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ながく、牧野紀之の仕事に関心を持っていただき、ありがとうございます。 牧野紀之の近況と仕事の引継ぎ、鶏鳴双書の注文受付方法の変更、ブログの整理についてお知らせします。 本ブログの記事トップにある「マキペディアの読者の皆様へ」をご覧ください。   2024年8月2日 中井浩一、東谷啓吾

天竜区役所はなぜ11億円だったか

2011年04月27日 | タ行
 天竜区役所が新しくなりました。旧区役所の建物が耐震性に問題ありとされたために建て替えが必要だったそうです。新区役所をどこにするか、どういうものにするか、設計をどうするか等について、区民からの意見もあったようですが、それを取り入れた上で、行政の考え通りにやったと、推定されます。

 一時は大分議論がありましたが、議論の経過と決定過程と結果がどこかに発表されているのでしょうか。

 今回私が「やっぱりな」と思ったのは、建設費のことです。誰も問題にしないようですので、書いておきます。

 建設費は(併設した消防署を合わせて)総額で約11億円でした。広報の天竜区版(2011年03月20日)に書いてあります。

 同じ日には、広報の北区版も出ました。それには、北区役所の前に「みをつくし文化センターホール」とやらが「4億7000万円を掛けて完成した」とありました。約2年前に隣りに作られた「みをつくし文化センター」の建設費はいくらだったか、聞いて見ました。答えは「4億3052万円」でした。合計すると2つで約9億円です。

 浜松市が政令市に成って7つの区に分かれた時、新しく区役所を作る必要のあったのは、南区、西区。東区の3つでした。それぞれ約10億円でした。

 これらの3つの区の人口はそれぞれ約10万人です。北区も約10万人です。天竜区は約3万人です。

 これらを合わせて考えると、どういう事になるでしょうか。

 私見では、中区と浜北区は力があるから「まあ、いい」ということにして、南区と西区と東区に10億円使ったのだから、北区と天竜区にもそれぞれ10億円使ってあげよう、と考えるのが役所の発想だと思います。実際、そうなりました。それぞれに10億円を使う事が本当の目的だったのです。役所というものはそういうものです。

 天竜市が浜松市に合併されず、独自に建て替えたら、建設費は11億円には成らなかったと思います。

 北区の2つの建物は合併していなかったら、細江町は建てなかったと思います。

緑のふるさと協力隊

2011年04月26日 | マ行
01、浜松市広報、天竜区版(2011年01月20日号)から

 緑あふれる豊かな自然や、今もなお受け継がれる伝統文化、近所同士だけでなく地区の枠を超えて強く結ばれた人と人のつながり…。天竜区の中山間地域では、住民が代々守り続けてきた数多くのものが、人々の豊かな生活を支えています。

 しかし、時代の流れとともに、産業の中心は第一次産業から第二次産業、第三次産業へと移行。それに伴い、多くの住民が中山間地域から都市部へと転出しました。現在、中山間地域の集落では、著しい人口減少と高齢化が進み、活力の低下や身近な交通手段の不足、産業や伝統文化の担い手不足、森林の荒廃など、数々の重要な問題を抱えています。

 今後も、さらに高齢化が進むことにより、これらの問題が一層深刻化することが懸念されています。

 このような深刻な悩みを抱える地域への支援策のひとつとして「緑のふるさと協力隊」という制度があります。

 「緑のふるさと協力隊」とは、NPO法人地球緑化センター(東京都中央区)から派遣された農山村に興味のある若者が、地域活性化をめざす地方自治体に1年間居住し、農林業などさまざまな活動を通じて、地域全体のための協力活動や地域おこしを行うものです。

 平成6年にスタートし、今年17年目を迎えた「緑のふるさと協力隊」。今年は、54人の隊員(平均年齢24・7歳)が全国の45市町村に派遣されました。参加の動機はさまざまですが「豊かな自然環境の中で精一杯活動したい」とエネルギーに満ちあふれた「若い力」が全国の農山村で活動しています。

 また、これまでこの活動に参加した519人のうち、およそ4割の若者が活動終了後も山村に定住。定住はしなくても、活動終了後も派遣先へ通い、応援者や情報発信者として都市と農山村をつなぐ架け橋になっている若者も大勢います。

 浜松市天竜区にも、昨年(2010年)4月に2人の若者が「緑のふるさと協力隊」としてやってきました。

 2人の名前は前田博史さん(京都府出身、25歳)と三輪拓也さん(千葉県出身、23歳)です。4月の着任以降、前田さんは春野町、三輪さんは水窪町にそれぞれ居住。農林業に従事しながら、地域の観光施設の運営手伝い、地区体育祭や産業まつりといった各種イベントへの参加・企画などに携わり、神楽や田楽、祭典といった伝統文化にも地域の人たちとともに取り組んでいます。今では、2人とも地域の人たちから気軽に声を掛けられ、イベントなどではあちこちから引っ張りだこの存在となりました。

 緑のふるさと協力隊を受け入れることで期待されるのは、都市部の若者がこの天竜区で生活し、住民との接触やさまざまな活動に携わることで、地域や住民にとって新しい刺激となり、集洛の維持・活性化が図られること。また、外から来た人間だからこそ気付く地域の良さや改善すべき点を隊員が発見することで、地域の魅力や課題が再認識されることも期待されています。

 これまでの2人の活動を通じ、地域からは、「住民が行事などに積極的に参加するようになった」「伝統芸能の保存会が活性化し、今後の道筋について考える機会ができた」といった声が聞かれています。また、隊員にとっても、自分の出身地や都会にはない考え方や暮らしを学び、自分の生きるフィールドを見いだすきっかけとなっているようです。

02、静岡新聞ネット版(2011年02月21日)

 NPO法人「地球緑化センター」(東京都)から昨春、浜松市天竜区に派遣された「緑のふるさと協力隊」の前田博史さん(26)=春野町=、三輪拓也さん(23)=水窪町=の1年間にわたる活動が終盤を迎えている。2人は農作業や地域行事を手伝い、住民と交流を深めてきた。近く、感謝を込めて報告会を開く。

 前田さんは京都・舞鶴出身。ジネンジョや茶、チンゲンサイ、ワサビなどの生産現場で働き、小学校の運動会や勝坂神楽にも参加した。当初は戸惑いもあったが、「作業には必ず休憩があり、お茶を飲みながらたくさん話ができた。この時間が大切だった。夏以降はあっという間」。今では「前田君」と声を掛けてくれる住民ばかり。「つながりが広がり、本当にありがたい」と話す。

 協力隊の任期終了後、農業の道に進むことを決めた三輪さん。地元農家の下で農業のイロハを学ぶ傍ら、高齢者への給食配達サービスのほか、八幡神楽や峠の国盗とり綱引き合戦なども経験した。積極的に地域と関わった1年を「水窪の魅力や課題など多くの気付きがあった」と振り返る。「恩返しの気持ちを込めて、協力隊だからこそ得た気付きを還元したい」と報告会への抱負を語った。

 三輪さんは23日に水窪山村開発センターで、前田さんは27日に春野文化センターで、ともに午後7時から報告会を開く。

03、地球緑化センターのサイトから

 農山村に興味をもつ若者を、地域活性化をめざす地方自治体に一年間派遣するプログラムです。

 若者の生きる場所には農山村という魅力あふれるフィールドが存在することを知らせたい、都市と山村のゆがみという社会問題も捉えてもらいたい、という理念のもと始まりました。

 過疎・少子高齢化と厳しい状況にある農山村は、都市生活者には未知な世界といえるでしょう。隊員たちは、その地域にしかない風土・人柄・文化を、四季の移り変わりとともに体感していきます。

 多くの隊員が、「こんなに気持ちよく働いて、たくさんの人に出会い、感動した毎日はない」と言うように、そのままの貴方の生き方が、派遣先の人にとって新鮮な風となるのです。

 参加資格に、技術や経験はいりません。懸命に生きている人達と一緒になって働き、語り、生活すること。

 「こんな大人になりたいと思う人に初めて出会えた。ものすごいパワーある人たちが山奥にはたくさんいる」一年やり遂げた隊員がそう語るように、生きていく上で大切なことを、農山村の人たちは教えてくれることでしょう。

04、感想

 この取り組みにも意義はあると思いますが、全体としては、過疎化を止めることが出来ていないという現実を考える必要があると思います。つまり、過疎化を止めるのはこういう力だけでは無理なのです。はっきり言えば、行政が適切な対策を実行しない限り過疎化は止まらないのです。

 しかるに、過疎化を止める事業を成功裏に実行している所は日本国自体にも、県にも、市町村にもないと思います。私は知りません。我が浜松市長は「1億円の基金を作る」と言っています。この基金で何をするのでしょうか。分かりません。これでは「政策」とは言えません。

 個別には、と言うか、点的には成功している例はあるようです。例えば、「葉っぱビジネス」の徳島県上勝町とか、玉村豊男さんのヴィラ・デスト(長野県東御〔とうみ)市。上田市と小諸市の中間)とかです。

 これはなぜ成功したかを考えて見ると、後者は玉村豊男さんという稀有な能力を持った人がいたからだと思います。その意味で一般性がなく、他所で真似るのは難しいと思います。

 それに反して、前者は横石知二さんというマネジャーが有能だったために、地域に産業を興したのだと思います。ではなぜ彼は有能なマネジャーになれたのか。農協の指導員として生活を確保して(実際は自分の収入は家に入れずに仕事に使い、奥さんの実家に支えられたようですが)、様々な試みの結果として、葉っぱビジネスにたどり着いたのです。

 ですから、過疎化を止めるための前提は、その仕事に専念できるマネジャーを作ることだと思います。私の提案している「屯田公務員」がそれなのです。「緑のふるさと協力隊」のように「月5万円の手当で、たったの1年間」では無理だと思います。私案では、小学生以下の子どもが3人以上いる夫婦を最低でも10年間は続けられるような形で採用して、給与も家族1人月6万円くらいにするべきです。

 もちろんほかのやり方もあるでしょう。ドイツの或る村のように、太陽光発電で最低の生活が保障されるようにして、農業を続けられるようにするのも1つの方法でしょう。

 複数の方法の組み合わせでもいいと思います。とにかく、行政が先頭に立ってやらなければ無理だと思います。

ドビュッシー

2011年04月25日 | タ行
                        歴史研究家・渡辺修司

 フランスの作曲家ドビュッシー(1862~1918)。音色と音のもたらす印象を重視し、和音を伴わない全音音階、ガムラン音楽から影響を受けた五音音階など多種多様な試みを実践して印象主義音楽を作り上げた。

 貧しい家の長男に生まれた。父は投獄され、母は4人の子供を抱えて極貧にあえいだ。自宅にピアノがあったとは思えない。後年、幼少期を一切回想していない。9歳で才能を発見され、10歳でパリ音楽院に入学。14歳でソルフェージュの、18歳でピアノの一等賞を獲得、音楽界に彗星の如く登場した。

 人格が高潔だったとはとてもいえない。女性関係は奔放で、身勝手。貧しい時代を支えてくれた恋人や妻を裏切り、2人とも自殺を図った。上流階級の女性を追いかけ回し、ついに裕福な銀行家の夫人と駆け落ちした。そこで生まれたのが、即興性と官能性に満ちたピアノ曲の名曲「喜びの島」だ。

 その天才性には常に二重性がつきまとう。柔らかく美しく、透明な光が浮かび上がる「月の光」などのピアノ曲を作る一方で、占星術や世紀末芸術に魅せられ、ボードレールら世紀末芸術家の詩を歌詞にした歌曲をつくった。エドガー・アラン・ポーの不気味さに惹かれ、近親相姦や少女愛、屍(し)愛好性の象徴だった「アッシャ一家の崩壊」を原作とするオペラの作曲を試みてもいる。

 聴く者を楽しませ快感を与える側面と、ぞっとするような側面の共存が彼の音楽の特徴だ。サロンの女主人サンマルソー夫人は「彼の中にはお互いに独立した二つの人格があるにちがいない」と日記に記している。

 (朝日、2011年04月21日)

前進座

2011年04月24日 | サ行
 劇団「前進座」(東京・吉祥寺)が、創立80周年記念公演を5月12~24日、東京・三宅坂の国立劇場大劇場で行う。演目は「唐茄子屋」「口上」「秋葉権現廻船噺」。代表の中村梅之助(81)と、ベテラン俳優のいまむらいづみ(78)が苦楽の歩みを振り返った。

 前進座は1931年5月、四代目河原崎長十郎、三代目中村翫右衛門、五代目河原崎国太郎ら若手の歌舞伎俳優が、歌舞伎界の改革を唱えて創立した。梅之助は「歌舞伎界に封建的な身分制度が残っていた時代、父(翫右衛門)らは、待遇改善を求めたが受け入れられず、旗揚げした。新しい芝居をやりたいとの意欲に燃えていた」と話す。

 いづみは「第一世代はまだ若く、芸熱心だった。昼はけいこ場で裸になって立ち回りの練習をし、発声法は腹から声が出ていないと翫右衛門が鞭(むち)で床を打った」と語る。

 1933年、映画「段七しぐれ」に劇団で出たのを皮切りに、山中貞雄監督「人情紙風船」、溝口健二監督「元禄忠臣蔵」など多数の映画に出演、戦前戦中の日本映画黄金期に貢献した。梅之助は「『人情紙風船』は旗揚げ6年で演じたのに、技術が高かった」という。映画への出演料で吉祥寺に土地を買い、けいこ場と集合住宅を造った。いづみは「集団生活があったからこそ80年も続いた」と話す。

 戦後は、1946年の「レ・ミゼラブル」から青年劇場運動を始め、全国津々浦々の学校で公演。都市でも歌舞伎、時代劇、現代劇、児童劇と幅広い演目を上演し、「演劇のデパート」と呼ばれた。

 1970年からテレビドラマ「遠山の金さん」に梅之助が主演し、お茶の間に人気が広がった。梅之助は「80年もよく続いた。第一世代に僕らが育てられて、幅広い観客を獲得するよう努力してきた。本当によく働いた」と振り返る。

 記念公演には劇団ゆかりの演目が並ぶ。「唐茄子屋」は落語の人情噺を基に、前進座が1958年に舞台化した世話物。日本橋の大店(おおだな)の息子徳三郎(嵐芳三郎)は道楽の末に勘当される。伯父(村田吉次郎)やその妻(いづみ)は徳三郎の将来を案じ、唐茄子売りを命じる……。昨年襲名した芳三郎が、祖父の五代目芳三郎が初演し、父の六代目が継いだ役を演じる。

 いづみは「放蕩息子が初めて外の世界を見て、長屋連中の優しい心に触れる。人情のやりとりが見どころです」。

 「秋葉権現」は明治以降、上演が絶えていたが、1934年に前進座が復活させた。劇団創立期の息吹を伝える時代物だ。嵐圭史、藤川矢之輔、河原崎国太郎、梅之助らが出演。

 梅之助は今後の課題に「若手を第一世代の水準まで引き上げること」を挙げる。「脇役、悪役まで観客に愛されるうまい役者を作らないと」。

 (朝日、2011年04月21日。小山内伸)

佐久間ダム

2011年04月19日 | サ行
 ダムは必要か。田中康夫・元長野県知事の「脱ダム」宣言、八ツ場ダム(群馬県)建設中止の是非と、注目を集め続けるテーマだ。日本の高度経済成長を支えてきた佐久間ダム(浜松市天竜区佐久間町)が建設されてから半世紀余。3分の1が土砂で埋まったダム湖の底を歩いた。

 深く刻まれた山々をぬうように、濁ったモスグリーンの湖面が蛇行しながら続く。中型バス3台で浜松市の市街地を出発してから約2時間。冬場の渇水期にダムにたまった砂の現状を見てもらおうと、天竜川漁業協同組合が2月27日に開催した「佐久間ダム堆砂現場見学会」に参加した。

 「きょうは水が多いですね。例年なら、もっと砂がむき出しになっています」。最前列に座る同漁協の秋山雄司組合長(66)がマイクで説明した。

 佐久間ダムは高さ155・5㍍、長さ293・5㍍の重力式コンクリートダム。1956(昭和31)年、電力不足を補うために国策で完成した。建設にあたっては、当時国内にはなかった大型重機を米国から導入してわずか3年で造られ、日本の土木技術に飛躍的な革新をもたらした。年間の発生電力量(約15億㌔ワット時)は、水力発電では今でも日本最大を誇る。

 だが、完成から55年を経て、3億2700方立方㍍の総貯水容量のうち、3分の1強の1億2000万立方㍍が土砂で埋まった。周辺の浸水被害を防ぐためにダムを所有する民間会社の電源開発(Jパワー)が、湖にたまる土砂の一部を取り除いたり、深い場所へ移動したりしている。

 愛知県側の旧富山村で、ダム湖の底に下りた。ダム湖の中・上流部では、水位を人為的に約20㍍下げ、底の土砂を川の流れで移動させる「流砂促進」が行われているが、今年は少雨のため、自然に一部の湖底が姿をみせた。

 ひび割れた灰色の砂地がサッカー場ほどの広さでうねる。やや湿っていて、長靴で歩くとフカフカした感じだ。乾けば砂ばこりとなって巻きあがるという。

 「佐久間ダムが造られる前の河床は足の下35㍍です。これだけ砂がたまっているんです」。「川の砂丘」をカメラやビデオに収める参加者に秋山さん続けた。

 湖面の濁りの原因は、粒子の細かい粘土質のシルトのせいだ。ダム湖の浚渫(しんせつ)や流砂促進で濁りが長期間続き、アユは激減している。

 秋山さんは河川環境の悪化を憂慮する半面、複雑な思いを抱いている。「人と魚のそれぞれの都合にどう折り合いをつけるか。エネルギーや農業・工業用水として役立っているのは事実だし、今ごろ簡単に『ダム反対』とは言えない」。

 見学会には、地元浜松のほか、東京や愛知など県外を合わせて66人が参加した。東京大学愛知演習林長の蔵治光一郎准教授は「ダムと土砂」の講義で学生5人を連れてきた。学生の1人は「水力発電は環境に優しい、と思っていました」。一方、八ツ場ダムの現場を訪れたことがある30歳の女性は「ダムはいずれ土砂に埋まってしまうもの。やっぱりいらないですね」と語った。

 帰りのバス車内で、秋山さんが何度も語りかけた。

 「天竜川をこんな姿にした責任は電力会社にも国にもありますが、便利な社会にあぐらをかいている我々にも自責の念があります。これからどうすればいいか。現場を見ていただいた皆さんの知恵や力をお借りしたい」。

天竜川とダム

 延長213㌔の天竜川本流には五つのダムがあり、佐久間ダムの下流にも秋葉ダムと船明(ふなぎら)ダムが続く。国土交通省は佐久間ダムに流入する細かな砂を、左岸の山腹に開ける延長10㌔前後のバイパストンネルで流す「天竜川ダム再編事業」を進めている。

 総事業費790億円の大規模工事だが、想定される稼働日数は1年で1~2回。環境への影響に加え、費用対効果が疑問視されている。

 (朝日、2011年04月17日。羽場正浩)

お知らせ

2011年04月13日 | 読者へ
 「関口ドイツ文法」の三校は、本体は2月20日にゲラを受け取ったのですが、目次と索引のゲラがなかなか来ませんでした。そのため2カ月近く、ほとんど校正は実際には出来ませんでした。

 12日に、索引のゲラが届いて、ようやく全部揃いました。これから校正をします。

 出版はまだまだ先になるでしょう。済みません。

 しばらくの間、ブログ記事のアップは少なくなると思います。よろしくお願いします。

2011年04月13日、牧野 紀之

政治

2011年04月12日 | サ行
 政治には広狭二義ある。広義のそれは、「人間の全行為は政治的意味を持つ」と言われる時のそれで、こういう政治については全ての人が事実やっている訳で、権利か義務かという問題は起きない。

 狭義の政治とは、強制力を伴った善悪の判断とするならば、そういう政治が成立つことは分業社会を前提している。分業ということは、やる人とやらない人がいるということで、つまり狭義の政治は必然的に、それにかかわらない人を認めている。このことは狭義の政治概念の中に含まれている(こういう考え方が概念的に考えるということである)。つまり、やるやらないは自由であり、権利である。その人の能力、性格から見て、合っていると思う人はやればよい。(「オルグと政治運動を考える」。「ヘーゲルと共に」74頁)

 ★ 政治主義

 政治主義についても二義ある。広く言うと、政治を最高のものと見る見方である。しかし、第二に、政治を最高のもの=普遍とみなしても、それを抽象的普遍とするか具体的普遍とするかで分れる。前者を政治主義という。政治を具体的普遍とするということは、文化活動の独自性を認めることだけを意味するのではない。それだけだと修正主義になる。

 今の共産党みたいに、党の政治路線を認め、共産党に投票しさえすれば、哲学の内容はどうでもいいというのでは、哲学の独自性は認めたが、具体的普遍としての政治とは言えない。これこそ政治を抽象的普遍とするものであり、政治主義である。それに対して、正しい政治路線と内容的に合致した哲学をうちたてることが真の政治である。

 だから、哲学用語を使うならば、広義の政治主義とは政治を普遍とする態度のことであり、狭義の政治主義とは政治を抽象的普遍とすることだ、と定義できる。政治を具体的普遍とすると、政治家たるもの、他の領域にも理解力を持たなければならないということになり、『関口ドイツ語学の研究』に書いた「幅と深さ」の問題になり、哲学主義と一致する。(「オルグと政治運動を考える」。「ヘーゲルと共に」79頁)

  参考 

 01、都市の成立と同時に行政と警察と租税などの、つまり自治体制度の、従って又政治一般の必要性が生まれる。(マルエン全集第3巻50頁)

 02、本来の意味での政治権力とは、1つの階級が他の階級を抑圧するための組織された暴力のことである。(マルエン全集第4巻482頁、宣言)

 03、人間に対する政治的な統治を〔止めて〕物の管理と生産過程の指導へと〔解消し〕移すこと、つまり近頃体操騒がれている「国家の廃止」(マルエン全集第19巻195頁、空想から科学へ第1章)

 04、支配階級のどの成員が議会で人民を抑圧し踏みにじるべきかを数年に一度決めること──ブルジョア議会制度の真の本質はまさにここのあるのであって、それは議会主義的立憲君主制ばかりではなく、最も民主的な共和制でもそうである。(レーニン邦訳全集第25巻456頁、国家と革命第3章)

 05、政治家の技量(及び共産主義者がその任務を正しく理解すること)は、プロレタリアートの前衛が成功裏に権力を握る事の出来る条件と時期を正確に測定し、又権力を握った場合には労働者階級と非プロレタリア的勤労大衆の広範な層に支持を勝ち取ることのできる条件と時期を正確に測定し、更に又その後では益々広範な勤労大衆を教育し訓練し、自分の方へ引き寄せることで自分の支配を維持し強化し広げる事の出来る条件と時期を正確に測定することである。(レーニン邦訳全集第31巻37頁、左翼小児病第6章)

 06、総じて憎しみは政治では、通常、最悪の役割を果たすものである。(レーニンの言葉。菊池『トロツキー』41頁から孫引き)

精神、der Geist

2011年04月11日 | サ行
  参考

 01、普遍的な精神は個人の実態を為していて、個人にとっていかに外的に現れていようとも、個人の非有機的な本性を為している。(精神現象学27頁)
 02、精神の概念としての自己意識(精神現象学140頁)

 03、自己意識が自己内で二重化するということは精神の概念の中では本質的な事なのだが、それがここに現存している。(精神現象学158頁)
 04、本能的行為が知性的で自由な行為と区別されるのは、後者が意識を持って行われるという点である。〔主体を〕動かしているものの内容が主体との直接的な統一から出て来て、主体の前に対象として持ちきたらされる時、精神の自由が始まる。(大論理学第1巻16頁)

 05、精神の本性にとって最も重要な点は、その潜在態と現実態との関係〔これだけなら精神以外のものでも問題になる〕だけでなく、精神が自己の本性について知っている事〔自己認識〕と精神の現実態との関係である。精神は本質的に意識なのだから、自己知ということが精神の現実性の根本規定なのである。(大論理学第1巻16頁)

 感想・人間について考える時の重要な点は、客観的にどうかと言う事と本人の自覚という事とを分けて考えることです。例えば、或る人が或る点で客観的に間違っているという事と、その人がそれを自覚しているということとを分けて考えると言う事です。「上司の間違いを指摘する」といった問題提起は、正確には、「上司の間違いだと思った事を指摘する」と言うべきでしょう。部下の認識は正しいかもしれないし、間違っているかもしれないからです。

 06、精神は真の「或る物」(Etwas)である。(大論理学第1巻105頁)

 07、実際、精神は本来の観念論者一般である。精神の中では、それが感覚し表象している時にも既に、更に思考し概念的に理解している時には尚更、その内容はいわゆる実在的定存在ではない。そのような外的存在は自我という単一な物の中で止揚されており、自我に対した物、自我の中で観念化されたものに成っている。(大論理学第1巻146頁)

 08、実際、精神は矛盾を担いうる程に強く、しかも矛盾を解決することが出来る。世界は矛盾を免れないが、この矛盾を担う事が出来ず、それゆえ、生成と消滅にさらされている。(大論理学第1巻236頁)

 09、精神ははるかに深い意味で「このもの」(Dieses)である。即ち、精神の諸規定が相互浸透する場としての否定的統一である。(大論理学第2巻121頁)
 10、精神の本性は、自己の外にある他の根源的なものを自己内へ取り入れたり、原因を精神内で存続させたりすることではなく、原因を断ち切り変えることである。しかもこれが精神では生き物一般の場合よりもはるかに高い意味でそうなのである。(大論理学第2巻194頁)

 11、精神は思考すること一般であり、人間は思考によって動物から区別されるのである。(法の哲学第4節への付録)
 感想・要するにヘーゲルの言う「精神」とは「人間」のことであり、それの論理的性格を表現したものなのです。「精神」でわからなかったら、「人間」と読みかえると好いと思います。

 12、精神の原理、精神の純粋な自己性は思考である。(小論理学第11節)
 13、今日では哲学の世界で魂(Seele)がどうのこうのと言われることはほとんどなく、もっぱら精神が話題になっています。魂というのは精神とは違います。それはいわば肉体と精神の間の中項、ないし両者を結ぶ絆みたいなものです。魂としての精神は肉体の中に沈みこんでおり、肉体の生命の源泉です。(小論理学第34節への付録)

 14、精神の最も内なるもの、概念小論理学第51節への注釈)

 15、自然の根本規定を実在性とし、精神〔人間〕のそれを観念性とすることによって、自然と精神の区別を捉える見方がありますが、これは間違っていません。しかし、〔この捉え方の真意は〕自然は精神なしにも存在していけるようなそれだけで固定し完結したものであるということではなく、自然は精神に至ってはじめてその目標である真理に到達するということであり、逆に精神も精神で自然の抽象的彼岸にすぎないものではなく、自然を止揚して自己内に含み持つ限りではじめて真に存在し、精神としての実を示すものなの〔だ、という風に理解しなければならないの〕です。(小論理学第96節への付録)

 16、自然は精神なくしては存在しえず、精神は自然なくしては存在しえない。(小論理学第119節への付録)
 17、自然の中に論理的理念を認識し、自然をその本質に高めるのは精神である。(小論理学第187節への付録)

 18、精神が自然の中に自己固有の本質、即ち概念を見出し、自然の中に自己の似姿を見出すことが自然哲学の使命である。(自然哲学246節への付録)
 19、自然は花嫁であり、精神は自然を妻とする。(自然哲学246節への付録)
 感想・der Geistとdie Naturと、精神は男性名詞で自然は女性名詞だからでしょう。

 20、精神における必然性の根本形式は三性(Dreiheit。3つでひとまとまりであること)である。(自然哲学298節への付録)
 21、自己の概念を認識することが精神の本性です。……精神の一切の働きはもっぱら自己自身を把握することです。そして、真実の哲学はどれもみな、もっぱら、天地万物の中に自分自身を認識することを目的としています。精神にとっては全くの他者と言うようなものは一つもないのです。(精神哲学第377節への付録)

 22、精神の全発展は、精神が自己の真理へと自分で高まって行くことにほかなりません。(精神哲学第379節への付録)
 23、顕現(Manifestation)が精神の規定性だと述べましたが、それは観念性に次ぐ第2の規定ではなく、観念性の展開された姿です。(精神哲学第383節への付録)
 24、精神は永遠に自己の下にあるのであって、過去というものはない。それは常に同一であり、自己の力と威力の中にある。(歴史における理性33頁)

 25、精神の最高点、即ち観念、概念(歴史における理性46頁)
 26、精神的なものの本性は抽象的〔一面的〕であることではない。それは生けるものであり、普遍的な個体であるから、主体的であり、自己規定的であり、自己内で自己完結しているものである。(歴史における理性46頁)

 27、精神は物質に対置される。重力が物質の実体であるとするならば、精神の実体は自由である。(歴史における理性55頁)
 28、精神がその中心点に向かって行く時、それは自己の自由を完全な物にしようとしているのであり、この努力は精神にとって本質的なものである。(歴史における理性55頁)

 29、活動が精神の本質である。精神は自己の産物であるから、それは自己の始まりであると同時に終わりでもある。精神の自由は静止した存在の中にあるのではなく、自由を脅かすものを不断に否定することの中にある。(歴史における理性55頁)
 30、精神の活動とは、直接性を越えて行くこと、直接性を否定することであり、よってもって自己の中に帰ることである。(歴史における理性57-8頁)

 31、精神の展開は運動として捉えなければならない。即ち、それは〔初めからそうなっているとか、自然にそうなるという風にではなく〕形成されたものとして、具体的に捉えなければならない。その1つは主体的な意味でである。素質が定立されて技能とか性質となって現れる場合である。もう1つは客観的な意味でである。歴史において民族精神が自己の作品を行為の結果として対象化する場合である。これが宗教、科学、芸術、運命、出来事である。(歴史における理性59,60頁)

 32、精神は動物のような自然物ではない。動物はあるがままのものであり、直接的なものである。精神とは、自分で自分を産出し、自分がそれである所のものへと自己を形成するということである。(歴史における理性74頁)
 33、精神の存在とはそれの絶対的な過程である。(歴史における理性74頁)

 34、1つの精神形態から別の精神形態への移行とは、先行する普遍が思考されて特殊へと止揚されることである。(歴史における理性96頁)
 35、普遍的精神は本質的に人間の意識という形で存在する。人間とはこのような定存在であり、知るという働きを持つ存在である。自己を知り、自覚した主体として存在している精神は、自分を直接的なものとして、つまり存在する者として定立する。その時、その精神が人間の意識なのである。(歴史における理性113頁)

 36、精神は本質的にエネルギーであり、精神にあっては現象しないことはありえない。精神の現象作用は精神の自己規定である。それは精神の具体的な本性の地盤である。自己規定しない精神とは悟性の抽象物でしかない。(歴史における理性114頁)

 37、精神を始まりとだけ見るのは不十分である。それは必ず自己自身を現すものであり、自己の結果であり、目的である。結果は始まり以外のものではない。しかし、この客観化という媒階過程を通ることで精神は自己に現実性を付与するのである。(歴史における理性131頁)

 38、精神の最深部を抽象的に捉えるとすると、それは思考である。(歴史における理性134頁)

 39、かの有機的個体の発展は直接的で、対立のない、妨げられない仕方でなされる。すなわち、概念とその実現、種子の本性(それはまだ潜在的にすぎない)と現存在がその本性に合致することとの間に何物も入りこまない。

 しかし、精神界では事情が違う。精神の使命〔規定〕がその実現へと移行するのは、意識と意志とを介してである。……発展はそれ自体としてはひとつの静かな産出である 。なぜなら、それは外化において自己と等しく、自己内にとどまることだからである。だが、精神界では、それは1つの精神の中での自己に対するきびしい、無限の闘争なのである。精神の欲している事は自己の概念を成就しようということである。しかし、それは自分に対してその概念を隠し、高慢で、この自己疎外〔自分の概念を隠すしていること〕を楽しんでいるのである。(歴史における理性151-2頁)

 40、精神は具体的である。その規定は自由と必然とである。そして、一層高い洞察は、精神はその必然性の中で自由であり、その必然性の中でしか自由ではなく、又精神の必然性はその自由の中にしかない、ということを洞察することである。(ズ全集第18巻45頁)

 41、精神はというと、それはただ自己自身を聴くということでしかない。(ズ全集第18巻93頁)

ケマル・パシャ

2011年04月09日 | カ行
 ケマル・パシャ(1881~1938)は、トルコ共和国の建国者で「トルコの父」と呼ばれる。現在流通しているトルコのすべての紙幣に彼の肖像が描かれてている。

 ドイツとともに英仏と戦った第1次世界大戦(1914~18)で一躍名をはせた。ダーダネルス海峡にほど近いガリポリに上陸した英仏軍を激戦の末撃退したのだ。この作戦の立案者は当時の英海軍相チャーチルで、引責辞任に追い込まれている。

 大戦は敗北で終わった。トルコはイラク、シリア、パレスチナなど多くの所領を失い、さらにギリシャが英仏の後押しを受けて侵攻、国家存亡の危機に立った。彼は臨時政府を樹立して国民を結束させ、ギリシャ軍を撃破。600年間君臨してきたスルタン(皇帝)を廃し、1923年に共和国の成立を宣言した。

 トルコはイスラム教徒が大半を占める。だがケマルは、政教分離を基本とする西欧型の国家を目指した。一夫多妻制を禁止し、イスラム暦をグレゴリオ暦に変更。複雑なアラビア文字を廃してローマ字(ラテン文字)に代えた。これは文字改革と呼ばれ、識字率を高めることに寄与した。またイスラム世界の中では、いち早く女性参政権も付与した。

 だが数年前からイスラムの伝統を重視する政党が台頭し、政教分離体制は大きく動揺している。

 イスラム世界では飲酒は原則として禁止だが、遅くイスラム化したトルコは宗教的な縛りも弱く、トルコ人は数百年前から「ラク」と呼ばれる蒸留酒を愛飲している。ケマルも酒を愛した。死因は肝硬変。軍人に任官した頃から、激務のうさをはらすために睡眠薬や酒に頼っていたようだ。

 (朝日、2011年04月07日。河合塾講師・青木裕司)

数字の読み方

2011年04月07日 | サ行
 日本語は数字の読み方にも複数あります。1、2、3、……は、それぞれ、イチとヒ(ト)、ニとフ(タ)、サンとミ、等です。どういう場合にどちらを使うのか、「一般的な基準」があるのでしょうか。それはどういうものなのでしょうか、知りたいと思います。そういう事を説明している辞書か文法書があるのでしょうか。

 私自身よく間違えるのですが、先日、ラジオ深夜便を聞いていましたら、アンカーが地名の「九戸(くのへ)」を「ここのへ」と発音して、リスナーから注意をいただいたと、詫びていました。

 少し考えたことをまとめます。

 ① 純粋に数を表す場合は、イチ、ニ、サン、シ、……が「原則」ではなかろうか。従って、地名を区別するために、一戸、二戸、三戸、五戸、六戸、七戸、八戸、九戸と言う場合は、これを使う事になります。もっとも「四戸」という地名はないようです。「四」は「し」と読むと「死」を連想させるので、避けらることが多いようです。しかし、「四条河原町」(しじょうかわらまち)などもあります。

 ② ヒト(又はヒ)、フタ(又はフ)、ミ、ヨ……という言い方は、和語のようですが、古い感じを与えます。昔の人は「イチ、ニ、サン、シ……」ではなく、「ヒ、フ、ミ、ヨ、……」と数えたはずです。

 今では、ヒトツ、フタツ、ミッツ系統の読み方は、純粋な数的観念のほかに何かの感情的なものが含まれる場合が多いように思います。

 一人はヒトリと読むと、「おひとり様」とか「一人寝の子守唄」とか「一人で」といった場合のように、何か「寂しく」という感じが付きまとうのではないでしょうか。「いちにん」と読むのは「一人区」とか「一人前」のような熟語の場合だけのようです。

 二人は「ふたり」と読むと、もちろん純粋に人数が「2」であるという場合もありますが、「二人で組に成っている」という意味が多いと思います。「ににん」と読むのは「二人三脚」のような特別な場合で、「二人称」となると、「第二の」という意味に成ると思います。

 「四人」は「しにん」とは読まないのは、「死人」と混同されるからでしょう。「よったり」とも読むと思います。しかし、これも「二十四の瞳」になると「にじゅうし」と読むようです。「十四の春」も「じゅうしのはる」でしょう。

 しかし、時刻になると、14時は「じゅうよじ」ではないでしょうか。24時間表示も「にじゅうよじかんひょうじ」でしょう。名詞が「の」を介さないで続くからでしょうか。「24人」は「にじゅうよにん」でしょうから。

 一重(ひとえ)と二重(ふたえ)までは、意味的には「いちじゅう」と「にじゅう」と同じかもしれません。ただ習慣的にどちらを使うかが決まっているのでしょうか。「二重扉」は「にじゅうとびら」でしょう。「三重県」の「三重」はどういう由来があるのでしょうか。

 七転八起には「ななころびやおき」のほかに「しちてんはっき」という読み方もあると、辞書には書いてあります。が、この辺になると、数としての正確な意味は薄れて「多量」や「多数」という観念を表すようになるようです。

 八重(やえ)と九重(ここのえ)もそうでしょう。それが進むと「十重二十重(とえはたえ)」に成ります。「四苦八苦」などもあります。

 とにかく、外国人のためだけでなく、日本人のためにもこういう事を説明した書物が欲しいと思います。もちろん部分的に、例えば「よん(四)」について説明してあるものもありますが、私が求めているのは「全体についての統一的な説明」です。

金の使い方

2011年04月06日 | カ行
 ──「その使い方を知るまで、富者の財産をほめてはならぬ」。人の器量は金の使い方で判断せよという、ソクラテスの言葉である。(朝日、2011年04月05日。天声人語)

 ソクラテスがこういう言葉を残しているとは知りませんでした。教えてくれてありがとう。賛成です。私も、収入の道は不法でない限り何でも好い、と思います。職業に貴賎なし、です。稼いだ金をどう使うかこそが大切だと思います。

政治小国の真因は何か

2011年04月04日 | サ行
 朝日新聞に次の記事(署名入り主張)が載りました。まずそれを引用します。

        記(会社存亡のときに)

 露骨な表現に腹を立てた政治家もいるようだが、図星だったからではないか。 予算関連法案の成立のめどが立たない機能不全の国会に向け、日本経団連の米倉弘昌会長が「給料泥棒」と言い放った。

政治家たちを挑発してやろうと思ったのだろう。経済界には米倉氏と同じよう な危機感を抱き、今の政治状況を歯がゆく感じている人が少なくない。

 ある財界人が言った。「私が投資家なら、いまのニッポン株式会社には、けっして投資などしません」。理由は明快。以下のような解説をしてくれた。

 まず財務状態が悪すぎる。借金や資産などを示す貸借対照表も、毎年の歳出入を表す損益計算書も、使えるおカネの自由度を示すキャッシュフローも、どの経営指標も数学はボロボロ。にもかかわらず、抜本的な手を打てずにいる。

 トップマネジメントにも重大な欠陥がある。何より社長の在任期間が短すぎる。この4年間に入れ替わった社長は5人。「断言できますが、そんな会社は間違いなくつぶれます」。

 社内の風通しも悪い。「社長の言うことを聞かない本部長や古参のヒラ社員がいて、堂々と胸を張っている。まともな会社ではあり得ません」。

 話を聞いていると、よくもまあ「日本国の株価」、つまり国債価格が暴落しないものだ、と改めて思う。

 会社存亡のとき。まともで本気の経営が必要だ。派閥争いで来期の予算も組めない経営に、明日はない。
 (朝日、2011年03月08日。原真人)

 感想

 確かに現状はその通りでしょう。しかし、現状というのは結果なのです。結果と言うのは原因の結果なのです。ですから現状がこうだとしたら、なぜこのような結果になったのか、その原因を考えるのが人間と言うものでしょう。まして、新聞社の人ならそのような考察をするのは義務ですらあるでしょう。それなのにそれをしないで、現状だけ嘆いている。これでは救いようがないと思います。

 経済人でも同じでしょう。こういう政治を作った責任の一半、どころか半分くらいは経済界の責任でもあるのではないでしょうか。先日辞任した前原前外相は松下政経塾の出身者です。財界の最高の人がリーダーを育てると大見えを切って作った塾の出身者が軽率な言動で前には「民主党の代表」を辞め、今度は外相を辞める羽目になったのです。これはその政経塾の失敗でもあると思います。

 少しレベルは下がりますが、我が浜松市の丸投げ市長はその松下政経塾の1期生です。しかもそのダンマリ市長を支えているのが車屋の会長であり、地元の経営者たちなのです。その車屋の会長は浜松市の行革審の会長まで務めましたが、行政改革が全然できませんでした。

 これらの事実は何を意味するのでしょうか。

 第1に、政治(家)を悪く言うだけでは政治は好くならないということです。換言するならば、より良い政治を実行できる能力のある人が取って代わらなければならない、ということです。そいう人を社会全体で育てなければならない、ということです。

 第2に、政治(行政)というのはちょっと関心のある人、つまりディレッタントが時々勝手な感想を言うような態度では好くすることは出来ないということです。毎日毎日関心を持って見守り、それを蓄積して研究して行かなければれば本当の事は分かりません。

 第3に、そして、そういう研究の上に立って、本当により良い行政の出来る人を見つけて、あるいは育てて、その人を政治の場に押し出して行かなければならないのです。

 こういう努力をしている人だけに政治を批判する資格があるのだと思います。その国の政治はその国の国民を反映しているだけなのです。

 上に引いた意見は3月8日に載りましたが、その3日後には東日本大震災が発生しました。そして、又又「政治のお粗末さ」が露呈され、政治批判の声が聞かれています。政治だけでなく、電力会社の経営者も批判されています。悪いのは政治だけではないのです。日本人はいつになったら本当の自己反省をするのでしょうか。

与謝野晶子

2011年04月03日 | ヤ行
 与謝野晶子(1878~1942)の初の歌集『みだれ髪』は、当時タブー視されていた恋愛や性を、女性が堂々と歌にしたことで世間に衝撃を与えた。

 晶子はその後、夫・鉄幹の主宰する詩歌雑誌『明星』に作品を載せて人気を博したが、日露戦争後、『明星』の売り上げは落ち込み、100号を最後に廃刊となった。このため鉄幹は、創作意欲を失ってしまった。

 そこで晶子は夫を元気づけるため、海外へ留学させようと決意、自分の歌を屏風に書いて販売し、資金を捻出したという。

 その後の晶子は、詩歌のみならず、小説や童話などジャンルを問わずに文章を書き家計を支えた。しかも11人の実子の多くを立派に育て上げたのである。

 彼女は、単なる良妻賢母を理想としていたわけではない。「皆が皆結婚に由て幸福の得られない現代に、『女は結婚すべきものだ』というような役に立たない旧式な概論に動される事なく、結婚もしよう、しかしそれが不可能なら、他にいくらも女子の天分を発揮すべき文明の職能がある。結婚のみが自分の全部でないという見識から、境遇と自分の個性とに順じて思い思いの進路を開き、いろいろに立派な変り物の婦人が多く出て来られる事を望みます」(『婦人の鑑』1911年)。

 そんなふうに、当時としては進歩的な女性論を述べている。私娼の廃止をとなえ、女性参政権の獲得運動にも加わった。

 女性が経済力を培うことで男性の保護下から抜け出して独立自営せよと説き、これらのメッセージを文学に託し、近代の女性たちを激励した。
     (朝日、2011年03月31日。歴史研究家・河合敦)

ジャーナリズム(公正な報道とは何か)

2011年04月02日 | サ行
   斉藤潤一(東海テレビ・ディレクター)

 昨年(2010年)、東海テレビ(名古屋市)で放送し、もっか各地の映画館で上映している「平成ジレンマ」は、戸塚ヨットスクールと戸塚宏校長の今を迫ったドキュメンタリーです。えっ、あのスクールってまだあったの、と驚いた人もいるでしょう。私自身もそう思いながら、取材を始めました。

 ヨットスクールが社会を騒がせたのは30年も前です。2人が訓練中に死亡、2人が奄美大島合宿後に行方不明。マスコミは激しい体罰が原因とみて戸塚校長を猛烈にたたいた。私はそのころ中学生で、「悪いことをすると戸塚ヨットスクールに入れるぞ」と脅されました。戸塚校長は、鬼でした。

 とはいえ昔の話。スクールはもう有名無実だろう。刑期を終えた元被告人はどんな心境でどんな生活をしているのか。そこにスポットを当てるつもりでした。

 けれど、スクールは今も求められていました。学校からも相談所からも見放された子を抱え、思い詰めた親が最後にすがる「駆け込み寺」であり続けていたのです。変化したこともありました。強制入学や体罰はできません。訓練生は非行少年ではなく、ニートや引
きこもりになっていました。年齢もずっと高くて。

 超スパルタ教育に専念していた戸塚校長が就職のあっせんに駆け回っています。取材途中ではスクールの方針を曲げてまで、自傷癖のある心を病んだ子を受け入れました。それでも期待したような展開にはなりません。むしろ、次々とほころびが増えていく。

 私たちはその現状を、あえて戸塚校長の側から撮りました。公正さを欠く、偏っているという非難は承知していますが、大衆やマスコミから一方的にたたかれている人を取材する場合は、ここが実は中立地点なのではないか、と考えているのです。

 2008年にテレビ放映した「光と影──光市母子殺害事件弁護団の300日──」の取材では、「鬼畜の弁護をする鬼畜弁護団」と呼ばれ、国民的なバッシングの嵐の中にあった弁護団の活動を中心にすえました。放送後、激烈な批判もありましたが、「弁護団のやろうとしていることが初めて理解できた」という視聴者の声は、予想以上に多かった。

 「平成ジレンマ」も「鬼」の側にカメラを入れたことで、今の親子関係や教育の難点・矛盾点がよく見えた気がします。見終わった観客からは「混乱してます」という感想がしばしば聞こえてきます。「すぐには答えの出ないドキュメンタリーがあっていい」というのが私たちの主張なんです。

 インターネットによって民意は目に見えるようになりました。伝播し増幅する速さはテレビの比ではありません。その代わり鬼の領域に追いやられた少数派は声を出しにくくなっている。「平成ジレンマ」も「光と影」もほぼ1年かけ、400時間ほど撮りました。

 声を奪われている人とじっくり付き合い、異論をあるがままに伝えること。それは、ネット時代におけるマスコミの重要な役割だろうと思うのです。

(朝日、2011年03月30日。構成・鈴木繁)

性格、der Chrarakter

2011年04月01日 | サ行
  参考

 01、無性格者は決断しない。(法の哲学第22節への付録)

 02、性格も〔情熱と同様に〕個々人の意志や知性の特殊性を表現してはいる。しかし性格には全ての特殊性と私的振舞い方等が一般的な形で含まれていて、活動としてのその特殊性が出ていない。(歴史における理性85頁)