マキペディア(発行人・牧野紀之)

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ながく、牧野紀之の仕事に関心を持っていただき、ありがとうございます。 牧野紀之の近況と仕事の引継ぎ、鶏鳴双書の注文受付方法の変更、ブログの整理についてお知らせします。 本ブログの記事トップにある「マキペディアの読者の皆様へ」をご覧ください。   2024年8月2日 中井浩一、東谷啓吾

浜松市の巨大防潮堤についての行政と市民との話し合い

2016年01月29日 | ハ行

 昨年の12月29日の本ブログで、この巨大防潮堤の完成が2年遅れることになったとの報道をお伝えしました。これをきっかけにしてか、はっきりした事は知りませんが、市民の側(主として縄文楽校)が行政側に質問状を送ったようです。

 それに対する行政側の回答が本年1月13日、浜松市にある静岡県西部総合庁舎の702号室で、「話し合い」という形で行われました。縄文楽校の一員としてそれを知ったので、興味を持って同席してきました。出席者は、行政側が6名くらい、市民側が遅れてきた人を含めて8名くらいでした。

 会は、市民の側の質問に対して行政側が逐条的に答えるという形で進みました。全体として問題なく進んだのですが、工事の実情を知らない私には正確な事は分らないのですが、どこかの堤で3メートルの幅のある個所に「1メートル幅だけ広葉樹を植えさせて欲しい」という市民の要望に対して、行政は「それは出来ない。ここはクロマツだけと既に決まっている」と回答しましたので、もめました。

 長いやりとりになり、私と妻は途中で退席せざるをえなかったのですが、行政の答えに対して、日頃は温厚なSさんが条理を尽くして「広葉樹を植えた方が防潮という目的に適うし、広葉樹を植える事は可能だ」と主張して譲らなかった芯の強さに感心しました。

 後で聞くと、結局、行政側は「持ち帰って再検討する」という事になったようです。この防潮堤事業は「市民と協力して進める」という事になっているために、無下に市民の主張を無視することはしにくいそうです。

 そもそも縄文楽校が行政とこれほど連絡を取りながら進めているとは知りませんでした。私が入会したのは2014年の3月ですから、まだ2年も経っておらず、事情にうといのです。

 「市民の意見を聞くようなそぶりをしながら、実際には無視する」という例は沢山経験していますが、この件は今後も注意して行く事にします。なにしろ「気付かない」川勝知事と、「気付かない」鈴木康友市長ですから、どうなることでしょうか。東北では「慌てて巨大防潮堤に賛成して失敗した」という反省が出てきているそうです。我が浜松市の防潮堤も既にかなり出来てきているのですが、我々の縄文楽校への賛同者も増えてきているようです。途中で踏みとどまる英断が下される事があるのでしょうか。

活動報告、2016年1月12日

2016年01月12日 | カ行

 このところブログの更新の頻度が落ちています。最近では久しぶりに少し大き目の仕事をしているために、余力がないからです。

 前回の10月15日付けの活動報告で報告しました仕事がまだ終わっていません。要するに『小論理学』(未知谷版)のための「付録」をこの訳書に相応しいものにしようと準備をしているということでした。具体的には金子武蔵の本を読んで問題点を確認した上で、許萬元の処女論文を検討している、ということでした。

論文「評注・『ヘーゲルにおける概念的把握の論理』」は原文の3倍くらいのものに成りました。それ程多くの批評を書いたということです。
代案として出す論文は現在の案では「概念的理解の環境と構造」としてありますが、これはほぼ書いてあるのですが、終章だけ残っています。丸山圭三郎のホモ・ロクエンス仮説をしっかり調べてみようと考えたからです。

 きっかけは丸山の本で次の句を読んだことです。「サルトルに限らず、意識の明証性を重んずる西欧知の表街道の学者たちは、まことに長い間『意識以前』を学問の対象とすることを拒否していた。その理由の一つは、『主体の意識をのがれるものを対象化することは不可能である』という考えが支配的であったことに見出される。ギリシア古典期からヘーゲルに至る西欧形而上学の思考形式は、一貫してこの『対象化思考様式』であったのだから、意識野に現前しない『無意識』が学問の領域から閉め出されたのも当然と言わねばならないだろう。

 これに対してフロイトがとった戦略は、そのままでは対象化不可能と思われていた『無意識』を、一つには神経症者の臨床分析から、二つには健常者の失錯行為や夢の解釈によってアプローチしようとするものであった」(『言葉・狂気・エロス』講談社現代新書83頁)。

 これを読んで私自身も「表街道」しか知らない事を認めました。前回の活動報告でも触れました「絶対知にまで行かないで途中で止ってしまう意識をどう考えるか」の問題に繋がるかもしれない、と考えたのです。

 そこで、取りあえず丸山のものを少しずつ読んでいます。例によって「牛歩」です。現時点ではこう考えています。

 丸山は根本的には正しいことを言っていると思いますが、全体として、そのソシュール研究の場合のように細かく、厳密な所と、雑な所とがある事に気付きました。そのために誤解しているのに、自分では気付いていない大事な点もあると思います。

 何よりも、丸山は我々とは逆で、「表街道」をしっかり学ばずに、「裏街道」にばかり関心が向っているために、「表街道」に属する論文の書き方では感心しない点があります。そこで、丸山の考えを体系的に整理し直した上で疑問点については対案を出そうと思っています。そういう訳で、まだまだ時間が掛かりそうです。

 ついでに別の事を書いておきます。12月06日だったと思いますが、本ブログで許萬元の授業を受けたことのある人に、どういう授業だったかを教えて欲しいと要望しました。しかし、今に至るまで何の連絡も戴いておりません。読者の中には許萬元の授業かゼミに出たことのある人はいないのでしょうか。

 よろしくお願いします。牧野紀之