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ドイツの出版流通(02、「町の書店」に資本の波)

2008年02月27日 | タ行
     ドイツの出版流通(02、「町の書店」に資本の波)

 ドイツ南部のミュンヘン。週末の土曜日、旅行書や地図の専門店「ゲオブーフ」は、数十人の客でにぎわっていた。貴重な地図の品ぞろえでは欧州有数。15人の店員は地理や天文学の豊富な知識を武器に、読者の要望に応える。

 面倒見が良いドイツの伝統的な町の書店だが、ライナー・ミッチェル店長の表情はさえない。一般向け旅行書の売り上げを、台頭する大型店に奪われ、2001年から売り上げは2割減。書店員も10人減らした。「『日々の糧』になる一般書で経営を支えないと、年に1~2枚しか売れないマッキンリーの地図が置けなくなる。こうやって文化の多様性が失われていく」。

 書籍の価格を拘束する再版制度を堅持し、効率的な流通システムを作り上げたドイツの出版界は、少部数でも息長く市場に生き続けているのが特徴だ。それでも、経済のグローバル化に伴う資本集中の波とは無関係ではいられず、「町の書店」は減っている。

 環境が激変したのは2006~07年。大手書店同士が経営を次々統合し、DBH(約470店)とターリア(約220店)という巨大チェーンが誕生した。両社を合わせて市場シェアはまだ14%程度だが、「町の書店」には脅威だ。

 新興チェーンの店舗は伝統的書店と異なる。DBHグループの「ウェルトビルトプラス」の店内には、写真やイラストを多用した豪華大型本が6ユーロ(約950円)程度の安価でずらりと並ぶ。売れ行きが落ちた本の出版権を買い取り、廉価版として出版したものだ。

 店員も少なく、安値を強調。同社はこうした廉価本チェーンや大型店、ネットやカタログなど、資本力を生かした多様な販売網で急成長を続ける。

 「将来は大型チェーンと、特定の分野に特化した専門店だけが生き残る時代になる」と関係者は話す。

 それでも、効率的な流通システムは小さな書店の支えだ。午後6時までに注文すれば翌日には本が届くので、小さな書店でも大型店やインターネットに、品ぞろえで対抗できるからだ。

 ミュンヘンの住宅地で30年以上書店を営むシュミット・ホルストさん(68)は「ネットの発展でかえって商売しやすくなった」と話す。大型店で本を選んでいた人が、いまはネットで本を検索して地元書店で注文してくれるからだ。宅配に備え自宅で待っているより、本屋の方が確実に素早く入手できることが分かっているからで、ホルストさんは「書店は地域の文化拠点。希望は捨てていません」と話す。

     (朝日、2008年02月21日、丸山玄則)

ドイツの出版流通(01、ギルドの伝統)

2008年02月17日 | タ行
     ドイツの出版流通(01、ギルドの伝統)

 ドイツの返品率は1割程度だ。なぜ無駄が少ないのか。

 1月下旬、フランクフルトにある「書籍業学校」の一室で、20代の約30人が戦後史の授業を受けていた。生徒は全国から集まった書店員や出版社編集者の「卵」。経営の基本からドイツ文学、政治・経済・社会の幅広い知識を、寄宿舎に住み込んで9週間学ぶ。

 多くは書店などで3年間の実習期間中で、実習先から派遣されてきた。授業料は9週間で2900ユーロ(約45万円)。3年間で計18週をここで学び、本にかかわ各仕事に就く基本を身につける。

 受講生の一人、クライン・マーライさん(20)は「書店員は単なる販売員ではなく、幅広い知識と教養が必要。児童書の専門店を開くのが夢なの」と話す。

 中世のギルドの伝統を受け継いだ学校は業界団体の書籍業組合が設立し、短期研修を含めて年間延べ1000人が学ぶ。読者の要望や知識欲をくみ、「本を選ぶ能力」が備わった出版人が育つ。返品率の低い理由の一つがここにある。

 流通の早さも日本と段違いだ。ドイツの中心部に位置する小都市、バートヘルスフェルト。取り次ぎ大手のリブリの8万平方㍍の巨大流通センターがある。全国の書店の注文を受け、50万点の在庫から本が選ばれ、次々と箱詰めされていく。

 1日の注文数は25万冊に及ぶが、在庫がある限り午後6時までの注文は必ず翌朝までに届ける。書店は、流通ルートを持たない出版社と直接取引するよりも早く入手できる。ゲルハルト・ドゥスト流通センター長は「本屋が必要な本を素早く届けるのが使命」と誇る。

 日本では取次会社が書店の要望と無関係に本を送ることもあるが、ドイツでは需要に応じて送るので、本屋からリブリヘの返品率は6%にすぎない。

 効率的な流通を支えているのが110万点に及ぶ書籍のデータベースだ。業界統一の共有財産で、出版社は刊行6ヵ月前にタイトルを登録するのがルールで、価格変更や絶版などの情報はその都度更新。情報はオンラインで見られ、書店はそれを元に注文する。

 日本では情報の一元化が遅れ、出版社も品切れのまま放置したり在庫情報を公にしなかったりするため、流通しているのかいないのか把握が難しい。

 ドイツでは正確な情報と活用できる人材が豊富だ。だから読者は欲しい本が書店で手に入る。

  (朝日、2008年02月14日)

都市再生機構

2008年02月04日 | タ行
     独立行政法人(独法)の「都市再生機構」

 かつて「住宅・都市整備公団」の民営化を提言した記事を書いたことがあ
る。1995年01月、村山内閣が行政改革の目玉として公団など特殊法人の見直
しを掲げたころだ。それには、民間と競合する大物をまず民営化したらどう
だろうか。そんな提言だった。

 約13年後の昨年末。住都公団から姿を変えた独立行政法人(独法)の「都
市再生機構」が政府内で初めて公式に民営化を求められた。渡辺行革担当相
が「独法改革の本丸」とまで述べた。それが国土交通省の抵抗で「3年後に
結論」と先送りされた。

 この組織には輝く時代があった。高度成長期に都会へ出た勤労者に大量の
「公団住宅」を供給した。理想に燃えた技術者たちは良質な住まいのために
先進的な試みをした。例えばシステムキッチンや洋式トイレの普及だ。

 土地にも余裕をもたせた。これがいまの建て替えに役立っている。公団住
宅は抽選にあたると赤飯を炊くぐらい庶民のあこがれの的だった。

 ところが、住宅不足が解消し、民間企業が力をつけてくると、当初の先進
性を失いながら肥大を続けた。バブル期には1億円近いマンションを分譲、
日本の人口減時代を目前にしてもニュータウンの造成を続けた。天下り先の
「ファミリー企業」も増やした。

 1990年代以降の行革で住宅分譲やニュータウンから撤退。いまは都市再開
発と77万戸の賃貸住宅の管理が中心だ。それでも職員4000人余、使う公的資
金は年1兆円以上。日本道路公団などの民営化後に残る横綱格の独法といえ
る。

 消費者の視点で住宅問題に取り組む中村幸安・建築Gメンの会顧問は「機
構は設計も外注し、技術力も落ちている。もう民営化すべきだ。ただ、かつ
て果たした公共的な役割をどうするかを考える必要がある」と指摘する。

 最低限の居住面積など住まいのルールを定める住宅基本法や、住民が本当
に参加できるまちづくりの制度をつくり、定着させることこそが政府、行政
の役割だと訴える。

 公共的な役割は行政だけが担う必要はない。社会には行政以外にも民間の
非営利組織(NPO)、民間企業という3種類の組織がある。

 NPOは地域にねざした住みよい街の姿を描き、法制度の運用をチェックし、
景観を美しくする活動もできる。企業はCSR(企業の社会的責任)として居
住者や環境に配慮した先進的な試みをする。

 小泉政権は行革の旗を振っても、公共的な役割にはあまり関心がなかった。
福田政権は行革にも後ろ向きだ。行革を進めるとともに、民間を含めて公共
的な役割をだれがどう担うのか、大きなデザインを描く必要があると思う。

  (朝日、2008年01月07日。編集委員 辻 陽明)

理論の党派性

2008年02月03日 | ラ行
 1、党派性

 党派性という語はヨーロッパ語の訳語として生まれたと考えられるが、ドイツ語ではそれは Parteilchkeit(パルタイリッヒカイト)である。それはもちろん「パルタイ的であること」という意味だが、その「パルタイ」の原義は、英語の part(パート、部分)とかportion (ポーション、分け前)とか participate(パーティシベイト、関与する)などから連想されるように、「事柄の関与者」ということであり、「ある事件の一方の当事者」ということである。

 従って、政治問題で意見が分かれた時、同意見の人々がまとまって「組」(これも「パルタイ」という)を作り、政争の当事者として政争に関与した時、そのグループが「パルタイ」と呼ばれたのは当然の事であった。

 ここから帰結される事は、第一に、政党には対立政党のあることが前提されており、一党制とか一党独裁というのは形容矛盾であり、そういう政治体制下での政党は本来の政党とは異質のものだということである。

 関口存男(つぎお)氏によると、ドイツ語には「その件」、「その話」を意味する表現に das Ganze(ダス・ガンツユ、全体)というのがあるそうである。つまり、「パルタイ」は一まとまりの全体を成す「その話」や「その件」の一方の部分であり、従ってそれと並ぶ他方の部分のあることを前提した概念なのである(拙著『関口ドイツ語学の研究』272頁)。

 第2に、当事者ないし関与者であるということは、その争い対して中立者でなく傍観者でなく第三者でないということである。即ち、党派性の対概念は中立性、第三者性、不偏不党性だということである。

 第3に、党派性一般と政治的党派性や政党派性とは同じではなく、党派性を云々する場合には「何についての党派性か」と、その内容を考えなければならないということである。

 2、理論の党派性

 「理論の党派性」ということは、「一般理論の階級性」という意味でなら、それは唯物史観の誕生と共に主張されていたことである。なぜなら、それは「社会的意識は社会的存在によって規定される」という事実を見抜き、定式化した唯物史観そのものだからである。

 又、それを「哲学の党派性」と解し、唯物論か観念論かの争いに中立はないという意味に取っても、既にマルクスとエンゲルスが主張していたことである。

 しかし、それらを党派性という語で受け継いだのはレーニンであろう。そして、この言葉を強く打ち出したのがミーチンである。

 ミ-チンは1930年に「哲学の党派性に関する問題について」という文章を発表したが、いわゆるデポーリン批判の中でこの問題は主要問題の一つとなり、そのため日本の唯物論者の間でも、1930年代には大いに議論された。

 レーニンにおける「唯物論の党派性」の主張は、早くも彼の24歳の時の力作『ナロードニキ主義の経済学的内容及びストルーヴェ氏の著書におけるその批判』(1894年)に見られる。ここでレーニンは、ミハイロフスキーの社会学における主観主義に対するストルーヴェの批判を不十分とし、それを客観主義と名付けた上で、自分の唯物論を対置している。

 従って、ここには3種の方法(考え方)があるのであり、レーニンによるとそれは次のようにまとめられるだろう。

 主観的方法──社会の目的は全成員の利益ということであり、従って社会学の本質的任務は、人間の本性のあれこれの欲求が充足される社会的条件を明らかにすることである(レーニン『人民の友とは何か】国民文庫、11頁)。

 客観的方法(その1、客観主義)──歴史は欲求と目的と知性をもった個人が作るものだが、個人及び社会集団のその合目的的活動は完全に自由ではなく、その活動の前提及び限界となる歴史的傾向なり条件があり、従って歴史の過程には必然性がある。

 客観的方法(その2、唯物論)──客観主義の考えを認めた上で、そこにとどまらない。即ち、歴史過程の必然性を指摘するだけにとどまらないで、どんな経済的社会構成体がこの過程の内容となり、どんな階級がこの過程の必然性を規定しているかを追究する。そして、歴史的事件の評価において、直接かつ公然と特定の社会集団の見地に立つ(以上、レーニン「ナロードニキ主義の経済学的内容~』、大月書店版『レーニン全集』第1巻、431-2頁)。

 ここで注意しなければならないことは、主観主義が「人間の本性の欲求が充足される社会を作りたい」と願い、そういう理想から出発すること自体は何ら間違っていないということである。一部の自称唯物論者は理想を口にすることはただちに観念論になると考えているが、レーニンは、理想から出発することに同意した上で、それを国家や社会に要請するのではなく、社会関係の分析によってその理想はどの階級の要求なのかを研究するのが唯物論だ
としている(同上書、453頁)。

 さて、ここで客観主義と対置された唯物論について考えると、レーニンは、客観主義はその過程の「担い手」を追究しない(同上書、458頁)と言っているので、武谷三男氏の「三段階論」の中の「実体論的段階」が想起される。そして、この連想を手掛かりにして考えると、第一に、客観主義で扱われている歴史過程とは現象的過程であり、その必然性も現象レベルの必然性ないし傾向ではないだろうか。

 第2に、たしかに歴史過程の階級的担い手を追究し、経済的社会構成体の運動として歴史を捉え直す時、そこに客観主義から唯物論が分かれ始めるのだろうが、その唯物論は「関係諸事実にたいする綿密な研究」(前掲『人民の友とはなにか』11頁)にまで進んで初めて完成するのであり、弁証法的唯物論になる、ということである。「関係諸事実の綿密な研究」をしないで、「実践」したり、「プロレタリアートの立場」や「階級的観点」という言葉
を振り回しても、史的唯物論は出てこないのである。

 従って、ここから、唯物史観という見方を承認した人にとっては、所与の問題について、どういう事実をどれだけ調べ、それをどう分析するかという、研究能力が問題になってくる。1894年のレーニンは、まだ、講壇マルクス主義者のストルーヴェと争っていたので、ここまでは論じなかった。しかし、ロシアにおける革命運動が発展し、唯物史観を認める人々が社会民主党を作って活動するようになると、この「言葉だけの階級的立場」と能力のある人々との違いが大きな問題となってくる。

 第1次ロシア革命(1905~07年)敗北後の反動期に著わされたレーニンの『唯物論と経験批判論』(1908年)の第6章は「経験批判論と史的唯物論」とされ、その第4節は「哲学における諸党派と哲学的愚物」と題された。その節は、唯物論か観念論かの問題ではいささかのあいまいさもありえないということを論じているのだが、その中に次の有名な一節がある。

 「これらの教授達〔オストワルド、マッハ、ボアンカレなど〕は、化学や物理学や歴史学といった専門分野では極めて貴重な仕事をすることができるが、話がひとたび哲学に及んだら、これらの教授達の誰の一語をも信じてはならない。なぜか。

 それは、事実的な特殊研究の分野では極めて貴重な仕事のできる経済学教授の発言でも、話がひとたび経済学の一般理論に及んだら、それらの教授の誰の一語をも信じてはならないのと同じ理由からである。

 即ち、経済学の一般理論は、近代社会では、認識論と同様に党派的な学問である。大体において、経済学の教授というのは資本家階級の博学な番頭以外の何者でもなく、哲学の教授というのは神学者の博学な番頭以外の何者でもない。

 そのどちらの場合でも、マルクス主義者の任務は、これらの『番頭』の成し遂げた業績を摂取し加工する能力を養うこと(例えば、これらの番頭の著作を利用せずしては、諸君は新しい経済現象の研究分野で一歩も踏み出すことはできないだろう)、それと同時に、又、彼らの反動的傾向を切り捨てる能力、自分自身の路線を進み、我々に敵対する諸勢力及び諸階級と全戦線で戦う能力を養うことである」(寺沢恒信訳、国民文庫、一部訳文を改変)。

 ここで言われている事は、第1に、自然科学でも社会科学でも、「事実的特殊研究」である間は「階級性」を持たないこと、逆に言えば、それが「一般理論」になる時から階級性を持ち始めるということである。しかし、その「事実的特殊研究」と「一般理論」との境界線がどこに引かれるかは述べられていない。

 第2に、資本家階級ないし神学者の立場に立った人の研究でも、「事実的特殊研究」は信じてよいが、「一般理論」は信じてはならないということである。

 ここでは、レーニンが「信ずる」とか「信じない(疑う)」という語をどういう意味で使っているかが問題である。信=肯定、不信(疑)=否定という意味なら、このレーニン説は間違いである。一般的に言って、他人の言は「事実的特殊研究」でも「一般理論」でも、共に、自分の調査と研究で裏付けるまでは、賛否を表明してはならない。

 自分の調査と研究をしていない人が「党の綱領に賛成します」と言っても無意味である。いや、そういうハッタリは真理に反し、人類解放運動にとって有害である。

 その「信ずる」を、「本当にそうだろうかと疑って考えた後に、正しいと分かった事だけ認める」という意味に取るなら、「事実的特殊研究」も「一般理論」も共に「信じ」てよい。レーニン自身、経済学の教授が資本家階級の番頭だというのは、「大体において」言えることだと述べている。

 要するに、事実的特殊研究に対する態度と一般理論に対する態度とを信と不信(疑)とで区別するのは間違いである。従って、この辺のレーニンの真意は、事実的特殊研究でも一般理論でも、他人の説に対しては、自分の調査研究で裏付けるまでは賛否を表明してはならないのだが、資本家階級や神学者の立場に立った人の一般理論の検討の際には、事実的特殊研究の検討の場合よりも一層慎重にやらなければならない、ということであろう。こう取る
時にだけこのレーニン説は正しいと言える。

 第3に、ここではプロレタリアートの立場に立つことと一定の批判的研究能力との結びつきが述べられているのだが、この観点で人間を分類すると、次の3種が分けられる。

 A……プロレタリアートの立場に立ちたいと願っておらず、そういう批判的研究能力を持ちたいと願っていない人
 B……そう願っているが、そのために必要な批判的研究能力をまだ持たない人
 C‥…そう願い、かつその能力を既に身に付けている人

 レーニンがもし自分の理論の必然的帰結を考えたなら、この3種の人間を分け、それに応じて前衛党の組織論を変えなければならなかった。即ち、Cだけが党員で、Bは準党員又は党員候補で、Aは関係無し、と。そして党の在り方の根本を学校的なものにし、党員候補の修業を中心の1つに据えた活動と組織にしただろうと思う。

 しかし、実際には、レーニンは自説からこのような帰結を引き出さず、自分の指導する党にニセモノが入ってくるのを許した。そのため、相対的に相手より強くなったという政治力学の結果、政治権力を握ることには成功したが、その権力がニセモノに乗っ取られて、内側から崩れていくのを防げなかった。

 レーニンの事はともかく、ここから現在への指針が出てくる。即ち、読者はまず自分がこのABCのどれに属するのかを反省しなければならない。Aの人はそのままであろう。Bの人は、自分がCと認める人の所に弟子入りして、修業をすることになるだろう。Cの人は既に何かの組織を作り、運動をし、他のCの人と協力しているだろう。少くとも協力の手は差し伸べているだろう。

 ここで更に問題になることは、Bの人の中には、自分がCだと思い上がっている「思い上がりのB」が大勢おり、従ってそのBは、自分をBと認めている「正直なB」から区別しなければならないということである。この事の実践的意味は極めて重大で、大切な事は、こういう能力評価の問題について互いに研鑽し合える真に民主的な修業集団を作ることではなかろうか。

 理論の党派性をどう解するかを巡る論争は、1930年代に日本の唯物論研究会で行われた。これはソ連におけるデポーリン批判をきっかけにして行われたものだが、本家のソ連では「デポーリン派には理論の党派性という観点が無い」と極付けて、あとは政治的に排除するという暴力的な方法が採られ、理論の党派性の理解に資する所が無かった。

 日本の唯研での論争は、加藤正氏といわゆる唯研主流派の対立という形を採った。加藤の考えは雑誌『唯物論研究』第6号(1933年04月)に載った「わが弁証法的唯物論の回顧と展望」に述べられている。唯研主流派の考えは、その加藤論文への批判として書かれたものではないが同誌に同時に掲載された永田広志氏の論文「模写論の論理学としての唯物弁証法」によく出ている。その後、永田以外の人々からも加藤批判の文章が発表され、研究会でも論争が行われた。1933年11月に、加藤の逮捕拘留中に、「総括的討論」がなされ、加藤の理論が否決されて、論争としては終わった。

 内容に入る前に、この論争の在り方を見ると、とても支持できない。そもそもこういう問題について会としての態度を決める必要がどこにあるのか。民主主義というのはたしかに十分な討論の後には、採決して組織としての意思を決めるものだが、それはあくまでも「組織としての意思決定の必要な事」についての話である。理論上の争いに多数決で結着を付けるなどという愚行は、唯物論とか観念論とかいう以前の、コドモの態度である。

 第2に、一方の論者の逮捕拘留中に最終決定のための会を開くなどということは、一歩譲って会としての見解を決めるとしても、あまりにも言語道断で、そこには民主主義のみの字も無ければ、公正感覚のかけらも無い。

 第3に、04月に論争が始まって02月に結着を付けるというのも早すぎる。私は、両方の考えを全面的に展開して、異同点を確認したら、論争は一時止め、互いの結論をそれぞれ実行して、機を見て又論争するのが、民主主義であり科学だと思う。

 論争の形式もお粗末極まりなかったが、両説の内容も低劣である。両説は次のようにまとめられるであろう。

唯研説──唯物弁証法はプロレタリアートの認識論であり、世界観だから(プロレタリアートが認識主体だから)、プロレタリアートの立場に立って、プロレタリアートの実践に加わることによってのみ、身に付くし発展させうる。

加藤説──唯物弁証法は世界のありのままの認識であり、実践と経験的事実を理論的思考が総括して得られる。実践には産業や実験もある(だから、権力を握ったプロレタリアートの党派は、産業を興し、技術者養成所を作れ)。理論的思考は過去の思考(科学史と哲学史)を学ぶことで作られる。

 唯研説は要するに「実践!実践!」と言いながら、実際には自分は敵と戦わないで、マルクス研究者に政治ごっこを押しつけるチンピラ左翼の理論である。加藤説は一応理論にはなっているが、根本的な点で誤解がある。

 第1に、加藤は「唯物弁証法は無産者階級が生み出したものではない」(『加藤正著作集』現代思潮社、第1集、124頁)と言っているが、これは何を意味するか。マルクスとエンゲルスの出身階級が無産者階級ではなかったということならその通りだが、その事実はこういう文にはできない。

 『哲学の貧困』の第二部第1節の第7の考察にあるように、唯物弁証法は目前で行われている階級闘争で、プロレタリアートの器官となった理論家が生み出したものである。加藤氏の誤解の一因は、プロレタリア(個人)とプロレタリアート(階級)を区別できず、又、集合名詞としてのプロレタリアートと理念を表わす普通名詞としてのプロレタリアートを区別できなかったことであろう。

 第2に、氏は「唯物弁証法は立身出世主義ではない正直な理論家なら受け入れうる」(同上書、126頁)と言っているが、これも間違いである。個人における素質と能力、そしてその可変性という観点が無い。たしかに思考は家庭や生活環境といった外的要因の作用を断ち切ることができるが、そこにも能力があるのである。正直や誠実は大切な徳目ではあるが、それを万能視するのは道徳主義の誤りである。

 第3に、「ヘーゲルの緊要部分はマルクスとエンゲルスが継承している」(同上書、129頁)と言うのも、間違いである。これは、氏がヘーゲル研究を自分の理論研究の中心に据えなかった事を正当化するための言い訳であり、氏にヘーゲル理解の能力の欠けたことの告白である。

 現在の日本共産党も、マルクスとエンゲルスはそれ以前の価値あるものはみな受け継いだかのように言っている(拙著『ヘーゲルからレーニンヘ』201頁)が、これも同じ誤りである。一歩を譲ってこれを事実と仮定しても、ヘーゲルから追体験しなくてよいということにはならない。

 そして、加藤氏の実践上の間違いは、自説と一致していない日本共産党に入ったことである。本当に自分で唯物弁証法が分かっているつもりなら、同じ考えの人と一緒にやるか、弟子を集めるかして、独自の運動をしただろうと思う。

 この論争を読んだ全体的印象を記すなら、それは「群盲、象をなでる」と表現できる。理論的思考とか唯物弁証法といった言葉はあっても、弁証法的思考能力も無ければそれを形成する方法も知らない人々(群盲)が、唯物弁証法という象をなでて、その一部分である片言隻句を振り回しているのである。

 この論争の無意味さの中心は、この論争の中で、プロレタリアートの立場に立つとはどういうことで、そのためにはどうしたらよいかが、問われなかったことである。

 終わりに、この論争を扱った文について一言する。

 岩崎允胤氏は、『日本マルクス主義哲学史序説』(未来社)の217頁で、「マルクス主義的実践を意識から独立な客観的過程の必然性の把握とは必ずしも結びつけず、後者のための努力を党派的(『党』的)活動のなかに解消し、党派的(『党』的)活動に励んでいればあたかもマルクス主義者としての実が示されるかのようにみなし、結局、客観的必然性の把握よりもその都度の党派的(「党」的)決定をば優位におきかねなかった戦後の日本マルクス主義の一つの克服さるべきであった傾向を考慮すれば、今日なお意味をもっているといえよう」と、加藤氏の問題意識に賛意を表している。

 しかし、岩崎氏は、その「傾向」は日本共産党が体質的に助長したものではないのかといった点の検討は避け、現に「加藤正著作集」が日本共産党から黙殺されている事実も検討せず、前衛党の在り方への提言を欠いている点で、氏の態度は徹頭徹尾評論家のそれであると言わざるをえない。

 又、許萬元氏はレーニンの弁証法を論じた著作『認識論としての弁証法』(青木書店)の第3篇の第5章を「一九三〇年代の日本におけるレーニン的段階をめぐる論争にふれて」と題している。

 しかし、その内容を見ると、レーニンの哲学的功績とされる5点、即ち①物質の哲学的概念の確立、②弁証法と論理学と認識論の一致の主張、③対立物の統一の弁証法にとっての核心性の主張、④理論と実践の統一の徹底的主張、⑤理論の党派性の主張(以上、大井正著「現代哲学』青木文庫による)のうちの、最も非現実的な第2点に検討を絞り、第4、5点を避けている点で、許氏の転落を証明した部分となっている。
 (1988・06・06)


砂川闘争

2008年02月01日 | サ行
     砂川闘争

 1955年05月、米軍立川基地の滑走路延長計画が示されると、地元の旧砂川
町(今の立川市北部)の住民らが「砂川町基地拡張反対同盟」を結成した。

 国の強制測量をめぐり警官隊と衝突を繰り返し、1956年秋に多数の負傷者、
逮捕者を出した。

 地権者約130世帯のうち23世帯は最後まで買収拒否を貫き、米軍は1968年、
延長計画を撤回。

 その後横田基地への移転を発表し、1977年、立川基地は全面返還された。

 (朝日、2008年01月29日)