最初の見出し
半世紀前、沼津、三島の両市と清水町に石油化学コンビナートの建設計画が持ち上がったが、住民の大規模な反対運動で中止された。高度経済成長の陰で公害問題が深刻な影響を及ぼしていた当時、公害の発生を事前に予測し、コンビナートの進出を阻止した運動は「沼津・三島型」と呼ばれ、後の住民運動に大きな影響を与えたと言われる。
50年前の熱気あふれる運動を振り返るとともに、今の時代が運動から何を学ぶべきかを関係者や研究者ら5人に聞いた。
解説・石油化学コンビナート計画と反対運動
静岡県が1963年12月、沼津市に火力発電所、三島市に石油精製工場、清水町に石油化学工場の進出計画を発表。住民らは「水と空気を守れ」と反対運動を展開した。医師や科学者が講師となった学習会が各地で開かれ、三重県四日市市の石油コンビナートでの公害や計画の危険性についての問題意識が住民に広まった。また、「公害は防げる」とした国の調査団に対し、地元調査団は「公害の恐れが十分ある」と報告。反対運動は、農民、漁民、母親、青年ら多種多様の人々を巻き込んで拡大した。64年5月に三島市長が反対を表明。同年9月には沼津市で2万5000人の総決起集会があり、沼津市長が進出拒否を表明。翌10月には、清水町に会社側から進出断念が伝えられた。
第1回・元沼津工業高校教諭、西岡昭夫さん
──運動に参加した理由は何だったのですか。
県の計画説明会では、環境対策などにまったく触れずじまい。すでに三重県の四日市などで公害は発生していて、大変なことになると直感しました。その一方で、説明があまりにずさんだったから、こちらが科学的な事実を積み重ねて反対すれば、阻止できる可能性があると考えました。
学習会重ね理解
──各地での学習会が運動拡大に大きな役割を果たしたと聞きました。
国立遺伝学研究所(三島市)の医師や研究者、私たち沼津工業高の教師らが講師になり、数人の集まりから数百人の大集会まで、毎晩のように出かけました。1日に数ヵ所かけもちもざらで、私は計300回ぐらい参加しました。
四日市視察の映像を見て、現地の人たちの証言を聞くことで、住民はコンビナート進出を生活に関わる具体的な問題としてとらえ始めました。そこに科学的なデータの説明が加わり、危険性への理解が深まっていったと思います。
その上、最初は聞くだけだった参加者が、次第に積極的に発言するようになった。漁業、農業、主婦ら様々な立場の人が意見を出し合う中で、多くの経験に裏打ちされた知恵が蓄積され、参加者共通の認識ができ上がっていきました。
──地元調査団に参加されましたね。
私は気象学が専門で、工場が出す亜硫酸ガスが地域に広がる様子を調査しました。端午の節句を前に空を泳いでいるこいのばりを見て、「これで風向を調べれば」とひらめきました。
学校の講堂に生徒が集まった時、こいのぼりによる調査に協力してほしいと頼むと、300人以上が残りました。調査は5月上旬の10日間にわたり、それぞれの家でこいのぼりのしっばがどちらを向いているかを調べてもらった。生徒が学校に来ている間は、母親や祖父母が協力してくれました。
国報告書は作文
──その結果を持ち、国の調査団と対抗したのですね。
向こうの報告書は、学者でなく役人が都合よく書いた作文みたいで、こちらが追及するとしどろもどろでした。これを機に、「こんな報告書を出す国は信頼できない」という不信感がさらに広まっていきました。
──沼津では2万5000人の大集会がありました。
私は高い場所にいて、集会場所を目指してあらゆる方向から人が集まって来るのを見ていました。壮観でした。今、思い出してもぞくぞくします。「これで勝てる」と確信しました。
多くの人が、反対という同じ方向を向けたのは、自分たちの住んでいる場所を守るという強いふるさと意識があったからだと思います。当時の人と話をすると、みんな「あれは俺がやったんだ」と胸を張る。それぐらいの思いで取り組んだということです。
(朝日、静岡版。2014年08月27日。長尾大生)
第2回・元三島市職員、土屋寿山さん
──反対運動は三島市から拡大しました。
政治に関心のある市民が多かったと思います。戦後すぐ三島には、だれもが参加できる「庶民大学」が開講され、民主主義や人権、平和など新しい価値観を熱心に学びました。政治学者の丸山真男ら新進気鋭の若手学者が講師でした。その時に築かれた土壌が、この運動に結びついたとは、よく言われます。
──多くの市民が反対で結集した要因は。
1958年に完成した東洋レーヨン(現東レ)三島工場の影響による大渇水を経験したことが一番でしょう。工場で大量の水を使ったため、62年3月には上水道が完全に止まり、水の配給が数ヵ月続きました。農業用水も枯渇し、農家も大変さを身をもって知っていました。
農家がいち早く
それに加え、バス2台100人で四日市を視察したことも大きな影響を与えました。「空気が汚いので昼間も雨戸を閉めている」「ぜんそくの人が多い」「魚は臭くて食べられない」などと住民から聞き、映像におさめてきました。その話は、あっという間に市民に広がりました。
──運動に参加していたのは。
石油精製工場の予定地だった三島市中郷地区の農家がいち早く動き始めました。その後、婦人会、青年会、商工会議所など、幅広い層の市民に広がっていきました。
当時の長谷川泰三・三島市長は、基本は保守でしたが、革新と一部保守の支持で1961年に初当選しました。その支持者の大半は反対派でした。とはいえ、国や県からの圧力もあり、市議会も賛成派が多数。市長は悩んだと思います。でも、反対運動を抑えつけようとはしなかった。それが、市民全体に運動が広がっていった大きな要因の一つだったと思います。
──地元新聞も反対運動を応援しました。
「三島民報」は、四日市の惨状や反対住民の動きを詳しく伝えるなど、一貫して計画に批判的な記事を掲載しました。中郷地区へは数ヵ月、無料で新聞を配布するなど、市民が情報を共有するのに大きな役割を果たしました。
学ぶことに意欲
──今、同じような問題が起きたとしたら。
当時のような動きにはならないでしょう。1960年の安保闘争など、当時の人は政治を真剣に考えていた。それに、学習会に見られるように、学ぶことに意欲のある人が多かった。もし運動がなかったら「水の都」と称される三島は今、その面影もなかったかもしれない。
新幹線が開通し、東京五輪が開催された高度経済成長期の1964年に、水や空気、自然の価値を認め、守った運動があったことは驚きであると同時に、三島市民が誇っていい運動だったと思います。(08月28日。長尾大生)
第3回、一橋大学講師・平井和子さん
──コンビナート阻止運動では女性が活躍しました。
私は清水町史編纂(へんさん)に関わる中で、女性が重要な役割を果たしたこの運動に興味を持ち研究をしました。
かっばう着を身につけた主婦たちが先頭に立った抗議行動、念仏講と呼ばれる集まりに参加する年配女性が「悪魔退散、コンビナート退散」と唱えながらのデモは、運動の象徴的な場面としてよく語られます。
婦人会、女子青年団など既成団体だけでなく、「母として、主婦として」一般の女性たちが多く参加したのも特徴です。これほど多様な女性たちが、主体性をはっきりと持って行動したことは、戦後女性史の中でも特筆すべきことでした。
──女性たちが行勤した理由は。
四日市の公害の惨状を知り、「子どもや孫、次の世代の健康と命を守る」「ふるさとの空気と水を守る」という生活に根ざした訴えに共感する部分が大きかったと思います。
男性も助け合い
──女性が運動に参加しやすい状況だったのですか。
政党や組合を前面に出さず、こぶしを突き上げたりせず、腕章などはつけないという戦術がとられたため、女性も安心して参加できました。
主婦同士で子どもを預け合い、近所の女性たちが助け合うネットワークも作られました。また、夫たちも妻が夜に出かける時は、子どもに食事をさせ、寝かしつけるなど家事・育児を分担してくれることも多かったそうです。
──運動で女性が果たした役割は。
家にこもりがちだった女性たちが学習会や集会に参加することで、自分たちに身近な問題としてとらえ、政治に目覚めていきます。積極的に行動するようになると、男性も地域の対等なパートナーとして連携を図るようになりました。
運動の中心だった男性の一人は「女の人が半分以上いると、この集会は成功するだろうと思うようになった」と言っています。今の時代の男女共同参画を先取りするような言葉が、反対運動の中で自然発生的に出てきたことに驚きます。
成果得た50年前
──生活権や環境保護を訴えて成功する住民運動は今では困難なのでしょうか。
原発再稼働や秘密保護法の反対運動を見るにつけ、きちんと成果を出すことができた50年前の運動がうらやましくて仕方ないです。
官邸前での脱原発デモや集会にも、多くの女性が参加していました。脱原発も、生活に根ざし、次世代を守る視点からいうと、女性に訴えるものが大きいと思います。ただ、脱原発は、全国的な規模の運動なので広がっていくのに時間がかかる。でも、女性が男性を説得していくことで、今後、脱原発が無視できない大きな動きになっていく可能性もあると思います。 (08月29日。長尾大生)
第4回、国際基督教大学4年・木村匠さん
──50年前のコンビナート阻止運動を卒業論文のテーマにしていますが、理由は何だったのでしょうか。
科学技術と社会との関係、その中でも専門家と非専門家との協働について書きたいと思っていました。何か良い事例はないかと文献を探していたら、「三島」の文字を見つけた。私は沼津の出身ですが、中高は三島の学校に通っていたので、「これは何だろう」と関心を持ちました。
調べてみると、コンビナートがもたらす生活への影響について学ぶ「学習会」が各地で開かれ、専門家と住民が協働して運動を成功に導いた。また、日本初の環境アセスメント調査を実施し、環境基準ができるきっかけになるなど、社会に大きな影響を与えたことを知りました。
学校で教わらず
──学校で、この運動について教わったことは。
まったくありません。でも大学受験の時、地理の参考書で「1964年・沼津・清水町にコンビナート進出計画」の文字を見たことはありました。高度経済成長期の年表みたいなところに。いま48歳の母親に、当時聞いたことがありますが、「知らない」と言われました。
──運動の影響は今も残っていますか。
運動から50年の記念式典が、三島市で5月にあったので行きました。会場に座りきれないほどたくさんの人がいたことにびっくりしました。学術的、社会的にインパクトがあった運動だということは文献で知っていましたが、あの会場に行ってみて、運動にかかわった人は本当にすごいことをしたと思っているんだと、身をもって知りました。
なぜ力を持てたか
──現在の学生として、運動をどう見ていますか。
当時は公害があったにせよ、豊かな生活のためならどんどん開発していこう、というムードだった。その中で阻止運動が起きたのだから、自分たちの世代からすると「すごいね」という受け止め方になります。
なんで、住民がこんなに力を持てたのか、調べてみても、いまだにわかりません。昔と今は考え方が違うのかも。僕たちは割と無関心だと言われます。周りを見ても、同様のことが今起きたら果たしてみんながそこまで熱心になれるのかな、という感じはします。
──この運動は地元にとってどんなものだったと考えますか。
今でこそ、沼津港は全国的に有名で、「魚がおいしい」と言われているけど、コンビナートの進出を許していたら随分変わっていたんだろうなと思います。
自分の親や祖父母の生活と運動が結びついていたんだと考えると、立ち上がってもらったことには本当に感謝しないといけないと思います。この運動で得られた成果を、自分たちがきちんと引き継いでいかなければという思いは強くなってきています。
(08月30日。常松鉄雄)
第5回、元法政大学教授・故船橋晴俊さん
──コンビナート阻止運動を調査されていますね。
私は社会学者として、住民運動や環境問題などについて研究してきました。社会問題を鮮やかに解決した例を探している時にこの運動に出会い、2002年から2年間、現地で聞き取り調査をしました。
──この住民運動をどう評価しますか。
公害防止の観点から、大規模な工場立地を阻止したという日本で初めての例でした。また、この運動は「公論」を形成し、住民の意思が政策に反映された点でも先駆的でした。
──公論とは?
住民が主体となり、討論を通して鍛えあげた一貫性、説得性のある意見のことです。もちろん世論も大事ですが、ムードで変わる流動的な部分がある世論と公論は異なります。
学習会がすべて
──なぜ公論が作り上げられたのでしょう。
開発計画や公害問題について学ぶために様々な団体が各地で開いた学習会、四日市の現地視察に代表される住民調査、市民団体が作ったパンフレットやローカル新聞の報道などによって質の高い運動になりました。建設予定地だった三島市中郷地区の農家で運動の中心だった溝田豊治さんに会う機会があり、「なぜ運動は成功したのですか」と質問したち、ただ一言。「学習会がすべてだった」と返ってきました。
シンプルですが本質を突いています。住民の意思がばらばらではなく、学習することで統合されたから、政策に反映できたのです。
──住民調査も大きく影響しました。
沼津工業高校の先生と生徒300人以上が、こいのぼりを使って風向きを調べました。近視眼的に考えれば、コンビナートの反対運動は就職口を閉ざすことになります。しかし、生徒たちは「働く工場が郷土を汚すのは耐えられない」と、調査に参加した。この結果は、行政や企業側が示した大気汚染はないとするデータヘの反論となり公害反対を支える柱となりました。
主体的な意見を
──東京電力福島第一原発事故が起きた福島でも住民運動はありますが、国や自治体の政策に影響を与えるほどではありません。
避難が大きなハンディキャップになりました。国から体系立った指示はなく自分たちで判断し避難したことで、結果的に誰がどこにいるかが分からなくなり、なかなか住民の公論形成ができていません。だから行政に対し、効果的な要求を出せていないと思います。
──今後の住民運動における課題は何でしょうか。
周りの意見に流される風見鶏型ではなく、自分の頭で考えて主体的な意見を持つことが大切です。そこが、今の日本人はあいまいになってしまっているかもしれないと感じています。
(08月31日。杉本崇)
◇
船橋さんは今月15日、くも膜下出血で亡くなりました。インタビューは6月当時のものです。
牧野の感想
① 「学習会がすべてだった」に感銘を受けました。これは私の言葉に翻訳しますと「真のオルグとは自分をオルグすること、即ち自分を高めることである」という事になります。
社会運動を長らく続けてきて、「真のオルグとは何か」は常に中心的な問題意識でした。一般には「無関心な人とか中間的な人を味方に付けるように働きかける」と理解されています。これは間違いではないと思いますが、そのための方法なり手段はどうあるべきかが問題なのです。
私は、本質論主義という答えを出し、その後もこれを充実させてきました。しかし、その後も多くの間違いや失敗をしました。今では、「学問は一代、思想も一代」という考えに達しています。ヘーゲルの言うように、「内が充実すればそれだけ外への影響力も大きくなる」のだからです。日本の言葉で言い換えるならば、修身斉家治国平天下です。私の大好きな言葉です。
左翼運動の在り方の批判からベ平連などは「好いと思ったことは一人でもやる。悪いと思った事は一人でも止める」という「住民運動の原則」みたいなものを確認してきたようです。これも立派な考えだと思います。
左翼運動の中では「真のオルグとは何か」はほとんど研究され、議論されていないと思います。
② しかし、コンビナート阻止に成功した後、少なくとも表面的には、この運動は受け継がれなかったようです。一概に、住民の意識が低いとは言えないと思います。これは相当難しい問題だからです。
もっとも三島市ではドブ川になっていた川をきれいにする住民運動みたいなものが起きて、今では「水の都」と言われるようになっているのだと思います。三島は東海道の中で私の一番好きな街です。
闘争の終わった後の問題に戻りますと、私たちの「都立大学大学院の哲学科」の日韓条約反対闘争は、「敗北後」も「月例政治学習会」として継続しましたが、半年間で中止になりました。私は中止に反対したのですが。
③ 「学校で教えられなかった」というのは大きな問題でしょう。なぜそうなったのか、これは調べてみないと分かりません。
連想するのは、静岡大学でセクハラ事件が相次いで起きて、社会的に注目された時の事です。学内では誰もウンともスンとも言いませんでした。学生も集会を開いて抗議することをしませんでした。多分、授業で取り上げ、皆に考えを書いてもらったのは、私だけでしょう。その後も、毎年、この話はしました。
④ ローカル新聞の貢献が書かれていましたが、現在
静岡県では防潮堤作りが進められています。これは大問題です。先日、NHKテレビは全国放送で取り上げていました。ローカル局でも取り上げているところがあります。
しかし、その取り上げ方を見てみますと、県の進めている「巨大防潮堤」についてどう考えるか、だけです。宮脇昭さんの「防潮林」構想を実践している人たちがかなりいて、既に実行しているのに、これについては全然言及していません。これでは「公正な報道」とは言えないでしょう。
関連項目
本質論主義の運動
静岡大学のセクハラ問題
森の防潮堤