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動作名詞

2007年02月28日 | タ行
     動作名詞の主語と目的

 名詞で意味内容が動作を表しているものを「動作名詞」といいます。英語には動名詞というのがありますが、そのように一定の形をしていなくても意味が動作を表していればこれに入ります。

 すると、それは動作ですからその「主格」(その動作の「主体」を表現している語句で、「主語」とは限りません)が問題になります。また、動作が他動詞的ならばその「目的語」も問題になります。

 日本語ではこれをどう表現しているでしょうか。

 沖縄でアメリカの兵隊が少女を暴行した事件がありました。その報道に「4日に起きた米兵による少女暴行事件をきっかけに高まる基地への県民の反発を背景に」(1995,9,29,朝日)というのがあり
ました。

 その後それ以外にも「米兵暴行事件」「少女暴行事件」「米兵の暴行事件」「米兵少女暴行事件」というのがありました。

 整理すると、次の5つの型があると思います。
  A・米兵の暴行事件
  B・少女暴行事件
  C・米兵による少女暴行事件
  D・米兵少女暴行事件
  E・米兵の少女暴行事件

 AとBは動作名詞の主語か目的かのどちらか一つしか言っていない型で、Aの場合は「の」でつないでいる型、Bの場合は名詞を並べているだけの型です。

 CとDとEは動作主と目的との両方が表現されていて、Cは「~による」という助詞で主語が明瞭に示されている型で、Dは主語と目的とがただ並べられている型で、Eは「の」が使われている型です。

 Aのように「米兵の暴行事件」というと、一見したところでは、「米兵が暴行した事件」という意味だけで、「米兵を暴行した事件」と解釈する可能性は無いようです。

 しかし、「キリスト教徒の迫害」のように「事件」が付いていないと、「キリスト教徒が迫害する」のか「キリスト教徒を迫害する」のか、両方の可能性があります。これは明白です。

 次に、「事件」が付いて「キリスト教徒の迫害事件」と言うとしても、やはり「キリスト教徒が迫害した事件」という意味と「キリスト教徒を迫害した事件」という意味との両方が可能ではないかと」思います。

 「米兵の暴行事件」だと「米兵」という言葉に惑わされがちなので、「米兵を暴行した事件」とは考えにくいですが、それは言葉の内容から来ることで、表現としてはやはり両方の解釈が可能と考えた方が正しいのではないかと思います。

 もっとも、「米兵を暴行した事件」という意味なら「米兵の暴行事件」よりも「米兵暴行事件」の方が適切ではあると思いますが。

 Bの「少女暴行事件」という型は、言葉としては「少女を暴行した事件」でも「少女が暴行した事件」でも、どちらも可能だと思います。

 「少女が暴行された事件」もあるのかなとも考えられますが、日本語はこういう時でも能動形を使うという法則があるよう(「舌切り雀」か「舌切られ雀」か、を参照)ですから、やはり「少女が暴行された事件」という解釈はないと思います。

 Cの「米兵による少女暴行事件」は「米兵による少女の暴行事件」という風に「の」を入れることも出来ると思う。「事件」が付いているので「の」を入れると少し冗長な感じがしはするが、可能ではあると思います。現に、「アナリストによる業績の予想」という言葉もありました(2000,10,6,朝日)。

 Dの「米兵少女暴行事件」については、前にある名詞が主格で、後にある名詞が目的ということになると思います。名詞の順序を逆にして「少女米兵暴行事件」としてみると、少女が米兵を暴行するなんてことはちょっと考えられないから、変ですが、やはり言葉としては「少女が米兵を暴行した事件」という意味に解釈するしかないと思います。

 Eの「米兵の少女暴行事件」でもやはり「の」の付いている米兵が主格で、暴行の前に置かれている少女が目的になると思います。

 私の集めた他の用例で考え進めてみましょう。

 「私の主題とこの寓話の私の解釈とが相互媒介的な関係にあることは説明ぬきでわかってもらえると思う」(竹内好氏の文、梅田・清水・服部・松川編『高校生のための批評入門』筑摩書房から孫引き)というのがあります。

 ここの「この寓話の私の解釈」の意味は「この寓話を私が解釈する」ということで明確ですが、さっきのCDEのどれにも入りません。

 名詞の順序と主格・目的関係とで考えてみると、ここでは「の」を2つ使うことで、先に来た名詞(この寓話)が目的になり、後に来た名詞(私)が主格になっていますが、これは一般化できないと思います。

 さっきの例で言い換えてみると、「米兵の少女の暴行事件」と「少女の米兵の暴行事件」となって分かるように、好い日本語ではないと思います。

 竹内氏の場合もやはり「私のこの寓話解釈」か「私によるこの寓話解釈」にするべきだったと思います。

 しかし「IT(情報技術)社会を支える光ファイバーをめぐり、メーカーの国際再編が始まった。古河電気工業の米ルーセント・テクノロジー社の光ファイバー部門の買収はその先駆けだ」(2001,7,27,朝日)のような文だと、「古河電気工業の米ルーセント・テクノロジー社の光ファイバー部門の買収」と「の」が2つ重なっても(実際にはその中に更にもう1つの「の」があるから3つですが)おかしいとは思えません。

 もう少し検討する必要があるかもしれません。

 新聞記事の見出しは句ではなくて文ですから少し違いますが、「教師を生徒告発」という表現がありました(1997,10,7,朝日)。これは前に来た名詞が目的になっているのですが、「を」を入れることで誤解の余地を消していると思います。また「三党、結束確認」というのもありました。読点を入れて主格としたのです。

 助詞を駆使した表現としては、「学校への親の関与」とか「生徒に対する教師の愛情」というのがありました。これなどはドイツ語で言うと前置詞を介した表現に当たるのかもしれません。

 「この寓話の私の解釈」、「教師を生徒告発」、「学校への親の関与」、「生徒に対する教師の愛情」と並べてみると、「助詞を使うと前の名詞が目的になる」のかなとも思いましたが、さっきの「アナリストによる業績の予想」の場合は違いますから、そうは一般化できないようです。「不良債権処理の雇用への影響」という例もあります。

よろしくどうぞ

2007年02月26日 | ヤ行
 1、「どうぞ宜しくお願い〔いた〕します」というのはよく使う挨拶です。何をどうして欲しいのかを具体的に言わないで、ただ漠然と宜しくと言うだけで済ます、いかにも日本的ではあります。しかし、今はそういう日本人の心のあり方は論じません。

 2、この表現が少し省略されると「どうぞ宜しく」だけになります。ここまでは問題はありません。しかし、特にビジネスの世界などで人々がどういう風に言っているかを観察してみますと、「どうぞ宜しく」よりは圧倒的に「宜しくどうぞ」の方が多く使われています。私が取り上げたいのはこの後者なのです。

 3、「宜しくどうぞ」という言い方は昔からあったとは思われません。戦後も大分たってからではないでしょうか。いや、時期の問題はいい。どういう心理からこういう表現が使われるようになったのでしょうか。

 思うに、「どうぞ宜しく」の更なる省略として「宜しく」というのがありますが、「宜しく」と言った後に、これだけでは少し端折り過ぎたかなという気持ちが起きて、後から「どうぞ」を付け加えて、丁寧さの不足を補ったのだと思います。

 4、私は、「宜しくどうぞ」はこの言い方だけに限られていて、「宜しくどうぞお願いします」とは使われないものと思ってきました。しかし、昨夜、NHKのラジオ深夜便を聞いていて、N氏がそれを使うのを聞きました。今や、「宜しくどうぞ」は「どうぞ宜しく」と同格の表現と意識されてきているのでしょうか。
 (1994,05,30)

信憑性

2007年02月25日 | サ行
  使い方

 1, アニタ・ソレンスタム(36)の引退説が流れたのは今年初めのこと。5年間も守り続けてきた賞金女王の座とプレーヤー・オブ・ザ・イヤーの栄冠を逃した昨年の彼女を振り返れば、引退説は信憑性にあふれていた。
 (朝日、2007年02月21日、船越園子)

 感想・「信憑性にあふれる」という言い方はあるのでしょうか。学研の国語大辞典を引いてみますと、「その話には信憑性がうすい」と「原告の申立には信憑性が皆無といってよく、却下を希望します」(立原正秋)の2つが載っています。

 基本的には、「信憑性」は有るか無いかだと思います。従って、「~には信憑性が有る」あるいは「無い」で、それを強める表現としては、「十分〔に〕有る」「全然無い」と有無の方を強めるか、「十分な信憑性が有る」とか「わずかな信憑性しかない」と名詞の方に形容動詞を付けるかなのだと思います。

 学研に出ています「信憑性がうすい」もあるとは思います。但し、反対の「信憑性が濃い」はあまり聞いたことがありません。「疑念」なら「うすい」も「濃い」をあると思います。

大人

2007年02月24日 | ア行
     大人

   参考

 1、一人前の人というのは、自分で自分のテーマを決め、自分で自分を鍛え、自分で自分の若さを保つ。
 (大村はま『教えるということ』共文社25頁。『大村はまの国語教室』小学館13頁)

 2、自分の思想を率直に述べて、その価値の決定を将来の発展にゆだねるといったありふれた一人の哲学者、社会主義者
 (エンゲルス『反デューリング論』第2章)


家(うち)

2007年02月23日 | ア行
 1、自分の家のことを「うち」と言う場合の「うち」の漢字としては「内」が元の姿だと思います。これはもちろん「内」と「外」の対比で考える日本人独特の思考方法と関係しています。

 それはともかく、これは普通は「家」と書くようでもあります。「家」といっただけでは誰の家のことか分からないという屁理屈も考えられますが、それはそうではないと思います。

 話者の立場からみて一番大切な個物はあえてそのものでは言わずに普遍的な言葉を使うのです。政治家は自分の党のことをただ「党」と言うし、さまざまな会でもその会に属している人は自分の会のことをたいていただ「会」としか言いません(これは認識論的に大切な事ですが、関心のある人は拙稿「昭和元禄と哲学」を読んでほしい)。

 2、この「うち」はもちろん一般的にも使われます。そして「誰々さんのうち」と言います。しかし子供はたいていそれを「○○さんち」と言います。そこで有名な「山口さんちのつとむ君」という歌ができるのです。

 3、さて、この用語法に基づいて自分の「家(うち)」の事を「うちんち」と言う人がいます。子供だけかと思っていたら、大学生でもそれを使う人のいることに気づきました。

 「内」=自分の家という使い方から、○○さんの家(うち)=○○さんの立場に立っての家(うち)という言い方が出てきた。今度はその「家(うち)」が一般的なものと理解され、「うちんち」=家(うち)の家(うち)という言い方が生まれた、ということでしょう。

 言葉の誤用や変化にも法則があるのです。

言わば

2007年02月22日 | ア行
 1、「言わば」とは「敢えて言ってみれば」ということであろう。すると、その「敢えて言う」時、なぜ「敢えて」言うのか、その理由によってニュアンスが違ってくるのではあるまいか。

 関口存男氏はこの「言わば」を3段階に分けています。

 2、第1は、「不適当な言葉を使う場合の申し訳」です。

   私は言わば間違って結婚したようなものだ。
  Ich heiratete sozusagen aus Versehen.
   I got married, so to speak, by mistake.

 3、第2は、「~と言うも過言にあらず」という意味です。

   私は言わば間違って結婚したようなものだ。
   Ich heiratete gleichsam aus Versehen.
   I got married, as it were, by mistake.

 4、第3は、一番強い言い方で、「端的に評辞を出す言い方」です。「簡単に言って」「端的に言って」

   彼は言わば自殺したようなものだ。
  =彼はなんてことはないまるで自殺したようなものだ。
   Er beging geradezu Selbstmord.
   He possibly committed suicide.
   (関口存男『趣味のドイツ語』)

 5、氏はこれについて更に次のような説明もしています。

 A. Deine Behauptung wirkt geradezu komisch.
   (君の主張はむしろこっけいな気がするよ)
   この「むしろ」は、出立点となるべき否定の要素(例えば「誤っていると言うよりは(むしろ)」)を言わないで、直ちに肯定的要素に向かう「むしろ」である。

  これに対して「どちらかと言えばむしろ~」の意を表すには eher, mdehr, vielmehrである。

  B. Sie ist geradezu schoen.(彼女は端的に美しい)
   別に非常に美しいとか、どういう風に美しいというのではなく、単に schoen という言葉が「多少極端かもしれないが」非常によくあてはまる、という意味である。
  (関口存男『独作文教程』)

異例

2007年02月21日 | ア行
 次のような文がありました。

 「ピエルサ(アルゼンチンのサッカーチームの代表監督)は無名選手から27歳で指導者に転身。卓越した分析力を武器に1998年、43歳の若さで異例の代表監督に就任した」(2002,06,22,朝日)

 私の問題にしたいのはこの「異例の」という言葉の使い方です。意味はもちろん分かります。しかし、この言い方で好いのでしょうか。

 教育社の「現代国語例解辞典」で似た例を見ますと、「新人でいきなり主役にばってきされるのは、異例のことなんだよ」がありました。

 ほかに、通常の使い方では「この冬は、太平洋側でも大雪になるなど、異例の寒さであった」が挙げられています。

 つまり「異例の何々」と言う場合は、「何々は異例だ」と言えなければならないのです。

 しかし、先の例では「代表監督は異例だ」と言えるでしょうか。「43歳の若さで代表監督になることが異例」なのです。ここに私の感じた「おかしさ」の理由があります。

 ではどう言ったら好いのでしょうか。あまり好い対案は出てきませんが、一応次のものを考えました。

 A・卓越した分析力を武器に1998年、43歳の若さでは異例の代表監督に就任した。(「は」を入れる)
 B・卓越した分析力を武器に異例にも1998年、43歳の若さで代表監督に就任した。(「異例」が評辞であることをはっきりと出す)
 C・卓越した分析力を武器に1998年、43歳の若さで代表監督に就任した。(「43歳の若さで」の中に既に「異例にも」という趣旨が入っていると考える)

 私見ではCBAの順で好い日本語だと思います。

運命

2007年02月20日 | ア行
   参考

 1、古代人は周知のように必然を運命と考えていたが、近代の立場はこれに反して慰めの立場である。慰めとは一般に我々が自分の目的や利益を断念する時、その代償が得られるだろうという思い込みをもってそうすることであるが、運命はこれに反して慰めのないものである。
 (ヘーゲル『小論理学』 147節への付録)

宇宙

2007年02月19日 | ア行
 1、紀元前二世紀の中国(前漢時代)で著された『淮南子』(えなんじ)に「往古来今謂之宙、四方上下謂之宇」と解かれている。つまり、「宙」とは往古来今すなわち時間を、「宇」とは四方上下すなわち空間を意味するというのである。

 ~宇宙をたんに空間的な広がりとしてだけでなく、時間を含む概念としてとらえたところに注目すべき点がある。~

 西欧で宇宙に相当する言葉はコスモスあるいはユニバースである。天体宇宙にコスモスという名称を与えたのはアルキメデスだとされており、そこにはギリシャ語本来の「秩序」「調和」「美しさ」といった価値観が含まれている。そして人間にとって意味のある秩序だった世界観がコスモロジーである。/

 一方、ラテン語に発するユニバースには「統一」とか「普遍」の意がこめられていて、ユニバースの宇宙は人間中心のコスモスより自律的であるといえるだろう。

 宇宙は人類の存在の有無にかかわらず、より普遍的な法則によって統一されている。ここでは宇宙における人類の意味や地位はおろか、天体の存在や配置すらが、つきつめていえば偶然の所産になる。それがユニバースである。
 (松井孝典『宇宙誌』徳間文庫)

意志

2007年02月18日 | ア行

   参考

 1、精神と思考と意志の関係

  (1) 精神は思考一般である。
  (2) 一方に思考、他方に意志、という関係ではない。
  (3) 思考は理論的振る舞い。意志は実践的振る舞い。

  (4) 意志は思考の特殊な様式である。定存在の中へと自己を移し置くもの、自己に定存在を与える衝動としての思考である。

  (5) 意志は思考の中で始まる。初めは思考に対立しているものとして現象する。行為するとは、自己を規定することである。即ち、区別を立てることである。しかし、この区別行為
の規定は私のものである。

  (6) 理論的なものは実践的なものの中に含まれている。意志は自己規定する。この規定(目的意識のこと)はさしあたっては内的なものである。動物も内的なものに動かされる。しかし、それを表象しないのである。

  (7) 意志なくして思考することはできない。

  (8) 意志の根本規定は自由である。(略)自由なき意志というものは空虚な単語であり、自由はただ意志として、主体としてのみ現実的なのである。
(以上、ヘ-ゲル『法の哲学』第4節への付録)

 2、自我の中に見出されるどのような内容でも捨象しうる絶対的可能性としては、これ(普遍性としての意志)は否定的な自由、悟性の自由である。(ヘ-ゲル『法の哲学』第5節への注釈)

 3、恣意とは意志として現れた偶然性である。それは矛盾としての意志である。その真理における意志ではなく、形式的には自己規定であるが、内容から見ると外から規定されている。(ヘ-ゲル『法の哲学』第15節及びその注釈)

 4、たしかに恣意はあれかこれかを自分で決める能力ですから、その概念からいって自由な意志の一つの本質的な契機ではあります。しかし、それは決して自由そのものではなく、さしあたってはたんに形式的な自由にすぎません。

 恣意を止揚して自己内に含み持つ真に自由な意志は、自己の内容を絶対的に確実な内容として自覚し、その内容を端的に自己自身の内容として認識しているのです。

 それに対して、恣意の段階に止まっている意志は、内容的に見て正しい決定をしたとしても、その気になれば別の決定も出来たのだという思い上がった考えを持っているのです。

 更に細かく見ると、恣意の中ではいまだに形式と内容が対立しており、その意味で恣意は矛盾です。

 恣意の内容は与えられたものであり、意志自身の中に根拠づけられてはおらず、意志の外にある諸々の条件から来るものであることが分かっている。

 従って、そのような内容面での自由とは、選択という形式的な事にほかならない。

 よくよく分析してみると、この意志の選んだ内容を条件づけた外なる諸事情は、この意志がまさにその内容を選ぶように決めているということが分かるのであり、その限りでこういう形式的自由は又通俗的な自由のことにほかならないのである。(ヘ-ゲル『哲学の百科事典』第145 節への付録)

 5、意志は、知性とは違って、外部から与えられた個別的なものをもって始めるのではなくて、自分が自分のものとして知っているような個別的なものをもって始め、次にこの内容(もろもろの衝動及び傾向性)から自己内に反省して、この内容を普遍者に関係させ、そして最後に自分を自己自身において普遍的なもの、自由、自分の概念に対する意欲に高める。(ヘ-ゲル『哲学の百科事典』第387 節への付録)

 6、意志の世界〔つまり歴史の世界〕は偶然に任されてはいない、という信念と思想こそ、歴史考察にあたって持たなければならないものである。(ヘ-ゲル『歴史における理性』29頁)

 7、意志が普遍的なものを意志する時、その時に意志は自由になり始める。普遍的なものを意志するということは、思考の思考(普遍者)への関連を含んでおり、従って思考は自分自身の元にあるのである。(ヘ-ゲル『全集』18巻 118頁)

エネルギー

2007年02月16日 | ア行
   参考

 1、エネルギーという表現は確かに運動の全ての関係を正しく表現してはいない。というのは、それは一つの側面である作用〔の面〕を捉えてはいるが反作用〔の面〕は捉えていないからである。

 それは更に、エネルギーが物質にとって何か外的で、物質に移植されたものであるかのような外観を許している。

 しかし、それは力という表現よりはどんな場合でもより良いものとされなければならない。
 (エンゲルス『自然弁証法』)


英雄

2007年02月15日 | ア行
   参考

 1、偉大な行為をなし遂げたいと思う人は、自分を制限することを知らなければならない、とゲーテは言っている。
 (ヘーゲル『法の哲学』第13節への付録)

 2、何か役に立つような事をする人は、あれこれと多くの目的に自分を分散させない。彼はその真の大きな目的にすべてを捧げるのである。
 (ヘーゲル『歴史における理性』)

 3、国家の中では〔国家が出来てからでは〕英雄は存在しえない。英雄はただまだ形成されていない状態でのみ現れるのである。
 (ヘーゲル『法の哲学』第13節への付録)

 感想・ヘーゲルは指導者を革命的指導者(新しい社会秩序を作る運動の指導者)と体制的指導者(所与の体制内でその体制を発展させる運動の指導者)とに分けて、前者だけを英雄と呼んでいるようです。

 4、自分の個人的で特殊な目的が世界精神の意志でもある実体的なものを含んでいるような人々が世界史における偉人である。この内容が彼らの真の力であり、この内容は彼らの無意識的な一般的本能の中にあるのである。

 彼らは内からそこへと突き動かされていくのであって、そのような目的の遂行を自分の利益と考えて引き受けた本能と比べて、自分の利益に反してまでやろうという心構えを一層多く持っているわけではない。

 民衆は彼の旗の下に集まる。彼は民衆に民衆の本当の内在的な衝動は何かを〔民衆を代表して〕示し、それを遂行するのである。
 (ヘーゲル『歴史における理性』)

 5、世界史的人物の立てた目的は人々の心の中に実際にあったものである〔それを外に出して明確に立てただけである〕。
 (ヘーゲル『歴史における理性』)

 6、なるほどすべての偉大な人々は孤独の中で自己を形成した。しかし、それはただ国家が既につくり出しておいたものを自分で加工したにすぎないのである。
 (ヘーゲル『歴史における理性』)

 7、個人の世界史的なあり方、つまり個人の世界史と直接結びついたあり方。
 (マルクス『ドイツ・イデオロギー』)

 8、経済学者たちがブルジョア階級の科学的代表者であるのと同じように、社会主義者たちと共産主義者たちはプロレタリア階級の理論家である。

 プロレタリアートがまだ自己を階級に構成するほどにまで発達していない限り、従ってプロレタリアートとブルジョアジーとの闘争そのものがまだ政治的な性格を持たない限り、そしてまたブルジョアジー自身の胎内で生産諸力がまだプロレタリアートの解放と新しい社会の形成とに不可欠な物質的諸条件を予見させるほどにまで発展していない限り、これらの理論家たちは抑圧されている階級の窮乏を予防するために色々な社会体制を案出したり、社会を再生させるような科学を追い求めたりする空想家にとどまるしかないのである。

 しかし歴史が前進し、それと共にプロレタリアートの闘争が一層はっきりしてくるにつれて、プロレタリアートの理論家たちはその科学を自分の精神の中に捜し求める必要はなくなる。彼らは自分の目の前で起こっていることを理解し、その器官になりさえすればよいのである。
 (マルクス『哲学の貧困』)


衛生

2007年02月14日 | ア行
 1、明治政府の医務局長兼衛生局長だった長与専斎(1838~1902)が「荘子」の中にあるこの語をとってドイツ語の Gesundheitspflege(ゲズントゥハイツプフレーゲ)の訳語とした。
 (2002,8,22,日経の外山幹夫の文章による)


頭の中

2007年02月13日 | ア行
 ① 「頭の中が真っ白になった」という表現がある。茫然自失して何も考えられなくなった時の気持ちを表すのだと思う。

 01、これからという時の致命的なけが。頭が真っ白になり、体から力が抜けていった。(2001,11,14, 朝日)

 感想・これはおかしい。「頭が真っ白になる」というのは頭髪が真っ白になるということである。しかし、その後NHKの番組「京都祇園祭」の中でも「頭が真っ白になったらどうしよう」という台詞を聞いた。こういう言い回しが一般化し始めているのかな、と思った。

 2001年12月19日付けの朝日新聞に載った卓球の福原愛さんの話(日本選手権の開会式で選手宣誓をした感想)の中にこうあった。「もうパニック状態。頭の中が真っ白だった」。これを読んで少し安心した。

 付記。2003年1月14日付けの朝日新聞夕刊の「舞の海、戦士のほっとタイム」で恩田美栄さんの言葉の中にやはり「でも、全日本選手権のときは、正直言って頭が真っ白でした」というのがあった。今ではこの言い方がかなり広まっているようだ。(2003年1月15日記す)

 ② 例えば「真っ赤な嘘」といったように何か必ずしも物質的でない事柄を色で表す場合、それは単に習慣でそうなっているのではなく、心理的な根拠があるのだと思う。「頭の中が真っ白になる」というのもそういう場合に実際に真っ白になったような感じがするからそう言うのだと思う。

 01、しかしその言葉は、つぎの瞬間何の苦もなく腑(ふ)に落ちて、文四郎の頭のなかで音立ててはじけた。文四郎は目の前が真っ白になったような気がした。(藤沢周平『蝉しぐれ』)

 感想・これはやはりおかしいのではあるまいか。「目の前は真っ暗になる」ものではなかろうか。

 ③ 「頭の中」と結びつく言い回しにはこの他にどんなものがあるだろうか。「頭の中が空っぽだ」「頭の中に詰まっている」「頭の中に入っている」「頭の中にない」などが浮ぶが、このほかにもあるだろう。これらは「中」を取って、「頭が空っぽだ」等とも言うかもしれない。

 ④ 今回「頭の中が真っ白になる」という言い回しについて辞書で調べようと思ったが、どこを探していいのか分からなかった。「頭」でも「真っ白」でも出ていなかった。「頭の中」という見出し語はなかった。もちろん私の調べた二三のものだけで言うのだが。辞書を調べる時にはよくこういう事がある。学問的に厳密でなくてもいいから、常識的に引けるようにしてほしいものである。知らないからこそ調べるのだからである。

きっての

2007年02月12日 | カ行
 1、或る小説を読んでいたら「彼はわが銀行内きっての岳人だった」という表現に出会いました。

 「~きっての」という言い回しはその前に「内」を入れてもいいのでしょうか。

 2、小学館の『現代国語例解辞典』によると、「きっての」という言葉は「地域、場所などを示す語に付いて、その範囲の中で最もすぐれていることを表す」とあります。

 3、いろいろな辞書に挙がっている使い方を見ますと、

 わが校きっての秀才、
 当代きっての名人、
 大会きっての呼び物、
 この町きっての鰻釣りの名人、

などがあります。

 しかし、「町内きっての金持ち」という表現を挙げている辞書もあります。しかし「町内きっての金持ち」と言うでしょうか。「町一番の金持ち」くらいではないでしょうか。

 もう少し用例を調べてみたいと思います。