マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

ジャーナリズムは建設的批判を

2011年10月31日 | サ行
 10月26日の朝日新聞に政治部の記者だという今村尚徳さんが「過疎集落を切り捨てるな」と題する意見を発表しています。まず、それを引きます。

    記(過疎集落を切り捨てるな)

 永田町で語られている「復興」は、東日本大震災の被災地の現実からかけ離れているのではないか。復興に向けた課題を探る手がかりとして、地震や津波に襲われた過去の被災地に足を運ぶうち、そんな疑問を抱くようになった。

 復興事業で一時的に潤っても、やがて人口が流出して街は衰退していく──。被災地は、どこも同じ軌跡をたどっていた。

 象徴的なのは、1993年の北海道南西沖地震で津波被害を受けた奥尻島だ。被災後、約200億円をかけて高さ11㍍を超える長大な堤防が築かれたが、海沿いの集落には廃屋が目立つ。人口は被災前の3分の2程度に減り、65歳以上が3割を占める。

 東日本大震災からの復興基本方針には、「新しい東北の姿を創出する」「東北の新時代を実現する」といった勇ましい言葉が並ぶ。しかし、具体的な道筋が見えないのは、地域の過疎化に対する処方箋を見いだせていないからだ。

 国は1970年に過疎地域対策緊急措置法を制定し、過疎地への財政支援として総額90兆円を投じてきた。40年以上も手を尽くしているのに、住民がいなくなって消える集落が後を絶たない。

 最近、永田町や霞が関では「効率化」「集約化」という言葉が金科玉条のごとく使われている。だが、この言葉は過疎地の住民への想像力に欠け、「過疎地からの撤退はやむを得ない」という都市住民の冷めた視線さえ感じる。

 経済成長時代であれば、更地ににぎやかな街を描くこともできただろう。しかし、未来を先取りした被災地の都市計画は、消滅に向かう集落の切り捨てを意味するのだ。

 津波被害を受けた自治体では、乱開発を避けるために建築制限や自粛要請をした。行政は街の「未来」にこだわるあまり、住民の「今」を置き去りにしてはいまいか。

 2000年の鳥取県西部地震で被災した鳥取県日野町の日野病院はこの夏、山あいの集落に看護師が出向き、お年寄りの健康相談を受ける取り組みを始めた。国からの補助金は出ない。独り暮らしの女性の言葉が耳に残る。「こうしたサービスがないと、もうここには住めなくなる」。

 過疎化にあらがうのは難しい。だが、住み慣れた土地で幸せに、豊かに暮らせるようにすることは、政治の役割だ。「復興」の名の下に、集団移転を加速させ、病院や産業の集約に突き進むことで、弱者を切り捨ててはならない。(引用終わり)

  感想

 主張自体は正しいと思います。しかし、国も県も市町村も解決策を見出せない「過疎化対策」をただ「政治の役割だ」と言って終えるのはいただけません。

 過疎化を押し返している、あるいは少なくとも食い止めている地域はないのか。あるとするならば、どうやってそれは達成されたのか。これを調べていないのでしょうか。

 批判するなら、この成功例から見て先の「総額90兆円」の使い方を分析し、検討するべきではないでしょうか。

 民主党の「政治主導」をはじめとするマニフェストもそうだったように、「批判は易しく、創造は難しい」のです。

  関連項目

過疎対策(01、ロハス職員を)(
過疎対策(02、ドイツの太陽光発電)(
過疎対策(03、補助金より助っ人を)(
過疎対策(04、ダム撤去)(



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力、die Kraft

2011年10月30日 | タ行
  参考

 01、Gewalt(暴力)は力の現象であり、外的なものとしての力である。(大論理学第2巻200頁)

 02、力はいまだに目的のように自己自身の中で自己を規定するものにはなっていない。(小論理学第136節への付録1)

 03、絶対的なものとしての力は、他者の主人であることではなく、自己自身の主人であることであり、自己内反省であり、人格性である。(歴史における理性113頁)

 04、力と言うカテゴリーの中にはいまだにいかなる具体的な規定も存しない。(歴史における理性114頁)

 05、エネルギーという表現は確かに運動の全関係を正しく表現してはいない。というのは、それは1つの側面、つまり作用を捕えてはいるが反作用は捕えていないからである。それはまた、エネルギーが物質にとって何か外的で、物質に移植された物であるかのような外観をも与える。しかし、これは力という言葉よりはどんな場合でもより好い表現であることは認めなければならない。(マルエン全集第20巻364頁)

 06、力という観念は、ヘルムホルツからヘーゲルに至るまで、どの方面でも認められてきたように、人間有機体の環境の中での活動から借りてきたものである。筋力とか腕の持ち上げる力とか足の跳躍力とか胃腸の消化力とか神経の感受力とか腺の分泌力などと言うわけである。換言するならば、人間有機体の機能によって引き起こされた変化の原因を指摘する労を省くために仮定の原因をあてがい、その変化に対応するいわゆる力ですり替えるのである。その後、外界に対してもこの便利な方法を持ち込み、それによって現象の数だけの力を発明するのである。(マルエン全集第20巻364頁)

 感想・言葉によるごまかしを暴露した鋭い指摘だと思います。

 07、法則を完全に認識したからではなく、まさにこれらの現象のかなり複雑な条件については未だにはっきりしていないからこそ、そういう時には力という言葉に逃げることが多いのである。
 かくして、力という言葉で表現されていることは、我々が法則とその作用の本性を知っているということではなく、その知識に欠けているということである。

 この意味では未だに解明されていない因果関係を手短に表現したものとして、言葉で一時しのぎをするための手段として力という言葉を使うことは、日常生活では間に合うかもしれない。しかし、それ以上になると、それは悪より出るものである。(マルエン全集第20巻366頁)

 08、自然の過程は二面的であって、少なくとも作用する2部分の関係から、即ち作用と反作用とから成り立っている。しかるに、力という観念は、それが外界に対する人間有機体の作用、更に進んでは地上の力学に起源を持つものであって、一方の部分だけが能動的・作用的で、他方の部分は受動的・受容的であるということを含んでいる。かくして生命なき存在にまで性の区別を拡張するというこれまで実証されていない事を許す事に成るのである。(マルエン全集第20巻366頁)

 09、「磁石は霊魂を持っている」(タレスの言)と言う方が、「磁石は引力を持っている」と言うよりも好い。なぜなら、力とは物質から切り離し得るもので、物質の述語と考えられたⅠ種の性質であるが、霊魂は自分で運動すると言う事であり、物質の本性と同一のものだからである。(マルエン全集第20巻541頁。これはヘーゲルからの引用)

 10、力。何らかの運動が或る物体から他の或る物体へと移される時、移す方の運動、つまり能動的な運動を、移される方の運動、受動的な運動の原因として捉えることが出来る。その時この能動的な運動つまり原因は力であり、受動的な運動はその発現となる。運動の不滅性の法則により、そこから力はその発現と完全に同じ大きさであるということが帰結される。力の中にある運動と発現の中にある運動とは同一の運動だからである。

 移す方の運動は多かれ少なかれ量的に確定出来るものである。なぜならその運動は2つの物体に現れるので、一方の物体は他方の物体における運動を測るための測量単位として使えるからである。

 この量的に測定可能ということが力というカテゴリーの持つ価値であって、そうでなかったらこのカテゴリーは無価値である。かくして運動を測定する方法が増えるとか容易になればなるほど、力と発現というカテゴリーは観察でますます使われるようになるのである。(マルエン全集第20巻541-2頁。これはヘーゲルの「精神現象学」の「力と悟性」を踏まえている)

 11、力の概念はガリレイにいたるまで完全に静力学的であったといわねばならない。すなわちガリレイまでは、力を物体との直接触によって生ずる圧としてしか考え得なかった。すなわち実体に定着した考え方が静力学の力の概念である。

 これにたいしてガリレイは、遠距離にあっても作用しうる力という動力学的な力の概念を導入したのである。そして力が位置を決定するのでもなく、速度を決定するのでもなく、まさに加速度を決定するものであることを明かにしたのである。

 力が加速度を決定するということは、マッハがのべるように、経験的法則であって、落下運動が等加速度であることを、重力の作用が一定であることから先験的に導き出すことはできない。たとえば温度差は、熱の移動の速度を決定するのであって、加速度を決定するのではない。

 ここに特にマッハのごとき近代の現象論者たちは、原因としてのカという概念を力学から追い出そうとした。それは一方において、原因という概念、力という概念が形而上学的に濫用されたことにたいする反動である。たとえばヘルムホルツのKraft(力)である。

 また他方、論理が立体的でないために、力と運動の媒介という立体的な物理学の構造を明かにすることができず、すべて現象面の記述に還元してしまうことを科学として、力の概念のごときを形而上学としたのである。

 またマッハに反対の傾向の考え方は逆に力概念や、原因の概念を科学的につかまず、形而上学的につかむことしか知らなかったのである。

 マッハはそれ故に力という名をさけて、わざわざこれを「運動決定状況(Bewegung bestimmende Umstände)」と呼び、原因の考え方を去り現象論的にしてしまった。

 しかし注意しなければならないことは、力は運動を決定しないのである。力が運動を決定するとしたならば、むしろアリストテレス的である。なぜならアリストテレスでは一定の力は一定の速度を決定するのである。速度が決定せられれば運動は決定せられるからである。これに反し、ガリレイにおいては力は速度をではなく、加速度を決定する。ところで加速度が決定されても運動は決定されないのである。ここにニュートン力学の立体的な「本質と現象」の論理でなければつかむことのできないものがある。

 これに反してアリストテレス的な力と運動の関係はより平面的であって、論理は実体論的である。マッハの考え方ほ、現象面ですべてを処理しようとし、完全に平面的な論理であり、これによってはすでにニュートンカ学をもつかむことができない。(武谷三男「弁証法の諸問題」理論社156-7頁)

12、力の概念は本質的概念である。しかし力は現象の背後に覆われてあるのではなく、力の関係の法則はもちろん現象の法則である。そして力は運動においてヨリ本質的な面に働く。運動は現象面である。それ故に力は運動を直接に決定するものではない。運動が決定されるのは、初期条件という現象面の偶然的事態が入りこみ、偶然性を媒介としておこなわれるのである。それ故、力をもって運動決定状況ということはできないのである。(武谷三男「弁証法の諸問題」理論社159頁)
 
  関連項目

デュナミス

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抽象的(抽象、抽象する)

2011年10月29日 | タ行
 1、英語の abstrakt の訳語として生まれたのであろう。誰がこの訳語を作り出したのかは知らない。

 2、原義。抽象とは、「象(かたち、すがた)を抽(ひ)き出す」という意味である。即ち、事物は「体」と「象(形)」との統一したものであるという考えが前提されている。アリストテレスは事物を質料と形相(形相)の統一と捕らえたが、これを受け継いでいると言ってよい。そのように体と象(形)との統一である事物から、体を除けて(つまり、捨象して)象(形)だけを取り出してきた時、そういう行為なりその結果なりを「抽象的」と評するのである。従って逆に、体と象(形)との統一である事物をそのような統一として捕らえる態度は「具体的」、あるいは逆に「具象的」と評されることになる。それは「〔形はもちろんのこと〕体をも具(そな)えている」、あるいは「〔体はもちろんのこと〕象(形)をも具えている」という意味である。

 3、派生義1。しかるに、そういう風に「象(形)だけを取り出してくる」のは思考のすることだから、抽象的という言葉は感覚的ではなく、思考の事柄だという意味を持つ場合がある。この意味では具体的とは感覚的(感覚の事柄)という意味になる。

 4、派生義2。又、それは、「体」と「象(形)」との統一したものから象(形)だけを取り出してくる」行為だから、「一面的」という意味にもなる。この意味では「一面的」とは「単純な」という意味とほぼ同じである。この場合は具体的とは「対立物の統一」あるいは「事物を対立物の統一として捕らえること」という意味であり、「複雑な」という意味である。更に、思考的という意味と一面的という意味とに共通な事柄として「一般的」という意味も出てくる。単純で一面的な事柄は多くのものに共通であり一般的だからであり、思考はその一般的なものを捕らえるからである。

 5、ヘーゲルでは派生義2の意味で使うことが多い。しかるに、ヘーゲルの論理学では或る概念Aがその対立概念Bと統一されてCが生まれると、今度はそのCがDと統一されてEが生まれるという風に進んでいく。そのため、同じ一面性と言ってもBを除いてAだけを捕らえる一面性とDを除いてCだけを捕らえる一面性とでは、一面性の度合いが違うということになる(CはAとBの統一である分だけ具体的だから)。つまり、一面性に程度があることになる。そのため、ヘーゲルではよく「より一面的」とか「もっとも一面的」、あるいは逆に「より具体的」とか「もっとも具体的」といった風に、abstrakt とかkonkret という形容詞についても比較級や最上級が使われることになる。「貧しい規定」とか「豊かな規定」といったことが言われるのもそのためである。これはヘーゲル読解の1つの鍵であるが、マルクスも受け継いでいる。例えば「具体的なものが具体的であるのは、それが多くの規定の総和だからであり、多様なものの統一だからである」とか、「交換価値は与えられた具体的な生きた全体の抽象的で一面的な関係」(経済学の方法)といった言葉がある。

 6、ではこのような抽象作用は思考だけのものだろうか。思考は現実と無関係に抽象することが出来るのだろうか。ある程度はそうである。思考の相対的独立性(限られた範囲内では自律的に働くこと)を持っているからである。しかし、根本的には、現実自身に抽象化作用、一面化の働きがあるのである。労働という事柄をその特殊性(様々な形態の労働)から抽象して「労働一般」として捕らえるためには、現実の社会の中で労働の形態に対して人々が無関心になり、1つの労働から他の労働に簡単に移れるという現実が必要なのである。これをマルクスは「歴史的抽象」(現実自身による一面化作用)と呼んだ。これを更に深く理解するためには、或る事柄なり事物なりが何であるか(その事柄の規定)は関係の中で決まるということを理解しておかなければならない。

 参照。「規定」の項。牧野の「悟性的認識論と理性的認識論」。歴史的抽象についてはマルエン全集第13巻 S.18, 635~、第24巻 S.109、その反対のヘーゲル的抽象法については第2巻 S.60-63

  参考

 01、自己自身に二分を身につけていない空虚な抽象(精神現象学222頁)

 02、一面的な、即ち抽象的な(大論理学第1巻77頁)

 03、抽象的なものは実在的なものの契機にすぎない。(大論理学第1巻192頁)

 04、抽象とは具体的なものを分離して、その諸規定を個別化することである。(大論理学第2巻261頁)

 05、抽象的に思考する、即ち純粋な観念の中に留まり、その中で運動する。(小論理学第3節への注釈)

 06、論理学は直感を扱うものでもなければ、幾何学のように抽象的で感性的な表象を扱うものでもない。それは純粋な抽象を扱う。(小論理学第19節への注釈)

 07、概念は抽象的なもんであるという言葉程ありふれた言葉はない。それは第1に、概念の地盤は思考一般であって経験的に具体的な感性物ではないという限りで正しいし、第2に、概念〔そのもの〕は未だに理念ではないという限りで正しい。(小論理学第164節への注釈)

 08、この還元〔様々な労働を同形の単純な区別なき労働に還元すること〕は抽象であるが、それは生産の社会的な過程の中で毎日行われている抽象である。(マルエン全集第13巻18頁)

 09、価値としての価値は、労働そのものの他に何の素材も持っていない。……それはただブルジョア社会の富の最も抽象的な形式であるにすぎない。……それは抽象ではあるが、まさに経済社会の或る発展段階の基礎の上でのみ行われる歴史定抽象である。(マルクスからエンゲルスへの手紙1858年4月2日)

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知覚、die Wahrnehmung

2011年10月27日 | タ行
 ① ドイツ語では Wahrnehmungなので、ヘーゲルなどはこれを分解的に捉えて「真理把捉」と捉えることもある。

 ② 寒暖の感じやその他の肉体的な性質の認知を「知覚」「感触」と言って、その他のもっと精神的な「感情」から区別する。(科学者のためのドイツ語113頁 )

 ③ 感覚とは感覚が個々のものであるのに対して、知覚は総合的とされる。

  参考

 01、 結論を言うとこうなる。わたしたちが〈知覚〉と呼ぶ意識表象には、他のものとは決定的に違う性質がある。それは〈想起)、(記憶〉、〈想像〉などが、ほぼ意識の志向力によってそれを遠ざけたり、呼び寄せたりできるのに対して、〈知覚〉だけは、つねに意識の自由にならないものとして現われるという点である。つまり意識表象の兄弟たちの中で、〈知覚〉だけは、意識の志向性という親の言うことを聞かないわがまま息子なのだ。

 〈知覚〉だけは、もしそれを遠ざけたいとき〝身体〃的な働きによらなくてはならないような意識表象である。これを現象学的な見方で言えば、わたしたちは、自分のうちに生じるさまざまな意識表象のうち、意識の自由にならず、その志向力の彼岸にあるようなものとして現われ出る意識対象を〈知覚〉と呼んでいる、と言ったほうがいい。つまり、これが(知覚)とは何かについての現象学的な〃定義″なのである。(竹田青嗣「現象学入門」NHKブックス55頁)

 02、それゆえ知覚をとおして、その個人特有の世界をさぐることもできれは、ある集団が共通にもっているバースペグティヴを究明することもできるわけだ。たとえば臨床心理学で用いられるロールシャツハ・テストは、知覚を介してその個人特有の世界をさぐろうとする。このテストでは、紙の上にインクを落とし、二つ折りにしてできた無意味な図形が何に見えるかを問う。ごく普通の見え方のほかに、きわめて特異な見え方があらわれることがある。このような特異性は、その個人特有の世界をうかがういとぐちとなる。

 他方、社会心理学者の実験は、知覚をとおして、ある集団に共通のバースペグティヴをさぐろうとする。いろいろの大きさの硬貨を見せて、投写した光の絵をその硬貨と同じ大きさに調節させると、貧民階級の子供は金持ち階放の子供よりも、硬貨の大きさを過大視する傾向がある。知覚はその人間の社会的な構えと無関係ではないのである。

 また立体鏡のなかに形は似ているが他の点では対称的な2枚の写真を入れると、2つの写真が合成されて見えることもあるが、多くの場合その一方だけが見える。黒人と白人の写真を入れた場合、南アフリカの白人の多くは黒人だけが見えるという。闘牛士と野球選手の写真を入れると、メキシコ人は闘牛士を知覚し、アメリカ人は野球選手を知覚する。彼らの網膜にはもう1つの写真も映じているはずであるが、彼らには見えないのである。これはわれわれの知覚が状況づけられた知覚であり、意識以前のレベルにまで特定の個人的・集団的パースペクティヴが滲み込んでいることを示している。われわれの視覚はけっしてカメラ・アイではないのである。(山崎正一・市川浩「新哲学入門」講談社現代新書73-4頁)
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高級官僚の実態(03、天下り隠し)

2011年10月26日 | カ行
 文部科学者所管の財団法人「地震予知総合研究振興会」が」同省OBの2人を嘱託職員として雇い、理事と同待遇の報酬を出していることがわかった。6月までは役員だったが、約800万円の給与水準を維持したまま情報公開の必要がない役職に「降格」させた。

 振興会は政府の地震予知や研究を補助するため、1981年に設立。予算は年十数億円で、文科省の補助金のほか、経済産業省や電力会社などから事業委託の収入を得ている。

 現在の役員は会長と理事2人の計3人で、いずれも国立大を退職した地震学者。6月まで役員は5人で、文科省OBの1人が専務理事、もう1人が理事だったが、「事業規模に対して役員が多い」として、2人を嘱託職員にした。

 振興会の規定では、会長の年収は約1200万円、専務理事は約1000万円、理事は約900万円だが、前専務理事の文科省OBによると、最近は規定額から2割程度減らしている。

 OBが明らかにした自身の現在の給与は年800万円程度で、理事とほぼ同額。もう1人のOBも同程度の額を受けているという。「逆に、理事が安くなりすぎた。我々が職員としての事務に専念することで人員を減らせ、経費節減できた」と説明する。

 内閣府によると、2001年の閣議決定で、公益法人の役員である省庁OBの情報を開示するが、嘱託職員は対象外。天下り隠しが問題になった2009年、内閣府が省庁OBの嘱託職員を調査したところ、7法人の10人が該当、少なくとも8人が同年度中に辞職した。

 元会計検査院局長の有川博・日本大教授(公共政策)は「肩書を変えた天下り隠しととられても仕方がない。実質的に理事と同じ処遇をするのなら、情報を開示すべきだ」と話す。

 (朝日、2011年10月18日)
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高級官僚の天下りの実態(その2、わたり)

2011年10月25日 | カ行
 野田政権になり、増税を推し進める官僚の衣・食・住は税金で手厚く賄われている。だが、その優遇ぶりは定年退職後も続くのである。定年や早期勧奨退職でリタイアすると役人には第2の人生の天国が待っている。

 高級官僚が現役時代並みの高給を保障されて独立行政法人や公益法人に天下りを繰り返し、そのつど、退職金を受け取る「渡り鳥」はよく知られている。

 財務官僚の有力OBでは、「大蔵のドン」と呼ばれた長岡實・元次官は日本たばこ産業社長や東京証券取引所理事長はじめ5回を超える天下りを繰り返し、87歳の現在も理事長を務めた財団法人・資本市場研究会の顧問に居座り、同じく大物次官OBで「ワル彦」の異名を取った吉野吉彦氏(81歳)は、国民金融公庫総裁、日本開発銀行総裁などを歴任し、現在は公益財団法人「トラスト60」会長を務めている。ほかにも、生涯収入8億~10億円を稼いだとされる渡り鳥官僚は各省とも枚挙に暇がない。

 最近では、役人は民間企業への「現職出向」という給料アップの裏技を編み出している。天下り批判など公務員制度改革を唱えて本誌にもしばしば登場した改革派官僚・古賀茂明氏はさる9月末に経産省を退職したが、退官1年ほど前、当時の次官から「年収2000万円、5年勤務で1億円」という条件で現職のまま大手電気機器メーカーへの出向を打診され、断わっている。

 指定職である古賀氏の年収は規定で約1500万円だったから、500万円アップの提示だ。定年を迎えるとそのまま企業に天下ることもできるわけで、現職出向という制度がいかにおいしいかがわかる。信念ある古賀氏だからこそ誘惑に乗らなかったが、たいていの官僚なら大喜びで飛びつくだろう。

 (NEWSポストセンブン2011年10月19日)

    感想

 こういう実体を個別に暴露するのではなく、ホームページを作るとか、ブログで百科事典を作るとかして、その全体像が常に誰でもが見られるようにするべきだと思います。

  関連項目

事業仕分けの無意味性



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浜松行革審は茶番劇

2011年10月23日 | ハ行
 01、中日新聞ネット版(2011年10月19日)

 浜松市の第3次行財政改革推進審議会(会長・御室健一郎浜松商工会議所会頭)の最終公開審議が18日夜、同市中区であり、審議会側が提言してきた行政区割りの再編に向けて、12月末までに詳細な工程表を示すように求める答申を、鈴木康友市長に提出した。

 行政区割りの再編をめぐっては、第2次行革審が2009年7月に現行7の行政区を3程度に削減するべきだとの意見書を提出。第3次行革審も昨年12月の中間答申で、検証過程を公開し、方針の公表時期を明確にするよう迫ってきた。

 答申は、市の対応を「取りかかりが遅い」と批判。工程表の明示のほか、住民投票の早期実施に向けた検証の開始、中、東、西、南の旧浜松市を中心とする4区を先行して再編し、その後他の区を再編する「二段階論」を検討するよう求めた。

 このほか答申は総人件費の削減目標を設定し、正規職員5000人体制を目指すことや、市営住宅の廃止・集約化、外郭団体の廃止・統合の推進なども盛り込んだ。

「早急に示したい」鈴木市長

 答申を受けた鈴木康友市長は「最終的には住民投票に付していきたいが、工程表を策定していく」と表明。提示の時期については終了後、記者団に「いつとは言えないが、早急に示したい」と述べた。

2012年度末期限にフラワー公社解散迫る

 「我慢の限界。閉鎖を含めて施設の方向性をはっきりしてください。高額の負担金も止めていただきたい」。18日夜に最終回を迎えた浜松市第3次行財政改革推進審議会(行革審)は市側に、フラワー・フルーツパーク公社の資産を2011年度末までに市に移し、2012年度末に解散することを要求。幾度も議題に上がった同公社の問題で、期限を切って解散を迫った。

 行革審が近接する動物園とフラワーパークの統合を提案したのは、2006年3月の第1次行革審の時。市は5年たった今年5月にこの案を受け入れ、一帯を舘山寺総合公園として整備する方針を示した。

 「5年以上たって初めて意思表示された。その後どうなっているのか、いまだ何も聞いていない」。山本佳英委員は市側に詰め寄った。

 市がつぎ込んだ負担金は設立以来100億円以上だが、入場者は減り続けている。答申では、フラワーパークについて、動物園との一体化と公募による指定管理者制度の導入、借地の返還と年度内に工程を明示することを提示。フルーツパークは閉鎖も含めた方向性の再検証と、方針決定までの最低限の経営維持を求めた。

 今回、行革審が明確な結論を求めた背景には、行革審に対する「空気」の微妙な変化がある。論点が出尽くし、2次までと比べて存在感が薄れてきているとの指摘も出始めており、冒頭、御室健一郎会長は「前会長(鈴木修・スズキ会長兼社長)と比べ、市民は迫力不足、つっこみ不足も若干感じられたのでは」と振り返った。

 ある委員は「行革審に対する批判もあるのは知っている。その上でどうしたら良いかという話も出た」と、答申のトーンを強めた思いを明かした。

 ただ、こうした思いがどれほど市側に届いたかは微妙。ある市幹部は「そのまま実行するのではなく、行革審の精神をいかに実現するかが重要。フラワー・フルーツパーク公社の件でもいきなり解散は難しい」と話した。

 02、感想

 第1次行革審(会長・鈴木修氏)は当時の北脇市長と決裂しましたが、第2次(鈴木修会長)も第3次(御室会長)も鈴木康友市長支持です。これだけやる気の無い事が分かっているのに、市長を支持する方がどうかしています。市長がノラリクラリとしているのは当然です。

 それに行革審には行政というものが分かっていないと思います。答申に従って、過疎地の学校を統廃合した結果はどうですか。過疎地は一層さびれました。過疎地の人口を増やし、活気づけるのが本当の行政であり、そのための提言をするのが行革審ではないでしょうか。北遠では「鈴木康友さんより北脇さんの方が好かった」という声が多いのもこの辺に根拠があるようです。

 03、関連項目

 行革審はどこが間違っているのか
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(哲学の)大衆性

2011年10月20日 | 読者へ
 哲学の大衆性とは何かということだが、それは学問自体の大衆性と受け入れられ方の大衆性とに分けられる。前者は、内容の大衆性(大衆の生活を哲学したもの)と、形式の大衆性(文章表現の大衆性)とに分けられる。後者は大衆に迎えられるという意味の大衆性だが、ここでもそれが一時的なことか長期的に見てのことかで二分される。『資本論」は初版1000部がなかなか売り妨れなかったが、今ではベストセラーである。又どういう人に迎えられるかも考えてみなければならないだろう。(『小論理学』への牧野の訳注、193頁)
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ハーバードにおけるマッカーシイズム

2011年10月18日 | ハ行
ハーバードにおけるマッカーシイズム(『思想』2005年4月号)
            ロバート・N・ベラ一
            廣部 泉(訳)

 編集者へ、

 1977年に『ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス』誌上においてマタジョージ・バンディと私との間で交わされた往復書簡の中で初めて公にされた、ハーバード大学とマッカーシイズムの問題について、新たな見解を示すためにこれを書いています。この件は好古趣味的関心しかひきおこさないように見えるかも知れません。しかし、マッカーシーの時代と全く似ていないわけではない国家的不安の時期、つまり、市民的自由が再びある種の危機にさらされている時にあって、50年前に圧力の下にあった米国の主要大学のふるまいは、現在と関連をもっていないわけではないかもしれないのです。

 1977年4月28日付の『ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス』誌において、シグムンド・ダイアモンドは、セイモア・M・リブセットの『ハーバードにおける教育と政治』(マグロウヒル、1975年)を書評し、自分自身の例を挙げて、1950年代初頭においてハーバードがどの程度までマッカーシイズムに協力していたかをリブセットは示していないと批判しました。〔その後、同誌にはその書評に対するマタジョージ・バンディの批評が編集者宛書簡として掲載されました。〕

 私は、ダイアモンドに対するマタジョージ・バンディの応答の語調と内容に衝撃を受けました。そこでバンディは、マッカーシー時代のハーバード大学文理学部長としての自らの記録を擁護すると共に、ダイアモンドを痛烈に批判していました。私は、ダイアモンドをたった1人で矢面に立たせておくわけにはいかないと決意し、バンディやハーバードとの自分自身の似た経験を事細かに書いた書簡を送りました。出版される前にその写しを、当時フォード財団理事長だったパンディにも送付し、反論の機会を与えました。

 共通の友人を通して、その手紙を取り下げるようにパンディは私に促し、さらに彼は2度電話してきました。その通話のなかで、彼は「ボブ、我々は今や同じ側にいるんだ」と言いました。この発言には驚愕のあまり私は言葉を失いました。愛国心に関する限り、我々は常に同じ側にいたと思っていましたが、それ以外のほとんどの問題については、同じ側にいたことは決してなかったのです。彼の要請を受けて、私は書簡から2つの名前を削除し、ぞの役職名のみ記すことに同意しました。しかし、それ以外は、書簡をそのまま公表したいと伝えました。編集者はバンディの書簡と私の書簡を一緒に、1977年7月14日付同誌に掲載することを決めました。バンディは、私に言わせれば事実と異なる発言をしましたが、私はこの件は捨て置くことにして、応えませんでした。

 しかしながら、私はハーバード大学文理学部長に問い合わせを行いました。1954年から1957年の間に実際に起こったことについての記録を調べることで、バンディと自分の説明における相違の真相を知るためにです。当該の出来事から50年間は管理部門の記録は公開しないのがハーバードの方針であると告げられました。これは私が27年間、すなわち、この件に関するバンディとの最初の出会いの50周年にあたる2004年の夏まで待たねはならないということを意味しました。この間に、バンディも、当時の学長であったネイサン・ビュージーも故人となりましたし、想像するに、当時の理事会メンバーのほとんどが他界したと思われます。ある行為に責任のあった人のほとんどが存命せず、それゆえ説明責任を果たしようもないだろうということが、おそらくこの50年ルールの理由の1つなのでしょう。バンディはここにはおらず、自己弁護することはできませんが、あの時期に私の採用を彼が支持していたという当時争点となった彼の主張は、1977年には私は真実ではないと疑っていたのですが、現在受け取った資料によって正しかったことが確認されているということは言わせて下さい。

 今年始めに私は、現在のハーバード大学文理学部長であるウィリアム・カービーに今や50年前のものとなった例の記録について問い合わせました。彼は、ハーバード大学図書館の館長であり、文書保管の責任者であるシドニー・ヴァーバ教授に調査させました。ヴァーバ教授とは、好意的なやりとりをし、彼は50年ルールを少しだけ曲げて、カービー学部長を通して、1954年から1958年にわたる私に関する記録を送ってくれました。私はこの件に関する彼らの協力にとても感謝しています。その記録は、読者が興味深く感じるかも知れない幾つかの新しい情報を明らかにしています。しかし、まず私のケースの概略を簡単にお話しする必要があるでしょう。

 私は、1947年から1949年にかけてハーバード大学の学部学生として共産党の一員でした。私の主な活動は、大学公認の、マルクス主義に関する議論がその活動内容である、ジョン・リード・クラブでの指導者の1人としてのものでした。1949年にアメリカ共産党が最初の危機を迎えつつあった時、党の内情があまりにもひどく、私は党をやめました。それで、1950年から1955年にかけて、社会学と極東言語を専攻するハーバードの大学院生だったときには、私は党とは何の関係もなくなっていました。1954年の秋、私はバンディの部屋に呼ばれました(当時バンディは文理学部長でした)。そして、彼は私が共産党の党員だったことを知っており、連邦捜査局や他の正式な組織に十分協力し、いかなる質問にも答えるのが私の義務であると告げました。発言と所属のみからなる自分自身の活動については証言するだろうけれども、非米活動委員会に呼ばれたことだけをもって人々の生活や職業が乱され破壊されているようなときに、他の人々の名前を挙げるつもりはなく、完全に協力することは拒否すると私は答えました。

 バンディは、そうはいかないだろうと言いました。彼は、私と妻と幼い娘の唯一の収入源である奨学金が危うくなると告げました。このバンディとの面談の一週間後、私は通りで連邦捜査局の2人の捜査官に呼び止められ、他のメンバーの名前を言うように厳しい圧力をかけられました。しかし、私はそれを拒否しました。私の奨学金の出所であるハーハード・イエンチン研究所(基金そのものは大学の支配下にはありませんでした)の所長は、私の奨学金は危うくなってはいないと保障してくれましたが、研究所の有力な別のメンバーは、奨学金はおそらく更新されないだろうから、1954-55年の間に博士論文を仕上げるように警告しました。非常に限られた時間のなかで、1955年6月の博士学位取得に間に合うように、私は博士論文「徳川時代の宗教」(現在でも最初の出版社であるフリープレスから出版されています)を完成させました。

 事態は、1955年春に社会関係学科が私を教員候補者として推薦することを決定したため、新たな局面を迎えました。私は、当時の学科長であり指導教官でもあったタルコット・パーソンズに、前年のバンディとのいきさつと、それ故、私の採用が無理ではないかとの懸念を告げました。パーソンズはそのまま押し通すことを望みました。バンディは更に私と面談し、名前を挙げるように再度促すと共に、ハーバードの診療所長を訪ねるように言いました。私は学部の1年生の時、そこでカウンセリングを受け、精神を検査してもらったことがあったのです(理事会の中に、元党員は「頭がおかしい」に違いないと考える者がいたので、そんなことはないと改めて確信させたかったのだと、のちにバンディは私に語りました)。

 結局、私は採用のオファーを受けましたが、それには、もし私が当時いくつかあった非米活動委員会のどれかに呼ばれて、どの質問であれ回答を拒否したなら、契約は更新されないという条件が付いていました。私は、モントリオールにあるマッギル大学のイスラム研究所から、2年間のポスドク奨学金のオファーを受けていたので、ハーバードからの受け入れがたいオファーでなく、そちらの方を受けました。パーソンズとしては、私がもう少し粘りさえすれば、ハーバードのオファーからその不愉快は条件を取り除けると感じていました。カナダに向けて出発する前、パーソンズは、「これで終わった訳じゃないから」と私に言いました。2年後の1957年、奨学金が切れるときに、私は幾つかの採用のオファーを受けましたが、その中には、1955年の例の条件が取り除かれたハーバードからのものもあり、それを受けることにしました。私はハーバードで、正教授にまでなり、そして1967年にカリフォルニア大学バークレー校へと異動するまでそこに留まりました。

 マッカーシー時代にハーバード大学がとった動きについての完全な記録はありません。それにはもっともな理由があります。データが利用可能でないのです。理事会の関連会議の議事録を請求したとき、議事録は取られていないと言われました(1)。バンディ学部長とビュージー学長との間のやりとりから理事会の行動を再構成しなければならないのです。しかし、わずかですが最近私が目にすることができるようになった資料のおかげで、幾つかの結論に達することができています。

 まず注意しなければならないのは、私のケースが持ち上がったとき、理事会はウェンデル・ファーリーのケースに没頭していたということです。ファーリーは、終身在職権付きの物理学教授で、マッカーシー委員会に協力をせず、告発されていました。理事会は、もしファーリーが投獄されたらどうするか頭を悩ませていました。私が現在知り得たことからハーバードの理事会の方針(ビュージーとバンディはそれにおおむね沿っていました)を性格づけるとすると、批判回避に第一の関心をおいた、マッカーシイズムヘの控えめな協力といえるでしょう。告発された終身在職権付き教授を雇用し続けることは批判を招きましたが、彼を解雇することは、有力同窓生や教授陣から明らかに批判を受けたでしょう。

 しかし、シグムンド・ダイアモンドやレオン・カミンといった任期付きの教員の場合は、単に任期の終わりに契約を更新しないということができました。彼らが騒ぎを起こすことはまずなく、それでハーバードの協力が人々の関心を集めることもあまりありませんでした。私や、おそらくは他の人にも、圧力をかけて連邦捜査局に名前を言わそうとしたバンディの骨折りは、理事会の方針ではなかった可能性も充分あります。しかし、その道というわけでもありませんでした。というのも、私が知ったことは、任期付き教員の採用に関する理事会の方針は、どんなすばらしい学問的業績にかかわらず、調査委員会からの質問に1つでも答えなかった者は、いかなる者であれ契約は更新されないというものでした。

 1977年にバンディは私に次のように言いました。自分は同様のケースにおける理事会のすべての決定を承認してきたものの、私が尋問においてもうまく対応でき、大学の名誉を辱めることはしないと信じて、私のケースだけは例外とするよう理事会を説得しようとしたと。1955年4月27日の理事会宛ての長い書簡で、バンディは、私の人格と能力を理由に、私のケースを例外とするよう論じました。シングルスペースで6ページにも及ぶ手紙の末尾で、彼はこの問題の核心に触れました。

 ──外部から批判される危険がないなら、私はベラー氏が常勤教員となるのがよいと思います……しかし、もちろん 外部からの批判の危険は存在しますし、それはこの問題に2つの方向から影響を及ぼします。──

 1つの可能性は、もし私が証人として召喚され、十分に協力しなかったとき、大学がそのような人物を「故意に雇用している」と批判されるだろうということです。そのような状況下でも、私が批判をかわすように適切に振る舞えるとバンディは感じていました。もう1つの危険は、学科の終身在職権をもつ教員による全会一致の支持を受けた候補者の採用を事実上拒否すると、学科を失望させることになり、例の付帯条件なしに私を採用することは、「自分が考えるところ、理事会と教授団との間に現在存在している相互信頼の感覚を強化する」であろうというものです(2)。

 理事会の反応は、5月16日付のビュージー学長からバンディ学部長へ宛てた短い書簡に含まれていました。それは採用は認めるものの、以下のような文章を含んでいました。

 ──ベラー氏の講師としての任期中に、もし共産党員との過去のいかなる関係についても証言を拒否したなら、理事会は、任期更新を認めたがらないだろう。──

 私の能力に関する議論も、詳細にわたる長文のバンディによる私に対する弁護への反論もなく、ただ明らかに理事会の包括的政策と見える主張があるだけでした。マッカーシー時代のハーバードを突き動かしていたのは、「情報漏れ」を発見したいという意図だったと論じる者もいるので、次のように指摘することは有意義であると思います。すなわち、私のケースにはそのような問題は関わっていなかったし、バンディの書簡にもビュージーの書簡にも触れられてはいませんでした。また私と同様の扱いを受けた人たちの場合も同じでした。ハーバードが懸念していたのは、「情報漏れ」ではなく、批判を受けるということについてだったのです。

 私に提供された新しい情報の中には、1955年5月23日付のタルコット・パーソンズからの長い覚え書きも入っていました。それは、ジョン・エドソールのメモ書きによって支持されており、アメリカ大学教員協会ハーバード支部の執行委員会に向けて書かれたものでしたが、5月16日のビュージーの書簡に含まれていたハーバードの理事会の決定に疑義を呈するものでした。

 パーソンズは次のように主張しました。非行の場合を除いては、講師は通常2年間の任期延長を期待しうるものであるし、理由が何であれ質問への回答を拒否することは非行となると理事会は明らかに信じていた、そして結果として、元共産党員だけでなく、そのような質問のどれに答えることに不満を抱く者に対しても、理事会は自らの見解として、包括的義務が存在する、と主張したのです。

 パーソンズは、包括的方針などは存在せず、個々のケースはそれぞれの功罪にもとづいて扱われるぺきであるという教授陣の間で広く支持されていた信念を表現すると共に、そうではないと知ったときの落胆を表明したのです。彼は、「不快に違いなかったにもかかわらず」、私が自分の精神的健康に対する調査に協力したという点を指摘しました。これは明らかにバンディの頭には思い浮かばなかった点です。

 書簡の終わりの方でパーソンズは、その時点までの動きは、「多くの人が偉大な大学の統治機関として無価値と判断するであろう程度にまで理事会は道を踏み誤っている」という印象を与えかねないと指摘しました。1956年秋にパーソンズは再び原則の問題を持ち出しました。

 ビュージーは1956年9月27日に理事会に代わって次のように応えました。1955年春に私がオファーを断っているので、この問題を再び取り上げる意味はなく、「彼ら〔理事会〕は当時〔1955年5月16日〕とった行動が正しいものであったと感じており、もし今日状況が同じであれば再び同じ行動をとるだろう」と述べました。

 1957年に事態がなぜそれほど大きく変化したのか。すなわち、カナダでの2年間のポスドク奨学金が切れたとき、私は1955年の付帯条項なしの採用の申し出をハーバードから受けました。なぜ以前の包括的政策が突然姿を消したのか。バンディは1977年7月14日付の『ニューヨーク・レビュー』への書簡の中で1つの重要な理由を挙げています。

 「公判を受けなければならなかったのはレオン・カミンとウェンデル・ファーリーで……それは1956年には検察側は十分に立件できませんでした。そしてこのことがすべての関係者にとって暗雲を晴らすのに大いに貢献したのでした」。

 1954年12月の米国上院のマッカーシー批判が国全体のムードを変え、非米活動委員会のジグソーパズルはそうこうするうちにバラパラとなっていたということも加えてよいかも知れません。1957年の思いがけないマッカーシーの死が、時代の終わりを際だたせているように見えました。これらの出来事が、ハーバードの理事会がそれほどまでに懸念していた「批判」の危険を最終的に取り除きました。しかし、初期の出来事に関しては、バンディが悔悟することはありませんでした。私のケースだけが、理事会が過ちを犯したと彼が感じた唯一のケースでした。彼はその他すべての理事会の決定に同意しました。バンディが私のケースを理事会の包括ルールに挑戦するために用いていたとしても、彼はそうとは言いませんでした。

 これらすべてが帰するところは、ハーバードがマッカーシイズムに対する防波堤であったという記録ではなく、惨めな臆病さの記録、つまり連邦捜査局やマッカーシー本人、そしてマッカーシー派の諸委員会に進んで完全に協力したという記録なのです。それは、終身在職権のある者を解雇するといった、マッカーシーヘの協力よりも大きな批判を巻き起こしかねないことをハーバード執行部がしてはならないという懸念によってのみ薄められてはいましたが。それらの委員会や連邦捜査局が望んだことは、人々が名前を挙げることであり、任命権や契約更新権を使って人々に圧力をかけることによって、ハーバードが進んで協力することでした。

 すべてのアメリカの主要大学がそれほど臆病だったわけではありません。1977年の往復書簡の後、私は他の大学での別の行動を示唆する手紙を多く受け取りました。ここでは1つだけに触れましょう。それはデーゲイッド・リースマンからのもので、名前を挙げることを拒否した終身在職権のない教員が、契約を打ち切られることがなかったばかりか、大学が弁護費用をもったというシカゴ大学のケースについて語っていました。

 おそらくハーバードの歴史家が、そのような臆病なことは2度と起きないようにという目的のもと、1950年代のハーバードのマッカーシイズムヘの反応という悲しい歴史全体を研究するのによい時機が釆ているのではないでしょぅか。

 ハーバード大学執行部の意気地のなさに驚く人もいるでしょう。ハーバードほどの組織であればマッカーシーの時代の市民的自由への攻撃に対して、批判を恐れて縮こまるかわりに、より弱い組織が続くぺき範を示しつつ、十分抵抗することは出来たでしょう。しかし、そのような道がとられることはありませんでした。ファーリーを解雇しなかったという事実だけが、ハーバードの抵抗という神話を生き延びさせています。

 私はハーバードに大いに世話になりました。(カナダでの2年間という中断を除いて)学部の1年生から正教授までの成長過程の20年間をハーバードで過ごしました。しかし、母校の真の精神は、ビュージー学長やバンディ学部長、そして理事会によって具現化されて
いるのではなく、タルコット・パーソンズや彼のような他の教授陣によって体現されていると私は信じます。
               ロバート・N・ベラー
         カリフォルニア大学バークレー校、エリオット社会学名誉教授

(1)カービー学部長の更なる言葉によってこの発言がより明確になる。「実際には理事会の会合には議事録が存在している。ただ、公式な議論の記録だけであり、会合における議論の要約は含まれていない」。これらの「議事録は上記のビュージー学長の報告書のなかに既に含まれている内容に何かを加えるものではない。
(2)これを書いて以来、私は1955年5月23日付のバンディからビュージーに宛てた手書きのメモを解読してきた。それは、バンディの4月27日付公式書簡の表紙として付随していたもので、そこでバンディは、この問題をより一層明確に論じている。

 ──これが、社会関係学科の若き元共産党員、ベラ一についての私の書簡です。この書簡を準備するにあたって、彼を採用するのが正しい道であると、より一層納得しています。この若者の[解読不能]過去に関する懸念を支持するような議論は成り立ち得ますが、結局のところ、彼の採用に反対する理由はその懸念だけなのです。しかし、我々が自分たちの基準を信じ、過去の愚かさを許し、1人の若者の良心に敬意を表するなら、我々はここから前に進むべきだと私は考えます。──


牧野からのお断り

 出版社からも原筆者からも訳者からも許可を得ないで転載します。内容的に価値があると判断したからです。クレームが来たら削除するつもりです。

 ここに出てくる「ポスドク」とは、多分、日本では「オーバー・ドクター」と言われている(ポスドクとも最近は言うかもしれない)ことで「博士課程修了者」という意味です。又、「ジョン・リード・クラブ」のジョン・リードとはアメリカのジャーナリストで、ロシア革命のルポ『世界を揺るがせた10日間』を書いた人でしょう。アメリカ映画に「レッズ」というのがありましたが、それはジョン・リードの生涯を描いた物ではなかったでしょうか。

 アメリカ映画「追憶」にもマッカーシーイズムとの映画人の戦いが出てきます。この映画については「主義を糧とする人々」を書きました。

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体系、das System

2011年10月17日 | タ行
 実際、体系という概念ほど自称マルクス主義の運動にとって躓きの石となってきた概念は少ないであろう。

  参考

 01、体系の本来の意味は全体性ということである。(哲学史への序論118頁。許萬元『ヘーゲル弁証法の本質』115頁から孫引き)

 02、ここの初めて認識の内容そのものが考察されるようになる。なぜなら、それは導出された限りで方法に帰属するものだからである。方法自体がこの契機によって体系へと拡大される。(大論理学第2巻500頁)

 03、体系なき哲学的思考は科学ではありえない。……或る内容はただ全体の契機としてのみその正当性を示すのであって、全体の外では根拠なき主張か主観的革新にすぎない。(小論理学第14節への注釈)

 04、自然と精神についての全てを包括し、これ限りでお終いというような認識体系というようなものは弁証法的思考の根本法則と矛盾している。しかし、だからと言って、それは外界全体についての体系的認識が世代から世代へと巨歩を進めて行くことを排除するものではなく、逆にそれを含んでいるのである。(マルエン全集第20巻24頁)

 05、哲学そのものといったようなものがもはや必要でなくなる時、その時には又いかなる体系も、自然哲学の体系さえも必要でなくなる。自然の全過程が1つの体系的関連を持っているという事を知った科学はこの体系的関連をあらゆる所で、個々の部分についても全体についても、証明しようとする。

 しかし、この関連を正しく余すところなく科学的に叙述し、この世界体系の正しい思想像を作成するということは、我々にとっても又いかなる時代においても不可能な事である。人類の発展のいかなる時点においてにせよ、自然的、精神的及び歴史的な全ての世界の関連を完結させるような究極的な体系が樹立されるとしたら、その時にはそれと共に人間の認識は終結し、社会がその体系と一致したように作り替えられる瞬間から、それ以降の歴史的進歩は断ち切られることになるだろう。しかし、これは馬鹿げた事であり、全くの背理であろう。

 かくして人間の前には、一方で世界体系をその全関連において余すところなく認識しようとするが、他方では人間自身の本性から見ても世界体系の本性から見てもこの課題は決して完全には解決できないという矛盾が立てられていることになるのである。

 しかし、この矛盾は世界と人間という2つの要因の本性の中にその根を持つというだけではなく、又全知的進歩の主要な梃子であり、人類の無限の進歩の中で毎日毎日、不断に解決されてもいるのである。それはちょうど、例えば数学の課題が無限級数や連分数で解かれるようなものである。実際、世界体系についてのどのような思想像も客観的には歴史的状態によって、主観的にはその思想像の創造者の肉体と精神の機構によって制約されているのである。(マルエン全集第20巻34-5頁)

 06、さしあたり問題になる仕事は経済学の諸範疇の批判だ。即ち、ブルジョア経済学体系の批判的叙述と言ってもよい。それは体系の叙述であると同時に叙述による体系(体制)の批判でもある。(マルクスからラサールへの手紙、1858年2月22日付け)

 07、「体系」または「総体性」に特有な論理とは、一言でいえば有機的生命性の論理である。(許萬元『ヘーゲル弁証法の本質』青木書店、第2編第3章)
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脱原発デモ

2011年10月15日 | タ行
 10月10日の朝日新聞は「ネットでつなぐデモの波」と題して、最近の脱原発デモを報じています。「各地で続く脱原発デモに、これまで社会運動に参加してこなかった市民たちが次々と参加している。インターネットを通じたゆるやかな結びつきが、組織や動員に頼らない、新たな運動のスタイルを育んでいる」。

 私はこの動きを歓迎する者ですが、気に成る事もあります。それは、いつ頃からか知りませんが、デモに対する警察(機動隊)の警備とやらが極めて抑圧的になっているということです。そして、主催者側にそれに対する十分な対策がないようで、警察の乱暴狼藉によって怪我などをする人がかなり出ているということです。

 9月19日の大江健三郎氏たちの呼びかけによるデモの場合には12人の逮捕者が出たそうです。間もなく釈放されました。そしてこれを契機に何人かの有名な人が記者会見を開いて抗議声明を発表したと報じられています。

 しかし、これは抗議声明を出せば好いという程度の物ではないと思います。公務執行妨害容疑による逮捕ということは、それ以前に、あるいはそれに伴って、逮捕者やその周囲の人たちに対する暴力的攻撃があったと推定するのが常識でしょう。

 これは何年か前の北海道・洞爺湖サミットでもあったようです。当時の福田首相は「日本は自由な国ですから」と言って、サミットに反対する外国人の入国を許可しましたが、デモに対する弾圧は相当のものだったようです。

 私は、マスコミの報道もこの点では極めて不十分だと思います。

 しかし、何よりも、主催者が無責任すぎると思います。参加の呼び掛けの際、これに十分に注意を促しているとは思えません。警察に止めるように言うべきです。国会議員を通して国会で取り上げてもらうようにするべきでしょう。

 参加する人たちもこの辺の事を理解して気を付けないと、大変な事になりかねないと申し上げておきます。子ども連れで参加する人もいると聞きますが、現場の様子を見て、再考した方が好い場合もあることを頭に入れて置くべきです。

 率直に言って、私はデモという手段を余り高くは評価しません。学生だった頃には私自身デモに参加しましたが、今は参加しません。日本では自由民権運動でもコメ騒動でも大衆運動は弾圧されて終わり、その後に権力者の側が小さな譲歩をするというのが既定の成り行きのようです。

 では脱原発はどのようにして達せられるのでしょうか。池澤夏樹さんは朝日新聞でのコラム「終わりと始まり」でこう書いています。

 ──どうやって日本の電力を変えるか。/ 簡単なことだ。次の選挙で候補者1人1人に原発に対する姿勢を聞いて投票する。官僚や産業界がどう抵抗しようが、選挙結果は動かしようがないから。──(朝日、2011年10月04日)

 これには賛成できません。選挙結果は確かに動かしようがありませんが、官僚や産業界は議員の動きをけん制したり、無効にしたりするスベを心得ています。

 民主党は政権を握りましたが、そのマニフェストとやらはなかなか実行できていません。なぜでしょうか。官僚を使いこなせず、産業界の抵抗を押し切ることが出来ないからです。その理由は既に「改革派はなぜ挫折するのか」で考えましたが、要するに、政策だけが1人で実行されるのではないということです。政策を実行するのは人間(集団)なのです。その人間集団にその政策を実行する意欲と能力が無ければ、実行したくても実行できないのです。

 古い物は新しい物が出てこなければ、退場しないのです。いや、退場出来ないのです。顔は代わるかも知れませんが、内容は旧態依然のままです。分かりやすい例を出しましょう。最近は少し変わってきた所もありますが、多くの大学の授業は「つまらない」と決まっています。なぜでしょうか。かつて「つまらないな」と思って授業を受けていた学生が教員になっても「つまる」授業を開発する意欲がなく、「つまる」授業をする能力がないからです。

 さて、政治に戻って、打開策は自前のシンクタンクを作ることしかないと思います。これは鈴木崇弘さんが言っていることですが、賛成です。日本では選挙に出るのは相当のリスクがありますから、優秀な人はなかなか出ないのです。又、在野で行政について官僚に対抗できるほどの研究をするのも難しいのです。この2つの問題を解決するには、自前のシンクタンクを作って政治家を目指す研究員を養成するしかないでしょう。このシンクタンクは又、落選した議員を再度研究員として受け入れるべきです。

 先日のデモを呼び掛けた大江健三郎さんとか柄谷行人さんとかは皆、億単位の財産を持っているはずです。1人1000万円でも出しあって100億円の基金を作るのです(もちろん我々貧乏人も分に応じた協力をします)。それで配当率5%の株を買えば毎年5億円の収入が得られます。これくらいあれば、最低の人数のシンクタンクは運営できると思います。

 政権交替で分かった事は、いくら政権交代しても意欲と能力のない人では官僚主導からの転換はできない、という当たり前の真理だったのです。日本の政治の現状では、能力の養成、特に行政能力の養成から始めなければならないと思います。

 しかし、上のシンクタンクの提案には大難問があります。日本人の態度保留癖です。選挙の話では「どの政党が勝つか」「誰が勝つか」を論ずるだけで、自分はいかなる理由によって誰を支持するか、どの政党を支持するかを言わないという、日本だけの特異現象があります。ですから、先のようなシンクタンクを作るとなると、デモを呼び掛けた「有名人」たちも躊躇するでしょう。日本には希望がない訳です。
 
 なお、脱原発だけは、今止まっているものの再開は難しいでしょうし、今稼働しているものもいずれ「定期点検」を迎えますから、そしてその後の再稼働は難しいでしょうから、事実上、稼働原発ゼロになるかもしれません。ですから、脱原発だけなら、実現の可能性はあると思います。

    関連項目

改革派はなぜ挫折するのか

シンクタンクの必要性

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官僚の生態(事業仕分けの無意味性)

2011年10月12日 | カ行
 防衛省が昨年廃止したはずの基地周辺の住宅防音工事に関する補助金を、各地の防衛局が発注する公共事業の形に変え、職員の天下り先に出し続けていることがわかった。事業は一般競争入札で発注し、誰でも参加できる形にしていたが、入札直前に天下り先以外の参加が難しい条件をつけてライバルを排除していた。

 補助金は、自衛隊や在日米軍基地周辺で住宅の防音工事をする際の事務手続き費用として出していた。手続きは専門的でなく、行政への申請書づくりを手伝う行政書士で対応できる内容だった。補助金は名目上、住民に1件当たり上限8万円支払われることになっていたが、実際は事務手続きを代行する防衛首席管の財団法人「防衛施設周辺整備協会」に回っていた。協会には年十数億円が入っていたという。

 協会は、防衛省から毎年10人程度、天下り職員を引き受ける一方、この住宅防音工事の事務手続きを主な収入源としていた。

 防衛省は昨年、事業仕分けで「天下り団体への資金還流だ」などと指摘され、補助金の廃止を決定。その代わりに、2011年度に「事務手続き補助業務」という事業を新設した。

 事業の発注形態は一般競争入札だったが、急きょ、個人情報を適正に管理できる団体を第三者機関が認証し交付する「プライバシーマーク(Pマーク)」か、同等の認証を持つ業者しか参加できないと告知した。

 その結果、Pマーク取得には100万円以上かかることもあり、ほとんどが協会だけが参加する「無競争入札」となった。協会は、4月1日から8月16日までに実施された32件の入札の総契約額、6億9600万円の98%に当たる6億8400万円を得た。

 本格的に入札の形に変えるのを前に、昨年秋、小規模な入札を4件実施したところ、すべてライバルの行政書士事務所などが落札し、協会が1件も落札できなかったため、Pマーク条件を加えた可能性がある。

 予定価格に対する落札額の割合をみると、競争があった入札が74%だったのに対し、協会だけの参加で無競争になった入札は93%で、競争をなくしたことで、税金の無駄遣いにつながったことがわかる。

 入札参加を断念した行政書士事務所は「行政書士が個人情報を漏らせば行政書士法で罰せられる。我々はPマークより厳しい環境で仕事をしている。天下り先を守るための条件としか考えられない」と話す。

 防衛省は「入札の競争性は高める必要があると考えているため、状況を聞いたうえで改善したい」と説明している。

  (朝日、2011年08月17日。前田伸也、松浦新)

 感想

 事業仕分けで「廃止」とかになった事業の内のほとんどのものがこういったやり方で形を変えて存続されています。それでも「構想日本」とやらは得意げに「事業仕分け」を続けています。もちろん成果のあった場合も「少数ながら」あるようです。それはトップにやる気のあった場合です。

 逆にトップにやる気があれば、「事業仕分け」とやらで大騒ぎをしなくても行政改革はできるのです。国の事業仕分けも第1回だけはテレビでも大々的に報道されて評判になりましたが、実際には大した成果につながらなかったことが分かり、今ではほとんどの人が関心を示さなくなりました。

 しかし、事業仕分けに関心を示さないだけでは困ります。行政に対する「正しい関心」を示さなければなりません。それなのに、どうしたら好いのか分からなくて、無気力になっているというのが実情のようです。
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存在と当為、Sein und Sollen、cf. 価値判断

2011年10月10日 | サ行
  参考

 01、あれこれのプロレタリアが何を目標と考えるか、あるいはプロレタリアート全体がさしあたっては何を目標と考えるかということさえ、ここでは問題ではない。ここでの問題は、プロレタリアートが何であるかであり、その「存在」(何であるか)によって、歴史的に何を為すべく強いられているか、なのである。(マルエン全集第2巻38頁)

 感想・「根本的には」当為は存在によって定められているのだが、それは「一義的に」決められている訳ではない。人間の主観に媒介されて決められるのである。

 02、大衆を行動へと呼びかけることに関して言えば、これは、精力的な政治的煽動がありさえすれば、生き生きとした鮮やかな暴露がありさえすれば、ひとりでに生まれてくる事柄である。誰かを現行犯で捕まえて、即座に皆の前で至る所でこれを断罪することは、それだけでどんな「呼びかけ」よりも有効であり、ものすごく効果が大きい。

 呼びかけは、その一般的な意味ではなく、具体的な意味では、ただ行動の現場でだけ出来ることであり、自分自身で、又即座にその場へ出て行く者だけが呼びかけることが出来るのである。だが、我々、社会民主主義的評論家の仕事は、政治的暴露と政治的煽動を深め、広め、強めることにある。(レーニン「何なす」第3章)

 03、かくして、実践的意志の対象である当為は、決して存在をはなれたところに求められるのではなくて、あくまで存在そのもののなかに、存在自身への実践的批判のうちに求められなければならない。なぜなら、当為とは、ヘーゲル的にいえば、存在自身の本質であり概念でなければならないからである。したがって、もしヘーゲルのいうように、真理とは存在がそれ自身の本質へ向かって合致していくところにある、とすれば、われわれの実践的活動は、つねに同時に客観的真理過程としての意義をもたなければならないこととなろう。

というのも、われわれの実践とは、たとえわれわれにとっては目的(概念)の実現であり、主観的なものの客観化の過程であるとしても、対象的には、存在が自分自身の本質性へ、あるべき姿へ合致せしめられる過程としての意義をもつからである。(許萬元著「ヘーゲル弁証法の本質」青木書店第3編第1章)

 04、「ゾルレン、これが吾等の合言葉である。人は存在するために存在するのではない。〝ねばならぬ〟に向けて汗を弾(はじ)かせ、反吐(へど)をはき、血を放ちつつ進む時、ゾルレンの旗の下に初めてザインの顔がのぞくであろう。中久保喬」

 なんとまあ、恰好のいいことを──思わず口の中でそうでも言っておかねば居たたまれぬ気恥しさに襲われた。頭の奥では、枯草の葉先に飛びついた枯草色のバッタが揺れている。揺れているのは長くもない脚をこれ見よがしに胴の脇に折り曲げた中久保であったが、彼の腹のあたりに自分がしがみついているらしいことは否定出来ない。ただあの時、草はたっぶり水気を孕んだ青草であった。

「ゾルレン」が合言葉だったかどうかはともかく、学生運動の周辺を生きていたわたし達にとっての流行語であったのは間違いなかった。どこかにまだ旧制高校の名残りめいたものを微かに留める新制大学の学生の間で、ゾルレンはゲルピンとかガンツとかメッチェンと並ぶ日常語であった。そのドイツ語の単語には、「当為」と訳したのではどうにも伝えきれぬ底深い濡れた影のようなものがひそみ、口にする度に焦燥と自己叱咤の熱に尻の焼かれようとするのが感じられたものだった。したがって、ゾルレンは哲学上の概念ではなく、若い人間を内側から行動へと駆り立てる働きをする政治上の言語に近く、ひたすら自己に呼び掛け続ける脅しの呪文にも似たなにかであった。ねばならぬ、ねばならぬ、と内に叫ぶその悲鳴にも似た声が外に噴き出す時に形をとる言葉こそ「ゾルレン」に他ならなかった。

 それに比べれば、在ることをそのまま認める、という意味での「ザイン」の人気は薄かった。ゾルレンがこの地点から少しでも先へ進もうとする前傾姿勢を示すとしたら、ザインは身体の重みを踵(かかと)に預けて容易には動き出そうとせぬ体位を表していたからだ。そしてザインの上に身を置き、終始ゾルレンの行方を凝視し続けたのが雨森信吉であった。

 したがって、活動家の多いサークルの中では雨森はどこか煙たがられる学生だった。そのくせ、多少なりとも学問的な知識の要求される研究会や講座の開催ともなれば彼の意見が頼りにされたのだから、ゾルレンに踊りがちな中久保やわたしを含めた多くのメンバーは、足許をさらわれることを警戒しつつ雨森の存在をいつも気にかけていた。もしクラスの違う彼がノイン・デー〔9D。クラス番号〕にいたならば、中久保の血気に逸(はや)るマニフェストにどんな批評を加えたろう、と想像して苦い笑いを味わった。彼はゾルレンの方向が時々変るのではないか、とでも今なら言い出しそうだった。

 あらためて中久保の短い文章を読み返すと、それは血気に逸るマニフェストとか真情の吐露とかいうよりも、むしろクラスメートに対する性急なアジテーションの言葉ではなかったか、との思いに傾いた。クラスやサークルといった開かれた場所に顔を出す中久保は、そこに所属する前に既に使命を帯びていたのだろう。彼にとっての開かれた場所は、深く閉じられた政治組織からの声を伝え、拡げ、その主張を浸透させて学生達の思考を変革するための畑であったに違いない。フラクション活動と呼ばれていたそれらの営みは、閉じられた裏からの声に同調出来る限りは、必ずしも違和感を覚えるものではなかった。自分もまた中久保の腹のあたりにしがみついていた以上、フラクションを包む膜の一部であった。そこにはゾルレンの風が吹いていた。どこにもザインの顔は見えなかった。

 中久保の一文に続くのは、第二外国語にドイツ語を選択したのはシューベルトの「冬の旅」の歌詞を原語で精確に読みたかったためだ、と洩らす低い声だった。作曲家とほとんど同時代を生きたヴィルヘルム・ミュラーの詩をドイツ語で読めれば、少年時代からずっと惹かれていた「冬の旅」が一層身近な世界となるだろう、との夢が語られている。

 麻雀グループヘの誘いがあり、妻をめとらばと歌い出される「人を恋うる歌」への共感をまじえた反撥が記され、子供の頃の正月の思い出が後に並ぶ。

 顔なしの名前と、名前もわからずにひょいと浮かぶ顔とが記憶の水面に出入りするのをしばらく眺めて時を費した。しかし二十名以上も詰め込まれている短信欄にも、やはりわたしの姿はなかった。そのことが、あたかもわたしがノイン・デーには籍がなかったかのような不安と不満を引き出した。これほど長く、人によっては本人の寿命が尽きるより後まで残るクラス雑誌に、爪の掻き跡ほどの証も留めなかった自分が腹立たしい。おそらくそこにはあるまいと考えていた中久保の短信にまで出会っただけに、わたし一人がクラスの中で無視されている寂しさに締めつけられた。

 どうして何も書かなかったのだろう、と自問しつつ終りに近いページをめくった。巻末に「欠席人物評」と題された数ページが設けられている。XY集団とのみ署名のある欄の前言には、いかなる事情によってか寄稿のなかったクラスメートの横顔を一方的にここに描きとどめる旨の断り書きが記されている。かかる独断的クリテークを逃れたいと願う者は次号に必ず原稿を寄せよ、との脅しが前言の結びだった。

 冒頭にいきなりわたしの名前が飛び出した。何が書かれているかに関係なく、名前がそこに記載されているだけで満足だった。やはりあのクラスの空気の中に俺は生きていたのだ、という安堵が温く身を包んだ。

 「奥戸継也
  君、学生自治会におけるクラス委員にして我等がリーダー。来期は学部常任委員たらんとの噂のあるも宜(むべ)なる哉。紅顔の明眸、朗々の音吐、よくクラスを導き、時に煽動詩の絶叫、学生集会のドームを揺るがす。

 されど君、徒(いたず)らに時世に悲憤慷慨するなかれ。我等学問の徒なれば、右手に紅の旗を翻(ひるがえ)らすことあるも、左手の書物を放すことなかれ。堅固なる理論の構築なくして焉(いずく)んぞ社会の構造を変革し得ん。

  君、情熱と才気に溢るるも、焦るなかれ。急ぐなかれ。
  君の説く実践の成果が計られるのは、三十年後、五十年後であるに違いない。その時、君にまみえるのを楽しみにしよう。純情なる好漢、益々弁ぜよ!」

 ガリ版刷りの読みにくい文字の間から躍り出たクラス委員・奥戸継也の面影を前に、しばし呆然と立ち竦(すく)んだ。「ノイン・デー」に数行の短文さえ寄せることのなかった指導者面をした奥戸某は、クラスの眼にこんなふうに映っていたのか。(黒井千次「羽根と翼」223-7頁)

 感想・青二才左翼の「ゾルレン」理解がどの程度のものだったかを教えてくれる貴重な記録ではあります。学生時代に左翼運動に関わったが会社に入り定年後に回顧している時、学生時代のクラス雑誌(たった1回しか出なかった)を探し出して読んで回想にふけっているいる場面です。

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価値判断

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地中熱

2011年10月09日 | タ行
 東京都心にある一番町笹田ビル。普通の5階建てビルだが、地下は秘密がある。

 駐車場脇のステンレスの箱の申に、地中に向かう十数本のパイプがあった。地中熱ヒートポンプシステムだ。

 ビルのオーナーの笹田政克さんは「地中75㍍の深さまで熱交換用のポリエチレン製のパイプが8本埋まっている。地中熱で年間の冷暖房の大部分をまかなえる」と話した。

 地表から深さ数㍍までの地温は気温の影響で変動する。10㍍より深いと、その場所の年間平均気温より1~2度高い温度で年間を通してほぼ一定。夏は外気温より低く、冬は高い。地中熱ヒートポンプは、地中のパイプに不凍液を循環させて、温度差を冷暖房に利用する。

 室内を冷房する場合、熱を外に出すが、一般的なエアコンが外気に熱を出すのに対し、地中熱利用では地中に排熱する。夏に35度の外気に排熱するより、20度以下の地中に排熱する方が効率的。日本地熱学会によると、一般的なエアコンと比べて消費電力の3分の1を減らせるという。

 冬の暖房でも、地中から熱を得た方が効率が良い。笹田ビルは導入後、空調の電力消費が約半分になったという。

 産業技術総合研究所地下水研究グループの内田洋平主任研究員は「井戸水が夏は冷たく、冬は暖かく感じるのと同じ原理。二酸化炭素の排出削減にもつながる」と話す。

 地中熱は、羽田空港国際線旅客ターミナルや、建設中の東京スカイツリーでも使われる。東京スカイツリーでは、ガスなどを使う従来方式の空調より年間の消費エネルギーは48%、ニ酸化炭素排出量は40%減らせるとみている。

 住宅メーカーは一般住宅への導入も進めている。地中熱利用促進協会によると、掘削機が使える場所があれば、既存の建物でも導入できる。

 環境省によると、国内の地中熱ヒートポンプの設置件数は2009年までに580件。100件以下だった10年前から増えているが、世界的には普及が遅れている。現在、国内の設備は計4・4万㌔ワット分。米国の1200万㌔ワット(原発12基分)、中国の約520万㌔ワットと比べ大きな差がある。

 普及が遅れる大きな要因が費用。同協会によると、住宅用は300万円以上かかる。理事長を務める笹田さんは「電気代や灯油代の削減につながるが、初期投資の回収に10~20年かかる。10年以下になるのが望ましい」と話す。

 米中などは政府の助成が充実している。日本は、昨年、改定のエネルギー基本計画で地中熱が再生可能エネルギーとして盛り込まれた段階。環境省の補助金に加え、経済産業省の自治体や事業者向けの補助金も今年から始まった。

 産総研の内田主任研究員は「地域により気候や地下水の流れが異なる。利用拡大に向け、地域ごとの効率的な利用法を検討する必要がある」と許している。

 (朝日、2011年10月05日。中村浩彦)

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風力発電

2011年10月08日 | ハ行
 東京電力福島第一原発の事故以来、再生可能エネルギーヘの関心が高まっています。風力発電も、その1つ。世界的にみても、地下資源の枯渇や地球温暖化とは無縁なクリーンエネルギーとして期待され、急速に導入が進んでいます。

 世界風力エネルギー協会(GWEC)によると、世界で昨年1年間に3580万㌔ワットの風力発電能力が新たに生まれました。原発なら約35基分。総発電能力は1億9440万㌔ワットに上り、5年前と比べて3・3倍です。

 一方、国内では2009年度に148基(30万㌔ワット)が新たに設置されました。累計の発電能力は218万5938㌔ワットですが、日本全体の総発電能力からみると1%にも届かない状況です。

 風力発電は風の力で羽根(ブレード)が回り、その回転運動を発電機に伝え、電気エネルギーへと変換しています。風は無尽蔵にありますが、天候に左石され、風速や風向きは絶えず変化します。発電の仕組みは単純ですが、安定した電気を得るのが難しく、やっかいなエネルギーなのです。国内での稼働率は、よくても25~30%程度です。

 風力発電の開発が、世界的に本格的に始まったのは石油危機以降の1970年代のことです。それ以来より多くの風を取り込もうと大型化が進み、1基当たりの出力も増加を続けました。現在の羽根の長さは国産で45㍍、海外製だと60㍍ほど。この30年間に国内の風車の出力は1基当たり40㌔ワットから3000㌔ワットへと70倍以上も増えました。

 風のエネルギーを最大限に取り込むため風車は、首を振って常に風上を向きます。羽根は3枚が一般的。枚数が増えると重くなり、材料費も膨らみます。逆に羽根を減らして同じ分のエネルギーを取り込むと、速度が上がり騒音が出てしまいます。これらの要素を考慮すると3枚が最適なのです。

 ところで、強い風が吹くほど発電量は大きくなるのでしょうか。

 実は、風車にとって大敵の1つが強風なのです。確かに、速く回転すれば出力も上がりますが、強すぎると羽根が折れ、発電機も過熱して壊れます。最悪の場合、風車が倒壊することもあります。

 沖縄県宮古島で2003年9月、台風14号が通過したときに最大瞬間風速74・1㍍を記録し、沖縄電力の風力発電機3基が倒れるという事故が起きました。

 それぞれの風車には、最も効率よく発電できる「定格出力」が決まっています。例えば、風速10㍍で定格出力に達すると、それ以上強い風が吹くと羽根の角度を変えて逃がしてしまいます。出力を安定化させるための機能です。

 さらに風が強まり風速25㍍ぐらいになると羽根をロックしてしまい、発電をストップします。小さめの風車には、なぎ倒されないように事前に安全に倒してしまうという「可倒式」もあります。

 大型化で背が伸びたことで雷の被害も頻発しています。とくに冬の日本海側では、雷で羽が折れるなどの被害が相次ぎました。

 三菱重工で開発に携わった日本風力エネルギー学会長の勝呂(すぐろ)幸男さんは、風力の先進地の欧米では平地の風車が多く、強い風が安定して吹くのに対し、山岳地帯が多い日本は風の乱れに加え、台風、落雷にも対応する必要があるといいます。「自然相手だから、技術を日本にローカライズ(現地化)させることが大事です」。

 最近では海上に設ける「洋上風力」への関心が高まり、欧州で導入が進んでいます。建設やメンテナンスのコストがかかるといった欠点がありますが、立地の制約がなく、障害物もないので強い風が得られ、騒音も気にならないといったメリットがあります。

 (朝日、2011年08月06日)

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