第4節・規範文法と記述文法
北原氏は規範文法と記述文法の区別にもこだわっているようです。
「このように、正しいと認められる度合い、つまり規範性の程度には差がある。それはどこで決まるのか。規範文法といっても、やはり相対的なものなのである。私の書く規範文法(論)と私よりもっと若い人、あるいはもっと年輩の人の書く規範文法(論)とは違ったものになってくる。年齢だけではない。住む場所が変われば規範も違ってくる。時代や方処が遣えば、規範は違ってくる。
ことばというものはそういうものである。同じ時代の、同じ場所に生きる人の間においても、文法の規範は微妙に異なっている。ましてや時代が異なり場所が違えば、規範は著しく相違して当然である。現代の我々からすれば同じ古典に見えるけれども、『万兼集』と『源氏物語』と近松の浄瑠璃とでは、文法が等しく異なる。同じ現代語であっても、各地の方言は、相互に違ったものである。
そこで、ことばをありのままに、このようであると記述する文法(論)が出てくるのである。これが記述文法である。このようにあるべきだという規範を組織したものが規範文法であるのに対して、記述文法はこのようであるとありのままに記述するものである。『源氏物語』の文法を規範として『万葉集』や浄瑠璃の文法を律しようというのは一種の規範文法である。記述文法では、『万葉集』は『万葉集』のことばに即して、そして浄瑠璃は浄瑠璃のことばに即して、その言語事実をありのままに記述しょうとするのである。これが正しいとか、これは誤りであるというようなことをいうのではなく、ありのままに記述するのである」(前掲「文法」14-5頁)。
規範が時代や場所によって異なるのは何事でも同じでしょう。だからと言って、「規範がない」とは言えないと思います。そして、規範があるなら、それを書きしるすのも記述文法に入るはずです。両者を厳密に分ける意味がどこにあるのか疑問です。現に、氏は自分の編集した「明鏡」の中でいくつもの表現について「誤り」と断じています。敬語などを例に挙げておきましょうか。1例として「伺う」の②の項を見ると分かりますが、ここには引きません。
北原氏のような意見を聞くとワイセツ裁判を思い出します。この裁判では、公然ワイセツ罪に問われた表現を「ワイセツではない」と主張する人々はよく「何がワイセツかは時代と共に変わる」という事実を根拠とするからです。しかし、この擁護論は「理屈としては」間違っていると思います。「時代と共に変わる」という事は「現在には現在の規準がある」ということであって、「起訴された表現がワイセツに当たらない」という結論には必ずしもならないからです。
北原氏のすべきことは、先にも述べましたように、間違った言い回しでも多くの人が使うようになると間違いとは言えなくなる、という文法法則を指摘する事だったと思います。その上で、言語表現の現状を注視して、変わってきている点をしっかり記述する事でしょう。
では「明鏡」はその任務を十分に果たしているでしょうか。残念ながら、否です。取り上げるべき事で取り上げていない事がかなり沢山あります。「どんな仕事にでも欠点はある」という一般論では済ませる事のできない程の欠陥があります。いくつかの証拠を挙げておきましょう。
第1に、「逸話」(逸せられている話、あまり知られていない話)については「有名な逸話」という言い回しはもう何十年も前から使われていますが、これに気づかないようでは国語学者として情けないです。
第2に、「驚く」とその受身形の「驚かされる」の両方が使われていて、後者の方が多くなっていると思いますが、この問題にも気づいていないようです(1)。
第3に、「犇(ひしめ)き合う」も相当一般化していますが、これは「重言」の1つではないでしょうか。
第4に、「お話を聞く」という言い回しも「完全に」と言って好いくらい一般化していますが、「お話を伺う」、「話を伺う」、「話を聞く」を含めてこの4つの表現を比較して、どういう場合にどれを使うのが適当か、編者の考えを聞きたいものです。
第5に、「一方では~、他方では~」という対比の表現がほとんど完全に無くなってきていますが、これにも気付いていないようです。その代わりに「一方では~、一方では~」が使われ、初めから「他方では」と言い出すべき所でも「一方では」が使われています。つまり、「他方では」と言う日本語は今や、英語のon the other handの訳の場合を除いて、ほとんど使われなくなってきているのです。
第6に、「ドリンクの方はどういたしますか」といったように、やたらに「~の方」という言い回しも多くの人に気づかれひんしゅくを買っていますが、これも載っていません。
これなどは、善悪はともかく、なぜそういう言い方が使われるのかは理解できると思います。手紙の宛名に「○○様」と書きますが、その「様」は元は「方向」を意味したからです。つまり日本人は人の名を直接言うのを避けて「誰誰の方向」と言うことで相手を尊重したのです。ですから、サービス業などで客に対して丁寧な表現をと考えた時、「ドリンクの方は」と言うのはこの日本人の深層心理から見て自然だったのだと思います。辞書や文法書にはこういう説明も必要でしょう。
第7に、最後に「明鏡」を褒めておきます。これには「させていただく」が独立した見出しで載っています。これは適当でしょう。内容的にも説明がかなり詳しいですが、この言い回しがやたらと使われるようになってきている事には警鐘を鳴らしておいてほしかったです。更に進んで注(1)に書きました「知られざる」や「あってはならない」をも見出し語にしてくれると好かったと思います。
「明鏡」のもう1つの長所は「助詞の説明が詳しく、見やすい」ということでしょう。「岩国」でも詳しい説明がありますが、「明鏡」の方が箇条書きになっていて、黒い丸に数字やカタカナを白抜きにしているので、読みやすいです。数字とカタカナの表し方を分けると更に好かった。「新明解」の助詞の説明はかなり見劣りがします。
しかし、この努力も辞書と文法の役割分担にまで考えが及んでいないために中途半端に終わっています。それのよく出た例が「同語反復文」です。A is Aの文型ですが、日本語の場合は「AはAだ」の外に「AがAだ」と「AもAだ」があります。この3者の「それぞれについて」は「明鏡」は詳しく検討していますが、3者の比較には思いが及ばなかったようです。と言うより、3者の比較は優れて文法書の仕事なのですが、包括的な文法書をまとめなかった北原氏はこの仕事を忘れたようです。
なお、第1~6までの欠陥は「新明解」でも「岩国」でも同じです。
(1) 「驚く」と「驚かされる」だけでなく、かつてはあまり受け身表現が使われなかったであろう日本語で、最近は受け身が好く使われるようになっていると思います。両者は事実としてどう使い分けられているか(記述文法)と両者の使い分けの原則は何か(規範文法)は文法学の大テーマの1つではないでしょうか。
北原氏自身、「連用修飾語が構文論のはきだめであったと批判して、連用修飾語の構文的職能について精細な考察を展開した渡辺でさえ、この2つを区別していない。しかし、このAB2つは、どうしても
区別されなければならないものである。この2つを区別しないようでは、日本語の構文論は始まらない、そう、声を大にして叫ばずにはいられない」(前掲「文法」124頁)と、両者を「使い分け」ていますが、意識してした事でしょうか。
受け身表現と言えば、「知られざる」と「知らない」とは意味も違います。「どこそこの知られざる魅力」と「知らない街を歩いてみたい」を比べると分かります。
又、最近は「あってはならない(事)」という責任の所在を曖昧にした言い回しがよく使われますが、これはいつごろからでしょうか。本来は「してはならない(事)」ではないでしょうか。「あられもない」と「あるまじき」はもちろん載っています。「あるまじき」の説明の中に「あってはならない」があるのに、こちらは見出し語になっていません。
第5節・文法的に考える
北原氏は「文法的に考える」ということを提唱しています。そして、その名を持った本まで出しています。しかし、その内容は氏の著書『表現文法の方法』(大修館書店)と同様に、連絡なく書かれた論文を集めただけのもので、羊頭狗肉と言われても仕方ないでしょう。「文法的に考える」という考えに賛成する者として残念な事です。
同じ事は文法教育についても言えます。氏はこう言っています。
「学校文法が文法研究の成果を取り入れないのは、口語文法の重要性を認めようとしないからである。いな、重要性に気づいていないのである。しかし、昔のことばについて考えるよりも現在自分の用いていることばについて考える方がはるかに深く考えることができるし、また実用の面から見ても有益であることは、いうまでもない。身近なものであるからこそ可能でありかつ有用なのである。深く考えれは面白くなる。
現在学校で教えられている文法は、口語文法にせよ、文語文法にせよ、日本語について深く考えるには、あまりにも、かいなで的で通り一遍すぎる。文法教育はことばについての洞察力を養うものでなければならない。そして、ことばについて考えることの楽しさを感得させ、ことばについて考えることが好きになるような魅力的なものでありたい。そういう文法教育が行なわれるようになれば、日本語を考え日本語を愛する心が育ち、文法の不幸は救われることになるのである。(前掲「文法」21頁)
しかし、これだけ言っておきながら、そのすぐ後では「解釈の問題について考えるには、古文の方が具合がいいから」と言って「古文の例で考え」ています。「昔のことばについて考えるよりも現在自分の用いていることばについて考える方がはるかに深く考えることができるし、また実用の面から見ても有益である」という言葉はどうなったのでしょうか。
長々と古文での説明が続いたのち、ようやく「現代語の例をあげよう」と言ったかと思うと、そこでひかれる例文は「用例」ではなく「作例」です。つまり、「雨が、降りそうだ」と「雨が、降るそうだ」という2つのつまらない文を作って比較・検討しています。これは「ことばについて考えることの楽しさを感得させ、ことばについて考えることが好きになるような魅力的なもの」でしょうか。
思うに、これはドイツ語の授業でも同じです。そこでも最初の1年で「初等文法」を教え、後は読本ばかりです。その中で文法的な解説をしたり、文法上の研究テーマを与えたりする授業はほとんどありません。多分、全然ないでしょう。なぜか。ほとんどの先生にその力がないからです。
しかし、北原氏なら「力がない」とまでは言えないでしょう。それなのに国語学の大学教授としてどういう授業をしてきたのかの報告がありません。沢山の本を出しているようですが、授業の報告の本はないと思います。これが問題です。
「文法的に考える」という態度を身に付け、又生徒にも身につけてもらうには、まずそれに役立つ「包括的な」文法書とそれに役立つように作られた辞書が必要だと思います。 これを作った上で、それを手がかりにしながら、「文法的に考える」授業を行いつつ、文法書も辞書も改良して行くのです。これが学問的に正しい道(1) だと思います。
この観点から考えますと、北原氏は一応「明鏡」を出して新しい版で不十分ながら改良していますから、この点は合格としましょう。しかし、「包括的な」文法書は出していません。これが困ります。氏の前掲「文法」は「包括的」ではなく、しかも文法書と言うよりは「文法を論じた本」です。たしかに氏も言うように「学校文法」(橋本文法)はつまらない代物です。しかし、とにもかくにも「包括的な文法」ではあります。学校文法を批判するなら代案を出すべきでしょう。
(1) 「正しい道」と書いて思い出しました。最近はこの意味で「正道」ではなく「王道」が使われることが多くなりました。本来は「王道」とは①徳を以てする政治(「覇道」の反対)、②安易な方法(学問に王道なし)、の2義だけでしたが、最近は③最も正統的な道の意(本来は「正道」)でも使われるようになってきています。「岩国」は③を載せていません。「明鏡」と「新明解」は③も記していますが、共に、なぜ③の意味で使われるようになったのかを説明していません。
第6節・文法
北原氏の文法は既に指摘しましたように包括的な文法書ではなく、そもそも文法書でもなく、文法についての理論です。しかも、構文論に偏っています。氏はこう言っています。
「本書では、文法論の中心は構文論でなければならないという立場から、構文についての論が多くの紙幅を占めたが、単語についても論じなければならない問題は多いのである。ただ、従来の文法論の多くや学校文法においては、単語についての論や説明の方がむしろ中心で、それが文法を無味乾燥で面白味のないものにしていたことも事実である。目的のない品詞分解や、品詞分析のための品詞分析、また、助動詞の活用や文法用語名の丸暗記などが文法嫌いを増やしていたことに気づかなけれはならない。単語論も、構文論の場合同様に、文法的に考えるようなものでなければならない」(前掲「文法」309頁)。
その言やよし。実際はどうでしょうか。「文法的に考えるのに役立つ構文論」になっているでしょうか。残念ながら、否です。論じているテーマは目次を頼りに整理しますと、単文の構造、複文と重文の構造、文の補充成分と修飾成分、主語と主題、うなぎ文、客体的表現と主体的表現、です。このほかに「文とは何か」「単語とは何か」についての学説史研究を踏まえた自説の展開があります。品詞論では助動詞についての大部な著書があるようですが、ここにはまとめられていません。助詞については「明鏡」に譲ったようです。
さて、決定的に欠けていると思われる点を箇条書きに指摘します。
第1に、主語概念については三上章も含めて検討していますが、不十分です。「主語とは人称変化をする動詞(定形動詞)と対になる概念である」という点が検討されていないからです。
たしかに、「英語でも、「What~+be+名詞句」というような構文によらないで、前提=焦点の表現になる場合があるが、英語には日本語における『は』のような標識(marker)がないために、それが形式の上からは分かりにくいのである。そういう点では、日本語の方がはるかに論理的な言語であるということができる」(文法278頁)と指摘しています。しかし、関口存男(つぎお)の意味形態論を知らなかったために、「人類に共通の意味形態に対してそれ専用の文法形態を持っている言語とそうでない言語とがある」という法則、及び「従って日本語には専用の文法形態のない意味形態を意識するためには外国語を文法的に研究しなければならない」という結論までは引き出しませんでした。
第2に、述語概念が諸文法で様々な意味で使われ混乱を引き起こしているのに気づいていないのか、検討も説明もしないで、最も広い意味で使っています。氏の使い方では全ての文が述語文とされてしまいそうです(1)。
私は近刊予定の「関口ドイツ文法」の中でこれを整理し、すべての平叙文を名詞文(繋辞文、属詞文、「である」文)と動詞文(非繋辞文、非属詞文、非「である」文)に分けました。この分類と用語の特徴は、①「述語」という用語を追放した事(「述語」の「述」という日本語の意味が広すぎるから。文全体はすべて何かについての叙述だから、強いてそれを言う場合は「叙述文」、それの叙述部を言う場合は「叙述部」とし、あくまでも「述語」という言葉は使わない)、②「である」文の補語を「属詞」とするフランス語文法の用語法を受け継いだ事、です。
いや、そもそも平叙文全体を「である」文とそれ以外に分けたことが根本の大前提です。なぜ分けたかと言いますと、関口氏が文の9割は「である」文だと言っているからです。実際、「である」文の適用可能性は無限大と言ってよいくらい広いものです。北原氏は「うなぎ文」を論じる中でそれに近付いていますが、文全体の見通しが不十分だったために、理解が狭すぎたと思います。
第3に、この狭さは、「である」文の無限の可能性の検討を「うなぎ文」に限定した点に出ています。氏はこう言っています。(僕はウナギを注文する、の意での)「僕はうなぎだ」という表現は、われわれ日本人にとっては、ごくあたりまえのもので、特に変わった文であるとも感じられないが、英語で、I am a fish.などといっても魚料理を注文したことにはならないという。日本人にとってごくあたりまえの表現であるということは、それだけ、この文が日本語の構造の基本にかかわるものであるということである」(前掲「文法」284頁)。
しかし、こういう一般論を帰結する前に、用例を出来るだけ集めなければなりません。「である」文には、「体の具合が少しおかしい」と言った人に対して、「それは運動不足だよ」と言うような「原因を表す用法」もあります。これはドイツ語にも英語にもフランス語にもあるようです。又日本語では「春はあけぼの」(春はあけぼのに限る、の意)という表現も可能です。形式的には、「これは君だ」といったような「主題も属詞も代名詞の文」もあり、ドイツ語ではDas ist's、英語でもThat's itというような文まであります。要するに「である」文には何でもありなのです。むしろ、なぜそうなのかを考える事が大切だと思います。
更に、英語のA is Bに対応する表現形式として日本語では「AはBである」のほかに「AがBである」もあり、更に驚くなかれ「AもBだ」(お前も悪だな、など)という表現もあるのです。日本語の強みは「は」だけではないのです。この「も」については「そのまま当たる表現はドイツ語にはない」と関口氏は言っています。
第4に、たしかに北原氏はうなぎ文について、「『ぼくはうなぎだ。』に代表される『だ』型文の意味は曖昧で、この文は、たとえば、『ぼくはうなぎが食べたい。』『ぼくはうなぎを注文する。』『ぼくはうなぎを釣る。』あるいは『ぼくはうなぎを食べたくない。』などのように、いろいろな意味に解される。これはどうしてであろうか(同、285頁)と問題提起し、結論として、「うなぎ文は分裂文から説明される」としているようですが、私にはこれにどれだけの意味があるのか分かりません。
それよりもこの問題と関係しているのは、「『の』が、格助詞というよりも格表示にはかかわらない超論理的な連体関係を表示する助詞」だ(同、250頁)、という事のように思われます。実際、英語のA of Bという句はAとBのどんな関係でも表せるのではないでしょうか。Anne of Green Gables(「赤毛のアン」の原題)は「アン」と「緑の切り妻屋根」とのどんな関係を表しているのでしょうか。ドイツ語の2格付置名詞(A des Bs)でも同じでしょう。ほとんどあらゆる関係を表せますが、Die Philosophie des Als-ob(「かの如く」の哲学)では両者の関係がどうだと言うのでしょうか。
両者の曖昧さ、どんな関係でも表せる事は、両者が同じ考え方の2つの表現形式にすぎない事を暗示しているのではないでしょうか。推測を言いますと、これは「特定」の方法の1つだと思います。要するに、AとBの論理的な関係はどうでもいいのです。とにかくAについて、「どのAか」を示せばいいという意味形態なのです。そう考えると、Anne of Green Gablesは「緑の切り妻屋根のアン」で、関係の如何は省いても、ともかく「どのアンか」という問題に答えていて目的を達している事が分かります。Die Philosophie des Als-obでも同じです。言語は「意を達する」ことが一番重要であり、極端な場合は、「意を達しさえすれば手段はどうでも好い」という性格を持っているのです。
うなぎ文の場合は、思うに、「何を食べたいか」といった大主題は前提されている状況下で、小主題を「僕は」で示し、答えを「うなぎ」で示しているわけで、これもこれで「意を達している」わけです。「僕はうなぎだ」の意味の違いは、そこで前提されている大主題の違いによるだけです。
(1) 前掲『日本文法事典』には「述語の定義」としてこう書いてあります。「文の成分の1つ。係ってくる種々の成分を受けとめて、その文の主体の動作・作用や性質・状態・関係などを叙述・説明し、文を成立させる成分」(285頁)。そして、その後に「述語を否定する説はなく、ただそれの定義の仕方に諸説がある」と言っています。
文法事典がこういう説明だけでは不十分です。以下の点を言うべきです。──この定義は「広義の述語概念」です。狭義では、「AはBである」型の文、またはA is B型の文のBだけを述語とします。フランス語文法ではこれを属詞と言います。こういう述語を取る動詞「である」とかbe動詞とかを繋辞とかコプラと言います。──
三上章が「題述関係」と言う時も「広義の述語」を考えていたようです。と言うより、主語を追放した三上でさえ述語概念は再検討しなかったようです。
終わりに
これからの日本語文法の研究では外国語で書かれた日本語文法書も、また外国語についての文法書でも独特の内容を持っているものは参考にした方が好いと思います。関口存男氏の文法はどの言語の文法研究者にとっても有益だと思います。北原氏は関口文法を知らなかったのでしょうか。
関口氏の大功績の1つは「日本語における響きとドイツ語の指向性」の指摘ですが、関口文法を知らない北原氏の文法には擬音語(擬態語を含む)論がないのではないでしょうか。今や、日本のマンガは多くの外国語に訳されているようです。しかるにマンガは擬音語のオンパレードです。では、そこで擬音語はどう訳されているのでしょうか。本当の文法はこういう事を考える時にも役立つものだと思います。
また、国文法についても氏は広く文献を渉猟している(「広く」と「渉猟」とは重言です)ようですが、上記の書の巻末の「参考文献」を見ますと、三上章については『現代語法序説』と『象ハ鼻ガ長イ』の2冊しか挙がっていません。三上には『日本語の構文』及び『構文の研究』と、「構文」を書名に含んだ著作が2冊ありますが、構文論に特別の関心を持つ北原氏はなぜこの2冊を読まなかったのでしょうか。数学教師の国文法だから低く見たのだとしたら、残念な事です。
しかし、『日本語の構文』では「途中乗り換え」という文法的に非常に重要な事実を指摘しています。これを読まなかった北原氏は大きな損をしたと思います。関口はこれに「移轍」という名前を与えて、三上よりはるかに詳しく研究していますが、これも知っていたら北原氏の構文論は更に深まっていたでしょう。
前掲「文法」の「あとがき」は「温かいご批正をお願い申し上げる」と結ばれています。その日付は昭和56年[1981年]8月となっています。それから既に31年近く経っている事になりますが、無名の哲学者の辛口の批評は「温かいご批正」と受け取ってもらえるでしょうか。
(2012年5月3日)
関連項目
「メリー・クリスマス」は「楽しいクリスマス」ではない
板倉聖宣(きよのぶ)氏の仮説実験授業