マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

お知らせ

ながく、牧野紀之の仕事に関心を持っていただき、ありがとうございます。 牧野紀之の近況と仕事の引継ぎ、鶏鳴双書の注文受付方法の変更、ブログの整理についてお知らせします。 本ブログの記事トップにある「マキペディアの読者の皆様へ」をご覧ください。   2024年8月2日 中井浩一、東谷啓吾

実証主義的社会学の意義と限界 船曳由美

2014年09月28日 | ハ行
    ──船曳由美著『百年前の女の子』を読んで──

 2010年に講談社から出版されました船曳由美の『百年前の女の子』は「現代の『遠野物語』」と言われる位の評価を受けています。知っている人の仕事がこのように高い評価を受けていると知ることは嬉しいことです(船曳は高校と大学で1年上級生でした。高校時代には一緒に自治会役員もしたくらいです。我が高校では「生徒会」とは言いませんでした。又、「先輩」という言葉は卒業生の事で、学年の上の人は「上級生」と言い、「さん」付けで呼びました)。

 遅まきながらこの本の事を知ったのは昨年(2013年)の11月のことでした。NHKのラジオ深夜便の「母を語る」に出演していたのを偶然、「途中から」聞いたのです。聞いている内に「これは船曳さんの話ではないかな」と思いました。翌日、少し調べてみて、それを確かめました。何十年も会っていませんので、ネットで色々な事を知りました。

 本を取り寄せて読んでみました。感想を書こうと思いました。皆さんが諸手を挙げて賞賛している本の「限界」(「悪い点」ではありません)を指摘するのですから、慎重な準備が必要でした。ようやく準備が出来ました。

 物事を評価するには対象を全面的に見て、肯定面と否定面とをその軽重に応じて評価しなければならないでしょう。しかし、世の肯定的評価に対して、1点だけにせよ欠点を指摘する場合は、とかく後者の指摘が大部分を占めるために、全体としての評価が誤解されやすいと思います。その危険は避けられませんが、それを出来るだけ小さくしたいので、先ず初めに、「アマゾン」に載っています「レビュー」から4つ引きます。そして、「私はこれらに共感します」と言っておきます。

1、このノンフィクションの主人公寺崎テイは、明治42年(1909年)栃木県足利生まれ。実の母は実家でテイを出産すると、寺崎の家には帰りたくないといって、テイだけを送り届けてそれ以後一度もテイには会いに来なかった。寺崎家には新しいおっ母さんがくるが、その条件はテイを養女に出すことだった。寺崎の家は新しいおっ母さんの産んだ子が継ぐ約束だからだ。

 2歳から5歳までテイは何度も里子に出された。いつも働かされていたので字とか数とか覚える暇はなかったがテイはいつの間にか覚えた。そして、葉っぱの虫潰しをしているときも籍にも入れてくれない義理の母に、臭い銀杏の実を拾わされているときも、虫や銀杏の数を数えた。「ひとぉつ」「ふたぁつ」「みっつ」。銀杏の実がたくさん採れたときはうれしかった。でも採れすぎても幾つ採れたのかテイには分からなかった。テイは100以上は数えられないのだ。(原文要約)

ここは泣くところではないのかもしれないが、わたしは不覚にも泣いてしまったのである。これは、凡百の小説の作り話をはるかに凌駕する。

 『100年前の女の子』テイちゃんは、著者の母である。私は、107年前の女の子である祖母 イナちゃんに育てられた。テイちゃんのように学問はしなかったけれど、雀を捕まえて焼いて食わせてくれた。笹の葉に梅干しを包んでチュウチュウ吸うおやつを作ってくれた。雪の中で凍らせて作る自家製のアイスキャンディを作ってくれた。ドブロクもこっそり飲ませてくれた。78回転のレコードで『美ち奴』を聞かせてくれた。

 私はとある首相が「もはや戦後ではない」といった頃の子供であるが、その頃までは本作のテイちゃんの世界が残っていたと思う。一人一人の心の中にきっとに100年前の女の子がいる。

 ところで、願わくは、NHKが本作に目をつけて、テレビ小説などに、なさらぬように。

2、著者の母親寺崎テイを誰よりも愛したヤスおばあさん。僕は彼女の言葉一つ一つに日本人の神を畏れ敬う心、他人を思いやる心、自然を大切にしその恵みに感謝する心、あらゆる「日本人の根底」のような物を感じた。ヤスおばあさんが守り、そしてテイに伝えた日本人の心は、著者にしっかりと受け継がれていると思う。だからこそ、この本にその心が、その世界が見事なまでに描かれているのだと思う。

 そしてそれは、僕が幼い頃にまだ生きていた祖父や祖母から受けた愛情に、そして今も父母から受ける愛情に息づいている。また、自分の中にも息づいている。だから、この本を読んでいて、自分の生まれる前の世界のことであるのに、どこか懐かしい、それでいて安らぐ世界を感じるのだと思う。

 ヤスおばあさんが寝たきりになり、イワおっかさんの看病に涙を流すところ、おばあさんがなくなってテイが涙を流すところは、涙が溢れてしょうがなかった。悲しいけれど、つらいけれど、とても自然で素直な別かれ方。こんなに素直な涙を流せたのはいつ以来だっただろう。

3、私は子どものころから東京住まいですが、両親は長野県の農家出身で、私が物心つく頃まではまだ、「おじいちゃん・おばあちゃん」のところに帰省すると、「お蚕様」を飼っていました。群馬県とは違う部分もあるものの、似た方言・風習があって、私の歳でよくわかるのも変かもしれませんが、何だかとても懐かしく感じました。

 私の祖母はテイさんのような辛い幼少期を歩んではいませんが、同じ年の生まれで、今年2月に100歳で亡くなりました。昔の農家の女性の役割の厳しさをときどき口にしていました。稲作・蚕産農家で、昔は当然のことながら家で舅・姑を見送りながら、息子4人を大学にやるまで必死に働いた、そうです。

 著者さんの弟さんにあたる大学教授の方は新聞のインタビューで、「泣いてしまって客観的に読めなかった」と語られていましたが、第三者である私でも、同じでした。テイさんは今は、高齢者の施設でお暮らしで、もうよくわからなくなっている、ということですが、まだお元気だったときにお子さんたちがご立派になられて、そのお幸せをじゅうぶん感じられた時期があったことでしょう。それを思って、うれしくて?また涙が出てしまいます。

4、筆者は平凡社と集英社で編集に携わってきた人。黒川能やイザイホーの保存に功があったほか、寿岳文章訳『神曲』を復刊し、鈴木道彦のプルースト新訳、奥本大三郎のファーブル新訳を世に送りました。文化人類学者船曳建夫は実弟、心理学者岸田秀は義兄にあたります。

 本書は哀切な「家族の肖像」であり、失われた世態風俗の散文詩であり、志操高い一女性のメモワールです。ミューズたちの母たる記憶女神ムネモシュネーの声は高くはないけれど、厳かでしかも甘やかです。

 すばらしい親孝行をなさいました。かかる後は編集者としてのご自分の回想を是非ものされますよう。それもまた、現代出版史の貴重な証言とも飾りともなるでしょうから。(「アマゾン」からの引用終わり)

 さて、これら全ての賞賛を共有しつつも、この本には大きな欠点(欠けている点であって、悪い点ではありません)が1つだけあると思います。これは私にとっては言わなければならないことです。それは「社会主義思想ないし運動について、当時の人々の中でも特に優秀な庶民がどう考えていたかについて、聞くチャンスがあったのに聞いていないこと」です。そのために折角の「民俗学の名著」に穴が開いたということです。

 「聞くチャンスがあったのに聞いていない」と判断する証拠が278頁にあります。

──子どもが独立し、父が亡くなり、母は姉夫婦や私と暮らすようになつてから、ようやく外国への旅にも出かけられるようになった。あるとき、どこの国にでも好きなところに連れていく、というと、「社会主義の国を一度は見ておきたい」と答えた。77の喜寿を迎えた年〔1986年〕であった。

 そこでブルガリアからユーゴスラビアヘ、バスで旅するツアーに2人で参加した。ベルリンの壁崩壊の前である。秋の日が照り輝く紅葉の山の斜面に牛や羊の群れが散らばっていた。舗装されていない村の道には馬車が鈴を鳴らして往き交っている。その荷台にはおじいさんやおばあさんが孫たちとギッシリと乗り込み、手を振ってくれるのであった。高松の村のようだ、と母はいたく喜んだ。

 しかし、こんなこともあった。首都ソフィアのデパートで、ケースの中の小さな人形を母が指さしてこれが欲しいといった。大柄の女性の店員はニコリともせず、時計を指さした。1時5分前だ。さらに、大声で何かをまくしたてた。

 「あと五分間は昼休みの権利がある」といったのだと、ソフィア大学で川端康成の『雪国』を修士論文にしたという通訳の女性、ルシカが、顔を赤らめてそっと伝えてくれた。
 「社会主義の制度はどこか人間をダメにしてしまうのかねえ」と母は、かつて若き日、理想としたその夢を破られたのか、ガッカリして悲しそうであった。(引用終わり)

 これ以外にも雑誌『ラジオ深夜便』(2014年2月号)によりますと、「ヤスおばあさんと同様、田中正造などの義民を尊敬していた」そうですから、そういう話しを聞いたことがかなりあったはずです。それなのに、社会主義にどういう期待をしたのかといったことを意識的に詳しく聞き出していないと推定されるのです。

テイの自立後の年表を作りますと、次の通りです。

 1926年(昭和元年)、16歳で女学校を卒業。自立。上京。
 1928年(昭和3年)、女子経済専門学校に入学。
 (1931年・昭和6年、満州事変。戦争時代に入る)
 1934年(昭和9年)、25歳。船曳昌治(しょうじ)と結婚。

 船曳昌治はキリスト者だが、消費組合に勤め、左派であったと言います。当然、社会主義についても話したでしょうに。

 それなのに、その話しを詳しく聞いていないらしい。少なくとも本に書いていないのです。これは大欠点だと思います。なぜなら、民俗学とは「民間に伝承されてきた風俗・風習などを調査し、その民族の生活史・文化史を明らかにしようという学問。フォークロア」(明鏡国語辞典)だそうですが、その「民間」には「農山漁村の人々」だけでなく、「都市住民」も入ると考えられるからです。

 普通には「民」は「官」に対比されますが、「官」にも高級官僚と下級官僚の区別があり、又「民」にも裕福な人と中ないし下層の人がいます。そうすると、「民俗学」という時の「民」とは役人も民間人も含めて「上の方」ではなく「下の方の人々」つまり「庶民」のことと理解するべきだと思います。

 こう捉えますと、大正時代末から昭和初期の庶民、とりわけその中でも知的レベルの高かった人々が社会主義思想と運動にどういう希望なり期待なり憧れなりを持ったかを記録しておくことは「民俗学」の重要な課題の1つだと思います。満州事変までは大正時代の続きで、寺崎テイは、多くの人々と同様に、何か積極的な行動はしなかったのだと思いますが、「社会主義の国を1度は見ておきたい」と即座に答えるような人ですから、社会主義思想と運動には多大の関心を持っていたはずです。そして、これは当時の多くの平均以上の頭を持った若者に共通することだったと思います。

 関川夏央はこう書いています。「大正の時代精神は『改造』への意欲であった。そして、それをになったのは新興する『中流』家庭の息子と娘たちであった。/ 彼らはみな『コミューン』について考えた。ある者は夢想的であった。ある者は冷静で、ある者は皮肉であった。コミューンの建設と維持が現実にそぐわないと見とおす者は少なくなかったが、最初からこれをばかにした者はいなかった。その背景には社会主義への希望がたしかに横たわっていた」(『白樺たちの大正』文藝春秋、213頁)。

 これには、とにかく日露戦争に「勝って」政治的に一等国に近づき、続く第一次世界大戦でもうけて経済的にも「豊か」になった日本が、ロシア革命への干渉(シベリア出兵)のような事があったとはいえ、全体としては、平和だったことが前提でした。これはほぼ1931年(昭和6年)の満州事変まで続いたと言えるでしょう。

 ですから、テイから「社会主義についてお母さんや周りの人たちはどう考えていたの?」と聞くことは、社会〔学〕的に見ても不可欠の重要事なのです。今から考えれば、それは幻想であったと言わなければなりませんが、幻想でもとにかく人々の「生活史と文化史」の重要な一部だったのです。これを記録するチャンスを逃したのは大失敗だったと思います。

 では船曳はなぜこれを逃したのでしょうか。それは、思うに、船曳自身に「社会主義の思想や運動とは関係したくない」という気持ちが意識的・半意識的・無意識的にあったからだと思います。船曳や私が大学に入った1957-8年頃は、学生運動が再度隆盛に向かう時期でした。当時はまだマルクス主義が盛んで、マルクス主義の側は「社会学なんてのは階級的視点なしに社会現象を実証的に記録するだけの学問だ」と捉え、軽蔑していました。逆に、運動ばかりやって勉強をしない学生と違って、勉強の出来る人は船曳のように社会学科に集まり、あるいは教養学科に進みました。

「船曳には社会的関心が全然なかった」などとは言いませんが、マルクス主義や左翼運動をきちんと研究したとも思えません。関わりたくないというのが真意だったのではないでしょうか。しかし、こういう気持ちはその人の学問に出るものなのです。理工系でも同じでしょうが、文系の学問ではかなりはっきり出ると思います。そして、誰にでもあるこの「傾向」と意識的に戦って、学問的に振る舞える人はとても少ないと思います。

 社会学の創始者はコントでした。コントには実証主義者というレッテルが付いています。しかるに、実証主義者は自分が思想という名の「偏見」から自由に「客観的事実」を観察し、記録していると思っているようです。しかし、実際には「先入見を持たないで対象を見聞し、記録し、その真相を捉える事は不可能」なのです。なぜなら、所与の人間(研究者)を取ってみますと、誰でもそれまでの人生経験に基づいた考え方を持っているからです。それは文字通り「先入見」であって、それを「方法」と言おうと、「偏見」と言おうと、同じことです。人によって異なるのは、どういう先入見か、その自分の先入見をどれだけ正確に自覚しているか、それを繰り返し反省しているかの程度でしかありません。

 このテイの社会主義についての感想に関しては、ほかにも考えるべきことがあると思います。それは、そもそもここで問題になっている「労働時間を厳格に守る」ことは果たして「ダメな事」なのかという事です。更にまた、それは社会主義と結びつくことなのか、それとも西欧では或る程度一般的な事ではないのかも本当は問題だと思います。

 この点には深入りしませんが、私は、それを「悪い事」とは思いませんし、ドイツなどでも十分に考えられることだと思います。百貨店ではなくて個人商店ならば、そもそも昼休みはドアを閉めているところも多いと思います。私はこれを忘れて、ウィンドーショッピングで目星を付けておいたものを、「汽車に乗る前に買おう」と思っていたために、昼休みにぶつかり、買いそびれたことがあります。

 英語の得意な同級生でどこか西欧の大使館に事務員として就職した女性が、クラス会で、「5時になったら、その時打っているタイプライターを途中で止めても何も言われない」と話していました。

 船曳はこういう事を知らないのでしょうか。何しろ77歳とはいえ、まだ頭のはっきりしていた母親テイです。社会主義の悪いところはそういう所にあるのではないという自説を述べて、母親世代の社会主義観がどういうものであったか、理解を深めることもできたでしょうに。とても残念です。

 本書は、「昭和9年〔1934年〕、25歳のテイの巣ごもりの季節であった」(269頁)として、その後の事は概略しか述べていません。101歳まで生きた人の生涯の叙述を25歳で終える事自体不思議ですし、又昭和史の観点から見ても昭和9年以降は大切なのに、それが省かれるのは残念です。自分の事が出て来るので書きにくかったのでしょうか。

 そう考えていると、先日、テレビで見ました「少年H」という映画が本書の続編に成っているのではないかという気がしてきました。それは太平洋戦争を挟んだ前後の時代に生きた神戸の仕立て職人一家の没落と再生の物語でした。この人たちは決して左翼ではありませんが、自由主義的な正義派で、母はキリスト者であったり、父は仕事柄西洋人とつながりがあったりで、そのためにいじめられるのです。その中には左翼への弾圧も出てきますし、父親も捕えられ、拷問を受けます。神戸という都会の庶民の生活史ですから、その点でも寺崎テイの農村生活にはなかったものを補っていて、適当だと思います。

 最後に、「悪点」と思われることを1つ出しておきます。251頁にある「普通の家なら、女が経済を学ぶなどと聞いたら、アカにでも染まったかと目をむいたであろう」という文言です。この「アカ」という語が問題だと思います。

 私にはこの辺の言葉がテイの言葉の「伝達」なのか、船曳の考えなのかが分かりませんが、いずれにせよ、この語は避けた方が好かったと思います。当時はまだ「主義者」という言葉が使われていたかもしれない(丸山真男対話篇『一哲学徒の苦難の道』岩波現代文庫、34頁)というのが第1の理由です。

 それ以上に、そもそも「アカ」は今では「侮蔑語」だと思うからです。『新明解国辞典』には「象徴的には共産主義者」という「語釈」が載っていますが、私見では、「共産主義や社会主義を嫌悪する人が使う侮蔑語」という説明が必要だと思います。最近は「ヘイトスピーチ」が問題になっていますが、これは「ヘイトワード」だと思います。私は今では社会主義者ではありませんが、読んで気持ちの好いものではありません。

 ともあれ、以上の点は非常に残念ですが、全体としては素晴らしい作品だということに変わりはないと思います。これを最後にもう一度言っておきます。(2014年9月24日)

関連項目

実証主義

近現代日本史における政治と文学

2014年09月25日 | サ行
 ここで少し文学史のおさらいみたいなことをするが、文学と政治とは、実は日本の近代文学の出発点から深い関わりをもっていた。

 近代写実小説というものを初めて紹介した坪内逍遥の「小説神髄」が、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」を批判の槍玉に挙げたことはよく知られている。八犬士などは仁義忠孝といった観念のお化けであって人間ではない、小説というものはそんな人間ばなれした英雄たちの波瀾万丈の行動を語るものではなく、ありふれた普通の人間の心のドラマ、すなわち「人情」をリアルに描くものだ、と逍遥は主張した。

 しかし、逍遥の「八犬伝」批判は、実は、それ以前、自由民権運動の渦中で書かれた多くの政治小説に対する批判を含意していたのだとみなすことができる。「八犬伝」は、儒教的徳目を体現した英雄たちがうしなわれたユートピアの再興という政治的目的のためにたたかう物語だが、政治小説も、主人公たちが自由と民権という政治的理念を実現するためにたたかう物語だったのだから。

 つまり政治小説は政治的イデオロギーを具体的に興味深く読者に伝えるための啓蒙と宣伝(プロパガンタ)の役割を託されていたのであり、逍遥は、そうした政治的目的に従属するものとしての小説を否定して、文芸としての小説を自立させようとはかったのである。

 
 坪内造遥が「人情」という古い言葉で呼んだものに「内部」という抽象的で孤絶的で近代的な呼称を与えたのは北村透谷だった。透谷は、山路愛山との論争で、文学は現実の役に立たぬもの、というより、役に立とうとしないもの、「空の空なる」事業なのだといいきった。つまり彼は、人間というものの内面性に定位した文学を、現実的な効用性から徹底的に切りはなそうとしたのである。
 

 透谷によって、文学は政治(イデオロギーや現実的効用性の領域)から限りなく遠ざけられたようにみえる。しかし、逆説的だが、そのことによって、文学はもう一つの政治、「革命」と呼ばれる現実否定の政治と親近しはじめるのだ。

 そもそも北村透谷は、弱冠の身で自由民権運動に参加し、過激化する党派から離脱したのち、キリスト教に入信し、ロマン派の旗手となった。透谷の遍歴した政治と宗教と文学とは、激しい自己意識のドラマを生きる近代青年たちの情熱を吸い寄せる三幅対にほかならない。この三つのものは、たしかにたがいに鋭く対立し批判しあうが、しかし、功利的で利己的な現実への埋没を拒絶する点で共通している。現実への苛烈な否定性を潜めたその危険な魅力が青年たちを惹きつけるのである。

 透谷が文学を現実的効用性から切りはなしたとき、そのラディカルな現実否定の強度において、文学は、政治(革命)への情熱とひそかな交わりを結ぶのだ。文学と政治(革命)とがともに共有するのはこの情熱である。

 政治(革命)と文学という問題は、一九二〇年代、マルクス主義という革命運動の登場とともに、文学青年たちに重くのしかかるようになる。しかし、昭和における問題の基本は、すでに、逍遥と透谷によって準備されていたというのが私の考えだ(厳密には、もうひとつ、「大衆=国民」という新たな要素を加えなければならないが)。

 以後、満州事変後のいわゆる「転向」の季節を経て、戦時下の「国策」という政治に翻弄されたあげく、文学は戦後をむかえることになる。戦後もまた、「民主主義革命」、六〇年安保闘争、六〇年代末の学生叛乱というふうに政治(革命)の季節のトピックはつづくが、問題の基本構図はほとんど変わっていない。
 (『戦後短編小説再発見』9〔講談社文芸文庫〕への井口時男の「解説」)

 感想

 この方面に詳しくないからかもしれませんが、私にとってはありがたいまとめでした。これだけ見事にまとめた文章を知りません。下線と題は牧野がつけました。




御礼

2014年09月24日 | 読者へ
 意味形態論を論じた寺門さんの事についてご教示をお願いしましたが、たくさんの方から親切なお返事をいただきました。ありがとうございます。獨協大学の人だろうと思って探したのですが、獨協医科大学までは気が付きませんでした。

 そう遅くならない内に私見を発表するつもりです。

 今後もよろしく。

2014年9月24日、牧野紀之

教えてください

2014年09月19日 | 読者へ
 ネットで「関口存男」と入れて検索し、大分後の方まで探していたら、「言語研究方法論としての意味形態論」(副題・関口存男がめざしたもの)という論文が出てきました。印刷してみましたら、36頁のものでした。

 読んでみて、批評(感想)を書こうかな、と思いました。

 6頁の「注」を見ますと「~言い換えは寺門」とありますから、筆者の姓は「寺門」なのだと思います。しかし、「名」の方が分かりません。そのため、本人についてネットで調べることが出来ません。

 知りたい事は
① 書いた人の姓名と所属(何大学の教授とか)
② どこに、いつ、発表したものなのか
です。

以上の2点について知っている人は教えてください。よろしく。

2014年9月19日、牧野紀之

コンビナート阻止の「沼津・三島型」運動

2014年09月17日 | カ行
   最初の見出し

 半世紀前、沼津、三島の両市と清水町に石油化学コンビナートの建設計画が持ち上がったが、住民の大規模な反対運動で中止された。高度経済成長の陰で公害問題が深刻な影響を及ぼしていた当時、公害の発生を事前に予測し、コンビナートの進出を阻止した運動は「沼津・三島型」と呼ばれ、後の住民運動に大きな影響を与えたと言われる。

50年前の熱気あふれる運動を振り返るとともに、今の時代が運動から何を学ぶべきかを関係者や研究者ら5人に聞いた。

解説・石油化学コンビナート計画と反対運動

 静岡県が1963年12月、沼津市に火力発電所、三島市に石油精製工場、清水町に石油化学工場の進出計画を発表。住民らは「水と空気を守れ」と反対運動を展開した。医師や科学者が講師となった学習会が各地で開かれ、三重県四日市市の石油コンビナートでの公害や計画の危険性についての問題意識が住民に広まった。また、「公害は防げる」とした国の調査団に対し、地元調査団は「公害の恐れが十分ある」と報告。反対運動は、農民、漁民、母親、青年ら多種多様の人々を巻き込んで拡大した。64年5月に三島市長が反対を表明。同年9月には沼津市で2万5000人の総決起集会があり、沼津市長が進出拒否を表明。翌10月には、清水町に会社側から進出断念が伝えられた。


 第1回・元沼津工業高校教諭、西岡昭夫さん

 ──運動に参加した理由は何だったのですか。

 県の計画説明会では、環境対策などにまったく触れずじまい。すでに三重県の四日市などで公害は発生していて、大変なことになると直感しました。その一方で、説明があまりにずさんだったから、こちらが科学的な事実を積み重ねて反対すれば、阻止できる可能性があると考えました。

    学習会重ね理解

 ──各地での学習会が運動拡大に大きな役割を果たしたと聞きました。

 国立遺伝学研究所(三島市)の医師や研究者、私たち沼津工業高の教師らが講師になり、数人の集まりから数百人の大集会まで、毎晩のように出かけました。1日に数ヵ所かけもちもざらで、私は計300回ぐらい参加しました。

 四日市視察の映像を見て、現地の人たちの証言を聞くことで、住民はコンビナート進出を生活に関わる具体的な問題としてとらえ始めました。そこに科学的なデータの説明が加わり、危険性への理解が深まっていったと思います。

 その上、最初は聞くだけだった参加者が、次第に積極的に発言するようになった。漁業、農業、主婦ら様々な立場の人が意見を出し合う中で、多くの経験に裏打ちされた知恵が蓄積され、参加者共通の認識ができ上がっていきました。

 ──地元調査団に参加されましたね。

 私は気象学が専門で、工場が出す亜硫酸ガスが地域に広がる様子を調査しました。端午の節句を前に空を泳いでいるこいのばりを見て、「これで風向を調べれば」とひらめきました。

 学校の講堂に生徒が集まった時、こいのぼりによる調査に協力してほしいと頼むと、300人以上が残りました。調査は5月上旬の10日間にわたり、それぞれの家でこいのぼりのしっばがどちらを向いているかを調べてもらった。生徒が学校に来ている間は、母親や祖父母が協力してくれました。

   国報告書は作文

 ──その結果を持ち、国の調査団と対抗したのですね。

 向こうの報告書は、学者でなく役人が都合よく書いた作文みたいで、こちらが追及するとしどろもどろでした。これを機に、「こんな報告書を出す国は信頼できない」という不信感がさらに広まっていきました。

──沼津では2万5000人の大集会がありました。

 私は高い場所にいて、集会場所を目指してあらゆる方向から人が集まって来るのを見ていました。壮観でした。今、思い出してもぞくぞくします。「これで勝てる」と確信しました。

 多くの人が、反対という同じ方向を向けたのは、自分たちの住んでいる場所を守るという強いふるさと意識があったからだと思います。当時の人と話をすると、みんな「あれは俺がやったんだ」と胸を張る。それぐらいの思いで取り組んだということです。
(朝日、静岡版。2014年08月27日。長尾大生)


 第2回・元三島市職員、土屋寿山さん

 ──反対運動は三島市から拡大しました。

 政治に関心のある市民が多かったと思います。戦後すぐ三島には、だれもが参加できる「庶民大学」が開講され、民主主義や人権、平和など新しい価値観を熱心に学びました。政治学者の丸山真男ら新進気鋭の若手学者が講師でした。その時に築かれた土壌が、この運動に結びついたとは、よく言われます。

 ──多くの市民が反対で結集した要因は。

 1958年に完成した東洋レーヨン(現東レ)三島工場の影響による大渇水を経験したことが一番でしょう。工場で大量の水を使ったため、62年3月には上水道が完全に止まり、水の配給が数ヵ月続きました。農業用水も枯渇し、農家も大変さを身をもって知っていました。

   農家がいち早く

 それに加え、バス2台100人で四日市を視察したことも大きな影響を与えました。「空気が汚いので昼間も雨戸を閉めている」「ぜんそくの人が多い」「魚は臭くて食べられない」などと住民から聞き、映像におさめてきました。その話は、あっという間に市民に広がりました。

 ──運動に参加していたのは。

 石油精製工場の予定地だった三島市中郷地区の農家がいち早く動き始めました。その後、婦人会、青年会、商工会議所など、幅広い層の市民に広がっていきました。

 当時の長谷川泰三・三島市長は、基本は保守でしたが、革新と一部保守の支持で1961年に初当選しました。その支持者の大半は反対派でした。とはいえ、国や県からの圧力もあり、市議会も賛成派が多数。市長は悩んだと思います。でも、反対運動を抑えつけようとはしなかった。それが、市民全体に運動が広がっていった大きな要因の一つだったと思います。

 ──地元新聞も反対運動を応援しました。

 「三島民報」は、四日市の惨状や反対住民の動きを詳しく伝えるなど、一貫して計画に批判的な記事を掲載しました。中郷地区へは数ヵ月、無料で新聞を配布するなど、市民が情報を共有するのに大きな役割を果たしました。

   学ぶことに意欲

 ──今、同じような問題が起きたとしたら。

 当時のような動きにはならないでしょう。1960年の安保闘争など、当時の人は政治を真剣に考えていた。それに、学習会に見られるように、学ぶことに意欲のある人が多かった。もし運動がなかったら「水の都」と称される三島は今、その面影もなかったかもしれない。

 新幹線が開通し、東京五輪が開催された高度経済成長期の1964年に、水や空気、自然の価値を認め、守った運動があったことは驚きであると同時に、三島市民が誇っていい運動だったと思います。(08月28日。長尾大生)


    第3回、一橋大学講師・平井和子さん

 ──コンビナート阻止運動では女性が活躍しました。

 私は清水町史編纂(へんさん)に関わる中で、女性が重要な役割を果たしたこの運動に興味を持ち研究をしました。

 かっばう着を身につけた主婦たちが先頭に立った抗議行動、念仏講と呼ばれる集まりに参加する年配女性が「悪魔退散、コンビナート退散」と唱えながらのデモは、運動の象徴的な場面としてよく語られます。

 婦人会、女子青年団など既成団体だけでなく、「母として、主婦として」一般の女性たちが多く参加したのも特徴です。これほど多様な女性たちが、主体性をはっきりと持って行動したことは、戦後女性史の中でも特筆すべきことでした。

 ──女性たちが行勤した理由は。

 四日市の公害の惨状を知り、「子どもや孫、次の世代の健康と命を守る」「ふるさとの空気と水を守る」という生活に根ざした訴えに共感する部分が大きかったと思います。

   男性も助け合い

 ──女性が運動に参加しやすい状況だったのですか。

 政党や組合を前面に出さず、こぶしを突き上げたりせず、腕章などはつけないという戦術がとられたため、女性も安心して参加できました。

 主婦同士で子どもを預け合い、近所の女性たちが助け合うネットワークも作られました。また、夫たちも妻が夜に出かける時は、子どもに食事をさせ、寝かしつけるなど家事・育児を分担してくれることも多かったそうです。

 ──運動で女性が果たした役割は。

 家にこもりがちだった女性たちが学習会や集会に参加することで、自分たちに身近な問題としてとらえ、政治に目覚めていきます。積極的に行動するようになると、男性も地域の対等なパートナーとして連携を図るようになりました。

 運動の中心だった男性の一人は「女の人が半分以上いると、この集会は成功するだろうと思うようになった」と言っています。今の時代の男女共同参画を先取りするような言葉が、反対運動の中で自然発生的に出てきたことに驚きます。

   成果得た50年前

──生活権や環境保護を訴えて成功する住民運動は今では困難なのでしょうか。

 原発再稼働や秘密保護法の反対運動を見るにつけ、きちんと成果を出すことができた50年前の運動がうらやましくて仕方ないです。

 官邸前での脱原発デモや集会にも、多くの女性が参加していました。脱原発も、生活に根ざし、次世代を守る視点からいうと、女性に訴えるものが大きいと思います。ただ、脱原発は、全国的な規模の運動なので広がっていくのに時間がかかる。でも、女性が男性を説得していくことで、今後、脱原発が無視できない大きな動きになっていく可能性もあると思います。      (08月29日。長尾大生)


   第4回、国際基督教大学4年・木村匠さん

 ──50年前のコンビナート阻止運動を卒業論文のテーマにしていますが、理由は何だったのでしょうか。

 科学技術と社会との関係、その中でも専門家と非専門家との協働について書きたいと思っていました。何か良い事例はないかと文献を探していたら、「三島」の文字を見つけた。私は沼津の出身ですが、中高は三島の学校に通っていたので、「これは何だろう」と関心を持ちました。

 調べてみると、コンビナートがもたらす生活への影響について学ぶ「学習会」が各地で開かれ、専門家と住民が協働して運動を成功に導いた。また、日本初の環境アセスメント調査を実施し、環境基準ができるきっかけになるなど、社会に大きな影響を与えたことを知りました。

   学校で教わらず

 ──学校で、この運動について教わったことは。

 まったくありません。でも大学受験の時、地理の参考書で「1964年・沼津・清水町にコンビナート進出計画」の文字を見たことはありました。高度経済成長期の年表みたいなところに。いま48歳の母親に、当時聞いたことがありますが、「知らない」と言われました。

 ──運動の影響は今も残っていますか。

 運動から50年の記念式典が、三島市で5月にあったので行きました。会場に座りきれないほどたくさんの人がいたことにびっくりしました。学術的、社会的にインパクトがあった運動だということは文献で知っていましたが、あの会場に行ってみて、運動にかかわった人は本当にすごいことをしたと思っているんだと、身をもって知りました。

   なぜ力を持てたか

 ──現在の学生として、運動をどう見ていますか。

 当時は公害があったにせよ、豊かな生活のためならどんどん開発していこう、というムードだった。その中で阻止運動が起きたのだから、自分たちの世代からすると「すごいね」という受け止め方になります。

 なんで、住民がこんなに力を持てたのか、調べてみても、いまだにわかりません。昔と今は考え方が違うのかも。僕たちは割と無関心だと言われます。周りを見ても、同様のことが今起きたら果たしてみんながそこまで熱心になれるのかな、という感じはします。

 ──この運動は地元にとってどんなものだったと考えますか。

 今でこそ、沼津港は全国的に有名で、「魚がおいしい」と言われているけど、コンビナートの進出を許していたら随分変わっていたんだろうなと思います。

 自分の親や祖父母の生活と運動が結びついていたんだと考えると、立ち上がってもらったことには本当に感謝しないといけないと思います。この運動で得られた成果を、自分たちがきちんと引き継いでいかなければという思いは強くなってきています。
 (08月30日。常松鉄雄)


 第5回、元法政大学教授・故船橋晴俊さん

 ──コンビナート阻止運動を調査されていますね。

 私は社会学者として、住民運動や環境問題などについて研究してきました。社会問題を鮮やかに解決した例を探している時にこの運動に出会い、2002年から2年間、現地で聞き取り調査をしました。

 ──この住民運動をどう評価しますか。

 公害防止の観点から、大規模な工場立地を阻止したという日本で初めての例でした。また、この運動は「公論」を形成し、住民の意思が政策に反映された点でも先駆的でした。

 ──公論とは?

 住民が主体となり、討論を通して鍛えあげた一貫性、説得性のある意見のことです。もちろん世論も大事ですが、ムードで変わる流動的な部分がある世論と公論は異なります。

   学習会がすべて

 ──なぜ公論が作り上げられたのでしょう。

 開発計画や公害問題について学ぶために様々な団体が各地で開いた学習会、四日市の現地視察に代表される住民調査、市民団体が作ったパンフレットやローカル新聞の報道などによって質の高い運動になりました。建設予定地だった三島市中郷地区の農家で運動の中心だった溝田豊治さんに会う機会があり、「なぜ運動は成功したのですか」と質問したち、ただ一言。「学習会がすべてだった」と返ってきました。

 シンプルですが本質を突いています。住民の意思がばらばらではなく、学習することで統合されたから、政策に反映できたのです。

 ──住民調査も大きく影響しました。

 沼津工業高校の先生と生徒300人以上が、こいのぼりを使って風向きを調べました。近視眼的に考えれば、コンビナートの反対運動は就職口を閉ざすことになります。しかし、生徒たちは「働く工場が郷土を汚すのは耐えられない」と、調査に参加した。この結果は、行政や企業側が示した大気汚染はないとするデータヘの反論となり公害反対を支える柱となりました。

   主体的な意見を

 ──東京電力福島第一原発事故が起きた福島でも住民運動はありますが、国や自治体の政策に影響を与えるほどではありません。

 避難が大きなハンディキャップになりました。国から体系立った指示はなく自分たちで判断し避難したことで、結果的に誰がどこにいるかが分からなくなり、なかなか住民の公論形成ができていません。だから行政に対し、効果的な要求を出せていないと思います。

 ──今後の住民運動における課題は何でしょうか。

 周りの意見に流される風見鶏型ではなく、自分の頭で考えて主体的な意見を持つことが大切です。そこが、今の日本人はあいまいになってしまっているかもしれないと感じています。
       (08月31日。杉本崇)
   ◇     
 船橋さんは今月15日、くも膜下出血で亡くなりました。インタビューは6月当時のものです。

    牧野の感想

① 「学習会がすべてだった」に感銘を受けました。これは私の言葉に翻訳しますと「真のオルグとは自分をオルグすること、即ち自分を高めることである」という事になります。

 社会運動を長らく続けてきて、「真のオルグとは何か」は常に中心的な問題意識でした。一般には「無関心な人とか中間的な人を味方に付けるように働きかける」と理解されています。これは間違いではないと思いますが、そのための方法なり手段はどうあるべきかが問題なのです。

 私は、本質論主義という答えを出し、その後もこれを充実させてきました。しかし、その後も多くの間違いや失敗をしました。今では、「学問は一代、思想も一代」という考えに達しています。ヘーゲルの言うように、「内が充実すればそれだけ外への影響力も大きくなる」のだからです。日本の言葉で言い換えるならば、修身斉家治国平天下です。私の大好きな言葉です。

 左翼運動の在り方の批判からベ平連などは「好いと思ったことは一人でもやる。悪いと思った事は一人でも止める」という「住民運動の原則」みたいなものを確認してきたようです。これも立派な考えだと思います。

 左翼運動の中では「真のオルグとは何か」はほとんど研究され、議論されていないと思います。

② しかし、コンビナート阻止に成功した後、少なくとも表面的には、この運動は受け継がれなかったようです。一概に、住民の意識が低いとは言えないと思います。これは相当難しい問題だからです。

 もっとも三島市ではドブ川になっていた川をきれいにする住民運動みたいなものが起きて、今では「水の都」と言われるようになっているのだと思います。三島は東海道の中で私の一番好きな街です。

 闘争の終わった後の問題に戻りますと、私たちの「都立大学大学院の哲学科」の日韓条約反対闘争は、「敗北後」も「月例政治学習会」として継続しましたが、半年間で中止になりました。私は中止に反対したのですが。

③ 「学校で教えられなかった」というのは大きな問題でしょう。なぜそうなったのか、これは調べてみないと分かりません。

 連想するのは、静岡大学でセクハラ事件が相次いで起きて、社会的に注目された時の事です。学内では誰もウンともスンとも言いませんでした。学生も集会を開いて抗議することをしませんでした。多分、授業で取り上げ、皆に考えを書いてもらったのは、私だけでしょう。その後も、毎年、この話はしました。

④ ローカル新聞の貢献が書かれていましたが、現在静岡県では防潮堤作りが進められています。これは大問題です。先日、NHKテレビは全国放送で取り上げていました。ローカル局でも取り上げているところがあります。

 しかし、その取り上げ方を見てみますと、県の進めている「巨大防潮堤」についてどう考えるか、だけです。宮脇昭さんの「防潮林」構想を実践している人たちがかなりいて、既に実行しているのに、これについては全然言及していません。これでは「公正な報道」とは言えないでしょう。


     関連項目

本質論主義の運動

静岡大学のセクハラ問題

森の防潮堤


活動報告、2014年9月12日

2014年09月12日 | タ行
 最近の主たる仕事である「小論理学」(未知谷版)の準備は「本質論」まで終わりました。後90頁足らずで、全体の4分の1が残っていることになります。

 ここで「現実性論」についていくつかの問題点が出てきました。寺沢訳「大論理学2」に付いている「付論」(本質論の構成についての大小論理学の比較)を読んで、考えています。つまり、「概念論」に入る前に小休憩をしています。

 「現実性」論を考えるために、ヘーゲルの「哲学史講義」でスピノザを読み返し、更にライプニッツ等の読み返しも必要だと分かりました。寺沢の意見を読んでいて、ユダヤ教とキリスト教の異同が分かっていないのではないかと、感じましたので、この点の確認もしています。

 現実性論にはスピノザが出てきます。ヘーゲルは、スピノザはユダヤ教の当時の公式的な立場には反対しましたが、キリスト教に改宗はしなかった、それが「実体」を「主体」と捉えることを妨げた、と言いたいようです。

 ヘーゲルにとっては神を「三位一体の神」と捉えることが肝心の点だったと思います。これは単なるヒラメキですが、ヘーゲルの「概念の内在的展開」という考えは、「三位一体の神」を「父なる神から子なる神(イエス)が出て来るのだが、そこで聖母マリアが間に立っている(媒介の役を果たしている)」というの解釈と、その論理構造で一致している、と気づきました。後者の解釈はヘーゲル独自のものかもしれません。キリスト教辞典などには見られませんから。また、両者が一致していると気付いたとしても、どっちを基にして他に気づいたかは、分かりません。いずれにせよ、先を急がないで寄り道をするといい考えに気づきます。

 少し偉そうな事を言いますが、日本人が欧米の文学や思想を研究する場合、キリスト教の勉強を回避している人が多いように思います。しかし、欧米の思想を語るには、キリスト教の基本くらい勉強しなければならないでしょう。そして、そのためには、キリスト教とユダヤ教の根本の違いくらいは知っていなければならないでしょう。

 一般化して考えますと、思想については、或る思想に興味を持つとその思想ばかり知ろうとします。他の思想の事は勉強しません。これが普通でしょう。1つの思想を勉強するだけでも大変ですから、こういう態度も理解はできます。しかし、本当を言えば、これでは拙いと思います。

 語学についても同じです。1つの言葉をマスターするだけでも大変なのに、複数の言葉を勉強しなければならないなんて、という訳です。そのため、ほとんどの文法家は1つの言語の文法しか調べないのです。日本人の場合なら、せいぜい日本語と比較して考える程度です。しかし、これでは本当の文法は出来ないと思います。文法は原理的に比較文法なのです。ですから、関口さんやザメンホフのような語学の天才にしか、本当の文法は分からなかったのでしょう。

 断っておきますが、私は自分を文法家だとは思っていません。私の仕事は、「関口を中心とする諸氏の文法を整理し、比較し、用例を集めてみた」というだけです。しかるに、この「まとめる」仕事こそ哲学だと思うのです。「哲学は形式に関する学問だが、その形式とは内容を生み出す形式である」というのヘーゲルの考えだったと思います。

      関連項目

牧野紀之

主食

2014年09月06日 | サ行
 佐々木健一著『辞書になった男』(文芸春秋社)を読んでいたら、辞書編纂者たちが「主食という語を辞書に載せ忘れているのになかなか気づかなかった」といったことが書いてありました。気になりましたので、どういう「語釈」が書いてあるのかなと、見てみました。

 明鏡には「日常の食事の中心となる食物」とありました。新明解には「食事のうちで、主としてカロリーのもとになる食べ物。米・麦などの穀物とか食パンなどを指す」とありました。両著共に、当然の事ながら、「副食」との対概念である旨の指示だけはありました。

 私だったらどういう事を書くかな、と考えました。

 主食という概念(言葉)は、朝食とか昼食とか夕食とかの1回の食事を「主食と副食」とに分けて考える人ないし民族だけにある概念である、という事です。

 という事は、そのように考えない人や民族もあるからです。私の狭い経験と知識だけでも、ドイツ人はそういう考えを持っていないと思います。和独辞典で「主食」を引きますとHauptnahrungとありますが、逆に独和辞典でこの語を引いても出ていません。

 ドイツ人の食事を考える際の区別は「Hauptmahlzeit(主たる食事)はいつか」と「kaltes Essen(冷食)かwarmes Essen(暖食)か」の2つだと思います。Hauptmahlzeit(ハウプトマールツァイト)とは「一日の食事の中で中心的ないし主たる食事」のことで、ドイツではたいてい昼食です。日本ではもちろん夕食です。暖食というのは文字通りの意味で「火を使った暖かい料理の出る食事」のことで、そうでないのが冷食です。ドイツでは昼食が暖食で、夕食はパンを切ったものとチーズとかハムだけのことが多いようです。

 ついでに。日本の料理は最初からすべて食卓の上に並べて、食べる人がご飯とその他とを交互に選んで食べる横型の食事と、欧米のように前菜から主菜、そしてデザート等といったように1つずつ前後して出る縦型の食事との区別もあると思います。

 要するに、主食を日本語辞典で説明する際には、外国の食事と比較しての日本人の食習慣の特徴を説明しなければならない、という事です。国際化の激しい現在はますますこういう説明が必要だと思います。

 学問では問題意識が一番大切で決定的だと思います。貧弱な、あるいは狭い問題意識で145万もの用例を集めても本当の日本語辞典はできないということです。