マキペディア(発行人・牧野紀之)

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ながく、牧野紀之の仕事に関心を持っていただき、ありがとうございます。 牧野紀之の近況と仕事の引継ぎ、鶏鳴双書の注文受付方法の変更、ブログの整理についてお知らせします。 本ブログの記事トップにある「マキペディアの読者の皆様へ」をご覧ください。   2024年8月2日 中井浩一、東谷啓吾

政策提言のシンクタンク

2015年12月31日 | サ行

1、政策提言の新団体

SEALDs(シールズ)メンバーら安全保障関連法に反対する学生団体「SEALDs」のメンバー奥田愛基さん(23)らが学者や弁護士とともに、政党への政策提言などを行う新団体「ReDEMOS(リデモス)」を設立し、14日に参院議員会館で記者会見した。「国会前抗議を原点に、日本の民主主義を問い直す場をつくる」という。

 リデモスは「DEMOS(民衆)への応答」との意味で命名。市民のためのシンクタンクと位置づけ、安保法制など政治課題に関する情報発信や、政党や市民への政策提言をメールマガジンなどを通じて行う。

 代表理事に奥田さん、理事には「安全保障関連法に反対する学者の会」でも活動する上智大の中野晃一教授、水上貴央弁護士の2人が就任。学生が研究員になり、テーマに応じて専門家や弁護士と連携していく。
     (朝日、2015年12月15日。市川美亜子)

2、学者40人、民主へ政策提言へ

 民主党への政策提言を目的に、人文社会系の学者約40人が研究会「リベラル懇話会」を設立し、15日に記者会見した。同党の議員らとの勉強会を経て政策案をまとめ、来年1月末ごろまでに同党に意見書を出す。メンバーは稲葉振一郎・明治学院大教授、北田暁大・東大教授ら。「民主党への押しかけシンクタンク」と位置づけ、少子化や雇用、歴史認識などの分科会別に同党議員と議論し、政策をまとめる。
(朝日、2015年12月16日)

3、市民連合

 安全保障関連法に反対して国会前で抗議してきた学生団体「SEALDS(シールズ)」などの5団体が12月20日、来年の参院選に向けて野党統一候補を支援する「市民連合」を設立し、東京都内で記者会見した。来年4月の衆院北海道5区補選でも野党候補を応援するという。

 設立されたのは、「安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合」。「SEALDs」 「学者の会」「ママの会」など5団体の有志が中心。ほかの団体にも参加を呼びかける。

 全国32の1人区で候補者を絞り込むよう野党に働きかける。安保法の廃止や集団的自衛権行使容認の閣議決定の撤回といった基本方針に賛同する候補者を推薦し、選挙応援などをする。独自候補は擁立しない。

 会見に出席した山口二郎・法政大教授は「政党同士の話し合いによる共闘が難しい現実を見て、発足に至った。自民党政治への対抗軸をつくり、市民に働きかけていきたい」と訴えた。

 「SEALDs」メンバーで筑波大院生の諏訪原健さん(23)は「市民がリーダーシップを発揮して自分たちで社会を動かしていく。民主主義を取り戻すということだ」と話した。
 (朝日、2015年12月21日)

4、牧野の感想

1の記事を見た時、「動き出したな」と思いました。同時に、「これはスタートだ。どこまで行くかな」と注視する事にしました。3がその現実化でしょう。まあ、順調な一歩でしょう。「政策提言」や「選挙の応援」ではまだまだです。次にどういう形を採るか、興味深く見守ります。

2は期待出来ません。民主党にも、いやかつての社会党にもこういう人達が付いていたと思います。坂野潤治などです。「自分はやらないけれど、応援はする」という学者です。


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浜松市沿岸の防潮堤

2015年12月29日 | ハ行

県整備浜松市沿岸の防潮堤
本体完成は19年度、2年遅れ

 静岡県が浜松市の沿岸域で整備している防潮堤の本体部分の完成が、当初の予定より2年遅い2019年度にずれ込む見通しとなった。12月7日に同市南区の市防潮堤資料室で開かれた防潮堤整備推進協議会で、県が明らかにした。

 出席した県浜松土木事務所の説明によると、地盤の改良や保安林の伐採に想定以上の日数がかかっているためだという。

 一方、同事務所は工法の工夫で費用を圧縮し、堤本体の整備は一条工務店グループから寄付を受けた300億円で賄うことが可能になったと説明した。具体的には①堤の断面をスリム化②コンクリートと山土を混ぜる「CSG材」に3割ほど現地の砂を混ぜる③他の工事現場で出る残土を無料で確保する、などの措置を取るという。

 ただし、堤に付帯して設ける安全柵や堤に上がる通路、さらにサイクリング道路のように平時に市民が活用する設備の費用は含まれていない。県は、企業や市民の寄付を積み立てている浜松市の「津波対策事業基金」を活用すべく、市と協議するという。

 県は12年度、防潮堤整備について、一条工務店や浜松市と3者基本合意を締結。浜松市は市費で山土の確保と運搬をし、県が同社の寄付を元に防潮堤を造ることにした。13年度から試験施工し、17年度完成を目指していた。
 (朝日、2015年12月8日)

感想・自然に逆らって力で津波を押さえようとするからこうなるのだと思います。まあ、お手並み拝見としましょう。我々は我々の道を行きます。
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詳細索引・英独仏の比較

2015年12月17日 | 「関口ドイツ文法」のサポート

166──同語反復文での英独仏

175──「○○も○○だ」での英独仏

180──「それは○○のせいだよ」

580──序数詞と英独仏

697──冠詞用法での比較(現在はこの項目はありません。第2版に載せる予定)

742──時制の一致・不一致

1042──間接話法での場所表現

1061──評辞+dass文で評辞を省くか間投詞で評辞に替えた場合

1321──動詞の元来の意味での受動相

1388──ist und bleibt

1413──不定冠詞+抽象名詞で評価を表す

1451──目的語の繰り返し

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「許萬元の思い出」をまとめたい

2015年12月06日 | カ行

 インターネットで「許萬元(我々は当時「キョマンゲン」と言っていましたが、今では「ホ・マンウォン」と原語で言うらしい)」と入れて検索して見ましたら、彼についての思い出的な文章として、以下の「参考」に引きました2つが分かりました。

 私の一番知りたいことは立命館大学での「哲学概論」の授業がどのようなものであったかと大学院での「哲学演習」(東洋大学でのそれでもいいです)がどのようなものであったか、です。この2点及びそれ以外の事でも、ともかく許萬元についての「体験」を持っていらっしゃる方は教えてくださいませんか。お願いします。

    2015年12月06日、牧野紀之

 参考1・最近、ネットで許萬元(ホ・マンウォン)氏が、すでに2005年に逝去されていたことを知った。ヘーゲル研究の第一人者であったと思う。私が20代の時(1977年頃)、東京の労働学校で「弁証法」の講座(12回)があり、その講師が許萬元氏だった。弁証法の論理や、ヘーゲルの著作をわかりやすく解説する許萬元氏の講義を、夢中になって聞いていた。すでに主著である、「ヘーゲル弁証法の本質」(弁証法の理論 上巻)、「認識論としての弁証法」(弁証法の理論 下巻)、「ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理」を出されていた。講義の後、駅へ向かう道を歩きながら、許萬元氏に「次の著作は何ですか」と聞いてみた。氏の答えは「資本論の論理」を考えているということだった。私は、「資本論の論理」が出版されることを、心待ちしていた。残念ながら、それは叶わなかった。ヘーゲルに対する深い理解と、それを労働者にやさしく教えようとした許萬元氏に感謝を捧げたい。(多田)(静岡県労働者学習協会のブログ、2013年09月20日)

 感想・「1977年頃」は記憶違いでしょう。『認識論としての弁証法』の出たのは1978年で、立命館の教授になったのが1983年ですから、この両方の間ということでしょう。

 参考2・許萬元先生の思い出

服 部 健 二

 経営学部教授を経て文学部に移籍され、哲学専攻に属され、定年後特任教授として勤務されていた許萬元フォーマンウォン先生が2005年8月25日に逝去された。特任教授として5年間勤められた後も、非常勤講師として2年間主に哲学概論の講義を担当してこられたから、享年72歳であった。体調が良いときは、大学院の研究指導にも出席され、時にヘーゲル理解について鋭い質問や助言をなされるだけでなく、研究指導が終わった後の懇親会には、ご自分は食べられないので失礼するといいながら、いつも飲食代の足しにとカンパされていた。その時の先生の人懐っこい笑顔が忘れられない。

 先生は、1933年朝鮮済州道のお生まれである。東京の朝鮮人中高校在学中、校長先生に勧められ、中央大学文学部で哲学を学び、1959年4月に東京都立大学人文科学研究科に進学された。そこで『弁証法的論理学試論』(大月書店、1957年)などの著作がある寺沢恒信教授の指導を受けられ、寺沢流の解釈とは異なるヘーゲル論理学の唯物論的読解を志向された。その成果が博士課程修了の年に出版された学位論文『ヘーゲルにおける現実性と概念把握の論理』(大月書店、1968年)であった。中央大学初の哲学による文学博士であったと聞く。そして助手になられたのだが、それは在日朝鮮人として初めての東京都職員になられたことを意味する。

 私が許先生のお名前とこの本を知ったのは1972年のことであったと思う。大学院での梯明秀教授の経済哲学ゼミに、細見英先生に報告者として参加していただいたことがある。細見先生は、京都大学経済学部卒業後、かつて立命にあった大学院特別研究生制度によって学費免除と研究費毎月1万円を支給される奨学生として、立命館大学大学院経済学研究科に入学され、その後ひたすら梯経済哲学を吸収され、梯教授の一番弟子と目されていた方である。立命館の大学院経済学研究科を出られ、立命の助手から助教授まで勤められた後、1972年に関大経済学部に移られたのだが、ちょうど『経済学史学会年報』にヘーゲル研究動向の論文(「新版(ヘーゲル研究の動向)──生誕200年をふりかえつて」)を発表されていたので、その論文のお話をしてもらったときのことである。議論が日本の研究動向について及んだとき、許先生のこの学位論文が話題となった。「鳶が鷹を産んだ」という細見先生の評に、梯教授が賛意を示され寺沢批判をされたことと、細見先生が「主体思想」の国の人らしいヘーゲル解釈だといわれたことが、今でも鮮やかに記憶に残っている。

 当時、というより戦後のマルクス主義哲学者は、レーニンの指摘に従ってヘーゲル論理学の唯物論的読解をしようとしており、寺沢恒信氏の研究もその最初の試みであったといえるが、今読んでみてもどこか図式的でぎこちなさを禁じえない。梯ゼミで話題になったあと、すぐに許先生の著作を買って読んでみると、梯経済哲学に親しんだ目からすると意外と共感するところがあった。対象科学としての経済学の諸範疇を主体としての人間の対象的本質を解明する諸範疇として読み直すという経済哲学の方法に、ヘーゲル論理学の諸範疇を主体的実践的な認識論として読もうとする許先生の姿勢が重なってみえたのである。もちろん許先生は弁証法を認識論にとどめることには反対なのだが。許先生は学位論文に続き、『ヘーゲル弁証法の本質』(1972年)、『認識論としての弁証法』(1978年)を世に問われ、1988年にはこの両著をまとめて『弁証法の理論』(創風社)の上下巻とされた。ヘーゲル論理学の理解をめぐって見田石介民らと論争を続けてこられたこともあって、上巻だけで一万部という哲学書としてはまれに見る売れ行きがあったという。

 許先生が立命館大学経営学部教授として赴任されたのが1983年、私が文学部助教授に採用されたのがそれに先立つ81年であった。一般教育担当者が専門に近い学部に所属することとなったために、先生は1993年に文学部に移籍された。私が学部主事のときであった。それから卒論指導などご一緒することもあって、あるとき梯ゼミでの先のエピソードを話し、かねてから思っていたことを聞いたことがある。「先生はあの著作を書かれたとき、梯先生の思想から大きな影響を受けておられたのではないですか?」「そうです、そうです。何回も読みました」という答えであった。ヘーゲル弁証法の思弁的契機を重視され、悟性的契機の強調を批判されておられると感じていただけに、私にはその答えで十分であった。

 許先生はヘーゲル弁証法の唯物論的解釈にあたって、これまでの解釈がヘーゲルのここは観念論的だからだめ、ここは唯物論的だから良いといった切捨て主義をとられなかったし、またヘーゲルの観念論を唯物論に転倒させれば、弁証法が手にはいるという単純な弁証法理解を批判され、弁証法の諸契機として総体性と内在性と歴史性に着目されそれらがヘーゲルとマルクスでどうことなって組み合わされているのかを分析されてきたと思う。そうした研究姿勢は、ヘーゲルについての現在主流の、資料批判を踏まえた文献史的研究のスタイルとは異なるし、マルクス主義からマルクスやエンゲルスを切り離す現在の研究手法とも異なる。しかしながら、許先生の弁証法研究には、やはり伝統的なマルクス主義の教科書的なヘーゲル理解、マルクス理解とは鋭く一線を画するところがあって、ヘーゲル・マルクス問題を自分の問題として格闘した一人のデンカーの姿が示されているといえよう。

 最後に私事になるが、私が梯経済哲学の手法を援用して、経済学の対象的諸範疇を、主体の対象的本質を示す諸範疇としてだけでなく、社会的自然に転化した自然の姿と、人間の自然に対する関わりを示す諸範疇を読み取ろうとしたとき、許先生が暖かく見守ってくださったこともあった。また、船山信一先生の『日本哲学者の弁証法』をこぶし書房から復刻した際に、私が書いた解説「船山信一の人と思想」に意外と感心してくださったこともあった。後者の件は、許先生が戦前の唯物論におけるいくつかの論争の当事者であった船山信一の仕事を高く評価しておられたからであろうと思う。前者の件については、私としては許先生にも議論を展開してほしかった点である。『認識論としての弁証法』がその表題にもかかわらず、その背後に存在としての弁証法を秘めていると思うだけに、梯的な全自然史の思想をどう評価するのか、ぜひ聞いてみたいところだからである。今となっては忙しさにかまけて議論を詰めてしなかったことが悔やまれる。ヘーゲルについて論じる機会があれば、そのときにでも、一字一句をおろそかにしない許先生のヘーゲル解釈と哲学的議論を戦わしてみたい。(はっとり けんじ 立命館大学文学部教授)

 感想・こういう文章が雑誌『立命館哲学』の第17集(2006年)に出ていることを知ったので、1部送っていただきました。


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