マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

お知らせ

ながく、牧野紀之の仕事に関心を持っていただき、ありがとうございます。 牧野紀之の近況と仕事の引継ぎ、鶏鳴双書の注文受付方法の変更、ブログの整理についてお知らせします。 本ブログの記事トップにある「マキペディアの読者の皆様へ」をご覧ください。   2024年8月2日 中井浩一、東谷啓吾

関 孝和(せき・たかかず)

2008年08月15日 | サ行
 1640年ごろ生まれ、1708年に死す。生年や出生地は諸説あってはっきりしない。もともとは甲府藩士で、後に幕府の勘定吟味役などを務めた。自ら開発した「傍書法」で多元高次方程式を解いたほか、代数、行列式、正多角形理論などを西洋数学とは独立して開拓した。著書に「発微算法」(1674年)がある。天文研究や暦の改訂にも尽力した。

 孝和の生地は、上州・藤岡(現在の群馬県藤岡市)か江戸のいずれかだといわれている。6人きょうだいの次男。10歳前後で武士の父親を亡くし、のちに関家の養子になった。

 甲府藩や幕府で税務や財政を担当し、70歳近くで隠居するまでずっと役人だった。東京理科大・近代科学資料館で公開されている検地帳には、「関新助」と孝和の名前がある。

 仕えた藩主は徳川綱重・綱豊親子。綱豊は孝和の死後、6代将軍・家宣になった。同僚には新井白石がいた。白石の給料の書類に孝和の署名が残っている。15歳ほど年上の先輩・孝和について白石は、「数学に達せし人」と書き残している。

 孝和の名声は、30代半ばで書いた「発微算法」で高まった。「古今算法記」という本で出題された和算の難問を解いた本だ。こうした難問が次々に出され、その解説書にもまた難問が紹介されるといった形で、孝和のころ、和算が流行していた。

 孝和は、そろばんや算木を使ったそれまでの方法では解けない問題について、漢字を用いた式で解く「傍書法(ぼうしょほう)」を編み出し、多元高次連立方程式の未知数を、1つずつ消去して解いた。

 「傍書法の開発は世界に誇れる優れた業績です」と和算研究所の佐藤健一理事長(日本数学史学会会長)はたたえる。

 「発微算法」には難問の解答は載っているが、そこにいたる道筋は示されていない。序文には、「~深く蔵して外見を恐る~(深くしまって人に見られるのを恐れる)」と書かれている。弟子たちに勧められ、不承不承、解答だけ公表したことがうかがえる。

 前橋工科大の小林龍彦教授は「余計なことは言わず、真理の探究を第一に考えた。自己顕示欲のない学究肌の天才だっただろう」という。

 ただ、天才も家庭的にはあまり幸福ではなかったようだ。没後300年に合わせた最近の調査(実行委員長の一人、真島秀行・お茶の水女子大教授)によると、孝和には息子がいなかったため、弟の子の「新七郎」を養子に迎えた。だが、新七郎はお城の警備当番だった夜、仕事をさぼってばくちをしている間に盗賊に入られ、関家はお家断絶になってしまう。

 娘2人にも先立たれた。孝和の菩提寺・浄輪寺の過去帳には、「妙想」「夏月妙光」という娘2人の戒名が記されそいる。1人は10歳にもならない幼いころに、もう1人も15歳ごろには亡くなったらしい。

 そのころ、孝和は40~50代だった。子に先立たれる不幸にもめげず、公務をこなしっつ、数学に打ち込んだ人生だったのかもしれない。

 孝和が亡くなったのは隠居してから2年後のこと。晩年は病気がちだったとも伝えられるが、暦の改訂には関心を持ち続けたという。

 孝和の墓は浄輪寺の境内の奥にある。孝和は、バス通りが近いとは思えないぼど静かな一角で、兄夫婦と並んで眠っている。

  (朝日、2008年08月02日。竹石涼子)