マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

お返事

2017年08月28日 | 読者へ
お断り
 8月24日付けの金森さんのコメントに返事を載せようとして、なぜか果たせません。
 コメント欄への「利用規約に同意して」という所が分からないのです。
 何度やっても分からないので、ここに載せます。すみません。
8月28日になってしまいました。実際、私のPCは最近、物凄く不調です。時間がかかって仕方ないです。困っています。

金森様。投稿をありがとうございます。あなたの事は好く覚えています。独文科に進んで詩の研究をしていることまでは聞いていましたが、その後どうなったのかは、分かっていません。年齢からして、多分、結婚されて、お子さんもおありだろうと思います。ドイツには旅行か何かで行きましたか。どこに行きましたか。どんな感想を持ちましたか。機会があったら伺いたいものです。
コメント (2)
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お知らせ

2017年08月26日 | 読者へ

ブログ「関口独和辞典抄の目次」を廃止しました。

又、ブログ「牧野日本語辞典の目次」も廃止しました。

又、ブログ「教育の広場(第2マキペディア)」も廃止を目指して整理しつつあります。

いずれも、年齢を考えて進めています身辺整理の一環です。

よろしく。

2017年8月26日、牧野紀之
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河合小市

2017年08月25日 | カ行

車大工であった父の影響を受けて、幼いころから物事の仕組みや成り立ちに興味を持っていた河合小市は、わずか11歳で山葉寅楠の設立した「山葉風琴製造所」に入所しました。所員の中でも群を抜いた力量を発揮した小市の名は「発明小市」として、たちまち知られるようになりました。

 小市が寅楠の工場に入った1897(明治30)年、寅楠は「日本楽器製造」を創設し、本格的に日本初の国産ピアノの製造を始めます。しかし、完成した第1号の国産ピアノは、「アクション」という部分に輸入品を使ったものでした。アクションとは、打鍵するとハンマーが弦をたたくというピアノの心臓部のメカです。複雑な仕組みで、外国の技術も公開されていなかった当時、日本では誰も作ることができませんでした。

 寅楠は、国産のアクションの開発という難題を小市に命じます。研究熱心な小市は不眠不休で製作に取り組み、ついに自力でアクションを作る方法を発明。1903(明治36)年、国産アクションを取り付けたピアノを完成させたのです。

 その後も小市はオルガンの音をストップさせる「カップラー」や、手仕事でしか作れなかったピアノやオルガンの黒鍵を自動製造する黒鍵製造機など、次々と新しい機械を発明していきました。

 1927(昭和2)年に「日本楽器製造」を退職した小市は、同年に彼を慕って集まった部下たちと寺島町の自宅に「河合楽器研究所」を創設しました。

 当時まだ高価だったピアノを全国の小学校に普及させるため、小市は「昭和型」というピアノを完成。小さいながらピアノの基本性能をすべて備えた上に、およそ半分の値段で売り出されたこのピアノは、広く学校に普及していったのです。

 1929(昭和4)年、「河合楽器製作所」と名前を変えて以降も、河合楽器は日本楽器(現ヤマハ株式会社)とともに日本の2大楽器メーカーとして競い合いながら、質の高い楽器を生み出していきました。

 小市は生涯、楽器の研究を続け、亡くなる1955(昭和30)年までに28件もの特許と実用新案を取得し、浜松の楽器産業の発展に大きな功績を残したのです。
  (浜松市のメルマガ、2008年09月05日号から)

   感想

 今日のヤマハと河合の違いを考えると、技術と共に経営能力という点も考える必要がありそうです。ソニーやホンダは技術の担当者と経営の担当者の両方で人を得たと言われています。これは他のことでも言えるでしょう。

(以上、ブログ「浜松市政資料集」2008年09月06日に初出)
(ブログ「教育の広場」から移動)
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真向法(まっこうほう)の創始者

2017年08月22日 | マ行

80年以上の歴史を持つ健康法「真向法」。たった四つのボーズを合わせて3~5分繰り返すだけで、さまざまな効果が得られるという。政財界や芸能界、さらには医学界にも愛好者は少なくない。効果の秘密と正しい実践法を探った。

 真向法の創始者の長井津(わたる)氏(1889~1963)は、実業界で身を立てようと福井県から上京、死にものぐるいで働いた。だが無理がたたったのか、働ぎ盛りの42歳の時、脳出血に。左半身の自由を失い、医師にもさじを投げられ、失意のうちに故郷へ戻った。

 生家は浄土真宗の寺院。帰郷した長井氏は「勝鬘経(しょうまんきょう)という仏典に心の安らぎを見いだそうとする。この経典に定められた礼拝作法を正しく行うことで真理に近付けると考え、「座礼」と「立礼」を不自由な体で徹底的に繰り返した。

 はじめは満足に形もとれなかったが、続けていくうちに、こわばり動かなかった体が次第にゆるみ、感覚や動きが回復していったという。単純な動作を愚直に繰り返したことが、今でいうリハビリになったというわけだ。

 長井氏は自身の経験から、この動きには健康増進効果があると考え、普及にに努めた。その後、試行錯誤の末、先に挙げた二つの動作をもとにした「第一体操」「第二体操」に、「第三体操」「第四体操」を加えた四つの動作で構成する「真向法体操」を考案。今では老若男女を問わず、多くの人に愛好されるに至っている。

 『イラスト決定版 真向法体操』(毎日新聞出版)を著した公益社団法人「真向法協会」によれば、この体操は柔軟性や運動能力の維持・向上のほか、代謝や治癒力アップ、便秘解消、美容やストレス解消にまで効果がある、としている。
(『サンデー毎日』2016年06月26日号)

 感想

 私も真向法をやっていますが、その歴史と言いますか由来を知りませんでした。ネットで調べても載っていないようです。この週刊誌に載っていましたので、転載させてもらいます。

(ブログ「教育の広場」から転載)
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山葉寅楠(やまは・とらくす)、お断り

2017年08月21日 | ヤ行

 (1851年5月20日~1916年8月8日)

 1887(明治20)年、山葉寅楠35歳。医療機器の修理のため浜松を訪れていた彼が、浜松尋常小学校(現在の元城小学校)のオルガン修理を頼まれたことからすべてが始まりました。

 オルガンを見るのは初めてのことでした。それは、同校に歌唱科が設けられたのを機にアメリカから輸入されたもので、浜松ばかりか静岡県の名物でもありました。米1斗(20kg)が1円の時代に45円もした高級品です。

 寅楠はオルガンのネジを慎重にゆるめながら、故障の原因を探り始めました。故障箇所はほどなくして突き止めることができましたが、彼は思ったのです。「自分ならこのオルガンを3円でつくることができる。オルガンの国産化は日本の国益になる」。

 さっそく寅楠は、オルガンの修理をしながら、その部品や構造を図面に書いてオルガンをつくり上げます。しかし、試作品の音色を判定できる人は浜松にはおらず、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)の伊沢修二校長に見てもらうことになりました。

 苦労して東京にオルガンを運んだものの、結果は残念ながら不合格。伊沢校長の指摘は、調律の不正確さでした。それでも寅楠はあきらめません。伊沢校長に頼み込んで、音楽学校の学生となり勉強したのです。

 調律法を学んだ寅楠は、さっそく新しいオルガンをつくり、再び伊沢校長の審査を仰ぎました。すると今度は「輸入品に代わりうるほど素晴らしい」と性能を誉めてくれたのです。浜松に、楽器産業の芽が生まれた瞬間でした。

 1888(明治21)年、寅楠は菅原町(中区)に「山葉風琴製造所」を創設。オルガン製作を始めました。事業が盛んになっていく中、寅楠は「次はピアノをつくりたい」と考えます。

 1897(明治30)年、「日本楽器製造」という会社をつくり、本格的にピアノづくりに取りかかりました。寅楠はピアノ製作の技術と設備を整えるため、1899(明治32)年に文部省の使節としてアメリカ視察に出発します。5ヵ月の間、ピアノ会社など100ヵ所もの工場を視察。知識と加工機械などを手に入れて帰国します。

 すぐにピアノをつくり始め、翌年1900(明治33)年、ついに国産第1号のピアノを完成させたのです。1902(明治35)年には、グランドピアノの製造に成功。1904(明治37)年、アメリカのセントルイス万国大博覧会では、出品したピアノとオルガンに名誉大賞が贈られました。

 このころ寅楠は、質の高い楽器をつくるために優秀な技術者を育てる見習生制度をスタート。この制度は成功し、浜松の楽器産業を大きく発展させる優秀な技術者を大勢生み出すことになったのです。その功績は、まさに「楽器のまちの父」と呼ばれるにふさわしいものでした。

  (浜松市のメルマガ、2008年08月01日)

  (ブログ「浜松市政資料集」2008年08月03日より転載)

(ブログ「教育の広場」から移動)

         お断り

 私も「終活」を考えるようになりました。ブログ「教育の広場」にある有意義な記事は「マキペディア」に移して、他は抹消して、ブログ「教育の広場」を閉じることにしました。今日から始めます。かなり長い時間がかかると思います。何しろ1日に1本の記事しか写せませんので。






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ストア派の自然法思想

2017年08月10日 | サ行
   

 自然法という言葉は長い歴史の中で物凄く様々な形で使われてきました。自然法に関する理論は互いに異なったものが山ほどもあります。しかし、法による規制の正当性を規定するために自然法的道徳感覚の果たした大きな役割はみなが認めるものです。

 ギリシャ哲学は自然と(人間の作ったものである)法規ないし慣例とを厳格に区別した哲学でした。そこから慣例主義が生まれるのですが、これに反対したのがプラトン及び特にアリストテレスでした。そのため自然法の産みの親はアリストテレスだとされることが少なくありません。しかし、これには異論もあります。

アリストテレスを支持する意見の根拠の一つは『詩学』の中でソフォクレスの『アンチゴネー』が引かれていることです。その悲劇の中で、クレオン王は(アンチゴネーの兄だが反逆者である)ポリュネイケースを弔う事を禁止しましたが、アンチゴネーは王の禁令に逆らって、〔人情と言う普遍の自然法に従った〕からです。

 自然的正義と言う伝統的な考えを自然法に発展させたのはプラトンとアリストテレスに続いて現れたストア派だとされています。普遍的な体系としての自然法思想が生まれたのは古代ギリシャ世界に広大な帝国ないし王国が出来た事と結びついています。アリストテレスは、人の訴えることが出来る一層高度な法があると示唆しましたが、それは実際には物凄く自然的な法で、神による実定法の結果とは全く矛盾するものでした。ストア派の自然法はその起源が自然に由来するものか神に由来するものかには全く無頓着でした。ストア派は、宇宙には理性的で合目的的な秩序(神法ないし永遠の不変な法)があるのであり、理性的存在〔人間〕がこの秩序に一致して生きるための手段が自然法であり、これに従った行為が美徳に通ずるのだ、と主張しました。

 「人間の平等の思想はストア派が政治思想にもたらした最高の貢献であり、その最大の影響は法概念を変えた点に見て取れる」と言う人もいます(1)。
(1) ヘーゲルは、「古代ギリシャ人は偉大であったが、人間の平等の観念には達せず、これはキリスト教が初めて成し遂げたことだ」と言っています(『小論理学』第163節への付録1)。しかし、この評価によると、ストア派が既に「人間の平等」を主張していたわけですから、ヘーゲルの考えには修正が必要となります。
エンゲルスは論文「原始キリスト教と現代労働運動との類似」の中で、「原始キリスト教はストア派と新プラトン派を受け継いでいる」と言っています。これはどの点を指しているのか分かりませんが、「人間の平等」については当てはまると考えられます。

 自然法という概念はストア派が初めて使ったものです。ストア派は、神はあらゆる場所に存在し、又誰の中にもいるのであって、人間の中に在る「神の光」が自然に適(かな)った生活へと導いてくれるのである。宇宙は或る方式で設計されており、その方式と調和して生きるのを助けるのが自然法だ、と考えたのです。
 
 この考えはローマ法の根底にも流れています。至高の理性とでもいうべきものがあって、それは全ての人間の中に生きていて、自然と一致するもので、変わることがなく、永遠なものである、という考えです。万人の従うべき唯一の掟はこの理性の声を聴くことだ、というのです。
(以上、英・独・仏のウィキペディアの「自然法」から牧野が適当にまとめました)

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自然法とはどういうものか

2017年08月04日 | サ行

六 実定法(成法) と自然法(理想法)

 ① 法律を論ずる場合の重要な観点の1つに実定法(成文法)と自然法(理想法)との区別があります。実定法とは現に法律として働いている法律の事です。これに対して、自然法というのは理論的に考えて、法律として認めなければならないとされる法律ないし道徳律のようなものです。ですから、これを認めない人にとっては自然法は存在しないことになりますが、実際には多くの人に認められています。

 17,8世紀の自然法思想は、人間の本性に基づく普遍的な法律が時間と空間とを超越して自然に存在するものと考えました。そして、その原理と考えた事に基づいて、フランスで典型的な形で現れたように、古い体制(アンシャン・レジーム)を破壊しました。その結果として19世紀の法律文化が成立したのですが、20世紀の法律思想は、新たに、19世紀の法律思想も万古不変ではないはずだと考え、「内容的には変化する自然法」(シュタムラー)という事を問題とするようになりました。この考え方に依るならば、自然法は19世紀の個人法から20世紀の社会法に進化したものと言ってよいでしょう。
 (注)社会の中での企業や団体の役割が大きくなるにつれて、人間関係の中で個人間の関係よりも個人と団体、あるいは団体相互の関係が大きな役割を果たすようになりました。従って、民法でも商法でも前者を規定するのを個人法(市民法)といい、後者を規定するのを社会法(団体法)と言います。

 ② 実定法は法律として現に成立している「存在」であるのに対して、自然法は法律として成立すべき「当為」でしかないのですから、その性質において、全く相異なるものと言えます。即ち、自然法は実定法を批判する理論でしかなく、実定法は自然法による批判の如何に拘らず、とにもかくにも実際に法律として機能しているものなのです。

 しかし、法の働いている実際をよく見てみるならば、実定法の意味内容はその条文だけで決まるものばかりではなく、条文の解釈によって初めてそれの意味が判然とする場合も多い。しかるに、その解釈に当たっては、自然法上の理論に依らざるを得ない事も少なくない。従って法の実践に際して実定法の意味内容を論ずる場合には、自然法が重要な影響を及ぼすものとなるのです。判例を見ますと、屡々、「条理」に依りとか、「自然の法則」に従って事を論ぜざるをえないとする場合などは、自然法を採用して判断していると言って好いのです。又特に概括的条項(一般的条項)を運用する場合には、自然法に則って考え行動しなければなりません。例えば「公序良俗の原則」に依って判断するような時がそれです。

七 概括的条項(一般的条項)

 ① 即ち法律では屡々「公の秩序、善良な風俗」ということを規定することがあります。その最も著しい例は、民法第90条です。曰く、「公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は無効とす。」と。

 しかし、どのような基準で「公序良俗」を論ずべきかに付いては、形式的概念的な基準はありません。このような規定を概括的条項(一般的条項)と言うのです。概括的条項は事柄の価値判断に属するものですから、その性質上超法規的のもの(法律を越えたもの)です。そのため実際においては、裁判所が自由な裁量によって判定することとなるのです。民法第400条が過失の基準を規定して「善良なる管理者の注意」としているのも同じです。曰く、「債権の目的が特定物の引き渡しなるときは債務者その引き渡しを為すまで、善良なる管理者の注意を以てその物を保存する事を要す。」と。

 その他、法律は屡々、「相当の期間」「正当なる理由」その他これに類する用語を使って規定を定めることがあります。これも又概括的条項に属するものです。「信義の原則」ということもあります。我が民法には特に明文として規定されていない場合でも、大審院の判例には屡々、此の原則(「信義の原則」)の援用される場合が見られます。

 そもそも此の原則は、既にローマ法において認められたものでして、フランス民法、ドイツ民法、及びスイス民法においても明かに規定されているものです。最も包括的な規定を設けたのはスイス民法でして、その第2条に曰く、「各自は信義誠実の原則に従いて権利を行使し義務を履行すべし。権利の明白なる濫用は法律に依りて保護せらるることなし。」と。即ち社会生活の取引における全体の関係に通ずるものとして此の原則を掲げたのです。明文ではこの原則を定めていない我が国の法律の運用で、我が大審院は、此の原則は当然の事由として、予定されているものとしているのです。

 ② なお、我が大審院の判例においては、屡々、「社会の通念」という語又はこれに類する用語が見られます。これ又概括的条項に属するものと言えます。ナチスドイツの法律には、「健全なる国民感情」という語を使った規定を設けている場合がとても多いです。

 ③ 最近の立法では、諸外国の例を見ても、事を概括的条項に譲る場合が益々多くなっています。けだし、法律は権利義務の関係を明白にするのが目的ですから、規定の内容は細部までいちいち規定しないで、形式的概念的となるのは当然です。他方、法律も又、実生活の変遷に対応しなければなりません。成文法は、その性質上、実生活に完全に合ったものではありえません。そこで法律は、その時々の条文の規定を実生活に適合させ、その欠陥を適当に補う方法を明らかにしようとして概括的条項を用いるようになるのです。

 ④ 更に又、法律の運用はただ形式的に平等であればよいというものではなく、その上に実質的に公平でもなければなりません。そこから「具体的公平の原則」ということが出てきます。これは「裁判上の個別主義」とも言われるものです。裁判所が一定の範囲で自由な裁量によってその判断を下すことです。

 民法では、例えば「過失相殺の原則」がその一例です。第418条にはこうあります、「債務不履行に関し債権者に過失ありたるときは裁判所は損害賠償の責任及びその金額定めるに付き、之を斟酌す。」と。不法行為に関する第722条第2項も又「被害者に過失ありたるときは裁判所は賠償額を定むるに付き之を斟酌することを得。」との規定があります。

 概括的条項はこのような場合には重要な働きをします。かくして、具体的公平の原則は、民法では特に損害賠償事件の時にそれが適用されますし、刑法では、量刑に関して裁判所の裁量権が大きい点にそれの適用が好く出ています。量刑に関する裁量権の大なる一例としては、殺人罪に関する刑法第199条を挙げることが出来ます。曰く「人を殺したる者は死刑又は無期若くは3年以下の懲役に処す。」と。このように広い範囲が定められているので、裁判所は、具体的な事件に対してその中から適当な量刑を選択し、刑期を量定するのです。刑事事件について裁判所にこのように広い自由裁量を認めているのは、我が国の刑法が20世紀の初頭において、諸外国の立法に対し範を示したものです。諸外国の最近の立法例は漸次これに倣ってきています。

 ⑤ 法律の適用を離れて、調停制度について見ますと、調停は、専ら具体的公平の原則に依るべきものとされています。そのために、裁判所が調停に代わるべき裁判即ち強制調停を為すことになった場合については、例えば金銭・債務臨時調停法第7条は次のように規定しています。曰く、「調停委員会に於て調停成らざる場合に於て、裁判所相当と認むる時は、職権を以て、調停委員会の意見を聴き、当事者双方の利益を公平に考慮し、その資力、業務の性質、既に債務者の支払いたる利息手数料内入金等の額、その他一切の事情を酎酌して、調停に代え、利息、期限その他債務関係の変更を命ずる裁判を為すことを得。」と。

 この規定は戦時民事特別法に依り、広く調停一般(人事調停の場合を除く)に準用されています。

(牧野英一『法学通論』。これは昭和18年~19年に牧野英一が海軍経理学校で行った講義用のパンフレットです。その時の生徒が平成16年の春に再度刊行したものです。文章は牧野紀之が現代文に変えました。真意を取り違ていないことを祈ります)

  原文は→自然法
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