マキペディア(発行人・牧野紀之)

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ながく、牧野紀之の仕事に関心を持っていただき、ありがとうございます。 牧野紀之の近況と仕事の引継ぎ、鶏鳴双書の注文受付方法の変更、ブログの整理についてお知らせします。 本ブログの記事トップにある「マキペディアの読者の皆様へ」をご覧ください。   2024年8月2日 中井浩一、東谷啓吾

福井県(01、実力)

2008年10月30日 | ハ行
 目立たないけれどしっかり者、という人が世の中にはいる。都道府県でいえば、福井県だろう。

 完全失業率全国最低(2005年国勢調査)、世帯当たりの自動車や携帯・PHSの保有率1位、同貯蓄額3位(2004年全国消費実態調査)、0歳児の平均余命2位(2000年都道府県別生命表)、刑法犯検挙率1位(2005年犯罪統計書)と並べれば、地味なイメージとは異なる、豊かで堅実な県民性が見てとれる。

 福井の豊かさを支えるのは、ハイテク化の進む繊維産業と機械産業、そして女性パワーだ。共働き世帯割合、女性労働力率、就労女性の常用雇用率はいずれも1位(2005年国勢調査)。広い持ち家に両親と同居し、自分の車で勤務先に通う正社員、というのが当たり前の女性像となっている。

 「女性が働くと子どもが減る」と誤解する向きがあるが、合計特殊出生率でもトップクラス(2005年の1.50は沖縄に次ぐ2位)だ。ちなみに女性の労働力率が高いほど出生率が高いのは、都道府県比較でも、先進国比較でも共通の現象である。

 「オバマ(米大統領)候補を勝手に応援する会」が盛り上がる小浜市で、同会がオバマ氏応援のために作ったCDを買った。若い男女が掛け合うスタイルが福井らしい。ファンキーな歌声が讃えるのは、同候補の出身地ハワイと小浜の共通点である美しい海だ。

 水産加工中心の地味な町だが、出生率は県内の市でもトップクラス。民主党予備選を制する勢いのオバマ氏がもし将来、米大統領として来日する日が来たなら、住んで良し、訪れて良しの当地にもぜひ足を運んでほしいものだ。

  (朝日、2008年05月24日。地域経済アナリスト・藻谷浩介、協力・日本政策投資銀行地域振興部)

スローシティー

2008年10月29日 | サ行
                    島村菜津

 郊外型の巨大な量販店にシネコン、コンクリートの住宅街。駅前や国道沿いのチェーン店~。全国に広がる均一な風景が、日本を覆う閉塞感を助長している。それはクルマでの移動が前提だから、どこか殺風景でさえある。

 マンションが増え、なおも畑が消える東京の郊外の住人として痛感するのは、競争と効率とスピードを優先する社会から、食や自然や伝統との、ゆっくりとしたつながりを取り戻す「スローシティー」の発想の大切さだ。

 スローシティーは約10年前にイタリアで生まれた。大量生産と大量流通、行きすぎた効率化が生む食の均質化に異議を唱えたスローフード運動の流れを受けて始まり、同国内に53、海外に104市町村がそのネットワークに加盟している。

 この夏、あらためてスローシティー運動の生みの親と言われるパオロ・サトゥルニーニさんの話を聴いた。彼が昨年まで町長を務めていたグレーベ・イン・キアンティはトスカーナの丘陵地帯にある人口1万4000人の、農業を中心とした町。

 高度成長の50~60年代、町は劇的な過疎化を経験した。若者はどんどん都市へ消えていった。ところが経済危機や社会不安に揺れた70年代末、小さな変化が起こる。外国人や都市からの移住者が捨て置かれた田舎家を買って修復し、住み始めた。ワインやオリーブ油と、農の分野でも「量から質」へ転換が起こる。

 やがて人口は以前と同じにまで回復した。その後、パオロさんが試みたのは、町を大きくしないことだった。量販店より地産地消の店、大型ホテルより農家民宿を増やすことだった。

 パオロさんは力説した。人が生きていくうえで根源的なものは「ほどよい大きさの町」。そこに「人と人の交流、会話、農家の知恵、職人の技、食文化、信仰」といったものが守られていることだ、と。それは、私のようなよそ者にも居場所がある、新しい共同体意識の創造だった。

 日本にも、こうした動きは出始めている。

 宮城県北西部の山間地、人口約6000人の旧宮崎町(現加美町)では「コンビニが一軒もない町」を自慢する小学生に出会った。ここでは、1999年から「家庭の一品」を持ち寄った食の祭典を開き、地元の食文化とこれをはぐくむ自然を見直す動きが生まれ、今、加美町全体に広がっている。

 また、琵琶湖に面する人口約5万5000人の滋賀県高島市の新旭町には、豊富なわき水を使う水仕事専用の施設「川端(かばた)」が残っている。湖とコイの泳ぐ水路と台所が水でつながる文化を大切にしながら、地元の木材を使った地熱利用の幼稚園など「循環型の町づくり」を掲げている。

 人口約7500人、宮崎県綾町は70年代から照葉樹の天然林と有機農業の町を目指してきた。人口減に悩んだが、今日では木工芸、染織物など約40の手作り工房があり、都市から移住し、農業やレストランを始めた人が活躍している。

 こうした動きは、地方で徐々に浸透している「地元学」にも通じる。地元学は大都市との比較や新しいモノを求めて外へ出て行くのをやめ、地元の人や行政に、おせっかいなよそ者も加わって「ないものねだりからあるもの探し」で出発する地域づくりの実践、大いなる遊びでもある。

 本来、町や地域は食べ物や自然との関係が見えるくらいの大きさを持ち、それが、そこに暮らす人に安心感や充足感をもたらしてきた。「働く場がないから都会に出ざるを得ない」とよく耳にするが、足元にあるモノをもう一度見直すことで新たな、充足感のある仕事場がつくり出せる可能性がある。

 肥大化した都市や「郊外化」は豊かで快適な暮らしを誘うが、その代わりに何かを失いかけ、人の孤立化を深めてはいないか。そろそろ効率化や大規模化から脱却し、暮らしの質を問い直す時が来ている。
  (朝日、2008年10月25日)

文部官僚(02、文部科学省の体質)

2008年10月28日 | マ行
 国立大病院改革、文科省の実質支配が問題だ  医師、元東大医学部教授 柴田 洋一

 安倍内閣は「教育再生」を最重要課題として教育再生会議で審議を開始した。しかし私は、それより前に教育行政を担当する文部科学者の適格性こそを、まずは検証すべきだと考える。

 以下の事例を経験し、その非民主的な行政手法や隠蔽体質を痛感したためだ。

 2002年03月に国立大学病院長会議から国立大学病院の合理化案である「提言」が発表された。その中で焦点になったのは、輸血部や薬剤部、臨床検査部といった中央診療部門のリストラだった。同部門はチーム医療の質を保持するために重要な基盤部門だが、提言では「専任教官を置かなくてもよい」などとしたため、猛反発が起こった。

 折しも、薬害エイズ事件への反省から血液新法の法案が審議され、輸血医療の重要性が唱えられていたころである。とりわけ日本輸血学会は「専門家を養成できなくなる」、「医療の国際的常識に反する」と強く批判した。

 輸血医学が専門の私も国民医療に重大な悪影響を及ぼすこの提言に抗議し、2002年末に東大医学部教授と東大付属病院輸血部長の職を辞した。

 そして2003年01月、病院長会議の議事録を情報公開請求した。会議に出ていた文部官僚が提言作成を誘導したとの疑いを持ったからである。しかし同年03月、「記録はない」として不開示決定通知を受けた。

 文科省は、国会議員の質問主意書への答弁書などでも「記録はない」と説明していた。だが2003年04月、その存在を週刊誌が暴露。

 ここにきて当時の遠山敦子文科相は議事録の存在をようやく認めて国会で陳謝し、虚偽答弁書作成の責任で同省の官僚7人を処分した。

 その後、私は入手した議事録を読んで、文部官僚が「まだまだ実弾が入っていないので込めてもらわなければならない。検討が足りない部分について記載させていただいた」などと発言し、会議を誘導していった過程を実際に知った。

 だが文科省は、2003年05月に再提出した政府答弁書でも「官僚の関与はない、提言は病院長会議が自主的に作ったものだ」と主張、国会審議は幕引きされてしまった。

 私は「議事録隠しの不開示決定は情報公開法違反」として提訴した。そして、今年(2007年)03月の東京高裁判決を受けて私の勝訴は確定した。

 判決文は「会議の後半以降、文部科学者が会議を主導していったこと、同省の意図が本件提言の内容に一定程度反映されていることが認められる。(中略)同省ないし医学教育課としては、本件議事録が公にされ、本件提言策定の過程が明らかにされることは避けたいとの意向を有していたことがうかがわれる」と認定している。

 ところが、この判決後も同省は説明責任を全く果たしていない。

 文部官僚の主導を許した背景には、予算配分権を握る文科省による国立大学の実質支配がある。法人化後も国立大学は同省の事務官を受け入れているばかりか副学長や副院長などに昇格させている。同省が大学を評価し、交付金を決める権限を握っているためだ。こうした構図にメスを入れない限り「教育再生」はあり得ないと考え、あえて問題提起する次第である。

 (2007年06月14日、朝日。私の視点)

北海道(01、実力)

2008年10月27日 | ハ行
 北海道には経済停滞、公共投資依存のイメージがつきまとうが、新たな成長の芽はいくつも出ている。

 1つが2001~2006年度の間に24万人から59万人へと2.5倍に増えた外国人観光客。同期間の全国の伸び(1.5倍)に比べ、際立っている、。彼らの道内での消費額も1300億円(2006年度)と、ほぼ同時期の道内の大型店売り上げ総額の8分の1程度で、経済押し上げ効果は大きい。

 豊かになった東アジア向けを中心に、農水産物の輸出も急増している。2006年の実額は362億円と、まだ外国人観光客の消費額には及ばないが、2001~2006年の伸びは3.6倍だ。ホタテ貝柱など水産品が目立つが、薬膳向けに台湾でブレークしている長イモなど、農産品の将来性も大きい。

 先日、酪農で知られる道東地方の別海町の大平原を夜遅く車で走っていたら、24時間営業のコンビニエンスストアに出くわして驚いたが、横にそびえる巨大な建物にはさらに驚いた。中国への輸出もにらみ、大手食品メーカーが70億円を投じたチーズ工場だ。乳製品関連の工場投資は十勝地方でも活発だ。

 世界的なエネルギー価格高騰を受け、美唄市では新たな露天掘り石炭鉱床の開発も報じられている。

 道内では、最近の大手自動車部品工場進出を喜ぶ声が大きい。だが今後、世界的に需要が増大するのは、車やハイテクよりも、水や食料、木材、エネルギー、そして富裕層向けの観光だ。北海道にはそのすべてを供給する余力がある。

 前世紀の機械産業中心のモデルにとらわれず、「東アジア地域の北欧」という新たなポジショニングを獲得する先にこそ、この島の未来がある。
  (地域経済アナリスト藻谷浩介、協力・日本政策投資銀行地域振興部)

  (朝日、2008年04月12日)

福岡正信

2008年10月26日 | ハ行
 大病を経て「人知や人為は一切が無用」と20代で思い至った。それ以来、人手をいかに省き、自然の力にゆだねて米や野菜を作るかを追究してきた。

 愛媛県伊予市の地主の家に生まれた。高知県農業試験場などに勤めた後、20代で帰郷。戦後の農地改革で田畑の大半を失い、残ったミカン山と5反(50アール)の田で、「自然農法」の実験を繰り返すことになる。

 種籾をじかにまいて米を作り、刈り取る前に麦の種をまく「不耕起直播(ちょくはん)」の米麦連続栽培を考案した。野生の稲が穂をそのまま地面に落とす姿から着想し、稲穂のまま田にばらまく「穂まき」を90歳を過ぎてから試みた。

 ミカンでは根元の雑草を除くため、くわで土を削るようにしていた時代に、下草を生やして栽培した。今では普通の栽培法だ。さらに下草刈りの手間を省くため、緑肥となるクローバーをまいた。春にはクローバーの花が咲き乱れ、無数のチョウが舞った。

 地球規模の環境破壊に危機感を抱いていた。約100種の植物の種子を粘土で固めた「粘土団子」を使って、アジアやアフリカの砂漠緑化に奔走。それらの成果が評価され、1988年に「アジアのノーベル賞」と言われるフィリピンのマグサイサイ賞を受賞した。

 地元より全国で、日本より世界で、その名は知られた。著書「わら一本の革命」は世界各国の言葉に翻訳されている。

 昨年末に入院するまで、不自由な体で田をはいまわり、観察を続けた。08月06日、往診の医師に「もう何もせんでいい」と点滴をやめるよう伝え、14日、「わしは今日死ぬる」と家族に告げ、16日朝、すり下ろした桃を3口すすってまもなく亡くなった。

 「一生『自然』を追い求めて、死を意識しながら死んでいった。自分の人生を貫いたような気がする」。長男の雅人さん(65)は語った。

 (朝日、2008年10月17日。藤井満)

林業(04、日本の林業の現状)

2008年10月24日 | ラ行
 日本の森林面積は約2500万㌶と国士の約3分の2で「森林率」はフィンランドに次ぐ世界2位。

 1950年代までは国内で消費される木材の9割は国産材だった。

 しかし、戦後復興期に大量伐採したため供給が間に合わなくなり、1960年前後から輸入を自由化し外材に依存。木造住宅の主役は次第に「いつでも大量に買えて価格も手頃な」(業界関係者)外材となり、木材自給率は1997年に20%を割った。

 2005年以降は国産材回帰の動きで微増が続き、20%台を維持。

     木材自給率

2007年、22.6%
2008年、24% (見込み)

     林業従事者

2005年、約4万6000人(国勢調査による)
 (1995年比で約4万人減)

  (朝日、2008年10月22日。堀田浩一)

     森の現状・宮脇昭氏(植物生態学者)の発言

 日本人の92%以上の人が住んでいる照葉樹林域で、本物の森が残っている面積はわずか0.06%しかありません。

 その土地本来の自然林に近い種(しゅ)の組み合わせを維持している森を「本物の森」と言います。人類生存の基盤であり、地域文化の原点でもある本物の森は、遺伝子を未来に残してくれます。

 本物の森は、どんな厳しい条件にも耐えて長持ちします。植樹後3~4年が過ぎたら、基本的には管理する必要はありません。5年たっても管理が必要なのはニセモノです。

 東京・汐留の都立浜離宮恩賜庭園は本物の森です。ここには250 年以上前に植えられた常緑広葉樹のタブノキ、スダジイなどが関東大震災や先の大戦の空襲にも耐えて今でも、たくましく生き残っています。

 しかも、土地本来の高木であるタブノキを主本に、亜高木のヤブツバキやモチノキ、低木のアオキやヤツデ、下草のベニシダやヤブランなどが見事な多層群落を形成しているのが特徴です。

 本物の森は地中深く、真っ直ぐ根を張る「深根性」「直根性」のため、地震や台風、火事などの災害にも強く、防音、防塵や水質保全、大気浄化などの機能も備えた防災環境保全林としての役割を担っています。

 常緑広葉樹が火事にも地震にも強いことは、関東大震災の時の旧岩崎別邸(現在の清澄庭園)や阪神淡路大震災の時の大国(だいこく)公園によっても証明されました。

 (朝日、2008年10月27日。山田養蜂場の広告から)


文部官僚

2008年10月23日 | マ行
     永田町を闊歩する文部科学省

                  横田由美子(ルポライター)

 麻生首相が今回、事務秘書官を初めて総務省から起用して話題になったが、首相秘書官はこれまで財務、外務、経済産業、警察各省庁出身の4人体制が通常だった。これらはエリート官庁であり、中でも「官の中の官」と言えば、もちろん財務省(旧大蔵省)である。

 だが最近、霞が関を取材していると、違う実感を持つ。不祥事で肩身を狭くしている官庁が多い中で、威勢がよく、エリート然としているのは文部科学省なのだ。

 先日、霞が関各省庁に野党から「資料要求」があった場合、その資料を事前に自民党側に提示するよう同党の国会対策委員会が申し入れていたことが明らかになった。この取材をしていたときのこと。

 「野党なんかに資料を出すはずないでしょう。メディアや野党は『事前検閲』だと大騒ぎしているようですが、そうするのは当然じゃないですか。教科書と同じようなものですよ」と、文科省の30代の官僚が平然と話した。こうした高飛車な発言が多いのは、文科省が「飛ぶ鳥を落とす勢い」(他省庁の官僚)であるからだ。

 麻生政権の閣僚には発足当初、6人の文教族がいた。文部科学相も務めた中山成彬前国土交通相が失言で辞任したが、党には政策決定のカギを握る政調会長にべテラン文教族の保利耕輔氏が留任している。新旧の官房長官も最大派閥の長もみな文教族。麻生首相からして文部政務次官経験者なのだ。

 「永田町を闊歩する文部官僚の姿を見ない日はありません。局長ら幹部職員は官邸や政調会長室に日参している。彼らの政治力は、無視できないレベルに達しています。福田辞任で清和会の文教族支配も終わるかと霞が関は一瞬色めき立ちましたが、ふたを開けてみれば新政権は文教族政権でした」と、他省庁の官僚からうらみ節が聞こえてくるほどだ。

 そんな文科省の態度を映したと、霞が関が受け止めるニュースがあった。自民党の「無駄遣い撲滅プロジェクトチーム」が08月に文科省の「政策棚卸し」をした際、28事業のうち160億円相当にあたる10事業が「不要」、1430億円相当の6事業が「いまのままでは不要」などと判定されたのだが、09月中旬の同PTの発表によれば、来年度予算要求で28事業のほとんどについて増額要求をしていたことがわかったのだ。

 ある別の省庁の幹部から「文科省はほかと感覚が違う」と聞いたことがあった。「たぶん全国に自分たちの監督下にある無数の教育現場を持っていることで、ほかにはわからない『ピラミッド』の上にいるという感覚が生まれているのではないか」と、その幹部は分析していた。

  (朝日、2008年10月18日)

     感想

 教育を論ずるジャーナリスト達も「文科省の教育支配」を追究していないと思います。独立行政法人となった国立大学には文科省の幹部が天下っているはずです。

 私が「地方分権の核心は、文部科学省の解体」だという所以です。

   関連項目

小沢一郎


貧困(01、統計)

2008年10月22日 | ハ行
     

1、朝日、2008年10月20日から

 非納税者(労働力人口の内、完全失業者を含む)
   約2000万人(2006年)(総務省や国税庁の資料による)

 非正規労働者数
   1732万人(2007年)。雇用者総数の3分の1以上

 年収200 万円以下の給与所得者
   1000万人超(2006年)

赤川次郎さんの日本語(移轍とは何か)

2008年10月21日 | ア行
 赤川次郎氏はオペラについてのコラムの後、今度は「劇場に行こう」と題するコラムを朝日新聞に連載しています。これは要するに舞台芸術についての批評ということでしょう。

 その内容はオペラの時から門外漢の私にも面白いもので、(多分)欠かさず読んでいますが、作家であるにもかかわらず、その日本語については少し疑問を感じることがあります。

   1、「は」の重複

 第1は、助詞の「は」の重複ということです。

 1. あの有名な「女心の歌」は、たいていのテノールのアリア集に入っていて、私もこの歌はよく知っていたが、これが歌われるオペラ「リゴレット」を見たのは、ずいぶん後になってからである。(朝日、2008年08月20日)

 感想・「あの有名な「女心の歌」は」と提題したのに、さらに「この歌は」と繰り返したのは余計だったと思います。「あの有名な「女心の歌」は、たいていのテノールのアリア集に入っていて、私もよく知っていたが」で充分でしょう。

 次の「これが歌われるオペラを見たのは」は小主題ですから、適当でしょう。

 2. 見たいと思う舞台やコンサートは、なぜか重なるもので、特に秋になるとコンサートやオペラの類はぐっと過密になる。(朝日、2008年10月02日)

 感想・2つ目の「コンサートやオペラの類は」は必要でしょうか。これを除くと、「見たいと思う舞台やコンサートは、なぜか重なるもので、特に秋になるとぐっと過密になる」となります。この方が好い日本語だと思います。

   2、どうしても見逃せない(?)

 それはともかく今回(2008年10月15日夕刊)は次の文が気になりました。

 3. そして今年、3年ぶりの舞台がイプセンの「人形の家」とあっては、どうしても見逃せないものだった。

 私が疑問とすることは、このように「どうしても」を「見逃せない」という否定句に掛けるのは正しいかということです。

 学研の「国語大辞典」で「どうしても」を引いてみました。次のように書いてあります。

 第1の意味は、「どんなに努力しても」「どんな方法を使っても」「どう考えても」「どうみても」とあります。

 そして、「参考」として、「下に打ち消しの語をともなう」とあり、例文として、「どうしても分からない」が挙がっています。

 第2の意味は、「どんな事があっても」「必ず」「ぜひとも」とあります。

 そして、文例としては、「どうしても行きます」があり、用例としては、「結局結婚の相手というものはどうしてもこれでなくちゃということで決まるんじゃない~」(森本「女の一生」)があります。

 赤川氏のこの文は、下に打ち消しが来ていますから、第1の意味かと言いますと、違うと思います。第1の意味の場合で「下に来る打ち消しの語」とは、「肯定的な内容を持った言葉(の打ち消し)」だと思います。つまり、どうしても出来ない、どうしても分からない、どうしても乗り越えられない、とかだと思います。

 ここは第2の意味と解するしかないと思います。従って、下には打ち消しは来ないと思います。従って、ここは「どうしても見なければならない」と下を肯定形にするか、「絶対に見逃せないものだった」と前を代えるかだと思います。

 赤川氏の文のままでもいいのだ、今ではそういう使い方もある、と言うとすると、これは関口存男(つぎお)氏の言う「移轍」、三上章氏の言う「途中乗り換え」になると思います。

   3、移轍とは何か

 移轍とは関口氏の説明では、「2つの文(A文とB文)が意味がよく似ていると、A文と結びつきうる句は、多少文法上の無理があっても、同時に又B文とも結びつくようになる現象」(新ドイツ語文法教程、63項備考)のことです。

 たとえば、好く使われる言い方に、「暗くならない前に」とか「お前が生まれない前に」といったように、「~しない前に」と言う言い方がありますが、これは「暗くならない内に」から「暗くなる前に」への、「お前が生まれない内に」から「お前が生まれる前に」への移轍だということです。

 三上章氏はこれを「途中乗り換え」と言っています。例えば、「彼女があの夜のことをどれだけ苦しんだかどうか知らない」という文は、

 A・彼女があの夜のことをどれだけ苦しんだか知らない。
 B・彼女があの夜のことを苦しんだかどうか知らない。

という2つの可能な文で、AからBへ途中で乗り換えてしまったと理解するのです(日本語の構文、133頁)。

 私の拾った例を2つ、出します。

 「間崎は床に腹這い、枕の代りに両肱に顎を支えて」(石坂洋次郎「若い人」)という文は、「両肱に顎を乗せて」の前半から「両肱で顎を支えて」の後半に移轍したのだと思います。

 石川達三の「人間の壁」に、「この地方に来るのは初めての旅だった」という文がありますが、これは、

 A・この地方に来るのは初めてだった。
 B・この地方へは初めての旅だった。

という2つの可能な文で、AからBへの移轍だと思います。

 従って、現下の赤川氏の例で考えますと、本来は、

 A・どうしても見に行かなければならない
 B・絶対に見逃せない

という2つの言い方しかないのですが、それが混線して、途中でAからBに移ってしまったと理解するのです。

 そして、こういう言い方が広く使われるようになった結果、それもおかしく感じられなくなってしまったということです。

 移轍でも広く使われて認められてしまったものから、間違いと言わざるを得ないものまで色々あるのです。

 ともかく少し気になったので書きました。ご意見をどうぞ。

     お知らせ

 本日「教育の広場」に「(家計の金融資産)」をアップしました。


学校選択制(01、若槻品川区教育長の考え)

2008年10月20日 | カ行
 学校選択制を導入したり検討したりする自治体が増えているという。何のためにするのか、副作用にどう対処するのか、などを事前に議論し、準備することが重要だが、実際、どうなのかと問いたい。

 品川は、「学校を変革するための手段、方便」として選択制をとらえた。生徒指導や授業を改善し、学校の特色を工夫し、地域や親に学校の情報を公開する。「そういう努力をしなければ地域の子どもが来てくれないかもしれない」という緊張感により、学校の、校長の、教師の意識と行動が変わりつつある。

 ただ、あくまで手段であり目的ではない。重要なのは「教師の意識と学校の体質を変える」ということだ。品川区は、そのことを区民に伝える努力を繰り返してきた。

 さまざまな副作用に対処するには人、金、知恵が必要で、なにより「なんとしても学校を支える」という覚悟が教育委員会に求められる。学校だけに努力を求めるなら、選択制を導入する資格はない。自治体の広さ、面積に対する学校数、交通網、指定校変更の割合などを勘案し、教委の覚悟や資源も考えて、「導入しない」という判断もあるだろう。

 導入前にはいろんな想定をした。生徒が減った学校が偏見を持たれるとか、風評に振り回されるとか。

 典型的な副作用は、入学者の少ない学校が固定化すること。品川はそんな学校をもり立てるために、知恵も金も人も出した。人数が少ないからこその特色だってある。そうやって具体的な実践を積み上げてきた。

 選択制によって「地域とのつながりが薄れる」という指摘には反論したい。選択制を導入しなければ学校が地域の核になるのか。なっていたのか。何をもって、学校が地域と密接につながっていると言えるのか。

 品川ではむしろ、地域の人が学校にかかわるようになった。「選ばれる学校になって」というのは地域の願いでもある。学校に興味を持ち、応援し、厳しい指摘もしてくれる。以前より接点は増えた。本当の意味でのつながりだ。親たちの学校への関心や見識も高くなった。

 繰り返すが、地域の事情を考えて判断すればいい。安易に「選択制はダメ」なんて言われたら迷惑。十把一からげにしないでほしい。

  (朝日、2008年10月12日。上野創による聞き書き)

     感想

 選択制を自主的に率先して実行してきた人らしい見識だと思います。「重要なのは教師の意識と学校の体質を変えるということだ」という言葉は立派。

林業(03、林道と作業道)

2008年10月19日 | ラ行
 森を美しく保つには間伐が欠かせない。そして、間伐した材木を運び出すには作業道が要る。大阪府の林業家、大橋慶三郎さんは大雨でも崩れない作業道づくりの名人。80歳を超した今も講習会などで引っ張りだこだ。月に2回ほどのペースで全国を駆け回っている。

 静岡県の大井川上流で行われた演習現場をのぞいた。事前に地形図や衛星写真などの資料を動員し、地下水脈や地盤をなす岩石層の分布など「地相」を徹底的に読み込むのが大橋流。大雨でも出水の恐れがない場所を選びながら作業道のコース取りをして現地に乗り込む。向かい側の尾根から現場を望んで「地相」を確認。さらに現場の林道沿いに踏査して最終的な作業道の位置を決める。

 大橋さんはこんな手法で大阪府千早赤阪村の所有林に1ヘクタール当たり延べ200㍍の超高密路網を整えた。大がかりな設備は不要、トラックで簡単に間伐材が運び出せ、低コストで林業経営ができる。

 路網が整備されても、林道への接続が難しい。斜面を削って作るのがこれまでのやり方で、法面が高すぎるのだ。

 そこで大橋さんは、山の尾根伝いに走る「稜線林道」を提唱する。尾根は地盤が固く、水も出ない。しかも作業道を下に向かって延ばしやすい。

 大橋さんの訴えは、従来の林業土木行政のあり方を厳しく問うものだ。林野庁は、成熟した山林の経営インフラにとって林道がどうあるべきか、考えを練り直すべき時に来ている。
 (朝日、2008年10月06日。川戸和史)

     お知らせ

 本日「大学(05、オーストラリアの卒業税)」を「教育の広場」にアップしました。

教育費

2008年10月18日 | カ行
 世帯年収の3分の1が教育費に消えている。

 日本政策金融公庫(東京)が今年(2008年)02月に国の教育ローンを利用した世帯を対象に行ったアンケートで、そんな実態が明らかになった。

 年収が低い世帯ほど在学費用の負担は重くなり、年収200万円以上400万円未満の世帯では年収の半分以上を占めていた。

 アンケートは07月に実施し、給与所得者がいる世帯からの回答2753件を集計した。

 世帯の年収に対する在学費用(小学校以上に在学中の子どもにかかる費用の合計)の割合は平均で34.1%。200万円以上400万円未満の世帯では55.6%に達した。

 一方、在学費用自体は年収が高い世帯ほど多く、900万円以上の世帯は平均で221万1000円。200万円以上400万円未満の世帯より57万円余り多かった。

 高校入学から大学卒業までにかかる費用は、受験費用、学校納付金などを合わせて子ども1人あたり1023万6000円だった。

 こうした教育費の捻出法を尋ねると(3つまでの複数回答)、「教育費以外の支出を削っている」が61.4%と最も多く、「奨学金を受けている」が49.3%、「子ども(在学者本人)がアルバイトをしている」が42.1%で続いた。

 節約している支出は上位から旅行・レジャー費62.1%、食費(外食を除く)48.8%、衣類の購入費46%の順だった。

  (朝日、2008年10月16日。大西史晃)

     お知らせ

 今日、「教育の広場」に「働き方(01、オランダの場合)」をアップしました。

学校(03、アメリカの学校教育)

2008年10月17日 | カ行
 「悩む先生『ゆとり』どこへ」と、2頁の特集が先日載りました。かつて帰国子女として米国から日本の小学校に編入し感じたことをもとにコメントさせていただきます。

 40人もの生徒を受け持ち、すべての科目を教える先生方に「ゆとり」などあろうはずもありません。それに、日本では、本来なら家庭で教えるべき礼儀や社会常識などの教育まで学校に押し付けすぎている嫌いがあります。

 米国では1人の教師に生徒がせいぜい20人弱で、科目ごとに専門の担任がいます。「ゆとり教育」と叫ばれていますが、まずは先生方の「ゆとり」が必要なのではないでしようか。

 米国の学校では、校長先生が毎日各クラスに来ては、教師や生徒に声を掛けていきます。私が日本の学校で思ったことは、校長や教頭は遠い存在でした。

 教育こそ人間を育て、国を担う力となります。教育の現場がこれではお先真っ暗です。文部科学省や国立教育政策研究所の方々は、ぜひ教育現場に足を運ぶべきではないでしょうか。

 (朝日、声。2001年11月08日。会社員、N、23歳)

     感想

 アメリカの学校は地域によって実にさまざまなようですから、これが全てと思わない方がいいと思いますが、これも一面ではあると思います。

沖縄(01、環境問題)

2008年10月16日 | ア行
 沖縄の環境問題は、米軍基地の存在によって幾重にも規定されている。

 まず、基地はそれ自体が巨大な汚染源である。だれにでもわかる騒音や振動は、裁判の対象になるほどその存在が知られているが、測定器にかかりにくい低周波振動はまだ調査がほとんど手をつけられていない。普天間飛行場について私たちが測ったところでは、少なくとも耳にきこえる周波数と同等か、それ以上のエネルギーが放出されていることがわかった。

 基地は、その任務を遂行するために、多種多様な有害物質を使い、内部に蓄えているが、その存在は軍事機密として外から知ることは極めて困難である。それでも時折基地の排水口からポリ塩化ビフェニール(PCB)が見つかったり、返還された恩納通信所の浄化槽から水銀、カドミウム、ヒ素、PCBが発見されたりした。

 このような汚染があっても米軍は地位協定で原状回復や汚染除去の義務をもたないから、日本側がそれを処理しなければならない。これから返還される基地の中に何があるか、浄化にどれぐらいの費用がかかるか、見当がつかない。

 沖縄の飲料水の大部分を供給するダムも演習地の中にあり、その流域では海兵隊が過酷な訓練をしている。

 基地そのものの環境破壊もさることながら、全県的には公共事業も大きい。基地の重圧にたえかねて県民が声をあげれば、「口止め料」の金がいくらでも中央政府から流される。海兵隊員の少女暴行事件があったら即座に50億円、知事が交代すれば100億円、沖縄島北部に普天間基地を移転すれば12市町村に毎年あわせて100億円ずつ10年間、何に使ってもよい金が出る。

 この税金で行われるエ事の多くは、沖縄の自然条件に合わない乱暴なもので、自然を破壊する結果になるものが多い。土地改良や林道の建設はその最たるもので、補助金がつくからという理由で、農民が求めなくてもエ事は強行され、そこから赤土が際限なく流れて沿岸のサンゴを埋め、殺す。

 一方、沖縄島南部の河川は畜産の排水で汚染され、何の用途にも使えない。

 補助金のつかない事業は後回しになり、環境部局は開発部局の支配下で声も出せないという状況のもとで「ヤマト」(日本)の税金が「オキナワ」を腐らせる過程の中にあって、ささやかながら声をあげているのが私たちの現状である。

 本心を言えば、米軍への「思いやり予算」も補助金も来なくなってくれれば、沖縄も目が覚めるということを正直に言っておこう。

  (朝日、2000年09月01日、宇井純)

山形県(01、実力)

2008年10月15日 | ヤ行
 福島駅を出た山形新幹線つばさ号は、在来線軌道に降り、奥羽山脈に分け入る。この人跡まれな山中に東海道線全通のわずか10年後(1899年)に鉄路を通した先人の努力に賛嘆しつつ、その先に広がる山形県の豊かな実りが、当時からいかに重要であったかに思い至る。

 月山、鳥海、蔵王などの名山居並ぶ県内に落ちた雨は、年間総流出量全国2位の最上川に集まり、米沢、山形、新庄の3大盆地を潤した後、庄内の沃野を経て日本海に注ぐ。

 水と平地に富むだけに、食料自給率が3位(132%、2006年度)と高いのは当然だが、さくらんば、ラフランスなどの高級果樹農業も普及、人口当たり工業出荷額19位(2005年)とものづくりでも侮れない。紅花栽培の栄えた北前船時代から商品経済が浸透した土地柄ゆえだ。

 このような県での暮らしぶりは、持ち家率4位(2003年)、3世代同居率(24.91%、2005年)や一世帯当たり人員が日本1という数字によく表れている。祖父母や隣近所の目がよく行き届くからだろう、14~19歳の少年刑法犯検挙数(2006年)は全国最低だ。

 慈愛に満ちた童話で知られる浜田廣介の故郷、高島町。「泣いた赤鬼」や「呼ぶ子鳥」を子どもに読みながら、自分が先に泣いてしまったという親御さんも多いのではないか。

 講演に出向いた際、町でお店を開く旧知の女性が「今日はありがとね。でもちょっと出かけるんで途中で失礼するわよ」。どちらまで?と問うと、照れながら「エジプトまで」。子や孫を大切にしつつ、決して息苦しくなく、実り豊かな人生を謳歌する姿に、都会で雑事に忙殺される当方の心まで温かくなった。

  (朝日、2008年06月07日)
  (地域経済アナリスト、藻谷浩介、協力・日本政策投資銀行地域振興部)