マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

内閣法制局(その2)

2010年06月27日 | ナ行
 内閣法制局の定員は77人。キャリア官僚は独自採用をせず、各省庁から参事官(課長級)以上を出向で受け入れている。ただ、戦後生まれの防衛、環境両省には参事官ポストはない。「法律案件がさほど多くない」 ためという。

 この参事官を約5年務めて出身省庁に戻るのが通例だが、「法律にたけている」と目をつけられると、法制局幹部の登竜門とされる総務主幹に起用され、その後の「出世」の道が開ける。こうしたリクルートシステムの中で、明治以来の組織文化が維持されている。

 ふだんの仕事では、憲法や法律の解釈についての「意見事務」より、政府提出法案を事前にチェックする「法令審査」の比重が大きい。各省庁がつくった原案をまな板にのせ、法制局と省庁の担当者が「読会(どっかい)」と呼ばれる会合を開いて、ひざ詰めの検討を繰り返す作業だ。

 例えば、今年3月9日に閣議決定され、5月12日に成立した「改正金融商品取引法」。金融庁から内閣法制局に相談があったのは昨年夏だった。リーマン・ショックのときに当局も金融派生商品(デリバティブ)取引の実情をつかみきれなかったことを教訓に、デリバティブの監視や証券会社の監督を強めようという狙いだった。

 法制局側で金融庁所管の法律を担当するのは第三部。財務省出身の参事官が、まず金融庁の課長補佐と向かい合う。法制局側が課す最初のハードルは「その政策を実行するために、なぜ法律が必要なのか」だ。この場合は「本来自由であるべき取引に制約を課すのには法律の規定が必要」ということでクリアしたが、この段階で法案作成を断念させられることもしばしばあるという。

 次の関門は、法案の大枠づくりだ。金商法改正では、企業をグループとして監督する仕組みをどうつくるか、といった点が議論になり、一部で原案が修正された。 全体の枠組みが固まると、最後は逐条審査だ。改正金商法は昨年11月ごろから、金融庁が作成した個々の条文の素案について、用語の使い方、章立てなどをチェック。法案が最終的に固まったのは2月。読会は40回近くに及んだ。最後に長官が目を通して、決裁印である「太鼓判」を押す。そこでようやく閣議にかけられることになる。

 今国会に提出された法案のうち、政府提出の法案は63件。総務省、外務省、財務省などの法律を所管する第三部はうち23件を扱った。法案1本ごとに同様の作業が繰り返されている。

 審査は連日深夜に及ぶことも珍しくないという。法案によっては、省庁の原案に、法制局の意見や疑義がびっしり書き込まれる。

 法制局側は「条文を新設、改正、削除することで調整が必要になる他の法律の条文の有無に電光石火のように気づく知識と豊かなリーガルマインドが必要」(参事官経験者)と胸を張る。一方、省庁側の審査経験者には「まさに『霞が関文学』の権化。若手官僚にとって、法制局を相手にするのは死ぬ覚悟だった」といった声もある。

★ 内閣法制局長官の待遇

 内閣法制局長官は、特別職の公務員としては、官房副長官や宮内庁長官などと同格。月額給与は144万4000円で、国会議員の歳費(129万7000円)を上回る。これだけでも、政治家の中には「国会議員より高収入の公務員がいるなんて」などと問題視する声もある。

 さらに権力を象徴するように言われてきたのが、五反田・池田山の高級住宅街にある旧長官公邸。延べ床面積1555平方メートルの白亜の御殿は、複数の会議室や、11台の地下駐車場を備え、建設費は11億円。公邸廃止の政府方針に伴って会議室として使われるようになったが、2002~05年には小泉元首相の仮公邸に。「総理大臣公邸より、官房長官公邸より、官僚の公邸の方が上なのかなあ」という小泉節のために、かえって「豪華すぎる官僚公邸」の代名詞になった。

(朝日新聞globe、2010年06月14日)
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法人税引き下げ問題

2010年06月25日 | ハ行
 アップル(米)6・3%▽ノキア(フィンランド)2・4%▽サムスン電子(韓国)1・7%▽パナソニック(日本)1・6%▽ソニー(同)l・3%。

 世界のエレクトロニクス企業の納税額の売上高比率を計算してみた(2007年度と09年度の平均。08年度はリーマン・ショックの影響が大きいため除いた)。

 この数字を眺めると、日本の法人課税(地方税も含む)は重い、という「常識」とは異なる姿が見える。売上高から税金をどれほど払っているのか、つまり人件費などと同じようにコストとして見ると、多機能携帯端末のiPhone(アイフォーン)やiPad(アイパッド)のヒットで好業績をあげ、税引き前の利益率が20%を超えるアップルが最も税金を払っている。
 サムスンも、韓国の実効税率は24・2%と低いが、利益率は9%台と高く、納税額の水準は日本勢を少し上回る。日本勢は税率(40・7%)は高いが、各社の利益が少なく、実際に支払う税額は少ない。

 「日本の法人課税の税率は諸外国に比べて高い。税率を下げて、競争力を増さなければならない」。経済界も政治も同じ方向を向いている。政府は成長戦略に法人税率下げを盛り込んだ。税率下げは企業負担を軽くし、確かに競争力を増すが、実際の効果が大きいかどうかは話は別である。

 日本企業の利益率は世界の優良企業に比べて低い。一方、アップルは日本勢が赤字に沈んだ08年度も20%を超える利益率だった。付加価値の高い商品を生み、利益を得て、税金を払っても再投資に回す資金が十分残る、という好循環を維持している。

 こうした経営ができるのは、消費者が飛びつく商品やサービスを提供し続ける経営力があるからだ。初代iPhoneの発売からすでに3年。今年になってiPadも発売した。かつては家電・オーディオ分野で世界をリードした日本勢からはアップルに対抗する商品は出てこない。日本勢の苦境は税率の高さが主因ではなく、経営力が劣っているということに尽きる。

 人口が縮小する国内市場で多くの企業がひしめく日本は過当競争を招きがちだ。そこで体力をすり減らしていることも、新しいビジネスモデルを築けず競争力をなくしている一因だ。付加価値の高いビジネスモデルを富につなげる経営力を発揮する会社に進化する努力こそが大切なのだ。経済界は競争力アップのため、法人税率の引き下げを求めているが、まず利益率を引き上げるように知恵を絞るのが先である。

 税率が高いから日本勢からiPadが生まれなかったわけではない。税率を下げればiPadが生まれる保証もない。5%の法人税率下げで1兆円の財源がいる。減税の費用対効果を見極める「仕分け作業」が必要だ。

  (朝日、2010年06月22日。安井 孝之)
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悪しき日本の行政慣習(愛知万博)

2010年06月24日 | 読者へ
          團 紀彦(談)

 建築家としての理念を貫くために、そして国際社会への倍額を裏切らないために、私が長い闘いをしエネルギーを費やした愛知万博にかかわる顛末をお伝えしようと思います。なぜなら、そこには良くも悪くも仕事に対する私の姿勢が表れているからです。

 2005年に開催された愛知万博が、もう一つの立候補地・力ナダのカルガリーと誘致を競ったのは1997年のことです。日本では私を含めて3人の建築家が選ばれ、またテーマは「自然の叡智」と決定されました。当初の建設省(現・国土交通省)の原案は、万博を足がかりにして山全体を開発・宅地化するというものでしたが、「山の地肌を全部出した上で環境問題を論じるなど、世界から見たらいかにこっけいなことか」と私たちは反論したのです。もちろんその案で誘致を勝ち取るなど到底無理な話でした。

 そこで新たに、会場内を通る既存の2幹線道路の内側に住宅を集め、残りのランドスケープはそのまま守る案を作りました。通商産業省(現・経済産業省)がこちらの案を推してくれて博覧会国際事務局(BIE)にプレゼンテーションし、「豊かな自然を活かす万博」と高い評価を得て日本が開催を獲得します。

 しかし日本誘致が決定した瞬間から建設省主導へと切り替わり、全体を造成する案へ逆戻りしていった。プレゼンテーション案は誘致を勝ち取るためであって、誘致さえしてしまえば当初の平場造成案でやると言うのです。それでは世界に対してうそをついたことになります。「環境に新しい示唆を与える」と評価された日本への信を裏切ることになります。黙って引き下がるわけにはいきませんでした。

 建築家は環境を考えるフロントにいると思っています。すべての自分の仕事には環境を考慮する責任がある。が、3人の建築家のうち1人がその理念を捨て、当初の全体造成案にくら替えして、まず建築家仲間が対立する構造になりました。大きな流れが国主導で決定してしまうと勢いが付いてくる。異議を唱える声などかき消されていくのですね。

 しかし実際に動き出すと、世界自然保護基金(WWF)などが気付いて連絡をしたことからBIEが不信感を抱き、調査団を組んでやって来ました。調査団は誘致案と違うことに憤り、日本側は微調整だと言い逃れる。その後非公開の議論が2年間も続いて、私にとっても無益なつらい日々が過ぎ、本来の建築の仕事も手につかないほどへきえきしました。

 やがて市民の人たちも、「おかしい」と言い始め、結論から言えば候補地の一部である「海上(かいしょ)の森」の自然破壊だけは食い止めることができたのです。わずかな成果かもしれませんが、でも私たちが提案した魚雷の一発が命中したという感じがします。

 巨大な相手と長い年月を闘う間、何度も「相手はクライアントだ」「反対ならやめればいいじゃないか」と言われました。しかし、それでも仕事とは、自分の理念を掲げてするべきだと思っています。 
  (朝日、2010年06月20日)
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リサイクル小史

2010年06月23日 | ラ行
 1990年代半ばに幕を開ける本格的なリサイクル時代。その原点をたどると、1975年に静岡県沼津市が始めた挑戦的な試みにさかのばる。

 「混ぜればごみ、分ければ資源」。各家庭がごみを出す際、瓶と缶と古紙は別にする。今では当たり前の「資源ごみの分別収集」を、全国に先駆けて始めたのだった。

 「ごみの集積場を迷惑がる住民たちに理解を求めたい。清掃職員らのそんな問題意識が発端だった」。ごみ問題に詳しい早稲田大教授の寄本勝美さん(70)は振り返る。職員たちが「売れるごみ」を抜き取って余得としていたのをやめ、市の正規事業とした。住民らも世話役を買って出た。「全国から視察が来て、それは誇らしい光景だった」。

 住民がごみを分別し、再資源化につなげるシステムを作り上げた。ただ、他の市町村は焼却炉の整備に追われていた時代で、沼津方式がすぐ広がったわけではない。

 その一方で、石油危機直後の産業界は、行政よりひと足早く再資源化に向かった。「石油危機時代のリサイクルはコスト削減が狙い。90年代に入ると、『適切なビジネス』として資源の有効利用を迫られる形になった」と日本経団連の岩間芳仁環境本部長。

 国も1991年の廃棄物処理法の全面改正を機に、「排出抑制」にかじを切った。厚生省はその直後から、缶、瓶、ペットボトルのリサイクルの制度化の検討に入った。

 95年に成立した容器包装リサイクル法は、家庭ごみの過半を占める容器や包装資材を市町村が分別収集し、メーカーや小売店などの事業者が再商品化する。後に「拡大生産者責任」と呼ばれる考え方が、初めて導入された。

 「法案にはメーカーも廃棄物処理業者も反対。市町村も分別はコストがかかると慎重だった」と、厚生省で一連のリサイクル法を担当した由田秀人さん(59)=現日本環境衛生センター専務理事。「当時はダイオキシンと不法投棄の問題で大騒ぎで、処分場がいよいよ造れなくなるおそれがあった。リサイクルの制度化に、打開策を求めた」。

 その後、家電や食品、建設資材など個別リサイクル法が続く。そして2000年、循環型社会形成推進基本法が成立。「3R(リデュース、リユース、リサイクル=減らす、繰り返し使う、再資源化する)」の考え方が盛り込まれた。

 制度としてのリサイクルは動き出した。だが、肝心の分別を巡って、優等生だったはずの沼津市が、落とし穴にはまってしまった。

 2008年春、容リ法に基づきリサイクル用のごみを引き取る「日本容器包装リサイクル協会」が、沼津市のプラスチックごみの引き取りを拒否。前年の抜き取り検査で、食べ残しや調味料などで汚れたものが2割ほど混入していたのが理由とされた。

 沼津市の分別は容リ法が始まって18種類になっていた。プラスチックも、容器包装、汚れた物、容器包装以外、の三つに分ける。「分別が増え混乱があった」と、同市ごみ対策推進課の関野博文課長は話す。半年後の引き取り再開までに全市の300近い自治会で、分別方法の説明会を開かなければならなかった。

 リサイクルの成功のカギとなるのが、排出段階での分別だ。そのハードルの高さを沼津の失敗は物語る。リサイクルの仕組みも、ごみの処理方法も、課題を残したまま、循環型社会元年から10年が過ぎようとしていた。

 (朝日、2010年06月17日。吉田晋)
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「絶版文庫」のお知らせ

2010年06月19日 | サ行
      「絶版文庫」のお知らせ

 先に関口存男さんの訳注書の1部を「sky drive」で公開しました。しかし、「形式的には著作権の切れていないもの」、つまり関口さんの弟子が書いて関口さんが校閲したものなどは、その弟子に著作権が残っているとも考えられますので、公開を躊躇していました。

 しかし、今回、公開に踏み切りました。その理由は以下の通りです。
 1、長らく絶版になっていて、どう見ても再販の可能性があるとは思えない。
 2、公開が、著作権者の利益(物質的利益、精神的利益)を侵害するとは考えられない。
 3、学問的には公開のメリットがかなりある。つまり、原著者が絶版のままにしておくことの方が非社会的である。

 万一、著作権者の方から接触があった場合には、誠意を持って対応するつもりです。

 同様の趣旨で、関口派のドイツ語参考書だけでなく、許萬元さんの雑誌論文なども、ヘーゲル研究にとって公開が必要なものを公開します。まとめて「絶版文庫」という名を付けました。

2010年06月19日、牧野 紀之

コメント (2)
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施設情報の開示案

2010年06月17日 | サ行
 先日、第3次行革審委員の川上貴久さんが、「浜松市の施設の評価」という問題についてよくまとまった概観を与えてくれました。それを発展させるために、その1つ1つの施設についての理解を深めるために、その大前提としての「1つ1つの施設についての適正な情報公開」の「基準」を提案します。「フルーツパーク」を例に取り、それを念頭に置きつつ私案を出します。

 最近は「事業仕分け」とやらが話題になっていますが、そしてそれにも多くの人の関心を呼び起こすという意義はあると思いますが、本当の「事業仕分け」はこのような正確な情報公開に基づいて国民が日頃から行政の在り方を議論することだと思います。

 先に私は小中学校のホームページに載せるべき事項についての私案を発表してありますが、それは学校の行う仕事の内容についてでした。小中学校についても、以下のような事柄は発表されるべきだと思います。学校の敷地が必ずしも全て市有地ではなく、借地の含まれている場合も多いということですから、尚更以下のような「事業としての学校」についての情報公開も必要です。

01、概要
 これはその施設についての以下の具体的な説明の概要をまとめたものです。これで、全体像と問題点が分かるような書き方をします。

02、歴史
 その施設の歴史の主要点を年表形式でまとめます。

03、土地
 市有地と借地の違いを色分けした地図で示す。
 借地は実名は伏せるが、貸し手A, B, C, ...ごとに借地面積、借地料、借地期間、その他の条件があるならそれを含めて開示する。

04、インフラ
 上下水道、電気、ガスの整備は、それぞれ、いつ、何という会社がいくらで請け負ったか、又維持費はいくらか、を開示する。
 内部の個々の建物でそれが異なる場合は、個々の建物についても同じ事柄を開示する。

05、建物
 建物も1つ1つについて、いつ、何という会社がいくらで建設したか、維持費はいくらか、を開示する。

06、展示物
 全品目のリスト(アイウエオ順)を載せて、その1つ1つについて、いつ、いくらで、誰が植え付けたか、管理費用はいくらか、責任者は誰かを開示する。

07、幹部と従業員
 上から2段階までの幹部については、氏名、過去の職歴、在任期間、年収を開示する。
 それ以下の従業員については、人数を開示する。また、給与については、氏名を伏せたまま、決算段階での年収を開示する。非常勤者についても同じ。

 トップは「週間活動報告」をブログで発表するものとする。

08、営業実績と予算
 入場者と入場料収入、売店収入、その他があればその他の収入を、年表形式で分かりやすく開示する。
 予算(収入と支出)の明細と市からの補助金の額を明示する。
 累積債務と債権も開示する。

09、指定管理者
 フルーツパークは指定管理者に委託してはいないが、指定管理者に委託している施設については、いつからいつまで、誰に(何という会社に)、いくらで、委託しているか、を年表形式で開示する。

10、掲示板
 市民が意見を書き込める欄を作り、施設長の意見を含めて、皆で議論するようにする。

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中村屋

2010年06月16日 | ナ行
 「新宿中村屋」。時代が移り変わっても、東京・新宿の「顔」の1つであり続けている。中村屋本店は新宿の繁華街にある。デパートや家電量販店が軒を連ねる大通りに立つ6階建てのビルは、一世を風靡した「インドカリー」などの伝統の昧を求める人で今もにぎわう。

 1901年に創業した。もともとは東京・本郷のパン屋から始まっている。創業者の相馬愛蔵(あいぞう)は、東京専門学校(今の早稲田大)で学んだが、商売の経験はなく、当時、なじみが薄かったパン屋を選んだ。新聞広告を出し、営業中のパン屋の譲渡を呼びかけ、職人や製造器具も含めて丸ごと買い取った。店名も「中村屋」をそのまま使った。

 3年目、シュークリームにヒントを得た新製品のクリームパンがヒット。順調に売り上げを伸ばし、6年目には支店を開設した。そこが新宿だった。

 当時は「こんなすさんだ場末もなかった」と相馬が振り返ったほどみすぼらしい街。それでも、市電の終点がある新宿に相馬は「興隆の機運」を感じる。読みは的中し、開店初日から本郷の店の売り上げを上回った。2年後には新宿の現在地に本店を移し、和菓子に手を広げた。

 多くの文化人が集い、「中村屋サロン」と呼ばれた店には1927年、新たなメニューが加わる。それが「インドカリー」だ。

 相馬夫妻が、亡命中のインド独立運動の闘士ラス・ビハリ・ボースをかくまったのがきっかけ。娘の俊子がボースと結婚。ボースが伝えた「インド王侯貴族のカリー」を売り出した。

 町の洋食屋のカレーが10~15銭の時代に80銭もしたが、「恋と革命の昧」は、大変な評判を呼んだ。以来80年、食材や製法にこだわり、「伝統の昧」は進化を続ける。「変えずに変えずに変わる」。長く客に支持され、しかも時代に合わせて変化し続ける昧の極意を二宮健総料理長(74)はこう表現する。

 戦後の混乱期を乗り切った同社は、1953年以降は百貨店への直売店進出など、多店舗化を進めた。現在、和洋菓子などの直売店は約110。インドカリーの店や南欧風レストランも首都圏を中心に数多く展開する。

 染谷省三社長(66)は「企業は『環境対応業』。変化する経済や人の価値観に適応できなければ発展は望めない」と話す。

 現在の主力商品、中華まんじゅうは195年以降にコンビニエンスストアでの販売を本格化し、販路拡大につなげた。肉まんだけでも「特撰上肉まん」「ふかひれ肉まん」など十数種類を出している。2001年にはレトルトパックの「インドカリー」を一般消費者向けに、2006年からは「東京ショコラトリー」のブランド名で駅構内での土産菓子の販売を始めた。

 激しい時代の変化の中、染谷社長は改めて創業者の経営哲学をかみしめる。「創意工夫、良品廉価といった考え方を私たちのDNAとして努力していくことが大切だ」 

   企業プロフィル

 東京都新宿区新宿3丁目/創業1901年/染谷省三社長/従業員921人/連結売上高409億円(2010年3月期)

 (朝日、2010年05月21日。武井宏之)
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私大の初年度納付金

2010年06月15日 | タ行
 私立大の新入生が大学に支払う授業料や入学料などの初年度納付金が、2009年度に平均で131万円を超えて過去最高になったことが、文部科学省の調査で明らかになった。前年度と比べて消費者物価指数は1・4%下がったが、納付金は0・2%増えた。私立大の収入の8割は学生からの納付金で、同省は「経営も厳しく、簡単には下げられないのでは」とみる。

 新入生1人あたりの平均額は、授業料85万1621円、入学料27万2169円、施設整備費18万8356円の計131万2146円。学部の系統別にみると、文科系は約115万円、理科系は約150万円。医歯系は約500万円だが、実際は「実験実習費」などもかかり、医学部は約782万円、歯学部が約932万円になる。

 長引く不況を背景に、私立大に通う学生に対する授業料減免などの補助事業は、09年度に2万7000人分に増やし、補助線額は約29億円と前年度の1・3倍になった。文科省は10年度予算で事業の予定額を40億円に引き上げたが、私立大に通う学生の約1%分でしかない。

 民主党政権は、今年度は貸与型の枠を増やしたものの、返済不要の給付型については実現の道筋はついていない。

 (朝日、2010年06月10日)

     感想

 地方から上京して下宿している学生の食費の平均は、1ヵ月で1万5000円だそうです。1日にすると500円です。
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格差(親の年収と教育支出)

2010年06月14日 | カ行
 塾での勉強、スイミングやピアノなどの習い事……と学校以外でかかっている子どもの教育費と親の収入に強い相関関係があることが、ベネッセ教育研究開発センターの調査で改めて確認された。年収800万円以上の家庭が子ども1人にかけている額は1ヵ月2万6700円。これに対し、年収400万円未満の家庭は8700円で、3倍の差がついた。

 今年3月、3歳から高校2年の子どもを持つ、北海道から九州までの母親1万5450人に調査した。

 それによると、塾や各種教室に定期的に通っている子どもは全体の42・2%。1ヵ月の費用は平均で7400円だったが、親の年収によって隔たりがあり、年収800万円以上は1万3600円で、400万円未満の世帯は3000円だった。400万~800万円未満の世帯は6000円だった。

 勉強以外でも差がついた。スイミングやサッカー、体操といったスポーツ活動では、年収800万円以上だと4900円、400万円未満だと2400円。子どもが学校外でスポーツを習っている割合は、800万円以上の世帯は64・7%、400万円未満の世帯は47・2%。

 ピアノや絵画など芸術、文化活動でも、年収800万円以上の世帯が3600円、400万円未満の世帯が1100円と差がある。特に幼児から小学生までの時期が世帯年収による差が大きくなる。

 調査に協力した片岡栄美・駒沢大教授(教育社会学)は「高学歴、高収入の親は、子どもに学力向上だけでなく文化的な教養も求めている。スポーツや芸術が好きかだけでなく、親の年収や学歴が子どもの学校外の活動に大きな影響を与えている」と言う。

 (朝日、2009年12月20日。中村真理子)
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鈴与

2010年06月12日 | サ行
 茶畑に囲まれた静岡空港で、ピンクや赤、青に染まった小型ジェット機は鮮やかに映える。江戸期に回船問屋として誕生した「鈴与」は、創業200年余にして空に飛び立った。

 1801年。翌年世に出た「東海道申膝栗毛」で、弥次さん喜多さんが珍道中を繰り広げた東海道・江尻宿の清水湊で、「播磨屋与平」の看板を掲げた。甲州の米を富士川を使って駿河に運んだり、赤穂の塩を駿河経由で甲州に運んだりした。

 明治期の1889年、東海道線の全線開通という「大波」が押し寄せる。船便は横浜港まで2日間かかっていたが、鉄道は東京・新橋まで6時間足らず。扱う荷物は3分の1に減った。

 鉄道という新参のライバルにどう立ち向かうか。船で競う道ではなく、蒸気機関車に欠かせない石炭の版売を手がける「共存」を選んだ。塩や輸出茶に加え、石炭の販売を始めることで近代化の汲に乗った。

 1900年代に入り、事業多角化は加速する。地元の清水港や焼津港で水揚げされるトンボマグロは脂が少なく日本人には好まれなかったが、米国で登場した油漬け缶詰はサラダやサンドイッチに広まっていた。29年に設立した「清水食品」は日本で初めてマグロの油漬け缶詰を商品化。いわゆる「ツナ缶」は米国で大ヒット商品となった。

 歴代社長は「鈴木与平」の名を継ぐのがならわし。77年、36歳で9代目社長に就いた通弘氏は、2001年の創業200周年を機に「与平」を襲名した。大量消費、モノ余りの時代にあって、顧客ニーズを掘り下げて、差別化を図れる企業にならなければならないと、専業分社化を進めた。現在、グループ会社は物流、商社、建設、食品、情報など約130社。サッカーJl清水エスパルスの運営にも携わっている。

 時代の節目で新しい事業を始めたり、乗り換えたり。鈴木社長の日に、09年の静岡空港開港は「千載一遇のチャンス」と映った。海、陸を経て、ついに空に乗り出した。大学時代、航空部でグライダーに乗っていた鈴木社長自身の夢でもあった。

 子会社の「フジドリームエアラインズ」は、76人や84人乗りの小型ジェット機で地方空港同士を結ぶ。09年7月の参入時は静岡-小松(石川県)、鹿児島、熊本と、いずれも大手と競合せず、価格競争に巻き込まれない路線を選んだ。1機ごと異なる色に染めたのは、空港をカラフルにするためだ。

 4月からは日本航空が撤退した静岡空港の福岡、札幌両路線を引き継いだ。6月には、松本空港(長野県)の福岡、札幌両路線を継承する。10月をめどに4機目を導入する計画だ。

 既存路線の累計搭乗率は約50%。目標の65%にはほど遠いが、鈴木社長は意に介する様子はない。「時代に沿って自己改革してきたことが、200年続いた理由。変えることを怖がってはいけない」
       (朝日、2010年04月16日。山田知英)

         企業プロフィル

 静岡市清水区入船町。創業1801年、鈴木与平社長、従業員1027人、売上高813億円(2009年8月期)
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有馬理事長の講義

2010年06月09日 | サ行
 静岡文化芸術大学の有馬朗人(あきと)理事長が「講義」をしたそうです。普通は、大学の理事長は「講義」をしないものですから、新聞も取り上げました。次のような記事がありました。

   

 静岡文化芸術大の有馬朗人理事長が05月18日、浜松市中区の同大講堂で「本学で学ぶべきこと」と題して講義をした。新入生約340人が4年間を有意義に過ごそうと、トップの講話に耳を傾けた。

 有馬理事長は少年期に5年間浜松市内で過ごしたことや、東京大総長、文相などを務めたことを説明。1、2年生のうちは広く学んで語学を身に付けるよう勧め、3、4年生で徹底的に専門分野を学ぶようアドバイスした。

 その上で「いかに頭脳が優秀でも心身の健康を害したら終わり」と力説し、自身の健康に留意するよう説明した。 (中日新聞ネット版、2010年05月19日。出来田敬司)(引用終わり)

 もう少し詳しい内容を知りたいものだと同大のホームページを見てみましたが、何も載っていないようです(捜したが、分かりませんでした)。これでは困ります。理事長が特に「講義」をしたのです。その全文ないし要旨をホームページに載せないとは何事ですか。時代遅れも甚だしい。

 時代遅れはこれだけではありません。氏の「講義」の内容を見てみましょう。内容は、要するに、「最初の2年間で語学を中心として勉強し、後の2年間で専門をやれ」というものです。健康に気をつけろなどということは、度外視しましょう。

 そもそも、「教育というサービス業をしている経営体の理事長」がお客さんに向かって言うべきことは何でしょうか。それは自社のサービスの説明です。そして、「わが社のサービスに問題があったらどこそこへ言って下さい」という顧客相談窓口の紹介です。しかし、氏の「講義」にはこういう職業上の当然の説明が全然なく、お客さんへの説教ばかりです。何か勘違いをしているのではないでしょうか。

 さて、説教の内容を分析してみましょう。この「最初の2年間で語学を中心として勉強し、後の2年間で専門をやれ」という4年間の分け方は、1991年の「大学設置基準の大綱化」以前の大学の考え方です。これが実情に合わないから「大学設置基準の大綱化」がなされたのではないのでしょうか。有馬さんはこの経緯を知らないのでしょうか。

 氏は1989年から93年まで東大の総長をしていたはずです。知らないはずがありません。たしかにかつてのやり方が正しいという主張はありえます。しかし、それなら、この間の経験をどう総括するかを述べてからにするべきでしょう。

 では、その「語学教育」について文芸大は何か言っているのかとホームページを見てみたら、こう書いてありました。「実体験を通じて異文化への理解を深めることは、真の国際人としての感性を養う上で、欠くことのできない条件です。本学では世界に通じる人材育成を目指して、 アメリカ、中国、フランスへの研修を実施するなど、語学研修の充実に努めています」。やれやれ、自分の学校での授業を紹介しないで「外国へ行って来い」と言うのですか。

 専門教育とやらについては何も書いてありません。個々の教員の研究業績及び授業内容(どういう授業をしているか)についての必要十分な説明もありません。学生に説教をする前に、まず自分の義務を果たしたらどうでしょうか。

 最後に、この「講義」で話すべきだったのに話してない事を考えますと、一番重要な「学問とは何か」が落ちています。大学は学問の府なのです。これを忘れては困ります。

 こういう老人を引っ張り出して来る川勝知事も川勝知事なら、ノコノコと出てくる有馬さんも有馬さんです。世も末です。
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共通語

2010年06月03日 | カ行
 01、大野晋さんの発言
 ヨーロッパでは一般的には劇場の俳優の発音をよいとすると聞いています。(略)[が]日本では歌舞伎役者の言葉を標準とする伝統はなく、戦前は「東京の山の手の教義ある家庭の言葉」が標準語といわれていました。

 しかし、[まず「標準語」という表現については]戦後に発足した国立国語研究所は「標準語」という表現をさけて「共通語」としました。[次に、ではその「共通語」は今でも「東京の山の手の教義ある家庭」で話されているかと言うと]最近は東京に流入する人口が非常にふえて「山の手の教養ある家庭」も拡散してしまい、あいまいになってしまったようです。

 [では共通語はどこにあるのでしょうか。]最近まではNHKのアナウンサーの発音がともかくも正しい日本語を目指すものと一般に思われていました。しかし、テレビの速報性が重視されるにつれNHK自身が考え方を変えようとしています。一視聴者の質問に対して当時NHKの責任ある位置にあった青木賢児氏は1986年01月、次のように答えています。

 「『正しい発音による共通語』がNHKの義務かどうかという点についても十分に検討することが必要になっていると思います」。
 「日本語についても、教育界をはじめ専門的なチャンネルが十分に用意されつつあると思います。放送もそうした役割の一端を担うことになるでしょうが、NHXが日本語に責任を持つ時代は終わったのではないでしょうか」。

 その手紙の中には「『正しい共通語』については重要な役割の1つとして十分認識して行きたいと考えています」と書きそえてはありますけれども。

 これを見ると、最近のNHKのニュースを読む若い女のアナウソサーに、シとスィの区別や、チとツィの区別に無頓着で、一般に発音が整っていない人が多い理由がよく理解できます。

 別に「NHKが日本語に責任を持つ」などという必要はないのです。公共放送である以上、局員であれ、あるいはフリーのキャスターであれ、テレビやラジオに登場する人は正しい発音を心がける義務があり訓練につとめるべきであることも明らかでしょう。果たして実際にそれが遂行されているかどぅか。問題は多いと思われます。それはいずれ詳しく考えるとして、正しい日本語の話し言葉のあるところを一つ指摘しょうと思います。

 私はこのごろ井上ひさしさんの劇団や、俳優座などの舞台を見るのですが、いわゆる新劇の俳優さんたちが、発音について実に誠意をもって修練を重ねているのを知りました。明確に聞こえるようにと、また時には方言らしく発音するために、実に多くの苦心が払われています。一昔節一音節を粒立てて発音するようにという訓練が恐らく繰り返されているのでしょう。この人たちは、現在の日本で正しい、よい、美しい日本語を目指す集団であるとして注目すべきであると思います。つまり日本でも、舞台の俳優の言葉がよい言葉だといわれる時代が、やって来ているように思うのです。(大野晋・丸谷才一・大岡信・井上ひさし「日本語相談」①、朝日新聞社)

 02、標準語
 standard languageの訳語としての「標準語」という名称を最初に用いたのは、岡倉由三郎である。岡倉は明治23年(1890年)、『日本語学一斑』において、(略)、標準語の位置にすわる言語は、その言語自体の内的な要因によってではなく、あくまでも外的な社会的要因によって客観的に決まるのだと主張した。(真田信治『標準語の成立事情』PHP研究所)

 03、感想(牧野)
 共通語か方言かは、何について言うのか、と考えて見ると、第1に、語彙そのもの、第2に、発音における音(おと)、そして第3に、アクセントではなかろうか。

 第1の語彙そのものの問題とは、例えば、「まつぼっくり」か「まつかさ」かといった問題です(真田、前掲書110頁)。「こわい」と「おそろしい」と「おっかない」のどれを使うかは地域によって違うようです(同、116頁以下)。

 第2の「音」の問題は、例えば大野の言うシとスィの区別や、チとツィの区別のことです。

 ここには、1シラブルの語をどう発音するかといった問題も入れて好いでしょう。この点で、関西と関東は違うそうです。「血」を関東の人は「チ」と言いますが、関西では「チイ」と2シラブルに言うそうです。これは原則としてそうだそうです。「気」は「キイ」と言うように。

 第3のアクセントの問題もあります。日本語は高低アクセントですから書き言葉で表現するのは難しいですが、多くの人に気づかれています。もうかなり前からですが、特にカタカナ語のアクセントで、例えば「ドラマ」を、我々高齢者は「命」と同じように言いますが、最近の人は「ネズミ」と同じように言います。NHKのアナウンサーでも後者のアクセントで言う人もいます。その他「サークル」でも「クラブ」でも皆同じです。

 結論として、私の提案は、個々の問題を皆で議論するために共通の辞書を作るべきだ、というものです(国語研究所がやってくれると一番いいと思います)。そのための大前提は、辞書の主たる目的を語句の意味を説明することに限定するような狭い考えを止めることです。

 私は、既に、辞書の第2の主たる目的として、「用語法の説明」を挙げてきました(→「辞書」)が、今回、第3の主たる目的として「語句の発音の解明」を加えます。先にも少し触れましたように、紙の辞書ではこれはかなり難しいですが、インターネットの発達によって、ネット辞書なら容易にできるようになってきている、と思います。

 例えば、「ドラマ」について、「発音1」として、我々の世代の発音を聴けるようにし、例えば「この発音は1970年頃まで主流でした」という説明を付ける。そして「発音2」として、その後の若者の広めた発音を聴けるようにして、「1970年ころから若者の間で使われるようになり、その後広まって、今では主流に成っている発音」という説明を付けるのです。

 こういう基礎的な作業をやりながらゆっくりと議論を進めて行くのが適当だと思います。
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