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ながく、牧野紀之の仕事に関心を持っていただき、ありがとうございます。 牧野紀之の近況と仕事の引継ぎ、鶏鳴双書の注文受付方法の変更、ブログの整理についてお知らせします。 本ブログの記事トップにある「マキペディアの読者の皆様へ」をご覧ください。   2024年8月2日 中井浩一、東谷啓吾

脱原発は高くつくか

2012年09月30日 | カ行
 原発をなくすと、電気代が2倍に──。そんな試算をもとに、原発の必要性を訴える声が広がっている。根拠は、2030年を想定して政府が出した数字の1つ。実は、同じ試算では「原発を使い続けても電気代は1,7倍」ともある。危機感をあおる数字だけが、ひとり歩きしている。

 「原子力発電ゼロとなると、電気料金は最大約2倍に上昇する」。政府が30年代の原発ゼロをめざすと発表した09月14日、九州電力が異例のコメントを出した。

 「原子力という選択肢は失うべきではない」「国民負担が増える」など、政府の決定に真っ向から反対する内容だ。九電は、発電量の約4割を頼ってきた原発が使えず、火力発電の燃料費がかさんで大きな赤字を抱える。瓜生道明(うりう・みちあき)社長は記者会見で「料金は2倍になるかもしれない。企業が国外に出て若い方の職場もなくなる」と強調する。

 日本鉄鋼連盟も18日に「電気料金は最大で2倍以上になる」と指摘したほか、経団連などはこの数字をもとに「経済への影響が大きい」として、政府の原発ゼロの方針はお金がかかると批判を続ける。

 原発を動かさないと、なぜ電気代は2倍になるのか。いずれの根拠も、政府が6月に公開した数字にたどりつく。30年の原発比率を「ゼロ」「15%」「20%」「25%」とした場合の家庭の電気代への影響を、国立研究所や大学教授などが試算したものだ。

 原発をゼロにする場合、30年の2人以上世帯の平均的な電気代は、4つの試算で10年と比べて1,4~2,1倍。石油や天然ガスなどの値上がり分が含まれるほか、再生可能エネルギーを広げていくには、原発を使い続けるよりお金がかかるとされているためだ。

 ただ、原発を維持する場合もこれらの費用はある程度必要だ。試算によれば、原発依存度を東日本大震災前とほぼ同じ25%とする場合も、電気代は1,2~1,7倍に上がる。つまり、原発を動かし続けても値げは避けられない。にもかわらず、10年との比較の「最大2,1倍」の数字だけが、抜き出されている印象が強い。

「半分」の試算も

 もともと原発がない沖縄電力の今年11月の電気代を、本土の6電力会社と比べてみると、月300㌔ワット時使う同じ家庭のモデルでおよそ1,12倍高い。原発を動かさないだけで、単純に料金が2倍になると考えるのは難しそうだ。

 7月に「原発をゼロにしても、電気代は現在の半分近くに減る」という試算も発表された。科学技術振興機構の低炭素社会戦略センターがまとめたもので、電気の単価は上がっても、家電製品や住宅の省エネが進めば、消費量は大きく下がるとも混んでいる。政府の試算には、こういった省エネの影響分は十分に織り込まれていない。

(朝日、2012年09月28日。渡辺淳基)

      関連項目

再生可能エネルギー一覧

斎藤孝氏の教育論

2012年09月28日 | サ行
 朝日紙のいじめ論の中で私の一番関心を持ったのは斎藤孝氏の考えでした。なぜかと言いますと、かねてから氏の教育論ないし教育技術は「体制内で自分の能力を伸ばす」ことを目的にしているのではないか、という疑問を持っていたからです。逆に言うならば、氏には体制批判の観点がないのではなかろうか、と思っていたからです。

 教育学者ないし教育者として有名に成った人、業績を上げた人にはこのタイプの人が多いからです。国語教育の大村はまさんがそうです。仮説実験授業の板倉聖宣(きよのぶ)さんがそうです。

 大村はまさんは、国語教育という箱庭の中をせっせと手入れをして見事な箱庭を作った人です。外部で嵐が吹こうが大雨が降ろうが、そういう事は無視してです。

 板倉聖宣さんは学生の頃、少しは学生運動に関わったようですが、すぐにこれはおかしいと気付き、自分は社会変革の「基礎」に集中すると決めて、それをし遂げた人です。

 私は、こういう生き方を必ずしも「悪い」とは思いません。或る意味で「賢明」だとさえ思います。日教組のように「教育を通して革命をする」などという不可能事を追求して、見事に敗北し、今では堕落してしまった運動を見るにつけ、身の程を知る事は大切だと思います。

 斎藤孝さんも司法試験を目指した事もあったようですが、途中から教育学に移ったようです。斎藤さんの今回の発言を聞いてみましょう。

    いじめられている君へ(斎藤孝)

 君が今、少しでも嫌な目に遭っているなら、けっして「大丈夫」と言ってはいけない。きちんと声をあげよう。まず、親に話す。「心配かけたくない」なんて思わないで。親は君が話してくれた方が安心なんだ。親はきっと一緒に怒り、行動してくれる。

 親から相手の親や先生に話してもらう。それで解決しなければ、校長、教育委員会、文部科学省と、より上の組織に訴えていこう。

 大丈夫。いま、大津市のいじめ問題が注目されている。この時期だからこそ、学校、教育委員会、文科省はいじめにしっかり対応してくれるはずだ。大津の悲惨な事件をむだにしないためにも、君が受けているいじめを訴えてほしい。

 いじめの多くは限られた時期、狭い人間関係の中で起こる。友達だと思ってる人からいじめられることも多い。その場合、「友達でいたい」と我慢してしまうから抜け出せなくなってしまう。でもさ、そんな友達、いなくたっていいじゃないか。もう、つるむのをやめてみてはどうだろう。

 孤立するのはさみしい? 「たとえ1人でも生きていくんだ」という独立心は、小学生や中学生にとっても大切なことだよ。

 読書をしたらどうかな。僕も子どものころ、さみしいときには本を読んだ。本は自分の世界を広げてくれたし、嫌な気持ちを軽くしてくれた。本があれば1人でも十分楽しかった。いや、読書に集中するために「1人でよかった」と思えるくらいだった。

 僕のお薦めは、「トットちゃんとトットちゃんたち」(黒柳徹子)、「だいじょうぶ3組」(乙武洋匡(ひろただ)、「心に太陽を 唇に歌を」(藤原正彦)かな。(朝日、2012年7月26日)

 これを読んだ感想の第1は、「やっぱりそうだったか」です。

 もし朝日から提示された3つの内のどれかを選ばなければならなかったからこうなった、と言うのなら、断れば好かったでしょう。

 第2に思った事は、そもそも斎藤さんにはいじめのひどさが分かっているのかな、という疑問です。斎藤さんは自分の学生で今、教師をしている卒業生たちを集めて、夏休みに何か、研究会みたいな事をしているのではないでしょうか。どこかで読んだ記憶があります。そこで、現役教師たちから、いじめの話は出ないのでしょうか。その痕跡が全然感じられません。斎藤さんの弟子たちは、そういう問題からは目をそむけて、「好い授業」だけに集中しているのでしょうか。

 いじめ問題の本質はどこにあるのか、私見を述べます。

 1、いわゆる「いじめ」は学校の中(広義)で起きます。あるいは、始まります。という事は、学校、いや校長に責任があるという事です。

 学校(校長)は保護者から子どもを預かっている間は、その子どもたちを守る義務があります。この「守る義務」とは、「悪い事をされないように守る義務」と「悪い事をしないように守る義務」の両方です。

 そのために必要な手段を講ずる義務と権限があります。私の見学したドイツの学校では、10時ころの20分間の大休憩のとき、生徒はみな校庭に出なければならないのですが、その時、何人かの先生が校庭のあちこちにさりげなく立って、生徒全員を監視していました。職員室には「監視」の当番表が貼ってありました。

 私は、監視カメラを設置しても好いと思っていますが、これには世間の反対もあるでしょう。教育問題に関する世間とやらの根本的な間違いは、「悪い生徒を好くするのが先生の仕事じゃないか」と言って、教員側に無限責任を押し付けることです。

 校長は、子どもを預かっている間に子どもを守り切れなかったならば、責任を取らなければなりません。これが根本だと思います。生徒が自殺したと言うのに、辞めもせず、給与を返しもしないのはおかしいと思います。

 2、学校教育は個々の教師が行うものではなくて、校長を中心とする教師集団が行うものです。校長に8割の責任があります。「組織はトップで8割決まる」のです。個々の教師の責任は小さなものです。

 最近、関西のどこかの高校でいじめ自殺をした生徒の母親が「学校は腐っている」とか言ったとか、ネット読んだ記憶があります。「学校」ではなく「校長」と言わなければなりません。

 外国はいざ知らず、日本では教師を批判することはあっても、校長を批判することはめったにありません。校長を「小天皇」視する雰囲気が無意識のうちに作られています。これを打破しなければなりません。

 地域住民は学校評価のホームページを作って校長に「真の情報公開」を要求し、校長のリーダーシップを不断に監視しなければなりません。サボリ校長ないし無能校長は教育委員会に通知して、交代を要求するべきです。ともかく、住民は学校の実態に無関心すぎます。

 3、こういう環境なり条件を整備することは教育委員会の仕事の1つです。そういう仕事の出来る人を教育委員に任命する事は首長の義務です。教育委員の条件の1つに「教育行政に精通している事」というのがあるはずです。

 教育委員会にこれが出来ないと分かった時には、教育委員会のほかに「何とか委員会」を作るのではなく、教育委員に辞めてもらって、有能な人を任命するべきです。

 4、教員の給与(年収)をかつての鹿児島県阿久根市の竹原市長がしたような形で、決算に基づいて、最後の1円まで発表しなければなりません。いや、給与だけでなく、退職金も年金も同じように発表するべきです。そうしたら、教員が、特に管理職がいかに優遇されているかに皆さんはびっくりするでしょう。

 以上4点が教育改革といじめ対策の根本だと思います。

       関連項目

職員の給与(阿久根市)

教員人事の真実

学校ホームページの必要条件

組織はトップで8割決まる

板倉聖宣と仮説実験授業


朝日のいじめ論

2012年09月25日 | ア行
 朝日新聞がいじめ問題で「いじめられている君へいじめている君へいじめを見ている君へ」というテーマで34人の著名人への取材記事を連載しました。その最終回に次の挨拶がありました。

──いじめをテーマに各界の著名人が子どもたちに語りかける連載は、本日(8月17日)付の最終回までに総勢34人を紹介してきました。

 連載は、大津市の中学2年生男子(13)が自殺した問題で、いじめに社会的関心が高まっていることを受け、7月14日付朝刊でスタート。スポーツ選手、作家、医師、タレント、学者……。さまざまな立場の人に、それぞれの体験談や意鬼を語ってもらいました。

 どうしてもこの間題に発言したいと、出張の日程をずらして取材に応じてくれた人、重病の家族を見舞いながら原稿を寄せてくれた人もいました。散々悩んだあげく、「もっと長い文章でないと、白分の考えを表現しきれない」と取材を受けるのを断念した人もいました。

 連載をまとめた本「完全版いじめられている君へいじめている君へいじめを見ている君へ」が9月20日に全国の書店で発売されます。新聞未掲載の文章や、2006年の同趣旨の連載も収録した集大成です。予価1千円(税込み)。(8月17日)(引用終わり)

 朝日紙はなぜこのテーマで取材したのでしょうか。私にはこれが疑問です。そもそも朝日は社説でこう述べていたはずです。「学校ばかりに責任を負わせることはせず、その地域で暮らす大人たちがいじめの問題に取り組むきっかけにする。子どもたちの異変に気づく機会を増やすことを考えたい」と。

 それならば、「学校へ」と「地域の皆さんへ」というテーマで取材するのが先ではないでしょうか。なぜ子どもたちへのメッセージを、いや、それだけを特集するのでしょうか。私にはこれが分かりません。

 私は「著名人」ではありませんんから朝日から取材を受けませんでしたが、もし受けたとしたらどうしたかと考えました。自分で書けるならば、「受けて、このテーマに関係なく自説を書く」が答えでした。載せてもらえるかは分かりませんが。

 ともかく、こういう企画を立てる事の中に朝日のこの問題への態度が出ていると思います。

 この34人の中で注目したのは斎藤孝氏でした。この事は回を改めて書きます。


いじめ問題の本

2012年09月23日 | ア行
           伊藤茂樹(駒澤大学教授)

 いじめがまたも問題化している。1980年代初めに社会問題となったいじめは、その後90年代中頃、2006年とそれぞれ自殺を機に問題化し、やがて沈静化することを繰り返してきた。しかレこの間、いじめの解明が進まなかったわけではない。30年の経緯を含めていじめ問題を概観するために、加野芳正『なぜ、人は平気で「いじめ」をするのか?』(日本と書センター)を薦めたい。

 人は昔からいじめたりいじめられたりしてきたが、いじめという言葉(名詞)はなかった。この言葉が使われ始めたのは80年頃で、昔からあっても特に関心を引かなかった現象を新たに問題と見なすようになったため、それを表す名詞が必要になったのだ。以後、いじめに関わる個々の子どものパーソナリティより、学校など、いじめが発生する「場」の問題と見る方向での探求が進んできた。

 学校の意味変化

 ここでは、森田洋司らによる「いじめの四層構造」が定説になった(『いじめとは何か』中公新書)。これは、被害者を中心に加害者、観衆(はやし立てる)、傍観者(見て見ぬふりをする)が同心円状に取り囲み、それぞれがいじめに関与していると見る。

 いじめの発生を社会学的にモデル化するアプローチを精緻に展開したのが内藤朝雄だ。『いじめの構造』(講談社現代新書)では、加害者の「全能感」を現実化する「群生秩序」(群れの勢いによる秩序)がいじめの発生と加速を促すことが説明される。

 昔からあったいじめがここ30年の間に社会問題となったのは、昔よりいじめが悪質化したからでも、自殺が起こり始めたからでもない。80年以前の壮絶ないじめの体験談はいくらでもあるし、それを苦にした自殺もあった。80年代以降の背景としては、いじめの主な発生場所である学校の意味の変化がある。情報化、消費社会化など社会の変化によって、かつて学校にあった輝かしさやありがたみは薄れた。なのに学校は変わらず、今も子どもに全人格的な帰属を強いるため、子どもが感じる閉塞感は増大し、学校内での問題行動が深刻化した。こうした文化的背景について、80年代前半に書かれた小浜逸郎『学校の現象学のために』(大和書房・品切れ)は今なお説得力がある。

 学校内外で子どもが生きる世界、特に人間関係のあり方も重要であり、土井隆義の論考が示唆に富む。互いに気を使い、察し合って「空気を読む」「優しい」関係と、自己への過剰なまでの関心が絡み合ったひとつの帰結としていじめがある。『友だち地獄』(ちくま新書)はこれを読み解いている。

 先行世代の責任

 こうした人間関係も含めて、子どもの間でのいじめの蔓延は、子どもに先行する世代と、彼らが作ってきた社会に由来する。先行世代が善意に基づいて子どもに送る多くのメッセージのうち、これを自覚していないものは自己満足に過ぎない。

 では、いじめにどう向き合えばよいのか。ひとつのヒントは国際比較にある。上述の森田らの国際比較によると、やはりいじめが深刻なイギリスやオランダでは、中学生になると傍観者は減って仲裁者(止めに入る)が増えるのに対して、日本では逆に傍観者が増えるという。空気を読み、大勢に順応するのが「大人」の振る舞いだという日本的な規範をしっかり身につけていく子どもがいじめを加速している。これを反転させることこそ先行世代の役目ではないか。

 いとう・しげき 63年生まれ。編著に『いじめ・不登校(リーディングス日本の教育と社会第8巻)』。

 (朝日、2012年09月09日。書評欄)

いじめ(02、朝日社説・生徒の死と向き合う)

2012年09月22日 | ア行
 なぜ、少年は自殺したのか。

 多くの人が胸を痛めているなか、教育現場や警察がなんとも情けない混乱に陥っている。

 昨年(2011年)10月、大津市で中学2年の男子生徒が自宅マンションから飛び降り自殺した。

 生徒の遺書はなく、直後から遺族の求めで学校は在校生にアンケートを実施した。

 「自殺の練習をさせられていた」「先生も見て見ぬふりをしていた」。友人らはそう回答したが、市教委はそれを公表せず、翌11月に「いじめはあったが、自殺との因果関係は不明」と発表し、調査を打ち切った。

 市教委は「伝聞の回答が多く、十分な調査ができなかった」とした。だが越直美市長が
その対応ぶりを批判すると、市教委は一転、アンケートは2回あったことを明らかにした。

 それには「葬式ごっこ」などという言葉もあったが、遺族には伝えていなかった。後手後手にまわる対応には組織防衛と責任逃れの姿勢が目につく。

 越市長は自殺の背景を調べるため、専門家による調査委員会をつくり、いじめの実態を改めて調べることを決めた。

 その矢先、滋賀県警は学校と市教委を家宅捜索した。昨年9月の体育大会で、同級生3人が生徒の手足を縛り、口を粘着テープでふさいだ暴行の容疑だ。

 いじめが背景にある事件では証拠の任意提出を受けるのが一般的で、強制捜査は極めて異例だ。教諭のノートなどを押収したが、それは任意で提供を求めてもよかったのではないか。

 県警は生徒の遺族から3回にわたって相談を受けながら、被害届を受理しなかった。そのことへの批判をかわすため、強制捜査に乗り出したと思われても仕方がないだろう。夏休みに在校生らの事情聴取を進めるというが、保護者の立ち会いのもとで慎重な捜査を求めたい。

 1人の少年の死に真正面から向き合おうとしているのか。

 教育現場や警察の混乱ぶりに目を奪われがちだが、重要なのは、なぜ生徒の自殺を防げなかったのか、ということだ。どの時点でSOSに気づくことができたのかをきちんと顧みれば、自殺を防ぐ手立てにつながるだろう。

 それは大津市の立ち上げる調査委員会に期待したい。専門家だけでなく、委員には校区の住民もいれるべきだ。

 学校ばかりに責任を負わせることはせず、その地域で暮らす大人たちがいじめの問題に取り組むきっかけにする。子どもたちの異変に気づく機会を増やすことを考えたい。

(朝日、2012年07月13日)

感想

 新聞の社説と言うのは、問題を「かなり」総花的にまとめてくれると思います。もちろん自分の知っている事などでは、「落ちている点」「落としている点」などもある事が分かりますが、知らない問題については、一応の出発点にはなると思います。私はそういう観点から社説を読みます。

 今回も結論を見れば分かるように、観点がお粗末ですし、そもそも熱意があるとも思えません。しかし、出発点としてともかく引いておきます。これから、いじめ問題を何回か取り上げます。

移轍(いてつ)とは何か

2012年09月20日 | ア行
 関口存男(つぎお)さんが初めて定式化したと思われる文法現象に移轍という現象があります。しかし、氏はこれについては雑誌『基礎ドイツ語』(三修社)の1952年4月号に詳しい論文を発表しただけでした。その後この論文が何かの本に収録される事はありませんでした。

 真鍋良一さんの編集で出ました雑誌『ドイツ語研究』(三修社)の第1号(1979年12月刊)にはその論文がそのまま再録されましたが、その雑誌は売れませんでしたし、雑誌自身が2号かそこらで終わってしまったはずです。そのためほとんど知られていません。

 その現象自体は難しいものではありません。読んで字の如く、Aという轍(わだち)を走っていた列車がBという別の轍に移ってしまうことです。文にも同じようなことがあるというのです。しかも、たまにあるという程度ではなく、沢山あるというのです。関口さんはこれを詳細に検討し、許されるものと許されないものなどに分類して論じています。氏らしい徹底性です。

 詳しくは近刊予定の拙著『関口ドイツ文法』に譲るとしまして、概略の概略の概略でもご紹介しておこうかと考えた次第です。

 関口さんが説明のために取り上げた実例は次の通りです。

 問い・Hast du noch Geschwister, Kleine ? (お嬢ちゃん、兄弟はいるの?)
 答え・Nein, ich bin alle Kinder, die wir haben.(家の子は私だけです)

 この「答え」の言い方が「移轍」なのです。なぜ、どういう風に移轍なのかを説明します。「子どもは私1人です」という意味の事を表現するのに、ドイツ語では差し当たっては2つの言い方があります。

A: Ich bin das einzige Kind des Hauses.
B: Das sind alle Kinder, die wir haben.

 子ども自身の立場で言うならばAと言うべきですが、親が言うならばBになります。Bは直訳するならば「子どもはこの子1人です」です。

 これを確認すれば、この子の答えがAで始まったのに、途中からBに移ってしまったことがお分かりでしょう。つまり移轍なのです。

 一般化しますと、同じ事を言う言い方として2つ(以上)の言い方がある場合(大抵そうです)、或る言い方で言い始めたのに、途中からもう一つの言い方に移ってしまう事です。

 この現象には国語学者の三上章さんも気づいていました。氏はこれに「途中乗り換え」という名前を付けました。名前まで実に良く似ています。氏の説明は次の通りです。

 A: 彼女があの夜のことをどれだけ苦しんだか知らない。
B: 彼女があの夜のことを苦しんだかどうか知らない
C: 彼女があの夜のことをどれだけ苦しんだかどうか知らない。

 AからBへの「途中乗り換え」でCの文が生まれる。

 日本語での最も一般的な移轍の例は「何々しない前に」という言い方だと思います。「何々しない内に」から「何々する前に」へと移轍したのだと思います。

 芥川の『杜子春(とししゅん)』の最後に次の文があります。

 ──その声に気がついて見ると、杜子春はやはり夕日を浴びて、洛陽の西の門の下に、ぼんやり佇んでいるのでした。霞んだ空、白い三日月、絶え間ない人や車の波、──すべてがまだ蛾眉山(がびさん)へ、行かない前と同じことです。──

 この「行かない前」とは「出発していなかったかつての時」という意味なのでしょうか。そうだとすると整合的とも言えると思いますが、普通は「行く前」の意味だと思います。つまり、「行かない内」から「行く前」に移轍したと取れると思います。

 さて私の気になっている例を1つ出してみます。赤川次郎さんが朝日紙にコラムを書いていたのですが、或る時、次の文に出会いました。「そして今年、3年ぶりの舞台がイプセンの『人形の家』とあっては、どうしても見逃せないものだった」。

 「どうしても見逃せない」と言う言い方があるのでしょうか。「どうしても」という副詞と「見逃せない」という否定のつながりが気になるのです。『明鏡』を引きますと、「どうしても思い出せない」と「どうしても見たい」とが載っています。後者も「どうしても見えない」と言えば、あるでしょう。

 つまり、「どうしても」が否定に続く場合は「出来ない」という場合だけらしいのです。しかもその場合は、「どうしても」とは「どんな事をしても」という意味でもその「しても」は時制としては現在完了的だと思います。

 それに対して、意思の場合は「どうしても何々しなければならない」「何々したい」と肯定形しかないのだと思います。又、同じ「どんな事をしても」でも時制としては未来か未来完了だと思います。

 つまり、先の赤川氏の文は「どうしても見なければならない」という言い方から、「絶対に見逃せない」に移轍したのだと思います、本来的には。

 しかし、これはあくまでも「本来的には」の話で、今ではこのように「絶対に」という強調の意味で「どうしても」を使う事も増えて来ているので、こういう表現もおかしいとは感ぜられなくなっているのだと思います。

 自信がある訳ではありませんが、問題提起とします。

付記

 目次を調べていたら、既に赤川さんの文については論じていましたが、今回の考えを書いたので、このままにします。

      関連項目

赤川次郎

非正規労働者問題

2012年09月16日 | ハ行
355万人が正社員になると…家計消費支出6・3兆円増加──厚労省試算

 正社員になることを望む非正社員355万人全員が正社員になると、国内総生産(GDP)の6割を占める家計消費支出を6・3兆円増やす効果があるとの試算を厚生労働省がまとめた。6・3兆円は2011年の実質家計消費支出(294兆円)の2・1%にあたる。

 09月14日にまとめた2012年版の「労働経済の分析」(労働経済白書)に盛り込んだ。

 パートや派遣などの非正社員は11年には1802万人で、労働者全体の35・1%を占める。厚労省の調査では、正社員を望む非正社員は2割程度。白書では男性145万人、女性210万人の計355万人が希望していると想定した。

 11年の非正社員の平均年収は男性が207・8万円、女性が139・4万円で、いずれも正社員の4割以下。355万人全員が正社員並みの賃金になると、可処分所得は計約11兆円増え、約6・3兆円が消費に回るという。
  (朝日、2012年09月15日)

  感想

 経済を活性化させ、世の中を安定させる方法は、非正規労働者を無くし、所得税の累進性を昔に戻すことだと思います。

 そうすると、上のように、需要が増えて内需中心の経済になります。又、貧困問題が解決される方向に動くと、社会的軋轢が少なくなり、犯罪等が減り、病気も減るので、その方面の経費が少なくて済みます。

一条堤の構想(その5)

2012年09月14日 | ハ行
 01、起工式

 浜松市の遠州灘沿岸に、静岡県が民間寄付約300億円を元手に防潮堤を整備する構想の着手式が11日、同市南区の遠州灘海浜公園で行われた。

 川勝平太知事や鈴木康友浜松市長ら県市関係者ら約70人が出席。300億円を寄付する浜松市創業の住宅メーカー一条工務店の宮地剛社長と、寄付を仲介した鈴木修スズキ会長兼社長らも招かれ、記念のくい打ちをして事業の成功を祈った。

 あいさつで川勝知事は「官民挙げて防潮堤建設を進めたい」と決意を表明。鈴木市長は「沿岸の住民にとって心強い事業になる」と期待感を語った。

 防潮堤は浜名湖の今切口から天竜川まで浜松市域の17,5キロに整備する。規模などの詳細は、来年に県がまとめる新たな津波被害想定を受けて決めるが、事業を速やかに進めるため、事前の土質調査などを行う。

 堤はコンクリート造りでなく盛り土を想定しており、その土砂は、浜松市が天竜区の阿蔵山土地開発事業用地から調達する方針。

 また県は、浜松市以外に静岡市や牧之原市沿岸などでも調査を行い、津波対策を検討する。(中日新聞、2012年09月12日)

 02、川勝知事からの返事

 牧野紀之 様

先日、知事あてにいただいたメールについて、知事からお返事するよう指示がありましたので、担当する河川企画課、河川海岸整備課及び広報課からお返事いたします。

はじめに、牧野様からお問い合わせいただきました御意見について回答が遅れましたことをお詫び申し上げます。

静岡県では、東日本大震災を受けて、対策が必要な約280kmの海岸線について、再点検を行ない、第3次地震被害想定における津波高に対し、高さが不足している区間の嵩上げや、既存公共土木施設等への津波避難用階段の設置など、短期的対策を鋭意進めているところであります。

また、現在、静岡県第4次地震被害想定の策定作業を進めており、今後は、南海トラフの巨大地震などにより発生する、最大クラスの津波が越流しても破壊されず、粘り強く効果を発揮する構造とする津波対策施設の補強や新たな想定に基づく津波対策施設の整備など、抜本的対策を進めることとしております。

浜松市沿岸域における防潮堤整備にあたりましては、防潮堤の構造や整備に必要な土砂の確保、地元との合意形成など、様々な調整事項がありますことから、県及び浜松市の関係部局が一体となって、防潮堤整備案を早急かつ円滑に進めることを目的としたプロジェクトチームを立ち上げ、これらの検討に着手したところであります。

したがいまして、牧野様の御希望される暫定案につきましては、発表までに時間をいただくことを御理解願いたいと思います。

なお、牧野様から御提案をいただきました「いのちの森の防波堤」につきましては、がれきを堤防の材料とする場合、環境の問題に加え、技術的にも解決すべき問題がございますので、関係部局と連携し、防潮堤整備を検討する作業の中で参考とさせていただきます。

県としましては、県民の力を結集して、私たちのふるさと静岡を守るため、防潮堤などの津波対策を推進していかなければならないと考えておりますので、今後とも御意見、御要望につきましては、県にお寄せください。

次に、県庁内のメールでの質問や意見に対する対応ですが、寄せられる質問や意見の内容も様々であり、事業を担当している部署が最も的確に判断できるため、各部署ごとに対応しているところです。

なお、県政に対する御意見や御要望等をお受けする窓口である広報課県民のこえ室におきましては、お寄せいただいた御意見等を担当する部署に伝え、原則1週間以内にお返事するよう依頼しております。しかしながら、内容によってはお返事できない場合や日数がかかってしまうことがありますので御理解いただければと思います。

今後とも県政に御理解と御協力をいただきますようお願いいたします。
平成24年9月13日
           静岡県交通基盤部河川砂防局河川企画課長 鈴木 克英
河川海岸整備課長 桜井 孝洋
企画広報部広報課長兼県民のこえ室長 高木 利夫

 03、感想

 川勝知事に一縷の望みを抱いてメールを送ったのですが、今や完全に丸投げ知事になったようです。

全国学力調査

2012年09月10日 | カ行
 2年ぶり5回目となる全国学力調査の結果が出た。今回も、知識を活用したり、文章で説明したりすることが苦手な子どもたちの姿が浮かんだ。応用問題や記述式に弱い傾向は初回から続く。調査を繰り返しても、指導法や政策の検証・改善につながっていない。

 全国学力調査は「何のために」「どのように」実施するのか、当初から揺れ続け、今に至っている。

 2004年に実施方針を示した中山成彬文部科学相(当時)は、目的について「教育現場で競争意識を高めてもらうため」と説明した。しかし、全員参加方式をめぐり、学校現場からは「1960年代の学力テストと同じで、市町村ごとの序列化につながる」との批判が出た。文科省は「競争が目的ではない」と軌道修正し、都道府県別の結果を発表する一方で、市町村別の公表は禁じた。橋下徹・大阪府知事(当時)らから市町村ごとの公表を求める動きが出て物議を醸した。

 2009年に民主党が政権をとると、「抽出方式で十分」として全員参加を廃止。抽出した約3割を対象に実施することで、予算を約58億円から約35億円に減らした。ところが、専門家から「数年に1度は『きめ細かい調査』が必要」と指摘されると、文科省は全員参加の復活を決め、教科も増やすことにした。理科は今年は導入したが、来年は実施しない。

 年によって「全員」と「3割抽出」を使い分ける意味はあるのか。来年は、家計状況を聞く保護者アンケートと、学力の経年変化をたどるための非公開問題による調査も合わせて行うというが、こちらの抽出率は2~3%程度だ。規模や目的にまったく一貫性がない。

 文科省は、都道府県ごとの比較には約3割の抽出率は必要だという。ただ、上位と下位のグループはほぽ固定している。結果を見る限り、都道府県の教育政策の検証、改善のサイクルがうまく回っているとは言い難い。抽出されなかったために自主参加する市町村や学校も多いが、「隣も参加するから」という横並び意識がのぞく。「子どものため」かどうかは疑問だ。

 メリットが見えず、手法も定まらない。いったん廃止し、ゼロから制度設計し直してみてはどうか。
      (朝日の解説、2012年08月09日。花野雄太)

              関連項目

犬山市の教育


三無主義市民の見本

2012年09月09日 | ナ行
 「晴男」さんという名前の方から6月29日付けで次のコメントをいただきました。題(件名?)は「お久しぶりでございます」でした。

     記(「晴男」さんのコメント)

 浜松市のツイッター、フェイスブック、ブログ等の職員(市長、部長級も含みます)の利用について本日のyahoo!ニュースで記事が掲載されておりました。/ 7月1日より開設とのことです。/ ふと、牧野さんの事思い出しましたので紹介させていただきました。産経新聞へのリンク(省略)/ その後、御活動の方はどうでございますか? 6月29日(引用終わり)

 この方は昨年(2011年)春の浜松市長選に私が「仮」立候補した際、ネットでその事を知って、接触してきた方です。いくつかの質問とかをいただきましたが、返事をするに値しない内容でしたのでろくな返事もしなかったら、段々離れていったのだと思っていました。このコメントの2カ月位前に1度、内容のないコメントを下さいましたが、掲載しませんでした。それがこちらに着かなかったと思ったのか、「お久しぶり」と言ってきたのだと思いました。

 今回のコメントも、公開するか迷いましたが、公開しました。こういう記事を書く事になるだろうと思ったからです。

 この方の特徴の第1点は、言うべき人(浜松市政を考える場合には市長および教育長)に言わないで、言いやすい人に、最も悪い場合には市長への対抗馬にだけ言う、ということです。これはこの方だけではありません。臣民根性に冒された多くの人に共通の態度です。

 学生でも同じです。私が学長批判をするのが厭だと言って出席しなくなった学生がいます。私を嫌ってくれる学生はアレコレと理由を付けて牧野批判をしてくれます。「間違いを見つけたから、言ったまでだ」とかです。これに対しては「まず学長の間違いを指摘するのが学問的に正しい順序だ」と言います。

 「語学のクラスは今後40人の少人数クラスにする」と言ったのを守らない学長を批判すると、「生徒の数が何人でも同じように授業をするのがプロだ」と強弁するウマシカもいます。親の顔が見たいとはこういう人の事です。

 わき道に逸れすぎました。浜松市のフェイスブックを「晴男」さんはなぜ私に「紹介」したのでしょうか。「鈴木康友市長は牧野さんの言うような『丸投げダンマリ市長』ではありませんよ」と言いたかったのでしょうか。

 まともな市民なら、市長に対して、「『マキペディア』にこういう記事がありますよ。読んで考えたらどうですか」と「紹介」するのが普通でしょう。方向が逆なのです、三無主義市民の「晴男」さんは。

 第2の特徴は、これが一番問題なのですが、そのフェイスブックが実際に始まる前に、つまり「実際はどうか」が判明する前に、行政の発表を受け売りした新聞記事をそのまま紹介したという事です。そして、始まってから既に2カ月も経つのに、「実際がどうか」を検証せず、従って自分の「紹介」行為が正しかったか否かを反省していないことです。自己反省がないから、いつまでたっても進歩しないのです。無責任市民の「晴男」さんは市長や教育長と同じです。やりさえすれば後はどうでもよい、という考えであり態度なのです。

 いや、多くの国民がこのレベルです。「民主党にはガッカリした」とは言いますが、続けて「民主党のだらしなさを見抜けなかった自分にもガッカリした」という反省は聞いた事がありません。これだからいつまでも同じ間違いを繰り返しているのだと思います。

 第3の特徴はこれと関連しています。なぜ反省しないかと言うと、自分の考えを言い、立場を明らかにするのが怖いのです。選挙の時も、質問ばかりして、「これが分からなければ、牧野さんを支持して好いか判断できない」と宣(のたま)わっていました。こういう人は要するに勇気がないのです。生ける屍なのだと思います。

 選挙の時に「晴男」さんの質問してきた問題の1つを覚えていますが、「高校生に耐震補強工事をやらせる、と言うが、事故が起きたらどうするのだ」というものでした。私が「家族で話し合ってみたら」と返すと、「高校生の息子も同意見だった」と言ってきました。「この親にしてこの息子あり」ですね。

 私は大工仕事が好きです。小屋くらいならいくつも建てました。今の家の8畳の物置は最大の作品ですが、この時は私が「棟梁」で、実際に建ててくれたのは当時、好く来ていた仲間の学生などです。物置と言っても3寸角を使った立派なものです。棟上げの時は大変でした。脚立とかいった道具が足りないからです。棟木を上げるのに1度目は失敗しました。台は崩れ、皆落ちました。それでもくじけず、慎重な準備をやり直して2度目に成功。あの日の夕食は盛り上がったよなあ。

 その時のメンバーの1人であるSさんは政治家を目指し、卒業後アメリカに武者修行に出かけました。語学学校に通った後、ホームレスのために家を建てるボランティア活動に参加しました。帰国後、「引佐での経験が役立ったよなあ」と言っていました。「事故が心配だった」というような言葉は1度も聞いた事がありません。

 昔の木造家屋の耐震補強工事では事故の心配はほとんどありません。大工さんに聞いて見ればわかる事です。事故の心配などというものは、自分で調べもしない無関心市民の晴男さん家族だけの話でしょう。そういう人は参加してくれなくていいです。やる気のある人だけでやりましょう。これより大きな問題は柔道の授業です。晴男さんはこっちを問題にするべきです。

 もう1つの問題は、「馬込川を憩いの川にしよう」という私の提案に関してです。晴男さんが何を言ってきたのか忘れましたが、私が「馬込川の土手を歩きもしないで」と言ったのに対して、「自分は(浜松市の)南区に住んでいて、何度も通った事がある」と言ってきました。

 「馬込川の土手を歩く」というのは、そこを歩いて「好い河だな」と感心したり、「自転車と歩行者が共存するには道幅をどの位にしたらいいかな」と考えたり、「夏のためには木陰を多くするべきだな」と提案したりすることを言うのです。何も提案がないということは、「物体として場所の移動をした」という事です。浜松のお粗末教育を受けると、この2つを区別する事もできない「人間の形をした物体」が出来上がるようです。

 どこにでも真面目な努力をしている人の足を引っ張る事に快感を覚えるおかしな人はいます。黙殺するのがベストでしょうが、たまにはどこがどう間違っているのかを分析しておく事も必要かなと思いましたので、書きました。

         関連項目

醜い日本人

地震対策

馬込川を憩いの川に

偽善とは何か

川勝知事への再度のメール

2012年09月08日 | カ行
注釈・川勝知事に再度、メールを送りました。8日午前9時43分現在、まだ返事がありません。

川勝知事殿
 前略
 私は8月3日に下記の質問をメールで送り、今回は「お返事をいただきたい」と付記したにもかかわらず、未だに返信がありません。

 第1点。改めてお返事を下さるようお願いします。

 第2点。静岡県庁では他の部署でもメールでの質問や意見に対する対応が不親切です。次の「職務規律」を確立してくれませんか。

 ──県民からメールで質問や意見を受けた場合には、直ちに「メールを受け取りました。1週間以内にお返事します。1週間以内に返事を送れない場合には改めてご連絡します」との「受け取り確認メール」を送り、その言葉を実行する。──

 第2点についてのお返事も下さい。

         記(8月3日のメール)

 前略。一条工務店が浜松地区の沿岸に防波堤を作るために300億円の拠出を申し出たことは、県民として、又浜松市民として、とてもありがたく嬉しいことです。
 しかし、心配な事もあります。それはどういう防波堤を築くのかという事です。
 7月14日付けの朝日紙によりますと、同工務店は「高さ15メートルの土塁」を考えたそうですが、その後、「静岡県及び浜松市と建設計画を練った」そうです。
 どういう防波堤になったのですか。暫定的な案を発表して下さいませんか。
 敢えてお願いをお伝えします。
 今、東北被災3県の沿岸に「宮脇方式」によって「いのちの森」を作る運動が急速に広がっています。「一条堤」もこの「いのちの森の防波堤」にして下さいませんか。
 インターネットで「いのちの森プロジェクト」と入れて検索すると、詳細が分かります。
 くれぐれも間違った選択で悔いを残す事のないように祈っています。

 なお、同じお願いは同工務店社長と浜松市長にも送っています。
 今回はお返事をいただきたいです。よろしく。8月3日、牧野 紀之(引用終わり)

9月7日、牧野 紀之

浜松市北区引佐町東久留女木307-2
電話・FAX・053-545-0512



イスラエルからの援助の申し出

2012年09月07日 | ア行
                           石合 力

 7月末、日本に一時帰国した際、イスラエルのベンシトリット駐日大使から、こんな話を聞いた。

 昨年(2011年)3月、東京電力福島第一原発の事故が起きた際、日本政府に対し、イスラエル製無人機の活用をいち早く進言していたというのだ。

 中東のシリコンバレーとも言われるハイテク国家イスラエルは「テロ、治安対策」から無人機の開発を進め、米国と最先端を競う。映像情報を送る昆虫大の超小型機。路上の不審物を破壊する小型戦車。イスラエルと敵対するイスラム勢力ハマスの幹部らを上空から識別し、その場で暗殺できる攻撃機もある。

 大使によると、3・11から数日後、以下の無人機の活用を申し出たという。

 ①原発上空から撮影と放射能測定ができる小型航空機
 ②原発内部に入り、映像を撮影できる小型車両
 ③原発に冷却水を注入する配管を上空から敷設するためのヘリコプター

 「国家の非常時にあらゆる手だてを尽くすのは当然のこと。日本政府関係者は皆、考えに賛同してくれた。でも、だれも使うことを決断しなかった」と大使は振り返る。

 経緯を知る外務省高官によると、首相官邸の対策チームに大使からの非公式の打診として伝えたが「必要性はない」との結論だったという。

 確かに事故直後から、米空軍の無人偵察機グローバルホークが上空から原発を撮影していた。ただ、同機に比べ、小型無人機ならばるか近くに接近できる。そのころ、原子炉を冷却するため、東京消防庁の職員らは地上から、自衛隊の有人ヘリは上空から、文字通り命がけで水をまいていた。無人ヘリを使って、外部と原子炉をつなぐ注入管を敷設できたならば、事態は違っていたのではないか…。

 輸送時間や技術的な問題を含め、仮定の話である。無人ヘリによる配管作業の可能性について、この高官は「聞いた覚えがない」と話す。そもそも、日本にも無人機技術はある。日本製の無人機や小型車両による原発の上空、内部の撮影は、その後実現した。大使はいう。「こちらが伝えたアイデアが2週間くらいたってから、実行された」。

 1970年代の石油ショックと、産油国のボイコット戦略を恐れて、控えめだった日本の対イスラエル外交は1993年のオスロ合意で中東和平が動き始めてから変わった。「アラブか、イスラエルか」ではなく、「アラブともイスラエルとも関係を強化する」方向に舵を切った。米国の同盟国イスラエルと積極的な情報共有をすすめ、情報機関モサドと日本の内調(内閣情報調査室)は、トップ同士が会う関係にある。今年は、両国の国交樹立60周年。その関係は非常時に、どこまで生かされたのだろうか。

 イスラエルが真っ先に手をさしのべた理由は外交戦路上の利害だけではないはずだ。第2次大戦中、リトアニアの領事館でユダヤ人約6000人に日本の通過ビザを発給した外交官杉原千畝(ちうね)。「日本のシンドラー」スギハラの名前は、エルサレムのホロコースト博物館に残る。

 「スギハラの恩返し」は無人機提供としては実現しなかった。ただ、無人機とは別に、大使が日本側に申し出た医療支援は、宮城県南三陸町で例外措置として認められ、イスラエル軍医療団約50人の活動として実現した。
  (朝日、2012年08月20日。中東アフリカ総局長)

 感想・原爆を持っている事は周知の事実とされるイスラエルの軍事力のレベルに驚きました。もちろん実際はこれ以上でしょう。

水うちわ

2012年09月06日 | マ行
 透けるように薄い和紙が特徴の「水うちわ」は、岐阜で生まれた。明治半ば以降、船で長良川の鵜飼いを見物する人たちが、水うちわを川の水でぬらし、あおいで風流を楽しんだという。一度は途絶えたが、10年ほど前に復活。生産量も少しずつ伸びている。

 水うちわに使われる和紙は「雁皮紙(がんぴし)」で、山に自生する低木ガンピの皮が原料だ。岐阜県美濃市の手すき和紙工房「コルソヤード」の澤木健司さん(32)と倉田真さん(33)は、6年前からガンピ100%の雁皮紙を作っている。

 水うちわを製造する岐阜市の家田(いえだ)紙工の家田学社長(51)からの依頼が発端だった。当時、美濃に雁皮紙の職人はおらず、2人は過去に作った経験をもつ師匠たちに頼った。「サッとすいて」「ひょひょひょっとな」。そんな表現をもとに試行錯誤を重ねた。「想像して、手探りで積み重ねてきました」と倉田さんは振り返る。

 和紙の原料で一般的なコウゾ、ミッマタに比べ、ガンピの皮の繊維は細くて薄い。密度が高く、強度と透明感のあるフィルム状の紙ができる。

 だが、ガンピの木は細くて傷つきやすく、皮にはゴミが多い。冷たい流水の中で汚れや傷、小さなちりを取り除く下処理に、他の原料の3~4倍は時間と手間がかかる。すくときは粘り気があって水が抜けにくい。1枚ずつ天日に干す際に破れるものも多く、当初は9割が失敗作だった。

 「年々上達していますし、まだ新しい発見があります」と澤木さん。大量生産できないため、夏前に売り切れる水うちわも多いという。

       (朝日、2012年07月19日。坂本亮子)

命を救う場をもっと

2012年09月05日 | カ行
親に見放されて失われる赤ちゃんの命を何とか救いたい。そのためには、切羽詰まった親たちの相談に乗り、赤ちゃんを託すこともできるような場がもっともっと必要だ。

 厚生労働省の先月末の発表によれば、子どもに対する虐待は増える一方だ。死に至る例も、2010年度には前年より10人多い98人にのばった。

 無理心中も半分近いが、それを除く51人中、0歳児が23人と最も多く、生まれたその日に亡くなった子も9人いた。0歳児の場合、望まない妊娠や10代での妊娠が多いという。

 こうした赤ちゃんの命を救おうと、熊本市の慈恵病院がドイツの例にならい2007年春に始めたのが「こうのとりのゆりかご」だ。子どもを物扱いするような「赤ちゃんポスト」の通称は、病院では使わない。親が匿名で赤ちゃんを託すことのできる、まさにゆりかごとしての役目を果たしてきた。

 今年3月末まで約5年間に預けられたのは83人、大半が新生児だった。69人はその後、身元が判明した。子どもたちは児童施設や、特別養子縁組をした親や里親のもとで暮らしている。

.熊本県をふくむ九州からは3分の1ほどで、近畿や関東など九州以外から預けにくる人の方がむしろ多かった。自宅や車中での出産や長距離の移動で、幼い命への危険もあった。

 病院では、困ったらまず相談をと、電話の相談窓口も設けている。こちらには北海道を含む全国から、毎年500件を超す相談が寄せられている。

 蓮田太二(はすだ・たいじ)院長はこうした現状から、相談窓口の充実に加え、赤ちやんを受け入れる場所が全国に何カ所か必要、と話す。

 児童相談所を通じて子どもたちへの対応に責任を持ち、ゆりかごの検証作業も担う熊本市は6月、検証に国も加わるなど積極的に関与するよう求める要望書を、厚生労働省に出した。

 問題の深刻さを考えれば、もはや一つの病院や自治体に任せてすむ話ではない。子どもの安全に加え、親の匿名性と子どもの出自をめぐる課題もある。子どもの福祉のため、国としての責任ある対応が求められる。

 この構想には当初、捨て子を助長するという批判もあった。しかし、生活に困ったり、未婚で育てられなかったり、どうにもならなくて駆け込んでくる例がほとんどという。

 望まない妊娠をした女性たちが相談できる窓口を全国で充実させ、養子縁組などにつなぐ。一時的に母子を受け入れる場所ももっと必要だ。

 (朝日、2012年08月05日。社説)

    感想

 熊本県のこの病院に続く所が出てこないのは残念です。

徳島県神山(かみやま)町の引力

2012年09月03日 | カ行
 四国の山間にある小さな町が都会の企業を引き寄せている。
              
 清流と緑が美しい徳島県神山町。

 人口6000人余のごく平凡に見えるこの町に、東京のITベンチャーほか計7社が相次いで空き家を借りてサテライトオフィスなどを構え、わずかながら人口も増え始めた。

 10年ほど前から、民間主導で無名の芸術家や芸大生に創作の場を提供する活動を続けている。縁のできた芸術家から移住の希望もあり、空き家のあっせんもしてきた。

 その活動を担うNPO法人グリーンバレーが、働き方研究家の西村佳哲(よしあき)さん(48)らの助けも借り、ソフト開発など創造的な仕事をする人材を呼ぶ「イン神山」をネット上に設けた。そして反響が広がっている。

     
 理事長の大南信也おおみなみしんやさん(59)は、移住や進出の希望者にも下手に出な
い。熱意や能力、目的意識、田舎暮らしへの相応の覚悟をみる。補助金などのアメでつらない。空き家には限りがあるし、何より利害が先立つと信頼関係が崩れやすい。

 この姿勢が創造的な人たちの共鳴を呼び、「田舎で新しいことを」という意欲を触発しているようだ。

 町役場はNPOに任せきりだ。進出企業の社長はだれも、町長と面識がない。それで支障はない。知恵と情熱を誘致する新しい現実が始まっている。

      (朝日、2012年08月23日。窓、川戸和史)

感想・過疎地の活性化には「適任のマネジャー」が必要なのだと思います。しかし、そういう人が自然に出て来てくれることを待っているのでは解決しないでしょう。私の考えは、「屯田公務員」です。

       関連項目

過疎対策