大関・琴奨菊が初優勝しました。日本人力士の優勝は10年ぶりだとか。来場所も良い成績で優勝すれば、日本人の横綱が久々に誕生するわけです。期待したいです。
大関陥落の危機を何度も経験してきた琴奨菊がなぜ急に強くなったのか、その原因なり背景なりを読んでいますと、昨年結婚した連れ合いの「内助の功」も相当あるらしいですが、それ以上か、それと並んでかは知りませんが、昨年8月から付けている「専属トレーナー」の指導も相当大きいようです。端的な話、そのトレーナーの指導で行っている「体幹トレーニング」が効果を発揮しているようです。この間の場所で負けた日馬富士関も「当たった時の感じが以前と全然違った」という感想を漏らしていたとか。
サッカーの長友選手も体幹トレーニングの本を出しているくらいですから、それの実践者として有名です。そんなこんなで、「体幹トレーニング」という言葉を好く聞くようになりました。
ところで、私はそれを聞くと自然に歌手などの受けているといわれる「ヴォイストレーニング」を連想します。体幹トレーニングとヴォイストレーニングとにはどういう共通点があるのでしょうか。思うに、正規の伝統的な練習や稽古と違って、身体の一部ではあるが、自分の仕事にとってとても重要な部分を専門のトレーナーの指導を受けて行う、という点だと思います。もちろん「他者の指導」は必ずしも必要ではなく、「自分でやれるならば、やってもいい」のだと思います。
直ちに連想することは「哲学者にとっての体幹トレーニング」は何か、ということです。私は前々から「形式を読む」とか「文脈の本流と傍流」とか「立体的箇条書き」とか「段落に小見出しを付ける」とか、いろいろな方法を開発してきましたが、それはほとんど「文脈の読み方」の工夫でした。
思うに、これは職人が自分専用の道具を拵えるのに似ていると思います。テレビなどで職人の仕事の遣り方を見ていますと、職人はほとんど皆、自分専用の道具を作って仕事をしています。作っていない職人の方が稀ではないでしょうか。当然だと思います。売っている道具は一般性のあるものだからです。ですから、「こういう所で役立つ道具がほしいな」と思ったら、自分で作るしかない訳です。
哲学する者にとっては「文脈を読む」ことは非常に大切な事ですから、そのための方法に工夫するのは当然です。それなのに、そのための工夫については余り聞きません。せいぜい「メモノートを作る」位でしょう。そして、そのメモノートを多数の仲間で共有するための工夫から生まれたのが「京大型メモ用紙」というのでしょうか、B6版の少し堅めの用紙です。しかし、これは「文脈を読むための道具」ではありません。
実際、文脈の読めていないことから来る間違いや誤解を発見することが多いです。もちろん私にも幾つかあるでしょう。しかし、平均よりは少ないと思っています。これは意識的に文脈を読む方法を開発しているからだと思っています。
皆さんは文脈を読む方法としてどういう努力をしていますか。独自の方法がありましたら教えて下さい。そういうものを発表しあいたいものです。
もう1つ、哲学する者に取って大切な「体幹トレーニング」があると思います。それはドイツ語の読み方です。そのための方法としてはやはり関口文法以上のものはないと思います。それなのに、どうも「この人は関口文法と格闘したな」と思える人に出会ったことがありません。直弟子の中にもそういう人に会った記憶がありません。そして、関口文法を勉強していたら避けられた間違いを発見することがかなりあります。
私には語学の才能がありませんが、関口文法という体幹トレーニングを、ほんの少しですが、したために何とか強い身体になったようです。今後も続けるつもりです。