マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

あらゆる

2007年01月30日 | ア行
 1、語の由来

 動詞「有り」の未然形に上代の助動詞「ゆ」の連体形がつながった出来た語。

 2、意味

 有る限りの、すべての。

 「ありとあらゆる」は「あらゆる」を強めた表現。

 「あらゆる場合を考えた」「ありとあらゆる場合を考えた」等。

 3、否定的な語との結びつき。

 「彼といえどもあらゆる言語に通じているわけではない」といったように、全称命題を否定して少数の例外を言う場合に使うのだと思います。

   用例

 (1) フライシャー大統領報道官は、今後の軍事行動について「大統領はあらゆる選択肢を排除しない」と語り、地上軍の投入もあり得ることを示唆した。
 (2001,9,17, 朝日。
  これは16日にもTVで繰り返し報道された言葉です)

 考察・文脈から判断すると、この「あらゆる選択肢を排除しない」とは、「味方の犠牲の少ない空爆とか巡行ミサイルによる攻撃以外にも他の全ての手段を検討する」「初めから使わないと決めてしまう手段はない」という意味です。

 つまり全称命題そのものです。しかし、この言葉は言葉としてはそういう意味にはならないと思います。「あらゆる選択肢を排除はしない」「いくつかの選択肢を使う」という意味になると思います。

 従って、正しくは、「どのような選択肢も排除しない」と言うべきだったと思います。元の英語でどう言ったのか分かりませんが、訳した人が間違えたのかもしれません。

 (2) 大統領は「悪の枢軸」と名指ししたイラクなどへの対応について「すべての選択肢を排除しないが、平和的に解決したい」と述べた。
 (2002,2,19,朝日)

 考察・船橋洋一氏はこれを(3)のように訳しています。

 (3) 大統領は「彼らの行動パターンを変えるように国際社会が協力する必要がある。どのような選択肢も排除しないが、平和的に解決したいと考えており、外向的努力を続ける」と言った。
 (2002,2,21,朝日)

 (4) イラクへの軍事行動の可能性については、大統領は記者会見で「すべての選択肢はある。テーブルの上にそのまま載せておきたい。何一つ排除したくない」と強い調子で語り
 (2002,2,19,朝日)

 (5) 現在、国立大学すべてに文部科学大臣の任命を受けた運営諮問会議が置かれ、大学運営に参与している。
 (2002,2,25,朝日)

 (6) 国立大学のすべてが同じ状況であるわけではない。
 (2002,2,25,朝日)

 (7) 全少年の関与否定
 (2002,3,21,朝日)
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どうも

2007年01月29日 | タ行
 1、「どうもおめでとうございます」と「おめでとうございます」に「どうも」をつける言い方を聞き、妙に感じたのは、わが子の小学校の卒業式の日のことでした。

 その後、「どうも今日〔こんにち〕は」という挨拶を聞くことも多くなりました。NHKテレビの「日本人の質問」という番組を先日、初めて見ましたら、司会者の古館伊智朗が「どうも今晩は、どうも今晩は」といって登場してきたので、びっくりしました。こういう所に「どうも」を付けてよいのでしょうか。

 2、これまでも「どうも」は問題にされてきました。「どうも、どうも」などという挨拶語(?)は翻訳不可能ということで、日本語のおかしさの見本みたいに取り上げられます。

 しかし、私の見るところでは、これは「どうもありがとうございます」とか「どうも済みませんでした」などと正確に全部言うのを、照れくさいとかいった何らかの心理が働いて、避けたいという時に使われているようです。だから私にとってはこれは問題ではありません。

 3、さて、私は先の問題に答えようと思って、辞書を調べてみました。

 「どうも」の元の意味は「どうしても」と同じらしい。起源としても、「どうしても」が略されて作られたのかもしれないが、そう明記してある辞書はありませんでした。

 どうしても、どうやってみても、どう考えてみても、となると、かなり輪郭が見えてきます。つまり、ここに含まれていることは、

 (1)いろいろと考えたり、やってみたりして真相を掴もうと努力したということ、
 (2)しかし、ついにはっきりとは分からなかったということ、

の二点です。ここから、自分の力を超えているという要素と推量の要素とが出てきます。

 どうも巧く行かない。
 どうも気になる。
 どうも駄目らしい。

などの例は分かりやすいのではないでしょうか。

 4、ここから、例の挨拶に使われる「どうも」が出てくるのですが、その説明があまりはっきりとは書かれていません。

 学研の「国語大辞典」が「〔あいさつに用いて〕相手に対して、感謝・謝罪・祝福・悔やみなどの気持ちを表す」と書いたのは、「どうもありがとうございます」や「どうも済みませんでした」などの代わりに使われる「どうも」や「どうも、どうも」の説明とし
ては正しいでしょうが、「どうもありがとうございます」などの「どうも」の説明としては、間違いではないでしょうか。

 それよりは、「広辞林」(三省堂)が「ほんとうに。おおきに」と書いた方が正しいと思います。つまり、これは強めなのです。

 5、なぜ、「どうしても」の意の「どうも」が挨拶を強める語として使われるのでしょうか。これは先の「自分の力を超えている」ということで説明できるのではあるまいか。つまり、「どうしても」そういう気持ちになる、ということなのです。

 こう考えると、「どうもおめでとうございます」は「おめでとうございます」を強めた表現だということが分かります。また、「どうも今日は」と「どうも今晩は」も、「今日は」や「今晩は」を丁寧に言おうとする気持ちから出てくるものと推定されます。

 その時、同時に、日本語の変化の大原因の一つがこの「丁寧に、丁寧に」という心理なのではなかろうかという仮説が頭に浮かぶのです。が、これはもう少し多くの事例を検討してからにしたいと思います。(1994,05,04,執筆)
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定評

2007年01月28日 | タ行
 1、意味は「定まった評価」だから、広く認められた評価・評判、特に良い評判でしょう。

 2、「~には定評がある」と使うのが普通だと思いますが、「に」を省いて「~は定評がある」と言う人もいるようです。新明解国語辞典には「日本人の会話べたはつとに国際的に定評がある」が載っています。しかし、教育社の「用例辞典」には「この辞典の用例には定評があります」が載っています。

 なお、教育社には「この分野では、彼の実力はいまや定評となっている」という文例も載っています。

   用例

 (1) 桑田の守備は定評がある。
 (2001,09,10,朝日)
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大(だい)

2007年01月27日 | タ行
 1、この漢字の読みは「だい」「たい」「おお」の3つでしょう。「だい」と「たい」は濁るか澄むかの違いです。「だい」「たい」と「おお」の違いは音読みと訓読みの違いです。

 それはいいとして問題は、どういう場合にどの読み方をするかという原則がないらしいということであり、しかも原則がないのならその「原則がない」ということが漢和辞典に明記されていないということであり、更に日本語生活の中で実際に混乱している場合について漢和辞典の編集者が指針を与えていないということです。

 2、大原則(だいげんそく)は「漢語の前に付く時はダイ(タイ)で、和語の前に付く時はオオと読む」であるらしいが、例外が沢山あるようです。

 3、例外はどうして出来たかというと、和語を漢字で表したために後の人々が音読みするようになったという道筋があるらしい。

 「おおね」を「大根」と表記し、それを「だいこん」と読むようになったとか、「ひのこと」を「火事」と表記したために後の人が「かじ」と読むようになったとかです。

 4、日常的に混乱しているのは例えば「大地震」です。

 これはNHKでは「おおじしん」と読むように統一しているらしいが、「だいじしん」でも間違いとは言えないらしい。「大時代」も「おおじだい」が普通ですが、「だいじだい」と読む人もいます。「大舞台」も「おおぶたい」ではないかと思いますが「だいぶたい」と読む人も少なくありません。

 5、私の言いたい事は、辞書を編集する人は日本語生活にもっと敏感になってほしいということです。混乱しているといった問題に対して指針を与えてほしいということです。この場合の指針とは必ずしも一義的な答えでなくても「2つの読みがありどちらでもよい」という説明も含んでいます。

 6、この項については文化庁の『言葉に関する問答集』と大野晋・丸谷才一・大岡信・井上ひさし著『日本語相談』(朝日新聞社)を参照しました。「無」の項を参照のこと。
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階級闘争

2007年01月25日 | カ行
   参考

 (1) これまでのすべての社会の歴史、正確に言い換えるならば、文献の残っている歴史は全て、階級闘争の歴史である。
 (マルクス『共産党宣言』)

 (2) 階級闘争はすべて政治闘争である。
 (マルクス『共産党宣言』)

 (3) 労働者階級の政治運動はもちろん自分のための政治権力の獲得を究極目的としています。そして、そのためにはもちろん前もって労働者階級の組織がある程度まで発達していることが必要であり、この組織はこの階級の経済闘争そのものから成長してくるのです。

 しかし、他方、労働者階級が階級として支配階級に対抗し支配階級を外部からの圧力によって屈伏させようとする運動はすべて政治運動です。

 例えば、ある一つの工場とかあるいは又ある一つの事業でストライキなどによって個々の資本家から労働時間の制限を勝ち取ろうとする試みは、純粋に経済的な運動です。

 これに対して8時間労働などの法律を強要することは、政治運動なのです。このようにして、どこでも労働者たちの個別的な経済運動から政治運動が生まれてくるのです。即ち一般的な形態で、つまり一般的な社会的な強制力をもつ形態で自分の利益を実現するための階級の運動が生まれてくるのです。

 これらの運動がそれに先立つある程度の組織を前提するとすれば、それらは又それら自身この組織の発展のための手段でもあるのです。

 労働者階級の組織がまだ支配階級の集団暴力即ち政治権力に対して決定的な進撃を試みるのに十分なほどに発達していない所では、いずれにせよ労働者階級は支配階級の政策に反対する不断の煽動(及び敵対的な態度)によってこの進撃のために訓練されなければなりません。

 そうでない場合には、それは支配階級の手中の手玉でしかないのであって、その事はフランスの9月革命が証明したところであり、又ある程度まではイギリスでグラッドストンの一党が現在に至るまでうまくやっている賭けが証明しているところです。
 (マルクスの手紙、1871,11,23付け)

 (4) 闘争は3つの面から、つまり理論的な面と政治的な面と経済的で実践的な面(資本への反抗)から統一的に関連付けて計画的になされている。
 (エンゲルス『ドイツ農民戦争』第2版への序文)

 (5) 経済闘争とは、労働力の販売の一層有利な条件を獲得するために労働条件と生活状態の改善のために、労働者が雇い主に対して行う集団的闘争である。
 (レーニン『何をなすべきか』)

 (6) プロレタリアートの自然発生的な闘争は革命家の強固な組織に指導されない間はプロレタリアートの真の「階級闘争」にはならない。
 (レーニン『何をなすべきか』)
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一(いち)

2007年01月24日 | ア行
 1、ドイツ語(英語でも基本的には同じだと思う)の不定冠詞の意味(冠詞に意味なぞないというならば、ニュアンス)について考えました。

 不定冠詞については中学の(そして多くの場合は大学でも)英語の時間に「『1つの』ということだから複数形はない」と教えられていると思います。

 2、フランス語やポルトガル語の不定冠詞には複数形がありますから、この説明は間違いです。

 では不定冠詞の意味は何でしょうか。

 それを説明するのは大変なのでここではしません。しかし、それが「一」と結びついていることは確かでしょう。

 ドイツ語の不定冠詞は einとその変化形であり、「一」を表す eins と繋がっていることは一目瞭然です。そして、その意味についても「1つの」と訳してよい場合は少なくありません。

 しかし「1つの」と訳してはならない場合もあります。私見ではそれは二進法の「1」と関係しています。

 二進法の「1」の意味は「存在」です。

 3、さてそういった関係からなのですが、日本語の「一」の意味を考えてみることになりました。以下はその試みです。

 4、「一」の諸義

 A・自然数の最小のもので「一つの」という意味。

 原則として十進法の「1」が想定されていますが、十二進法などの場合もあるかもしれません。しかしいずれにせよ、二進法の「1」ではありません。これが大切。

   実例──打者が一巡する。一芸に秀でる。一瞥する。

 B・序数詞の最初のもので「第一の」という意味。

 これが価値的な意味合いを持つと、「最高の」「最上の」という意味になります。

   実例──(時刻の)一時。一次試験。一人称。一級品。
       一軍に登録される。 

 考察・「一流」は元は「一つの流派」の意ですが、そこから「その派独特の」という意味が出て「彼一流のやり方で」といったように使われ、更に「一つの流派を為すほどの」ということで「第一級の」という意味が出たのではなかろうか。

 C・(不特定の)「或る」という意味。

   実例──一栄一落。一喜一憂する。一時○○していた。

 D・「短い」とか「少し」という意味。

   実例──一言にして言えば。一時仕事を休む。一興。一見したところでは。一知半解。

 E・「全部」という意味(これは「一任」以外にもあるのだろうか)。

   実例──一任する。

  考察・「一巻の終わり」は「一つの巻物が終わる」→「全部終わる」。ということは「一」は「全部」を含む。二進法の「一」か。「一切」、「一切合切」。一般的と全般的とは同義です。

  「これで俺も一巻の終わりだ」と言う時、自分が死んでも他人 は生きていると考えると、複数に対する一、つまり単数と考えられますが、ここでは他人のことはともかく自分が全部終わるということに力点があるのだと思います。つまり、全部の意味です。

 F・「一気にかつ完全に」という意味。

   実例──一事態は一変した。
         cf. 事態は変わった、事態は急変した。
       攻守は一転した。心機一転。
       人心を一新する。cf. 人心を改める。
       滞荷を一掃した。cf. 滞荷をさばいた。

 G・形容詞を強める働きをする場合
  (これは「一大○○」しかないと思う)。

   実例──一大事件が起きた。cf. 大事件が起きた。
       一大決心をした。cf. 大決心をした。
       一大転機が訪れた。 cf.大転機が訪れた。

  考察・「一死」(死ぬことを強めた言い方、「一死報国」)
     「一驚する」はどれに当たるのだろうか。
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だけ

2007年01月23日 | タ行
 1、「だけ」は「丈」が変化したものだそうです。

 2、「だけ」の使い方というか位置について考えてみます。

 (1) われわれの目はそこにだけ集中してしまう傾向がある。
 (高橋英夫『ドイツを読む愉しみ』)

 感想・そこだけに集中してしまう、もあると思います。

 (2) 特にクラスが複数の国籍の学生から成り立っている時には直接法が一番良い方法かもしれません。でも相手がマレー系のマレーシア人だけの学生の場合、マレー語と日本語のバイリンガルの教師がいて、必要な文法説明などをマレー語でしたら、どんなにかスピーディーで効果的な授業が出来るとお考えになりませんか。
 (佐々木瑞枝『留学生と見た日本語』新潮社)

 感想・「相手がマレー系のマレーシア人の学生だけの場合」か「相手がマレー系のマレーシア人だけの場合」かのどちらかにして、「だけ」は最後に持ってくる方が落ちつくのではなかろうか。

 3、「新明解国語辞典」には次のように用例が挙がっています。

 いいだけ取りなさい、やれるだけやろう、これだけは確かだ、君にだけ話す、二人だけでやろう、わざわざ行っただけのことはあった、がんばっただけあって成績が上がった、練習すればするだけ進歩する。

 感想・これらの中で「だけ」の位置をずらしてもよいものを考えると次の案が浮かびます。

   君だけに話す、
   二人でだけやろう(これはかなり無理がある)。

 無理のないものは「そこにだけ」と「そこだけに」、「君にだけ」と「君だけに」です。

 すると、「だけ」は「に」とだけは位置が交換できる、と言えるのかもしれません。
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教条主義

2007年01月21日 | カ行
 1、これは経験主義と対になる言葉である。一般原則を個々の事例に適用して考える時、その個々の事例の具体的な調査・研究が不十分で、一般原則を機械的に適用する態度を教条主義と言います。

 逆に、個々の事例の特殊性を過大に評価して一般原則を十分に考慮しない態度を経験主義と言います。この経験主義は経験論とも実証主義とも違います。

 毛沢東の有名な「調査なくして発言権なし」は、教条主義を戒める言葉です。

 2、定義的に解説すると以上のようになりますが、実際に或る一般原則を或る事例に適用して或る判断を下して行動する場合、それが一般原則の正しい適用か、教条主義か、経験主義かを判定するのはとても難しいです。

 社会主義運動の中でも、その当時は「マルクス・レーニン主義の正しい適用」とされていたものが、後には教条主義だったとか経験主義だったとかいって批判されることになった場合は沢山あります。

 つまり、言葉の正しい定義だけでは不十分だということです。

 何が問題なのでしょうか。

 個々の事例の調査・研究が「不十分」だとか、一般原則を「十分に」考慮しないという言葉から分かるように、十分か否かが問題なのです。

 どういう判断の場合でも、一般原則は考慮されているし、個々の事例も研究されています。それがただ十分か否かだけが問題なのです。そして、その十分か否かを判定する一般的な基準がないからです。

 結局、押しの強い人とか、権力のある人とか、口のうまい人の考えが通ることになります。従って、これは組織の意思決定のあり方の問題にもつながってくるのです。

 理論的には、ヘーゲルの独断論概念の理解がないことも大きな問題です。そもそも「教条主義」と「独断論」とは、共に、Dogmatismusの訳語なのです。

 参考

 01、異なった矛盾は異なった方法によって解決すること、これはマルクス・レーニン主義者の厳格に守らなければならない1つの原則である。教条主義者はこの原則を守らない。彼らはさまざまな革命情勢の違いを理解せず、従ってまた、異なった矛盾は異なった方法によって解決しなければならないということを理解しない。そして、改めてはならないと思い込んでいる1つの公式を千篇一律にどこでも使うだけである。(毛沢東『実践論矛盾論』松村・竹内訳、岩波文庫、49頁)

   関連項目

独断論
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疑う

2007年01月20日 | ア行
 1、科学的探究というものは一切を疑ってかかることから出発するのです。疑うということは否定するということではありません。結果として肯定するか否定するかは判りませんが、ともかく与えられたものを「本当にそうだろうか」「別のようには考えられないだろうか」と疑ってかかることから科学研究は出発するのです。(略)

 「疑う」ということは「考える」ということと同じなのです。かつて拙著『労働と社会』の中に書きましたように、思考の特徴は「感覚の直接性を断ち切る」ことにあるのでして、考えるとは2つ以上の可能性を比較して、どれが一番よいか、これが好いかあれが好いかと、疑って考えることだからです。こういう意識の行為を「思考」と表現するのは一般的な言い方で、「信じる」ということとの関係ではそれが「疑う」と言われるのです。
 (牧野紀之「宗教と信仰」)

 2、以上は広義の「疑う」概念ですが、狭義では「否定する」という意味ないしニュアンスで使うことも多いと思います。「懐疑論」という場合はこちらに近いと思います。懐疑論の項を見てください。

 3、哲学史上で有名なのはデカルトの「方法的懐疑」です。これは1に述べた「疑う」という事の根本的な意味と同じで、それを意識的に自分の考え方としたものです。

 デカルトは「確実な考え」を持ちたいと思った時、まずこれまで自分が無反省に正しいと思ってきた事や世間で正しいとされている事などを全て一端疑いました。そして、「どうしても否定できない事柄」を元にしてそこから「確実な考え」を築いていこうと考えました。この「方法としての懐疑」のことです。

 4、我々が生きていく時には、「何らかの信念をもって生きていく」ことも大切です。定見なくフラフラしているよりは、必ずしも証明されていない事でも、直観的に思った事でも、それを信じて(正しいと思い込んで)それを行動規範にしていった方が成功することもあります。

 では、徹底的に疑うという科学的精神は生活ないし行動にとって邪魔なものなのでしょうか。これは大問題です。この問題を解決しないと、「理論と実践の統一」の問題(両者はどう関係しているかの問題)も正しく答えられないと思います。

   参考

 (1) ただ私が私の本質から引き離すものだけが私にとって疑わしい或る物なのである。従って私は私の本質である神をどうして疑うことが出来るであろうか。私の神を疑うということは、私自身を疑うということである。
 (フォイエルバッハ『キリスト教の本質』第2章)
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立ち上げる

2007年01月18日 | タ行
 1、「立ち上げる」という言葉がよく使われるようになったと感じます。私の印象として、それはインターネットが普及してきて「HP(ホームページ)を立ち上げる」という風に使われるようになり、それが他の事柄にも使われるようになったのだと思っていました。

 この事を自分のHPに書いたら、いくつかの投書をいただきました。その結果分かったことは一部の業界では以前から使われていたらしいということです。しかし、一般化してきたのはやはりインターネットの普及以来だという仮説は否定されていません。

 2、或る言葉がなんとなく流行ってこれまでの言葉を押し退けてやたらに使われるということはよくあることです。最近といってもかなり前からですが、私の気になっているのは一つは「示す」であります。特に政治報道で使われるという印象を持っています。

 例えば、「認識を示しました」「見解を示しました」「懸念を示しました」「判断を示しました」といった具合です。

 そのほかには「対応」も最近はよく使われます。対処とか反応とか、ほかにも適当な単語があるのではないかと思われる場合にも「対応」で済ませる人が多くなっていると思います。

     用例

 (1) 「~のもとで事業を立ち上げた女性はすでに7百人を超える」
 (1999,01,04、朝日新聞)

 (事業を始めた、事業を起こした)

 (2) 「新たな反対組織『PROTEST』をすぐに立ち上げた」
 (1999,01,27,朝日新聞)

 (反対組織を組織した、作った、まとめあげた)

 (3) 「午前三時。隣で寝ている長男を起こさないよう、そっと布団からはい出る。寝室から居間を隔てた六畳間の『オフィス』で、パソコンを立ち上げる」
 (1999,01,30,朝日新聞夕刊)

 (パソコンを買ってきて初めてセットするのではないから、「パソコンのスイッチを入れる」で十分)

 (4) 旧三菱油化時代にコンビナートの立ち上げに腕を振るい、今度は設備を壊す皮肉な巡り合わせとなった
 (1999,02,25,朝日)

 (コンビナートの建設に腕を振るい)

 (5) 〔音声認識ソフトでは〕漢字の変換も画面を見ながら声で確定でき、電子メールなどの画面を声の入力で立ち上げることもできる。
 (1999,03,04, 朝日)

 (画面を声の入力で出すこともできる、画面を起こす)

 (6) 東京通信ネットワークなど電力系の新電電十社も新しい連合組織「パワー・ネッツ・ジャパン」を立ち上げ、共同で新通信網を構築することを明らかにしている。
 (1999,3,10,朝日)

 (新しい連合組織を作り)

 (7) 応援するインターネットのホームページも立ち上げた。
  (1999,04,20, 朝日)

(ホームページも公開した)
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昨日のことのように

2007年01月17日 | カ行
 1、「長野五輪がまだ昨日のことのよう」(2002,01,14,朝日)という言葉があろました。

 よく使われる言い回しではあります。

 問題は、「長野五輪がまだ昨日のよう」という言い方も時々聞く、ということです。

 例えば、卒業式などの挨拶を聞いていると、修学旅行の思い出を語るとき、たいてい、「○○はつい昨日の(ことの)ように思い出されます」といった言い回しが使われます。

 2、「昨日のことのように」でしょうか、それとも「昨日のように」もあるのでしょうか。

 私の考えでは後者は「本当は」ないと思います。しかし、ひょっとするとあるかもしれません。ともかく、辞書はこういう事も書いてほしいと思います。
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仮象(かしょう)

2007年01月16日 | カ行
 1、Scheinの訳語。ヘーゲルでは、「そう見えるが実際はそうではない」という意味です。

 2、仮象というカテゴリーはヘーゲルの「論理学」ではその第2段階の本質論の冒頭に置かれています。ということは、それは「本質の立場から捉え直した存在〔第1段階の存在論の存在〕」のことだという意味です。

 更に、一切の存在(現象)は本質の立場から見れば、仮象という性格を持っているということです。つまり、本質の立場とは、直接的に与えられたものや姿を「実際はそうではないのではないか」と疑ってかかる立場だということです。

 3、その仮象が本質から媒介されたものとして理解された時、それが Existenz (現出存在)として捉えられます。

 更にその媒介が必然的な媒介であると理解された時、それは Wirklichkeit (現実性)として捉えられることになります。これがヘーゲルの本質論を貫く太い線です。

 4、一般にヘーゲルの論理学の各カテゴリーを理解する方法について述べますと、「新しく現れたカテゴリーは、新しく生成した立場から捉え直された先行カテゴリーである」という法則を覚えておくと好いでしょう。

 例えば、概念論の契機の普遍・特殊・個別とは、概念の立場から捉え直された存在と本質及び概念自身のことです。

 5、動詞 scheinen は本質論の冒頭の訳では「反照する」と訳されることがありますが、ここの部分は私にも分かりません。「反照する」と訳しても何かが分かるわけでもないと思います。それは普通の文脈では「見える」ということです。

6、なお、長谷川宏氏はその『ヘーゲル「精神現象学」入門』(講談社)の中で、ヘーゲルの scheinen を「~と思える」と訳した上で、その意味を「ヘーゲルが実際にそう思っている」という意味に理解して、「ヘーゲルにおける矛盾」とやらについて訳の分からない事を長々と論じています。愚論です。

    参考

 01、我々が仮象と呼ぶものは、それ自身において直ちに非存在であるような存在である。(精神現象学。ズ全集第3巻116頁)
 02、仮象は本質に適っていない定存在であり、本質が空虚に分離されて定立された存在である。従って、仮象と本質との区別は差異である。従って、仮象は「顕在化しようとすると消え去る非真理」である。そして、この消失で示されるのは、本質こそが本質であり、仮象を支配する威力だということである。(法の哲学、第82節への付録)

 03、仮象は存在という規定性における本質そのものである。本質が仮象を持つのは、本質が自己内で規定され、それによって自己の絶対的統一が区別されるからである。(大論理学2、11頁)
 04、本質は存在の第1の否定である。それによって存在は仮象になったのである。(大論理学2、235頁)


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運動

2007年01月15日 | ア行
   参考

1、太陽系を構成する諸天体は〔力学的〕運動の関係を成しており、それによって互いに関係しあっています。しかるに〔力学的〕運動というのは時間と空間の統一ですから、外面的で抽象的な関係です。従って、そのように〔力学的〕運動によって関係しあった天体はこのような関係なしにもそのような天体であり続けるかのように見えます。
 (ヘーゲル『小論理学』第 200節への付録)

 2、ほんの10年前でさえまだ新たに発見された運動の大根本法則は、たんにエネルギーの保存則として、運動は消滅させることも創造することもできないことの単なる否定的な表現として、かくして単にその量的な面から捕らえられたにすぎなかったが、このような狭い否定的な表現はエネルギーの転化という肯定的な表現によってますます取って代わられている。これによって初めてこの過程の質的な内容が正当に表現され、世界の外にいる創造者を仮定するような最後の根拠も失われたのである。
 (エンゲルス『反デューリング論』)

 3、運動は物質の存在形式である。運動なき物質はかつてどこにも一度もなかったし、どこにも決してありえない。宇宙空間内の運動、個々の天体上での比較的小さな物塊の力学的運動、熱や電流や磁気流として現れる分子の振動、化学的な分解と結合〔原子の運動〕、有機的生命など、世界〔宇宙〕の中のどの物質原子も任意の瞬間にこれらの運動形式のどれか一つの又は同時に幾つかの形式の運動をしている。

 どんな静止、どんな平衡もただ相対的なものにすぎず、あれこれの運動形式との関係でのみ意味を持つにすぎない。例えば或る物体が地球上で力学的平衡状態にある、つまり力学的に静止しているとする。しかし、だからといって、この物体が地球の運動〔自転、公転など〕や太陽系全体の運動に加わっていないわけではなく、また同様に、その物体の物理学上の極小部分がその物体の温度によって条件付けられた振動をしていないわけでも、あるいは又その物体の物質原子が化学的過程の中にないわけでもない。

 運動なき物質が考えられないのは、物質なき運動が考えられないのと同じである。従って運動は物質そのものと同様に創造することも消滅させることもできないものである。この事は少し前の哲学者〔デカルト〕がこう表現している。即ち、宇宙内に現存している運
動の量はつねに同一である、と。

 かくして運動を創り出すことはできず、ただ転移することが出来るだけである。運動が或る物体Aから他の物体Bに転移される時、転移していく能動的な運動は、転移される受動的な運動の原因とみなすことがでそる。この能動的な運動を我々は「力」と呼び、受動的な運動を「力の外化」と呼ぶのである。従って力とその外化との大きさが同じであるのは火をみるより明らかである。なぜなら力とその外化との中には同一の運動が起きているのだからである。
 (エンゲルス『反デューリング論』)

 4、運動は物質の存在形式であり、従って物質の特性以上のものである。
 (エンゲルス『自然弁証法』)

 5、運動は運動の反対である静止の中にその〔運動の〕尺度を見出さなければならない。 (エンゲルス『反デューリング論』)

 6、運動そのものが一つの矛盾である。力学上の単純な場所の移動でさえ既に一物体が或る瞬間に或る場所にあって同時に他の場所にある、即ち或る場所にあって同時にその場所にないという事〔矛盾〕によって初めて起こりうるのである。そして、このような矛盾を不断に立てては不断に解決していくことが正に運動というものなのである。
 (エンゲルス『反デューリング論』)

 7、最も一般的な意味での運動、物質の存在様式、あるいはその内属する属性として捉えられた運動は、単なる場所の変化から思考に至るまでの宇宙の中で起きる全変化及び全過程を含んでいる。
 (エンゲルス『自然弁証法』)

 8、運動はすべて、天体の場所の変化であれ地上の物体のそれであれ、又分子・原子・エーテル粒子の場所のそれであれ、ともかく何らかの場所の変化と結びついている。運動の形式が高まれば高まるほどこの場所の変化は小さくなる。場所の変化は当の運動の本性をいかなる仕方ででも汲み尽くすことはないが、それはその運動と切り離すこともできないものである。
 (エンゲルス『自然弁証法』)

 9、全ての運動の基本形式は近づくことと遠ざかること、収縮と拡散、要するに牽引と反発という古くからの両極対立である。
 (エンゲルス『自然弁証法』)

 10、仕事〔物理学でいう仕事〕とは運動の形式の変化をその量的な面から考察したものである。
 (エンゲルス『自然弁証法』)

 11、運動の本質は、それが空間と時間との統一であるということである。運動には空間も時間も属している。速度即ち運動の定量とは、一定の時間(経過した時間)との比率でみた空間のことである。(略)空間と時間とは物質によって満たされている。物質なき運動がないように、又運動なき物質もない。
 (エンゲルス『自然弁証法』、
これは皆ヘーゲル『哲学の百科辞典』第 261〔自然哲学〕への付録からの引用である)

 12、運動とは変化一般である。
 (エンゲルス『自然弁証法』)

 13、あらゆる運動は力学的な運動つまり物質の最大部分か最小部分の場所の移動を自己内に含んでいる。
 (エンゲルス『自然弁証法』)

 14、だが第二に、運動はただ単に弁証法の実在性を示すという存在論的意義をもつばかりでなく、さらに重大な認識論的意義ももっている。つまり、それは前述の「内在的考察」の立場を保障するものとなるのである。われわれが或る事物の本質を正しく認識するためには、或る事物を外からどんなにいじくりまわしてもそれはけっして正しく認識されるものではありえない。事物の正しい認識は、その事物固有の運動からのみ得られうる。なぜなら,或る事物の固有の運動こそは、その事物自身が「われはかくかくのものである」ということを自ら告白する言葉だからである。かくしてエンゲルスは次のように指摘した。

 「物質のさまざまな形態や種類それ自体はふたたび運動を通じて認識されるのであって、運動においてのみ諸物質のもろもろの性質が姿をあらわすのである。運動しない物質なるものについては何も言うことはできない」。

 かくして、一般に弁証法が運動や発展の科学であるという古典的定義が生じうるが、しかしこれは、ただ単に運動についての科学であるという意味ではなく、運動から事物を認識する科学である、という意味をも含んでいなければならない。それ固有の運動から事物を認識する態度こそ、事物自身に即して事物を認識する唯一の、真の内在的考察なのである。
 (許萬元「弁証法」、
芝田進午編集『マルクス主義研究入門』1哲学、青木書店所収)
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拍車

2007年01月14日 | ハ行
 1、拍車とは「馬に乗る時、靴のかかとに付ける金具」である。「先端のぎざぎざを馬の腹に強く押しつけて速力を出させる」(新明解国語辞典)とあります。

 2、「拍車をかける」とは「刺激・力を加えて、仕事(物事)の進行を一段と促進する」こと(同辞典)。「拍車がかかる」という言い方もあります。

 3、問題は用例の(1)や(3)にあるように、悪い事にも「拍車がかかる」とか「拍車をかける」と言うのか、です。私は言わないと思います。

 (1)は「株価の下落が加速した」、(3)は「騒色を加速させる(または助長する)」でどうでしょうか。

 4、「助長する」は「悪い傾向を一層強くさせること」ですが、そこから転じて「広く力を添えて盛んにさせること」の意にも用い(新明解国語辞典)ます。

 5、「加速させる」は「力を加えて速度を速めること」(同上)です。

 6、つまり、「拍車をかける」と「助長する」が反対で、「加速させる」が価値中立的なのでしょう。


   「拍車をかける」「拍車がかかる」の用例

 (1) 2001年の年末、1年を回顧するラジオを聞いていたら、「9月11日の同時多発テロで株価の下落に拍車がかかった」と言っていました。

 (2) DSLは2000年12月には1万回線に満たなかったが、その後値下げ競争が進んだこともあって伸びに拍車がかかった。
 (2002,01,09, 朝日)

 (3) (バスの車体広告の解禁について)騒色に拍車をかける。
 (2002,01,09, 朝日)


   「加速させる」「加速する」の用例

 (1) 朝方から売り先行で始まったが、田中外相の後任として政府が就任を要請していた緒方貞子氏が辞退したことが伝わると、小泉政権の支持率低下を嫌気して、下げが加速した。
 (2002,02,01, 朝日)

 (2) 12日の~会議でデフレ対策に取り組む方針を確認し、議論を加速させる。
 (2002,02,09, 朝日)
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本性(ほんしょう)

2007年01月13日 | ハ行
 1、ヘーゲルないし西洋哲学関係の文献でこの語が使われる場合、それは die Natur eines Dinges などと言われる時の Naturの訳語と考えてよいと思います。

 従って、それはいわゆる「自然」の事ではなくて、物の「本性」のことです。もちろん物の「自然」という言い方もあるとは思いますが、普通はいわゆる「自然」と紛らわしいのでそうは訳しません。

 2、問題は、それは「本質」と訳される das Wesenと違うのか、違うとしたらどう違うのかということでしょう。私は違わないと思います。同じ事の別の表現だと思います。

 ただこの die Naturはドイツ語にとっては外来語で、 das Wesenよりは砕けた感じがするのではないでしょうか。

 3、最後の問題はこの「本性」をどう読むかです。

 「新明解国語辞典」には「ほんしょう」の項に載っていますが、そこには「古くは『ほんじょう』」と書いてあります。そして「ほんせい」という見出し語もあり、そこには「→ほんしょう」とあります。

 4、漢和辞典には、「性」を「しょう」と読むのは呉音で、「せい」と読むのは漢音とあります。そして「本性」には「ほんしょう」との読み方が示してあります。

 5、西洋哲学の本の翻訳の世界では多くの人が「ほんせい」と読んでいると思います。

 6、「ほんしょう」という読み方(古くは「ほんじょう」という読み方)は仏教の用語だったのではないでしょうか。そして、段々「ほんせい」と読む人が増えてきただけではないでしょうか。

 先日、NHKのテレビ番組「空海の風景」でアナウンサーが「ほんせい」と読んでいるのを聞いて、「ここまで来たのか」と思いました。

 それはともかく、辞書はこういう読み方の問題についても書いてほしいと思います。
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