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ながく、牧野紀之の仕事に関心を持っていただき、ありがとうございます。 牧野紀之の近況と仕事の引継ぎ、鶏鳴双書の注文受付方法の変更、ブログの整理についてお知らせします。 本ブログの記事トップにある「マキペディアの読者の皆様へ」をご覧ください。   2024年8月2日 中井浩一、東谷啓吾

ロハス

2007年03月20日 | ラ行
 Lifestyle of Health and Sustainability(健康的で持続可能な生活スタイル)の頭文字を取って生まれた造語。

 90年代末、アメリカの社会学者ポール・レイ博士らが「伝統派」「近代派」に続く第3の市民層として存在を唱えた。

 日米欧では国民の2、3割を占めると見られ、マーケッティングの観点から注目されるようになった。健康や環境だけでなく、政治、経済、文化、地域社会などへの意識も高いとされる。

 雑誌「ソトコト」によると、その発想とは次のようです。
・質素な生活を目指すのは素晴らしい
・異文化に興味がある
・持続可能な地球環境を支持する
・地域社会を再生したい
・政治にあきらめを感じていない
・創造的時間を大切にしたい
・女性の社会進出は当然だ
・私は理想主義者だ

 日本では一時、商標権をめぐりトラブルになったが、現在は一般名称化している。

 (2007年03月17日、朝日、キーワード及び2005年10月25日、朝日)


同族修飾?

2007年03月15日 | タ行
     同族修飾?

 英文法で「同族目的語」というのを習いました。自動詞が語源を同じくする名詞を目的語とすることで他動詞みたいに使われる場合、その目的語を同族目的語というのです。例えば、He lived a happy life.(彼は幸福な生活を送った)という場合の life のようなものです。

 日本語にもこの種の用法があるのでしょうか。どうも表現の重複としか考えられない表現によく出くわします。最近目に留まったものを少し挙げてみます。

 (1) 宗教分裂の傾向はますます激化する一方だった。
 (2) こうした憤懣の声は一挙にどっとあふれだした。
 (3)  ~という二つの現象を鮮やかに明示していた。
  (以上、江村洋『ハプスブルク家』講談社現代新書)

 (4) その晩、信介は高田馬場の国電の駅の入口のベンチで夜を明かした。
(五木『青春の門』自立篇)

 (5) 中盤で抜け出たアマリージャが絶好の好機を外した直後
 (朝日,1994,5,8)

 6, そんなことができる能力もないしな。
(佐々木譲『勇士は還らず』174 回、朝日)

 (7) 言葉や文体の微妙なあやがゼンマイやピンの役割をつとめ、それらが相互に連動するような仕組みになっているのである。
 (江川卓『謎とき「罪と罰」』新潮社)

 私は、このような同族修飾(?)は必要がないと思います。文章が汚れて拙いと思います。しかし、なぜこういう表現がこのようにちょっと意識しただけで幾つかの例が集められる程頻繁に使われるのか、ということを考えてみますと、やはり日本語の「丁寧に、丁寧に」という傾向を想定せざるをえません。

 その上に、著者には自分の考えを出来るだけ強く読者に印象づけ、正しく理解してもらいたいという当然の気持ちが働くのでしょう。

 もちろん本当に日本語に精通した人はこういうことはしないもので、先日、丸谷才一氏の『女ざかり』という小説を読んだ時は、かなり注意していたつもりだが、語法上の間違い(と思われるもの)を捜し出すことができませんでした。

 (1994,05,31,執筆)

推量

2007年03月14日 | サ行
     推量の表現の重複

 重複表現で1つの型をなしているものに、推量の表現の重複があります。これはかなり頻繁に見られます。少し実例を挙げてみます。

 1、恐らくこの時が最初であろうと思われる。
 2、おそらく、~極めて緩やかなものであったろう。
 3、おそらく、作文は協同作業であったろう。
(以上、小池清治『日本語はいかにつくられたか』筑摩書房)

 4、ドストエフスキーはおそらく、この鞭身派の「キリスト」を念頭に置いていたのだ と思われる。
 (江川卓『謎とき「罪と罰」』新潮社)

 5、たぶん現物は、三悪人が各下部組織を悉く懐柔し、外貨に換えて莫大な利益を得た にちがいないと思われるが、
 (宮尾登美子『クレオパトラ』29回、朝日)

 これをまとめて考えてみますと、大きく、

(1)「恐らく」と「であろう」、又は「恐らく」と「思われる」の二重奏と、
(2)「恐らく」と「であろう」と「と思われる」の三重奏、

の二つに分けられます。

 ドイツ語でも、ちょうど教科書として取り上げた文に、das wird dir wohl bekannt sein という断りの挿入文がありました。ここでも推量の werden (であろう)と wohl (恐らく)が重複しています。

 従って、二重奏までは意識にとってかなり自然なことなのでしょう。しかし、三重奏は少しくどくて、文を悪くするのではあるまいか。

 5として挙げたのは、「たぶん」(蓋然的)と「ちがいない」(必然的)の併用で、これは感心しません。「思われる」も付いていますので、著者の真意は蓋然性の方でしょう。「ちがいない」の代わりに「だろう」にした方がよかったと思います。

 (1994,06,04,執筆)

メリー・クリスマス

2007年03月12日 | ハ行
   「メリー・クリスマス」は「楽しいクリスマス」ではない

 ある消費者運動に関係していた時のことです。クリスマスケーキの講習会が開かれた。仲間のフランス菓子職人が、良い材料を使って添加物なしで立派なケーキを作る方法を教えたのです。もちろん見事な出来栄えでした。

 しかし、そのケーキの上にフランス語で「ジョアイヨー・ノエル」と書き、その下に「たのしいクリスマス」という日本語が添えられているのを見て、一寸気になりました。

 フランス語ではなじみが薄いので英語にして、Merry Christmasで論じますが、それは「楽しいクリスマス」という意味でしょうか。そう訳してよいのでしょうか。

 Merry Christmasというのは語ないし句ではなくして文です。これは I hope you a merry Christmas の略であり、従って Merry Christmas は目的格です。直訳するなら「どうぞ楽しいクリスマスを」でしょう。最後に「を」を付けてほしいのです。

 辞書を見ると、Merry Christmasの訳としては「クリスマスおめでとう」となっていますたしかにクリスマス・イヴの日に言われたMerry Christmasの訳としては、これが正しい訳でしょう。

 しかし、外国では相手にMerry Christmasと言うのはクリスマス当日だけではありません。前々から言います。その訳としてはやはり「楽しいクリスマスを」しかないでしょう。

 その理由は先に述べました。先の説明でお分かりいただけない方は、年末に人と別れる時、なぜ「どうぞ良いお年を」と「を」を付けるのか、その理由を考えてみて下さい。

 ではMerry Christmasを「楽しいクリスマス」と訳すような誤解はなぜ生じるのでしょうか。直接的にはそれはもちろん英語教育の問題でしょう。しかし日本文法を教える場合にも、「どうぞ良いお年を」という表現を取り上げて、最後の「を」の働きを確認するという作業がなされていないこともあるのではないでしょうか。

 無意識的にしていることを自覚していないために、その無自覚性が翻訳の際に出てしまったと考えられるのです。

 ついでにもう少し偉そうな事を言っておきますと、文法の勉強の際に他言語と比較して考え説明するということが少なすぎるのではないでしょうか。

 私はドイツ語教師をしていますが、ドイツ文法などの説明では出来るだけ英語と比較して説明するようにしています。又日本語との比較もします。これは幸い好評のようです。
(1985年01月12日執筆の随想に加筆)

時制

2007年03月11日 | サ行
     時制の問題の1つ

 「おめでとうございます」ではなくて、「おめでとうございました」という過去形の表現を聞くことが少なくありません。こういう言い回しに気づいたことのない方には、スボーツ放送のヒーロー・インタヴューみたいなものを注意してお聞きになるようにお勧めします。

 「おめでとうございます」と「おめでとうございました」との使われる頻度を比べてみると、今ではもはや後者の頻度の方が大きいのではあるまいか。それほどこの言い方は当たり前になってきています。

 私が疑問とするのは、そもそも「おめでとうございました」という過去的ないし完了的表現は今まではなかったのではないだろうか、ということです。そうだとすると、どういう心理からこういう言い方が生まれたのかということです。

 推測でしかないのですが、この言い方の生まれた前提は、英語の普及によってテンスに対する意識の高い人々が出てきたことがあるだろうと思います。そして、そういう人々にとっては、その相手にとって喜ばしい出来事が、いま話している時点より前に起きたことだから、当然過去で表現すべきだと感じたのでしょう。

 もしそうだとすると、やはりこういうテンス意識は間違っているのではあるまいか。ここで問題になっている出来事は過去というより現在完了に属することであり、従ってそれは日本語ではやはり現在で表現するのが正しいのではあるまいか。それとも、この「おめでとうございました」の「た」は完了の助動詞だから、これでもいいのでしょうか。

 以上の事を書いた後に、大野晋・丸谷才一・大岡信・井上ひさし共著『日本語相談』(朝日新聞社)でこれを大岡信氏が論じていることを知りました。氏の説明の骨子は次の通りです。

 「めでたい」は「め(愛)でる」の連用形「めで」に「いたし(甚だしい)」が付いた「めで・いたし」が変化したものとされている。

 つまり、「褒めたい気持ちが甚だしい」ということで、話者の側の気分を表現したものである。しかもそれは話者の「今の」気持ちの表現だということである。相手の偉業に対して自分が現在たいそう喜んでいるということの意思表示である。

 したがって、「おめでとう」に過去形はない。

 大岡氏の説明はありがたい。

 その後私は同じような問題ではないかと思う表現に気づきました。「ありがとうございました」です。

 「ありがとう」という感謝の表現は、言葉としては、「有る」の連用形「有り」に「難し」が付いて出来た言葉と聞いています。つまり「めったに無い事柄である」という意味で、それが感謝の表現に使われるのです。

 これも「ありがとうございました」と過去形にすると、「めったに無い事でした」となるが、やはりおかしいのではなかろうか。

 とにかくこういう日本語生活の現実について日本文法は指針を与えるべきだと思います。

 (1994年05月06日執筆の文章に加筆)

どういたしまして

2007年03月10日 | タ行
 私はずっと前から気付いているのですが、今の日本では、「ありがとうございます」と言われた時に返す言葉としての「どういたしまして」はほとんど死語になっています。

 いつ頃からそうなったのかは知りませんい。これにお気づきでない方は、ラジオでもテレビでも少し注意して聞いてみるとよいでしょう。

 例えば、スポーツの実況放送には解説者がいます。それが終わるとき、当然、アナウンサーは解説者に「ありがとうございました」と言います。それに対して解説者が応える言葉は、私の観察では、二種類あります。一つは「失礼しました」であり、もう一つは「あ
りがとうございました」です。割合は半々くらいかと思います。

 要するに、「ありがとうございました」と言われて「どういたしまして」と応える言い方は事実上無くなっているのです。それは英語の教科書で You are welcome. の訳語として出てくるくらいです。

 しかし、これは少し前までは使われていました。その証拠となる面白い事実に出くわしました。NHKのラジオ深夜便で、外国にいる日本人に電話で話を聞くワールド・ネットワークというコーナーがあいます。

 ある時、そこで、ハンガリー人と結婚して20年くらい前からハンガリーで暮らしている女性が出たのです。インタヴューが終わってアナウンサーが「ありがとうございました」と言ったのに対して、その女性が「どういたしまして」と応えたのです。私は布団の中で
これを聞いて思わず微笑みましただ。20年前に日本を離れてそのままの日本人は20年前の日本語を保存していたのです。

 ついでに、「どういたしまして」に代わって使われている言葉について一言したいと思います。私には「失礼しました」とか「失礼します」という日本語はどうも楽しくありません。そんなに卑下しなくてもよいのではないだろか、と思うからです。

 「ありがとうございました」に対してこちらも「ありがとうございました」と言うのには、そう反対でもありません。しかし、「どういたしまして」という日本語は残しておきたい気がします。

 この文章を最初に書いたのはメモによると、1994年05月30日です。その後、少し変わったようです。今でも、「ありがとうございました」に対して「どういたしまして」と答える日本人はほとんどいません。私の狭い知見によりますと、そういう人は森繁久弥氏くらいではなかろうか(私はこれをやはりNHKの深夜便で聞きました)。「失礼しました」は少なくなって(これは嬉しい)、8割方が「ありがとうございました」と返しているようです。

 なお、「ありがとうございました」という過去形については別に論じたいと思います。

イエス・キリスト

2007年03月09日 | ア行
     「イエス・キリスト」は誤訳である

 イエス・キリストという日本語は Jesus Christ という英語の訳語として生まれたのでしょう。しかし、これは誤訳だと思います。

 そしてこれが誤訳であるために、つまり日本文法に反しているために、多くの人が「イエス・キリスト」という言葉を誤解している面があると思います。

 まずどういう風に誤解されているかと言いますと、これ全体を人名と思っている人がいます。そもそもこの言葉が何を意味しているかを知らない人が多いようです。クリスマスを利用して遊んだりするカップルがこれほど多いのにです。

 この言葉の「イエス」とは「ナザレ〔出身〕のイエス」という意味です。昔は苗字がなかったので、出身地を付けて言うのが普通でした。「キリスト」とは語源的には「油を塗られた者」とかいう意味らしいですが、要するに「旧約聖書で約束された救い主」の名です。つまり「イエス・キリスト」とは「イエスこそがキリストである」という意味であり、背後に判断を含んでいるのです。

 従って「イエス・キリスト」という言葉を口にしていいのはキリスト者だけなのです。ユダヤ教の人達はイエスをキリストと認めていませんから「イエス・キリスト」などとは絶対に言わないそうです。

 我々門外漢はイエスがキリストであるか否か分からないのですから、やはり「イエス・キリスト」などと言うべきではありません。知りもしない事を言うのをハッタリ屋と言います。「ナザレのイエス」と言うのが科学的に正しい言い方でしょう。

 さて「イエス・キリスト」の意味は分かりました。問題は日本語との対比です。日本語では、個人名に評価を表す言葉を付けて言う時には、例えば「仏の牧野」とか「鬼の牧野」といったように、評価の語を先に持ってきて、たいてい「の」でつないで、そして個人名を後に持ってきます。

 しかしヨーロッパの言葉では英語でもドイツ語でもフランス語でも日本語とは逆で、個人名を先に出して評価を表す言葉を後に付けます。ですから Jesus Christ となるのです。

 私は英語やフランス語のことへ良く知らないのでドイツ語で言いますと、「仏の牧野」を独訳すると Makino der Engelでしょう(多分)。「鬼の牧野」を独訳すると Makino der Teufelです(これは確実)。

 従って Jesus Christ を日本語に訳した人が「キリスト・イエス」とか「キリストのイエス」と訳していれば、少しは誤解が防げたと思います。「救い主イエス」が一番よかったと思います。実際、キリスト教の文献などでは「キリスト・イエス」という言葉も使われているのです。

 しかし、日本文法の本の中にはこういう法則についてもきちんと書かれているのでしょうか。

独白

2007年03月08日 | タ行
     独白の du

 1、ドイツ語に「独白の du 」と呼ばれるものがあります。英語の2人称の人称代名詞は昔はともかく今は youだけですが、ドイツ語の2人称の人称代名詞には親しい間柄で使う du と、公生活や距離を置いた間柄で使う Sieの2つがあります。

 2、人間以外の物、例えば犬などに話しかける時は du を使うのですが、それを知らない日本人が Sieで話しかけて犬に相手にされなかったとかいう、どこまで本当か分からない笑い話もあります。

 3、それはともかく、ドイツ人はひとり言を言う時、自分のことを du で呼ぶと言われています。これをドイツ文法では「独白の du 」と言います。

 たとえば、グリム童話の有名な「赤頭巾ちゃん」の話で、オオカミが赤頭巾ちゃんを食べた後大いびきをかいている所に通りかかった狩人の独り言はこう書かれています。

Der Jaeger ging eben an dem Haus vorbei und dachte: Wie die alte Frau schnarch t, du musst doch sehen, ob ihr etwas fehlt.

 (その狩人はお婆さんの家の前を通りかかった時、こう思った。「お婆さんは随分大きないびきをかいているなあ。何かあったのか、(お前は)見てこなければならない」

 4、では、日本語では独白の際に自分のことをどう言うでしょうか。一般的な決まった呼び方があるのでしょうか。決まっていないとするならば、どういう言い方があるでしょうか。男性と女性で違いはあるのでしょうか。こういった事が問題になります。日本文法はこういう問題にも答えるべきではなかろうか。

 例えば、自分の失敗を反省して自分に言う場合、「お前はなんて馬鹿なんだ」、「俺はなんて馬鹿なんだ」、「○○(自分の名前)はなんて馬鹿なんだ」といった3つの場合がある、と私は思います。

 かつて大学の授業で女子学生に聞いたことがあるのですが、どういう返事だったか忘れてしまいました。

 小説をあまり読まないので用例が少ししかありません。読者も用例を提供してください。

   用例

 (1) けれどもまさか、(略)まさか事実じゃないのじゃなかろうか? ナオミは生意気にはなったが、でも品性は気高い女だ。己はその事をよく知っている。

 (2) が、それにしても、若しも彼女が再び雑魚寝をしようなどと云い出したら、自分は何と云うべきだろうか?

 (3) 私は努めて冷静に、出来るだけ心を落ち着けて、この最後の場合を想像しました。彼女が私を欺いていたことが明らかになったとしたら、私は彼女を許せるだろうか?
 (以上、谷崎『痴人の愛』)

 (4) それを思うと気がおかしくなりそうであった。このおれは、いったいどうしてしまったのか。自分に、何が起こったのか。
   (夢枕獏「宿神」)

茨の道

2007年03月07日 | ア行
     茨の道

 次の文がありました。

──マイナー契約で、キャンプには招待選手として参加。大リーグ
昇格を狙い、若手らとともに、しのぎを削る毎日だ。1球1球の結
果が、今後の選手生活を左石するかもしれない綱渡りの状態に身を
置いている。

 いばら道は続く。が、桑田は「楽しんでやっている。マウンドに
立てるだけでも幸せです」。ひたむきな気持ちが、「オールド・ル
ーキー」の挑戦を支えている。
 (2007年03月05日、朝日、村上尚史)

 まず問題にしたいのは、「いばら道」と言うか、です。これは
「いばらの道」と言うのが決まった言い方ではないでしょうか。

 次に、「いばらの道は続く」の「は」です。こういうときは、
「いばらの道が続く」だと思うのですが。

 次の「が、桑田は」の「が」と重なって拙いというなら、こち
らを「しかし、桑田は」か「それでも、桑田は」にすればよいと
思います。

読点

2007年03月06日 | タ行
     「と」と読点

 格助詞の「と」を使う場合、読点をどう打つかという問題があります。次の3つの場合が使われていると思います。どれが正しいのでしょうか。どれでもいいのでしょうか。文法はこういう事についても説明してほしいと思います。


   「、と」の用例

 01、生きて捕虜の恥を受けるべからず、というが、こういう規定 (坂口『堕落論』)

 02、日本人の血などと称して後生大事にまもるべき血などあるは  ずがない、と放言するあたり、
 (坂口『堕落論』)

 03、できるだけ離れていよう、と唯野は思った。
 (筒井『唯野教授』)

 04、足りない分を非言語的表現によって埋め合わせている。と、こうは言えないだろうか。/~したがってその分だけ、表情や身振りに楽をさせているのだ、と。
 (井上ひさし『私家版日本語文法』)


   「と、」の用例

 01、船頭に「舟をやれ」と、いった。
 (「鬼平犯科帳」1)

 02、武田の紙幟には、/『---』/と、記されていた。
 (吉村『天狗争乱』)

 03、コット先生が立上がった。と、先生の声は沈痛なもので、
 (坂口『堕落論』)

 04、あに目的を達せずんばあるべからずと、鉄条網を乗り越えて
 (同)

 05、「企業秘密を守るのに最適の場所だからです」/と、明快に答えた。
 (1993,10,11,朝日)

 06、「センターの~をつくる」/と、伊藤常務はいう。(1993,10,11、朝日)


   「、と、」の用例

 01、あなたの知ったことか、と、いわんばかりの口調でこたえた。
 (鬼平犯科帳 1)

 02、おふじは小間物屋助次郎へ嫁いだ、と、こういうわけであった。(同)

 03、伝統あるものには独自の威力があるものだ、と、いささか感服
 (坂口『堕落論』)

 04、黙っていよう、と、唯野は決心した。
 (筒井『唯野教授』)

 05、来てみて驚くなよ、と、彼に念を押されていたのが、ちょっと気になっていたのだった。
 (五木『青春の門』自立篇)

 06、「いや、何、きようだいのやうな愛情でもいいんです」なんて、たまたま二人きりになつたエレベーターのなかで言ったりして、と、弓子は思ひ出し笑ひをして、
 (丸谷才一『女ざかり』)


   読点なしの用例

 01、「目まぐるしい~しています」/と若林さん。
 (1993,10,11、朝日)

 02、「暴力はやめましょう」/とそのなかのインテリ風の一人が皆を制し、
 (遠藤『悲しみの歌』)

  感想

 遠藤はこのようにたいてい読点を打たない。この本の初めの方で、「わたしのハンドバッグ、わたしのハンドバッグ」/と、しどろもどろに教えた。とあるが、これは例外である。

再帰所有形容詞

2007年03月05日 | サ行
     「その」と再帰所有形容詞

 伴野朗氏の『霧の密約』第7回(朝日新聞連載)に、イギリス人のセリフとして次の句がありました。

 「犯人の背後関係を徹底的に追及する必要がある。刑事局は、『その』全力を挙げて犯人の身元を突き止めてもらいたい」

 私が問題にしたいのは括弧を付けた「その」です。本来の日本語ではここに「その」は入らないと思います。ただ「刑事局は全力を挙げて」と言う所だと思います。

 では、なぜここに「その」が入ったのか。思うに、ここは英語では do one's bestといった表現が考えられますが、その再帰所有形容詞の one's(ここでは多分 his)を訳したのです。こうして日本語は変わっていくという一つの例です(これを書いたのは1994年の09月02日と記してある)。

 さて、今回はもう少し考えを進めてみたい。

 英文法のことはよく知らないが、ドイツ語ではこれを「再帰所有形容詞」という。その用法は2つである。

1、一般的用法

「それ相応の」「しかるべき」
(1) Das dauert seine Zeit. (それにはそれなりの時間がかかる)
(2) Das hat seine Gruende. (それにはそれ相応の根拠がある)

2、循環話法としての用法

「例の」「お決まりの」「いつもの」という習慣ないし性癖を表す。
(3) Er trinkt seinen Kaffee.(彼はいつものコーヒーを飲んでいる)
(4) Ich habe meine Geschaefte. (私には仕事というものがある)

 では日本語の「その」はどうか。辞書で引くと、「連体詞」とあって、「聞き手に近い事物をさす語」(学研国語大辞典)とある。再帰所有形容詞のような用法は載っていない。やはりないのである。

 しかし、ドイツ語の再帰所有形容詞で表されているような事態はあるし、それを表現する日本語もある。ということは、「こういう事態は日本語ではこう表現します」ということを日本文法はまとめておくべきだということにならないだろうか。

 このように外国語を手掛かりにして日本語を反省し、意識していくということは必要な仕事ではあると思う。

用例

2007年03月04日 | ヤ行
     辞書の用例

 1996年03月16日の朝日新聞の「日本語よ」というコラムに「新明解国語辞典」の編集委員の一人である倉持保男氏が「実例と用例」という題で一文を寄せています。

 氏はまず、単語の「実例」を「実際に使われた例」とし、「作例」を「編集者が作った例」としています。そして、多くの小型国語辞典が単語の説明に作例を掲げることが多いのは、実例を載せると作例を載せる場合より用例の占めるスペースが大きくなり効率的でなくなるからだとしています。

 逆に「新明解国語辞典」はなるべく実例を掲げるようにしているのは、「編集者の言葉についての経験や知識は意外に狭いもので、作例に甘んじていると、現実の用法を見落としたり、現実から離れた虚構の産物になりかねないのを恐れるためだ」としています。

 私はこれは本当にそうだと思います。言葉の研究では絶対に実例主義で行くべきだと思います。

 私はドイツ文法を教えようとした時、自分には適当な文例を挙げる能力がないのに気がつきました。そこで、それぞれの品詞の使い方の項目を箇条書きにして、その一項目ごとに「実例」を集めはじめました。ワープロがあったことがこの作業を大いに助けてくれました。

 初めは1枚のフロッピーディスクでしたが、その1つ1つの項目が膨らんで、今や20枚以上のものになっています。しかしこの点は今は触れないことにします。

 ともかく実例を集めはじめました。すると、同じ事柄にもいろいろな表現があることに気づきました。考えてみれば当たり前です。英作文をしていた時でも、特にネイティヴの先生は1つの作文題に対して複数の英文を示してくれていたではないか。

 今でもよく覚えていますが、かつて『罪と罰』の英訳がいくつも出ていることに気づいて書店でその冒頭の訳し方を比べてみた経験があります。その時も「訳者によって随分違うものだな」と思ったものです。

 実例を集めていると、「こんな使い方もあるのか」「こんな場合もあるのか」とびっくりするような使い方に沢山出会いました。何かを表現しようと思ってとっさに思いついたり熟考のはてに考え出したりした言い回しには、或る単語の使い方を説明しようと思ってその場で作りだした場合には絶対に思いつかないような言い回しがあるものです。これがネイティヴの底力というものです。事実は小説よりも奇なのです。

 他者の作った本の用例も気になるようになりました。ドイツ語を研究し教えるのに英語との比較を使っている人がいます。この人の本を見ると、1つの事柄を表現するのに1つの表現方法しかないかのような印象を受けます。常に1つの日本文に1つの英文と1つの独文しか載っていないのです。実際には1つの事でも複数の表現方法があるものです。

 又、ドイツ語にも英語にもとても堪能でネイティヴと同じくらいよく出来る方がいます。しかし、その方の本を見てみると、やはり1つの事柄については1つの表現方法しかないかのような印象を受けます。

 私は、これはやはり違うと思います。

 そういうわけで「マキペディア」に載っている用例はみな実例です。そもそも「単語の使用例」を表す言葉に、用例と実例と作例とがありますが、私の考えでは用例と実例は同じです。作例などという言葉は知りませんでした。しかしこれはあるようです。「新明解国語辞典」に載っています。その意味は「説明などのために、その人が適当に作った用例」とあります。すると、やはり用例は実例と作例を包括する上位概念らしいです。しかし、この「マキペディア」の「用例」はみな実例です。

 最後にもう1つ。そうして始まった私の文法研究は、これまでの文法の枠を認めてその例文を集めることに止まりませんでした。これまでの文法の枠もその中の分類も個々の分類項目も考え直すことになりました。なぜなら、これまでのものには収まりきれない実例
が集まってきたからです。実際の言葉の使い方は現存する文法よりも豊かで複雑である。学問は現実に追いつかなければならない。

 いつの日か私の独文法を世に問いたいと思います。

翻訳論

2007年03月02日 | ハ行
   参考

 (1) 与えられた文を反訳する場合、健全な感じを持った者として、まず最初に考えなければならない最大の関心事は、その文全体の達意眼目である。

 達意眼目とは、平ったく云えば、伝えんとする用件である。およそ「伝えんとする用件」ほどはっきりしたものはない。達意眼目が不明のまま筆を執る反訳者があるとしたら、それは、たとえば用件が不明のまま電話口に立って、エエもしもし、と口を切ってしまった男と同様である。

 達意眼目などと云う仰山な言葉を振りかざして人を脅しつけないでも、「意味をよく考えろ」とでも云ったら、それで十分分かるではないか、と云う人があるかもしれない。

 それはなるほど、そうかもしれない。けれども、「意味」には、いろいろな意味がある。語句の末に拘泥して局部的な所ばかり見る人間も、自分のつもりでは、決して形の上ばかりを見て、意味を忘れて考えているつもりではない。そういう人もそういう人なりに、やはり、いっかど「意味」を考えているつもりなのである。否、そういう人の方がむしろ「意味」については自信があることが多い。

 意味という言葉ほどあいまい至極な言葉はない。結局、人間が頭の中で考えることは、すべて「意味」なのである。

 達意眼目は、伝達内容、用件、話の趣旨、などと云う、筆者が常に力説強調してやまない常識的見地は、要するに「語句の末に拘泥しない」ための合言葉であると思っていただきたい。

 文法学というのは、当面の問題はまず「語句の末に拘泥する」ことにあるのであって、語句の末に拘泥しない磊落(らいらく)な洒々(しゃしゃ)たる文法学などというものがあるべきはずのものではないけれども、その一段奥には、また一段奥の真理が潜んでいることを見落としてはならない。

 その一段奥の真理というのは、逆説的に、次の如く言い表すことができる。「真に語句の末に拘泥せんがためには、語句の末に拘泥してはならない。達意眼目から出立してはじめて語句の末の末の末まで分かるのである」。
 (関口存男『冠詞』第3巻 167頁)

 (2) 訳というものは、部分的な意味よりは、むしろ文の勢いを伝えることが第一義である。
 (関口存男『冠詞』第3巻 159頁)

 (3) 良き翻訳というものは、達意眼目に対して全責任を持つことを意味すると同時に、またその達意眼目を全幅的に「意識」することをも意味するものである。
 (関口存男『冠詞』第2巻 431頁)

 (4) 誤訳は一か所もないが、しかし文体はでれりと淀んで死んでいるものと、誤訳はいくらかあるけれど文章は生きがいいものとをくらべるならば、どちらがいいかは至って明白だろう。」
 (丸谷才一『日本語のために』新潮社 p.182)

 (5) 原文と対照させた意訳は、必ずしも原文には忠実ではない。原「文」には忠実ではないが、それだけに原「意」と、原「色」と原「勢」には忠実だったつもりである。

 原文の深意と、面白さと、勢いとを伝えんがためには、こうした一見勝手極まる筋路をたどらないわけにはいかないということは、本当に分かって詩文や劇を訳する人達の期せずして到達する認識である。

 本当に分かっていれば、この私程度のデタラメ訳になるか、それとも、筆を執らないかのいずれかである。第三の場合というものはありえない。もしあるとしたら、それは必ず十年後には顔向けもならなくなるようなホンヤクである。

 私のは、ホンヤクではなくて通訳だと思っていただきたい。
 (関口存男『ファオスト抄』序)

 (6) 直訳の通弊はたいてい文章のみを訳してその意図とその重点の傾く方向を伝えないという点にある。
 (関口存男『接続法の詳細』 262頁)

 (7) 直訳の魅力とは、原典の言語には特有であるが、訳出に用いる言語の方には存在しなかった考え方(すなわち意味形態)を、習慣と伝統を無視して取り入れる無理の取り持つ魅力である。(略)

 意を達するは、それあたかも子供にお土産を与えるが如し。さあお土産だと云って直ぐ手に渡したのでは面白くない。「これはナァニ?」と云って高くさしあけ、「お土産!」と答えて親父の胸から肩へ攀じ登らなければ取れないから面白いのである。直訳は、読者にそのような軽い努力を課する時に、意外な魅力を発揮する。

 ただしその際一つの条件がある。この条件が揃わないと直訳はたちまちにして拙訳となる。その条件というのは、与えんとする所のものが本当に飛びつき甲斐のあるお土産でなければならぬ、というこの一点である。
 (関口存男『冠詞』第2巻 274頁)

 (8) 〔あの〕 Veni, vidi, vici (来た、見た、勝った)にしても、もしシーザーが現代のドイツ語でもって元老院に報告したのであったら、その勝利の迅速さを誇示せんがさめには、最後の vici を過去完了形にして、

   Ich kam, ich sah──ich hatte gesiegt.

と恐らく言ったであろうと思う。

 また、 Veni, vidi, vici を本当に良いドイツ語に意訳しようと思ったら、この方でなければならないはずで、ラテン語の時称に義理立てした I ch kam, ich sah, ich siegte (英仏訳も同様)という巷間に普及している訳は、現代ヨーロッパ語の精神に合致しないすこぶる間の抜けた訳である。

 但し、ちょっと気になるから早速付言しておくが、(人の書いた物を読むのに全然読み方というものを知らない人が案外多いことを苦い経験で知っているので)もし Veni, vid i, vici の独訳を命ぜられたら、私はやはり Ich kam, ich sah, ich siegte と訳したであろう。

 即ち、美しさやリズムのためには、誤訳曲訳百でもござれというのが真の反訳である(もっとも程度にもよるが!)。

 一杯機嫌で訳すならば、 Ich sauste herbei, ich sah, ich siegte でも結構である。ギリシャ語ラテン語ともに頭韻が合っているのだから、ドイツ語だって合っていなければならないわけである。
 (関口存男『冠詞』第2巻 S.103)