マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

ご意見への回答

2019年01月07日 | 読者へ
     ご意見への回答

 最近いただいたコメントに回答します。

1,尾野豊さんのコメント、世論(よろん)か世論(せろん)か

先日は『小論理学』お送りいただきありがとうございました。
 時間がとれないので(と言うと、牧野さんに「やる気がない」「能力がないんだ」と言われそうですが)なかなか進みませんが、とりあえず全文コンピュータに取り入れ、今は索引を手がかりに『ヘーゲル哲学辞典(仮)』めいたものを作っているところです(まだ『え』の段階ですが・・・) いつか勉強の報告でもできればいいですね。

 さて、高校時代(昭和四〇年後半)に『世論』を「せろん」と読むと、皆おかしがるんですね。「よろん」には『輿論』という字があるではないか!といっても、誰も聞き入れちゃあくれませんでした。テレビでニュースを聴いてても「よろん」という言葉は出てきても「せろん」は出てきません。もう死に絶えたのか、と思っていました。
 「市場(しじょう)か市場(いちば)か」を見て、ちょっと辞書でも引いてみようかと思ったら、まだちゃんと載っていました。

せろん(世論)
 世間一般の論。せいろん。→輿論(よろん)。(広辞苑第6版)
 ある社会の問題について世間の人々の持っている意見。よろん。せいろん。「―を反映させる」「―の動向」。「輿論(よろん)」の書き換えとして用いられ、「よろん」とも読まれる。→輿論(大辞泉第2版)
 世間の多くの人の意見。よろん。(新明解第7版)

よろん(輿論・世論)
 世間一般の人が唱える論。社会大衆に共通な意見。中江兆民、平民の目さまし「輿論とは輿人の論と云ふ事にて大勢の人の考と云ふも同じ事なり」。「―に訴える」。「世論」は「輿論」の代りに用いる表記。(広辞苑第6版)
 世間一般の人の考え。ある社会的問題について、多数の人々の議論による意見。せろん。「―を喚起する」「―に訴える」→せろん(世論)。当用漢字制定以前は「よろん」は「輿論」と書いた。「世論」は「せろん・せいろん」と読んだ。「輿論」は人々の議論または議論に基づいた意見、「世論(せろん)」は世間一般の感情または国民の感情から出た意見という意味合いの違いがある。(大辞泉第2版)
 〔「輿」は、衆の意〕それぞれの問題についての世間の人の考え。「輿論が高まる(落ち着く・割れる・沸騰する)」。当用漢字制定以後は、この意味で「世論」と書き、「せろん」と言うことが多い。(新明解第7版)

 岩波書店のホーム・ページで検索すると、
  「せろん」→岩本裕著『世論調査とは何だろうか』
  「よろん」→リップマン著『世論』が出てきました。

 大地震を「だいじしん」と読むようになったのは、チャールトン・ヘストンの1974年の映画『大地震』からではないでしょうか。(宣がすごかった)

 ★ 牧野の考え

 「世論・輿論」については、『明鏡』にこう書いてあります。
── 世間一般の人々の考えや意見。Public opinionの訳語。「輿」は「もろもろ」「みんな」の意。
〈表記〉「世論」は「輿論」の言い換え語として採用された「世論(せろん)」が「世論(よろん)」と誤読され、一般化したもの。「世論」の場合は「よろん」を避けて、「せろん」と読む人も多い。(引用終わり)

 この説明で好いと思いますが。
 私は、「与論」は多数者の考えで、「世論」は客観的に皆の意見という意味だと「も」思っていました。だから「与論調査」とは言わない。更に、ここでは「与論」は「輿論」の代わりとして、「輿論」より多く使われる(と、思います)という説明があっても好かったかな。
 全体として、『明鏡』は説明があって、役立つと思います。が、「募金」の説明の中で、「寄付金などを集める事。また、その金」という解説に続いて、「俗」として、「金を寄付すること。また、その金」と解説した後に、「難民救済のために募金した」という例文を掲げて、「主催者側の言い方をそのまま受けて言ったもの」と説明しているのは賛成できません。
 先ず第1に、「拠金」と言うべきところで「募金」という正反対の語を使っている」と書くべきでしょう。「拠金」という語を出すべきだと思うのです。
 また、根拠の怪しい「主催者側の言い方をそのまま受けて言ったもの」などという「弁護論」を持ち出すに至っては最低です。
 これは日本人の言語感覚が鈍ってきていることを示す典型的な例だと思います。はっきりと「『拠金』と言わなければなりません」と書くべきでした。世間に迎合するのは学者ではないと思います。
 逆に、「拠金」の項には、「『拠金』の意味で『募金』と言う人が増えています」という事実の指摘がなく、「これは困った現象です」という批評もありません。
 本当に、まともな辞書がなくて困ります。

2、弁証法的発想について、山下 肇

 ブロガーの問題意識は貴重で、重要とは思いますが、その根底の言語観に誤りがある点が一番の問題です。

 ソシュール、カント的な不可知論に基づく言語道具観に依拠し、いまだにパヴロフ反射理論で言語を捉えようとするのは非科学的というしかありません。

 あれかこれかという非弁証法的な発想を開陳されており、本来はあれもこれもの弁証法的発想によるべきものです。

 デジタル大辞泉の解説

いち‐ば【市場/市▽庭】

1 一定の商品を大量に卸売りする所。「魚―」「青物―」
2 小売店が集まって常設の設備の中で、食料品や日用品を売る所。マーケット。「公設―」

し‐じょう〔‐ヂヤウ〕【市場】

 1 売り手と買い手とが特定の商品や証券などを取引する場所。中央卸売市場・証券取引所(金融商品取引所)・商品取引所など。マーケット。
 2 財貨・サービスが売買される場についての抽象的な概念。国内市場・労働市場・金融市場など。マーケット。
 3 商品の販路。マーケット。「市場開発」

 のように使い分けられており、話者がどのように認識するかで使い分けられているもので、対象と直結し、あれかこれかと排他的な発想になるところにその言語観の限界、誤りが露呈しています。

 一方/他方も、話者がこれに対し一方と捉えるか、一方/他方と捉えるかの認識のあり方の問題です。これを、話者の認識の移行を無視し表現と規範を直結しあれかこれかという二者択一の形式主義的発想を開陳しています。

 これでは、地下のヘーゲルも顔をしかめるしかありません。

 ★ 牧野の考え

 私が言語に関する記事を書くと、時枝・三浦つとむ系統の言語論に心酔しているらしい人から必ず「批判」が来ます。
 第1には、かつては匿名での批判でしたので、「こちらは実名で発言しているのだから、批判するなら自分も実名を出せ」と言った(らしい)と記憶しています。そのため今回のように、実名を装って仮名で批判するようになりました。
 山下肇という人は東大のドイツ語の教授だった人が一人いますが(この人は少し知っています)、それ以外にはアマゾンを見ても、ヤフーで検索しても、何も出てきません。たとえこれが実名だったとしても、本の1冊も出していない人に私を批判する資格はないと思います。
 日本は民主主義国家ですから、発言の「自由」=権利はありますが、社会的な発言では、「権利」のほかに「資格」が必要です。私の文法論を批判するならば、『関口ドイツ文法』
と同等かそれ以上の文法書を公刊していなければなりません。しかるにそういう人はいません。
 山下さんはカントだとかソシュールだとか弁証法だとか、言葉だけを使っていますが、ヘーゲルは原典で研究した形跡はなく、エンゲルスの言葉を表面的に繰り返しています。このような批判が本当に私に通ずるとでも思っているのでしょうか。親の顔が見たいです。「もうそういう歳ではない」と言うならば、一度精神科の医者に相談してみるのが適当だと思います。
 時枝・三浦の信奉者は、他者を批判する前に、先ず「包括的な日本語文法の本」を出しなさい。それまでは、私はこれらの人を相手にしませんので、ご承知おき下さい。 


3、「先生を選べ」に学ぶ。いんきょやの10ちゃん(桜沢 彰)

 牧野先生、私のような者に目を止めてくださりありがとうございます。以下の文は私のブログに載せているものです。できますれば、先生の批評をいただきたく、お願い申し上げます。以下、敬称略。

 牧野は、勉強とは何かと問い始める。普通は学問だろう。勉強と研究を分けたところが重要な点だと思う。その同一性と差異を挙げてゆき、勉強とは創造的継承であると結論する。
 そして勉強と研究の同一性である創造的性格から「自分の問題意識を大切にせよ」と言う最重要な当為を導き出す。
 問題意識とは何かが問題であると思う。出発点は「~が面白そうだ」と言う程度の漠然とした直接的なものではないかと思う。それを追求してゆけば、そこに客観性が現れて、「自分の追求している問題に関する過去の最高の成果を学ぶ」という点に到達する。
 そこで先生について学ぶことになるのだが、牧野はここで真理と先生と生徒からなる三項関係の図を提示する。この図は実に的確でここに牧野の研究姿勢が凝縮されていると思う。生徒から見ると先生を介して真理と関係するのと、直接関係するのと二つの線がある。これによって生徒は、「私は自分の真理に到達するために、自ら先生を選び、勉強するのだ」と考えることができる。自分が自分に与えた規定態の中で自由であるということだと思う。
 またこの生徒は、真の友人や真の芸術のように実在と概念が一致しているという意味でそれ自体が真理なのではないか。
  私はまず生徒の概念に到達し、労苦を払わねばならない。私の問題意識は何かと反省してみると、もやもやしてすぐには出てこない。では、「生活の中の哲学」に感銘を受けたのはなぜか。単にわかりやすいからではない。哲学の訓練を積んだ知性が、日常的ななじみ深い意識にむかい、明晰に解き明かすのを見るからだ。しかしそのような人はたぶん、他にもいると思う。牧野だけにあるのは、純粋に哲学知を追求してゆけば必然的にそこに至るという道筋だと思う。そこが、「頭の良い人たちのおしゃべり」と生活の中の哲学の違いだと思う。やはり、まずやらなければならぬのは本を読み勉強し、哲学知を自家薬籠中の物にすることだと思う。

 ★ 牧野の考え

 もう少し自己紹介をして下さらなくては、返事が出来ません。ご自分のブログを持っているようですので、その名称を教えて下さい。「桜沢 彰」で検索しても、「いんきょやの10ちゃん」で検索しても分かりませんでした。
 私の考えを理解しようとして下さるのはありがたいことですが、あまり賛成できません。桜沢さんは何らかの意味で「先生」みたいな仕事をしてきたのではないでしょうか。そこで経験した問題を出して下さい。応用問題こそが本当の問題だと思います。
 『天タマ』を読んで下されば、例えば「先生と生徒は対等か」という問題で、二十歳の看護学生がどれだけ自分の経験に引きつけて考えているか、分かるだろうと思います。このように考えてみて下さいませんか。
 あるいは、お子さんが、「国語の授業で、先生の解釈に反対したが、先生は聞いてくれなかった」とか、家で訴えたとかでもいいです。こういう問題は中学などでは大抵起きているはずですが、これを認識論的に正しく処理するにはどうしたら好いか、などは立派な哲学的問題です。誰も答えていないし、問題にしてさえいませんが。

 最近、伊坂青司とかいう神奈川大学の教授がヘーゲルの「歴史哲学」を最新編集版に基づいて訳して、出しました。『世界史の哲学講義』(講談社学術文庫)です。この原書には先ず、例によって、長ったらしい「序論」があります。「例によって」と書きましたが、皆さんはこれがヘーゲルのやり方だと言うことに気付いているでしょうか。ではなぜヘーゲルはこういう長い「序論」をほとんど必ず前に置くのでしょうか。その理由を考えたことがありますか。これが哲学的な問題なのです。
 しかるに、この本の訳者の伊坂さんはこれを問題にしていません。気付いていません。ですから、当然、その内容が、「論理学以外の学問は論理学の応用であり、応用論理学だ」というヘーゲルの考え(『小論理学』第二四節への付録2)を実行した物であること(「理論と実践の統一」)に気付いておらず、従ってその「応用」では元の理論がどのように具体化されて適用されているかを検討していません。
 そこで問題になっていることは、認識には三段階があるということで、それは経験的認識、反省的認識、理性的認識の三つであるということです(同、第二四節への付録3)。歴史の研究でもこの三段階があると言って、それを説明しているのです。もちろん、個別的対象に適用する場合の微調整にも言及しています。
 それなのに、これに気付いていない伊坂さんは、こういう問題に当然、言及していません。そして、一番悪い事は、認識にこの三段階があるとするならば、翻訳にもこの三段階があるのだろうか、それぞれはどいう翻訳に当たるのだろうか、自分の翻訳はどの段階の翻訳だろうか、という自己反省が全然ないのです。自己反省のためではないとしたら、何のために哲学書を読んだのでしょうか。
 伊坂さんだけではありません。同じく最近出ました熊野純彦訳『精神現象学』(ちくま学芸文庫)でも同じです。ここでは当然考えるべき「なぜあれ程長い『序言』と、そのほかに更に、こちらは大して長くはありませんが、『序論』を書いたのか」という問題が考えられていません。
 熊野さんもやはり翻訳における経験的翻訳と反省的翻訳と理性的翻訳とは、それぞれ、どういう翻訳だろうか、自分の翻訳はどれに当たるのだろうか、という自己反省をしていません。何の理由の説明もなく「フランス語訳を一番参考にした」と言っているだけです。学者たる者、何かを言うなら理由を付けて言わなければならない、ということすら知らないようです。
 これでは哲学教授の非哲学的翻訳と言わざるをえません。私見を言っておきますと、熊野訳は、内容的には「経験的認識段階の翻訳」です。与えられたドイツ語をそのまま訳しただけですから。まあ、誤訳だらけの樫山訳や長谷川訳よりはいいかな、という程度でしょう。
 金子訳は文体が古いので、敬遠されていますが、内容的には「反省的認識段階の翻訳」です。与えられた原文の歴史的背景へと反省しているからです。学ぶ点があります。

 最近思っていることを正直に書きました。
 現在、『フォイエルバッハ論』の訳と評注を、相変わらず書き続けています。牛歩ですから、もう少し時間がかかるでしょう。
 衰えたとはいえ、まだ気持ちは若く持っていたいと思っています。音痴の私ではありますが、好きな音楽はあります。それはモーツアルトの「ディヴェルティメント第136番」です。この曲はNHKの「名曲アルバム」の解説によりますと、初めてイタリアへ旅行して、そこで大歓迎されて、優秀な先生の指導も受けて、前途洋々で、未来への希望に満ち満ちたモーツアルトが作曲したのだそうです。本当に明るくて楽しさ満杯の曲ですから、朝、これを聞くと、私も歳を忘れて、青春の「やる気」に満たされます(笑)。
 以上、活動報告に替えます。

PS
 これを書いて推敲している間にお二人の方から計3個の充実したコメントを頂きました。ありがとうございます。後ほど、お返事するつもりです。私はなにしろ返事が遅いのです。済みません。
コメント (1)

「天タマ」第22号

2019年01月03日 | カ行
「天タマ」第22号(1999年11月08日発行)

           浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

 今年は「先生と生徒は対等か」ということから始めました。これは親子、看護婦と患者、上司と部下の関係にも関係しているということになりました。又、下の立場だけから考えるのではなく、上の立場からも考える必要があるということでした。又、それはその関係を取り巻く大小の状況とも関係させて考えなければならないということでした。

 これらを踏まえて、今後は当面、両者の関係を公正なものにしていく様々な方法を考えてみます。まず4日には「生徒による授業評価」を取り上げました。

      生徒による授業評価の経験

──本校でも一部の授業で行われている。授業の内容、先生の態度、声の大きさなどについて生徒が評価するものであった。最初は1~5にマルを付けて評価するのだが、最後に記述もある。先生の熱意が感じられた。

──実習のあとには、今回の実習での担当教官の熱意や指導のあり方はどうだったのかというアンケートを書きました。私は、初め書くのがイヤだったけど、しっかりそのアンケートを書いたら、今後先生たちが考え直して授業や実習に臨んでくれると思い、書ける所はしっかり書くようにしました。

──中学高校と通っていた塾ではこのようなアンケートが定期的に、しかも先生一人ずつ、細部にわたって生徒が評価するということを行っていました。そして、授業が分かりにくい先生や、生徒が嫌いな先生は、すぐにとばされたりして、先生がどんどん代わっていました。このように先生を代えることが正しいのかは疑問でした。

──小学校の頃、先生への通信簿を書いて交換したことが一度だけある。わたくしはその先生が好きで、オール「よくできました」だった。授業評価は両者の信頼関係を築くのに役立つから導入すべきである。

──私は中高一貫校だったが、そこでは生徒ではなく、親に子供の話を聞いてもらい、学校への意見を出してもらうというものがあった。匿名で。私の家にも高3の時、そのアンケートをやってもらいたいという依頼がありました。両親にも、なんでこんな回りくどいやり方をしているのだろうという意見もありました。なんで直接生徒に聞かないのか、考えていました。

──私は中高一貫校だったが、毎年ではないが、全校で、先生方や学校の方針についてのアンケートを行い、無記名だったので正直に書けた。

──教師側の希望で行われるのだと思ってきたが、生徒側の希望でも可能であることが分かった。生徒側にも自分に合った教育、好きな先生を選ぶ権利があってもいいのではないかと思った。私の知り合いの大学生は、人気のある教師の授業を受けようと希望を出したが、抽選で外れた。生徒側の選ぶ権利も重要だ。

──授業は先生と生徒が協力してつくっていくものだと思うので、先生が生徒に授業態度のことで注意したりすることが出来るのなら、生徒も先生に要望が言えてもいいと思います。

──教師は自分の中でだけ考えた授業を行うのではなく、生徒の反応、反響を取り入れつつ、毎回、授業のやり方を変えたり、生徒の意見から日々改善することが大切だと思う。

──高校の時、担任の先生に「○○先生は分かりずらいです」と訴えても、「ああ、しょうがないねぇ。でもがんばってみて」としか言わなかった。授業の評価を先生に訴えても、生徒の意見を受け入れてくれる制度が学校になければ、意味がない。

      その問題点と提案

──評価を求めても賛否両論になる。先生はどうするのかな。
──小学校での導入は早すぎる。中学高校では行うべきだ。
──中学では内申点を気にして思ったことが言えないことが考えられる。

──小中高は決められた授業で決められた先生なので、授業評価までやらなくても、意見があった時にはいつでも意見を出せるような方法をとればよいのではないだろうか。

──アンケートより生徒の受講態度が評価になると思う。つまらない授業は生徒は聞いていない。分かりやすく教えてくれると真剣に聞く。知的好奇心をくすぐるような授業は拍手したくなる。先生達はそこからも感じてくれるといいと思う。

──本校でのそれもそうだが、たいてい、授業の最後にアンケートをとるため〔改善点があっても〕私たちの授業では直してもらえない。授業の中頃にやってほしい。

 ★ 1時間ごとという意見もありました。

──先生が本当に直してくれるのか分からない。制度からみて直せる限度もあると思う。

──アンケートをしたら結果を公表し、改革案を発表してもらいたい。

──アンケートをとる授業は大体よい授業で、本当に考えてほしい授業ほどアンケートを取らない。

──匿名で評価表を出すのは、先生の悪い所など言いにくいことも素直に書けるので、場合によってはいいと思う。

──アンケートを生徒が集計するのもいいと思う。最終的には先生と生徒の信頼関係の問題だと思う。

──先生でも生徒でもない所がアンケートをとって、それを生かすことが大切だろう。

──生徒が本心でアンケートを書いているかが問題。
──好き嫌いの感情の入ってしまうのが問題。
──授業そのものではなく、先生の人間性についての評価になってしまう恐れがある。

──私は授業評価に何の関心も持っていなかった。めんどくさいだけだったように思う。導入するなら、授業評価の意味を〔生徒に〕理解してもらう必要があると思う。

──学校が塾みたいになる危険がある。学校で何かしたり、相談相手になったりがおろそかになるとか。

──問題は生徒に先生がこびる事にならないかという事だ。

 ★ 予備校などでは、講師が生徒の受講態度を注意しなくなるという噂も聞きます。

──評価はやりすぎがよくない。度を越すと、その評価を活用するどころか、それにより傷つき自信をなくすこともあると思う。

      病院や学校での 360度評価

──学校や病院での 360度評価は意味があるが、自分が上司、同僚、部下(あるいは生徒)から評価を受けること自体、大変なストレスとなり、多忙で神経を細かく使う仕事には負担になりすぎないだろうか。元々、人間とは欠点があり、それを理解して共同で仕事にあたっていくのだから、チーム力を高めるという点についての評価をするなど、内容が問題ではないか。

──病院に導入するのは面白い。患者、婦長、先輩看護婦、同僚から、みんなに評価されていると思えば自然と緊張感を持って仕事が出来る。悪い事を書いたら可哀相だとか、失礼かなとか考えないように、様々な工夫をし、評価することの意味をみんなが理解することが大切である。

──評価の対象となる人が評価者を選ぶのはなんだか変だ。その人にかかわるすべての人に評価されるべきだ。上・下・横の人間関係全てから評価してもらうのはよいと思う。

──部下からの評価が大切。部下だからこそ気づける悪い所もあると思う。

──特に、医師や看護婦に患者さんからの評価を与えるべきだと思う。

──自分が評価されるのは怖い。

      その他

──哲学の授業は深く物事を考えることが目的なのに、カンファレンスの内容が少し多いように感じる。

 ★ 私も授業が進んできて、少し混乱してきているように感じています。いろいろと考えた結果、今回はレポートを「その他」だけにして、講師の話す時間を増やすことにしました。それが皆さんとの対話で「全体カンファレンス」になれば嬉しいです。また、「天タマ」も今回は「生徒による授業評価」関連の問題に絞り、その他のことは次の号に回すように編集しました。

──「天タマ」に載るみんなの意見の内容が濃く、そしてハイレベルになってきたように思います。自分の考えをしっかり持つことが出来るようになり、大人になっていくのだと思います。

──もう何回か哲学の授業を受けてきて、自分の考えることが増えてきたように思う。

──今回の「天タマ」で、話し合うというのは馴れ合いでもなければ感情的対立でもない。自分の意見も冷静に言い、相手の意見もきちんと聞く。その中で本当の事はどうなのかと、一緒に考えていくことである、ということが書かれていた。これを読み、本当にそうだなと感じた。

 私はすぐ感情的になってしまうことがある。特に父親の考えをいつも素直に聞くことができないように思う。又、一方的に自分の意見を言ってしまうことが多いように思う。自分なりに気をつけようとはしているが、なかなか直すことができないでいる。どうしてかと考えてみると、私はしっかりと自分の考えを持っておらず、そのため自分に自信がないのだと思う。そして、相手の意見をきちんと聞くという心のゆとりがないからだと思う。

 哲学の授業を通して、自分の考えをもっと深め、自分の考えとして冷静に言えるようになれたらいいと思った。

 ★ 事柄(内容)について話すだけでなく、話し合いのあり方自体(形式)をテーマにして話し合うことが出来るといいと思います。親しい間柄ではこれが難しいのですが。哲学が形式的な学問だということは、こういう反省をしながら考えていく学問だからです。この授業でも、匿名希望の意味について反省したのがその一例です。

──「天タマ」の中で、否定的とか批判的という言葉が出てきていた。みんな違う考えを持っているのだから、意見が合わないのは当たり前だと思う。たまたま意見が合うと気が合うと感じ、意見が違うと否定的・批判的な人と思う。そういうことはよくあると思う。それで今回の「天タマ」で「先生に否定的にとられてしまった」という意見がで出てきたのでは、と私は思った。

──「天タマ」21号を読んで悲しくなりました。私のレポートが載っていて、「匿名希望で書くのはイケナイ事なのでしょうか?」という私の言葉について、先生が「といった反発気味の意見もありましたが」と書いてあったことがショックでした。私は先生に反発なんて絶対そんな気持ちはないし、それはイケナイ事なのか、知りたかったので、ただ問いかけただけだったのに。

 ★ なぜ反発と取られたのかというと次の2つの理由があると思います。第1に、課題は生徒が自分で考えるもので先生に質問していいものではありません。自分で考えるべきことを質問した点で教師と生徒の境界線を越えていると思います(もう1人同じ間違いがありました)。

 第2に、イケナイか否は問題になっていないのに「イケナイ事でしょうか?」と発想したことです。微妙な問題をすべて「良いか悪いか」に還元して、人が少しでも疑問を投げかけると「悪い?」と反問する人がいます。これは貧しい考え方で、これでは進歩しないと思います。あなたが反発したのではないことは分かりましたが、こういう「誤解」が生じたのはあなたの言葉に原因があったと思います。

──直立歩行のはじまりが人間の病気のはじまりというのは面白いと思った。納得したいような気はするけれど、愛犬が心臓病が原因で肺水腫で昨年亡くなっているため、その考えにまだ納得できない。

 ★ 飼い犬は野性動物ではありません。「犬が亡くなる」はおかしい。

──私も東洋医学に興味があります。先生も、話をするとき、すごくニコニコしていた。病は気から、ですね。私も自分の不調の時の症状をプラス方向に考えるようにして、自分を支えています。

──うちの母は薬があまり好きではない。カゼを引いても「人間には自然治癒力があるのだから」と言われ、野菜を食べさせられる。しかし、薬の効果や副作用をしっかり理解して使うのは全然問題ないと、私は思う。

 ★ カゼに効く薬はありません。体を休めて野菜を食べるのは最高だと思います。立派なお母さんをもったことを誇りに思ってください。

──「ミシマの泉」に行ったことあります。いろいろなお風呂があって楽しめるし、健康にもよさそうだし、個人的にも好きです。ところで先生はあそこの「人間洗濯機」に入りましたか?

 ★ 「ミシマの泉」ではぜひ温冷浴をして下さい。「人間洗濯機」のように動きの激しいものは老人には向かないと思います。

 スーパー銭湯でなく「日帰り温泉」みたいなのについてみると、ここ2~3年、このあたりにも随分いろいろと出来ましたね。八扇乃湯、大東温泉、和ぎの湯、川根のふれあいの泉、湯谷温泉のゆーゆーありいな、とかです。私は脚に故障が出るようになってから、ゆーゆーありいなのプールによく泳ぎに行っています。温泉なので水が温かいのがいいです。家から40分で行けます。

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「天タマ」第21号

2019年01月01日 | カ行
「天タマ」第21号(1999年11月 4日発行)

           浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

 今回は、人間関係をそれだけとして考えるのではなく、それを取り巻く状況の中において考えるということを主題にしましたが、そのテーマより「レポート発表における匿名希望の自由」の問題に皆さんの関心が大きかったようです。少し感情的になっているような所もあったと思いますが、これは自制して欲しいと思います。

 これを巡る賛否両論を網羅します。

  ★ 匿名のメリット、記名のデメリット

──先生の意見に対して否定的な意見が名前付きで載ると、「あの子、先生に反論してるよ」、「当たり障りのない事を書いておけばいいのに」とか思われそうで、怖い。

──他人に自分の意見を見せると、他人がどう評価するか気になるので、苦手です。こういう人達が多いので匿名希望が多くなっているのではないか。

──知られたくない事や個人のプライバシーに関する事は匿名にしてよい。

──みんなは私のことをあまり知らないし、私もみんなのことをあまり知らないので、恥ずかしい。

──自分のクラスだけならまだしも隣のクラスまで配られるので恥ずかしいと思うのかもしれない。

──自分の考えを伝える相手は自分で決めたい。だから少しでも自分の考えを守るために匿名希望にするのである。

──先生が名前を載せても構わないと思う内容でも、本人にとっては名前を出したくないものかもしれない。

──人のは見たいけれど自分のは見せたくないというのは誰にでも少しはあると思う。

──考え(どんな意見か)が知りたいのであって、誰の意見かは問題でない。

──匿名だから言えるということは意外に多い。

──先生には言えるけれど他の生徒には知ってほしくないことがきっとあるのだと思う。

──私も匿名希望にしたことはあるけれど、それは「何となくいやだから」という感じです。自信がないのです。

──匿名で自分の意見が載っていたら、自分の考えに対する友達の考えも聞ける。名前を出したら、友達の本音は聞けないかもしれない。

  ★ 匿名のデメリット、記名のメリット

──哲学とは人と人との対話の中から生まれ育つのであり、匿名希望で「以降話し合いお断り」とした人は、本人はそのつもりがなくとも、物見の塔信者が剣道の授業を拒否したように、哲学の授業を拒否した形になっていると思う。

──哲学の授業では意見を発展させて考えを深めることが大切だと思います。匿名希望だと、その人の意見をみんなに伝えることは出来ても、他の人からその人への意見が伝わらず、考えが深まらないので、私もなるべく匿名希望を使わない方がいいと思います。

──匿名希望にしたい気持ちは分かるけれど、自分の意見を言うのは気持ちがいいし、それに同調してくれる人がいたならばなおさら気持ちがいい。

──名前があると、人との交流の上でいいきっかけになることもあると思う。意外な一面や共感出来る考えを読むと、「この人はこんなこと考えてたんだ」とその人を知れていい機会になる。

──私は「天タマ」に名前が載ると、恥ずかしいけれどちょっと嬉しい。読む方として見れば、いい文があると、これ誰のだろう、と思ってしまうのが当然であると思う。

──日常の付き合いではあまり真面目な話をし合わないためか、「天タマ」の人の意見は新鮮で、みんなすごいことを考えているなと、感心したりできる。むやみに匿名希望を使うのではなく、「これは身内のことだから」とか根拠があって仕方のない場合のみ使っていくのが、匿名希望の目的ではないだろうか。

──こういう形式の授業は今までなかったので、慣れなくて、自分の意見を載せられることに抵抗を感じるかもしれないが、だんだん慣れてくれば、特に気にならなくなってくるのではないかと思います。あの人はこういう考えを持っているのか、と思えていいです。

──家族やプライバシーに関わることは匿名希望でもよいが、テーマについての自分の意見はしっかりと名前を出す方がよいのではないかと思う。その意見が合っているかは、その後みんなで考えればいいことである。

──カンファレンスで話し合うことですでに自分の意見を相手と交わしているのではないか。そう考えると、文章にしたものはなぜ匿名希望なのか。グループの人の意見だけでなく、もっとクラスの人の意見を聞いてみたいから、なるべく匿名希望は避けてほしい。

   次のような具体的な対策案がありました

──カンファレンスの班を毎回、変える。匿名にしても、今まで話さなかった人と話ができる。

 ★ これは皆さんで考えて、時々席替えしてくれるように希望します。

    講師の感想

 初め少なかった匿名希望がだんだんと増えてきましたので、どうしてかなと考えました。女子高校生のスカートやルーズのように、ほかの子がするから~ということで、安易に匿名希望をしているのかな、とも思いました。そこで、皆さんに問題を提起しました。

 「講師の意見を聞いていると、匿名希望に対して自分の意見を押しつけていると思ってしまう」とか、「匿名希望で書くのはイケナイ事なのでしょうか?」といった反発気味の意見もありましたが、皆さんよく考えてくれたと思います。

 名前を出すのは恥ずかしいという心理についてはこんな事を思い出しました。

 中学時代、『山びこ学校』とかいう農村の作文教育が評判になったころ、私の国語の先生(この人は担任でもあった)が、みなの作文を読ませようとしました。最初、ある女子生徒が指名されましたが、その人は泣きだしてしまい、ついに先生は諦めました。次に私が指名されて読みました。

 その後、どうなったかは覚えていません。中学生の作文は身の回りのことを書くので、私は魚屋の住み込み店員さんと裏の池で魚釣りをしたことを書いたのですが、友達からその後少し聞かれました。

 しかし、やはり一番関係していることは、そのクラスがどの程度本当のクラスになっているか、ということではないかと思いました。これは直観みたいなもので、証拠はありません。S大学のドイツ語の授業の教科通信では名前を全然載せていません。2クラスあり、相互に無関係だということ、大学のクラスはクラス自体が本当のクラスになっていないということ、がその理由です。

 それ以上の感想としては、皆さんは本当の話し合いに慣れていないな、と思いました。これは皆さんの責任というより、学校教育の問題かもしれません。ともかく、多くの人は、人と話す場合、馴れ合いと感情的対立の両極端しかないようです。話し合うというのは馴れ合いでもなければ、感情的対立でもないと思います。自分の意見も冷静に言い、相手の意見もきちんと聞く。その中で本当の事はどうなのだろうかと一緒に考えていく、これが話し合いだと思います。どんな結論になっても、あるいは結論が出なくても、話し合ってよかったなと思えるような対話をしたいものです。

   今回の結論

 授業要綱はそのままです。つまり、「匿名希望も可」です。「匿名希望の意義について考えて、安易に使わないように」と言う必要はないと思います。もう既にしっかり考えたのですから。

   「哲学の授業が苦痛だ」という「疑問」について

──私達が将来看護婦になった時、深く考えることは重要なことになると思う。安易な考えでは場合によっては患者の生命の危機へと結びついてしまうこともあるだろうし、患者にとってより良いケアが出来ない気がする。だから、自分の考えにとらわれず、客観的にものをみつめ、様々な方向からの意見、考えができなくてはならないと思う。創造性も養わなくてはいけないと思う。自分の考えを見せるということは、つまり自分の考えを相手に伝えることはどんな時でも大切なことである。看護婦はチームプレーが鍵となる。

 患者に説明する時も、人に何かを伝える時も、納得のいく説明や自分の気持ちを伝えるためにも、人に自分の考えを見せるということは大切なことではないだろうか。しかし、これらのことはすぐに出来るものではない。だからこそ哲学というこのような時間を利用して、深く考えることや相手に伝えることが出来る能力を養っておかなくてはいけないのではないだろうか。

──この人は今回このような事を書いて後悔していると思う。自分がこの授業に対して思っていることを正直に書いたことで、このようなテーマとなり、周りから批判(批評)を受ける。先生だけに伝えて一つの意見として見てほしかったと思う。

──私は今まで生きてきて、こんなにも物事を深く考えたことはありません。考えていると言ってもいつも表面ばかりで、そこから先に進みません。でも、哲学の授業を学び、身近な「対話」や「先生と生徒」、「親」などのことからも深く考えられるのだと思いました。また、よく考えてみると奥が深いということを感じました。

 この人のように、自分が考えたことを心にしまっておきたいという人もいると思うけど、私は、自分の考えた事を言うことにより、相手の考えも聞くことが出来るし、そうすることでより深く物事を考えることができる、ということにつながると思います。他の人の考えを聞き、新たな自分にはないものを得られるかもしれません。

   講師の考えの一部

 深く考えないで生きたいのも、人に自分の考えを見せたくないのも、それ自体としては「個人の自由」だと思います。問題は、看護婦になること、看護学校に来ていること、哲学の授業に出ることと、その自由との関係です。

 体操の授業の目的は柔道をすることではなく、体を鍛えるとかですから、柔道をしないでも、ほかの手段で替えられます。しかし、哲学は考えることであり、授業に出ることは最低限、先生に見せることを含んでいると思います。従って、深く考えたくないとか、先生にも見せたくないという人は哲学の授業の前提に抵触するわけです。ではこの時どうしたらよいか。これが本当の問題なのです。或る事柄をそれだけとしてだけでなく、状況の中において考えるとはこういうことです。

   状況と人間関係

──今の制度で看護婦が患者の話をじっくり聴くことは、困難かもしれないが無理ではない。ある看護婦に患者の話を聴く時間はあるのかと質問すると、「時間を作って行く。業務的に夜になってしまうけれど」と言っていた。その時はベッドサイドで椅子に腰掛けて話をするそうだ。「忙しいからできない」というのはもっともらしい理由に聞こえるが、実は適当な言い訳なのかもしれない。

   組織はトップで8割決まる

──私は中高と吹奏楽をやっていたが、指導内容と大会での成績とは比例していた。そして、いい先生がいなくなるとすぐに成績は落ちた。あの先生はいい先生だといううわさがあると、よけいに付いていこうという気持ちが大きくなった。こういう評判もプラスになりマイナスになると思う。

──組織はトップで8割決まる、というのが現状かもしれない。しかし、それではトップだけの世の中になってしまって、トップ以外の人の意見はどうなってしまうのだろう。でも、今は、学校でもそうだけど、意見を言う所がないので困ってしまう。もっとトップがこの現状を知ることと、トップ以外の人は、自分たちが意見の言えるような場所をつくったら、もっと割合が変わると思う。

   コスモス寺のVTR

──私は結婚して子供が出来たら、家族で花畑に行って、寝ころがったり、香りを楽しんだりしてのんびりしてみたい。好きな人ときれいなものを感じることは、同じものを共有して、また一歩距離が縮まる気がする。

──コスモスは安らぎを与えてくれる花だと思います。中学生のころ、私は姉にコスモスの種をもらい、温水で育ててみたら予定より3ヵ月も早く花が咲いてびっくりした思い出があります。しかし、咲いた30本のコスモスは次の日、祖母が1本 100円で売ってしまいました。種は 100円なのに3000円のもうけ! うれしいのも束の間、もうけ分はすべて祖母のもとへ。悲しい思い出でした。

   その他

──先生は、学校の教育はサービス業だといいましたが、私は違うと思います。予備校や塾はサービス業だと言われても仕方がありませんが、学校は、勉強を教える場所でもありますが、人間を育てる場でもあります。サービス業というだけで軽い物のような感じがしてしまいます。

──「宿題」について、なぜ先生は「お父さんの方がよい」とおっしゃったのでしょうか。

 ★ お父さんは会社勤め、お母さんは専業主婦かパートというのが多いと推定される。日頃からお父さんとの対話がとても少ない人が多い。当の問題を話し合うのに適当な人ならもちろん誰でもいいし、お母さんとの話も否定していません。

──「授業要綱の修正」で「Eメールで意見を送ってもよい」とありますが、先生は勤務時間外のプライベートな時間でも哲学や生徒との関わりを持つことがいやではないのですか。

 ★ 教師は学校でだけ働くのではないと思います。授業の準備、テストの採点など、私の場合なら教科通信の作成など、家庭ですることがあります。問題はそれをどの程度するかということだけだと思います。メールが少し来る程度なら問題はありません。

──今回の「天タマ」で私の意見が取り上げられていた。この事について私は何か悲しい気分になった。今考えてみれば、私は先生の考えに対して否定的にとらえてしまっていたように思う。しかし、私が先生の考えをそのようにとらえてしまったことは事実である。そのとらえ方が本来先生が言いたかった事とは違ったのでしょうか。

 ★ 「天タマ」第20号の記事で、皆さんが判断して、こういう載せ方では筆者が悲しくなると思う、という記事がありましたら、お知らせ下さい。私は少し困惑しています。少なくとも冷たい扱いはしていないつもりなのですが。

──「天タマ」で先生が書かれているように私たちは「目に見えているものしか見ていない」かもしれない。でも、私は今は学生で患者に接する時はまだ患者のことだけを見ていいのではないかと思う。たしかに周囲の状態が見えていないし、まだ社会というものが見えていないのかもしれない。社会のルールについて甘い考えかもしれない。でも、これはこれから社会の波みたいなものにもまれて自らが感じ取れていければいいのではないかと思った。

 今、学生のうちでしかできない一人の患者さんと向き合い、いろいろなことを学んでいる。これから看護婦になる上でとても貴重な体験をしていると思う。看護婦になったらなかなか出来ないことだと思う(看護婦を見ていると)。それを私は大事にしたいと感じた。

──ある授業でデンマークは老人の自殺率が高いと聞いた事があります(記憶違いかもしれませんが)。またある本で、日本とデンマークは文化が違うのでデンマークのような福祉制度は日本にはそのまま使えない、というのを読んだことがあります。それも踏まえてデンマークの制度について学ぶことは、すごく哲学的なことだと思います。

   読みやすいレポートのために

 まだ読みにくいレポートがあります。字を直すというのはなかなか大変なことだと思います。もちろんきれいな字で書こうと思う気持ちも大切ですが、次のことなら実行しやすいのではないでしょうか。

・濃い字で書く。これはとても読みやすくなります。2B以上にしてほしい。
 ・大きめの字で書く。これも役立ちます。
 ・行間と左右の隅を空ける。
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市場(しじょう)か市場(いちば)か

2018年12月31日 | サ行

 この問題については、面白いので、興味をもって注視しています。少し用例を集めてみようかなという気持ちになりました。

A・市場(いちば)の用例

 既に記録しましたが、大きいのでは、楽天市場があります。

 ネット空間ではなく、リアル世界で必ず「いちば」と読んでいるのは「魚市場(うおいちば)」です。

 魚が中心でしょうが、他に野菜なども扱っている所で、大きなものでその後見つけたのは、京都の錦市場(にしきいちば)があります。朝日紙にカナが振られていました。

 金沢市の近江町市場(おうみちょういちば)もこちらです。こういう大きな市場でも、旧習を守って「いちば」と言っている例を見つけると嬉しくなります。ただし、金沢市には金沢市中央卸売市場(しじょう)というのもあって、これは文字通り卸売りで、小売店が買いに来るのだそうです。
小売りは「いちば」と呼び、卸売りは「しじょう」と言うとすれば、一応の原則は出来た事になりますが、他所はどうでしょうか。この伝で行くと、築地は場外市場は「いちば」と呼び、卸売りの方は「しじょう」となりますが、そうはなっていません。

 上に書いた京都市の場合はどうなのでしょうか。錦市場以外に卸売り市場があるのでしょうか。と考えて、市役所に電話で聞いてみましたら、中央卸売市場(いちば)というのがあるそうです。さすがに古きを愛する京都! こちらも「いちば」でした。

 皆さん、自分の都市なり町なりの「市場」の呼び方を確認して、面白い事があったら教えて下さいませんか。

 築地市場について大発見をしました。東京証券取引所への登録名が「築地魚市場(つきじうおいちば)」となっていることを発見したのです。確かめたい人は、本屋に行って、『会社四季報』を手に取って、コード8039を探してご覧なさい。ちゃんとカナが振ってあります。

 しかし、この会社名もその内に「豊洲市場(しじょう)」と改名されるのでしょうか。ああ。

 断っておきますが、私は、読み方を元に戻せと言っているのではありません。言葉は変わる物ですから、変わっても好いのですが、いつ頃、なぜ変わったのか、を考えてほしいと言っているのです。少なくとも、辞書はそれを書くべきだといっているのです。こういう事に多くの人が関心を持つようになってほしいのです。

 「しじょう」か「いちば」かで言えば、個人的には、「いちば」の方が、その「賑やかさ」が聞こえてくるようで、楽しいから好きですが。

 ついでに

 「他方」と言うべき所を「一方」という言い方には絶対に賛成できません。これでは物事を対立で考える弁証法が不明確になります。しかし、今や「他方」は死語同然です。「他方」という語を正しく使っている例は探すのが大変です。

 「他方」の代わりに「一方」を使っている例は沢山あります。教育問題を中心にして大活躍の斎藤孝の『使う哲学』(KKベストセラーズ)の中に次の用例がありました。

  ── ドイツの哲人イマヌエル・カントは「定言命法」を説きました。定言命法とはカントが考えた道徳の原理で、「~すべきだ」「~せよ」という正しい行ないについての無条件の義務のことです。~
 一方、誰もが納得する法則って何だろう、そんなことは決められない、それに、どうしたって、そのときどきの状況によって、できることとできないことがある。(略)」(27頁)

  ── オーストリア生まれのイギリスの哲学者、カール・ポパー(1902年~1994年)は科学は反証可能性が大事であると言い、マルクス主義を批判しました。反証可能性とは、仮説や命題などが実験や観察によって間違っていると証明される可能性のことで、ポパーは間違いであることを証明できる可能性があるもののみを科学と考えました。~
 一方、たとえば、三角形の内角の和は180度であることになっていますが、これに対しては「間違いである」と反証できる可能性はあります。実際には、今に至るまで、平面上では三角形の内角の和は180度とされ、反証されていませんが、反証される可能性はあります。となると、「三角形の内角の和は180度である」ことは科学といえます。(67頁)

 この二つの例では、「一方」の所はやはり「他方」と言うのが正しいと思います。「正しい」では言い過ぎとするならば、「本来の言い方」と言ってもいいです。こういう私見に対しては、「もう一方」というのを短縮して「一方」と言っているだけだ、という反論が考えられます。

 私も、ここで「一方」と言うのは、前に「一方」という語が出ていない状況だから、「他方」と言うのはどうかなと感じて、「もう一方」ないし「その一方」という意味で「一方」と言ったのが始まりで、それが、今では「他方」などという言葉は忘れられてしまったのだと思います。

 実際、12月30日付けの読売新聞電子版には次の文が載っていました。

  ── 改革開放から40年、今月18日の記念式典で習主席が行った重要講話で、中国は引き続き発展を追求していくことが確認された。インフラ整備による大経済圏の構築、若者がリードする大衆娯楽やW杯で見られた消費はダイナミックで、中国経済にはまだまだ勢いがある。

 その一方で、米中貿易摩擦がもたらすマイナス要因に人々は不安を感じ、消費傾向の変化に敏感になっている。今年選ばれた言葉からは、躍動する社会の中で様々な問題を抱えながら生きている人たちの姿が浮かんでくる。来年はどんな言葉が生まれるのだろうか。(西本紫乃)

 しかし、やはり「他方」を使うべきだと私は思います。「一方」と「他方」、対立がハッキリ出て、気持ちがいいではありませんか。
 それにしても、「他方」という語を正しく使ってくれた例は中々出てきません。先日の朝日紙に一つありましたが、長い引用になるので、採録を躊躇してしまいました。今後はこれの収拾に力を入れるつもりです。皆さんも、出来たら、協力して下さい。

 そうそう思い出した事があります。「大地震」の読み方についてです。NHKではこれを「おおじしん」と読むように決めているそうです。何かの放送で聞いた覚えがあります。

 その他の点でも、NHKには「放送文化研究所」みたいなところがあって、言葉の研究をしているはずです。その部署に属する人が放送の中で出てきて、今関心を持って調べている事について発言することがあります。そのこと自体は良いことだと思うのですが、私見では、そこで取り上げる問題がどうもあまり重要でない事が多いように思います。自分の関心と離れていると「重要でない」と言うのも気が引けますが、私の問題にしている点は、やはり常識的にみて重要な事だと思いますが、どうでしょうか。

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事実を指すwenn(改訂版)

2018年12月28日 | 「関口ドイツ文法」のサポート
    事実を指すwenn(改訂版)

    事実を指すwenn(改訂版)

 『関口ドイツ文法』に「事実を指すwenn」を書き落とした事は大失策でした。調べ直してここにまとめておきます。関口は『ドイツ語学講話』の中に一講を設けて説明しているのですが、内容的にまとまりが悪く、完成していると言えません。よって、浅学を顧みずに、私がまとめてみます。見たものは関口のその論文のほかには『クラウン独和』と『独和大辞典』です。用例は、自分で集めたものは出典を示し、他からの引用は元を書いておきました。

 A・仮定的条件のwenn

wennの元の意味は「仮定」だと思います。しかし、その仮定にも色々あります。

 A-1、可能性のある仮定。未来ないし現在から近い未来の仮定。
1-1. Wenn ich Nachricht von ihr habe, lasse ich es dich sofort wissen. (彼女についてのニュースが入り次第、直ちに君に知らせます)(クラウン)
1-2. Wenn morgen die Delegierten ankommen, (so / dann) werden sie vom Oberbürgermeister begrüßt.(派遣団は明日到着すると、市長から挨拶を受ける)(大独和)
1-3. Wenn es Frühling wird, kommen die Zugvögel zurück.(春になると、渡り鳥が帰ってくる)(繰り返される事柄にも使われる)(クラウン)
1-4. Immer (Jedesmal), wenn wir sie einladen, hat sie keine Zeit.(彼女を誘うときは決まって「時間がない」と断る)(クラウン)
感想・1-4は1-3と同様、「決まった事」として考えるから、こういう言い方をするのでしょう。

A-2、 条件と帰結、理由と結論、原因と結果の関係にある真理を「仮定と帰結」関係で表す。
2-1. Wenn es also darauf ankommt, die treibende Mächte zu erforschen, die hinter den Beweggründen der geschichtlich handelunden Menschen stehn, ……, so kann es sich nicht so sehr um die Beweggründe bei einzelnen, als um diejenigen, welche grosse Massen, ...in Bewegung setzen (Engels, Feuerbach, §4)
(かくして歴史の表面で行動している人々の背後のある起動力は何かを探求することが問題になるならば、その時には、個々人を動かしている動機ではなく、大衆を動かしている動因を探らなければならないことになる)
英・When, therefore, it is a question of investigating the driving powers which lie behind the motives of men who act in history, then it is not a question so much of the motives of single individuals, however eminent, as of those motives which set in motion great masses, ...
 仏・S’il s’agit, par conséquent, de rechercher les forces motrices qui se trouvent derrière les mobiles des actions des hommes dans l’histoire, il ne peut pas tant s’agir des motifs des individus, que ce ceux qui mettent en mouvement de grandes masses, ...
 感想・独はwenn …… so(od. dann)が典型的な構文です。英はifもwhenもあるようですが、それを受ける語thenが付く場合もあれば、何も付かない場合もあるようです。仏にはsiを受ける語は使わないことが多いようです。

 A-3、過去の反復された条件
3-1. Meine Mutter freute sich sehr, wenn ich sie besuchte.(母は私が訪ねて行くと、とても喜んだ)(クラウン)
 感想・関口はこれも「事実をwenn」に入れています。「講話」の173頁を参照。しかし、このように広く取ると、狭義の「事実を指すwenn」、つまり「コメントを言う前提を設定するwenn」を一般的に「事実を指すwenn」と言う意味がなくなると思います。

 cf. 過去の一回限りの事はalsで表します。
3-2. Als er das hörte, erschrak er.(彼はそれを耳にすると、驚愕した)(大独和)
3-3. Gerade als ich das Zimmer betrat, ging er hinaus.(私がその部屋に脚を踏み入れたちょうどその時、彼は出て行った)(大独和)

 A-4、反実仮想はここでは扱いません。「文法」の第1部(理解文法)の第9章(接続法)の第6節(仮定話法)1045頁以下を参照。

B・事実を指すwenn(コメントを言う前提を設定するwenn)
 事実を指す場合なら、どんな場合でもwennが使えるというわけではない。事実を指す接続詞の根本は dassです。
 4-1. Ich weiss, dass er krank it.(彼が病気だという事は知っています)(大独和)

 或る事実を取り出して、それに対して Bemerkung(コメント)を加える場合にはwennを使います。もちろんそのコメントの方が主ですが。
 4-2. Wenn er es erst heute zur Sprache gebracht hat, so muss er auch seinen Grund haben.(彼が今日初めてそれを口にしたのには、それなりの理由があるはずだ)
 4-3. So viel ist gewiss, sie war fest bei sich entschlossen, alles zu tun, um Wertern zu entfernen, und wenn sie zauderte, so war es eine herzliche, freundschaftliche Schonung . (Goethe: Werters Leiden)(これだけは確かだが、彼女はあらゆる策を講じてヴェルテルを遠ざけようと堅く決心していたらしい。それを躊躇したのは、それは気持ちの上から、友情の上から忍びなかったからである)
 説明・構文としては wenn .... so (od. dann) が標準だが、soやdannはなくても良い。(以上、関口『講話』158-162頁)

4-4.Wenn der Berliner sagt: “Das kostet drei Eier”, dann meint er: das kostet drei Mark.
 (ベルリン人が「値段はdrei Eierだ」と言えば、それはつまりdrei Markだということである)
 説明・4-3と4-4とはどう違うか。4-4のwennは「もしベルリン人が~という事を言うとすれば」の意味で、いま具体的に誰かベルリン人がそう言ったというのではありません。逆に、4-2と4-3では、具体的事実が挙げられています。つまり、この wennは「一つの具体的事実をあたかも一般的事実であるかのように言う」ものなのです。
 なぜこのような事をわざわざするのか。それは、人間というものは、具体的事実を捉えてそれに何かのコメントを加える時には、それを一旦一般的事実かのように考えて初めて、それに対して判断力が何かの手がかりを得られるからです。
 早い話が、部下が何かの失敗をした時、上司は「その事をしてはいけない」とは言わない。「そんな事をしてはいけない」と言います。(同、162-3頁)
 牧野の感想・「そこでそれをするのが君の悪い癖なんだよなあ」という言い方もあるとは思います)。

 4-5. Wenn dennoch die Neubelebung der Kantschen Auffassung in Deutschland durch die Neukantianer und der Humeschen in England durch die Agnostiker versucht wird, so ist das wissenschaftlich ein Rückschritt und praktisch nur eine verschämte Weise, den Materialismus hinterrücks zu akzeptieren und vor der Welt zu verleugnen. (Engels, Feuerbach, §2)
(それにも拘わらず、ドイツでは新カント派がカント哲学を生き返らせ、イギリスでは不可知論者たちがヒューム哲学を再興しているが、それは学問的〔理論的)には後退であり、実際的には、背後で〔人に隠れて〕唯物論を受け入れながら、世間的には唯物論を否認しているかのように見せかける恥知らずのやり方でしかない)
英・If, nevertheless, the Neo-Kantians are attempting to resurrect the Kantian conception in Germany and the agnostics that of Hume in England, this is scientifically a regression and practically merely a shamefaced way of surreptitiously accepting materialism, while denying it before the world.
 仏・Si, cependant, les néo-kantistes s’efforcent en Allmagne de donner une nouvelle vie aux idées de Kant, et les agnostiques, en Angleterre, aux idées de Hume, cela constitue, au point de vue scientifique, une régression par rapport à la réfutation théorique et pratique qui en a été faite depuis longtemps, et, dans la pratique, une façon honteuse d’accepter le matérialisme en cachette, tout en le reniant publiquement.
 感想・英語にも「事実を指すwhen」が、フランス語にも「事実を指すsi」があるようです。

 派生形1・他者の言説を引用するwenn

 他者の言説を引用して、それにコメントを加える場合にもこの wennが使われる。この場合には、wenn-Satzに対する主文が形式的には無いような事もある。
 5-1. Auch bei Goethe finden sich, wenn auch unabhängig von Kant, verwandte Prägungen: “Denn das Gesetz nur kann uns Freiheit geben,” oder wenn er davon spricht, dass im Menschen ein “Dienenwollendes” sei. (ゲーテもカントとは関係はないが、それに似た事を言っている、『如何となれば、只法のみが吾人に自由を与える事が出来るのである』と。あるいは又、人間の中には『仕えんことを欲する何物か』があると言っているのなどがそれである。)
 説明・下線を引いたwenn-Satzには主文がないように見えるが、事実上、前にあるdenn以下の文の内容が主文なのです。(同164頁)
 牧野の解説・関口訳の最後の「のなどがそれである」が行間を読んで訳したものです。

 派生形2・比較対照のwenn

6-1. Und wenn der Mensch in seiner Qual verstummt, / Gab mir ein Gott zu sagen, was ich leide. (Goethe: Tasso)(悩みて黙するが人の常なれど、神は我に悩みを語るすべを授け給いぬ)
 説明・詩人というのは常人以上に悩むように出来ている代わりに、またその悩みを、常人とは違って、文筆を以て表現するという天賦を授かっているということ。(同168頁)
 牧野の感想・比較対照にwennを使うのはまあ分かります。ここではそれよりein Gottの方を説明して欲しかったです。牧野の推測では、「キリスト教の神」を意味させたければ無冠詞でGottと言ったでしょう。そういう限定なしに、「どういう宗教を持っている詩人でも、無宗教の詩人でも、天賦のものとして、そういう才能を持っている」という事で、「神とでも言うべきもの」と言ったのでしょう。あえて換言すれば、gab mir der Himmelと言うことも出来たのではあるまいか。

6-2. Ist das Lied auf das engste an die rhythmisch-melodische Gliederung des Ausdrucks gebunden, so bewegt sich die Erzählung frei in dem natürlichen, keiner festen Regel unterworfenen Rhythmus und Tonfall der Sprache. (Wundt) (歌謡が言語の韻律的・旋律的配置に拘束されているとすれば、物語は、言語の、いかなる規則にも縛られない自然のままのリズムと抑揚を以て自由奔放に振る舞うことができるのである)
 説明・「事実を指すwenn」の構文では「いつでも定形先置文で替えることが出来る」とまでは言えないが、「比較対照のwenn」の構文では、定形先置文で代替する事が好まれる。

6-3. Ist der Staat noch heute, zur Zeit der grossen Industrie und der Eisenbahnen, im ganzen und grossen nur der Reflex, in zusammenfassender Form, der ökonomischen Bedürfnisse der die Produktion beherrschenden Klasse, so musste er dies noch viel mehr sein in einer Epoche, wo eine Menschengeneration einen weit grösseren Teil ihrer Gesammtlebenszeit auf die Befriedigung ihrer materiellen Bedürfnisse verwenden musste, also weit abhängiger von ihnen war, als wir heute sind. (Engels , Feuerbach, §4)
(大工業と鉄道のある今日でも尚、大きく見れば、国家は〔経済生活から独立した物ではなく〕生産を支配している階級の経済的要求を映す物に過ぎないとするならば、人々がその全生活の大部分を物質的要求を満たすために使わなければならなかったような時代には、つまり今日の我々よりも一層物質生活上の欲求に依存する度合いの大きかったような時代には、国家は一層経済生活を反映する物だったにちがいない)
 感想・この場合は「比較対照のwenn」と言っても、「真逆な二つの事の対照ではなく、方向は同じだが「その程度が大きく違う二つの事の対比」だと思います。こういう場合でも使える訳です。

6-4. Wenn also die bürgerlichen Rechtsbestimmungen nur die ökonomischen Lebensbedingungen der Gesellschaft in Rechtsform ausdrücken, so kann dies je nach Umständen gut oder schlecht geschehen. (Engels , Feuerbach, §4) (そのように資本主義の法規定はその社会の経済的生活条件を法という形で表現した物でしかないのだが、それは事情によって上出来の場合もあれば不出来のこともある)
 英・If, therefore, bourgeois legal rules merely express the economic life conditions of siciety in legal form, then they can do so well or ill according to circumstances. 
 仏・Si, par conséquent, les préscriptions du droit bourgeois ne sont que l’expression sous une forme juristique des conditions d’existence économiques de la société, cela peut se faire bien ou mal, selon les circonstances.
 感想・これも「事実をwenn」の一種でしょうが、内容的には「譲歩の構文」だと思います。

 cf. 比較対照にはwährendもあります。

6-5. Während er bequem lebt, muss ich hart arbeiten.(クラウン)
 感想・indemも場合によっては使えると思います。

cf. 比較相似の wie ... so

7-1. Wie aber die Manufaktur auf einer bestimmten Entwicklungsstufe in Konflikt kam mit der feudalen, so ist jetzt schon die grosse Industrie in Konflikt geraten mit der an ihre Stelle gesetzten bürgerlichen Produktionsordnung. (Engels , Feuerbach, §4)(しかし、このマニュファクチュアがその一定の発展段階に達した時、封建的生産関係と両立できなくなったと同じく、今や〔マニュファクチュアから大きく発展した〕大工業は封建体制に取って代わった資本主義生産体制と両立出来なくなっている)
 英・But just as at a definite stage of its development, manufacture came into conflict with the feudal order of production, so now large-scale industry has already come into conflict with the bourseois order of production established in its place.
 仏・Mais de même qu’à une certaine phase de developpement, la manufacture entra en conflit avec le mode de production féodal, de même, meintenant, la grande industrie est entrée en conflit avec le régime de production bourseois qui l’a emplacé.
 感想・6-2までの「比較対照」は比較した結果が「反対」的でしたから、「対照」でしたが、この7-1の用例では「比較」の結果は「相似」です。この場合はwenn... soではなく、wie ... soが使われます。英では as ... soで、仏ではde mêde ... de mêdeです。
 こういう風に、似たものや対立する事柄は同じ所にまとめた方が理解し易いと思います。

 派生形3・逆接的な前提を後から付加する言い方

「逆接的な前提を後から付加する」とは何のことか分かりにくいと思います。或る事柄Aを言ったとします。その後に、本来はAを否定するような事Bを指摘することです。こういう言い方は、次の日本語の用例を見てみればすぐに分かりますように、日常的に使われています。
8-1. 米女子ゴルフツアーで8度の賞金女王に輝いたアニカ・ソレンスタム(スウェーデン)が引退を発表した。/昨年、背中を傷めたが、リハビリに成功し、今季3勝(通算72勝)。37歳の年齢と実力を考えても、キャシー・ウィットワース(米)が持つ通算88勝のツアー記録を塗り替える可能性は、十分に残されているのにだ。(朝日、2008年05月17日)

8-2. Es ist die gemeinsame Psychose aller Gebildeten, dass sie sich immer mehr Bücher anschaffen müssen, da sie doch weder Zeit noch Lust haben, sie auch nur aufzuschlagen. (開けてすら見るだけの暇もなければ気もない癖に次へ次へと書物を買わずに入られないというのが、これがインテリの共通心理である)(作文202頁)
 説明・ドイツ語では、da …doch を使うのが普通です。
 8-3. Warum in die Ferne schweifen, wenn das Gute so nahe liegt? (善い事がこんなに間近に転がっているのに、何を苦しんで遠きを漁る必要があるのだ)
 説明・このda …… dochの代わりにwennを使ってもいいのです。
 感想・8-2ではdochが入っていますが、6-3にはありません。dochはなくてもいいのです。又、8-2でも8-3でも関口は後ろから訳していて、「後から逆接的理由を言う」形を採っていません。これはどうでしょうか。「何を苦しんで遠きを漁る必要があるのだ。
善い事がこんなに間近に転がっている〔という〕のに」と、「という」を入れるくらいしか妙案が浮かびませんが。この構文はやはり逆接的理由を後から言うことで、主文の主張を一層強く言いたいのだと思います。ですから、やはり順序は変えない方がいいと思います。
 8-4. Und der kleine Prinz fragte sich: Wie kann er mich kennen, da er mich noch nie gesehen hat? (その時、星の王子様は自問しました、「どうして彼は僕が分かるのだろう、これまでl度も僕に会ったことがないというのに」)(Prinz ,S.50)
仏原文・Comment peut-il me reconnaître puisqu’il ne m’a encore jamais vu!
英・How could he recognize me when he had never seen me before?
 感想・仏にdochに当たる語がないためか、独にも英にもそれらしい語句がありません。仏はquandを使う言い方はないのでしょうか。用例の収集が足りません。独英仏を比較できる用例は1つしか知りません。

cf. 順接的な前提条件は後から付け加える言い方が普通だが、前に持ってくることもある。

9-1. Er konnte deshalb nicht kommen, weil seine Mutter krank war. (クラウン)
 説明・weilの副文は、主文中のdeshalb, darum等に呼応することが多い。又、内容的に相手にとって新しい情報で、特にはっきりと理由を言う場合に使う。
9-2. Die Bank ist geschlossen, da heute Samstag ist.(クラウン)
 説明・daの副文は、聞き手に容認できる事柄、ないし既知の事柄の場合。
9-3. Da es regnete, gingen wir nicht spazieren.
以上、説明もクラウンから借用。

 (その後に気付いた点を入れて、少し加筆しました。12月31日)
 
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「天タマ」第20号

2018年12月27日 | カ行
「天タマ」第20号(1999年11月1日発行)

           浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

 10月18日も「先生と生徒は対等か」というテーマを続けました。その前の授業で事例研究しましたので、今回は「問題を更に広い範囲に広げて考える」ということをしました。物事を考え深めていく方法としてはこういう方法も大切です。

 「お母(父)さんは私(僕)の話を聞いてくれない」という子供の不満について。そこで問題になっている本当の事は何か。自分が親になった時、子供の話を聞くに当たってどういう事を心掛けるか。

──私は両親に話を聞いてもらえなかったという思い出がないけれども、弟がよく「なんで話を聞いてくれないの!」と言っていたので、それについて書きたいと思います。

 弟が、友達のことを父親か母親に話すとします。両親はそれに対して、何か返事を返したり、「うん」と相槌したりしているのですが、弟は話を聞いてくれないと怒ります。

 怒っている時の状況を思い出してみると、大体が両親が何かをしている時です。父親だったら洗車している時とか、母親だったら夕食を作っている時とかです。聞いてはいるけど、他の事をしながらなので、弟にとっては「ちゃんと話を聞いてくれていない」と感じているのかもしれません。

 自分が親になって子供が話してくる時には、夕食を作っていたら、途中で作るのを止めてちゃんと聞こうと思います。ゆっくりと話ができる時間を作ることが大切だと思います。

 ★ これは多くの人が書いている点でした。つまり、親も忙しい、または忙しい時に話すと聞いてくれないという印象を持つ、ということです。しかし、食事の準備を中断することは現実的でしょうか。食事しながらきちんと聞くとか、日曜日の夕食後に話を聞く時間を作っておくとか、家庭内の制度を作っておくというのはどうでしょうか。

──親身になって子供の話を返さず、親が「上の立場」から物語を言ってしまうことに問題があると思います。子供が成長していく中で、親を含めた大人の矛盾のようなものを感じとります。それを隠して子供に対し、大人という力を出しても、子供はそれを感じ取ります。子供は物分かりのいい親を期待しているのではなく、大人の矛盾したところを見せながらも、なぜこう思うのか、なぜ子供にそう言うのかという理由を言ってくれれば、親は自分の話をちゃんと聞いてくれた、と思えるのだと思います。

 ★ 子供ときちんと話のできない親もかなりいるようですが、逆に話し合う姿勢の出来ている親も少なくないようです。子供は親を選べません。しかも、個人にとっての家庭ないし親の影響度は7割以上だと思います。大人になったということは、親から受けた影響をしっかり自覚して、自分で自分の道を決めていくことだと思います。

 最近は、子供の話を聞いているつもりなのに「お母さんは私の話を聞いてくれない」と言われて困惑する親もいると聞きます。子供を言い負かすのが民主主義だと思っている親の、反論しようと思って聞いている心が伝わってしまうのではないでしょうか。

 子供の意志を尊重するということを書いている人もいました。ベートーベンの親が嫌がる息子をピアノの前に無理やり座らせなかったら、ベートーベンの曲は生まれたでしょうか。最近は二世の選手や芸術家が沢山います。逆に、親の要求に押しつぶされた子供も多いと思います。子供の「意志」をどう考えたらいいのか、難しい所です。

 ★ 看護婦(士)になった時、患者の話を聞くに当たってどういう事を心掛けるか

 皆さんは基礎看護学の授業で、患者の話を聞く態度について教わったようです。曰く、共感的な態度で傾聴する、曰く、鵜呑みにしないで批判的に聞く、と。

──しかし、具体的にどうしていいのかが全く分からず、実習に行った時、患者さんとのコミュニケーションがうまくいっていないような気がしていた。けれども、ずっと側にいて少しずつ私のことを話していったら、患者さんの思いや生い立ちを話してくれた。患者さんの話を聞くのはとても大切だが、患者さんが話をしてくれるようにするには、私のことを知ってもらわなければならない。つまり、受け身の態度ではなく会話として成立させることが大事だと思った。

 ★ しかしここでも「忙しい」という問題が立ちはだかります。

──4月の実習の時、患者さんが「看護婦は話を聞いてくれない」と言っていた。なぜなら、話しかけても足が違う方向を向いていたり、すぐ近くにきても話には上の空だったりするそうだ。看護婦自身も忙しすぎて、どうしても一人一人と真剣に話をすることができない。また、横に座っていても「○○さんの点滴は~」などと違うことで頭が一杯なのだそうだ。看護婦が聞いているふりをしても患者はそれを察し、自分の心のうちを話そうとしなくなる。なので患者にとってはずっと側に居てくれる実習生はよき話し相手だろう。真剣に聞くことで、不安や悩みを話してくれた。嬉しかった。

 ★ しかし、この事は、皆さんが実習生でなく正式の看護婦になった時は〔ずっと側に居ることは〕実行出来なくなる、ということではないでしょうか。さて、どうしたら好いでしょうか。これが問題です。言葉づかいに悩む人もいるようです。

──実習にいくと、決して馬鹿にしたり幼稚な扱いをしているわけではないが、「○○さん~しようね」とか、「~したかやぁ」みたいな言葉を使ってしまうことがある。こういう場合、どこまでが良くて、どこからが失礼なのか分からなくなることがある。信頼関係が出来てきて、このように自然に出てしまうが、やはり失礼なのだろうか。逆に、敬語ばかり使っている方がかえって境界を作ってしまうような気がする。

 ★ 学校で授業や学校のあり方について話し合えるようにするにはどうしたらよいか

 これは問題の説明不足で、分からなかった点もあったようです。私の真意は、「学校や授業のあり方についての疑問を公正に話し合って解決するシステムはどうあるべきか」ということでした。

 授業のあり方について話し合う場があればいいなという気持ちを多くの人が持っていると思います。その方法としては、1対1の面接ではなく、クラス全員で話し合う、その時は円になって話し合う、無記名のアンケートをとる、「天タマ」みたいなもので意見交換、といった提案がありました。

──まず先生が生徒の意見を聞くという雰囲気を持つこと。次に、そういう場を先生や学校側がつくること。「目安箱」のようなものでもいい。先生同士で授業を見合って、生徒になったつもりで、その先生の授業を聞く。

 ★ 皆さんの年齢では無理もないと思いますけれど、皆さんの最大の欠点は、「目に見えるものしか見ていない」ということだと思います。看護婦も教師も個人で行動しているのではありません。病院とか学校とかいった組織の中で働いているのです。

 しかるに、「組織はトップで8割決まる」のです。個々の看護婦の背後に院長の姿を見、個々の教師の中に校長の指導力を見られるようになって下さい。更に大きく言えば、一国の医療制度や教育制度の中で仕事をしているのです。これは根本的には政治の仕事であり、私たちも国民としてかかわっていることです。今後の授業で具体的に考えていきましょう。

  ★ 「天タマ」にある講師の考えについてどう思うか

 これはどうも「授業は教師の実力と情熱で8割決まる」という考えと取った人が多かったようです。19号にはその他の考えもかなり書きました。全部を論じて考えて欲しかったです。しかし、これも私の話し方が不正確だったと反省すべきかな。

──ある先生がテスト後にテストの平均点が悪かったことから、先生が自ら反省をしていました。テスト問題が悪かったのか、授業が悪かったのかと。そんな先生の授業には私もがんばってやらないとな、という気持ちになります。

──教師と生徒の責任の比重は8対2であるという考えにはほっとした。私が今までに教えてもらってきた先生には、ここまで言ってくれる人はいなかったように思う。皆たいてい先生たちは、自分の授業のやり方は正しい、と思っていると思うので、やっと分かってくれる人に出会えたという感じがした。

──予習を具体的に指示するとなると、それは宿題になってしまうのではないか。予習は自主的に行うものである。よって先生は次の授業で何を行うか、どこまで進むかを明確にすべきではないかと思う。

 ★ 「宿題は復習の宿題」とは決まっていないと思います。予習には復習の10倍の価値があります。そして、予習能力は独習能力であり、自立して勉強する能力です。従って、学年が上に行けば行くほど予習の宿題に比重を移すべきだと思います。私のドイツ語の小テストは予習のテストです。「答え合わせをしてからにしてくれ」と言う学生もいますが、「ここは大学である」と答えておしまいです。

          その他

──今日のビデオは宝石ということだった。私の誕生石は12月なのでトルコ石です。私自身はこの宝石はあまり好きではありません。できればダイヤとかルビーといった豪華な方がよかったです。宝石にはいろいろな意味があり、それぞれに含まれている言葉の意味を知りたいと思った。トルコ石にはどんな意味が込められているのかな? 知れば好きになるかもしれないと思った。

──私は宝石を欲しいと思ったことはないが、とてもキレイだなぁと思った。1つの石でも、見る角度や方向によっても輝きや印象が違って、ずっと見ていても飽きない気がした。それは宝石そのものの輝きと宝石の美しさを最大限に引き出そうとしている職人さんの技と心が反映されているんだなと感じた。

──中学校の時の校則は「麁玉〔あらたま〕を磨く」だった。「原石を磨いて宝石になる」ということだ。人間も宝石と同じだと思う。はじめは原石でも磨き続けることで宝石(キラキラした自分らしさ)になることができると思う。そのためには努力が必要である。宝石の種類によって削り方が違う(光の反射の仕方)ように、人間も輝き方がちがう。みんなそれぞれ良い所がまだ眠っていると思う。いつか宝石になれるようにがんばって磨くのみ!!

──私は学校を一歩出ると、社会の一員として会議を司会しなくてはならないことがある。しかし、世の中、男性優位なのか、私より年長の男性に進行をほとんど奪われ、司会しても、「そんな事あとあと!」と進行表を勝手に変えられてしまい嫌になってしまう。

 『囲炉裏端』を読んで、私も対等であるし、会議の運営について真剣に考えたいと思った。前回は皆のアンケートから議題を上げてもらい、レジメにして事前配付したのに、いま一つ思考のまとまりに欠けた。次回は各人の話題中心に問題点を座談会風に話し合う予定だ。そこからいかに結論を導くかは司会の力によるところが大きい。

 ★ 会議のあり方自体をテーマにして話し合う機会を持つ、そしてルールを確認し、時々それが守られているか、改善点はないかを反省する時間を持つ、というのはどうでしょうか。内容について話し合うだけでなく、時には話し合いの形式について反省し合い、話し合ってみる、これが哲学的なやり方だと思います。

──哲学の授業が始まってから「天タマ」を読むことがとても好きになった。みんなの考えが聞けて、どう自分の考えと違うか、この人はこう考えていたのかなど、みんなの考えを知ることができて面白い。それに先生の考え方も知ることができてよい。また早く「天タマ」が読みたい。

 ★ 哲学の授業も軌道に乗ってきたようで嬉しいです。家族や友達とも話してその結果を知らせて下さい。

 こんな「疑問」が寄せられました。

──どうしてこんなにも物事を深く考えなくてはいけないのか、それと、なぜ人に見せなくてはいけないのか、私は自分が考えた事を心にしまっておきたいので、少しこの授業が苦痛です。

 これと関連して、今年は去年に比べて「匿名希望」がとても多いのです。内容的に見て匿名にする必要がないと思うものまで匿名希望になっています。この「天タマ」に載った文がきっかけで今まで話さなかった人とも話すきっかけになったという例が、去年は報告されていました。匿名だとそういう可能性がなくなると思います。どうしてもという場合以外は、匿名は避けてほしいと思いますが、いかがでしょうか。

 尚、この「疑問」は皆で考えましょう。参考になるかなと思うのは、例えば物見の塔というキリスト教の一派があります。この派の学生は柔道とか剣道などの授業に、信仰で禁止されているので参加出来ないと言ってきます。一応、認められているようです。この「疑問」はそれと同じでしょうか。参考までに。

      授業要綱の修正

病気などで休んだかとか授業中にレポートを出したか否かに関係なく、あとでEメールでレポート(2度目になってもよい)を送ってきても構いません。人間の考えは、その場で終わるものではありませんし、哲学はいつまでも続きます。学校という制度がありますから一応区切っているだけです。後から送られてきたレポートでも内容によっては可能な限り「天タマ」に反映させたいと思います。
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「天タマ」第19号

2018年12月23日 | カ行
「天タマ」第19号(1999年10月18日発行)

           市立看護専門学校 哲学の教科通信

 4日は「先生と生徒は対等か」のテーマを深めるために事例研究をしました。

 この事例の話し合いは公正ではないと殆どの人が感じたようです。腹立たしく思っている意見を紹介します。

──私はこの事例を読んですごく腹立たしくなりました。面接で、「授業はどう? わかりにくいのある?」と、先生が聞いているのに、自分のことを言われ、「『あの授業だけで理解できると思ってるの?』という返事はないだろう!!」と思います。

 この生徒さんも予習や復習をやっていないから、それが悪いのかもしれないけど、私だって出された宿題以外、そう簡単には予習・復習なんてしません。それでも授業によってはよくわかるものもあります。先生も、早すぎて付いていけない、と言われているのだか
ら、もう少しゆっくりやろうとか考えてほしいなと思いました。

 ★ 実際にはそれほど感情的な文章ではないと思いますが、「『あの授業だけで理解できると思ってるの?』という返事はないだろう!!」といった言葉は公的な文章では避けた方がよいと思います。「~という返事は教師の言い方ではないと思う」くらいにしたら
どうでしょうか。

 Bさんは次のように表現しています。

──この話し合いは公正に行われなかったと思う。先生は生徒の意見を聞こうしていない。しかも、親身になろうという姿勢をみせておきながらというのは、少しひどいと思った。

 生徒も本心は「分かりにくい」ということだったのに、言いづらさから「早すぎて、付いていけない」という言葉に変わってしまった。黒板の字が読みづらいとか、話すペースが早いというような具体的な問題だったら先生にとっても分かりやすいと思うが、ここで
問題になっているのは授業自体が分かりにくいという根本的なものである。

 先に挙げたような部分的な問題なら言いやすいが、根本的なものであると、その先生自体を否定してしまうようで、とても言いづらい。それが言えるようになるには、「この事を言ってもこの先生なら受け止めてくれるだろう」という気持ちに生徒側がならないと無
理だと思う。今回の話し合いが不公正だったのは先生側に責任があると思う。きっとこの生徒は今後はこの先生に相談事をしないと思う。

 ★ しっかり分析した上での冷静な表現だったと思います。

  生徒にも責任があるとする意見も少なからずありました。それは、どこが分からないのか具体的に言うべきだったとか、先生の言葉にひるまずに反論すべきだったとか、分からないなら、授業中に分からない時に言うべきだ、の3つが主でした。

        自分の体験から

──こういう事は現在でもよく体験する。特に強く感じるのが実習の時だ。自分なりに考えて行動した事について、「ダメじゃない」と言われる。でも、先生は何故その行動がいけないのか、何が正しいのか示してくれなかった。私が何故そのような行動をしたのかに
ついて、聞いてくれなかった。悲しかった。何のための教員なのだろうと強く思った。生徒の意見に耳を傾けるぐらいのことは最低限して欲しい。

──人気のある先生とそうでない先生があるけれど、人気のある先生は、生徒の言う事に耳を傾け、共感してくれる。その上で、間違っていることはきちんと「違う」と怒る。むやみに説教をしたりしない。そういう先生には心を開いて話ができる。やはり、相手の言
う事を聞き、受け入れることは大切だと思う。

──私も本校の面接で同じような事を聞かれ、「○○先生の授業は分かりにくい」と答えたことがある。しかし、なぜ分からないのかと聞かれて、その答えに困った。なぜ分からないのかが分からなくて、何が分からないのかも分からなかったからだ。取りあえず、「
勉強不足だからだと思う」と答えたが、何となく自分自身もはっきりしなく、授業の事について聞いてきた先生の考えもよく分からなかった。

       講師の考え

 皆さんはやはりこの「先生と生徒は対等か」についてはいろいろな経験をし、考えてきたようです。しかし、どう考えてよいのか分からない部分もあるようです。問題点をまとめてみましょう。

 (1) 授業の質(善し悪し)については「先生にも責任があるけれど、生徒にも責任がある」という考えがあります。これは相手のあることで問題の起きた場合大抵言える事です。

しかし、この考えの不十分な所は、そのような言い方で済ますことによって無意識の内に「両者の責任の比重は半々である」としていることです。実際には、両者の責任の比重は10対1から1対10までありえます。そのどれなのか、ここまで考えてこそ本当に考えたことになるのです(交通事故で2台の車がぶつかった時は、ここまで問題になると思います)。
 授業について言うならば、教師の責任と生徒の責任の比重は8対2だと思います。つまり「授業は教師の実力と情熱で8割決まる」のです。    

(2) この事が生徒の立証責任と関係してきます。生徒に、どこが分かりにくいか説明しろとか、反論せよとか、分からない時にその場で聞くべきだ、というのは無理な要求だと思います。生徒が真面目なら(これは前提されています)、生徒は「分からない」と言うだけでよいのです。その原因を考え、対策を立てるのは教師の仕事です。教師はそのために給料をもらっているのです。

 21回生がアンケートに「休憩を入れて欲しい」と書いていました。この言葉を考えて、今のような休憩にしたのは私のアイデアです。私も生徒と教師の両方を長い間やってきてようやく、自分の先生たちの授業のどこがどう間違っていたのか、なぜ間違っていたのか、はっきりと分かるようになりました。

 最近、医療過誤について法的に追及すること(つまり裁判)が多くなっていますが、ここでも患者に立証責任はないとする考えが強まっているようです(これは今日取り上げます)。

(3) Fさんは「授業が分からないと言うと、先生は必ず『予習・復習』のことを言う」と書いています。皆さんは、こういう先生の主張も、「どこか奇怪しい」と思いながら、どこが間違っているのか、分からないようです。

 予習を要求するならば、先生は例えば、「何頁から何頁まで読んできて下さい」とか、具体的に指示するべきです。これをしたのに生徒が予習をして来なかったら、その時初めて生徒の責任になるのだと思います。予習の内容を具体的に指示しなかったとしたら、先
生の方が悪いと思います。復習について言うならば、授業が分からないのに復習のしようがありません。

(4) 先生と生徒の場合に限らず、一般に相手を批判するような場合、その話し合いが公正に行われるためには、互いに相手を尊重する気持ちがなければならないと思います。生徒が先生に何か意見する場合なら、生徒は先生を尊敬し、先生は生徒を信頼していなければならないと思います。

 しかるに、「この授業はひどい」と思っていたら、それがどうしても態度などに出てしまい、先生も自分を守ろうとして、自分の立場を悪用するということになりがちです。ですから、私は、根本的な批判は、事実上「この先生はクビにするべきだ」と言うのと同じなのですから、管理者に言うべきだと考えるのです。根本を認めた上での部分的な問題なら、一部の先生を除いて、冷静に話し合えると思います。

Gさんはこう書いています。「講師が、不満ないし批判を根本的なものと部分的なものに分けた理由は、根本的な不満を生徒から言われた場合は、『うん、そうだね』と、感情的にならずに話し合えないと思ったからだと思う。生徒も直接だと思ったことを言えないと思うし、管理者を間におけば、両者の意見を中立的な態度で聞き、二人と話し合えるからだと思う。よい方法だと思う。」

 (5) この教師と生徒の公正な話し合いの問題は、上司と部下、親子、医者と患者、看護婦と患者という形でも同じ事だと思います。つまり、皆さんの仕事での大問題になってきます。今までは皆さんは生徒の立場、子供の立場だけでしたが、これからは逆の立場に立
つようにもなります。だからこそしっかり考えておく必要があるのだと思います。

 (6) 結論がどうなるにせよ、話してよかったと思えるような対話をしたいものです。

      授業の感想、及び家族と話したこと

──教科通信「天タマ」はいろいろな人の意見を知ることができて、大変面白かった。みんないろいろな考え方を持っているのだなぁと、当たり前の事だが、実感した。同じくらいの年齢なのに、考え方にこんなに差があり、また私の幼稚な考えや表現方法を見直すき
っかけになりそうだ。

──「哲学って?」と、授業が始まるまでは思っていた。しかし、始まってからプリントが配られ、そこには先生の自己紹介、これからの授業について、哲学というものについてなど、とても詳しく書かれていた。そのプリントに目を通しただけで、何を行っていくの
か、どのような授業を進めていくのか、大体知ることができた。このように授業の進行度やどのようにやっていくかが書かれていると、把握しやすくてよい。

──1・2回目の哲学の授業のこと、先生のこと、私は家族に話しました。いつも授業の文句ばかり話していたようで(自分では気づいていなかったが)、母に「いつもグチグチ文句ばかり言っている人が、今日はめずらしいねえ」と言われました。新しい授業が始ま
ったこと、外部から来られる先生であることに期待が大きく、それが話す内容や表情に表れていたようです。

──母と話をし、人間の間で対等はありえるのかという話になった。対等ということは、相手と自分を同じ高さで見ることだと思う。母と私は同じ意見で、2人として同じ人がいない人間の間で対等はありえない、という考えになった。一番対等に近いのが同級生など
の歳の近い人ではないかということになった。少し寂しい気もするが。

    「恋のうた」を読んで

──この「恋の歌」を読んで、なんだかとてもすてきな歌だなと思った。こんなに短い歌の中にあんなにたくさんの意味や感想、気持ちを表現するのはとても難しいことだと思う。自分が短歌を詠んでみたら、あんな少ない字数の中にあれだけの意味が込められるだろうかと思った。

──大田美和さんの短歌はかっこいい女性だなと思った。私は、この歌とはどちらかといえば逆で、だれかに奏でられることを待っている方だと思う。しかも、だれかの思いどおりのメロディーを無理して出してしまう方なので、この歌を少し見習いたいと思った。

       お願いと感謝

 始業前に「天タマ」を読んで、前回の授業を思い出し、今日の授業の心の準備をしておいて下さい。哲学の授業は休み時間から始まります。

 レポートの字はとても読みやすくなりました。ありがとうございます。

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「天タマ」第18号

2018年12月22日 | カ行
「天タマ」第18号(1999年10月04日発行)

           浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

 2回目のテーマは「先生と生徒は対等か」でした。ヒントの中の「何が対等で何が対等でないか」が十分に考えられなかったようです。また、「対等」という言葉には、(1) 本来は対等である、という意味と、(2) 現実に対等になっている、という意味と、2つの意味がありますが、この両者を区別できなかった人もいるようです。しかし、皆さん熱心に考えていました。

Aさんのレポートを紹介します。

──先生と生徒は対等かというと、理想としては対等であるべきだと思います。もちろん教える人・教えられる人としては対等ではないけど、人間としては対等であると思います。対等でなければ良い授業は出来ないと思います。小中学校の事を思い出して、先生のイメージというと「こわい」ということが浮かんできます。今では考えられないけど、あの頃は先生が平気で生徒をなぐったりして言うことを聞かせていて、先生の言う事に納得して従うのではなかったように思います。

 「先生」は確かに私たちより多くの知識を持ち、経験をつんでいて、多くの先生はすごく尊敬の出来る人です。しかし先生の言う事はすべて正しいと思ってしまうのは危険だし、学びながらも自分で考えていくことが大切だと思います。先生がいつも上から見下すような態度だったら良い人間関係は作れないと思います。これは先生と生徒の関係だけでなく、親子、友人関係でもそうだと思います。やはり授業も対話といっしょで、相互作用が大切だと思います。

 だけど対等であるとしても、もちろん必要最低限、言葉使いや態度は気をつけるべきだと思います。平等であっても友人と同じではない事を勘違いしないようにしたいと思います。本校の先生は学生の意見をよく聞いて下さる先生達ばかりなので、高校の時と違って面白い授業が多いです。

 ★ これを「人格としては平等、権限としては不平等」とまとめることにしましょう。

 第1点から「先生も生徒も互いに相手の人格を傷つけるような言動をしてはならない」ということが出てきます。これが守られていない場合があるのは残念です。

 第2点は「能力や理解力の不平等」から出てきます。しかし、これは少し微妙で、スポーツや一部の芸術では、現役生徒の方が既に現役を引退したコーチより能力が上である場合もあります。しかし、経験や考え方などでコーチから学ぶものがあるのです。
 それと同時に第2点で大切なのは、生徒の方が先生を「自分の先生」と思い、尊敬して従う気持ちになれることだと思います。しかるに、学校では、多くの場合、先生が学校によって決められてしまって、生徒に選択の自由がなく、尊敬できない場合があります。

   先生と生徒の対等を考えるその他の観点について

──先生と生徒の意見が違ったからと言って、議論をする必要はないだろう。議論をして、どっちが正しいかということを決定するのではなく、先生が意見を聞き入れ、考える余地を持ってくれればよいのだ。そうすることで、授業にも反映され、よりよい授業を作っていくことができていくのではないだろうか。

──先生と生徒の意見が違った時、両者は議論すべきかというと、私は、議論すべきであると思う。最終的な決定権は先生が持っていると思うけれど、議論することで先生にも生徒がどういう意見を持っているかが分かるから、議論すべきだと思う。こういう時、司会
をするのは先生でなくて、生徒がやった方が、生徒の意見を尊重できるし、先生と生徒が中立的な立場にいられるので、良いと思う。

──教壇は先生が生徒を見やすいようにある、と今まで思っていた。しかし、先生が生徒より上であるということを示してもいるのか、と感じました。対等ではないから一段上にいて当然なのだけれど、先生は生徒より上であることをより一層生徒に植えつけているよ
うな気がする。

──先生は一番高い所で生徒が低い所にいるということはいちがいには言えないと思う。大学は階段教室になっている所もある。そうすると生徒の方が高くなる。

          先生の思い出

──私は高校時代の部活の顧問の先生を今でも心から尊敬している。毎日毎日、怒られては泣きながら練習をしていた。しかし、どんなに厳しくても、先生はいつも励ましつづけてくれた。先生を信じていれば絶対に勝てる、と本当に信用していた。私が悩んでいる時
には、「試練は克服出来る者にだけ与えられる」という言葉をプレゼントしてくれた。今、つらいことは乗り越えるためにあるのだと、とても勇気づけられたのをよく覚えている。先生と生徒の関係。あたらめて考えてみると難しかったが、私にとって先生とは大切な何かを教えてくれるかけがえのない人である。

          その他

──私は今、看護学生という生活がとても充実している。しかし東京の大学に行っている友人はつまらないと言うことが多い。和敬塾にいた大学生はとても楽しそうだったのに、どうしてこのような差が生まれてしまうのか、疑問に思った。

 ★ 私は、和敬塾はそこの学生にとって第2のサークルなのだと思いました。つまり、サークル活動が充実しているのです。授業がつまらないという1年生の訴えに、4年生は「授業を面白いと思っている学生が何人いるか」と答えていました。しかし、本当の学生
生活の中心は勉強を軸にした先生及び仲間との関係だと思います。本校の皆さんは、これが充実しているのだと思います。ですから充実といっても和敬塾の学生の充実と皆さんの充実は違うのではないでしょうか。

──集団生活に憧れる部分がある。スポーツをやっていた時、夏休みに3泊4日で合宿した経験がある。練習じたいは毎日とてもつらくて逃げ出したいほどだったが、宿に戻ってみんなでワイワイ遊んだり、悩みを相談しあって夜遅くまで過ごすのはとても楽しかった。今はもうそういう機会もなくなってきてしまっているし、寮というのもあまり見かけない。集団生活もいい所ばかりではないと思うが、学生のうちにしか経験できない貴重なものでもある。

──「哲学」と聞いて固いイメージを持っていました。でも、予想に反して、今までみんなが一度は考えたことのあることや、日常にしていることについてしっかり考えるものであって、考えれば考えるほど深いものだと思いました。

──カンファレンスでは、今まで自分たちの話題のテーマにならないようなことで話し合うことで、いろいろな人の意見を聞くことができていい。

──先生はなぜ哲学を学ぼうと思われたのですか。又、先生はご自身でどう生き、どう人生の最終を迎えようと思っていらっしゃるのですか。私は「自分らしくある」をポリシーにしていて、それは時代や背景の中で少しずつ変化していくものです。私はそのあいまい
さも又自分が自分であるために必要なものだと考えているのですが。

 ★ 人間は自分を突き動かしている根本の衝動みたいなものを完全に自覚しているとは限らないと思います。それは不可能かもしれません。しかし、後から振り返ってみると、客観的にはその人を根本で動かしているものがあるようにも思えます。

 自己認識としては、感情的な態度が嫌いだったということがあると思います。一番覚えていることは、社会問題などで、とても感情的になって自説を主張した多くの人々です。高校時代、「数学みたいに、社会生活の分野でも理論的に解決できるといいな」と思った
ことを覚えています。私自身が感情的になったこともあります。

 真理が貫徹する真なる方法は何か、これがテーマかな。人間の心の中には天使と悪魔の両方が住んでいます。問題はその割合をどう見るかです。昔は9対1くらいに考えていて失敗しました。今は半々に考えて警戒するようにしています。すると、悪魔も活動しにくくなるようです。教科通信とか書き言葉を使った対話はとても有効だと思っています。

 ターミナルのことは余り考えていない、と言うより、考えられません。仕事が残っています。あと10年頑張って、社会的責任を果たしてから死にたいです。(講師の回答終わり)

 今日は第2回のテーマを更に深めることにしましょう。「先生と生徒は対等か」というテーマを深めるための事例研究

 「どんな組織でも人間には考えの違いや感情の行き違いがあるものだから、それをなるべく理性的に解決するためには苦情処理のシステムを作っておくことが大切だ」ということを考えていた時の、或る学校での或る生徒のレポートです。

──本校では全然、言えません。実際、すごくいい授業をする人には言うけれど、苦情なんてとてもとても。〔担任との定期〕面接のとき、「授業はどう? 分かりにくいのある?」と聞かれて、本心は「あなたの授業は分かりにくいです」と思いながらも言えない。

 でも、少し勇気を出して、「あのぅ、先生の授業ちょっと早すぎて、付いていけないとこがあります」と、言ってみたら、「アラー、あの授業だけで理解できると思ってるの?予習とか復習してる?」。(「してません」)。「それじゃあ、だめよ。これからもっと付いていけないわよ」と、言われてしまいました。

 確かに予習や復習はしていないけど、でもしっかり授業聞いているのに分からないのは、先生の教え方もまずいのではないか、と思うんです。というか、私の訴えは全然受け入れてくれないし、反対に説教されてしまったのが、すごく悲しかった。言わなければよかった、と思いました。

 この事例を分析して考えて下さい。考えるべき点は次の通り。

 (1) この話し合いは公正に行われて正当な結論に達したと言えるでしょうか。
 (2) イエスと思う人も、ノーと思う人も、そう判断する根拠を挙げて下さい。
 (3) この話し合いが不公正だったとしたら、誰にその責任があるでしょうか。

 参考にして欲しいものは、第1に、「授業要綱」の次の言葉です。「この授業が根本的に間違っていると考えた場合は管理者に相談して欲しい。以下は、「この授業は根本的には適当だが、部分的に改善して欲しい点がある」という立場で考えるものとする。」
 講師はなぜ不満ないし批判を根本的なものと部分的なものに分けたのでしょうか。このように分けることが本当に正しいか、正しいとするならなぜ正しいのでしょうか。

 第2に、『囲炉裏端』の「司会者の立場と討論者の立場」(87頁)及び「ある体罰反対運動の民主主義」( 129頁)を読んでください。

 第3に、次の諸点です。国会などで議長不信任動議を審議する時、なぜ議長の任務を副議長にゆずるのか。議長と副議長はなぜ党籍を離脱するのか。学校への入学の申込書はなぜ「願書」と言うのか。

 なお、授業のこと、対話のこと、先生と生徒は対等かという問題について、家族とか友人とその後話し合った人はいませんか。ありましたら、それも報告してください。

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事実を指すwenn

2018年12月20日 | 「関口ドイツ文法」のサポート
    事実を指すwenn

 『関口ドイツ文法』に「事実を指すwenn」を書き落とした事は大失策でした。調べ直してここにまとめておきます。関口は『ドイツ語学講話』の中に一講を設けて説明しているのですが、内容的にまとまりが悪く、完成していると言えません。よって、浅学を顧みずに、私がまとめてみます。見たものは関口のその論文のほかには『クラウン独和』と『独和大辞典』です。用例は、自分で集めたものは出典を示し、他からの引用は元を書いておきました。

 A・仮定的条件のwenn

wennの元の意味は「仮定」だと思います。しかし、その仮定にも色々あります。

 A-1、可能性のある仮定。未来ないし現在から近い未来の仮定。

1-1. Wenn ich Nachricht von ihr habe, lasse ich es dich sofort wissen. (彼女についてのニュースが入り次第、直ちに君に知らせます)(クラウン)
1-2. Wenn morgen die Delegierten ankommen, (so / dann) werden sie vom Oberbürgermeister begrüßt.(派遣団は明日到着すると、市長から挨拶を受ける)(大独和)
1-3. Wenn es Frühling wird, kommen die Zugvögel zurück.(春になると、渡り鳥が帰ってくる)(繰り返される事柄にも使われる)(クラウン)
1-4. Immer (Jedesmal), wenn wir sie einladen, hat sie keine Zeit.(彼女を誘うときは決まって「時間がない」と断る)(クラウン)
感想・1-4は1-3と同様、「決まった事」として考えるから、こういう言い方をするのでしょう。

 A-2、過去の反復された条件

2-1. Meine Mutter freute sich sehr, wenn ich sie besuchte.(母は私が訪ねて行くと、とても喜んだ)(クラウン)
 感想・関口はこれも「事実をwenn」に入れています。「講話」の173頁を参照。しかし、このように広く取ると、狭義の「事実を指すwenn」、つまり「コメントを言う前提を設定するwenn」を一般的に「事実を指すwenn」と言う意味がなくなると思います。

 cf. 過去の一回限りの事はalsで表します。
2-2. Als er das hörte, erschrak er.(彼はそれを耳にすると、驚愕した)(大独和)
2-3. Gerade als ich das Zimmer betrat, ging er hinaus.(私がその部屋に脚を踏み入れたちょうどその時、彼は出て行った)(大独和)

 A-3、反実仮想はここでは扱いません。「文法」の第1部(理解文法)の第9章(接続法)の第6節(仮定話法)1045頁以下を参照。

 B・事実を指すwenn(コメントを言う前提を設定するwenn)

 事実を指す場合なら、どんな場合でもwennが使えるというわけではない。事実を指す接続詞の根本は dassです。
 3-1. Ich weiss, dass er krank it.(彼が病気だという事は知っています)(大独和)

 或る事実を取り出して、それに対して Bemerkung(コメント)を加える場合にはwennを使います。もちろんそのコメントの方が主ですが。

 3-2. Wenn er es erst heute zur Sprache gebracht hat, so muss er auch seinen Grund haben.(彼が今日初めてそれを口にしたのには、それなりの理由があるはずだ)
 3-3. So viel ist gewiss, sie war fest bei sich entschlossen, alles zu tun, um Wertern zu entfernen, und wenn sie zauderte, so war es eine herzliche, freundschaftliche Schonung . (Goethe: Werters Leiden)(これだけは確かだが、彼女はあらゆる策を講じてヴェルテルを遠ざけようと堅く決心していたらしい。それを躊躇したのは、それは気持ちの上から、友情の上から忍びなかったからである)
 説明・構文としては wenn .... so (od. dann) が標準だが、soやdannはなくても良い。(以上、関口『講話』158-162頁)

3-4.Wenn der Berliner sagt: “Das kostet drei Eier”, dann meint er: das kostet drei Mark.(ベルリン人が「値段はdrei Eierだ」と言えば、それはつまりdrei Markだということである)
 説明・3-3と3-4とはどう違うか。3-4のwennは「もしベルリン人が~という事をいうとすれば」の意味で、いま具体的に誰かベルリン人がそう言ったというのではありません。逆に、3-2と3-3では、具体的事実が挙げられています。つまり、この wennは「一つの具体的事実をあたかも一般的事実であるかのように言う」ものなのです。
 なぜこのような事をわざわざするのか。それは、人間というものは、具体的事実を捉えてそれに何かのコメントを加える時には、それを一旦一般的事実かのように考えて初めて、それに対して判断力が何かの手がかりを得られるからです。
 早い話が、部下が何かの失敗をした時、上司は「その事をしてはいけない」とは言わない。「そんな事をしてはいけない」と言います。(同、162-3頁)
 牧野の感想・「そこでそれをするのが君の悪い癖なんだよなあ」という言い方もあるとは思います)。

 3-5. Wenn dennoch die Neubelebung der Kantschen Auffassung in Deutschland durch die Neukantianer und der Humeschen in England durch die Agnostiker versucht wird, so ist das wissenschaftlich ein Rückschritt und praktisch nur eine verschämte Weise, den Materialismus hinterrücks zu akzeptieren und vor der Welt zu verleugnen. (Engels, Feuerbach, §2)
(それにも拘わらず、ドイツでは新カント派がカント哲学を生き返らせ、イギリスでは不可知論者たちがヒューム哲学を再興しているが、それは学問的〔理論的)には後退であり、実際的には、背後で〔人に隠れて〕唯物論を受け入れながら、世間的には唯物論を否認しているかのように見せかける恥知らずのやり方でしかない)

英・If, nevertheless, the Neo-Kantians are attempting to resurrect the Kantian conception in Germany and the agnostics that of Hume in England, this is scientifically a regression and practically merely a shamefaced way of surreptitiously accepting materialism, while denying it before the world.

 仏・Si, cependant, les néo-kantistes s’efforcent en Allmagne de donner une nouvelle vie aux idées de Kant, et les agnostiques, en Angleterre, aux idées de Hume, cela constitue, au point de vue scientifique, une régression par rapport à la réfutation théorique et pratique qui en a été faite depuis longtemps, et, dans la pratique, une façon honteuse d’accepter le matérialisme en cachette, tout en le reniant publiquement.

3-6. Wenn es also darauf ankommt, die treibende Mächte zu erforschen, die hinter den Beweggründen der geschichtlich handelunden Menschen stehn, ……, so kann es sich nicht so sehr um die Beweggründe bei einzelnen, als um diejenigen, welche grosse Massen, ...in Bewegung setzen (Engels, Feuerbach, §4)
(かくして歴史の表面で行動している人々の背後のある起動力は何かを探求することが問題になるならば、個々人を動かしている動機ではなく、大衆を動かしている動因を探らなければならないことになる)

英・When, therefore, it is a question of investigating the driving powers which lie behind the motives of men who act in history, then it is not a question so much of the motives of single individuals ....
 感想・独はwenn …… so(od. dann)が典型的な構文です。英はifもwhenもあるようですが、それを受ける語thenが付く場合もあれば、何も付かない場合もあるようです。仏にはsiを受ける語は使わないことが多いようです。
 3-6は「事実を指すwenn」ではなく、一般的真理を言っていると取るべきかもしれません。境界線を引くのはいつでも難しいものです。

 派生形1・他者の言説を引用するwenn

 他者の言説を引用して、それにコメントを加える場合にもこの wennが使われる。この場合には、wenn-Satzに対する主文が形式的には無いような事もある。

 4-1. Auch bei Goethe finden sich, wenn auch unabhängig von Kant, verwandte Prägungen: “Denn das Gesetz nur kann uns Freiheit geben,” oder wenn er davon spricht, dass im Menschen ein “Dienenwollendes” sei. (ゲーテもカントとは関係はないが、それに似た事を言っている、『如何となれば、只法のみが吾人に自由を与える事が出来るのである』と。あるいは又、人間の中には『仕えんことを欲する何物か』があると言っているのなどがそれである。)
 説明・下線を引いたwenn-Satzには主文がないように見えるが、事実上、前にあるdenn以下の文の内容が主文なのです。(同164頁)
 牧野の解説・関口訳の最後の「のなどがそれである」が行間を読んで訳したものです。

 派生形2・比較対照のwenn

5-1. Und wenn der Mensch in seiner Qual verstummt, / Gab mir ein Gott zu sagen, was ich leide. (Goethe: Tasso)(悩みて黙するが人の常なれど、神は我に悩みを語るすべを授け給いぬ)
 説明・詩人というのは常人以上に悩むように出来ている代わりに、またその悩みを、常人とは違って、文筆を以て表現するという天賦を授かっているということ。(同168頁)

 牧野の感想・比較対照にwennを使うのはまあ分かります。ここではそれよりein Gottの方を説明して欲しかったです。牧野の推測では、「キリスト教の神」を意味させたければ無冠詞でGottと言ったでしょう。そういう限定なしに、「どういう宗教を持っている詩人でも、無宗教の詩人でも、天賦のものとして、そういう才能を持っている」という事で、「神とでも言うべきもの」と言ったのでしょう。あえて換言すれば、gab mir der Himmelと言うことも出来たのではあるまいか。

5-2. Ist das Lied auf das engste an die rhythmisch-melodische Gliederung des Ausdrucks gebunden, so bewegt sich die Erzählung frei in dem natürlichen, keiner festen Regel unterworfenen Rhythmus und Tonfall der Sprache. (Wundt) (歌謡が言語の韻律的・旋律的配置に拘束されているとすれば、物語は、言語の、いかなる規則にも縛られない自然のままのリズムと抑揚を以て自由奔放に振る舞うことができるのである)
 説明・「事実を指すwenn」の構文では「いつでも定形先置文で替えることが出来る」とまでは言えないが、「比較対照のwenn」の構文では、定形先置文で代替する事が好まれる。

 派生形3・逆接的な前提を後から付加する言い方

 「逆接的な前提を後から付加する」とは何のことか分かりにくいと思います。或る事柄Aを言ったとします。その後に、本来はAを否定するような事Bを指摘することです。こういう言い方は、次の日本語の用例を見てみればすぐに分かりますように、日常的に使われています。

6-1. 米女子ゴルフツアーで8度の賞金女王に輝いたアニカ・ソレンスタム(スウェーデン)が引退を発表した。/昨年、背中を傷めたが、リハビリに成功し、今季3勝(通算72勝)。37歳の年齢と実力を考えても、キャシー・ウィットワース(米)が持つ通算88勝のツアー記録を塗り替える可能性は、十分に残されているのにだ。(朝日、2008年05月17日)

6-2. Es ist die gemeinsame Psychose aller Gebildeten, dass sie sich immer mehr Bücher anschaffen müssen, da sie doch weder Zeit noch Lust haben, sie auch nur aufzuschlagen. (開けてすら見るだけの暇もなければ気もない癖に次へ次へと書物を買わずに入られないというのが、これがインテリの共通心理である)(作文202頁)
 説明・ドイツ語では、da …doch を使うのが普通です。

 6-3. Warum in die Ferne schweifen, wenn das Gute so nahe liegt? (善い事がこんなに間近に転がっているのに、何を苦しんで遠きを漁る必要があるのだ)
 説明・このda …… dochの代わりにwennを使ってもいいのです。

 感想・6-2ではdochが入っていますが、6-3にはありません。dochはなくてもいいのです。又、6-2でも6-3でも関口は後ろから訳していて、「後から逆接的理由を言う」形を採っていません。これはどうでしょうか。「何を苦しんで遠きを漁る必要があるのだ。善い事がこんなに間近に転がっている〔という〕のに」と、「という」を入れるくらいしか妙案が浮かびませんが。
 この構文はやはり逆接的理由を後から言うことで、主文の主張を一層強く言いたいのだと思います。ですから、やはり順序は変えない方がいいと思います。

 6-4. Und der kleine Prinz fragte sich: Wie kann er mich kennen, da er mich noch nie gesehen hat? (その時、星の王子様は自問しました、「どうして彼は私が分かるのだろう、これまでl度も私に会ったことがないというのに」)(Prinz ,S.50)
仏原文・Comment peut-il me reconnaître puisqu’il ne m’a encore jamais vu!
英・How could he recognize me when he had never seen me before?
 感想・仏にdochに当たる語がないためか、独にも英にもそれらしい語句がありません。仏はquandを使う言い方はないのでしょうか。用例の収集が足りません。独英仏を比較できる用例は1つしか知りません。






 

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「天タマ」第17号

2018年12月17日 | カ行
「天タマ」第17号(1999年10月04日発行)

                 浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

第1回のテーマは対話でした。なるべく多くの意見を紹介しましょう。

 「対話の基礎は親子の対話にある」という講師の考えについて

──先生のような決まりきっていない授業はいいと思います。トイレは自由に行ってよいとか、授業の途中に休憩を入れるとか、集中できるやり方で、今までの授業とちがい、新鮮です。
 あと、教科通信とか、クラス内での交流っぽいものは、小学生の時にやっていたクラスで出していた新聞を思い出しました。あと、それを家族に見せたりするのも、いまではやらなくなって、小学校や中学の頃、よく母に学校であったことをいろいろと話していたなと、久しぶりに見せたりしたいなと思いました。私も先生の「基礎は家族の対話」というのにとても共感できます。家族というのはお互いにすごい影響を受けるものだと思います。

──グループの1人の子が「親とうまく会話していない人がいるけど、回りの人との対応はうまくやっているよ」と言っていました。きっとその人は親との対話の中で、ダメな部分、良い部分を見つけて、まわりの人とは良い対話をしている人なんだなと思いました。

──先生の考えには同意しかねる。我が家は共働きであり、子供の時はずっと祖母の家で1日を過ごしていたし、仕事も忙しかったので、兄弟や友人と過ごすことが多く、親子の甘えの関係ではなく、それぞれ違う人々と関わる事で自分も学んだ事が多かったので、そうとは言い切れない事もあるのでは、と思う。

        いろいろな対話経験

──私はよく小さい頃から父に怒られるときは必ず正座させられ、「人生とはなぁ~」と、訳の分からない話を聞かされました。その時はまだ幼く、その父親の怒った顔が怖くて、ただ意味も理解できずに聞いていた。だんだん大きくなるにつれて、父親の言っていたこと、それをなぜ言ったのか、分かってきた気がする。今はゆっくりと父親と話す機会がなくなったので、今度ゆっくり話したいと思う。

──高校3年の時に体育の授業で逆立ち40秒というのをやって、1人でも途中で倒れたら又皆でやり直し、という過酷な事をした。私は逆立ちが苦手だったので、30を過ぎた所で倒れてしまった。結局やり直しはなかったけど、泣いてしまい、次の時間もずっと保健室。
 放課後になって、部活の先生の所へ行って「休みたい」と言ったら、「どうした?」と聞かれ、また泣いてしまった。そしたら別の部屋に連れていかれて、その先生は私の担任でもあったので、いろいろと聞いてくれたし、アドバイスもしてくれた。仕事が忙しいのに、親身になって聞いてもらえてうれしかった。

──病院実習の時、必ずグループと指導教員とカンファレンスを行い、困っていること、今日の反省などを話し合う。その時、実に中身のある対話が出来ているように思う。1つの話題について皆が口々に自分の意見や、自分ならこうするだろう、こうしたらいいのではと、さまざまな意見が出される。対話というのはこのように一人で成り立っているのではなく、どの人も平等に意見が言えることにあるのではないか。

──私が「対話」と聞いて思い出すことは友達との対話です。高校時代に仲良くしていた友達で、その人とは何でも話せる仲でした。それ故に衝突することも多く、毎日のように大ゲンカをしてしまうんだけど、おかしな事にケンカをすればする程仲良くなっていることに気づきました。
 2人とも言いたい事を全て言える仲なので、最近は「会いすぎるといけない」と分かり、間隔を空けて会っています。対話すればケンカや衝突があるんだけれど、分かっていても対話してしまいたくなる私達ってどんな関係だろうと思います。

        和敬塾のビデオを見て

──初めて和敬塾の存在を知った。一般の寮と違うところは行事があるということだろう。私はたまに「男に生まれたかった」と言う。それは、和敬塾の生徒たちのように、男の人には「一致団結」とか、「青春」とか、憧れるものがあるからだ。女には群れのようなものがあって、別にうっとうしいと思っていないけれど、男のような分け隔てない関係を羨ましく思う。

──私が一番印象に残っている映像は自己紹介である。よく高校の応援団員が発するような声で寮全部の先輩たちにあいさつをする。なかなかの大仕事だなあと思った。あいさつをするだけでなく、お互い自己紹介してから、相手のことをもっとよく知るために話し合う場面があった。いろんな考え方を知ることが出来、世界が広がって、羨ましいと思った。

 ★ なぜああいう自己紹介の仕方をするのでしょうか。少し考えてみました。照れ隠しなのではないかと思いました。初対面では誰でも「照れ」を感じます。相手がどういう人か分からないので、どう振る舞っていいのか分かりません。そこで、少しずつというのと反対の「大声を出す」という方法で一気に打開するのではないでしょうか。
 Jさんはこういう経験を紹介してくれています。「私は小学校3年の時からガールスカウトに入っているが、県合同キャンプに行った時のこと、テントに入ると知らない人が5人もいた。初めとまどい、みんな沈黙だった。ご飯の時も沈黙であった。全然楽しくなかった。しかし、1人の子が沈黙を破ってしゃべった瞬間にみんなしゃべり出した。みんなしゃべりたいという気持ちは同じだったのだ」。
 ガールスカウトのようなしっかりした歴史のある団体にしては少し不思議ですが、ともかく、ここではこの初対面の照れをどう解決するかについて、自分たちのやり方が確立していなかったのです。
 私も新しいクラスを受け持った時、最初の授業をどう切り出し、どう持っていくか、困りました。90分全部を使って、「大学で勉強するとはどういうことか」と熱弁を振るったこともあります。ドイツ語の授業では何の前置きもなく、「後に付いて発音して下さい」とだけ言って、音読の練習を始め、それを90分続けて学生を驚かせたこともあります。本校でもいろいろありました。
 それらの経験をへて、今のような始め方にしました。生徒は「どんな先生かな」とか、「どういう授業かな」と思い、場合によっては「一体、どこに連れていかれるのだろう」と思っているのです。この不安にちきんと答えるのが一番好いと思うようになりました。それは自分の授業の全体を自分で見渡すことにもなって、結局授業の改善に役立っているようです。
 皆さんも、各々の先生が最初の授業をどう組み立てるか、考えてみませんか。そして、どうしてそういうやり方をするのだろうか、この哲学の授業の始め方と比べてどうだろうか、と考え進んでみて下さい。するとこれがもう哲学になっているのです。筋道をつけて考えているのですから。

        哲学の授業を受けてみて

──このような授業の型は初めてだったので少し驚いたが、受け身の授業ではないので、眠くならなくて、いいと思う。

──授業要綱について先生が解説していくのを聞いていて、「努力する」という言葉はいいなあと思った。努力して出た結果なら、たとえそれが自分にとってよくないことだったとしても納得がいくような気がした。

    お願い

・濃い目の字(鉛筆なら2B以上)で書いて下さい。薄い字はとても読みにくく、疲れます。昔、中学の時、或る先生が「鉛筆の字は電灯が反射して読みにくい」と言っていたのを実感します。私のお勧めは「ボールペンテル」です。
・大き目の字で、行間を空けて書いて下さい。
・番号を必ず入れて下さい。
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