マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

お知らせ

ながく、牧野紀之の仕事に関心を持っていただき、ありがとうございます。 牧野紀之の近況と仕事の引継ぎ、鶏鳴双書の注文受付方法の変更、ブログの整理についてお知らせします。 本ブログの記事トップにある「マキペディアの読者の皆様へ」をご覧ください。   2024年8月2日 中井浩一、東谷啓吾

割り

2006年10月30日 | ワ行
 (1) ゴルフで今季2勝目をあげた選手の言葉が新聞に載っていました。

 「勝てるチャンスをいっぱい逃してきた悔しさからしたら、今季1勝したくらいでは割が合わないと思っていた」
  (2006年10月30日、朝日)。

 問題はここで「割が合わない」という言い方はあるのか、です。

 (2) 学研の「国語大辞典」を見ますと、「割に合う」が載っていまして、「与えるものと受け取るものが釣り合う。それ相応の利得がある。引き合う」と説明してあります。

 (3) 要するに、AとBの比率が「本来の比率」になっているかだと思いますが、それを「割が合う」と言いますと、AとBにとって超越的なところから見た表現になると思います。

 しかし、それを「割に合う」と言いますと、Aを前提して、自分が受け取るBが本来自分が受け取るはずの量に達しているか否かを言うわけですから、Bの方から、つまり自分の方から見て言う表現になるのだと思います。

 (4) 教育社の『現代国語用例辞典』には「割に(が)合う」と書いています。つまり、「割が合う」という言い方も増えてきているということなのでしょう。
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奴(やつ)

2006年10月28日 | ヤ行
 (1) 「新明解国語辞典」は「口頭語」とした上で、「人(物・事)を第三者的に突き放して言う言葉。文脈により、親愛、敬愛の意を含めて言うこともある」と説明しています。

 いい奴(人、存在)だった、よくある奴(手・物)だ。

 (2) かつては男性が使い、女性はあまり使わなかったのではないかと思います。しかし、最近は女性でも使うし、ものすごく広く多くの事について使われるようになったと思います。

 例えば、「徹子の部屋」で黒柳徹子さんが野球のスパイクのことを「スパイクって言うんですか、あの足に履く奴」と言っていました。女子学生でも今や当たり前みたいに使います。例えば、VTRについて、名前が分からない時、「あの学生寮の奴(学生寮を描いたVTR、という意味)」といったようにです。

 (3) 又、私の考えでは、複数として使う「奴ら」は人間のことにしか使わないと思います。そして、その時はたいてい軽蔑的なニュアンスがあると思います。
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形而上学

2006年10月27日 | カ行
 (1) 形而上学という日本語は英語の metaphysicsの訳語として生まれたのでしょうが、これと同じ欧米語はみな、ギリシャ語の metaphysika (メタフュシカ)に由来します。

 しかるにこのギリシャ語はアリストテレスの本に後の人が付けた名前です。アリストテレス自身はその本を「第一哲学」と呼んだようですが、それを編集する際に physika(自然学)の後に置かれたという理由で、「後」にあたる meta を付けてその名としたのです。

 (2) 日本語の訳者も「形(を持った物)より上(の事柄を扱う)」という意味で「形而上」という言葉を作ったのでしょう。

 (3) しかるにこの本は内容的には「存在の一般的規定」を扱ったり、最高の実在として「純粋形相」を想定したりしていました。そのためこの語は第一に、超感覚的な存在を想定してそれを思弁(純粋な思考)によって認識する学問という意味になりました。この意味での形而上の対概念は形而下です。

 (4) しかし、第二に、必ずしも超感覚的とは限らず、存在一般の規定を考えたり、従って世界観的な思考をする学問を形而上学と言う場合も多いです。この意味では観念論的なそれも唯物論的なそれも可能です。

 (5) 第三に、しかるに不可知論や実証主義の立場に立つ人々はこういう一般的な事柄の認識は原理的に不可能だとしますので、経験を越える事柄を認識する学問をすべて形而上学とします。

 (6) ヘーゲルはたいてい第二の意味で使い、自分自身の論理学は本当の形而上学だと考えていました(参考の01を見よ)。その時、自分以前のドイツで通用していた形而上学、特にヴォルフのそれを「古い形而上学」と呼び、その考え方の特徴は悟性的であることだとしました。

 (7) エンゲルスはこの用語法を踏まえて「悟性的」という意味で「形而上学的」という言葉を使い、その意味での「形而上学的な考え方」を「弁証法的な考え方」に対置しました。しかし、弁証法的な考え方と対立する考え方を「形而上学的な考え方」と呼ぶのはエンゲルスだけの特殊な用語法です(参考の05を見よ)。

 エンゲルスはこれを使った『反デューリング論』の中で、従って又『空想から科学へ』の中で、この「形而上学的な考え方」という言葉を使う時、「いわゆる」という言葉を冠していますが、そういう呼び方は当時はやっていたのでしょうか。

 多分、ヘーゲルの用語法を踏まえてという気持ちだったのでしょう。しかし、やはり「悟性的な考え方」と呼ぶ方が正確だったと思います。それを理解するためにも、又エンゲルス的な意味が極めて特殊であることを知っておくためにも、形而上学という言葉の諸義を正確に理解しておかなければならないと思います。

   参考

 01、形而上学とは、思考の一般的な規定の全領域のことにほかなりません。それはいわばダイヤモンドの網のようなもので、我々は[自分の直面した]全ての素材をその中に投げ込んで理解するのです。教養ある人なら誰でも皆、自分の形而上学を持っています。それは本能的に働く考え方であって、我々はその力に絶対的に支配されています。それを統制するには、その自分の考え方を対象化して認識しなければなりません。(自然哲学246節への付録)

 01の説明
 意味とは単語と単語との結びつきのことであった。したがって、ある個人が意味の世界を持っているということは、まず、いくつかの単語を知っていることを前提している。この個人の知っている単語のことをその人の「所有語」という。しかも、その人はそれらの所有語に何らかの結びつきをつけているということである。「人間は理性的な動物である」と理解している人は、人間と理性と動物とを結びつけている、といった具合である。その結びつきがどのようなものか、それが正しいかどうかは今は問題ではない。何らかの結びつきがあればよいのである。へーゲルはこれをダイヤモンドの網にたとえている。そして、個人のもつ意味の世界のことを「形而上学」と呼び、「人は誰でも自分の形而上学を持っている」とも言っている。これは我々が普通「ある人の思想」と呼んでいるもののことである。(牧野紀之「生活のなかの哲学」166頁)

 02、17世紀の形而上学(デカルトやライプニッツ等)はいまだ実証的な内実を持っていた。それは数学や物理学及びその他の形而上学に属するとされていた諸科学でいくつかの発見をしたのである。(マルエン全集第2巻134頁)

 03、形而上学的思考方法は、個々の事物に囚われてそれらの間の関連を忘れ、事物の存在[現状]に囚われてその生成と消滅を忘れ、事物の静止状態に囚われてその運動を忘れるからであり、それは木を見て森を見ないからである。(マルエン全集第20巻21頁)

 04、形而上学──事物の科学──運動の科学ではない。(マルエン全集第20巻476頁)

 05、エンゲルスが「弁証法」と対立させて用いる「形而上学」とは、ヘーゲルが「弁証法」と対立して用いた「悟性」という言葉の異なった表現であるにすぎないであろう。エンゲルスがどうして「形而上学」という語を「弁証法」と対立するものとして用いるようになったかについては、おそらく、ヘーゲルが『エンチクロペディー』の「予備概念」において、「古い形而上学」の悟性的性格を指摘したことに由来するであろう。(許萬元『ヘーゲル弁証法の本質』青木書店、第3編第3章)

 用例

 01、このひっそりと暮らしている一人の男の毎日の行動を、デ・シーカの眼で見つめていれば、すべての日常的な些事が一種の形而上学的な意味(「それが人生だ」)を帯びてくる(朝日、2002年01月23日)

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一方

2006年10月26日 | ア行
 (1) 「一方」で辞書を引くと、もちろんその元の意味は「1つの方面」ということですが、そのほかに「2つある内の1つ」「片方」という意味があります。

 そして、これは辞書には必ずしも載っていないようですが、そこから出た用法の1つに「一方では、他方では」という対比的な言い方があります。

 しかし、今では、多くの場合、それに代わって「一方では~、一方では~」という言い方が使われるようになっています。英語でも on the one hand .., on the other hand .. ですし、「一方では~、他方では~」が本当だと思うのですが。

 しかし、用例を見れば分かりますように、「一方では、一方では」もかなり以前から使われているようです。

 又、同じような表現に「片や~、片や~」というのがあることにその後気づきました。

(2) 「一方では、他方では」の用例

  1, しかし、気をつけなければならないことがある。一方の重要性を強調するあまり、他方をまったく否定するような二者択一の議論は非建設的だということである。
  (2002,1,25,朝日)

  2, しかし一方で死後の世界に、天国と地獄、極楽と地獄があるとし、他方でそこに住む死者の心には身体がないとするのには、無理があるだろう。
  (2004,10,19, 朝日。加藤周一)

 (3) 「片方が、他方が」の用例

  1, 工場から電車路に出るところは、片方が省線の堤(どて)で他方が商店の屋並に狭められて、細い道だった。(小林多喜二「党生活者」)

 (4) 「一方では、一方では」の用例

  1, たとえば、朝すれ違って「おはよう」という言葉を交わす。一方にとってはただの挨拶でも、一方にとってはそれだけで、一日が輝いてしまうことだってある。(俵万智と読む恋の歌百首23)

  2, 「青鞜」に集った「新しい女」は、一方でもてはやされ一方で日本の公序良俗を破壊するものとして世のひんしゅくを買う。
  (2002,07,30, 朝日、早野透)

 (5) 「他方では」だけの用例

  1, ライシュの主張は、だから産業革命期のラッダイト運動のように、新しい機械打ち壊し運動でこの流れ〔ニューエコノミーの流れ〕を逆転させよ、というのではない。他方で、マイナス面には目をつむり、流れを加速させようということでももちろんない。
  (2002,8,11,日経)

  2, 言語学は他の学問とおなじく、専門用語を用い、かつ言語学上の専門用語なしには成立し得ない。文法にとってはとりわけギリシャ以来の学術用語がある。ところがこれらには、弱点として首尾一貫性に欠けるところがあり、他方長所としては世間に広く通用していることがある。(『テクストから見たドイツ語文法』三修社、19頁)

 感想・この「他方」も正しいと思う。多くの人はここを「一方」とするが、ここは、多分、原文が andererseits とかになっていたのであろう。現代語の流れに無意識な訳者が直訳したおかげで正しくなったのだと思う。

 (6) 「一方では」だけの用例

1, いま日本経済はあやうく、政治はひどいことになっている。一方、日本語に対する関心がすこぶる高い。この二つの現象は別々のことのように受取られているけれど、実は意外に密接な関連があるはずだ。
  (2002,7,31,朝日、丸谷才一)

  2, 日産は「投資判断に対する干渉は一切ない」と言う。一方、複数のアナリストからは「〔投資評価の〕引き下げにこれほど敏感な会社は珍しい」といった声が漏れてくる。  (2002,8,10,日経)

 感想・こういう場合も、本当は「他方」と言うべきなのではなかろうか。「一方」は言われていないだけで意識の中では前提されているのだからである。

 大野・田中『必携国語辞典』(角川書店)は「一方」のこの用法に気づいていて、「もう一つ別の面では。さて」として「一方、親の側からみれば」という使い方を挙げています。

 この辞典は「他方」の語釈の中に「また、一方では」というのを挙げて、「他方は赤である」「明るい性格だが、他方さびしがり屋でもなある」という使い方を挙げています。どちらも認めているようです。

 (7) 「~〔の〕一方〔で〕」の用例

  1, 今日では、株価万能経営の破綻から米国型への不信が一挙に高まる一方、日本型モデルを見直す機運がみられる。
  (2002,8,28,日経)

 感想・2つの事を対照的に言う場合、先に言う方が「一方」で後に言う方が「他方」だとするならば、ここは先に言う方の事だから、ここなら「一方」で好いと思う。

 表面的に見ても、この「一方」は前の文の最後に付いていて、その後に読点が打たれている。

  2, 阪神は星野仙一監督が編成の全権を握りチーム強化に成功した一方で、全責任を負った。(2003,10,13, 朝日)

 (8) 「その一方で」の用例

  1, 〔第2東名建設は〕「県政の最重要課題の1つ」(神奈川県)、「道路はつながってこそ意味がある」(愛知県)と総決起大会に臨んだ両県副知事も述べて、第2東名が通る三県はスクラムを組んでいる。/ その一方で、日程に制約があったとは言え、県知事
自らが出席したのは静岡だけというのは気になる。
  (2002,08,23, 日経)

 感想・ここに「その一方で」と言うのは、私もあると思う。ここに「他方」はあるのだろうか。ないとも言えない気もするが、あるとも断言しにくい。

 (9) 「片や~、片や~」の用例

  1, (「フォークナーと中上健次」のテーマで開かれた熊野大学夏期特別セミナーの記事で)片や米国の深南部の、過去の歴史に縛られた息苦しい土地を舞台に、片や紀州熊野の路地という、これまた濃密な地縁血縁に彩られた場所・・フォークナーも中上も、故郷をモデルに独特の「物語群(サーガ)」と呼ばれ連関する大きな作品世界を持つ。
  (2003,8,11,朝日。大上朝美)
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舌切られ雀

2006年10月25日 | サ行
   「舌切られ雀」と言わない理由

 なぜ「舌切り雀」と言って「舌切られ雀」と言わないのでしょうか。

 まず、「舌切り雀」型の用例と「舌切られ雀」型の用例を集めてみると、前者はあるけれど、後者はないのです。

 前者の例を列挙します。

 1, 忘れえぬ思い出

 2, 裏長屋──人家の裏の方(裏通り)に建てた(みすぼらしい)長屋(『新明解国語辞典』)

 3, 士官が、呟いた。いかつい顔、がっしりと鍛え上げた体格とは、およそ似つかわしくないロマンチックな言葉だった。
  (伴野朗氏『霧の密約』63回)

 4, メディアが丸裸にした被害者
  (『アエラ』50号の記事の標題。医師が妻と二人の子供を殺害して、海に捨てた事件の記事)

 5, 「ふれ合い小さな絵画展」と題したこの展示会
  (ラジオ、1994,12,17)

 このように、受け身でもよいところに能動形が好んで使われています。要するに、日本語はこういうものだというだけの話ではないでしょうか。

 外国語で似た例を考えてみます。

 日本語・人っ子一人見当たらなかった。

 英語・Nobody was to be seen.
     × Nobody was to see.

 独語・Niemand war zu sehen.
     × Niemand war gesehen zu werden.

 つまり、英語は受動形を使うが、ドイツ語は(表面的には)能動形を使う(ただし、意味は受動なので、文法としてはこれを「未来受動分詞」と言う)。

 この時、なぜ英語では to see と言わないのか、なぜドイツ語では gesehen zu werdenと言わないのか、という質問を出したとします。答えは「そういう習慣になっている」としか言えないでしょう。

 この場合も、英語には The room ist to let. と You are to blame の二つの例外がある。ドイツ語には例外はない。

 では、なぜ英語のその二つの場合は例外になったのか、という問題を出してみます。すると、歴史的な経緯で答えることは出来ても、原理的な答えとしては、ただ「そうなっている」と言うしかないでしょう。

 言葉の学問は最後は「習慣」に行き着きますが、それはソシュールが明らかにしたように、言葉の本性として「恣意性」ということがあるからです。しかし、その「習慣」を確認するために、しっかり用例を調べて見なければならないのです。

 もう一つ。「最後は」習慣に行き着くのですが、習慣も一度出来てしまうと、その後の言葉のあり方に対しては影響力を持つ。従って、ある表現がそれに先行するどういう表現から影響を受けているか、ということは問題になりうる。習慣の内部での関連である。今
の「舌切り雀」についてそれを考えてみます。

 井上ひさし氏の『私家版日本語文法』(新潮文庫)によると、日本語では利害を感ずるという意味で人格を認められる主体に対してのみ受け身表現が認められていた。しかし、明治以降、非情の物にもそれが認められるようになり、又自然可能的な受け身表現(自然
に~される、~と考えられる、といった表現)も西欧語の影響で生まれた、そうです。

 そうだとすると、「舌切り雀」の雀は有情主体だから受け身表現は可能だったはずです。従って、ここで更に、受け身表現の可能な場合でも、どういう場合には能動表現が使われ、どういう場合には受け身表現が好まれるか、という問題が生まれます。

 私はこれに一般的に答えるだけのものをまだ持ち合わせていません。しかし、今では英語の影響で受け身も奇異に感じられなくなったが、昔の人には原則として能動が自然だったのではないだろうか、という仮説を持っています。
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驚かされる

2006年10月24日 | ア行
  (1) 辞書を引くと「驚く」が自動詞で、「驚かす」が他動詞となっている。

  (2) 問題は「驚く」と「驚かされる」との使い分けである。

 私の感覚では「驚いた」で十分な場合に「驚かされた」と受け身表現を使う人が多い。この使い分けには何か原則があるのだろうか。

 英語が入ってきて be surprised という表現に慣れた人がそれの直訳を使うようになって「驚かされた」という言い方を奇異に感じなくなったのではあるまいか。

 しかし、以下の用例を見ると、漱石の頃もすでに使われていたことになる。すると、かなり古いのだろうか。

 いずれにせよ、辞書はこういう事にも指針を与えてほしいと思うのである。

   用例

1, 私は急に驚かされた。(漱石『こころ』上12)

2, 有ると思った財産は案外に少なくって、却って無い積もりの借金が大分あったに驚かされた(漱石『門』4)

3, 授業で大学1年生と一緒に文学作品を読んでいていつも改めて驚かされるのは(『知の技法』東大出版会)

4, 記者会見で辞任を表明した国防相は、涙を流してわびたという。/驚いた。軍がらみの事故でこれほどの透明性は初めての経験だ。

  (朝日、2001年11月13日)
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2006年10月23日 | マ行
 (1) 無の音読みはどういう時に「む」と読み、どういう時に「ぶ」と読むのか、私自身何度も間違えた経験があるので、漢和辞典はその原則を示してくれないかと思ってきました。

 たしかに「ム」は呉音で、「ブ」は漢音だとは書いてあります。これだけで玄人には分かるのかもしれませんが、素人には分かりません。

 しかし漢和辞典の編集者はこういう問題意識を持っていないようです。思うに、辞書の目的は意味を説明することであるという先入観が強すぎるのではないでしょうか。

 結論として、これには原則はないらしい。それならそれで「読み分けの原則はない」と書くべきでしょう。

 数から言うと「ム」と読む場合の方がはるかに多いようです。

 (2) 「む」と読む例のいくつか。無理、無駄、無用、無垢、無縁、無数、無効。

 (3) 「ぶ」と読む例のいくつか。無愛想、無精、無聊、無沙汰、
無難、無事、無頼。

 (4)「死」も、不死鳥(ふしちょう)と読んだり、不死身(ふじみ)と読んだりします。区別する基準を辞書に書いて欲しいのです。

   関連項目

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下り坂

2006年10月21日 | カ行
 (1) 下り坂と上り坂とは、それ自体としては同じものですが、係わる人の立場から見て、同じものがあるいは下り坂になり、あるいは上り坂になるわけです。ですから、古代ギリシャのヘラクレイトスが「上り坂と下り坂とは同じである」と言ったとかいう話もあるわけです。

 (2) 比喩的な使い方の第1としては、人間や物事について、それの力が衰えつつあることを「○○は下り坂である」と言う場合があります。

 では逆の場合はどう言うのでしょうか。「○○は上り坂である」とも言うようですが、あまり聞きません。「上り坂である」「上向きである」とは言うかもしれません。

 会社の業績などならば、業績は好調である、上向きである、などでしょう。

 (3) 比喩的な使い方の第2としては、天気について、「雨に向かいつつある」場合、「天気は下り坂である」と言います。

 しかし、最近は、それと同じ意味で「天気は下り坂に向かっています」という言い方をよく聞くようになりました。これは、文字通りに取ると、「今は平地を進んでいるが、その内下り坂になる」、
つまり例えば、「今日明日くらいは晴れのままだが、明日の夜あたりから悪化していく」という意味になると思いますが、実際はそうではなく、既に「悪化しつつあり、雨に向かっている」という意味です。

 尚、この「天気は下り坂である」は、台風とか暴風雨とかいったものが来そうな場合には使わないと思います。普通の雨程度に向かっている場合だけだと思います。

 (4)朝日新聞の「神宮球場80歳」という連載の中に次の文がありました。

──大学野球とスワローズ。同じ神宮を使いながら、交流はほとんどない。~過去のトラブルから、プロと学生の試合、合同練習は原則禁止だからだ。ただ、~などを話し合う中で、徐々に雪解けに向かう」(2006年10月21日夕刊)

 問題はまず第1に、「雪解けに向かう」という表現です。これは上の「天気は下り坂に向かっています」を思い出させます。言葉の世界では「類造原理」というのがあって、同じような事には同じような言い方ないし表現を使いやすいのです。

 私見では、しかし、「雪解けに向かう」はおかしい。「雪解けが始まる」くらいではないでしょうか。実際、既に始まっている事を報じているのですから。

 第2の問題は、「徐々に」と「雪解け」は重複しないか、です。雪解けというものは徐々に進むに決まっているからです。こういう重複は、丁寧に丁寧にという日本語の風潮で増えてきているように感じます。
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過半数

2006年10月20日 | カ行
 (1) 所与の集合に関してその半数より多い数。

 (2) 選挙についての報道を見聞きしていましたら、次のような使い方がありました。

  1, 過半数にわずかに及ばなかった。
  2, 反対票が過半数に達した。
  3, 反対が投票総数の過半数を占めた。
  4, 過半数を獲得した。
  5, 過半数割れに追い込む。

 これらは正しい使い方だと思います。

  6, 過半数を越した。
  7, 過半数を上回った。

 これらは本当はおかしいと思います。

 「越した」なら「半数を越した」でしょうが、言っている人の気持ちでは、「過半数になる基準の数を越した」という意味でしょう。

 「過半数を上回った」も同じような気持ちで使っているのでしょう。

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ウィキペディアの人達とのやりとり

2006年10月19日 | 読者へ
 ウィキペディアの「ヘーゲル」の項の「ノート」欄での議論をここに再録します。

 私の「ヘーゲル」への寄稿に対する反応から始まります。ウィキには各語彙に「ノート」という欄がありますので、そこへの書き込みです。意見番号は私が付けました。

 01, 折角ですが「主な著作」の部分は、記述を整理しないといけませんね。──ケンチン 2006 年09月22日 (金)

 02, 整理しました。「訳者の姿勢は非学問的」とか「死骸をさらす結果に終わっている」とか「虚名を高めた」とか、百科事典的でない表現が散見されたのでごっそり削除しようかとも思ったのですが、ヘーゲルの各種翻訳をこれだけ詳しく比較検討できる人がいるというのは素晴らしいことなので消さずにコメントアウトしておきました。

 もし該当部分を執筆した方がこれをご覧になったら、どうか気を悪くなさらずに、「それぞれの訳者の優劣」といった評価を下すのではなく「それぞれにどのような特色があるか」といった観点から再度加筆していただければ、稀に見る立派な書誌になることと思いますのでよろしくお願いいたします。──Darkmagus 2006年09月25日 (月)

 03, (私の意見)Garkmagus さんの「整理」は「気を悪く」してはいませんが、ひどいと思います。紙の事典と違っていろいろな人が「個人的見解」を書いてこそ、読者がそれらを読んで自分の考えを深めることが出来るのだと思います。これでは無味乾燥な一覧表でしかなく、哲学するための事典ではなくなってしまいました。元に戻してくれませんか。2006年09月29日、

 04, えーと。少しやりすぎかなとは思いましたし、当該部分を執筆された方の不興を買うであろうことも当然予想していましたが、その一方で自分の編集が間違っているとも考えなかったためにあのような形で手を加えましたので、ちょっと複雑です。

 ただ、202.248.88.142さん〔私のこと〕の「「個人的見解」を書いてこそ、読者がそれらを読んで自分の考えを深めることが出来るのだと思います」とのご意見には賛同しかねるものがあります。

 正確にいうと、それに賛同できるかできないかに関わらず、また「哲学するための事典」であるかないかに関わらず、Wikipedia の公式方針としてそのような考え方は排されているためです(Wikipedia:中立的な観点を参照してください)。

 したがって、申し訳ありませんが元には戻しかねます。取り繕うわけではありませんが、誤解のないように申し述べておきますと202.248.88.142さんの執筆部分を削除することが私の目的ではありません。上にも書いたとおり、これだけ詳しく書ける人がいることに私は感服しており、(繰り返しになりますが)優劣の評価を下すのではなく、それぞれの特色などを中立的な観点から再度加筆していただければ必ずや「無味乾燥な一覧表」以上のものになると信じていますので、少し表現を改めるなどして書いてほしいのです。

 私の編集をひどいと感じられたことについてはもっともだと思いますが、上述した私の真意ならびに決して悪意があったわけでも軽い気持ちで行なったわけでもないことをどうかご理解ください。 Darkmagus 2006 年09月29日 (金)

 05, Darkmagus さんへ(私の今回の意見)

 あなたの勧めに従って、「中立性」などの項を読みました。

 まず分かった事は、このウィキを始めたジミー・ウェールズさんという人は、このような事に財産を投じた人ですから、それなりの見識のある人だとは思いますが、学者ではないということです。経歴からも分かりますが、説明の仕方でそれが分かります。

 中立性の項について言うならば、彼は認識論を知らないということです。言っている事は間違っていないと思いますが、説明が拙劣で、理解力のない人が誤解しやすく書いています。

 あなたの誤解は次の点にあると思います。

 第1に、中立性は「百科事典」「一般用の百科事典」という目的のための手段ないし前提条件であるという点を見落としています。どういう百科事典を作りたいのかをほとんど説明しないウェールズさんの書き方も悪いですが、手段を目的と結び付けないで理解するのは最低だと思います。

 第2に、それは3つの条件の1つであり、他の条件である「検証可能性」及び「独自の見解の禁止」と「相補的である」という点を見落としています。この3条件の中で科学的と言えるのは検証可能性だけです。

 この事典(およびウィクショナリという国語辞典)はどういう性質のものなのでしょうか。つまり、既成の紙の事典とただ媒体及び書き手が違うだけでいいのでしょうか。

 私はそうは思いません。事典とは本来どうあるべきかから根本的に考え直すべきだと思います。その時、フリーのウェブの持っている特長が活かせると思うのです。

 具体的に言うならば、これは「正解」を教えるものでなくていいと思います。というより、「正解」は固定したものではなくて歴史的に作られていくのだということです。

 実際にはどうなるかと言いますと、或る事柄についてAさんが或る記述をします。それはAさんの「個人的見解」です。この時、「個人的見解を書くのは正しくない」としてBさんが削ったとします。こういう事は沢山行われていますが、私は考え直すべきだと思います。すべては「個人的見解」なのです。

 BさんがAさんの「個人的見解」に賛成できないなら、自分の「個人的見解」を「異論」として書き加えればそれで好いと思います。読者は両方の見解を知ることが出来て考えを深めることが出来ます。

 ウィクショナリの「逸話」をご覧になると、そのようなやり方で異論が書かれています〔これは私が書いたものです〕。これでいいと思います。

 つまり、この事典は「読者が自分の考えを深めるのに役立つ事典」であるべきだと思います。そのためには、議論をそのまま載せることがその目的に叶っていると思います。そして、これを可能にするのが紙の事典との最大の違いだと思います。

 ついでに言っておきますと、学校教育の間違いも、教師という名の「先生」とやらが「正解」を教えると思い込んでいるところにあると思います。教師の教えている事は8割は間違っています。

 いつの時代の知識も後の時代によって乗り越えられます。完全に否定されるものもありますが、多くは完全に否定されるのではなくて、捉え直されるのです。より正しい真理の部分として変形されて包摂されるのです。これが認識の発展です。

 ですから、この事典に書く人も自分の「個人的見解」が絶対的真理だなどと思わないで、「1つの見解」として謙虚に提出するべきだと思います。

 ウィキでは寄稿者は「精通している人」と「学習しようとしている人」とされています。では、この両者は同じ発言資格(発言権と発言資格とは違います)を持っているのでしょうか。私は違うと思います。

 「本文」に書く資格を持っているのは「精通しいてる人」だけで、「学習しようとしている人」は疑問などを「ノート」に質問とかの形で書くべきだと思います。これが専門家と素人の関係だと思います。

 専門家の考えは全て正しいとは限りませんから、素人が疑問を出したりするのは自由です。これをきちんと聞かない専門家が多いですが、それはもちろん間違いです。

 しかし、素人が専門家に質問する時はそれなりの聞き方をするべきだと思います。これが常識だと思います。

 サッカーの規則は18則しかないが、そのほかに「書かれていない規則」として「常識」がある、と言われています。ウィキでも同じだと思います。

 ウェールズさんもこれを自覚していれば、規律に関する文章も現在のような長ったらしいものにしないで、簡潔に必要最小限度の事をまとめて、後は「常識」にまかせるというやり方をしただろうと思います。

 あなたが「百科事典的でない」とした「非学問的」とか「虚名を高めた(これは間違いで、本当は「虚名を博した」と言うべきでした)」とか「死骸をさらす結果に終わっている」とかいった私の表現も、「ノート」でその根拠を質問してくれたらよかったと思います。

 当の事柄に精通していないにもかかわらず本文に書き込んだり、精通している人の書いた本文を削除したり書き換えたりした場合には、その人が「虚名を博して」、その後は誰にも相手にされなくなるような常識がこのウィキの運動で確立してほしいと思います。

 最後にもう1つ。百科事典に何かを書くというなら、下書きをし推敲して完成したものをコピーするというようにしたらどうですか。パソコンならそれも簡単に出来ると思います。私はそうしています。

 私は今回、自分の辞書として「国語辞書・マクシコン」を gooブログの1つとして作りました。私は今後もウィキに協力しますから、原則として、いったんは両方に書きますが、大きな改変をされた場合には、私の原稿部分を削除しようと思います(この「ヘーゲル」についてもそうしました)。小さな改変は放任しようと思います。私の元の考えを知りたい人は「マクシコン」を見てください。

 なお、あなたが削った後の記述(今日まで載っていた記述)も「評価」を含んでいます。特に「論理学の研究書」の所などは「偏向」もはなはだしいものです。逆に、あなたが求めているような記述なら、私以上の適任者がいます。本当です。調べてみて下さい。

 ウィキの運動が良識あるものに発展していってほしいと思っています。(引用終わり)
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ヘーゲル(邦訳とヘーゲル研究)(その1)(2006年10月18日)

2006年10月18日 | ハ行
 精神現象学(原著は1807年) Phaenomenologie des Geistes

    訳注付き全訳は2つしかありません。

1, 金子武蔵訳「精神の現象学」(岩波書店、上巻は1971年、下巻は1979年)

 金子は生涯に3度、これを訳しています。生涯をこれの翻訳に捧げた人です。それが、可能な限りの文献を繙いて調べた努力に出ています。内容的には、特にイポリットの仏訳及び『ヘーゲル精神現象学の生成と構造』から多くを学んでいます。

 原語を活かした訳語を創り出した点にも特徴があります。文脈の理解にやや難点がありますが、ドイツ語の理解も内容の歴史的背景の理解も正確です。不滅の訳業と言えます。日本における「精神現象学」研究の到達点を示すものです。

 訳者が明治の人ですから、文体や単語が少し古くて今の人達にはとっつきにくいでしょうが、「精神現象学」の研究には不可欠のものです。これを参照しなかったために失敗した人々を反面教師とするべきでしょう。

 訳注の特徴は、形式的には先人の注解をほとんど全て調べて取り入れていることですが、内容的には哲学史的背景についての注に限られていて、哲学的な訳注はほとんどないということです。そもそもヘーゲルの現実的意味を解明した研究がないので、自分の哲学を
持たない金子には仕方のなかったことです。

 あるがままの「精神現象学」の概略を知りたい人は、金子武蔵著『ヘーゲルの精神現象学』(以文社、1973)を読むといいと思います。これは昔、南佐久哲学会で3年間(1953-6)にまたがって講演したものの速記録に基づくものです。

 本格的な研究書は沢山ありますが、生き残っているのは上掲のイポリットのものとコジェーヴの『ヘーゲル読解入門』(国文社)が双璧でしょう。後者は実存主義の立場からの研究書です。

2, 牧野紀之訳「精神現象学」(未知谷、2001年)

 金子訳を踏まえているためドイツ語の読み方が正確なことは当然として、その上に訳者の哲学に基づいて訳文の中に角括弧で説明(特に文脈の流れ)を挟んでいることが最大の特徴です。訳文も現代的でこなれた日本語になっています。

 訳注としては哲学するための注解(解釈)を積極的に出していることです。竹田青嗣の解釈など、他者の解釈もきちんと取り入れています。もちろん難解なヘーゲルですから、すべての点についてその「現実的な意味」を解明したわけではとうていありません。

 金子訳を哲学史的な訳業と言うならば、牧野訳は哲学的な訳業と言えます。

 4つの付録がついていますが、これらも「ヘーゲルを読みながら哲学する」ための参考になるでしょう。付録2の「ヘーゲルにおける意識の自己吟味の論理」は精神現象学の「序論」にある方法の現実的意味を解明しています。付録3の「恋人の会話」は精神現象学全体の現実的意味の解釈です。

    訳注のない全訳は次の2つです。

3, 樫山欽四郎訳「精神現象学」(河出書房の「世界の大思想」シリーズの1つ、1966年。現在は平凡社ライブラリーの1つ)

4, 長谷川宏訳「精神現象学」(作品社、1998年)

 2つとも、金子訳の成果を学ぶ謙虚さがないために誤訳だらけです。一見読みやすいように思えて錯覚する人もいますが、きちんと読もうとすると読めないことが分かって、今では評判が落ちています。

 特に長谷川訳は出版社の誇大広告で当初は売れたようですが、内容のひどさで今では悪名の方が高くなっています。特に、真面目な批判に対してすら答えない訳者の姿勢は非学問的です。

    部分訳(「序言」と「序論」を訳したもの)

5, 真下信一訳(河出書房新社の「世界教養全集」シリーズの第4巻の「ヘーゲルの思想」に所収。初版は1963年)

6, 山本信訳(中央公論社の「世界の名著」シリーズの第35巻の「ヘーゲル」に所収、初版は1967年)

訳注が少しあります。訳文はこなれていて評判の好いものです。


7, 三浦和男訳(未知谷、単行本、1995年)

 訳者の没後に関係者が出版したもので、訳者の大学での講義の一部が解説として巻頭に収められています。注解も少しあります。

 三浦訳には、少し大げさに言いますと、日本のヘーゲル研究の特徴が好く出ています。それは、哲学一般についてはもちろんのこと、特にヘーゲル哲学について「problem-oriented」と捉える姿勢です。つまり「自分の生きている時代の問題に対して自分はどう対処していったらいいのか、自分で答えを出す」という姿勢をヘーゲルは持っていたと考えていることです。

 そして、そこに留まらないで、自分自身も同じように「problem-oriented」に哲学するためにヘーゲルを読むという姿勢です。

 しかし、実際には掛け声倒れで、自分の哲学的問題意識がないために、ヘーゲルを読んで哲学することが出来なかった死骸をさらす結果に終わっているということです。


    大論理学(原著は1812-6年) Wissenschaft der Logik

  1, 鈴木権三郎訳「大論理学」(岩波書店、上巻は1932年、中巻は1935年、下巻は未刊)

  2, 武市健人訳「大論理学」(岩波書店、上巻は2冊で1956年と1960年、中巻は1960年、下巻は1961年)

 鈴木訳の改訳として出たものです。横文字を縦にしただけの翻訳です。

  3, 寺沢恒信訳「大論理学」(以文社、第1巻は1977年、第2巻は1983年、第3巻は死後の1999年)

 読むに耐える邦訳で力作と言えます。しかも、訳注が付いています。

 難点は、第1に、第1巻は原著初版の訳であって第2版の訳ではないことです。初版と第2版との違いを考慮するのは大切な事ですが、両方訳して、比較についての結論は読者に任せるべきだったと思います。

 第2の難点は、第3巻の訳注が概念論の第1部(主観性)までで、第2部(客観性)と第3部(理念論)との訳注はついに書かれなかったことです。哲学にとって一番重要で訳者の本領も発揮されたであろう所が落ちてしまいました。

 第3の難点は、第1巻にある訳者の7つの付論を見れば分かるように、ほとんどもっぱら初版と第2版の内容の並べ方の比較に関心が集中していて、ヘーゲルを読んで哲学するための訳注はほとんどないということです。

 これと関連していますが、寺沢はかつてヘーゲルの論理学以来の論理学体系を建てると言って『弁証法的論理学試論』(大月書店、1957年)を出したのに、個々のカテゴリーの検討の中でそれとの比較が全然ないことです。

 寺沢の哲学はヘーゲルを踏まえたものではなかった、というより、寺沢には哲学がなかったと言わざるをえません。

 第2巻の訳の中で、原著の編集者も気づかなかった間違いを指摘しているのは大きな功績でしょう。寺沢は大学か院の卒業論文でも、イェーナ論理学のドイツ文字の読み方を手掛かりにしてその編集に疑念を呈したようですから、これは寺沢の得意技なのでしょう。ともかく大きな功績です。

  5, 牧野紀之訳「概念論」(第1分冊)(鶏鳴出版、1974年)

 概念論の序論(概念一般について)と第1部(主観性)の第1章(概念)だけです。

 ヘーゲルを読んで哲学するという意欲は買えますが、力不足でした。現に第2分冊以降が出せませんでした。


    小論理学(哲学の百科事典の第1部。原著は3版出ていて1817-30 )

  1, 速水敬二訳「小論理学」(鉄塔書院、1931年。戦後も築摩書房で復刊)

 最初の全訳です。 Zusatz を「補遺」と訳すのはこれから始まったのでしょうか。

  2, 松村一人訳「小論理学」(岩波文庫、上巻は1951年、下巻は1952年)

 元は北隆館から1943年に出たものを文庫にするに際して少し手直ししたようです。岩波文庫で出たということもあり、当時のマルクス主義の人気もあり、それに何より達意の訳文で「小論理学」の代表的な訳となりました。

 誤訳も散見されますが、全体として原文の真意を好く伝えています。日本の哲学界、特にヘーゲル研究と翻訳に与えた影響は大きかったです。

 しかし、松村にはヘーゲルで哲学する力はなかったようです。その『ヘーゲル論理学研究』は存在論だけですし、内容的にも浅薄なものです。

 後年、松村は毛沢東主義に走りましたが、それで共産党系から見放されて終わったようです。

 松村の功績はやはり哲学そのものではなくて、その翻訳でしょう。本訳書とレーニンの「哲学ノート」の翻訳(岩波文庫)が双璧で、その他にフォイエルバッハの翻訳も優れています。

 この翻訳を絶版にしている出版社の見識を疑います。

  3, 牧野紀之訳「小論理学」(鶏鳴出版、1978年以降に5分冊で出たものを、1989年に上下巻にまとめた。上下巻とも注解が別の冊子になっている)

 初めての訳注付きの全訳です。私塾でのゼミナールを踏まえて訳していますので、豊かな内容を持つことになりました。

 Zusatzを「付録」と訳していますが、その付録は編集者が聴講生のノートを編集したものですから、不適切な配列もあるとして、自分の編集を提案しています。しかし、これは原著や他の翻訳との比較を難しくしてしまい、受け入れられませんでした。

 角括弧を使って敷衍して訳す独特の方法といい、問題を出して答えるという説明方法といい、ともかく「小論理学」の翻訳史上画期的な訳ではあります。

  4, 真下信一・宮本十蔵訳「小論理学」(岩波書店、1996年)

 真下の25歳の時(1932年)、脇坂光次と共訳で岩波書店から出したものの改訳となっています。真下が途中まで訳しておいたものを、その死後、宮本が補って、完成したものです。 Zusatz は「補説」としています。一生をヘーゲル研究に捧げたというにしては注釈もなく、見るべき所のない訳です。牧野訳は参照することもしなかったようです。

 岩波書店があらたにヘーゲル全集を編むために、松村訳に代えて出したものです。武市健人訳「大論理学」はそのままこの全集に入っていますが、本当は逆で、松村訳を残して、「大論理学」の方を訳し直すべきでした。

  5, 長谷川宏訳「論理学 - 哲学の集大成・要綱(第1部)」(作品社、2002年)

 「精神現象学」の翻訳で虚名を博した長谷川が今度は「エンチクロペディー」の全訳に取り組みました。2005年に「自然哲学」、2006年に「精神哲学」を出して、形の上では完成となりました。

 しかし、長谷川の仕事の粗雑さを知ってしまった人々にはもはや見向きもされないようです。
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ヘーゲル(邦訳とヘーゲル研究)(その2)(2006年10月18日)

2006年10月18日 | ハ行
    自然哲学(哲学の百科事典の第2部)

  1, 速水敬二訳「自然哲学」(筑摩書房、1949)

 速水は「法の哲学」は訳していますが「精神哲学」は訳していません。もしこれを訳していれば、ヘーゲルの「エンチクロペディ」全3巻を全部訳したことになったでしょう。

  2, 加藤尚武訳「自然哲学」(岩波書店、上巻は1998、下巻は1999。通し頁)

 多くの仲間や元生徒に下訳をしてもらった上で加藤が仕上げたよ
うです。 Zusatz を「補論」としています。

 下巻には訳者による解説と4つの付録があります。その解説はほとんど原典批判みたいなもので、寺沢の上掲の訳書に付いている「付録」と似ています。寺沢は共産党系で、加藤は信左翼系でしたが、その政治的違いにもかかわらずヘーゲル研究は本質的に同じであるとは、これこそが興味深いことです。

 長々とした原典批判を除くと加藤のヘーゲル自然哲学理解は次の言葉に集約されます。

 「ヘーゲルの『自然哲学』は、その哲学、特に論理学解釈にとって不可欠な体系の全体像を示すという点で重要であるのは言うまでもないことだが、その以上に科学思想史の歴史的なドキュメントとしての価値が大きい」( 720頁)。

 平凡な文献読みにはこのような「理解」(無理解)しか出来ないのでしょう。内容が全然ありません。加藤にはヘーゲル論理学の何らかのカテゴリーの現実的な意味を解明した著作も論文も1つもないし、ヘーゲル自然哲学の貢献を具体的に説明した点もないし、加藤自身が自然科学の特定の問題について所与の科学理論の論理的再検討を通して新しい回答を提案したという話も聞いていません。

 真の哲学者のヘーゲル評価と比べてみると加藤の貧しさが一層はっきりします。

 「カール・フォークト流の無思慮な俗物と一緒になってこれまでの自然哲学を非難するのは簡単だが、自然哲学を正当に評価することは大変である。確かにこれまでの自然哲学の中には下らない物も沢山あるが、それはこれまでの経験主義的で非哲学的な自然科学理論でも同じ事である。

 自然哲学の中には有意義なものもあるということは、進化論の普及以来ようやく認識されるようになってきた。ヘッケルが正当にもトレヴィラヌスとオーケンの功績を認めたのがその例である。即ち、オーケンは原粘液と原気泡というものを生物学の公準として提案したが、これはその後、原形質及び細胞として確認されたものである。

 特にヘーゲルについて言うならば、ヘーゲルは多くの点で同時代の経験主義的な自然探究者よりもはるかに優れていた。経験主義者たちは説明できない現象に出会うと力、例えば重力とか浮力とか電気的接触力とかを当てはめるとか、あるいはそれが出来ないと、未知の物素、例えば光素とか熱素とか電素とかを押しつけて、それで説明したつもりになっていたのである。

 そのような根拠のない物素は今やほとんど語られなくなったが、ヘーゲルの反対した力概念に対する妄信は1869年の今でも生き残っている。それはヘルムホルツの「インスブルックでの講話」を読めば分かる。

 ニュートンに対する信仰は18世紀のフランス人から来ているのだが、それに対してヘーゲルは、ケプラーこそが現代天体力学の本当の創始者であり、ニュートンの重力の法則〔万有引力の法則〕は既にケプラーの3つの法則の中に、特にその第3法則にははっきりと言い表されていると述べた(因みに、イギリスはニュートンに名誉と富を与えたが、ドイツはケプラーを餓死させた)。

 グスタフ・キルヒホフがその「最新の数学的物理学の講義」の中で最新の数学的物理学の結果として提出している事は、ヘーゲルがその「自然哲学」の第 270節及びそれへの付録の中で2、3の簡単な数式を使って説明した事の繰り返しに過ぎず、その説明の仕方も
ヘーゲルが展開した簡単な数学的形式と本質的に同じである。

 自然哲学者の自覚的な弁証法的自然科学に対する関係は、空想的社会主義者の現代共産主義思想に対する関係と同じである。」
  (エンゲルス『反デューリング論』の第2版への序文)

  3, 長谷川宏訳「自然哲学」(作品社、2005)


     精神哲学(哲学の百科事典の第3部)

  1, 船山信一訳『精神哲学』(岩波書店、1931、改訳、1965)

 読みやすい訳ではあります。訳注はありません。 Zusatz は「補遺」と訳しています。

  2, 樫山欽四郎訳『精神哲学』(河出書房「世界思想教養全集」5、1963)

 これには Zusatz は訳されていません。

  3, 長谷川宏訳「精神哲学」(作品社、2006)


     法の哲学(原著は1821年)

  1, 速水敬二・岡田隆平訳『法の哲学』(鉄塔書院、1931、改訳は岩波書店、1950)

  2, 高峯一愚訳『法の哲学』(創元社、1953-4、1961、論創社、1983年)

 かつて東京都立大学の同僚たちと行った読書会に基づいて訳しています。

  3, 藤野渉・赤沢正敏訳『法の哲学』(中央公論社「世界の名著」35、1967年)

 少し訳注があります。

  4, 上妻精訳『法の哲学』(岩波書店)


   ヘーゲル研究について

 研究書は沢山ありますが、ヘーゲル哲学の現実的意味を追求しようとしたものはほとんどありません。というより、追求しようとしたけれど壁に跳ね返された記録がほとんどです。

 歴史的に価値のあるものは次のものです。

  1, マルクスとエンゲルスの著作

 特にマルクスの『資本論』『経済学哲学草稿』、エンゲルスの『反デューリング論』『自然弁証法』『フォイエルバッハ論』などは屹立しています。

  2, レーニンの『哲学ノート』

 マルクス主義をヘーゲルから理解しようとして読んだ記録です。たった1度読んだだけでここまで理解した力は驚嘆すべきものです。

  3, 許萬元の3部作

 『ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理』(大月書店、1968年)と『ヘーゲル弁証法の本質』(青木書店、1972年)と『認識論としての弁証法』(青木書店、1978年)の3冊です。後の2冊はその後、『弁証法の理論』(創風社、上下2巻)としてまとめられました。

 第1書はヘーゲル弁証法の核心たる現実性概念と概念的把握の論理を、第2書はヘーゲル弁証法の全体像とマルクス及びエンゲルスによるその継承を、第3書はレーニンがヘーゲル弁証法をどう理解したかを、研究しています。

 ヘーゲルとマルクスとエンゲルスとレーニンの弁証法の学説史的研究として不朽の名著です。これを越えるものは今後も現れないでしょう。というのは、それほど本書が徹底的だということでもありますが、同時に、ヘーゲルの理解のためにはマルクス主義を通る必要がありますが、社会主義の失敗以降、マルクス主義の哲学を理解しようとする努力が見られなくなったからです。

 許萬元の弁証法研究の意義と限界を好くまとめたものが牧野紀之の「サラリーマン弁証法の本質」(『哲学夜話』鶏鳴出版に所収)です。

 実際、許萬元のヘーゲル研究は深いものですが、結局は学説史的研究でり、用語もヘーゲルやマルクスのままですから、「内容はあるようだけれどこの叙述では分からない」という感想を皆が持つのです。

 4,牧野紀之の哲学

 牧野の哲学は、ヘーゲルの現実的意味を理解することであり、現実の中にヘーゲルを読むことですから、その全ての哲学的活動がヘーゲル研究でもあるのですが、主たる物は以下の通りです。

 ヘーゲルの弁証法の根本については、「弁証法の弁証法的理解」(『労働と社会』鶏鳴出版、1971年、及び波多野精一著牧野紀之再話『西洋哲学史要』未知谷、2001年、に所収)に所収)がそれまでの理解とは根本的に異なった理解を示しています。

 主著は『生活のなかの哲学』(鶏鳴出版、1972年)です。ヘーゲルの概念的把握についても、許萬元の説明と牧野の「『パンテオンの人人』の論理」を比較すると、その違いがはっきりすると思います。

 資本論の価値形態論の認識論については「悟性的認識論と理性的認識論」(『ヘーゲルの修業』鶏鳴出版、1980年、に所収)ほど正確かつ分かりやすく解明したものはないでしょう。

 以上を見ると、マルクス主義系の人々の研究だけですが、この事が「ヘーゲルの現実的意味を理解するには弁証法的唯物論の立場に立たなければならない」ということを示しています。

     関連項目

鶏鳴出版
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偽善(偽悪)

2006年10月17日 | カ行
 (1) 「国語大辞典」(学研)には「本心をいつわって、うわべをよくみせかけること」とあります。

 そして、この辞書は「重吉には名誉と品格ある人々の生活がわけもなく窮屈で、また何となく偽善らしく思われる」(永井荷風)という用例を挙げています。

 (2) 「偽悪」を引くと、「うわべをわざと悪くみせかけること」とあります。

 (3) こういう解釈は納得できません。又言行不一致を偽善とする考え方もあるようですが、違うと思います。

 偽善とはそれ自体としてはやはり善ではあるのです。「参考」の 1に引いた言葉にあるように、「人間としての根本的な問題で悪いことをしているのを隠すために使われる小さな善行」のことなのだと思います。上の荷風の文もこれで理解できると思います。

 (4) 従って、偽悪とは「人間としての根本的な問題では正しいことをしているのに、照れくさかったり突っ張っていたりしているためにわざとなされる小さな悪行」と定義できるのではなかろうか。

   参考

 1, 偽善的な道徳家というのは、一方において国を危うくするような大罪悪〔人〕には無関心を装いながら、他方において私的な罪悪〔人〕には憤激をもってすることで、それと分かる。(エルヴェシウス、マルクスの『聖家族』からの孫引き)

 2, 行儀というのは、私は相手に対し、自分はあなたにとって無害な人間だということの信号のようなものだが、わしはもともと有害な人間だから~/ と、良順は偽悪ぶって自分の無作法を語るが、しかし気骨の折れる奥づとめができているほどだから、実際はそれほどでもなかった。
 (司馬遼太郎「胡蝶の夢」4-55頁)
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親交

2006年10月16日 | サ行
 (1) 親戚のような親しい交わり

 「親交がある」と言うのがこれまでは正しいとされてきましたが、最近は「親交が深い」と言う人が多くなっています。

 (2) 関連語に「深交(深い交わり)」があります。これは、「深交を結ぶ」などと使われます。
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全身

2006年10月15日 | サ行
 (1) 頭のてっぺんから足のつま先までの体全体ということ。反対語は「半身」。

     熟語

 (1) 全身全霊(その人の持っている力の全て)

 「全身全霊を捧げる」「全身全霊を傾ける」という言い方が普通でしたが、最近は「全身全霊を掛ける」と言う人が多くなりました。

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