朝日紙のいじめ論の中で私の一番関心を持ったのは斎藤孝氏の考えでした。なぜかと言いますと、かねてから氏の教育論ないし教育技術は「体制内で自分の能力を伸ばす」ことを目的にしているのではないか、という疑問を持っていたからです。逆に言うならば、氏には体制批判の観点がないのではなかろうか、と思っていたからです。
教育学者ないし教育者として有名に成った人、業績を上げた人にはこのタイプの人が多いからです。国語教育の大村はまさんがそうです。仮説実験授業の板倉聖宣(きよのぶ)さんがそうです。
大村はまさんは、国語教育という箱庭の中をせっせと手入れをして見事な箱庭を作った人です。外部で嵐が吹こうが大雨が降ろうが、そういう事は無視してです。
板倉聖宣さんは学生の頃、少しは学生運動に関わったようですが、すぐにこれはおかしいと気付き、自分は社会変革の「基礎」に集中すると決めて、それをし遂げた人です。
私は、こういう生き方を必ずしも「悪い」とは思いません。或る意味で「賢明」だとさえ思います。日教組のように「教育を通して革命をする」などという不可能事を追求して、見事に敗北し、今では堕落してしまった運動を見るにつけ、身の程を知る事は大切だと思います。
斎藤孝さんも司法試験を目指した事もあったようですが、途中から教育学に移ったようです。斎藤さんの今回の発言を聞いてみましょう。
いじめられている君へ(斎藤孝)
君が今、少しでも嫌な目に遭っているなら、けっして「大丈夫」と言ってはいけない。きちんと声をあげよう。まず、親に話す。「心配かけたくない」なんて思わないで。親は君が話してくれた方が安心なんだ。親はきっと一緒に怒り、行動してくれる。
親から相手の親や先生に話してもらう。それで解決しなければ、校長、教育委員会、文部科学省と、より上の組織に訴えていこう。
大丈夫。いま、大津市のいじめ問題が注目されている。この時期だからこそ、学校、教育委員会、文科省はいじめにしっかり対応してくれるはずだ。大津の悲惨な事件をむだにしないためにも、君が受けているいじめを訴えてほしい。
いじめの多くは限られた時期、狭い人間関係の中で起こる。友達だと思ってる人からいじめられることも多い。その場合、「友達でいたい」と我慢してしまうから抜け出せなくなってしまう。でもさ、そんな友達、いなくたっていいじゃないか。もう、つるむのをやめてみてはどうだろう。
孤立するのはさみしい? 「たとえ1人でも生きていくんだ」という独立心は、小学生や中学生にとっても大切なことだよ。
読書をしたらどうかな。僕も子どものころ、さみしいときには本を読んだ。本は自分の世界を広げてくれたし、嫌な気持ちを軽くしてくれた。本があれば1人でも十分楽しかった。いや、読書に集中するために「1人でよかった」と思えるくらいだった。
僕のお薦めは、「トットちゃんとトットちゃんたち」(黒柳徹子)、「だいじょうぶ3組」(乙武洋匡(ひろただ)、「心に太陽を 唇に歌を」(藤原正彦)かな。(朝日、2012年7月26日)
これを読んだ
感想の第1は、「やっぱりそうだったか」です。
もし朝日から提示された3つの内のどれかを選ばなければならなかったからこうなった、と言うのなら、断れば好かったでしょう。
第2に思った事は、そもそも斎藤さんにはいじめのひどさが分かっているのかな、という疑問です。斎藤さんは自分の学生で今、教師をしている卒業生たちを集めて、夏休みに何か、研究会みたいな事をしているのではないでしょうか。どこかで読んだ記憶があります。そこで、現役教師たちから、いじめの話は出ないのでしょうか。その痕跡が全然感じられません。斎藤さんの弟子たちは、そういう問題からは目をそむけて、「好い授業」だけに集中しているのでしょうか。
いじめ問題の本質はどこにあるのか、私見を述べます。
1、いわゆる「いじめ」は学校の中(広義)で起きます。あるいは、始まります。という事は、学校、いや校長に責任があるという事です。
学校(校長)は保護者から子どもを預かっている間は、その子どもたちを守る義務があります。この「守る義務」とは、「悪い事をされないように守る義務」と「悪い事をしないように守る義務」の両方です。
そのために必要な手段を講ずる義務と権限があります。私の見学したドイツの学校では、10時ころの20分間の大休憩のとき、生徒はみな校庭に出なければならないのですが、その時、何人かの先生が校庭のあちこちにさりげなく立って、生徒全員を監視していました。職員室には「監視」の当番表が貼ってありました。
私は、監視カメラを設置しても好いと思っていますが、これには世間の反対もあるでしょう。教育問題に関する世間とやらの根本的な間違いは、「悪い生徒を好くするのが先生の仕事じゃないか」と言って、教員側に無限責任を押し付けることです。
校長は、子どもを預かっている間に子どもを守り切れなかったならば、責任を取らなければなりません。これが根本だと思います。生徒が自殺したと言うのに、辞めもせず、給与を返しもしないのはおかしいと思います。
2、学校教育は個々の教師が行うものではなくて、校長を中心とする教師集団が行うものです。校長に8割の責任があります。「組織はトップで8割決まる」のです。個々の教師の責任は小さなものです。
最近、関西のどこかの高校でいじめ自殺をした生徒の母親が「学校は腐っている」とか言ったとか、ネット読んだ記憶があります。「学校」ではなく「校長」と言わなければなりません。
外国はいざ知らず、日本では教師を批判することはあっても、校長を批判することはめったにありません。校長を「小天皇」視する雰囲気が無意識のうちに作られています。これを打破しなければなりません。
地域住民は学校評価のホームページを作って校長に「真の情報公開」を要求し、校長のリーダーシップを不断に監視しなければなりません。サボリ校長ないし無能校長は教育委員会に通知して、交代を要求するべきです。ともかく、住民は学校の実態に無関心すぎます。
3、こういう環境なり条件を整備することは教育委員会の仕事の1つです。そういう仕事の出来る人を教育委員に任命する事は首長の義務です。教育委員の条件の1つに「教育行政に精通している事」というのがあるはずです。
教育委員会にこれが出来ないと分かった時には、教育委員会のほかに「何とか委員会」を作るのではなく、教育委員に辞めてもらって、有能な人を任命するべきです。
4、教員の給与(年収)をかつての鹿児島県阿久根市の竹原市長がしたような形で、決算に基づいて、最後の1円まで発表しなければなりません。いや、給与だけでなく、退職金も年金も同じように発表するべきです。そうしたら、教員が、特に管理職がいかに優遇されているかに皆さんはびっくりするでしょう。
以上4点が教育改革といじめ対策の根本だと思います。
関連項目
職員の給与(阿久根市)
教員人事の真実
学校ホームページの必要条件
組織はトップで8割決まる
板倉聖宣と仮説実験授業