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ながく、牧野紀之の仕事に関心を持っていただき、ありがとうございます。 牧野紀之の近況と仕事の引継ぎ、鶏鳴双書の注文受付方法の変更、ブログの整理についてお知らせします。 本ブログの記事トップにある「マキペディアの読者の皆様へ」をご覧ください。   2024年8月2日 中井浩一、東谷啓吾

知事選の争点(その10、教育改革)

2009年05月31日 | タ行
★ 「マキペディア」の目次は「ブックマーク」にあります。

     知事選の争点(その10、教育改革)

 最後に教育改革を取り上げます。しかし、これはとても難しい問題です。現に、多くの改革派首長も教育改革はやっていません。一部で、見識のある人を教育長に据えることで或る程度の改革をしているくらいでしょう。

 なぜ難しいかと言いますと、根本的には、文科省が決めている枠組みは変えられないからです。政権交代でもして、新政権がその枠組みを変えてくれれば、可能性は出てきます。教育と文化には中央集権は似合わないと言って、国レベルの文科省を廃止して、県に任せてくれれば最高です。そうすれば、東大の独り勝ち状態も改めることができるようになるでしょう。各藩校のレベルがほぼ等しかった江戸時代のような状態を目指すべきでしょう。

 県レベルでの問題を指摘しましょう。

 1つは、高校は今や事実上義務教育ですが、建前はそうでないために、公立に行きたい人でも私立に行かなければならない状態になっています。静岡県では、公立高校の入学定員は中卒者数の3分の2に設定することになっています。3分の1は私立に行かなければならないのです。そして、高い授業料を払わなければならないのです(そのほかに、高校では「輪切り」の問題もあります)。

 ドイツのように、私立学校でも人件費は自治体が負担し、それ以外の経費(建物とか用具とか)は設立母体(ドイツでは多くは修道会)が負担するようにするべきだと思います。つまり、教育を金もうけの手段にすることを許さないことです。しかし、このように改革するのは大変でしょう。

 根本的な改革が難しいこともあって、また認識の間違いもあって、教師の質を高める方策(教師塾など)をやっている所もあります。たしかに教師の質の向上は大切です。それは、根本的には、大卒後5年間は民間で働いてから、どうしても教師になりたいという人が2年間の教職大学院で学んでから教員になるようにするといいでしょう。今の4年間の大学を出てすぐに教員になるのは無理です。

 しかし、このように変えるのは大変です。現状のままで教師塾などをするのは間違いでしょう。学校教育は個々の教師が行うものではなくて、「校長を中心とする教師集団」が行うものなのです。このことを知らなすぎます。

 今、多くの、特に公立学校が堕落しているのは、個々の教師の堕落によるものではありません。それは結果にすぎません。根本原因は、消化試合教育長と消化試合校長がグルになって消化試合をやっていることです。そして、学校全体にダランとした雰囲気を蔓延させているからです。「毒にも薬にもならない」という言葉があります。消化試合教育長と消化試合校長がまさにそういう人間です。

 教師たちが勉強しやすいように、雑用を少なくするとか、互いに協力するような校風を作るとかするのは、教育長と校長の仕事です。これがなされていないと思います。そもそも2~3念で校長が代わるのも問題です。5年間は1つの学校にとどまって、自分の理想の学校作りをするようにするべきでしょう。

 従って、解決策は教育長と校長に消化試合をさせないことです。東京都品川区の若槻教育長が「学校選択制」でその1つの方法を提示しました。これは参考になります。しかし、こういう教育長はどこにでもいるわけではありません。

今でもすぐに効果の出る方法としては、教育長と全校長に「ブログでの週間活動報告」を義務付けることです。更に、学校のホームページを本当のホームページにさせることです。

 もう1つは、住民サポーター制度を作り、その中に「オンブズ」を作って、職員と教員(特に教育長と校長)の活動を監視させることです。しかし、これは議会で通るかな、難しいです。

 最後の手段は、住民が自発的に学校のカウンターホームページを作って意見を言うことです。これも難しいでしょう。現状を知っている親は、「子供を人質に取られて」いますから。

 知事にやる気があるならば、鹿児島県阿久根市のように、教師たちの給与を完全に公開することも可能でしょう。これをすれば、実態を知らせる効果はあるでしょう。校長は、みな、1000万を超える年俸をとっていることすら知らない人もいるようですから。

 正規の教師の給与は高すぎます。特に管理職の給与は高すぎます。逆に、今や全教師の4分の1くらいを占めるようになったと言われている非正規教師の待遇は悪すぎます。これを平等にして、教師の数を増やすべきでしょう。

 まあ、教育改革は難しいです。誰が知事になったとしても、改革するには「本当の情報公開」が第1の仕事でしょう。しかし、その「本当の情報公開」とは何か、これが理解されていないようです。事態はかくも深刻なのです。

付記

教育行政の世界がどれほど腐っているかを知りたい方は、「教員人事の真実」をどうぞ。大分県で教員採用試験や幹部人事で不正があったとして、刑事事件にまでなりましたが、あれで逮捕された人たちは、多分、「どこでもやってるのに、自分は運が悪かったな」と思っていることでしょう。

     関連項目

文部官僚
小中高の生徒数
学校HPに載せるべき事項
教育長は何をしているか
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『辞書で読むドイツ語』(増補版)

2009年05月30日 | サ行
 牧野 紀之著、未知谷、2005年11月(初版)、2009年05月(増補版)
 四六判上製、 274頁、定価2730円(本体2600円+税 130円)
 ISBN978-4-89642-270-2

 日本における外国語教育(学習)については、「中学高校と9年間も英語を習ったのに話せない」といったことが言われます。これはその通りだと思います。ヨーロッパでは大学に入る段階でほとんどの人が英語は話せるようです。

 この点はよく知られていますので繰り返しません。対策として、小学校時代から英語を教えるのが正しいかには疑念があります。しかし、これは論じません。

 ここで言いたい事は、そのほかの大きな欠点として、「日本の」と言わず、多分、世界の言語学習に共通しているだろうと推定される点として、①文法が初等文法しか教えないこと、②言葉を研究する方法を教えておらず、その練習が為されていないこと、③母語との比較、ないし母語の文法的反省が少ないこと、の3点があると思います。

 なぜそうなるかと考えて見ますと、文法を研究している教師が少なく、水準の低いことが考えられます。例えば、相対的にはレベルの高いと言えるNHKのラジオドイツ語講座の中級(応用)篇の「中級文法」とされていることでも、実際は初等文法の上でしかありません。

 真の意味で中級文法以上のことを教えているのは、私の知る限りでは、関口文法だけです。これが言いすぎなら、「中級文法以上」ではなく、「高等文法以上」としてもいいです。

 本書も内容的には関口文法の受け売りです。ただ、その整理の仕方を変えて使い易くしただけです。文法を「理解文法」と「表現文法」に分けたものは初めてかもしれません。

 今回の増補版では、「第3部・読本」を入れて、2編の独文を載せました。1はシラーの「人質」を関口氏がリライトしたものです。シラーの原詩から太宰治が「走れメロス」を創作したのは有名です。

 2は「電話ボックスの中で」です。これには「文法的読解のためのヒント」をかなり書きました。文字通り、テキストを文法的に読むとはどういうことかを考えるのに役立つでしょう。

 そのほかに、母語の文法的知識の必要性の具体例も挙げています。

       目次

まえがき
 プロローグ・日本語になったドイツ語

        第1部 理 解 文 法

第1章 声に出して読む
第2章 格変化は英語にもある
第3章 「3単現」とは人称変化のことだった
第4章 名詞の変化はやさしい
第5章 呼吸を整える
 付録1・ドイツ語の位置
付録2・ドイツ語の歴史

第6章 動詞の原理は英語と同じ
第7章 ドイツ語を分析して読む
第8章 形容詞の格変化は「無し強・定弱・不定混合」
第9章 英語の前置詞も格支配している
第10章 副詞は形容詞と同形
 付録3・言葉の研究は用例集めから始まる

第11章 ドイツ語では werden 動詞が大活躍
第12章 分離動詞がドイツ文の骨格をなす
第13章 接続詞は定形の位置に影響する
第14章 関係代名詞も英語と同じ
第15章 文章を読んでみよう
第16章 es と dasの用法
 付録4・教科通信とメーリケの詩

第17章 冠詞と冠飾句
 付録5・「山のあなた」
第18章 接続法第1式の形と用法
第19章 接続法第2式の形と用法

        第2部 表 現 文 法

第20章 疑問文
第21章 伝達文
第22章 直前の過去の表現

        第3部 読  本

1、Die Buergschaft(人質)
2、In der Telefonzelle(電話ボックスの中で)

 エピローグ・ドイツ語における「指向性」と日本語における「響き」
   第1節 ソシュールの言語論
  第2節 言語による対象分割は完全に自由か
  第3節 言語表現と考え方

          関連項目

『辞書で読むドイツ語』のサポート

『辞書で読むドイツ語』のレビュー

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議論の認識論

2009年05月28日 | カ行
 普通「認識論」というと「個人の認識」を問題にしています。しかし、議論を「集団的認識」と考えると、それと区別して「個人的認識論』と名付ける必要があるでしょう。ともかく、一人で考える個人的思考ではなく、集団的思考としての議論を認識論的に整理してみたいと思います。

 人間は客観的真理を認識できるか。これは認識論の根本問題の1つです。できないとする不可知論ないし懐疑論の立場に対して、私は「出来る」とする合理論の立場に立ちます。これは今は論じません。前提します。

 しかし、人間はいっぺんにその真理に到達することはできません。人間の認識には歴史的制約と個人的制約とがあります。つまり、所与の時点における特定の認識はいつも有限であり、多かれ少なかれ間違いを含んでいます。完全無欠ということはありえません。

 ここから第1の結論が出てきます。議論で勝った方が正しいとは限らない、ということです。そして、行動規範が出てきます。「相手を言い負かすことを目的としてはならない」です。あるいは、「相手を言い負かそうとするな」です。そして、「自分の考えを主張して相手を負かせたいなら、行動で主張せよ」です。

 多くの人は相手を言い負かそうとしています。これが議論における最大の根本的な間違いでしょう。そして、実際には議論で勝つのは真理ではなくて、口がうまくて押しの強い人ですから、多くの人は「議論なんて嫌だ」という感想を持ち、議論を避けるようになるのです。

 では、議論で勝った方が正しいとは限らないとするならば、どうしたらいいのでしょうか。議論の目的は「お互いに、自分の考えを自分にはっきりさせ、それを契機にして更に反省を深め、自分の考えを発展させること」です。この目的をしっかり自覚すれば好いのです。

 私は、ブログを発表する場合でも授業で話をする場合でも、事前にかなり考え、メモを取り、推敲してからにしているのですが、それでも、発表したり話したりした後で、また新しいことに気づくことがよくあります。人と議論した場合はなおさらです。多分、外に出すことで自分を客観視できるようになるからでしょう。

 私は俳句をやりませんが、聞いた話では、俳句の上達の秘訣は「人に見せる」ことだそうです。これも、多分、同じ事なのでしょう。

 しかし、実際には、これでは済まない場合もあります。組織として、あるいは互いの間で何らかの結論を出さなければならない場合もあります。その時はどうしたら好いでしょうか。

 その組織のルールに従って決めればいいでしょう。議論はきちんと行い、記録を残しておくことです。そして、関係する事態が一段落した時点で反省して、どの意見が正しかったか、考えればいいと思います。もちろん、この場合でも、その反省時点での「相対的な真偽」しか分からないことは自覚しておくべきです。その後、再度新しいことが判明するかもしれませんから。

 さて、このように大きな枠組みを確認しますと、第2に問題になることは、議論の方法です。議論の目的が上記の通りだとするならば、その目的をより良く実現する方法を追求するべきです。

 学校での議論などを振り返ってみればすぐに分かりますように、一部の人しか発言しない、という問題があります。これでは、発言しない人の自己反省は深まりません。外国の学校では多くの人が手を挙げて発言すると言われていますが、全員ではありません。任意の団体でもこの現象は見られます。どうしたら好いでしょうか。

 1つの方法は、書き言葉を使うことです。紙などに書いて意見を出す方法も大切だということです。アンケートを取るとか、機関紙を出すとかです。この方法では、それをまとめる人(たいてい先生とか幹部)の負担が大変ですが、或る程度は仕方のないことです。仕事なのですから。また、最近はネットも発達していますから、コピペ(コピーして貼り付ける)で編集することもできます。

 もう1つは、会議や話し合いにおける司会技術の重要性です。学校では司会者が発言者を指名する機械に成り下がっていますが、それではいけません。議論を整理したり、態度の悪い人に注意したりするのは司会者の権利であり、義務でもあります。本当の司会技術を学ぶべきです。

 いずれにせよ、人間は議論を通して成長するのですから、参加者全員が成長する本当の議論の方法は何か。これを繰り返し反省することが大切です。それは、学問の方法についての反省が大切なのと同じです。これには終わりはないでしょう。

 第3に、と言うより、最後になってしまいましたが、議論を考える際の最大の問題は議論する人同士の上下関係でしょう。対等でない間柄での議論とは、例えば先生と生徒とか、専門家と素人とか、上級者と下級者とか、親と子とかの間での議論です。

 これについては、「対等な関係でなければ議論をしてはならない」というのが原則でしょう。なぜなら、対等でない間柄で議論をするのは、卑劣な人にのみ有利だからです。

 この原則は、必ずしもご理解いただけないかもしれません。一般には、深く考えないで、「誰とでも議論できるのが正しい」と信じられているからです。この誤解は、「議論」を「話し合うこと一般」と混同していることが原因です。両者は分けるべきでしょう。議論は「真偽を争う」ことで、話し合いはもっと広い概念です。

 上下関係のある間柄では「議論」はしてはなりませんが、「話し合う」ことは必要です。この場合はその話し合いは、テーマによって更に2つに分かれます。そのテーマが「態度」ないし「やり方」に関する議論か、それとも特定の内容についての話し合いか、です。分かりやすく、形式についての話し合いか、内容についての話し合いか、と言うことにしましょう。実際には、両者は絡み合っていることが多いと思います。しかし、一応は分けて考えます。

 さて、上下の関係が前提されている場合は、そこに最低の「尊敬と信頼の関係」がなければ形だけの上下関係になります。前者の場合(態度ややり方が問題になる時)はこの前提が問題になっているわけですから、当事者同士で話し合うのは難しいでしょう。と言うより、原理的に間違いでしょう。これは両者の上に立つ人か第3者の出番です。あるいは、関係を断つしかないこともあります。

 学校や大学での授業に対する不満の場合を考えてみると分かりやすいでしょう。最近は授業アンケートを取る所が多くなりましたが、これには問題があります。塾や予備校では経営主体がアンケートを取って、それに基づいて、講師と話し合う所が多いと思います。これなら適当でしょう。講師と話し合わないでアンケートを絶対視する経営者は不見識です。講師の言い分も聞くべきです。

 しかし、学校では多くの場合、匿名で自由記述のアンケートを取り、そのまま講師に渡して、「返事をしろ」とか「話し合え」と言います。これはトップの責任放棄でしょう。それなのにこれが理解されていません。かつて朝日新聞紙上で大学での「授業アンケート」にまつわる問題点を指摘した教授とそれに反論した学生がいましたが、両者ともに、学長のリーダーシップに気づかないお粗末意見でした。

 私見では、統計処理する場合は無記名で好いが、自由記述なら記名にするべきです。そして、私が実行しているように、「『この授業が根本的に不適当だ』と思うなら、それは大学(学長)に言ってほしい。『根本的には適当だが、部分的に改善してほしい』という場合だけ私に直接言ってくれ」とするべきでしょう。

 念のため注しておきますと、こういう態度の問題、やり方の問題では、上に立つ人に問題のある場合が多いですが、「下に立つ者の態度」に問題のある場合もあります。ヘーゲルは、「哲学以外の分野では、それぞれの問題について発言するにはそれについて勉強しておかなければならないと知られているが、哲学についてだけは誰でも勝手に発言して好いと思い込んでいる人が多い」、と歎いています。

 さて、後者の場合、つまり上下の違いのある間柄で「内容」についての話し合い、つまり例えば講師の教えた理論が学問的に正しいかといったことを話し合う時にはどういう問題があるでしょうか。

 この場合にはとかく、「上に立つ人」が自分の立場を悪用して自説を押し通そうとする間違いがあります。しかし、こうなると、「態度の問題」になってしまいます。これはすでに論じました。

 逆に、「アメリカに行ったら、偉い先生から、学問では君と僕とは対等だから、自由に議論してくれと言われた」という話もよく聞きます。これはどこまで本当か分かりませんが、本当だとしても、正しくないと思います。

 下に立つ人は、上の人に対して、「教えを受ける」という態度で質問するべきでしょう。そして、自分の発言に対する相手の反応を見て、その人が本当に尊敬に値するか、考え直せばいいと思います。尊敬できなくなったら、その人のもとを去るべきでしょう。そして、議論したければ、「対等の立場で」すればいいと思います。

 内容に関する議論では、最初に確認しましたように、理由の如何にかかわらず勝った方が正しいとは限らない、ということです。ですから、互いの意見を出し合ったら終わりにすればいいと思います。授業などでは先生の考えを採用して先へ進めばいいでしょう。それは、「先生の意見が正しいから」ではありません。授業というものは先生の考えで進めるものだからです。
規律の問題と真偽の問題を混同してはいけません。

 私が多くの間違いを通して得た教訓(まだ完全には実行できていない教訓でもあります)は次の通りです。「上に立つ者は、下の人の意見に対して、原則として、その場では反論してはならない。ひたすら好く聞くことに徹するべきである。そして、その真意を好く考えた上で、時間をおいてから、言葉で返事をするか態度で返事をするか選ぶと好い」です。

 特に、子供に対してはこういう態度を取りたいと思っています。最近は学問のある母親が多いですから、子供と「話し合って」、というより「論争をして」、子供を言い負かす母親も少なくないようです。そして、これが「民主的な親」だと思い込んでいるようです。これは間違いです。

 「反論しよう」と思って聞いていると、冷静に客観的に聞けないということが第1の理由ですが、第2に、それ以上に、子どもの場合は特に、親が「反論しよう」と思って聞いていると、それが伝わってしまって、「お母(父)さんは僕の(私の)話を聞いてくれない」という印象を持ってしまって、だんだんお母(父)さんと話したくないという気持ちになってしまうのです。

 最後の最後に、「役人との議論は無意味だ」ということを書きます。これは、行政と関わることが多くなった最近、気づいたことです。特に幹部はごまかすことしか考えていないと思います。身分が安泰で給与に無関係なら、彼らは何も考えないようです。「生きた屍」という感じです。主体性ゼロです。話し合う意味がありません。これを変えるには、トップを本当の市民派に代えるしかないと思います。

     参考項目


内容を生み出す形式(2018年09月07日
教師の間違いをどうするか(2008年07月30日
議論のない教育(2018年09月10日

話し合いのない社会(2009年05月30日
議論は真理にとってのみ有利である(2005年07月30日
論争的報道番組のあり方(2005年06月12日
独断論と不可知論(2018年09月06日
ラウンド制(2018年09月05日

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「大学ランキング」の感想

2009年05月21日 | タ行
 「大学ランキング」(2010年版。朝日新聞出版)を読んだ感想を箇条書きにまとめます。全体として、久しぶりに読んで、啓発された点も多く、評価していますが、改善してほしい点だけを挙げます。

 ① 学長のリーダーシップが大切だと何人もの人が述べているのに、「学長力ランキング」が1つもないのはおかしいと思います。どうやってそれを判断するのか、難しいですが、ここに出ているランキングがすべて、難しいのに工夫をしていろいろな角度からのランキングでそれを試みているのですから、学長についてそれをしないのは、「避けている」という感じを与えます。画竜点睛を欠いています。

 ② 職員力が本年度の大きなテーマになっているのに、第2部の「大学ガイド」のデータの中に「職員数」がないのはおかしいと思います。88頁で「大学ランキング」編集長が「大学の基本データ」として「学生数」と「教員数」としかあげていない点に職員無視がよく出ています。89頁には「事務職員数」もありますが。

 ③ ついでに、ホームページで公開すべき「基本情報」として、89頁の「大学基礎データ」と「学部データ」を考えているとしたら、間違いだと思います。一番重要な事がおちています。それは、「教員の研究業績、授業、社会活動、学内業務」を公開するということであり、しかもその情報を「トップページから入りやすい所に、あいうえお順に並べるのはもちろん、それ以外の分類法でも多面的に公開する」ということです。この編集長はあまりにも「数字」に目が行き過ぎていると思います。

 ちなみに、大学のホームページは学長の頭の中を公開したものだと思いますが、お粗末なものがほとんどです。東大のホームページには「学生の作ったホームページ」とかいうのもありますが、批判精神ゼロの御用ホームページで、東大の教育とはこんな人間を作るのか、とがっかりしました。

 ④ もうひとつ重要な「基礎情報」としては、「製造物責任」があると思います。加藤寛氏が千葉商科大学の学長になったとき、「大学も製造物責任がある」とか言って、「簿記2級(?)、英検2級(?)」のほかにもう1つ何かあったと思いますが、それを明示しました。そして、企業に対して、「自分の大学の卒業生がこの基準をクリアしていないことが分かったら、送り返してくれ、教育をし直す」と公約したと記憶しています。これも「大学ガイド」に記載するべきです。

 ⑤ 教員について、正教員しか見ていないのも不十分だと思います。最近は非常勤講師の絶対数は減ってきているようですが、非正規教員の割合と(劣悪な)待遇を明らかにすることも大切です。このことは、職員の情報も載せるなら非正規職員についても言えると思います。

 ⑥ 金沢工業大学では学生の代表者が経営にも参加しているとか聞きましたが、その点も取り上げてほしいです。

 ⑦ 「コンテスト入賞ランキング」にはスピーチコンテストも入れてほしいと思います。

 ⑧ 154頁で宮台真司は「春・夏・冬には2泊3日のゼミ合宿もしている」と述べています。ほかにもゼミ合宿をしている人はかなりいるようです。これの統計も面白いでしょうが、「教科通信」を発行している授業数の統計も面白いでしょう。私の知っている限りでは3人です(法政大学の尾木直樹氏、山口大学の村上林造氏、私)が。

 やはり最も感心した点も1つくらいは書いておくべきでしょう。それは、「教育付加価値日本1」を目標にしている(事実、そうなっている)金沢工業大学の学長が、就職支援の項目を書いていることです。題して、進路指導は「教育の一環」。その内容も、学長がここまで知っているのかと感心します。

(これは、出版元の朝日新聞出版の編集部に送ったものとほぼ同じです)
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社会企業家

2009年05月20日 | サ行
 もうけ第一、成長優先でやってきたひずみが社会のあちこちに出ている。しかし、それを是正すべき行政はお役所仕事で非効率だし、しゃくし定規でかゆいところに手が届かない。

 そんな問題を解決しようと試みているのが、社会起業家とか社会的企業と呼ばれる存在である。

 欧米では1980年代から始まっていた。世界を股にかけ、貧困や戦争被害などに取り組んでいる。バングラデシュで貧しい女性に少額のお金を融資して自立を促すグラミン銀行がノーベル平和賞を受け、社会起業家の存在が広く知られるようになった。日本でも、そんな取り組みが広がってきた。

 全国の保育所2万9000ヵ所のうち、子どもが病気になったときでも預かってくれるのは600ほどしかない。親は仕事を休まざるを得なくなる。そうした悩みに的をしばっているのが、駒崎弘樹さん(29)が始めた東京のNPO「フローレンス」だ。

 病気になった子の家ヘスタップが行って面倒をみる会員制のサービスを、東京23区内で展開している。補助金を一切受けなくても成り立つようにしている。近く大阪のグループにもノウハウを伝え、サービスが始まる。

 福祉のような仕事を、企業らしい創意工夫や効率のよさで採算ベースにのせるのが、社会起業家の新しい点だ。採算にのるから事業を広げやすく、サービスを受けられる人も増える。

 会社組織のものは、社会貢献と事業の両立をさらに積極的に狙っている。例えば佐藤崇弘さん(29)が経営する仙古市の株式会社「ウイングル」。

 企業には障害者を一定比率で雇う法的義務があるが、達成に苦しむ大企業が多い。そこで、大企業の本社と通信回線で結んだ事務所を地方に用意して、地元の障害者を大企業の社員として雇い、回線を通じて大企業の仕事をしてもらう。そんな事業だ。

 地方の拠点を増やす一方、障害が重い人の雇用にも挑戦する。大都市圏と地方、健常者と障害者。それぞれの距離を縮めることが収益源だ。

 日本資本主義の父、渋沢栄一は「論語と算盤(そろばん)」を人に説いた。事業採算と社会貢献を両立させる考え方は、日本に古くからあった。

 一般の企業が社会的事業を手がける例もある。ブルドーザーの販売・修理をする山梨日立建機は、地雷除去機を自力で開発し、10年ほど前から世界へ供給している。社長の雨宮清さん(62)が営業先のカンボジアで、おばあさんから「私たちの国を地雷から救って」と訴えられたのがきっかけだ。開発に5年かかり、昨年度には除去機の事業が初めて黒字になった。

 いきなり社会起業家になるのは難しい。夢や善意や忍耐だけでは務まらない。NPOは全国に3万6000以上あるが、採算がとれているものは少ない。

 でも、ふつうに働きながら、少しは世の中のお役に立つ。そんな生き方ができないものだろうか。

 「スーツを着ながらでも世の中は変えられる」を合言葉に、外資系証券会社のサラリーマン、慎泰俊(しんてい・しゅん)さん(27)が始めた「リビング・イン・ピース」はそんな試みのひとつだ。

 金融機関などに勤める男女100人余りの若者が、仕事の経験を生かして、カンボジアにあるグラミン銀行のような組織へ資金を貸し出す日本初のファンドをつくろうとしている。この春にNPOにしたが、固定した組織や事務所はない。週末に集まって運営するパートタイムの社会起業家だ。

 会社の外ではなく、本業の中にも社会貢献の側面は多かれ少なかれある。そこに働きがいを感じる人々も多くなっていくのではないだろうか。

 会社の周辺に社会貢献できる問題を見つけ、事業に取り込む。そこで大事なのは、問題を発見し、解決する能力だ。こうした力は、あらゆる職場で求められている。働きながらスキルを磨き、人脈を増やしてから、いずれ起業するのもいいだろう。

 若者の間には、競争に明け暮れる社会から逃れたいという意識もあろう。それでも、社会起業家の出現は社会の「復元力」の表れだと考えたい。彼らは日本が築き上げた豊かさの申し子なのだ。

 戦後の成長を支えたのは、企業社会にどっぷりつかった「会社人間」だった。それが崩れて久しい。新しい生き方・働き方が育つよう応援したい。

 社会起業家が必ずといっていいほど苦労するのが、行政の無理解だ。貧しい人を食いものにするような「貧困ビジネス」が増え、まともな社会的企業との区別が難しい事情もあるだろう。

 しかし、彼らを行政の縄張りを荒らす侵入者とみる傾向が根強いからでもある。そうではなく、行政の手の届かない問題を効率よく解決するパートナーとして受け入れ、いまある制度や規制の問題点を洗い出し、改革する力を生かさなければいけない。

 既成の枠組みに守られた人々は、この新参者を排除せず、むしろ自分たちも変わっていく契機にしてほしい。

 物質的には世界有数の豊かさを獲得した日本で、さまざまなシステムが制度疲労を起こしている。それを解決し次の経済社会の姿を見つけることが、本当の豊かさにつながるはずだ。

 (朝日社説、2009年05月11日)
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決める

2009年05月19日 | カ行
 新型インフルエンザが大問題になっている時に不謹慎ですが、私は「決める」「決定する」と助詞の使い方を考えました。と言うのも、報道に接していますと、「○○県は県立高校の休校を決定しました」「~を決めました」と、「を」ばかりが使われているからです。「に」や「と」はなぜ使われないのでしょうか。

 まず、この3つの助詞の使用例で、新明解国語辞典と学研の国語大辞典と教育社の現代国語用例辞典に上がっているものを整理してみました。

A・~を決める 
行くか行かないかを決める、人に好い悪いを決めてもらっても、黒白を決める。
 規則を決める、責任者を決める、予定を決める、置き場所を決める、順序を決める、態度を決める、じゃんけんで鬼を決める、話を決める、勝負を決める。

B・~に決める
 A大学に決める、あの人に決める、父は酒は日本酒に決めている。

C・~と決める
 終の棲家と決める、昼はパンと決めている、帰ってくるものと決めてかかる。
休みの日は家にいて、自分で遊ぶものと決めている。生きたまま描かなくなった画家は、ダメで描かなくなったと決めて無視する。

 このように整理すると、「~を決める」ではその「~」はテーマや問題を表しているのではないかと思われます。その答えを考えてみますと、「行くか行かないか」ならば、「行くに決める」か「行くと決める」のどちらかで、「行くを決める」はおかしいと思います。「好い悪い」ならば、「好いと決める」だと思います。

 つまり、決定した事柄自体を表すには「~に決める」か「~と決める」だと思います。最初に問題にしました、「○○県は県立高校の休校を決定しました」がどことなく変に感じられるのは、結論を「を」で表しているからだと思います。もっともここの「を」をそのまま「に」や「と」には代えられませんから、代えるなら「県立高校を休校することに(または、と)決めました」でしょう。

では最後に、「~に決める」と「~と決める」とはどう違うのでしょうか。まず「~に決める」から考えますと、この「に」は「到達点の『に』」だと思います。

新明解は、「に」の最初の2つの意味として、次のように書いています。

① 動作・作用を受けた結果、その事物の存在する場所を表す。「自動車が門の前に止まっている」「バスに乗る」

② 変化の結果、生じたものであることを表す。「信号が赤に変わる」「水が湯になる」

 私は、この2つをまとめて、「到達点の『に』」と言えるのではないかと思います。つまり、動作や変化の到達点を表すということです。そうしますと、この「~に決める」は、考えや議論が紆余曲折を経て最後に「~に到達した」ということなのだと思います。

 では、「~と決める」はどうかと言いますと、それは、「~と言う」「~と思う」の「と」だと思います。つまり、「と」の前の句は引用文みたいなものなのです。「昼はパンと決めている」ということは、「『昼はパン』と決めている」、なのです。

 この引用符号で囲ったような感じ、地の文とは同じものではないということがこれの本質だと思います。関口存男(つぎお)さんはこれを「掲称」とか「掲称的語局」と言いました。高く掲げたような「文としての語句」なのです。要するに、「おーい、~と決まったぞ!」と触れまわるような感じなのでしょう。

 従って、「~に決める」は、決定内容を表現するのですが、その表現の仕方が掲称的でなく、客観的だということになるのだと思います。

  「~を決める」の最近の用例

 01、エンデバーの打ち上げを1日延期し、12日に打ち上げることを決めた。(読売、2009年07月12日)
 02、柳ケ浦高校野球部の生徒らが乗った大型バスが横転し、1人が死亡、42人が負傷した事故で、同校は12日午後、PTA臨時総会を開き、事故の経緯などを説明した上で、保護者らの意見を踏まえ、全国高校野球選手権大分大会に出場することを決めた。(時事通信、2009年07月12日)
 03、民主党は~原案の「12年度」から「11年度」に前倒しする方針を決めた。(朝日、2009年07月23日)

     「~を決める」の正統的用例

 01、両家のあいだで話がまとまって、あとは来年年明け早々の祝言の段取りを決めるばかりというころになって(宮部みゆき「居眠り心中」)
 02、次に読む本を、すでにさよは決めている。(川上弘美「七夜物語」)
 03、「何を決めるか、を決めること」が最高裁の重要な仕事で、それは国がどのような法的議論をすべきかを決定することでもある。(朝日新聞Globe、2009年11月02日)

PS・「進出を決定した」

 最近好く、「ヤンキースがリーグ優勝決定戦への進出を決定した」といった表現を耳にします。これは「進出に決定した」とも「進出と決定した」とも言えないと思います。多分、本来は「進出を果たした」と言うべきところが「決定した」と言うようになってしまったのだと思います。(2009年10月15日)

  「~に決める」の用例

 01、こう云ってその日は墓参ということにきめた。(山本周五郎「糸車」)
 02. どうして旅を中止できようか。私は[日本へ行く]代わりに北京へ行くことに決めた。(ドウス昌代「宿命の越境者」)

「~と決める」の用例

 01、友達の親切な助言にまかせて、岸本は八戸行と決定した。(藤村「春」)


    関連項目


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お知らせ

2009年05月18日 | 読者へ
 「マキペディア」の総目次というブログを作りました。

 gooブログでは1つの記事が1万字までですので、困っていました。はまぞうブログは無限(?)のようですので、これを利用することで解決しました。

 今後もよろしく。

 2009年05月18日、牧野 紀之
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共和制

2009年05月18日 | カ行
 〔古代中国で〕周王に対抗して貴族が王を都から追放するというクーデター事件が起こった。王は他国に亡命し、それ以降、共伯和(きょうはくわ)という人物を中心とする貴族たちが政権を担当した。そこからこの時代を「共和時代」と呼ぶ。

 国家の主権を1人の王が握るのでなく、合議制の最高権力機関が政治をおこなうことを共和制と呼ぶのは、この周の共和時代に由来する。
 (阿辻哲次「漢字の文化史」ちくま学芸文庫89頁)
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ソマリア海賊

2009年05月15日 | サ行
     失敗国家の再建にも目を

 アフリカのソマリア周辺海域に出没する海賊をどうすれば根絶できるのか。日本をはじめ各国が艦艇を派遣して商船を警護しているが、とても手が回らない。結局、ソマリア国内の騒乱を治め、まともな政府をつくって取り締まらせるしかない。国際社会の関心がようやくそこに向いてきた。

 「アフリカの角」と呼ばれる位置にあるソマリアは、スエズ運河で中東、アジアと欧州とを結ぶ重要な航路に面している。冷戦時代、米ソが影響力を競い、隣国エチオピアとの武力対立は米ソの代理戦争でもあった。

 皮肉なことに、米ソ冷戦が終わった後の1991年、20年以上続いた軍事政権が崩壊し、氏族ごとに武装した勢力が割拠する無政府状態となった。

 国際社会がまったく手をこまぬいていたわけではない。積極的に平和を創造するのも国連の役割だという、冷戦後の野心的な構想を担って1992年、米軍が国連平和維持軍として投入された。

 だが、武装勢力の反撃は激しく、米兵の遺体が無残に引き回される衝撃的な映像が世界に報じられ、撤収に追い込まれた。それ以来、ソマリアは米国だけでなく世界の多くにとって、見捨てられた存在となり、現在に至る。

 海賊問題は、そこの無法状態が海にあふれ出てきた結果である。

 それでも4年前、国連や周辺諸国の仲介で「暫定連邦政府」ができた。反政府勢力の一部と和解し、今年、新しい大統領と首相、内閣が生まれた。

 この政府が支配するのは、首都モガディシオの一部でしかなく、それもアフリカ連合の平和維持部隊の支援を受けての話だ。武装勢力による攻撃や国連職員の誘拐も続き、海賊を取り締まれるような力はない。

 人口の4割にあたる320万人が国連などの食料援助に依存し、国内に130万人の避難民がいる。国外でも40万人の難民が暮らしている。

 暫定政府がまったく頼りなく、小さな芽に過ぎないのは確かだが、それを育てていくしかない。国連主催で今月(2009年04月)ソマリア支援国会合が開かれたのは、そんな考え方からだ。日本を含め多数の国々が参加し、警察の育成などで計250億円の支援が約束された。

 国連安保理は06月までに、ソマリア向け国連PKO(平和維持活動)の設置を検討することになっている。

 国際社会はまず、ソマリアの現状にもっと関心を持たねばならない。その点で中曽根外相が先月、ソマリア暫定政府の閣僚と会って意見を交わしたのは意味のある一歩だ。

 海上自衛隊の派遣をめぐる海賊新法の議論は、参院に舞台を移した。武器使用基準や国会承認の詰めなども大事だが、海賊をそもそも出さなくするためのソマリア支援といった大きな構図の論議がもっと必要ではないか。
 (朝日、2009年04月28日、社説)
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バカンス法(経済再生に価値観の転換を)

2009年05月09日 | ハ行
                  田中一彦(広告制作会社役員)

 不況脱出にと、政府は財政支出15兆円、過去最大の追加経済対策を打ち出した。だがばらまきと疑われる項目や、大半の財源が借金という問題も指摘され、そのツケはいずれ国民が負わねばならない。

 そこで、今こそ日本は欧州流のバカンス法、あるいは国際労働機関(ILO)132号条約の批准を実現すべきではないか。税金を使わずに景気回復を図ることができ、しかも失業を減らすと同時に、労働者に自由な時間を楽しむ機会を与える絶好の方法ではないかと思えるのだ。

 フランスでバカンス(年間有給休暇)法が導入されたのは1936年、第2次大戦前のヒトラー台頭の時代、それは、まさに不況脱出、雇用回復を目的に制定された。世界恐慌の後遺症を脱せず、厳しい不況下にあって、ブルム内閣は年2週間の有給休暇を制度化した。ワークシェアリングで失業を防ぎ、観光によって消費増大を図る。バカンス法が経済回復に一定の役割を果たしたとされている。

 当時の米国は、ルーズベルト大統領の、公共事業を軸としたニューディール政策。フランスの景気回復策と好対照だ。時代背景の違い、政策の成否には両論あろうが、ここは一つ、オバマ大統領の「緑のニューディール」の向こうを張って日本版バカンス法を実現してはどうだろう。

 国土交通省などで構成する委員会が2002年にまとめた報告書がある。「年次有給休暇を完全消化したら」を前提に試算すると、経済波及効果は合計11兆8000億円、雇用創出効果は148万人という結果が出たのだ。当時の有給休暇の平均付与日数は約18日で、取得日数は約9日。この傾向は現在もほぼ変わりない。これを正規雇用者総数に掛けると、年間約4億日に相当するという。4億日という自由時間の一部が消費に回り、地域活動などに投資されることで、大きな経済効果が発生するというわけである。

 例えば欧州では、連続休暇を利用して農山漁村に民泊し、自然や文化交流を楽しむグリーンツーリズムが盛んだ。先進地のドイツ、フランスを10年以上にわたって研修
のために訪問している大分県宇佐市のNPO法人安心院(あじむ)町グリーンツーリズム研究会の宮田静一会長は「日本の農業を支え、グリーンツーリズムを本物にするためにも、ぜひバカンス法を実現して欲しい」と訴えている。

 不況、貧困拡大、将来不安の時代に突拍子もない、との批判も聞こえてきそうだ。だが、バカンス法はただ単に経済的な効果だけのためではない。国民が等しく享受できる時間的な豊かさこそ求められているのではないか。そうした価値観の転換こそ現代日本の閉塞感を打破する喫緊のテーマではないだろうか。

 (朝日、2009年04月26日)

     感想

 日本の大きな課題の1つが「労働時間の短縮」であることは間違いないと思います。それは経済的にも成り立つということでしょう。
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知事選の争点(その9、介護問題)

2009年05月07日 | カ行
 介護問題については、根本的には、医師不足対策と同じだと思います。つまり、介護を必要とする人の力を高めて、その介護必要度を下げるのが「主」で、介護者の問題は「従」だということです。予防は治療に勝る。

 しかし、「従」である介護者の問題も大問題ですから、先に述べます。そこで問題になっていることは、介護職員の数が絶対的に不足していることと、その最大の原因が待遇の劣悪さであることです。

 これは広く知られていますし、対策も徐々に取られているようですが、それを考えるための大前提である情報公開が不十分だと思います。つまり、介護者の労働時間と給料(年間の実際の全収入)を、それぞれの組織ごとに発表するべきです。

 同時に、介護者と比較してよいと思われる公務員、勤務医師、看護師、更に学校教師についても、鹿児島県阿久根市のような形で発表するべきだと思います。こうして初めて、それぞれの給料はどの程度が適正かを議論できるようになると思います。

 さて、「主」たる問題の要介護者の力の向上ですが、これも人によって違い、全体として、裕福な人は強く、それ以外の人は弱い、と思います。そこで、後者を念頭において対策を提案します。

 一般的に言って、個人の自立力を高めるものは、主として、自分の仕事が評価されて収入に結びつくことと、異性との良好な関係の2つでしょう。ですから、この2つを考えればいいと思います。

 前者の工夫で要介護者の力を高めていることで有名なのは、山口県の防府市のデイサービスセンター「夢のみずうみ村」だと思います。そこでは、職員が「してあげる」ことはなるべく少なくして、自立力を高めているそうです。建物の作りは「バリアフリー」ではなく「バリアアリー(有り)」だそうです。食事はバイキング方式で、危ないときだけ職員が助けるそうです。

 そして、障害を持った方でもそれを克服してかつての仕事が出来るように工夫をし、場合によっては村のサービスメニューを担当してバイト料をもらい、従業員になった人もいるそうです。又、自立して自営を再開した人もいるとか。

 ホスピスでも、互いに助け合い、手伝いあうようにしているところもあるそうです。介護関係の施設はこうあるべきだと思います。公的な施設はその模範を示すべきでしょう。

 もう1つの「異性との交わりでの喜び」も大切です。こういう事を公然と主張する人は少ないでしょうが、多くの人は気付いています。渡辺淳一はこれを小説「エ・アロール」で詳しく描きました。これはテレビドラマにもなったはずです。

 この小説の舞台は東京の銀座にある有料老人ホームですが、ここに出てくる人々は、経済的にも能力的にもとても恵まれた人たちです。ですから、何千万円もの金を払ってそこに入っているのです。そして、この小説の第1話は、デリヘル嬢とたわむれている最中に心臓発作か何かで死ぬ人の話です。

 私の言いたい事は、これらの人は自分でそのような風俗店を利用して「性の喜び」を享受し、「生きがい」をもって人生の最後を送っているのですが、自力ではそういう事の出来ない人々にも、施設の側の援助でそれが可能なようにするべきだ、ということです。

 もう一歩具体的に言いますと、施設の側で風俗店と協議して合意事項にまとめ、「普通の老人ホーム入居者」や「デイサービス利用者」でも、希望者には、性の喜びを味わえるようにするべきだ、ということです。「エ・アロール」では入居者達が自分で日活ロマンポルノの上映会を企画・実行する話が出てきますが、これ位の事も当然でしょう。それ以外でも、異性との様々な交わりを可能にする工夫をするべきです。

 こうした仕事や異性との関係で生きがいが大きくなれば、要介護度は下がると思います(老人ホームの風呂を西式温冷浴のできるようにするのは当然)。それが全体として1割下がっただけでも、介護のための予算は大いに助かるでしょう。

 もちろん、根本的には、仕事と生活とのバランスの取れた社会にすることでしょう。年金を充実させることも大切でしょう。が、それより前にも出来る政策として、こういう「生きがい」増進政策も意義があると思います。

 最後に、先日の群馬県の無認可施設「たまゆら」の火災で10人の高齢者が亡くなったことに触れます。これは、直接的には、小泉改革の一環で病院での「社会的入院」ができなくなったことが原因で、行き場、ないし行かせ場のなくなった行政が、こういう施設を利用せざるをえなくなったということでしょう。日本の福祉もここまで来たか、と暗澹たる思いです。

 これを解決するのは、元の社会的入院を復活させることではないでしょう。もう、根本的解決、つまり社会保障制度全体の組み換え以外にないと思います。

 そのためにも「全てを開示すること」です。今こそ「学問とは、個別的事実で満足するものではなく、全体的真実を追究するものである」ということの実行が求められていると思います。

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給与(04、公務員の給与、鹿児島県阿久根市の場合)

2009年05月04日 | カ行
順番、身分、給料、 諸手当、 時間外、期末、 年収、   共済費、 経費合計

01位、医師、651万、1629万4568、0、305万5466、2586万0034、182万2168、2768万2202
02位、市長、720万、0、    0、295万6800、1015万6800、 176万3413、1192万0213
03位、職員、543万8400、73万8000、55万6284、235万9011、909万1695、158万3322、1067万5017
05位、副市長、665万7000、0、 0、234万3264、900万0264、 163万6250、1063万6514
08位、教育長、625万1550、0、 0、216万9552、842万1102、 148万7897、990万8999

50位、職員、515万0400、34万5000、  9285、221万2442、771万7127、149万6795、921万3922
100位、職員、457万2000、66万3500、8万0238、208万7376、740万3114、134万6896、875万5010、
150位、職員、457万2000、35万7000、7万1884、195万3963、695万4847、132万8241、828万3088
200位、職員、326万4000、65万3000、31万7472、132万1376、555万5848、91万3383、646万9231
250位、職員、211万7700、2万4000、5万9888、77万4725、297万6313、58万1982、355万8295
267位、職員、57万9200、   8500、 4176、57万1656、116万3532、28万3455、144万6987

     感想

 鹿児島県阿久根市役所のホームページを開いて、市政情報ー給与・定員・退職手当ー平成19年度の職員給与・手当明細、で今(2009年05月04日)でも見られます。

 そこには01位から268位までの全ての人の情報が、氏名は伏せて、載っています。

 03位の人は、多分、部長級の人でしょう。
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