マキペディア(発行人・牧野紀之)

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ながく、牧野紀之の仕事に関心を持っていただき、ありがとうございます。 牧野紀之の近況と仕事の引継ぎ、鶏鳴双書の注文受付方法の変更、ブログの整理についてお知らせします。 本ブログの記事トップにある「マキペディアの読者の皆様へ」をご覧ください。   2024年8月2日 中井浩一、東谷啓吾

ベーシックインカム関係の本の紹介

2012年05月29日 | ハ行
                   山森 亮(とおる)・同志社大学教授

 ベーシックインカム(以下BI)とは、全ての人は生活に足る所得への権利を無条件で持つ、という考え方である。生存権の純粋な形での表現といっても良い。18世紀末に出現した(トマス・ペイン『人間の権利』)。

 19世紀半ば以降、労働の不正義の告発と結びついてBIは要求されてきた。J・S・ミルの『経済学原理』(岩波文庫、品切れ)は、労働意欲を阻害せず、また高い労働生産性をもたらすだろうと、BIを評価している。当時の要求のなかでは、社会に必要な重労働の賃金が低いことを批判し、BI導入によって、そうしたいわゆる3K労働の賃金が上がることが希求された。

こうした希求は現代まで連綿と受け継がれている。米の「我々は99%である」占拠運動のなかでもこの要求は聞かれたし、日本では橋口昌治が『若者の労働運動』(生活書院・2625円)のなかで紹介する運動の一部で、2006年ごろからこの要求が聞かれるようになった。

 また障害者の介助者の運動のなかで「万人の所得保障」が掲げられたりもしている(渡邊琢『介助者たちは、どう生きていくのか』生活書院・2415円)。

 1960年代後半以降、ケアなどの不払い労働を問題化するフェミニストたちと、福祉権運
動との解こうのなかで、BIが要求された。当時の要求運動の中心にいたのは女性たちだった。『ベーシックインカムとジェンダー』や、「現代思想」2010年6月号(青土社・1300円)の特集「ベーシックインカム──要求者たち」には、今ここの家父長制社会のなかで、この要求を掲げることの希望、困難、そして危険について率直な意見が表明されている。

 大月書店の叢書(労働再審)シリーズには、労働、障害、ジェンダーなどとの関わりでBIを論じる論考がいくつか収録されている。他方で立岩真也、斎藤拓『ベイシックインカム』(青土社・2310円)は、BIの主張は、労働問題への取り組みと切り離されている、あるいは切り離すべきだと論じる。

 日本でBIという概念の普及に貢献しているのは、実は書籍よりもインターネット上の議論ではないかと思う。『働かざるもの、飢えるべからず。』の小飼弾や、山崎元など有力なブロガーたちの議論に触発される形で、多様な議論が展開されている。

 この多様さを要約することなどできないが、行政のスリム化などへの希求が語られることが多いように思う。その背景にある、政府への不信は真剣に受け止める必要がある(ミルトン・フリードマン『資本主義と自由』日経BP社・2520円)。

 もとより上記で紹介したような要求運動は、60年代以降、政府が福祉受給者の生活に裁量的に介入することへの批判とともに展開されてきた。BIによって、私たちの生活を政府が裁量的にコントロールする度合いを「スリム化」できるからである。

 しかし政府支出の規模や公務員数を「スリム化」できると考えるならば、これはBIと代替できる制度の大きさを過剰に見積もっているのではないか。

 不正義への憤りはときに暴発する。30年代にはベーシックインカム要求者たちの金融資本への憤りが反ユダヤ主義と結びつくこともあった。いま私たちはベーシックインカムとともにどこへ向かうことができるだろうか。

 (朝日、2012年05月27日。読書欄)

     関連項目

ベーシックインカム

PS・新党日本はその後、「地域密着型事業で全ての成人に週20時間の就労と賃金を最低保障するベーシックワーク」というものまで提唱しているようです。




お知らせ

2012年05月24日 | 読者へ
 「絶版書誌抄録」はこの所、読者の協力を得て、内容を増やしています。

 個々の掲載書籍等についての紹介もして行きたいと思っています。

 その「目次」が使いにくい物でしたので、抜本的に新しくしました。下線を引いてある見出しにはリンクを貼ってありますので、それをクリックすればその頁が出てきます。

 「絶版書誌抄録」の「目次」

2012年05月24日、牧野 紀之

広域処理にこだわるな

2012年05月22日 | ハ行
             朝日新聞社岩手県宮古支局長・伊藤智章(ともあき))

 震災がれきの広域処理に疑問がある。膨大な運搬費用をかけ、放射能汚染を心配する地域住民と摩擦を起こしてまで急ぐ必要があるのか。

 朝日新聞宮古支局から1㌔の宮古港にもがれきの山がある。昨年11月、東京都への運び出しが始まった。がれきの放射線量は東京の方が高いこともあるのに、反対する人たちがいる。それに比べ、「さすがは剛腕都知事」と最初は感心した。

 でも、東京に搬出するのに1トン当たり処理費4万4000円に加え、輸送費が1万5000円かかると知って考え込んだ。北海道、北陸などへ搬出すれば、さらに輸送費はかさむ。それでいいのか?

 何しろ、県外搬出予定量は岩手が57万トン、宮城は344万トンにのぼるのだ。地元処理分を含めて、経費は全額国費負担。国は2年でまず1兆円を用意している。

 環境省は「岩手はふだんの11年分、宮城は19年分ある。目標の『3年以内の処理』には広域協力が不可欠」と説明する。でも、リサイクルに回すなどしており、岩手でいえば処理が必要なのは半分以下。しかも、被災地も仮設炉などで能力を増強しており、県外に頼む必要があるのはその一部だけだ。

 3年にこだわらず、国費負担を1、2年延長すれば、県外に頼まなくても処理できる計算だ。量の多い宮城県石巻市などは、例外的に集中して広域支援すればいい。

 置き場のグラウンドや港湾の利用が制約されるというが、被災地は広大だ。阪神大震災では3年以内に処理したが、都市部と同列に考えなくてもいいはずだ。「がれきの山をみることで被災者が傷つく」という説明も聴くが、少なくとも私は現場でそういう人に会ったことがない。

 岩手県の岩泉町長や田野畑村長は「ゆっくり地元で処理し、雇用や経済に貢献してほしい」と私に話したが、現状は県が仕切り、首長の意向を反映する余地はない。

 両町村計13万トンのがれきをすべて東京に運べば、運搬費だけで20億円。同村の一般会計の3分の2に当たる規模だ。処理速度を上げるため、大事業者などによる巨大な分別プラントが稼働している。これも期限を延ばせば、もっと地元が参入できるだろう。

 仮設住宅の建設も急ぐあまり、国が費用を持ち、県が発注したところ、断熱材不足など不具合が続出した。がれき処理も同じ構図だ。現場から離れた判断を懸念する。
(朝日、2012年05月19日。記者有論)

 感想・傾聴に値する見解だと思います。

 その後の再計算で、岩手県のがれきは525万トン(内、広域処理の必要は120万トン)に増えたが、宮城県のそれは1154万トン(内、広域は127万トン)で、合計広域処理の必要量は4割減少して247万トンに減ったと伝えられました。

 しかし、事の本質は変わらず、伊藤さんの意見は生きていると思います。

マキペディアの実績(週間平均記録)

2012年05月20日 | マ行
2012年02月26日~03月03日、1573PV、241人、4037位(168万9791本中)

2012年05月13日~05月19日、1095PV、260人、3332位(171万8988本中)

 感想・訪問者数は増えましたので順位は上がりましたが、1人当たりの閲覧頁数が6.5頁→4.2頁へと減った(正常化した?)ので、PV数は落ちた、という事ではないでしょうか。

原子力ムラの灰色学者たち

2012年05月19日 | カ行
 01、2012年01月01日、朝日新聞の記事

 一面トップ

 東京電力福島第一原子力発電所の事故時、中立的な立場で国や電力事業者を指導する権限を持つ内閣府原子力安全委員会の安全委員と非常勤の審査委員だった89人のうち、班目(まだらめ)春樹委員長を含む3割近くの24人が2010年度までの5年間に、原子力関連の企業・業界団体から計約8500万円の寄付を受けていた。朝日新聞の調べで分かった。

 うち11人は原発メーカーや、審査対象となる電力会社・核燃料製造会社からも受け取っていた。

 寄付は使途の報告義務がない金銭支援だ。安全委の委員へのその詳細が明らかになるのは初めて。委員らは影響を否定している。

 要員所属・出身の大学や研究機関に情報公開請求や直接取材した。安全委員5人では、班目委員長と代谷(しろや)誠治委員、審査委員84人では22人。企業・団体は研究助成の名目で大学を通じて指定の教授らに寄付していた。20人は審査委員に就任後も受け、少なくとも総計は6000万円に上った。

 2010年4月に就任した班目委員長は、東京大教授当時の2006~09年、三菱重工業から計400万円を受けていた。代谷委員は、審査委員だった京都大教授当時の2007~09年、審査対象となる原子燃料工業から10万円、日本原子力産業協会の地方組織から計310万円。

 班目委員長は「便宜は一切図っていない」と述べ、「全て公開して(国民に)判断してもらうことに尽きる」と公開の必要性を認めた。代谷委員は「審査で言うことに変化はない」と話す。

 社会面

 原発の安全審査の最大のかなめとも言える内閣府の原子力安全委員会。その委員の3割近くが原子力業界から寄付を受けていた。中立性は保たれるのか。

 「安全性は確保し得る」。2010年4月、国内初のプルトニウム・ウラン混合酸化物(MOX)燃料加工工場(青森県六ヶ所村)を審査していた安全委の部会で、こんな結論が出された。核燃料サイクル政策で不可欠とされる施設。審査を受けたのは、電力会社10社が主に出資して設立された日本原燃だ。

 朝日新聞の調べではこの部会の審査委員22人(発足時)のうち岸徳光・室蘭工大教授が北海道電力から、京都大の山名元、大阪大の山中伸介両教授と山根義宏・名古屋大名誉教授は関西電力副社長が会長の業界団体から寄付を受けていた。

 4人は「寄付は受けたがどの審査にも影響はない」と語る。安全委事務局は「審査する事業者と直接的な関係のある委員は審査メンバーにならないようにしてきた」と説明。日本原燃から直接の寄付はなく、問題化することはなかった。

 今回寄付が確認された企業は「委員だけを狙っているわけではない」と口をそろえる。三菱重工業は「原子力産業の技術向上のため」、審査対象企業の原子燃料工業は「大学の寄付規定に賛同した場合に送る」と説明する。だが、電力会社の元幹部は「寄付でパイプをつくった先生のアドバイスを事前に受ければ審査でもめない」と語る。

 寄付は企業との共同・受託研究費と違って成果を出す責任もなく、使いやすい資金だ。委員のほとんどは「研修や学会に行く学生の旅費」、「備品の購入」と使い道を説明する。一部は大学の会計に入るケースも多い。ある委員は言う。「国立大が法人化され、研究者は何とか外部から資金を持ってこないといけない」。

 安全委は2009年、審査を担当する企業からの金銭支援や業界組織との兼職歴を自己申告させる制度を設けた。だが、対象は非常勤の審査委員だけで、金銭支援は非公開だ。委員の一人は「外部からみても納得できるルールが必要だ」と述べた。(大谷聡、二階堂祐介、北上田剛)

  班目春樹・元東大教授──400万円
  代谷誠治・元京大教授──310万円
  阿部豊・筑波大教授──500万円
  岡本孝司・東大教授──200万円
  岸徳光・室蘭工大教授──800万円
  酒井信介・東大教授──30万円
  関村直人・東大教授──234万円
  寺井隆幸・東大教授──180万円
  森山裕丈・京大教授──120万円
  山名元・京大教授──180万円
  山根義宏・名大名誉教授──240万円

 02、2012年02月06日、朝日新聞

 東京電力福島第一原発事故後の原子力政策の基本方針(原子力政策大綱)を決めるため内閣府原子力委員会に設けられている会議の専門委員23人のうち、原子力が専門の大学教授3人全員が、2010年度までの5年間に原発関連の企業・団体から計1839万円の寄付を受けていた。朝日新聞の調べでわかった。

 会議では、福島の事故後に政府が打ち出した減原発方針が大綱にどう反映されるかが焦点となっている。原子力委の事務局は3人の選定理由を「安全性などの専門知識を期待した」と説明するが、電力会社や原発メーカーと密接なつながりがあったことになる。

 3人は東京大の田中知(さとる)(日本原子力学会長)、大阪大の山口彰、京都大の山名元の各教授。3人は寄付を認めたうえで、「会議での発言は寄付に左石されない」などと話している。

 この会議は新大綱策定会議。元東京大原子力研究総合センター長の近藤駿介委員長ら原子力委員5人と専門委員で構成され、今年8月をめどに大綱をつくる。

 寄付は所属大学に情報公開請求し、公開対象の過去5年分が判明した。

 寄付をしていたのは、青森県に大間原発を建設中の電源開発、茨城・福井両県に原発をもつ日本原子力発電の電力2社、日立製作所、日立GEニュークリア・エナジー、三菱重工業の各原発メーカー、原子力関連企業・団体でつくる業界団体「日本原子力産業協会」の地方組織である関西、東北原子力懇談会、関西電力のグループ会社の原子力エンジニアリング。

 このうち山名教授への50万円は、策定会議の専門委員に就任した後の2011年2月に関西原子力懇談会から受けたものだった。

 3人は会議で「福島の事故を受けて安全対策は随分とられている」、「高速炉は魅力。開発は続けるべきだ」などと発言している。

 寄付は研究助成が名目で奨学寄付とも呼ばれ、企業・団体が研究者を指定して大学の口座に振り込む。教授側は使い道を大学に申告するが、企業・団体への報告義務はない。企業・団体からの受託研究費などと比ベ、研究者が扱いやすい資金とされる。

 原子力委は業界からの金銭支援について委員らから申告させていない。(大谷聴、二階堂祐介)

 田中 知・東大教授──400万円
 山口 彰・阪大教授──824万円
 山名 元・京大教授──615万円

 03、2012年03月25日、朝日新聞の記事

 一面トップ

 全国最多の原発14基を抱える福井県から依頼され、原発の安全性を審議する福井県原子力安全専門委員会の委員12人のうち、4人が2006~10年度に関西電力の関連団体から計790万円、1人が電力会社と原発メーカーから計700万円の寄付を受けていた。朝日新聞の調べでわかった。

 政府は近く、停止中の原発の中で手続きがもっとも進む関電大飯原発(福井県おおい町)3、4号機の再稼働について福井県に同意を求め、県は県原子力委に助言を求める見通しだが、5人の委員が関電など審議対象と利害関係にあることになる。5人はいずれも寄付の影響を否定している。

 委員らの所属大学に情報公開請求し、大学を通じて研究助成名目で寄せられた5年分の寄付が開示され、委員にも取材した。

 関電関連の業界団体「関西原子力懇談会」(会長=西原英晃・京都大名誉教授、関原懇、大阪市)から寄付を受けたのは4人の大学教授と元教授。4人とも、関電に近い団体と認識していたという。大飯原発を建てた三菱重工業と、福井県内に敦賀原発を持つ日本原子力発電から受けた教授も1人いた。3人は全額が委員の就任後だった。

 三島亮一郎・元京大教授は教授だった2006、07年度に関原懇から寄付を受け、09年からは関電100%出資の関連会社の研究所長に就任。しかし、10年から県原子力委の委員を務めている。

 関原懇は関電が中心になって出資して設立した任意団体で、関電副社長が今年1月まで会長を務め、いまは常務が副会長。原子力研究や放射線利用の理解促進を活動目的とし、関連の研究者に寄付をしている。

 県原子力委は原子力工学や耐震工学などの専門家で構成される。県によると、委員を頼む際、業界からの金銭支援について報告を求めていないという。

 大飯3、4号機をめぐっては、関電が2011年秋、地震や事故にどれだけ耐えられるかを計算したストレステスト(耐性評価)の報告書を経済産業省原子力安全・保安院に提出。保安院は「妥当」と評価し、内閣府原子力安全委員会が23日保安院の審査を認める確認文書を公表している。

 社会面

 再稼働の判断が注目されている関西電力大飯原発。その安全性を近く審議するとみられる福井県原子力安全専門委員会の委員らに、関電と強い関係をもつ関西原子力懇談会(関原懇)が寄付をしていた。活動の詳細は非公開だが、各地の原子力の研究者と金銭面でつながる姿が浮かび上がる。

 大阪市西区の大阪科学技術センタービル。1階に入ると、自転車型のゲーム機が目に入ってくる。福井県内の道路を走って原発に立ち寄りながら電気をためるというゲーム。時間内にゴールすれば、大阪や京都に電気が供給される。

 コーナーの出展者の欄には「関西電力・関西原子力懇談会」と記されていた。

 このビルに関原懇の事務局はある。事務担当者によると、1956年、同じ年に発足した原子力の業界団体「日本原子力産業協会」(原産協会、東京)の地方支部として、関電が中心となって設立された。現在の会員は電力会社、原発メーカー、商社など63法人と研究者ら74個人。関係者によると、事業費の多くは関電が負担しているという。

 近畿や福井県内で原子力のイベントを開き、研究者を講師に招く。小中学校の教職員や大学生向けの講習会も開催する。だが、会員名や事業規模、寄付金額などはすべて「非公開」。担当者は「任意団体であり、開示義務はない」と話す。

 研究者には発足当初から寄付をしてきたという。「将来性のある先生」を選んで続けてきたが、選考基準が不透明と外部から指摘され、2009年度から公募制に。今は寄付先を会報で公開するが、金額は伏せる。

 朝日新聞が、各地の大学に所属する原子力関連の研究者に寄せられた寄付について情報公開請求や取材をすると、福井県原子力委に委員を出している京都、大阪、名古屋、福井の各大学で、少なくとも37人の教授らが2006~10年度の5年間で計5895万円の寄付を関原懇から受けていた。

 内閣府原子力安全委員会で審査委員を務めた大学教授は「関原懇の職員が来て、『あげる』と言うからもらったのが始まり。公募になった後も含め、それから毎年受けている」と話す。関原懇は2011年3月まで日本原子力学会関西支部の事務局も務めていた。

 関原懇の会長は今年1月まで長年、関電から選ばれ、原子力担当の副社長らが就いてきた。原産協会の幹部は「関原懇はアバウトイコール関電と言えるのではないか」と指摘する。関電は「関原懇への出資額は公表を差し控えたい」と説明している。(大谷聡、荻原千明)

  泉佳伸・福井大教授──30万円
  西本和俊・阪大教授──360万円
  三島嘉一郎・元京大教授──300万円
  飯井俊行・福井大教授──500万円
  山本章夫・名大教授──100万円

 04、感想

 先日、中日新聞に名大工学部教授が中電から金をもらっていたということを報じていました。ほかにもあるのでしょう。

       関連項目

原子力ムラの灰色学者たち(その2)

同(その3)

お粗末ジャーナリスト

2012年05月18日 | サ行
 5月16日の朝日新聞の「記者有論」に浜松支局長の高田誠さんが、「日本を元気にするヒント」と題する文章を載せています。まず、それを引きます。

 ──浜松市で開かれる浜松まつりは、家族で初めての子(初子)の誕生を町全体で祝う祭りだ。連休中の3~5日に開かれた。

 日中は173町が初子の名前などを記した大凧を揚げ、夜は83町が豪華な屋台を市中心部で引き回した。町衆はそろいの法被姿で「オイショ、オイショ」と掛け声を合わせて、すり足で進む。「練り」ど呼ばれる。参加は12万人に上った。

 戦国時代に城主が長男誕生を喜び、凧を揚げたのが起源という説がある。私は今年4月に浜松支局に異動してこの祭りを知った。取材して驚いにのは、初子の家族の地域への思いが半端でないことだ。

 屋台の引き回し後、町衆はラッパや太鼓を鳴り響かせ、初子を抱いた家族の元に練りながら詰めかける。大人も子供もちょうちんを掲げ、「バンザイ」を繰り返す。

 その後は家族が酒宴でもてなす。最大3・64㍍四方の凧代など家族の負担が100万円を超えることも珍しくない。それでも「地域の人に祝ってもらえるのなら惜しくはない」という声が多かった。

 江戸時代にはすでに商店が並んでいた中区肴町で乾物屋を継ぐ7代目の鈴木功雄さん(51)は子供の頃、屋台に爆竹を投げ入れ、こっぴどく叱られた。でも、「大人は子供たちを町の仲間として引き入れた。祭りの後も、温かく見守ってくれた」と言う。

 初子で祝ってもらった子たちは、成長すればお囃子の練習に、大人になれば準備にかり出され、酒を酌み交わす。祭り当日は大人も子供もー緒に盛り上げる。当初の祝いの対象は長男だったが、近年は女児も祝ってもらうようになった。結婚した娘に子が生まれれば、里帰りしてその町で祝ってもらうことも多い。

 浜松市は、人口80万人超の政令指定市だ。隣近所に誰が住んでいるかも分からないのが都会の暮らしなのに、浜松まつりが世代をつなぎ、地域の結びつきを保たせている。転勤族の私には、うらやましく思えたし、浜松でできるのなら、他の地域でもできるのでは、と考えた。

 町内運動会でもいいから地域の大人と子供が一体となる場を持ちたい。浜松まつりのように、大人も心躍る催しはできるはずだ。地域のつながりが生まれれば、いじめや学級崩壊などの問題にも、対処しやすくなるだろう。そうすればあちこちの地域が生き生きとして、日本中がもっと元気になれる気がした。──(引用終わり)

 感想を書きます。

 第1に、浜松の現状は、全体として、「元気」とは言えないと思います。浜松祭りがあるからか、あるいは浜松祭りがあるにもかかわらずなのか、は分かりません。少なくとも他の市の模範になるような点は、残念ながら、ほとんどないと思います。

 第2に、そもそも、「元気になる」ことが必要なのかも問題です。私は昨年、浜松市長選に「仮」立候補しましたが、その時のスローガンは「公正で楽しい浜松を」としました。日本の目標は、少子化の速度を緩くして、安定した社会に軟着陸することだと思います。

 第3に、いじめも学級崩壊も浜松では余所に比べて少ないか、これも疑問です。少なくとも、静岡県では教員の不祥事が続いています。県も市も何の対策も打ち出せないでいます。

 第4に、100万円もの金を出せない家もあると思います。我が引佐町は合併で浜松市に成りましたが、実質的には浜松祭りとは無縁です。これで好かったと思っています。旧浜松市の人でも、浜松祭りの現状に不満の人も少なくないはずです。

 日本の会社では、特に大きな会社では、転勤が当たり前のようです。新しい任地に着いたら、何かを言うのは、最低でも1年くらい調査をしてからにしたらどうでしょうか。

 高田さんは「支局長」だそうです。記者になって或る程度の経験もあるはずです。新任地に行ったら、まず何をしてそこの全体像を把握するか、自分の方法くらい持っていても好いと思いますが。

         関係項目

 私が記者だったら

 浜松市長選仮立候補関係の記事

浜松市中心市街地の歩行者数、減少続く

2012年05月17日 | ハ行
 減少を続けている浜松市中心市街地の休日の歩行者数が、2001年度に比べて昨年度は半分まで落ち込んだ。市が2001年から毎年10月に実施している歩行者通行量の調査結果から分かった。

 調査結果によると、休日1日当たりの歩行者数は、2001年の39万9552人に対し、2011年は19万9837人で50,0%減。平日も、27万7014人に対して17万8299人で35・6%減少した。

 歩行者数は調査開始以降、平日・休日とも減少傾向だが、特に休日の落ち込みが激しい。当初は休日が平日の1.4倍ほどあったが、近年は差はほとんどなくなっている。百貨店など大型商業施設の閉店により、中心部の魅力が低下したためとされる。

 市産業振興課は、調査後の昨年11月に遠鉄百貨店新館が開館したことで、本年度の増加を見込む。ただ民間のシンクタンクが今年1月に実施した「買い物動向調査」では、JR浜松駅周辺で過去2年間に「買い物をしなかった」人が4割を超えたとの結果が出ている。

 浜松市の調査は昨年10月14、16の両日、浜松駅周辺の45地点で実施。中学生以上の歩行者と自転車に乗る人の通行量を調べた。過去との比較は、継続調査している41地点を対象とした。
(中日新聞、2012年05月10日)

全社員が時給制の会社

2012年05月16日 | カ行
 全社員が時給で働く会社があると聞き、いたく興味をそそられた。正規と非正規の壁はないという。

 兵庫県の姫路駅からローカル線で15分。田畑と住宅が混在する地区にある株式会社エス・アイを訪ねた。

 業務の柱はデータ入力で、顧客アンケートの結果などを集計し、分析しやすい形に仕上げる。

 午前8時から午後6時半の間なら、いつ働くのも自由だ。子どもの送り迎えや家事で職場を抜け、また仕事に戻るのもよし。社員70人の9割を女性が占めるゆえんである。「はたらく母子家庭応援企業」として昨年度、国から表彰もされた。

 社員の時給は一人ひとり違う。どの難易度の仕事を、どのくらいの時間で、どんな量をこなしたか、半年間の実績をもとに厳密に決める。

 このシステムを組み上げたのが家永雅子さん。18年前、週2日のペースで働き始め、今は常務取締役だ。

 この間、彼女の娘2人の世話を買って出たのは、社長の今本茂男さん(67)。今も経営のかたわら、必要に応じて社員の子どもを保育所に迎えに行き、退勤まで会社で預かる。「社員が集中して働いた方が、会社のため」と今本さん。

 女性の能力発揮に処遇の公平さは不可欠だが、それで十分というわけでもなさそうだ。社長が果たす役割は実に大きい。
  (朝日、2012年05月08日。浜田陽太郎)

  感想

組織はトップで8割決まる

・公正と最低保障の上に立った能力主義

義務教育にも留年を?

2012年05月14日 | カ行
 01、朝日の記事

 「義務教育にも留年を」という橋下徹・大阪市長の提言を子どもたちはどう考えるのか。東京都内の中学校が、そんな題材を授業で採り上げた。8割近くの生徒が反対したが、「留年でなく、補習をすればいい」、「できない子を落とすのでなく、できる子を飛び級で上げたら」といった提案も相次いだ。

 東京都杉並区立和田中学校が2月29日と3月l日、1~2年生の総合学習の時間に採り上げた。
           
 2月29日、1年E組。代田(しろた)昭久校長が新聞記事のコピーを配った。橋下市長が「義務教育で本当に必要なのは、きちんと目標のレベルに達するまで面倒を見ること」として、市教委に留年を検討するよう求めた内容だ。

 生徒らはまず、記事を読んで留年導入の長所と短所を考えた。

 メリットは──「わからない授業を聞く苦痛からの解放」、「学力の底上げ」。デメリットは──「劣等感を生む」、「機械的に留年させると個性がダメになる」。

 続いて自分の意見を200字以内で書いた。そのうえで代田校長が尋ねた。「賛成の人は?」。挙手は6人。「アタマいいやつはやっば余裕あるなあ」。「オレ留年しそうだから、ハンターイ」。クラスがどっとわいた。残り25人は反対だ。

 賛成、反対それぞれの生徒が意見を発表した。

 賛成派の意見。「勉強ができないで仕事に就けない人がいる。留年させて学力を一定にした方が平等になる」、「強制的なら子どもの権利が尊重されないので賛成できない。でも自分の意思で決められるなら選択肢が増えるのでいいと思う」。一方の反対派。「子どもの目線で見たら、下の学年に行くのは絶対嫌。橋下市長は子どものためと言っているが、そうは思いません」、「意欲を低下させて勉強が苦痛になり、負の連鎖につながってしまう」。

 こうしたらという提言も出た。「補習なら同じ学年の人と勉強できる」、「全体の学力向上を目指すなら飛び級がいい。上の学年の人も下に負けないぞと思う」。

 最後に代田校長が現行の制度を説明した。「今も校長が出席日数などで留年させるかどうか判断しているんだよ」。そして「政策にはいい点も悪い点もある。両方をふまえて自分で考えるのが大事」とまとめた。

 授業を振り返って、代田校長は言う。「中学生はすごい。留年問題の論点がほぼ出そろった。反対するだけでなく、こうしたらという提案も出た」。生徒291人の書いた意見をまとめて橋下市長に郵送し、「和田中に来て生徒と討論してほしい」と伝える考えだ。

 政府審議会でも過去に議論

 義務教育の留年をめぐっては、中曽根康弘首相の下で設置された臨時教育審議会や、安倍晋三内閣での教育再生会議、文科相の諮問機関の中央教育審議会などで議論になってきた。6・3制を弾力化させたり、子どもの学力を保障したりする観点から、留年の拡大が検討されてきたが、「子どもが劣等感を抱く」「障害のある子はどうするのか」などの意見が出て、制度を変えるには至っていない。

 小中学生を留年させるのは、現行制度でも可能だ。学校教育法施行規則は、校長が子どもの「平素の成績」を評価して各学年の修了や卒業を認定すると規定している。だが実際は、山席日数がわずかでも進級させる場合がほとんどだ。

 経済協力開発機構(OECD)は2月発表した「教育の公平性と質」の報告書で、少なくとも1年留年した15歳の比率を39カ国で比較した。留年経験者はOECD平均で13%に上り、フランスなど7カ国は30%を超えていた。そのうえ、で「留年はコストがかかるうえ非効率」と廃止を提言している。
 (朝日、2012年03月03日。編集委員・氏岡真弓)


 02、感想

 代田校長のした事が「現行の制度の説明」ではダメです。自分の学校ではどういう考えに基づいてどう言う風にしているか、を言わなければなりません。橋下市長に「和田中に来て生徒と討論してほしい、と伝える」前に、校長が生徒と討論しなければなりません。

 思うに、「意見の言える人間」というスローガンを聞く事はよくありますが、それが実行されないのは、「校長のリーダーシップについて議論する」という大前提が欠けているからです。「中学生になったら、何よりもまず、校長の学校運営について自分で考え、意見を言うように」と指導し、校長の方から意見を聞くようにしなければなりません。

 この学校の代田校長は藤原和博さんの後を継いだ2代目の「民間人校長」のようです。出身もリクルートで、藤原氏を継いでいます。しかし、模範的なホームページを作り、模範的な校則を定め、校長通信を出して、学校運営について皆で議論をするという一番重要な事は知らないようです。

 校長が総合的な学習の時間を担当するのは評価しますが、それなら、まず、「卒業式での国旗国歌問題」を取り上げるべきでしょう。これを避けている点をみても、「不十分な民間人校長」だと思います。

 この記事の事はホームページに発表していないらしいです。なぜでしょうか。

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 品川女子学院の生徒心得



大学教授の定年後

2012年05月12日 | タ行
 朝日新聞(2012年03月19日)に辻篤子氏が「或る学者の定年」と題して「窓」欄を書いていました。まず、それを引用します。

──「ファイナルイベント」と銘打った政治学者・御厨貴東大教授の先日の退職記念トークショー「政治へのまなざし」は、熱気に満ちていた。

 哲学者の鷲田清一・前大阪大総長と詩人の佐々木幹部さんを迎え、東日本大震災や政治の場での「言葉」について語り合った。大いに盛り上がったところで「ファイナルとはいったけれど、ぜひまたやりたい」。

 東大教授の定年は現在64歳だが、御厨さんはまだ60歳。所属する先端科学技術研究センターはかつて、教授の定年を65歳まで延長することに「若者の登用を妨げる」として反対したいきさつがあり、内規で従来通り60歳定年としているのだ。

 客員教授となってポストは後進に譲り、放送大学教授に転じる。

 その姿を見ながら、「元気な高齢者の力をどう生かすか、これからの大学、ひいては日本社会の課題では」。同僚で、バーチャルリアリティーの研究で知られる鹿瀬通草教授がいう。新しいシステムづくりの研究を、目下構想中だ。

 理系の定年教授の中には、台湾など海外の大学に移って研究と教育を続ける人もいる。

 人口減と高齢化が進む今、そうした能力と経験を生かさない手はない。ただし、若者には席を譲ってじゃまをしないように。ここは知恵の絞りどころだ。(引用終わり)

 感想を書きます。

 第1に、「客員教授」になるのはまだしも、放送大学の教授になるのは「若者に席を譲る」ことにはならないと思います。かつて京都学派の西田幾多郎や田辺元などは定年後は私立大学に天下らず、研究と執筆に集中して、代表作を残しました。

 前にも書きましたが、定年後の授業は非常勤でせいぜい週に2日くらいにして、教科通信を出すなど、かつては出来なかった「本当の授業」をする場合のみ有意義だと思います。

 第2に、このところ大学の総長を務めた人までが私立大学の教授に天下っています。とても尊敬できません。プライドというものがないのでしょうか。かつて理系の学長が学長を辞めてから、客員教授か何かになったという話はあります。理系では自費で実験等をするのは難しいでしょうから、これなら分かります。

 第3に、これに対して批判することも出来ないジャーナリストも困ったものです。個人的知り合いになると批判はしにくくなると思います。友達はしっかりと選ばなければならないと思います。

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東大教員の定年延長

客員教授になる元学長


部活を地域に

2012年05月10日 | ハ行
 01、新聞記事

 放課後は子どもたちにとって、友達と遊んだり、習い事に熱中したりする大切な時間。家庭や学校では経験できない企画を用意して、大人とふれ合う機会を増やそうとしているNPOがあります。その試みを採り入れる動きも、各地で始まっています。

 東京都中野区の私立新渡戸文化小学校は昨春、子どもたちが放課後を過ごせるよう校舎を新設した。子どもを預かるだけでなく、希望者には様々な習い事も提供する。

 預かり料は、週5回で月3万4000円。補助金を受けていないため、区の学童保育に通うのに比べ、数倍の負担になる。

 預かりに習い事を週1回プラスすると、さらに月6000円前後かかる。テニスやピアノ、英語など12種類のプログラムをそろえ、先生役には地域や企業の専門家を招く。今月13日は、約20人が天文と書道の講座を受けていた。

 竹越俊五郎校長は「少子化の時代に、共働き世帯を応援する経営戦略。手応えを感じている」と話す。戦略が功を奏したのか、昨秋の入学試験の受験者は、前年より約3割増えた。

 運営しているのは、NPO法人「放課後NPOアフタースクール」。これまで都内の区立小などで活動し、新渡戸文化小で初めて放課後事業全般の運営を任された。自由学園(東京都東久留米市)の放課後事業の立ち上げにも関わった。

 代表理事の平岩国泰さん(38)は元百貨店社員。娘の誕生をきっかけに、子どもが安心して遊べる場所が減ったのに気づいた。米国のNPOが放課後、「市民先生」を招いて様々な講座を開いているのを知り、2005年、地域の大人たちを巻き込んで放課後プログラムをスタートさせた。

 ミシュランで一つ星がつく老舗割烹の料理人、人気パティシエ、けん玉日本一──。協力者は徐々に広がり、提供できるプログラムは200を超える。

 NPOを活用して、放課後の居場所づくりを始めた自治体もある。山形県は今年度、「地域の放課後づくりモデル事業」に1500万円の予算を計上。遊び場づくりをするNPOなど、県内の2団体にプログラムづくりを委託した。

 県子育て支援課の小林敏子さんは、アフタースクールの活動を知り、県内でもできないかと考えた。

 県内でも少子化が進み、同世代の子どもが近所で遊ぶ機会が減っている。子ども同士の外遊びに親が不安を感じるようになり、小さな子どもは室内にこもりがちだという。「学童保育に通う子もそうでない子も、学年に関係なく安心して、わいわい集まれる場所を作りたい」と言う。

 「地元の大人がかかわることで、地域と子どもがつながる機会にもなる。学校や家庭では学べないことを、吸収する機会になれば」。

 神戸市でも今年2月、アフタースクールの手法を採り入れた「アフタースクールこうべ」が発足した。地元有志を中心に、子どもの居場所づくりを進める。04月28日、地元企業の協力を得て、子どもたちが企画したファッションショーを開く。

   (朝日、2012年04月28日。見市紀世子)

 02、感想

 教育改革の重要な課題の1つが「部活を地域に移すこと」だと思います。これは大事業です。

 しかし、この記事にあるような動きはその方向への一歩として極めて有効・適切だと思います。

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校庭の芝生化

友の死(レオポルト・ヴィンクラー)

2012年05月06日 | ア行
        これは『関口存男の生涯と業績』(三修社1959年)に収められたヴィンクラーさんの追悼文(原文はドイツ語で、Der Hingang eines Freundes)の翻訳です。

ヴィンクラーさんに対する追悼文集「悼慕(とうぼ)」(横浜国立大学独乙研究会1962年)に木山学氏の訳が載っていますが、自分でも訳してみたいと思いましたので、訳出しました。そして、その文集から2つの文章を付録としました。それによると、ヴィンクラーさんは1889年11月10日に生まれ、1962年4月3日に亡くなったのでした。今年で逝去50周年というわけです。

 「悼慕」そのものはpdf化して「絶版書誌抄録」の「その他」に収録してあります。これは或る読者がインターネットで探し当ててくれました。ネット時代のありがたさです。

 そう言えば、ヴィンクラーさんの『真意と諧謔』(Ernst und Scherz、1950年)は幻の書でしたが、これもネットのお蔭で見つかり、ついにコピーを入手する事に成功したのでした。こちらもpdf化して「絶版書誌抄録」の「関口系、中級篇1」の中に入っています。

 その「悼慕」の該当箇所を見ますと、この訳文は「ウィンクラー先生作品」という名目の所に載っています。他の作品は載っていません。ということは、『真意と諧謔』は当時既に幻の書になっていたのでしょうか。とにかく学生たちにも知られていなかったと推測せざるを得ません。これを探し当て入手したことはとても好かったと思います。

 先日その中の1篇「晩年のゲーテの1日」を訳出しましたが、皆さんが他の作品を訳して下さることを希望します。

 2012年5月6日、牧野 紀之


          友の死(レオポルト・ヴィンクラー)

 「関口さんが亡くなりました」という悲しい知らせが軽井沢にいる私の所に届いたのは昨年[1958年]の夏のことでした。いつも通り平穏な生活をしていた私にとってそれはまさに青天の霹靂でした。

 身近な人の急死は誰にとっても「どうして?」としか思えない受け入れがたい出来事です。信州の山の中に独居していた私も悲報を伝える簡潔な葉書を手にしたまま立ちすくみました。長い間親しくしていたかけがえの無い友がこんなにも突然他界するとはと、どうしても気持の整理が付かず、ただただ茫然自失するばかりでした。

 最後にお会いしたのは[1958年1月に亡くなった]奥様の棺の前でした。この時は関口さんも茫然自失の体(てい)でした。思えば、それ以前から既に我々は会うことが少なくなっていました。慶応大学での講義の日が別でしたし、互いに遠く離れて住んでいましたし、それに歳を取ると誰でも多かれ少なかれ孤独に成って行くものですから。

 そうはいっても、奥様の死を知らされた時はもちろんお通夜に駆けつけました。そして、心からの哀悼の意を表し、お別れの言葉を伝えました。長い闘病生活の間にも何回かお見舞いに行きましたが、そのたびに聖母マリアのような忍耐強さと運命を甘受する潔さを以て苦しみに耐えているお姿を見て、心を動かされました。と同時に、敬愛する人の衰えて行くのを止められない無力感をどうしようもありませんでした。実際、関口夫人は日本女性の全ての美徳を一身に体現したような方でした。人としての優しさにおいても、夫へ寄り添う姿においても、日本女性の鑑(かがみ)でした。その奥様が亡くなったのです、長患いの後に。棺の傍らで私を迎えた親友の言葉はただ一言、「一巻の終わりだ」でした。

 この言葉には愛する人との永遠の別れをどうしても受け入れる事の出来ない苦しみが出ていましたが、同時に、取り乱さないように何とか堪(こら)えているのも分かりました。私には仏教での死の解釈を語り、子ども達には「お母さんの魂は今でも傍(そば)にいるのだから、余り泣かないように」と諭していました。しかし、この言葉から聞こえて来たのは、そのような言葉では慰めにもならない事を知る者の絶望でした。そこに立っていたのは、全精力を奮い起して気を落ち着かせようとしているにも拘わらず、妻の死という現実には抗し難く心の支えを失った男の姿でした。

 そして、その後まもなく、死は彼自身の心臓を襲ったのでした。まるでかの中世の神秘劇「各人」(Jedermann) が現実世界で起きたかのようでした。逝去を知らせる葉書を手に私は自問しました。彼は自分自身のこの世からの別れという残酷な事実をどう受け入れたのだろうか、どんなことでも理屈できちんと説明しなければ気の済まなかった関口さんは、死に行く自分をどう慰めたのだろうか。あるいは死の魔手に余りにも急に捕まったので自分の死について思いを巡らせる時間的余裕がなく、自分に対しては「一巻の終わりだ」と言うことは出来なかったのだろうか。

 関口さんが死んだ。この知らせは、旧友の死に接するといつもそうであるように、私自身の死ももはやそう遠い事ではないという事実を警告してくれましたが、それだけではありませんでした。これは何よりもまず、この日本で関口さんと共に過ごした若き日々の哀愁を帯びた思い出につながるものでした。

 彼が初めて私を訪ねてきてくれたのは1917年のことだったと思います。当時、二人は共に上智大学に通っていました、彼は学生として、私は教師として。その上、二人共大久保に住んでいて、すぐ近くだったのです。目の前に座っている姿が今でもまぶたに浮かびます。細身で健康がすぐれているとは思えない青年でした。ようやく結核が癒えたばかりでした。そのために陸軍将校への道を諦めたのでした。

 関口さんのドイツ語の並はずれた物であることはすぐに分かりました。実際、陸軍幼年学校で2,3年勉強しただけでこんなにも完璧なドイツ語を物にする事が出来るとは、俄かには信じられませんでした。関口さんには又、鋭い知性と生き生きした心と優れた能力がある事も直ちに分かりました。青春を目いっぱい楽しみ、活力豊かで、未来に希望を持って生きている青年であると同時に、人生から少し離れて批判的に、あるいはまた皮肉な目で見る態度をも併せ持っていました。これが実に魅力的だったのです。

 関口さんは当時まだ新婚ホヤホヤで、生まれたばかりの長女を合わせて一家3人で、すぐ近くに住んでいました。自然に交際が始まりましたが、ほとんど私の方が彼を訪ねるという形でした。小さく質素な家に伺ったのですが、そこで奥様を知り、尊敬するようになりました。

 外(ほか)の友達も何人か定期的に集まっていました。作家とか画家とか映画俳優とか新劇関係の人とかでした。やがてそこから若いボヘミアン・グループが生まれました。皆、物質的には貧しくとも、将来に大きな夢を持ち、自分達の生活を作り上げようと意気軒高だったのです。

 外国人であり、本来はアウトサイダーである私にとっては、こういう仲間が偏見もなく受け入れてくれ、同志として認めてくれた事は、日本での最初の生活での最大の喜びでした。興味を持ったからこそ来た日本で、この国の人たちとこのような心の結びつきを得る事以上の願いはなかったからです。関口さんとその仲間たちは私にまさにこの絆を与えてくれたのです。外国の街・東京に来て初めは人間的なつながりもなく見捨てられたような気持になる事もありましたが、この仲間たちと一緒になってからは、そういう事もなくなりました。それどころか、何の繋がりもない外国にいるのだという事を忘れてしまう事もしばしばでした。

 狭い部屋で、畳の上に、小さな机を囲んで座り、語り合いました。芸術や文学の事、言葉の問題、芝居の話などの外に、個人的な事柄も話題になりました。奥様はちょっとしたものを出して下さり、いつも後ろに控えていて、その様子は柔和な影が周りに浮んでいるような感じでした。この集まりは快いものであっただけでなく、人間として成長できるような有意義なものでした。

 もちろん一座の精神的支柱は関口さんでした。その卓越した見識で皆を引っ張り、批判精神旺盛なジョークを飛ばしていつも座をなごませ、楽しい集いにしてくれました。特に私にとってはこの夕べは特別の幸福でした。なぜと言って、外国で疎外されている苦しみを忘れさせてくれたからです。

 このグループからはその後、新劇の世界との結び付きも生まれました。踏路社(とうろしゃ)という新劇集団の稽古に関わるようになり、神楽坂にみんなしてよく出かけたものです。ヘッベルの「マリア・マグダレーナ」とか、ヴェデキントの「春の目ざめ」といった西洋の演劇を上演しようと必死に努力している若い人たちに助言をし、指導をしてさし上げました。当時既に有名になっていた女優の松井須磨子とか劇作家の坪内逍遥などと知り合ったのもこの時でした。

 この劇団と他の劇団が一緒になってその後、築地小劇場が生まれました。ここでも文学と劇について関口さんは求められるままに助言を惜しみませんでした。彼は演劇が本当に好きで、後には共同演出家の1人となったこともありました。しかし、結局は語学の仕事に集中する事になったので、そういう余技のための時間が取れなくなり、終わってしまったのです。

 私には関口さんの語学について評価する意志もなければその資格もないと思っています。しかしドイツ語は私にとっては母語ですし、日本の大学でドイツ文学のほかにドイツ語の授業をも担当してきた者として、彼のドイツ語学について一言も述べないわけには行きません。それは、率直に言って、実に感嘆するしかない程完璧なものでした。私の短くない日本滞在中ドイツ語学で彼に比肩しうる人にはついに1人も出会いませんでした。個人的に話をしていた時にもそう思いましたし、又手紙を受け取る度にドイツ語の文章構成法と言い廻しに精通している事に舌を巻きました。無数の語句をマスターしており、それをまた巧みに操るのです。その上更に、自分で新しい表現を作り出したりもするのです。しかも外国語では母語でよりもはるかに難しいジョークや皮肉まで使って手紙を書くのです。

 その後中年にさしかかった頃から、関口さんは語学関係のちょっとした仕事や文法や教科書や辞書など、根気と集中力を必要とする仕事を始めました。この方面での成果は関口存男という名前を日本におけるドイツ語学の歴史に永遠に残すことでしょう。その頃の彼はいつも書斎に座って仕事に没頭していて、会うのは少なくなりました。

 それでも、夏には軽井沢の私の家を訪れてくれることもありました。会うと決まって、大久保のあの狭い家での若かったころの話になりました。二人の友情を大切にしてくれて、「会えて嬉しい」と言うその様子は、いつまでも青春真っただ中のあの頃のままでした。死の少し前には、まだ生きている旧友を集めてもう1度楽しい夕べを過ごしたいものだとも語っていました。

 その願望も彼の急死によって果たせぬ夢となった今、私はただただ関口さんがあの世でも、大久保の小さな家でと同じように理解ある親しい仲間との心楽しい集まりを楽しんでいてくれる事を願うばかりです。

 関口さんの死で私の心の中には何かポッカリと大きな穴が開(あ)いたような気がします。関口さんのいない日本などというものは私にとってはどこかが欠けた器のような物です。たしかに最近は会う機会も少なくなってはいましたが、彼の事はいつも意識していましたし、彼の事を思い、彼の生活がもう少し楽で幸福なものであってほしいといつも願っていました。と言いますのも、親友の私には私生活上の事も打ち明けてくれていて、生活が必ずしも楽ではない事を知っていたからです。その事で私は暗い気持になりました。彼は寄る年波もあって性格が少し陰鬱になり、敢えて言うならば、時には愚痴をこぼす事さえありました。

 それでも関口さんはその困難に雄々しく立ち向かい、あの強靭な闘争心で俗世を超越しようとしたのです。それを知っていたからこそ、奥様の棺の横で口にした「一巻の終わりだ」という言葉には強い衝撃を受けたのです。この先どう生きていけば好いのか分からなくなったのではないか、という悲しい印象を持ったからです。そして、彼の逝去を知った今思う事は、あの時の心に受けた衝撃が彼自身のあまりにも早すぎる死と関係しているのではないか、という事です。と言いますのも、ゲーテの言葉に「死を欲しない人は死なない」という意味深長な句があるからです。

 関口さんが何の前触れもなく突然他界してしまった今となっては、私に出来る事と言えば、日本での最良の友人であった関口さんをいつまでも忘れることなく、あの不屈の自立した魂が安寧と安らぎの得られる所だと言う彼岸に無事帰郷することを祈るばかりです。彼のこの世での故郷である日本の仏教の教えに依るならば、彼岸では人は皆、慰められ、故郷(ふるさと)に還ったようなほっとした気持ちになれると言いますから。(1959年1月)

付録1・ウィンクラー氏の生涯

         ドクター・クラウス(オーストリア大使館)

 レオポルド・ウィンクラー氏は1889年11月10日に生まれ、1912年には日本の土を踏んで、その風土と人々を大変好んで、しばらくはこの地に住まうことを決心した。実際、幾度か、休暇には故国オーストリアに帰ったが、その間を含めて50年間というもの日本で生活を送ったのである。

 青年時代からウィンクラー氏は教育に関心を持ち、1915年はじめて上智大学と東京高校で教鞭をとり、後には、横浜国大、東京外語大、慶応義塾でも講義を行った。

 その教職──独会話と文学史──と並んで、彼は日本のスキーの先駆者であった。1913年設立の日本アルペンスキークラブの創立者の1人となって、今日、日本国民の幅広い階層に親しまれているスポーツとなった因をこの地にもたらした。スキー場の発見と開発に努力し、多くの日本の山々をスキーによって登ることをやってのけたのもこの人であり、それからはスキーの為に新聞や雑誌を通じて運動したのである(1)。

 ウィンクラー氏は15年間にわたって、オーストリアの主要日刊紙『ノイエ・フライエ・プレッセ』の日本通信員をつとめたり、又オーストリアの世界的名声ある詩人として双璧をなすフーゴ・フォン・ホフマンシュタール、シュテファン・ツヴァイクとも親しい交わりを持っていたのである。自身も文学活動に忙しく、1929年にその著作 "Drei Stufen neuer deutscher Dichtung", 1942年には詩集 "Libelleneiland"、それから教科書として "Anfaenderdeutsch", "Deutsch fuer Fortgeschrittene", "Deutche Gedichte", "Elementar Deutsch" 等々を出版した。

 故国オーストリアへの慕情をウィンクラー氏は気高い深い愛の気持で、生まれ故郷でもない日本に結びつけ、そこで50年もの長い年月を過ごしたのである。その間日本の文化に深く浸透しようと努めた。わけても、日本の音楽を愛好し、三味線や、尺八の音に親しんだのである。

 1957年、日本政府は教育事業の功績から、勲四等瑞宝章を授与した。55年には東京都より文化メダルを受けている。この光栄につづいて、慶応大学では、59年、名誉教授に推挙した。

 ウィンクラー氏はまた、オーストリア国民の為にも非常に骨を折り、日本のオーストリア人協会で1957年創立以来、会長の座にあった。

 オーストリアの元首は1960年、彼の故郷とオーストリア・日本の親交における功労に感謝してGROSSE GOLDENE EHRENZEICHEN[最高栄誉金メダル]というオーストリア最高の栄誉を与えた。

 日本スキー連盟でも、1961年、敬意を表して功労メダルを贈っている。

 ウィンクラー氏は1962年4月3日、突然、悲しい姿となって我々の許を去った。彼が生涯に為した仕事は、その教え子達が、今日、日本の社会、文化の面で、多くの指導的人物となっており、オーストリアと日本の人々の友好を続けてほんとうに実を結んでいる。この事実によって、我々はこの大きな喪失を慰めることができるであろう。(足立悠介訳)

(1) 1957年の勲四等瑞宝章の授与の際、朝日新聞は『人寸描』でこう書いています(「悼慕」の53頁に転載されている)。「祖国では山岳スキーの創始者ズダルスキーから直接スキー技を教えられ、45年前に富士の麓で一本杖シュテムボーゲンを公開、また五色温泉や各地スキー場の開設、インターナショナル・スキークラブの創設などに骨折ってきたのだから、有名なレルヒ大佐と共に我が国スキーの草分けでもある」。

付録2・編集後記

 麗かな春日和に爛漫と咲き乱れた桜の花。そこに物思いに沈んだ会葬者の群れ。何かそぐわない感じの外人墓地に佇んで、亡くなられた先生に対する感謝の気持ちをどのように表したらよいものかと。当初は独研部員のみによる追悼文集を作る予定でしたが、この一事が日墺親善の為に少しでもお役にたてば、先生ももっと喜んで下さるだろうと、朝日新聞の読者のひろば欄で広く追悼文を募りましたところ、遠くはバンコックから、各時代層の様々な方々から丁重な追悼文が寄せられ、孤独の中にもにじみ出た先生のお人柄が偲ばれ、編集者一同深く感動に胸を打たれました。

 日本には、御身寄の方が全然いらっしゃらなかった為、原稿の募集の際も、非常に苦労を極め、又日と共に欲が出て、故先生の唯一の肉親である妹さんにまで御寄稿を依頼しましたので、編集の終ったのが亡くなられてからなんと半年も経った十月の事。早くから原稿を寄せられた方々には非常な御心配をおかけした事と思います。心からお詫び申し上げます。
 又、お葬式の時以来、いろいろと御援助いただいたオーストリア大使館の方々を始め、一家総出で御協力をいただいた関口家の方々、佐藤先生を始め横浜国大の先生方、そして原稿を寄せられた方々、あるいは部外ながら独文印刷のお手伝いをして下さった吉田由紀子さん等、多くの方に深謝申し上げます。

 尚、原稿の中には既に発表されたものもありますが、その転載を快く許して下さった郁文堂、三修社、並びに数々の御協力を賜りました朝日新聞社、毎日新聞社に御礼申し上げます。
 出来上がったものは資金、発行部数の関係から非常に貧弱な体裁になりましたが、内容は凡ゆる人々の誠意と故先生への暖かいお気持の結晶と申せましょう。御玉稿を粗末にした事になりましたらお許し下さいますよう。

 尚、編集委員は下記の五名でした。

  足立啓介、山口厳、木山学、保坂安雄、野尻旦

 ・発行日は「1962年12月25日」となっています。

      関連サイト

「絶版書誌抄録」の「その他」


北原保雄の辞書と文法(その1)

2012年05月04日 | カ行
 北原氏の編集した『明鏡国語辞典』(第2版大修館書店2010年。以下「明鏡」と略す)及び氏の国文法をもっとも広くまとめて記述した作品と思われる『日本語の世界6(文法)』(中央公論社1981年。以下『前掲「文法」』と略す)を基に氏の国語学を考えてみます。

 第1節・客観的文法と主観的文法

 北原氏は「明鏡」の文法の項に次のように書いています。「①言語を構成する文・語など形態や、その機能を支配している法則性。②①を分析・記述する研究。また、その体系化された理論。文法論。③文章の作法。」

 『新明解国語辞典』(第6版三省堂2005年。以下「新明解」と略す)で文法を引くと次のように書いてあります。「その言語体系において、語句と語句とがつながって文を作る時の法則。[広義では、表現法や、その方面の基本的な作法を指す。例、演歌作曲の文法]」。

 この2つを比べて見ますと次の3点が分かります。第1に、「明鏡」は「客観的文法」と「主観的文法」とを分けて、後者には「文法論」という特別の名称を提案しているが、「新明解」は分けていない。あるいは前者だけで後者は見ていない。第2に、「新明解」の「広義」を「明鏡」は見ていない。第3に、「明鏡」は「法則性」という語を使っているが「新明解」は「法則」としている。

 私見を述べます。北原氏のように客観的文法と主観的文法とを分ける事は場合によっては必要かもしれませんが、普通は分けなくても混乱はしていないと思います。もしこれを分けて指摘するならば、同じような事は「法則」「体系」「弁証法」「論理」などについても言えますから、それも指摘しなければならないでしょう。そして、こういう性質を持った名詞に「主客両用語」とでもいう文法用語を作ってまとめる必要があるでしょう。しかし、氏はこういう事まではしていません。首尾一貫性に欠けると思います(1)。

 主観的文法に敢えて「文法論」という名称を与えるのには賛成できません。文法論という言葉を聞いた人はほとんど「文法についての議論ないし理論」を連想するでしょう。実際、前掲「文法」は内容的に主観的文法(文法体系)ではなく、「文法についての北原説」つまり「北原氏の文法論」と言うほかない代物だと思います。主観的文法に「文法論」という名前を与えてしまうと、本来の「文法論」つまり「文法についての議論」に付ける名前が無くなってしまうと思います。

 要するに、文法と文法論との関係は、「方法」と「方法論」との関係と同じで、後者の関係は北原氏自身が「明鏡」の中で説明している通りです。しかも「明鏡」では「方法論」は見出し語にすらなっています。それなのに「文法論」という見出し語はありません。ここでも首尾一貫性に欠けます。

 ついでに指摘しておきますと、最近では「方法論」という語を「方法」そのものの意味で使う学者や学生が多いのは辞書的及び文法的に取り上げるべき問題ですが、北原氏は気付いていないようです。先に氏が「法則」の代わりに「法則性」と言っていることに注意しておきましたが、それがこれと関連していると思われます。「方向」と言う代わりに「方向性」と言い、「関係」の代わりに「関係性」と言うのも同じです。明確に言うことを避けてぼかして言うということです。なぜ日本人はこういうぼかした言い方を好むのか、これは文法研究の大きなテーマのはずです(但し、武谷三男がその技術の定義の中で「法則」ではなく「法則性」を使っているのはきちんと説明しているので曖昧ではない)。

 「新明解」が「広義の文法」とした意味を「明鏡」が見落としているのはミスでしょう。

(1) 北原氏は形容詞についてはこう言っています。「形容詞には、客観的な表現のものと主観的な表現のものとがあり、さらに、『こわい』『おもしろい』『暑い』などのように、場合によって客観的表現になったり主観的表現になったりする両面的なものもある」(前掲「文

 第2節・募金の意味の変化の説明

 私はもう20年以上も前から「募金」という言葉の「意味」に異変の起きているのに気付き発言してきましたが、辞書でこの問題が取り上げられることはありませんでした。しかし、「明鏡」の第2版(2010年12月)がついに言及しました。先日、「岩波国語辞典」第7版新版(2011年11月。以下では「岩国」と略す)の広告に「『募金』の本来の意味は」という句がありましたので、「『岩国』(いわこく)も気づいたか」と思いました。これも取り上げます。

 「明鏡」にはこう書いてあります。「①寄付金などを一般から集めること。また、その金。②①に応じて、金を寄付すること。また、その金」。そして、①の後にも②の後にも、「主催者側からいう言葉」という注釈が付いています。

 「岩国」の説明はこうです。「①寄付金などを広く一般からつのること。反対語は拠金。②拠金・寄付する行為の意は1980年ころ学校から広まった誤用で、現在かなり多用。教師が言った「募金のお金を持って来なさい」などを寄付の金銭と誤解したせいか」。(①②に整理したのは牧野、又矢印を言葉に替えた)。

 これに気づいていない「新明解」の説明は次の通り。「寄付金を広く一般から集める事」。

 さて、本来の意味は「新明解」の言う通りで、「寄付金(売った物やサービスの代金ではなく無償の金)を募(つの)る(広く努めて集める)行為」でしょう。つまり「動作名詞」(動作を表す名詞)です。それが、その「寄付金自体」の意味に転化され、更に最近では「寄付金を出す行為」(とその金)という正反対の意味に転化されてしまい、完全に定着したようです。昨年(2011年)の東日本大震災の後ではこの「誤用」も含めて「募金」のオンパレードとなっています。

 ではこの「転意」現象をどう説明したら好いのでしょうか。「明鏡」は「主催者側から言ったことば」としています。この説明の拙い所は、「同じような現象を探して考える」という文法研究、いや研究一般の原則を守っていないことです。逆に言うならば、「或る行為を表す語の意味を逆の立場から見た意味に転化して使う」というような例がほかにあるのかを問題にしていない事です。従ってこの現象に一般的な名前を与えていません。

 「岩国」は本来の反対語(拠金)を指摘しています。これは当然の事ながら好かったと思います。しかし、誤用の発生源について推測を述べているのは感心しません。「同種の転意例」を集めるという正攻法を取るべきです。

 私見では、この「募金を集める」という表現と同じ構造をもった表現には「注目を集める(注目が集まる)」「(マラソンの選手が)給水を取る」「受注が殺到する」「受注が集まる」などがあります。いや、恥ずかしながら最近気づいた大先例に「被害を受ける」があります。更にこの原稿を書いている間に「注意を引く」に気づきました。後で検討します。

 これらの表現の共通点は何でしょうか。「動作名詞をその動作と関係のある物や事の意に転化して使う」ということです。本来は「寄付金を集める」か「募金を行う」と言うべき所を、募金を「寄付金そのもの」の意に転化してしまったので、「募金を集める」と成ったのです。「注目する」「注目される」「耳目を集める(耳目が集まる)」と言うべき所を、無知か何かのせいで、「関心を持つという行為」を意味する「注目」を「耳目そのもの」の意に転用して「注目が集まる」「注目を集める」と言うようになったのでしょう。「給水」(水を供給すること)は取れませんが、それを「(供給された)水そのもの」の意に転化して、「給水を取る」と言うようになったのでしょう。「受注」(注文を受けること)は殺到しませんが、「受注」を注文そのものの意にして「受注が殺到する」「受注が集まる」と言ったのでしょう。

 このように多くの「転意」が無意識のうちに行われているという事は、日本人の深層心理に「動作名詞をその動作と関係した物ないし事の意味に転化して使う」という傾向が潜んでいる事を証明していると思います。間違いにも法則があるのです。

 大切な事は、辞書がこういう変化をきちんと記載すると共に、文法学者がこういう傾向を確認して文法書の中に記すことだと思います。

 第3節・重言

 私が「被害」という語が「害を被る」という本来の動作名詞の意味とその「被った害そのもの」の意との両義を持っている事に気付いたのは実は最近のことでした。そして、これも上の法則の1例だと思っていました。

 しかし、「明鏡」は「被害を被る」という表現は「重言(じゅうげん。ジュウゴンとも言う)の1つだと説明しています。まず重言の説明を聞きます。私は重言をこれほど詳しく説明している本を知りません(1)。

 まず本文の中の説明は次の通りです(例を少し省いた)。「①同じ意味の語を重ねて使う言い方。「大豆豆」「後の後悔」「馬から落馬する」の類。②同じ語を重ねて出来た熟語。「悠悠」「刻刻」「ざらざら」の類。畳語」。ここまでなら他の辞書もほとんど同じです。

 しかし、「明鏡」にはその後に「重言のいろいろ」と題する囲み記事があります。例を少し略して引きます。

 「①言葉を重ねて使う意味がない、表現が冗長になるなど、一般に不適当とされるもの──あとで後悔する、一月元旦、炎天下の下(もと)、余分な贅肉。

 ②意味が明確になる、強調される、新しい意味が加わる、そもそも意味の重なりではないなど、「不適切」とは言えないもの──アンケート調査、過半数を超える、注目が集まる。

 ③結果目的語の適切な用法──遺産を遺す、建物を建てる、歌を歌う、犯罪を犯す、被害を被る。」

 一覧の後に個別的な説明があります。その内、「注目が集まる」の説明は次の通りです。「(これは)「注目」の「注(そそぐ)」と「集まる」に意味の重なりがあるとされるが、重言ではない」。

 そして、「被害」の項を引きますと「被害を被る」が載っていて、「~ヲに(結果)を取る言い方。重言ではない」とあります。この言い方については、「重言」の囲み記事の最後にこうあります。「「『結果目的語』は、~することによって~という行為や状態や事物を作り出すことを表すもので、日本語の一般的な用法」。

 さて、私見をまとめます。第1に、「重言ではない」という句の使い方から推理すると、北原氏は「重言のいろいろ」にまとめた3種の重言の内の第1のものだけを重言、あるいは「本来の重言」と考えているようです。後2種は「語句の意味に表面上の重なりはあるが、実際には重なっておらず、あるいは有意義な重複で、重言ではない」と考えているようです。それなら初めから「重言のいろいろ」などとしない方が好いでしょう。

 むしろ、重言の定義を「同じ意味の語を重ねて使う言い方」としたのですから、この3つは皆重言とし、①は「認められない重言」とし、②と③は「認められている重言」とすると好かったと思います。

 第2に、「注目が集まる」の適当性の説明は「意味の重なりがあるとされるが、重言ではない」と断定しているだけで「説明」になっていません。そもそも「注ぐ」という他動詞と「集まる」という自動詞は完全には重なりません。私見のように「動作名詞をその動作と関係のある対象そのものの意に転化して使う」ことの1例と捉える説は国語学界にはないのでしょうか。

 第3に、③を「結果目的語を取る用法」としているのには賛成できません。北原氏は結果目的語と同属目的語を混同しているようです。ここに挙げられた諸例は「遺産を遺す」「伝言を伝える」「建物を建てる」「犯罪を犯す」「歌を歌う」などですが、これは「結果目的語」としてまとめるべきではなく、むしろ英文法(ドイツ文法でも同じ)で言う「同属目的語」の例と考えた方が近いでしょう。

 英語のそれとの違いは、英語ではHe lived a happy lifeとかI dreamed a good dreamのように自動詞の特別な用法なのに、日本語のこれらの例では他動詞の用法だということです。
 結果目的語を取るというのは、本を書く、穴を掘る、家を建てる、などの表現です。「建物を建てる」では結果目的がたまたま同属目的になっているというだけの話です。両者は分けて考えるべきです。

 更に、「被害を被る」を結果目的語の一般的な使用の1つとしているのには一層賛成できません。「被る」という動詞は動詞と言っても「状態や事物を作り出すことを表すもの」ではなく、積極的な行為を意味していないからです。従って、「被害を被る」もやはり「動作名詞をその動作と関係のある対象そのものの意に転化して用いる」ことの1例とする方が適当だと思います。

 第4に、根本的な問題は、北原氏が「言葉は結局は習慣の問題だから、間違った用法でも多くの人が言うようになれば間違いではなくなる」という法則を知らないのか、指摘していない事です。同時に「なぜ、どういう道筋を通ってそういう誤用が生じたかの説明こそ文法の仕事の1つだ」ということをご存じないのか、実行していない事です。

 最後に、「注意を引く」を考えてみます。この場合も「注意」は「意を注ぐこと」であり、「気を付けること」(岩国)という動作名詞です。「引く」というのは「自分の方に向けさせる」(新明解)という意味です。問題は、この表現では「意を引く」という言い回しがない(らしい)ことです。「意」には「意を迎える」「意を汲む」がありますし、「引く」には「(人の)目を引く」「(人の)気を引く」などがあるのに、なぜか「意を引く」はありません。私は知りません。

 と言うことは、「意を引く」という意味の事を言おうとした人がそういう言い回しがないので無意識のうちに「注意を引く」と言ったのだと思います。それがそのまま定着したのだと思います。では、なぜ「意」の代わりに「注意」が出て来たのか。もちろん「動作名詞をその動作と関係のある物や事そのものの意に転化して用いる」という心理が日本人の深層心理の底にしっかりと根付いているからだと思います。

(1) 北原氏達の作った『日本文法事典』(有精堂出版1981年)の索引には「重言は載っていません。


北原保雄の辞書と文法(その2)

2012年05月04日 | カ行

 第4節・規範文法と記述文法

 北原氏は規範文法と記述文法の区別にもこだわっているようです。

 「このように、正しいと認められる度合い、つまり規範性の程度には差がある。それはどこで決まるのか。規範文法といっても、やはり相対的なものなのである。私の書く規範文法(論)と私よりもっと若い人、あるいはもっと年輩の人の書く規範文法(論)とは違ったものになってくる。年齢だけではない。住む場所が変われば規範も違ってくる。時代や方処が遣えば、規範は違ってくる。

 ことばというものはそういうものである。同じ時代の、同じ場所に生きる人の間においても、文法の規範は微妙に異なっている。ましてや時代が異なり場所が違えば、規範は著しく相違して当然である。現代の我々からすれば同じ古典に見えるけれども、『万兼集』と『源氏物語』と近松の浄瑠璃とでは、文法が等しく異なる。同じ現代語であっても、各地の方言は、相互に違ったものである。

 そこで、ことばをありのままに、このようであると記述する文法(論)が出てくるのである。これが記述文法である。このようにあるべきだという規範を組織したものが規範文法であるのに対して、記述文法はこのようであるとありのままに記述するものである。『源氏物語』の文法を規範として『万葉集』や浄瑠璃の文法を律しようというのは一種の規範文法である。記述文法では、『万葉集』は『万葉集』のことばに即して、そして浄瑠璃は浄瑠璃のことばに即して、その言語事実をありのままに記述しょうとするのである。これが正しいとか、これは誤りであるというようなことをいうのではなく、ありのままに記述するのである」(前掲「文法」14-5頁)。

 規範が時代や場所によって異なるのは何事でも同じでしょう。だからと言って、「規範がない」とは言えないと思います。そして、規範があるなら、それを書きしるすのも記述文法に入るはずです。両者を厳密に分ける意味がどこにあるのか疑問です。現に、氏は自分の編集した「明鏡」の中でいくつもの表現について「誤り」と断じています。敬語などを例に挙げておきましょうか。1例として「伺う」の②の項を見ると分かりますが、ここには引きません。

 北原氏のような意見を聞くとワイセツ裁判を思い出します。この裁判では、公然ワイセツ罪に問われた表現を「ワイセツではない」と主張する人々はよく「何がワイセツかは時代と共に変わる」という事実を根拠とするからです。しかし、この擁護論は「理屈としては」間違っていると思います。「時代と共に変わる」という事は「現在には現在の規準がある」ということであって、「起訴された表現がワイセツに当たらない」という結論には必ずしもならないからです。

 北原氏のすべきことは、先にも述べましたように、間違った言い回しでも多くの人が使うようになると間違いとは言えなくなる、という文法法則を指摘する事だったと思います。その上で、言語表現の現状を注視して、変わってきている点をしっかり記述する事でしょう。

 では「明鏡」はその任務を十分に果たしているでしょうか。残念ながら、否です。取り上げるべき事で取り上げていない事がかなり沢山あります。「どんな仕事にでも欠点はある」という一般論では済ませる事のできない程の欠陥があります。いくつかの証拠を挙げておきましょう。

 第1に、「逸話」(逸せられている話、あまり知られていない話)については「有名な逸話」という言い回しはもう何十年も前から使われていますが、これに気づかないようでは国語学者として情けないです。

 第2に、「驚く」とその受身形の「驚かされる」の両方が使われていて、後者の方が多くなっていると思いますが、この問題にも気づいていないようです(1)。

 第3に、「犇(ひしめ)き合う」も相当一般化していますが、これは「重言」の1つではないでしょうか。

 第4に、「お話を聞く」という言い回しも「完全に」と言って好いくらい一般化していますが、「お話を伺う」、「話を伺う」、「話を聞く」を含めてこの4つの表現を比較して、どういう場合にどれを使うのが適当か、編者の考えを聞きたいものです。

 第5に、「一方では~、他方では~」という対比の表現がほとんど完全に無くなってきていますが、これにも気付いていないようです。その代わりに「一方では~、一方では~」が使われ、初めから「他方では」と言い出すべき所でも「一方では」が使われています。つまり、「他方では」と言う日本語は今や、英語のon the other handの訳の場合を除いて、ほとんど使われなくなってきているのです。

 第6に、「ドリンクの方はどういたしますか」といったように、やたらに「~の方」という言い回しも多くの人に気づかれひんしゅくを買っていますが、これも載っていません。
 これなどは、善悪はともかく、なぜそういう言い方が使われるのかは理解できると思います。手紙の宛名に「○○様」と書きますが、その「様」は元は「方向」を意味したからです。つまり日本人は人の名を直接言うのを避けて「誰誰の方向」と言うことで相手を尊重したのです。ですから、サービス業などで客に対して丁寧な表現をと考えた時、「ドリンクの方は」と言うのはこの日本人の深層心理から見て自然だったのだと思います。辞書や文法書にはこういう説明も必要でしょう。

 第7に、最後に「明鏡」を褒めておきます。これには「させていただく」が独立した見出しで載っています。これは適当でしょう。内容的にも説明がかなり詳しいですが、この言い回しがやたらと使われるようになってきている事には警鐘を鳴らしておいてほしかったです。更に進んで注(1)に書きました「知られざる」や「あってはならない」をも見出し語にしてくれると好かったと思います。

 「明鏡」のもう1つの長所は「助詞の説明が詳しく、見やすい」ということでしょう。「岩国」でも詳しい説明がありますが、「明鏡」の方が箇条書きになっていて、黒い丸に数字やカタカナを白抜きにしているので、読みやすいです。数字とカタカナの表し方を分けると更に好かった。「新明解」の助詞の説明はかなり見劣りがします。

 しかし、この努力も辞書と文法の役割分担にまで考えが及んでいないために中途半端に終わっています。それのよく出た例が「同語反復文」です。A is Aの文型ですが、日本語の場合は「AはAだ」の外に「AがAだ」と「AもAだ」があります。この3者の「それぞれについて」は「明鏡」は詳しく検討していますが、3者の比較には思いが及ばなかったようです。と言うより、3者の比較は優れて文法書の仕事なのですが、包括的な文法書をまとめなかった北原氏はこの仕事を忘れたようです。

 なお、第1~6までの欠陥は「新明解」でも「岩国」でも同じです。

 (1) 「驚く」と「驚かされる」だけでなく、かつてはあまり受け身表現が使われなかったであろう日本語で、最近は受け身が好く使われるようになっていると思います。両者は事実としてどう使い分けられているか(記述文法)と両者の使い分けの原則は何か(規範文法)は文法学の大テーマの1つではないでしょうか。

 北原氏自身、「連用修飾語が構文論のはきだめであったと批判して、連用修飾語の構文的職能について精細な考察を展開した渡辺でさえ、この2つを区別していない。しかし、このAB2つは、どうしても区別されなければならないものである。この2つを区別しないようでは、日本語の構文論は始まらない、そう、声を大にして叫ばずにはいられない」(前掲「文法」124頁)と、両者を「使い分け」ていますが、意識してした事でしょうか。

 受け身表現と言えば、「知られざる」と「知らない」とは意味も違います。「どこそこの知られざる魅力」と「知らない街を歩いてみたい」を比べると分かります。

又、最近は「あってはならない(事)」という責任の所在を曖昧にした言い回しがよく使われますが、これはいつごろからでしょうか。本来は「してはならない(事)」ではないでしょうか。「あられもない」と「あるまじき」はもちろん載っています。「あるまじき」の説明の中に「あってはならない」があるのに、こちらは見出し語になっていません。

 第5節・文法的に考える

 北原氏は「文法的に考える」ということを提唱しています。そして、その名を持った本まで出しています。しかし、その内容は氏の著書『表現文法の方法』(大修館書店)と同様に、連絡なく書かれた論文を集めただけのもので、羊頭狗肉と言われても仕方ないでしょう。「文法的に考える」という考えに賛成する者として残念な事です。

 同じ事は文法教育についても言えます。氏はこう言っています。

 「学校文法が文法研究の成果を取り入れないのは、口語文法の重要性を認めようとしないからである。いな、重要性に気づいていないのである。しかし、昔のことばについて考えるよりも現在自分の用いていることばについて考える方がはるかに深く考えることができるし、また実用の面から見ても有益であることは、いうまでもない。身近なものであるからこそ可能でありかつ有用なのである。深く考えれは面白くなる。

 現在学校で教えられている文法は、口語文法にせよ、文語文法にせよ、日本語について深く考えるには、あまりにも、かいなで的で通り一遍すぎる。文法教育はことばについての洞察力を養うものでなければならない。そして、ことばについて考えることの楽しさを感得させ、ことばについて考えることが好きになるような魅力的なものでありたい。そういう文法教育が行なわれるようになれば、日本語を考え日本語を愛する心が育ち、文法の不幸は救われることになるのである。(前掲「文法」21頁)

 しかし、これだけ言っておきながら、そのすぐ後では「解釈の問題について考えるには、古文の方が具合がいいから」と言って「古文の例で考え」ています。「昔のことばについて考えるよりも現在自分の用いていることばについて考える方がはるかに深く考えることができるし、また実用の面から見ても有益である」という言葉はどうなったのでしょうか。

 長々と古文での説明が続いたのち、ようやく「現代語の例をあげよう」と言ったかと思うと、そこでひかれる例文は「用例」ではなく「作例」です。つまり、「雨が、降りそうだ」と「雨が、降るそうだ」という2つのつまらない文を作って比較・検討しています。これは「ことばについて考えることの楽しさを感得させ、ことばについて考えることが好きになるような魅力的なもの」でしょうか。

 思うに、これはドイツ語の授業でも同じです。そこでも最初の1年で「初等文法」を教え、後は読本ばかりです。その中で文法的な解説をしたり、文法上の研究テーマを与えたりする授業はほとんどありません。多分、全然ないでしょう。なぜか。ほとんどの先生にその力がないからです。

 しかし、北原氏なら「力がない」とまでは言えないでしょう。それなのに国語学の大学教授としてどういう授業をしてきたのかの報告がありません。沢山の本を出しているようですが、授業の報告の本はないと思います。これが問題です。

 「文法的に考える」という態度を身に付け、又生徒にも身につけてもらうには、まずそれに役立つ「包括的な」文法書とそれに役立つように作られた辞書が必要だと思います。 これを作った上で、それを手がかりにしながら、「文法的に考える」授業を行いつつ、文法書も辞書も改良して行くのです。これが学問的に正しい道(1) だと思います。

 この観点から考えますと、北原氏は一応「明鏡」を出して新しい版で不十分ながら改良していますから、この点は合格としましょう。しかし、「包括的な」文法書は出していません。これが困ります。氏の前掲「文法」は「包括的」ではなく、しかも文法書と言うよりは「文法を論じた本」です。たしかに氏も言うように「学校文法」(橋本文法)はつまらない代物です。しかし、とにもかくにも「包括的な文法」ではあります。学校文法を批判するなら代案を出すべきでしょう。

(1) 「正しい道」と書いて思い出しました。最近はこの意味で「正道」ではなく「王道」が使われることが多くなりました。本来は「王道」とは①徳を以てする政治(「覇道」の反対)、②安易な方法(学問に王道なし)、の2義だけでしたが、最近は③最も正統的な道の意(本来は「正道」)でも使われるようになってきています。「岩国」は③を載せていません。「明鏡」と「新明解」は③も記していますが、共に、なぜ③の意味で使われるようになったのかを説明していません。

 第6節・文法

 北原氏の文法は既に指摘しましたように包括的な文法書ではなく、そもそも文法書でもなく、文法についての理論です。しかも、構文論に偏っています。氏はこう言っています。

「本書では、文法論の中心は構文論でなければならないという立場から、構文についての論が多くの紙幅を占めたが、単語についても論じなければならない問題は多いのである。ただ、従来の文法論の多くや学校文法においては、単語についての論や説明の方がむしろ中心で、それが文法を無味乾燥で面白味のないものにしていたことも事実である。目的のない品詞分解や、品詞分析のための品詞分析、また、助動詞の活用や文法用語名の丸暗記などが文法嫌いを増やしていたことに気づかなけれはならない。単語論も、構文論の場合同様に、文法的に考えるようなものでなければならない」(前掲「文法」309頁)。

 その言やよし。実際はどうでしょうか。「文法的に考えるのに役立つ構文論」になっているでしょうか。残念ながら、否です。論じているテーマは目次を頼りに整理しますと、単文の構造、複文と重文の構造、文の補充成分と修飾成分、主語と主題、うなぎ文、客体的表現と主体的表現、です。このほかに「文とは何か」「単語とは何か」についての学説史研究を踏まえた自説の展開があります。品詞論では助動詞についての大部な著書があるようですが、ここにはまとめられていません。助詞については「明鏡」に譲ったようです。

 さて、決定的に欠けていると思われる点を箇条書きに指摘します。

 第1に、主語概念については三上章も含めて検討していますが、不十分です。「主語とは人称変化をする動詞(定形動詞)と対になる概念である」という点が検討されていないからです。

 たしかに、「英語でも、「What~+be+名詞句」というような構文によらないで、前提=焦点の表現になる場合があるが、英語には日本語における『は』のような標識(marker)がないために、それが形式の上からは分かりにくいのである。そういう点では、日本語の方がはるかに論理的な言語であるということができる」(文法278頁)と指摘しています。しかし、関口存男(つぎお)の意味形態論を知らなかったために、「人類に共通の意味形態に対してそれ専用の文法形態を持っている言語とそうでない言語とがある」という法則、及び「従って日本語には専用の文法形態のない意味形態を意識するためには外国語を文法的に研究しなければならない」という結論までは引き出しませんでした。

 第2に、述語概念が諸文法で様々な意味で使われ混乱を引き起こしているのに気づいていないのか、検討も説明もしないで、最も広い意味で使っています。氏の使い方では全ての文が述語文とされてしまいそうです(1)。

 私は近刊予定の「関口ドイツ文法」の中でこれを整理し、すべての平叙文を名詞文(繋辞文、属詞文、「である」文)と動詞文(非繋辞文、非属詞文、非「である」文)に分けました。この分類と用語の特徴は、①「述語」という用語を追放した事(「述語」の「述」という日本語の意味が広すぎるから。文全体はすべて何かについての叙述だから、強いてそれを言う場合は「叙述文」、それの叙述部を言う場合は「叙述部」とし、あくまでも「述語」という言葉は使わない)、②「である」文の補語を「属詞」とするフランス語文法の用語法を受け継いだ事、です。

 いや、そもそも平叙文全体を「である」文とそれ以外に分けたことが根本の大前提です。なぜ分けたかと言いますと、関口氏が文の9割は「である」文だと言っているからです。実際、「である」文の適用可能性は無限大と言ってよいくらい広いものです。北原氏は「うなぎ文」を論じる中でそれに近付いていますが、文全体の見通しが不十分だったために、理解が狭すぎたと思います。

 第3に、この狭さは、「である」文の無限の可能性の検討を「うなぎ文」に限定した点に出ています。氏はこう言っています。(僕はウナギを注文する、の意での)「僕はうなぎだ」という表現は、われわれ日本人にとっては、ごくあたりまえのもので、特に変わった文であるとも感じられないが、英語で、I am a fish.などといっても魚料理を注文したことにはならないという。日本人にとってごくあたりまえの表現であるということは、それだけ、この文が日本語の構造の基本にかかわるものであるということである」(前掲「文法」284頁)。

 しかし、こういう一般論を帰結する前に、用例を出来るだけ集めなければなりません。「である」文には、「体の具合が少しおかしい」と言った人に対して、「それは運動不足だよ」と言うような「原因を表す用法」もあります。これはドイツ語にも英語にもフランス語にもあるようです。又日本語では「春はあけぼの」(春はあけぼのに限る、の意)という表現も可能です。形式的には、「これは君だ」といったような「主題も属詞も代名詞の文」もあり、ドイツ語ではDas ist's、英語でもThat's itというような文まであります。要するに「である」文には何でもありなのです。むしろ、なぜそうなのかを考える事が大切だと思います。

 更に、英語のA is Bに対応する表現形式として日本語では「AはBである」のほかに「AがBである」もあり、更に驚くなかれ「AもBだ」(お前も悪だな、など)という表現もあるのです。日本語の強みは「は」だけではないのです。この「も」については「そのまま当たる表現はドイツ語にはない」と関口氏は言っています。

 第4に、たしかに北原氏はうなぎ文について、「『ぼくはうなぎだ。』に代表される『だ』型文の意味は曖昧で、この文は、たとえば、『ぼくはうなぎが食べたい。』『ぼくはうなぎを注文する。』『ぼくはうなぎを釣る。』あるいは『ぼくはうなぎを食べたくない。』などのように、いろいろな意味に解される。これはどうしてであろうか(同、285頁)と問題提起し、結論として、「うなぎ文は分裂文から説明される」としているようですが、私にはこれにどれだけの意味があるのか分かりません。

 それよりもこの問題と関係しているのは、「『の』が、格助詞というよりも格表示にはかかわらない超論理的な連体関係を表示する助詞」だ(同、250頁)、という事のように思われます。実際、英語のA of Bという句はAとBのどんな関係でも表せるのではないでしょうか。Anne of Green Gables(「赤毛のアン」の原題)は「アン」と「緑の切り妻屋根」とのどんな関係を表しているのでしょうか。ドイツ語の2格付置名詞(A des Bs)でも同じでしょう。ほとんどあらゆる関係を表せますが、Die Philosophie des Als-ob(「かの如く」の哲学)では両者の関係がどうだと言うのでしょうか。

 両者の曖昧さ、どんな関係でも表せる事は、両者が同じ考え方の2つの表現形式にすぎない事を暗示しているのではないでしょうか。推測を言いますと、これは「特定」の方法の1つだと思います。要するに、AとBの論理的な関係はどうでもいいのです。とにかくAについて、「どのAか」を示せばいいという意味形態なのです。そう考えると、Anne of Green Gablesは「緑の切り妻屋根のアン」で、関係の如何は省いても、ともかく「どのアンか」という問題に答えていて目的を達している事が分かります。Die Philosophie des Als-obでも同じです。言語は「意を達する」ことが一番重要であり、極端な場合は、「意を達しさえすれば手段はどうでも好い」という性格を持っているのです。

 うなぎ文の場合は、思うに、「何を食べたいか」といった大主題は前提されている状況下で、小主題を「僕は」で示し、答えを「うなぎ」で示しているわけで、これもこれで「意を達している」わけです。「僕はうなぎだ」の意味の違いは、そこで前提されている大主題の違いによるだけです。

(1) 前掲『日本文法事典』には「述語の定義」としてこう書いてあります。「文の成分の1つ。係ってくる種々の成分を受けとめて、その文の主体の動作・作用や性質・状態・関係などを叙述・説明し、文を成立させる成分」(285頁)。そして、その後に「述語を否定する説はなく、ただそれの定義の仕方に諸説がある」と言っています。

 文法事典がこういう説明だけでは不十分です。以下の点を言うべきです。──この定義は「広義の述語概念」です。狭義では、「AはBである」型の文、またはA is B型の文のBだけを述語とします。フランス語文法ではこれを属詞と言います。こういう述語を取る動詞「である」とかbe動詞とかを繋辞とかコプラと言います。──

 三上章が「題述関係」と言う時も「広義の述語」を考えていたようです。と言うより、主語を追放した三上でさえ述語概念は再検討しなかったようです。

 終わりに

 これからの日本語文法の研究では外国語で書かれた日本語文法書も、また外国語についての文法書でも独特の内容を持っているものは参考にした方が好いと思います。関口存男氏の文法はどの言語の文法研究者にとっても有益だと思います。北原氏は関口文法を知らなかったのでしょうか。

 関口氏の大功績の1つは「日本語における響きとドイツ語の指向性」の指摘ですが、関口文法を知らない北原氏の文法には擬音語(擬態語を含む)論がないのではないでしょうか。今や、日本のマンガは多くの外国語に訳されているようです。しかるにマンガは擬音語のオンパレードです。では、そこで擬音語はどう訳されているのでしょうか。本当の文法はこういう事を考える時にも役立つものだと思います。

 また、国文法についても氏は広く文献を渉猟している(「広く」と「渉猟」とは重言です)ようですが、上記の書の巻末の「参考文献」を見ますと、三上章については『現代語法序説』と『象ハ鼻ガ長イ』の2冊しか挙がっていません。三上には『日本語の構文』及び『構文の研究』と、「構文」を書名に含んだ著作が2冊ありますが、構文論に特別の関心を持つ北原氏はなぜこの2冊を読まなかったのでしょうか。数学教師の国文法だから低く見たのだとしたら、残念な事です。

 しかし、『日本語の構文』では「途中乗り換え」という文法的に非常に重要な事実を指摘しています。これを読まなかった北原氏は大きな損をしたと思います。関口はこれに「移轍」という名前を与えて、三上よりはるかに詳しく研究していますが、これも知っていたら北原氏の構文論は更に深まっていたでしょう。

 前掲「文法」の「あとがき」は「温かいご批正をお願い申し上げる」と結ばれています。その日付は昭和56年[1981年]8月となっています。それから既に31年近く経っている事になりますが、無名の哲学者の辛口の批評は「温かいご批正」と受け取ってもらえるでしょうか。
(2012年5月3日)

       関連項目

「メリー・クリスマス」は「楽しいクリスマス」ではない

板倉聖宣(きよのぶ)氏の仮説実験授業