マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

「巨大な歴史的感覚」の終わり

2021年07月05日 | 読者へ
「巨大な歴史的感覚」を中止します。私の緑内障が悪化して、パソコンを使うのが大変になったからです。手書きにすることが多くなりました。
 第5節は「母語とは何か」と予告しましたが、「思考と言語の誕生」としました。 第六節は「悟性的作文の見本」としました。

 許萬元の「巨大な歴史的感覚」という言葉に違和感を感じて始まった今回の思索は、予想もしなかった収穫をもたらしてくれました。皆さんの思索にも役立ったとしたらうれしいで4す・
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『枝野ビジョン』を読む

2021年06月08日 | abc ...
『枝野ビジョン』を読む
    枝野代表への手紙

 立憲民主党代表の枝野氏の近著(文春新書)を読んでみました。今の日本の政治を良くするには立民を応援する以外にないと思うからです。

 全体的感想としては、真面目な人で信頼できるな、というのが第1印象ですが、まだ若くて経験と勉強が足りないな、というのが第二点です。
 これの好く出ているのが253頁の1行空きの次の結論です。
 曰く「政権を取るためにも、その政権が期待に応えるためにも、何よりも,理念と哲学、「目指すべき社会像」を明確にすること、そして、それらが自民党とどう違うのかを明確にすることが重要だと考えている。」

 この考えに基づいて、本書は、終始一貫「枝野ビジョン」を展開しています。
 その時、枝野氏の忘れていることは、
 第1に、「私と一緒に、私たちといっしょに、新しい時代の扉を開こう」(254頁)と言いながら、立憲民主党の住所も、電話番号も、メルアドも、存在しているらしい機関誌の申し込み方法も書き忘れている、ということです。

 もう少し大きな忘れ物を指摘しますと、54頁以下で「経験不足の民主党政権」を論ずるそぶりを見せながら、具体的内容がないことです。憚りながら、私はとっくの昔に、ブログ「マキペディア」の中で「民主党政権はなぜ短命でおわったか」を論じてあります。
  最後に、政党は政治を動かすための組織です。「そんな事分かっているよ」と言うでしょうが、それならなぜ立憲民主党の「組織としての現状」をどう考えているか、どこをどう改善するつもりなのかを、何も言わないのでしょうか。
 レーニンは「自分に組織を与えてくれ。そうしたら、世の中をひっくり返してみせる」と言い、その組織はニセモノを絶対にいれない「狭量の精神」でなければならない」と言いました。実際には、スターリンは危険だと気づきながら、狭量の精神を実行できず、人類の歴史に比類のない不幸の種をまきました。
 一九五六年ころに混乱を乗り越えて日本共産党が再出発を始めた時、指導権を握った宮本顕治さんが最初に何をしたか、ご存知ですか。全党員に手紙を送って次の三つのことを訴えたのです。

 第1に、細胞会議に出てほしい。第2に、機関紙「赤旗」を毎日読んでほしいこと。そして、第3に、党費をきちんと払ってほしいことです。

 これは、返事をくれない人には催促をする程徹底したものでした。そして、ここから今の共産党の前進が始まったのです。

 お節介ですが,今の立憲民主党が何をするべきか、私案案を書きます。
 第1は、衆議院の全ての選挙区に最低でも「週に1回以上開くコドモ食堂」を開き、党員はみな協力すること。世田谷区長の保坂展人さん
の経歴と今日の支持率を調べて見てください。そうすればこの提案の根拠がわかるでしょう。
 第2にするべきことは、機関紙を「立民週報」として、最初は、党内から男女一人ずつ、党外からも優秀な人を男女一人ずつ、合計四人の体制で始めることです。
 今秋の総選挙には間に合いませんが、次の参院選以後は大効果を発揮するでしょう。
 ご健闘を祈ります。
 





 






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「巨大な歴史的感覚」その3

2021年05月18日 | abc ...
第四節 伊藤嘉昭(よしあき)氏

 この方についてはウイキペディアに詳しく書かれています。要するに、昆虫学者として多くの業績をあげた方のようです。しかし、同時に、人類の起源についても深い関心を持っていて、自分でアフリカなどに行って類人猿の社会や行動を観察するようなことはなかったようですが、その方面の報告をよく追いかけて、唯物弁証法を知らない著者達の解釈を批判していました。そのために、そういう報告を自分では読めない我々唯物弁証法の立場に立って考えたいという学生は伊藤氏の夲や解説を熱心に読んだものです。
 氏のその方面での見解の集大成が、一九六六年に紀伊國屋書店から出版された『人間の起源』です。そして、それをベースにして、マルクス主義の立場で勉強したいという人のために書いたものが『原典解説・サルが人間になるにあたっての労働の役割』(青木書店、一九六七年)です。
 この二冊の夲が出てから五五年が経過しており、伊藤氏は亡くなっていますが、私はその後の研究の発展を知りませんので、この夲で考えます。第二の伊藤嘉昭が出てほしいです。

 さて、この本の中で伊藤氏は人間を「道具を作る動物」とする定義と合わない事実の報告を紹介してこう書いています。

「最近〔一九六七年から振り返って最近〕、イギリスの女流学者グッドールは、森林と草原の境界線ふきんに進出した野生のチンパンジーで大変興味あることを発見しました。チンパンジーはアリの幼虫やシロアリを食べるのが好きですが、そのさい、手近な草の茎をとって、それをアリ塚にさしこみ、そのさきにくっついた幼虫をなめるのです(グッドールはこれを「アリ釣り」とよびました)。手近なところにちょうどよい草がない時は、アリ塚から離れた所で草の茎を取り、じゃまになる葉を取り去って使いよいようにしました。この観察は、別の所でチンパンジーをしらべていた日本の研究者によっても確認されました」。(原典解説、五八頁)

 さあ大変です。チンパンジーでも「道具を作る」ことが分かったのです。伊藤氏はこれを次のように解決しようとしました。

「人間は石器を作る前にも、木の枝を加工したり、そのほか種々の道具を作ったかもしれません。オーストラロピテクスを発見したダートは、石器時代よりまえに、殺した動物の骨や角をいくらか加工して使う、歯角(しかく)文化の時代があったと想像しています。しかし、こういう石以外の道具は、かりにあったとしても、残りにくいので、確実なものが発見されていません。いずれにしても、人間への「決定的な一歩」は、素晴らしい威力を持った石の道具がつくられたに踏み出されたと言うべきでしょう」。(同上書五九頁)

 『原典解説』を出すのは「読者がエンゲルスの論文を読んで、弁証法的唯物論の正しい適用を学べるようにするためだ」(四頁)と書いているのですから、自分自身はその十分な適用能力があると、確信しているのでしょう。
 では、「人類への決定的な一歩」を「素晴らしい威力」の中に見る伊藤説は本当に正しいでしょうか。私牧野紀之は反対です。なぜかと言いますと、そもそもこういう根本的な判断の基準を「素晴らしい威力」といった「量」ないし「程度」の中に求める事自体が、根本的に間違っていると思うからです。こういう考え方は弁証法ではないと思います。
 あえて言うならば、「決定的な一歩」で作られたものは、その「威力」に関しては、「偶然拾ってきたのだが格好が合理的な石」より劣るものでも好いと思います。その「作られた道具」は、しかし、「作られた」という点に「これから無限に改良できる」という可能性があるからです。ですから、大切な点は、耐久性のある素材で作られているということです。

第五節 母語とは何か(→次稿)

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「巨大な歴史的感覚」その2

2021年05月13日 | 読者へ
第三節 第二の問題提起、思考とは何か

 許萬言のこの論文のその後の展開は次の小目次で分かります。
一、思考の一般的性格
二、特殊性における思考(悟性)の性格
 (a) 悟性的分析の悪無限的性格
 (b) 悟性的反省の歴史的性格
 (c) 対象分析の主体的限界
三、一般性に帰った思考(概念的具体的思考)
 (a) 概念の論理的本性
 (b) 形成過程の反省的把握
 (c) 反省過程の形成的把握


 要するに「思考の本性によって思考は必然的に概念的把握をめざす」という事を証明したいのです。
 では、その思考論はどうはじまるのでしょうか。以下のとおりです。

 「ある活動というものは、それが遂行するところのもの、その所産、それの対象からのみ認識されるだけである。活動の遂行するところのもの、それが活動なのである」というフォイエルバッハの言葉引いて、「もしこれが正しいならば、思考もまた、それが一つのの働きであるかぎり、思考自身の所産、即ち『思想(Gedanke)からのみ認識されるべきもの』となろう」ともってくるのです。
 Gedannkeを「思想」と訳す松村一人の悪訳〔最低でも「観念」とすべし〕を無断で使う非常識はここでは問わずに先に進みますと、許萬元は、「次のへ-ゲルの分析は全くあざやかである」と結論するのです。
 「思考の産物、即ち思想〔観念〕の規定性または形式は一般に『普遍的なもの』〔という事〕であり、抽象的なもの〔という事〕である。『働きとしての思考』は従って『働く普遍者(das taetige Allgemeiine)』であって、しかも自己を実現する普遍者である」。

 この考え方〔第一の方法〕は、いわば「結果論的」と言えるものですが、これは既に聖書の中にあるものです。即ち、マタイ伝十二の三三には「実(み)を見れば、どんな木かが分かる」と、あります。これくらいのことで「鮮やかだ」などと感心しているのは、キリスト教を勉強していない許萬元くらいでしょう。

 事物の本質を知る第二の方法はその事物の原初形態を知ることです。これは許萬元も原論文の二の(b)「悟性的反省の歴史的性格」の中で見田石介の言葉を引いています。
 人は何かの仕事などで行き詰まった時、「初心に返ろう」と言いますが、それは初心の中に自分達の仕事の本質が純粋な形で出ていると本能的に知っているからです。かつてルソーが「自然に帰れ」と叫んだのも同じです。では思考の始まりはどうか。サルが「前原語」と言ってよい音声を使って仲間と連絡を取り合い、「前思考」を行っていた段階から、それを乗り越えて、言語を使って意思疎通をし、考えるようになった時、一体何が起きたのか。これこそ、多分、いまだに意識的な問題として建てられたことのない問題なのではあるまいか。

 この問題を考える前に、物事の本質を捉える第三と第四の方法を確認しておきましょう。
 第三の方法は、その物事の固有の対象から規定する方法です。これもフォイエルバッハが言っているのですが、魚(Fisch)をとる人を「漁師(Fischer)」と言うような事です。
 第四の方法は「同類の物を較べて共通点を探る」という方法です。この方法には共通点が二つ以上あったらどうするのかといった難点もありますが、実際に役立ってもいる方法ではあるでしょう。
 これらの事を検討しないで、自分に都合の良い第一の方法を採用したのはご都合主義者・許萬元らしいですが、我々は科学的に正しい第二の方法で、対案を出したいと思います。
 我々は、多分誰も否定しないであろうエンゲルスの「人間の言語は労働の中で生まれた」という考えを受け継ぎます。しかるに、その人間的労働は「道具の製作と共に始まる」とされ、人間の定義は「道具を作る動物である」というフランクリンの定義となっているのだとおもいます。従って、我々の検討はこの定義の批判から始まります。

第四節 伊藤嘉昭(よしあき)氏 (→その3


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「巨大な歴史的感覚」その1

2021年04月05日 | abc ...
近況報告


 病気は色々あって書き切れないくらいです。最悪の問題は右眼の緑内障です。左眼の緑内障は何年もかかって失明となりました。右眼も同じと思っていたら、急に進みました。
 二月十五日に「ギックリ背骨(牧野の命名)を発症しました。重いものを持ったからだろうというのが、医者の見立てです。これはそのうち、完治するでしょう。
 さて、遅れに遅れている『許萬元のヘーゲル研究』ですが、遅れたために、また考えるところがあり、ついに第一論文「ヘーゲルにおける概念的把握の論理」については評註の一部を特に「付録」として独立させることにしました。
 まだ途中ですが、それをここに引いて、お詫びに替えることにします。

──


          「巨大な歴史的感覚」

第一節 第一の問題提起
 
 許萬元の処女論文である力作「ヘーゲルにおける概念的把握の論理」(一九六五年、都立大学の雑誌『哲学誌』に発表))は「エンゲルスは言う。『ヘーゲルのDenkweise(考え方)をほかのすべての哲学者のそれから判然と区別するものは、その根底にある巨大な歴史的感覚(der enorme historische Sinn)である』」という言葉で始まっています。
 読むたびに筆者の決意を感じさせる言葉です。しかし、今回この論文の評注を書くというテーマを持って繰り返し考えているといくつかの疑問が出てきました。
 まずは「歴史的」という単語です。特に「的」が気になりました。これは、英訳が sense of the historical としているとおり、もちろん「歴史に対する感覚」という意味でしょうから、「リズム感覚」とか「金銭感覚」とかいう場合と同じなわけで、それならここも「的」を取って「歴史感覚」と言った方がよかったのではないかという考えがすぐにも出てきます。
 すると「巨大な歴史感覚」となりますが、こういう所に「巨大な」はおかしいので、「強烈な歴史感覚」くらいにしておいた方がベターではないかと思われます。
 そういう些末な問題こだわるのはこれくらいにしますと、「では、歴史に敏感だったとしますと、何に対しては鈍感だったのか」という疑問が出てきます。歴史の対概念は何か、と考えてみますと、私には「地理」しか思い浮かびません。高校の社会科では日本史と世界史に対して「地理」が対比されているのではないでしょうか。すると、「ヘーゲルは地理は重視せず、世界全体を見ようとはしなかった」ということになりますが、これはどうでしょうか。博覧強記という点ではエンゲルスに勝るとも劣らなかったヘーゲルを、「地理に疎かった」とは言えないと思いますから、これは「歴史感覚はそれほどすごかった」という、比較の問題と考えておきましょう。
 さて、三つの小さな問題を片づけた我々は第四の最大のテーマと取り組む所に来ました。それは「ここでエンゲルスの問題にしている歴史とは歴史一般だろうか、それとももう少し限定された歴史だろうか」という問題です。

第二節 文脈を読む

 この問題に答えるにはエンゲルスの原文の文脈を読まなければなりません。しかるに、この論稿は政党の機関紙に最初の二回分が発表されただけで、完結していません。その二つの文章を第一稿、第二稿として箇条書き的にまとめます。

 第一稿
 ① ドイツは経済学以外の学問では世界の一流だが、経済学だけはお粗末である。
 ② それはドイツの産業が未発達だからであった。
 ③ しかし、ドイツでもようたく成長してきたプロレタリアートと共に遂にドイツ経済学が現れた。それが本書、マルクスの『経済学批判』である。
 ④ それは従来のブルジョア階級の学問とは違って唯物論的な歴史観、すなわち「唯物史観」に立脚している。
 第二稿
 ⑤ したがって、この経済学を理解するには、その個々の部分を切り離して扱ってはならない。その全体を体系として理解しなけばならない。
 ⑥ しかるに、ヘーゲルの死後、学問をその内的関連に基づいて展開しようとした人はいない。公認のヘーゲル学派も話にならない。
 ⑦ したがって、この「本当の歴史観」を学ぶにはヘーゲルに帰らければならない。
 ⑧ たしかにヘーゲルの歴史観は観念論的な世界観と結びついて。そのままで使うことはできないが、それ以外に使えるものはない。
 ⑨ しかるに、「ヘーゲル哲学の根底にある歴史観たるや、これまでのどの哲学も遠く及ばないほど強烈なものだったのである」。
(以後は省略)


 さて、上の文脈の⑨はわざと許萬元の訳とは変えました。文脈を読めばこうなると考えたからです。しかし、文脈を忘れたか誤解した許萬元は「唯物史観のためにヘーゲルを学ぶのではなく、歴史という言葉からすぐに「概念的把握」へと持ってゆきます。たしかにこの考察はプラトン譲りの想起説を掘り起こすという本論文の第二の大功績を結果するのですが、これは思考を「働く普遍者」とする所から出てきたことです。そして、思考のこの定義はヘーゲルの同語反復でしかない言葉に由来しているのです。
 寺沢恒信は許萬元の論文について「弁証法に強く、唯物論に弱い」と評していましたが(牧野が直接きいた話)、正確には「唯物史観に弱い」と言うべきでしょう。後年の「戦わない弁証法」は始めから芽生えていたのです。

第三節 思考とは何か(→その2


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仰げば尊し

2021年03月27日 | ア行
 卒業の季節になり、先日もNHKでその少年少女合唱隊隙の歌を流していました。私はなぜかこの歌がかなり好きなのですが、いつも理解できない事が1つだけあります。
 それは「仰げば尊し我が師の恩」と歌い出したすぐ次に「教えの庭にもはや幾とせ」と続くのですが、ここがなぜ「教えの庭」となっていて「学びの庭」と言うべきではないのか、という疑問です。
 
そもそもこの歌は卒業して行く生徒の立場に立った歌ですし、現に三番の歌詞には「朝夕なれにし学びの窓」という句もあります。
 ウイキペディアにはこの歌に関する多くの議論が紹介されていますが、私のこの疑問には触れていません。
 誰か教えて下さいませんか。
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お知らせ

2021年03月16日 | 読者へ
  鶏鳴出版への注文の仕方を変更します。
 gooブログのコメント欄が牧野には使いにくいから、又、以下のメルアドに連絡をいただければ、返信が容易なため、です。

注文方法
➀ 送金する。
● ゆうちょ銀行から送金する場合
記号が「10180」、 
番号が「18895201」です。
 最初の記号が、鶏鳴出版の郵便振替口座の最初の記号とにているので注意して下さい。 
●ゆうちょ銀行以外の金融機関から振り込む場合は、以下の通り。
銀行名 ・ゆうちょ銀行
金融機関コード ・9900
店番・ 018
預金種目・ 普通(または貯蓄)
店名・ 〇一八 店(ゼロイチハチ店)
口座番号 1889520

➁ 注文す物の書名等と注文者の氏名と住所(とよければ電話番号)を次のメルアドに知らせる。
 メルアド── uhk87659 @ nifty.com

PS
長らくブログの更新をしていませんが、私たち夫婦の病気ないし眼病等のためです。
 近いうちにご説明をします。牧野紀之

 
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お詫び

2021年01月06日 | 読者へ
お詫び
 米田さんからのコメント欄への投稿が鶏鳴出版への注文を伝えたものであるにも拘わらず「公開」にしてしまいました。今朝気づき、ただちに修正しました。
 グーブログの作り方に分かりにくい点が在るのが一因とはいえ、「確認」をしっかりしていれば防げた間違いであり、いかなる言い訳も通用しない間違いでした。心からお詫びします。二度とこのような間違いをしないように、確認をしっかりしてからログアウトするように気をつけます。
 なお、物は今朝レターパックで発送しました。
 1月6日、牧野紀之
 
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佐伯さんの「キリスト受難劇」を読んで」

2021年01月01日 | カ行
  キリスト受難劇
1、元の新聞記事──佐伯順子・同志社大教授
    (朝日、2010年10月08日)
 ドイツ南部、オーストリアとの国境に近いオーバーアマガウという村は、十年ごとに村の人々による「キリスト受難劇」を上演することで知られる。1634年以来、ペストによる絶滅から免れたことへの感謝として続いている。今年(2010年)は5月15日から10月3日まで、計102回上演された。在外研究で滞在中の本年が上演年にあたり、ベルリンより足を運んだ。

 民衆劇といえば、日本の農村歌舞伎のような素朴なものを想像して出かけたが、舞台こそ屋外にあるものの、観客席は4720人収容で、しかも満員である。世界中から観客が訪れ、「村芝居」のイメージとはほど遠かった。

 芝居は迫力に満ちていた。キリストのエルサレム入城から、十字架上の受難、復活までを描き、人間が演じるという意味でも、イエスの人物像を表現する意味でも、文字通り等身大のイエスであった。十字架にかけられて全身から血を流すイエスの姿は、教会で目にするが、生身の人間によって再現されると、いかに残酷であるかがよくわかる。

 ロバに乗ってエルサレムに入城するキリストの姿には、既存の価値観への挑戦者としての誇りとともに、後の受難を予告するかのような哀愁が漂っていた。宗教劇が民衆の宗教理解にどれほど重要な役割を担うものであるかが実感できた。

 村の青年が演じるイエスは、新しい神の教えを説こうとする純粋さや熱意を存分に伝え、さらに、神の子という特殊な使命を負い、弟子たちにも距離を置かれ、孤独に死んでいかねばならぬ運命を目前にした恐れと苦悩を、まさに一人の人間(でありながら神の子)として説得力のある形で見せてくれた。キリストはあたかもカリスマのようであるが、実は悩みに満ちた平凡な一人の人間であったという遠藤周作文学のなかのキリスト像が納得される。間に休憩をはさんで前後3時間ずつの長丁場だったが、時間はあっという間に過ぎていった。

 日本の近代化には、キリスト教に影響を受けた知識人が大きな役割を果たしており、私がつとめる大学もキリスト教主義の大学である。特に明治以降の女子教育の発達にキリスト教が果たした役割は大きく、ミッションスクールといえば「お嬢さん学校」というイメージも定着している。
 しかし、私自身もすごしたミッション系女子校の優しく上品な雰囲気と、聖書が伝えるかくも強烈な人間の愚かさと暴力は、何と対照的であることか。キリスト教式結婚やクリスマスのような、日本におけるキリスト教の甘くやわらかいイメージは、聖書の内容をオブラートでくるんだよう。日本のキリスト教が誤りというわけではなく、本家の西洋でもキリスト教の解釈は多様であり、受難劇が伝えるキリスト像は一例にすぎない。また、かつての民衆劇は喜劇的要素が強く、教会からは涜神行為とみなされて頻繁に禁止令が出されたという(下田淳『ドイツの民衆文化』)。
 だが、愛と慈しみの教えは同時に、恐ろしい人間の性(さが)をも見せつけ、それが世界の民衆の心をひきつける力となり続けているのであろう。

2、牧野の感想
 ➀ 私は自分のブログを開くと、まず「あなたのブログへのアクティヴィティ」を確かめます。コメントがあれば開いて内容を確かめます。次いで、「アクセス解析」を見ます。その題名から、「こんな事も書いていたのか」と思うと、その記事を開いて、』読みます。そして、何か書きたくなったら、今回のように書きます。
 ➁ この記事を読んですぐにも思う事は、日本におけるミッションスクールの果たした役割とその現状でしょう。筆者の佐伯さんもそういう学校で学んだようですが、小学校、中学校、高校、大学の内のどの時をそこで過ごしたのか、従って又、自分はキリスト者なのかを述べていないのも物足りません。察するに、シンパ程度の方ではないでしょうか。
 ③ ➁とも関係しますが、日本では西洋の文化や思想や芸術をを学ぶ人は少なくありません。しかし、その「勉強」の中で「キリスト教の勉強」はどの程度の割合ないし比重を占めているでしょうか。ゼロに近いのではないでしょうか。
 英文学や仏文学や独文学の履修課程に「キリスト教概論」は入っていないと思います。これでいいのでしょうか。それどころか、ミッションスクールを出て普通の大学に来た学生でも、「高校時代にキリスト者の友人に聞いても、教えて」くれなかった」、つまり授業ではそういう事は取り上げなかった、と言うのです。
 この現実に対して、佐伯さんは教師としてはどう振る舞っているのでしょうか。これの反省の無いのがこの記事の大欠点だと思います。
 私はキリスト者ではありませんが、12月の最後の授業では、必ず、キリスト教とはどういう思想かを話します。イエス・キリストという訳語は日本語の文法に反した誤訳である(拙著『関口ドイツ文法』の1417頁を参照)ことから話しを起こし、キリスト教とユダヤ教の違いを説明します。更に、バイブル・クラスに通った時の思い出を話します。ドイツのアドベント・ツアイトの話しをし、アドベント・カレンダーの1例を見せます。そして、最後に、「1度でいいから、クリスマスに教会に行って、ミサに出る事」をすすめます。キリスト者にならなくていいから、自分と違った考えを持っている人を理解することは自分の成長に役立つと思うからです。哲学の授業でも、ドイツ語の授業でも同じです。
 ④ 最後に佐伯さんの記事に出てくる「『村芝居』のイメージからほど遠い」という表現を取り上げます。私の疑念は「AはBからほど遠い」という表現は、Aが比較対照のBと大きく違う事を言うのですが、比較対象とは比べものにならない程『悪い』場合に使うのではなかろうか」というものです。
 明鏡と国語大辞典を見てみましたが、後者の3つの用例は「海は医学部からほど遠くないのである」と「亜弥子さんは、~俗に言う箸が転ぶのを見てもおかしがる年齢のお嬢さんで結婚などとはほど遠い感じでした」と「現在、世界は~生活水準の低さから政情不安に揺れている国々が多く、平和とはほど遠い状態にある」。しかし、一般的に、「悪い方向に離れている」という条件は書いてありませんでした。佐伯さんのここの言い回しは、「村芝居などという言葉からは想像もできない」くらいにしたらどうでしょうか。

PS
12月31日から書き始めたのですが、新年になってしまいました(笑)。今年も議論をして、思索を深めつつ行動するようにしましょう。どうぞよろしく。



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尋ね人──お詫びとお願い

2020年12月23日 | 読者へ
   尋ね人──お詫びとお願い

 1週間ほど前に、pdf鶏鳴双書の注文を、郵便振り込みでいただきました。準備ができたので、レターパックで送ろうとした所、注文者の氏名と住所を書いた通知が見つかりませんでした。自分の部屋にあるはずですが、何度も探しましたがまだ見つかりません。このブログで尋ねることにしました。
 心当たりのある方は夲ブログのコメント欄を使って、住所と氏名を知らせて下さい。お願いします。
 私の左眼の失明と不注意に原因があるので恐縮ですが、今後はいっそう気をつけますが、こういう事もありますので、ご注文にはブログのコメント欄を使って下さるようにお願いします。
12月23日   牧野紀之

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