参考
(1) 与えられた文を反訳する場合、健全な感じを持った者として、まず最初に考えなければならない最大の関心事は、その文全体の達意眼目である。
達意眼目とは、平ったく云えば、伝えんとする用件である。およそ「伝えんとする用件」ほどはっきりしたものはない。達意眼目が不明のまま筆を執る反訳者があるとしたら、それは、たとえば用件が不明のまま電話口に立って、エエもしもし、と口を切ってしまった男と同様である。
達意眼目などと云う仰山な言葉を振りかざして人を脅しつけないでも、「意味をよく考えろ」とでも云ったら、それで十分分かるではないか、と云う人があるかもしれない。
それはなるほど、そうかもしれない。けれども、「意味」には、いろいろな意味がある。語句の末に拘泥して局部的な所ばかり見る人間も、自分のつもりでは、決して形の上ばかりを見て、意味を忘れて考えているつもりではない。そういう人もそういう人なりに、やはり、いっかど「意味」を考えているつもりなのである。否、そういう人の方がむしろ「意味」については自信があることが多い。
意味という言葉ほどあいまい至極な言葉はない。結局、人間が頭の中で考えることは、すべて「意味」なのである。
達意眼目は、伝達内容、用件、話の趣旨、などと云う、筆者が常に力説強調してやまない常識的見地は、要するに「語句の末に拘泥しない」ための合言葉であると思っていただきたい。
文法学というのは、当面の問題はまず「語句の末に拘泥する」ことにあるのであって、語句の末に拘泥しない磊落(らいらく)な洒々(しゃしゃ)たる文法学などというものがあるべきはずのものではないけれども、その一段奥には、また一段奥の真理が潜んでいることを見落としてはならない。
その一段奥の真理というのは、逆説的に、次の如く言い表すことができる。「真に語句の末に拘泥せんがためには、語句の末に拘泥してはならない。達意眼目から出立してはじめて語句の末の末の末まで分かるのである」。
(関口存男『冠詞』第3巻 167頁)
(2) 訳というものは、部分的な意味よりは、むしろ文の勢いを伝えることが第一義である。
(関口存男『冠詞』第3巻 159頁)
(3) 良き翻訳というものは、達意眼目に対して全責任を持つことを意味すると同時に、またその達意眼目を全幅的に「意識」することをも意味するものである。
(関口存男『冠詞』第2巻 431頁)
(4) 誤訳は一か所もないが、しかし文体はでれりと淀んで死んでいるものと、誤訳はいくらかあるけれど文章は生きがいいものとをくらべるならば、どちらがいいかは至って明白だろう。」
(丸谷才一『日本語のために』新潮社 p.182)
(5) 原文と対照させた意訳は、必ずしも原文には忠実ではない。原「文」には忠実ではないが、それだけに原「意」と、原「色」と原「勢」には忠実だったつもりである。
原文の深意と、面白さと、勢いとを伝えんがためには、こうした一見勝手極まる筋路をたどらないわけにはいかないということは、本当に分かって詩文や劇を訳する人達の期せずして到達する認識である。
本当に分かっていれば、この私程度のデタラメ訳になるか、それとも、筆を執らないかのいずれかである。第三の場合というものはありえない。もしあるとしたら、それは必ず十年後には顔向けもならなくなるようなホンヤクである。
私のは、ホンヤクではなくて通訳だと思っていただきたい。
(関口存男『ファオスト抄』序)
(6) 直訳の通弊はたいてい文章のみを訳してその意図とその重点の傾く方向を伝えないという点にある。
(関口存男『接続法の詳細』 262頁)
(7) 直訳の魅力とは、原典の言語には特有であるが、訳出に用いる言語の方には存在しなかった考え方(すなわち意味形態)を、習慣と伝統を無視して取り入れる無理の取り持つ魅力である。(略)
意を達するは、それあたかも子供にお土産を与えるが如し。さあお土産だと云って直ぐ手に渡したのでは面白くない。「これはナァニ?」と云って高くさしあけ、「お土産!」と答えて親父の胸から肩へ攀じ登らなければ取れないから面白いのである。直訳は、読者にそのような軽い努力を課する時に、意外な魅力を発揮する。
ただしその際一つの条件がある。この条件が揃わないと直訳はたちまちにして拙訳となる。その条件というのは、与えんとする所のものが本当に飛びつき甲斐のあるお土産でなければならぬ、というこの一点である。
(関口存男『冠詞』第2巻 274頁)
(8) 〔あの〕 Veni, vidi, vici (来た、見た、勝った)にしても、もしシーザーが現代のドイツ語でもって元老院に報告したのであったら、その勝利の迅速さを誇示せんがさめには、最後の vici を過去完了形にして、
Ich kam, ich sah──ich hatte gesiegt.
と恐らく言ったであろうと思う。
また、 Veni, vidi, vici を本当に良いドイツ語に意訳しようと思ったら、この方でなければならないはずで、ラテン語の時称に義理立てした I ch kam, ich sah, ich siegte (英仏訳も同様)という巷間に普及している訳は、現代ヨーロッパ語の精神に合致しないすこぶる間の抜けた訳である。
但し、ちょっと気になるから早速付言しておくが、(人の書いた物を読むのに全然読み方というものを知らない人が案外多いことを苦い経験で知っているので)もし Veni, vid i, vici の独訳を命ぜられたら、私はやはり Ich kam, ich sah, ich siegte と訳したであろう。
即ち、美しさやリズムのためには、誤訳曲訳百でもござれというのが真の反訳である(もっとも程度にもよるが!)。
一杯機嫌で訳すならば、 Ich sauste herbei, ich sah, ich siegte でも結構である。ギリシャ語ラテン語ともに頭韻が合っているのだから、ドイツ語だって合っていなければならないわけである。
(関口存男『冠詞』第2巻 S.103)