食に食べるのですが、その時には、「煎り玄米」も20g食べます。玄米食では煎り玄米が最高に美味しいと思うようになりました。

 健康のために時々、山、というより丘に登るのですが、その時は、すし揚げを煮て、これを稲荷ずしにして、持ってゆきます。頂上とか引き返し点で食べるのです。

 冬には頂上の小高い所にある陽だまりに腰を下ろし、夏には木陰に腰を下ろし、自分の健康を確認しながらこれを食べるのは最高の喜びです。

          関連項目

健康法




脚の健康 風呂での足マッサージ

2014年08月09日 | ア行
 夜になると誰でも足がむくむ。ぬるめのお風呂でゆっくりマッサージすると、むくみや疲れが解消する。

 浴槽の縁に足を乗せ、足首をゆっくり何度も回す。続いて、足の指の間に手の指を入れてもみほぐし、土踏まず、足首、ふくらはぎとマッサージを進めていく。足にたまった水分を、太もも方向に戻すイメージで行うのがポイントだ。

 マッサージ後は、足首やふくらはぎを少し強めに両手で握り、手の力で筋ポンプ作用を起こす。最後に、ひざの裏側から太ももの柔らかい部分をもみほぐしていく。これを毎日30分以上、ぬるめのお湯の中で行う。

 実はこれ、信州大教授の大橋俊夫さんが美脚モデルから聞いたマッサージ法で、「医学的にみても非常に理にかなっている」という。足の水分はリンパ管だけでなく、毛細血管にも多く戻るので、お湯にゆっくりつかって血流を良くし、足を上げながら行うマッサージは、水分や疲労物質の吸収に大変効果がある。

 足のむくみは、弾力性のあるタイツ「弾性ストッキング」を日中に着用することでも予防できる。

 タイツの締め付けが筋ポンプ作用を補い、水分がたまりにくくなる。しかし、健康な人が弾性ストッキングをはいたまま眠ることはお勧めできない。かえって血流が滞り、血管に血の塊(血栓)ができる危険がある。

 リンパを流すと免疫力が上がる。大橋さんは「適度な運動と簡単なマッサージで健康増進に努めてほしい」と呼びかけている。
(読売新聞ネット版、2014年4月13日。佐藤光展)

 感想

 最近は「長生きしたければ、ふくらはぎをもめ」とかいう本が売れているようです。「長生きしたければ、肉を食べるな」という本もあったと思います。

 私も膝を痛めることがよくありました。足首を痛めたこともあります。1度は整体師に診てもらって、「左の腰骨がズレています」と言われて、治してもらいました。

 昨年も右の膝を痛めましたが、この時は根本原因は分からず仕舞いでした。自分でも色々やってみた結果、現時点で最良と思う方法はこの読売新聞の記事にある方法です。ここに書かれている通りにするのは大変です。私のは、例によって、「最低の必要条件だけしかやらない」といういい加減なやり方ですが、それは「足首を回す」という事です。左右、別々にします。踵をしっかり突っ張るように気を付けます。この点が一番大切だと思います。

 健康体操では「量より質」です。「なるべく」でいいから、正しくやろうと気を付けることが大切でしょう。正しくやるなら、回数は左右1回ずつでさえ好いと思います。そうでないと、長続きしません。まあ、折角なら2~3回くらいやれば上々でしょう。

 「腰痛でも肩こりでも膝痛でもねじれば治る」とかいう本の広告文を見た記憶があります。誇大広告でしょうが、ねじることで治せる痛みもあることは事実だと思います。

      関連項目

健康法

友情

2014年08月08日 | 読者へ
 語源

「友情」か「恋愛」かという主題は現在ではきわめて古典的な印象があるけれども、当時〔『白樺』の出た大正時代〕は新しかった。だいたい「友情」という言葉そのものが新鮮だった。

「友情」は、おそらくフランス革命の標語のひとつであったフラテルニテ(兄弟愛、同志愛)の翻訳である。フラテルニテには信条と階層を異にする者を排除する色調があるが、「友情」はニュートラルである。政治からあえて引き離して翻訳・造語された気配がある。

非政治的であるところの「友情」の概念の源は「平等」で、それは明治革命の理念の重要な柱である。地位が門閥と世襲によっては継承されないという「平等」の観念は、学校と軍隊という国民国家の重要な機構によって積極的に醸成され、実践された。しかしそれは、もうひとつの革命理念「自由」とは大いに抵触した。(関川夏央「『白樺』たちの大正」、124頁)

  参考

 01、唐突なことながら、日本における友情の歴史というものが書かれるとすれば、まだ貧弱な内容と伝統しかないにちがいない。ヨーロッパや中国とはちがい、友情が哲学もしくは行動として激しく成立するには、奈良朝以来の日本の社会は、そのことの触発や培養に不適きであったというにちかい。

 とくに江戸期の支配体制の思想としては、友情という横の倫理関係が成立することをむしろきらうにおいさえあった。

 庶民は、同列の関係においては「五人組制」といったふうなものが上から押しつけられ、連帯責任と相互監視を基本思想とし、むしろ密告が奨励された。幕藩組織の原理は身分差によって成立しており、縦の序列が、気が遠くなるほどに多種類の格差づけによって上下ができあがっている。いかなる役職でも、厳密な意味での同列同級はありえないというほどにこの格差構成は精密なもので、たまたま存在したとしても、その同列同級に年齢という要素を入れて、上下化している。

 このような身分格差を守ることが社会の安寧のためには正義であるという思想があったために、身分や所属グループを越えた横関係の人間の結びつきが、容易にできなかった。たとえ、そういう現象がみられたとしても、友情という精神性にまで高まる例がすくなく、さらには高められた例があるにしても、それが支配層によって讃美されるということはなかった。

 友情という現象が濃厚に出てくるのは、江戸末期である。

 きわだって目立つのは、蘭学の専攻者のあいだでの友情といっていい。佐藤泰然より二時代ほど前に、オランダ原書の解剖書が翻訳され、『解体新書』として世に出た。この翻訳は同志的結束による共同作業だったが、ほとんどの者がオランダ語に通ぜず、一冊の本を中心に鳩首し、一語一語なぞを解くようにして進められた。同志たちは藩を異にし、身分を異にし、しかも藩命によらず自発的に集まってこのことをやった。この翻訳についての友人組織がこわれることなく持続したのは、使命感があったとはいえ、江戸期におけるめずらしい現象といっていい。

 その後、シーボルト事件や蛮社の獄など、幕府による蘭学者弾圧がいくどかあったが、これら凄惨な事態の前後で友情の発露と見られる人間の現象が幾例も見受けられる。

 蘭方医佐藤泰然の人生の特徴は、友情に篤く、いい友人に恵まれ、それらの友誼関係の中心にかれがいたということであろう。あるいはかれの性格以外に、江戸蘭学者の伝統というものであるかもしれず、さらには、かれが旗本伊奈家を辞して「無身分」ともいうべき浪人身分の境涯になっているということも、多少関係があるかもしれない。(司馬遼太郎「胡蝶の夢」新潮文庫、1-p.204-6頁)

 02、もともと日本人の倫理は忠孝をやかましくいうが、横の関係である友情や友誼についてはさほどに言わない。この倫理が日本人のなかに鮮明になってきたのは、むしろ明治後、西洋からそういう思想を輸入されてからだといってもいい。幕末、そういうものが自然の倫理として濃厚だったのは長州藩においてであり、タテの関係の倫理を尊ぶ他藩では濃厚にはみられない。熊本人の宮部鼎蔵(ていぞう)がおどろくのもむりもない。(司馬遼太郎「世に棲む日日」文春文庫、1-125頁)


親と暮らせぬ子供たち、児童養護施設、里親、養子

2014年08月07日 | サ行
          土井 香苗(ヒューマン・ライツ・ウォッチ日本代表)

 親を亡くしたり、親が育てる意思や能力を持たなかったりする子どもを社会全体の責任で養育することを「社会的養護」という。厚生労働省によると、2013年時点でこの制度の対象者(20歳末溝)は全国に約4万人いる。法的に親子となる養子縁組に託されている子は、ここには含まれていないが、1万人前後いるとみられている。

 社会的養護の対象者のうち、国にかわって家庭で育てる「里親」と暮らす子は15%前後。8割以上が乳児院や児童養護施設、情緒障害児の短期治療施設などで暮らす。施設で暮らす割合は豪州が1割弱、米国が2割強、英国が3割、韓国が6割弱で、日本は突出している。

 ヒューマン・ライツ・ウォッチは2011年12月-14年2月に国内の施設で暮らす子と出身者、管理者、里親ら200人以上に聞き取り調査をした。

買い物・電車、知らぬ暮らし

 子どものために一生懸命働いている施設関係者はいる。施設入所が最善の利益となる子もいるので、施設の存在を全否定はしない。

 だが、全国に595ある児童養護施設の半数は定員が50人を超え、100人を超す施設も25ある。共同部屋だったり1人当たりの空間が狭かったりで、子どもがプライバシーを保ちにくい。一斉に寝起きし、食堂で調理された料理を食ベ、一般家庭とかけ離れた生活環境で過ごす。職員は一般に交代で勤務するため、子どもは特定の大人と愛着関係を築きにくい。専門家は、6歳までの愛着関係が重要だとし、「特に生後3ヵ月以内に築かれる関係は、脳の発達に重要な役割を果たす」と指摘する。

 施設を出た後も、買い物をする、電車に乗るといった基本的な生活の仕方を知らずに苦労したり、頼れる家族がおらず、就職や家を借りる際の保証人探しに困ったりする。2歳から高校3年まで施設で過ごした男性(21)は、いまも漢字の読み書きや簡単な計算に苦労し、自動車免許もない。3年で20近い職を転々とした。「施設の友人に正社員は一人もいない」と語った。

   相談所は人手不足

 施設が偏重される背景に、子どもの育つ場を決める児童相談所が、養子縁組や里親より施設を優先する実態がある。長年、施設での養護を重視してきた結果、里親への委託を増やして施設側との関係を損なうことを躊躇(ちゅうちょ)する。虐待など、ほかの案件も抱えて人手不足となり、日頃からつきあいのある施設にますます依存する。里親担当の職員は限られ、里親を選ぶ際の審査や、里親になった後の支援も不十分で、里親との不和で施設に戻される子も少なくない。

 また、日本では親権が強く、養子縁組や里親に子どもを託すのに必要な、生みの親の同意が得にくい。同意がなくても家庭裁判所の許可があれば託せるが、児童相談所は、この手続きをほとんどとっていない。施設にしても、運営の支えは入所者数に応じて自治体から支給されるお金で、子どもが減ると困る。

 こうして、子どもの将来が、役所、実親、施設といった大人の都合で決められ、その子の最善の利益は何かという視点が欠落してしまう。

 国連子どもの権利条約は、子どもは「家庭環境のもと、幸福、愛情及び理解のある雰囲気の中で成長すべきである」と定めている。日本を含む締約国の状況を監視する委員会は「施設入所は最終手段だ」とする。家庭で育つことは子どもの基本的権利であり、日本の社会的養護の現状は国際基準に反している。

 いくつか提言をしたい。第一に、児童福祉法を改正し、子どもの引き受け手を決める権限を、児童相談所ではなく、行政から独立した家庭裁判所などに委ねること。第二に、乳児院をなくし、生みの親が育てられない赤ちゃんを家庭で養育できるよう、里親の研修・支援・監督制度を強化する。養子縁組をもっと増やすための工夫も』必要だろう。

 東日本大震災では、親権者を失った241人の孤児のほとんどが親族に引き取られた。震災で社会が子どもに向けた温かいまなざしを、施設にいる子どもにも向けでほしい。どんなに素晴らしい施設でも、平凡な家庭に勝るものはないのだ。
(朝日新聞GLOBE、2014年06月01日号。構成GLOBE記者・後藤絵里)

が(格助詞)

2014年08月06日 | カ行
問題1、「が」か「の」か

 (2002年)05月15日の朝日新聞に次のような文がありました。

 01、R・バッジョ割り込む余地なかった事実、充実ぶりを物語る。

 感想・格助詞の「が」が3つも繰り返されています。中学で私の習った文法では、名詞に掛かる文の主語は「の」にする、というものでした。

 02、御米宗助に打ち明けないで、今まで過ごしたというのは、この易者の判断であった。(漱石『門』13)

 しかし今ではこういう場合でも「が」を使うのが当たり前になってしまいました。多分、英文法のお粗末な理解から、「主語は(どんな場合でも)『が』で表す」という考えが生まれたのでしょう。

03-1、援助必要な人たちがいるという現実は変わらない。(2001,5,15, 朝日)
 03-2、そんな思い込み強い指導者が多すぎないだろうか。(2002,1,26,朝日)

  そして、ついに「が」を3つ重ねてもおかしいと思わない新聞記者が生まれたわけです。日本語はこうして悪くなっていくのだと思います。

 今の学校では文法の時間にどう教えているのでしょうか。このメルマガの読者に国語の先生がいたら教えて下さい。 (メルマガ「教育の広場」2002年05月26日発行)

 04、岩田社長これほど気分晴れた正月を過ごすことできたのは何年ぶりのことだろう。(2014年1月、日経)

 01と同様、「が」が3回も繰り返されています。やれやれ。


方向性

2014年08月05日 | ハ行
 01、〔FRB は〕19日に開かれる次回の連邦公開市場委員会で、金融政策の方向性を「景気重視型」から中立型に変更する、という見方が急速に広がった。(2002,3,9, 朝日)

 02、旭山動物園の園長の坂東元は、動物と観客の距離が遠くなりがちな欧米流の「生態展示」とは別の道を模索する。「観客の反応、動きが動物の刺激になり、本来の行動や能力を発揮させる。この方向性を変えるつもりはない」。(朝日新聞Glove、2014年7月20日)

 03、しかし〔中国の〕昨今の軍備拡張の正当化のために歴史を利用するのでは、方向性を間違えている。(朝日、2014年08月13日。社説)

 感想・「方向性」も、「関係性」と同様、新明解にも明鏡にも載っていません。「関係性」を参照。

備考・2014年08月13日に加筆。


九(く)

2014年08月04日 | カ行
 問題意識・同じ「第九」でもベートーベンの交響曲の場合は「だいく」ですが、憲法の場合は「第九(だいきゅう)条」だと思います。どういう場合は「く」と読み、どういう場合は「きゅう」と読むのでしょうか。その一般的な基準は何でしょうか。そもそもそれを分ける「一般的な基準」はあるのでしょうか。

 新明解には「く」について、「九(きゅう)に比べて使用範囲が狭く、熟した表現において用いられることが多い」とあります。これは、この問題に「気づいてはいるが、追求していない」ということでしょう。「両者の使い分けには一般的基準はない」とか、「一般的基準が何かは分からない」と正直に明確にしないから、この段階で止まってしまっているという一例です。正直は学問の前提です。

 なお、明鏡には何の説明もありません。

★ 「九」の「く」または「きゅう」以外の読み方

九十九(つくも)、九十九髪(つくもがみ)、九十九折(つづらおり)、九重(ここのえ)、


風力発電の真実

2014年08月03日 | ハ行
 世界の再生可能エネルギーを引っ張ってきた風力発電が、なぜ日本では嫌われるのか。2013年度の国内の風力導入量は、2年前に固定買い取り制度(FIT)が始まったにもかかわらず、今世紀に入って最低だった。その一因には、ちまたに流布されてきた「誤解」や「神話」がある。一つは電気の質に関する思い違い、もう一つは立地に関する勘違いだ。

「集合化」で変動縮小

 「風力はお天気まかせで不安定な電源じゃないですか」。風力関連業界による日本風力発電協会の斉藤哲夫企画局長(65)は、一般向けのセミナーで、しばしば同じ質問を投げかけられる。だが、斉藤さんは「風力はいつ発電するか分からない不安定な電源だと思われているが、誤った思い込み」と言う。

 消費電力は天候や気温、季節、時間などによって刻々と変動する。電力会社は、需要を予測してそれに合った発電をしている。自然エネルギーも予測することは可能だ。風力の先進国では、気象予測システムに基づいて供給計画をつくっている。

 『日本の知らない風力発電の実力』などの著書がある関西大学の安田陽(よう)准教授は「風力発電を大量導入するためのカギは、『集合化』と『柔軟性』だ」と言う。

 個々の風車やウインドファームからの出力は大きな変動があるが、数百㌔四方の大きなエリアで数百~数千基の風車を「集合化」して一つの発電所として考えれば、変動は滑らかになり、変動のパターンも予想しやすくなる。全部がいっペんに動いたり、止まったりすることはない。

 変動電源の導入を増やすには、需給調整しやすいように「柔軟性」を高める必要がある。水力発電などの制御しやすい発電所、揚水発電などのエネルギー貯蔵装置、他の電力系統との連系線、需要側の制御をいかに組み合わせるか、が肝要だ。

 ただし「欧州は連系線がたくさんあるから風力が入りやすいが、日本は少ないから入らない」という通説は注意が必要だ。風力発電の導入率が22%のポルトガルや17%のスペイン、15%のアイルランドは、0・4%の日本より連系線が少ない。

 欧米では「ベースロード電源」という概念も崩れつつある。日本では原発や石炭火力のように出力が一定の電源を指すが、自然エネルギーの電気を優先して使う「優先給電」を採り入れている国では石炭火力や原子力の出力を制御している。

 「風力が増えると停電が増える」と言われるか、風力の導入量と停電の頻度とは関係がなく、適切な系統運用をすれば、風力発電が原因の停電は起きないという。

 「風力発電は高い」というのも過去の話になりつつある。国内でも大規模施設なら発電コストは、1㌔ワット時あたり10円で、原子力や水力より安い。燃料費がかからないので、化石燃料の価格変動に悩むこともない。だが、8割を占める小規模施設は18~24円とまだ高い。

 海外ではさらに安くなっている。米ブルームバーグの資料によると、14~15年に米南西部で稼働予定の風力の販売契約は1㌔ワット時2~3・5円(l㌦=100円)、16年に稼働予定の太陽光も7円という。

 立命館大学の大島堅一教授は「自然エえルギーが高いという問題は、世界的に克服されつつある。原子力や石炭、ガスよりむしろ安いという試算もある。条件さえ整えば日本でも同じことが起きる。ドイツなどでFITが成功した結果であり、日本で流布されている『失敗した』という話は事実と違う」と話している。

温暖化こそ烏の脅威

 「同じバードストライクでも、飛行機だと鳥の心配をする人はいないのに、風車は悪者になる」。ある風力発電事業者はぼやく。風車の犠牲になった鳥類は、センセーショナルに取り上げられることが多い。

 米国の調査によると、年間5億~10億羽と見られる鳥類の人為的死因で、最も多いのはビルで約6割、送配電線や猫による捕食、自動車、殺虫剤がそれぞれ1割前後あり、風車や飛行機は0・01%以下となっている。発電量あたりの鳥の死因を比較した調査でも、原子力は風力のl・5倍、化石燃料は20倍だ。

 一方で、米国カリフォルニア州アルタモンタパスでは猛禽類が年間約1000羽衝突しているとか、北海道でのオジロワシの死因の第一位は風車という報告もあるという。

 風力事業者と自然保護派で見解が食い違うことも多かったが、雪解けの兆しもある。日本野鳥の会や日本自然保護協会などは4月、生物多様性や地域社会との共存を前提に、自然エネルギーの導入促進を求める共同声明を発表した。「生物にとって最大の脅威は地球温暖化」という考えが浸透し、対話が進むようになった表れとみられている。

 騒音が問題になることも多い。人には聞こえない超低周波音については、世界の公的機関は影響を認めていない。だが、風切り音など聞こえる音については、ストレスなどの原因になると言われている。

 問題は、うるさいかどうかの判断が、音の大きさや質だけでは説明できないことだ。外部資本による風車は嫌がられるのに、地域住民が所有する風車の音は、その人たちにとって子守歌のように野」えるとも言われる。名古屋大学の丸山康司准教授は「個人の感受性もあるが、むしろ風車との関係に左石されることが多い」という。地元とのコミュニケーションをどう図るか、地元の利益をどうつくるかが重要という。

 「陸上にはもう建てる余地がない」とも言われる。だが、日本風カヘ発電協会が6月に発表した2050年導入目標7500万㌔ワットのうち陸上は3800万㌔ワットで、洋上よりもポテンシャルがある。陸上に風車が林立する欧米各国とは違い、日本には風車に適した土地がまだいっばいあると言えそうだ。
(朝日新聞、2014年7月26日夕刊。石井徹)

関連項目

再生可能エネルギーの一覧