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マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

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ながく、牧野紀之の仕事に関心を持っていただき、ありがとうございます。 牧野紀之の近況と仕事の引継ぎ、鶏鳴双書の注文受付方法の変更、ブログの整理についてお知らせします。 本ブログの記事トップにある「マキペディアの読者の皆様へ」をご覧ください。   2024年8月2日 中井浩一、東谷啓吾

幼児の使う言葉に間違いはない

2020年09月24日 | ヤ行
   
 最初に断っておきますが、「間違いはない」ということの意味は、認識論を知らない人には「間違い」と思える用語法でも、認識論的には十分に説明の付く「間違い」であり、その意味で「正しい間違い」だと言うことです。大人の間違いとは違う、と言ってもいいでしょう。
 さて、本論に入ります。
 長女が幼稚園に入ってすぐの頃でした。先生たちの名前が問題になっていた時、私が「じゃあ、園長先生の名前は何と言うの?」と聞いたら、長女は即座に「園長先生は園長先生じゃないの!」と、「決まってるじゃないの」と言わんばかりの口調で答えました。
 私は、それ以上何も聞きませんでしたが、心の中で、「幼児にとってはすべてが固有名詞なのだな」と理解しました。「お父さん」や「お母さん」はもちろんの事、幼稚園の「A子先生」も友達の「誰々ちゃん」も、みな同じ固有名詞なのです。いや、「固有名詞と普通名詞の区別の未分化の状態」と言った方が正確かもしれません。
 なぜこのような何十年も前の事を今更思い出したのかと言いますと、この八月に五歳と三ヶ月の孫(T子とします)がパパである息子と二人で五日間くらい帰省してくれて、面白い事に気付いたからです。
 二、三日たって少しなれた頃、T子ちゃんが私に聞くでもなく、話すでもなく、独り言を言うような調子で、しかし顔は私の方を向いて、「Tちゃん(自分の事)のおじいちゃん(私・牧野の事)のことを……(この辺はっきりしない)、パパは『お父さん』と言ってる」とつぶやいたのです。「おじいちゃんはおじいちゃんと言えばいいのに。何かおかしいなあ」と言わんばかりの顔に見えました。「一人の人に二つの名前があるのかな」とまでは、考えなかったでしょうが。
 私は、何が起きたのか、直ちに推察しましたが、何も言わず、もちろん説明などしませんでした。来年までには自然に氷解しているでしょう。しかし、ほとんどの子は意識することもなく、その段階を超えて行くのに、T子ちゃんが、これに気づき、しかも口に出した事は、素晴らしい事だったと思います。大進歩だったと思います。
 これを認識論的に説明すると、どうなるでしょうか。私見では、これが、ヘーゲルの論理学で考えると、「意識が存在論の段階から本質論の段階に入りかけた」ということだと思います。その本質論をヘーゲルは「仮象」から始めました。と言うことは、それをヘーゲルは「現象」とはしなかったということです。
 毛沢東の『実践論』がその典型ですが、自称マルクス主義者は、みな、「認識は現象の認識から始まる」としています。確かに、「存在(ヘーゲルがその論理学の中で『存在』とした物や事柄)」は人間に直接与えられている物事ですから、それ自体としては、つまり存在論的には現象と同じです。
 しかし、認識論的にはそうは言えません。その事態を「現象」として認識するには、現象とは異なる世界があって、その世界の「現象」なのだと理解できる段階まで進んでいなければなければなりません。それは本質との関係、一般的に言うならば、次元の違う他者との「関係」ですから、本質論の段階に入るのです。
 しかるに、その他者との関係も、単に「孤立している物ではなく、何かとの関係の中にあるのだ」と気付いただけの段階と、その事物自身の本質の現れなのだと気付く段階とでは大きな違いがあります。ヘーゲルが前者を仮象とし、後者を現象とした所以です。
 こういう正当な区別を認識論に持ち込んだのはヘーゲルだけだと思います。しかし、今回、許萬元の論文「ヘーゲルにおける体系構成の原理」を読んでみて、彼にはこの事態は分かっていなかったな」と判断しました。
 実際、幼児と一緒にいると、いろいろな事に気付きます。すでに幾つかの事は書いてありますが、はっきり言いますと、言語関係の専門家の皆さんがこういう点に関して自分の経験を書くことが少な過ぎると思います。かつて、ドイツ人女性と結婚してらした某教授から、「自分の子供も最初は gegeht などと言っていた」というお話を伺いました。ドイツ語を知っている人ならこの「間違い」が「正当な間違い」であることはすぐに分かります。私が遺憾とするのは、こういうドイツ人の幼児の「間違い」を、経験した実例だけでもいいですから、きちんと収集して、何かの文章にまとめてくれなかったことです。ドイツ語学の教授なのに、です。
 真理は生活の中に在るのだと思います。
 


山葉寅楠(やまは・とらくす)、お断り

2017年08月21日 | ヤ行

 (1851年5月20日~1916年8月8日)

 1887(明治20)年、山葉寅楠35歳。医療機器の修理のため浜松を訪れていた彼が、浜松尋常小学校(現在の元城小学校)のオルガン修理を頼まれたことからすべてが始まりました。

 オルガンを見るのは初めてのことでした。それは、同校に歌唱科が設けられたのを機にアメリカから輸入されたもので、浜松ばかりか静岡県の名物でもありました。米1斗(20kg)が1円の時代に45円もした高級品です。

 寅楠はオルガンのネジを慎重にゆるめながら、故障の原因を探り始めました。故障箇所はほどなくして突き止めることができましたが、彼は思ったのです。「自分ならこのオルガンを3円でつくることができる。オルガンの国産化は日本の国益になる」。

 さっそく寅楠は、オルガンの修理をしながら、その部品や構造を図面に書いてオルガンをつくり上げます。しかし、試作品の音色を判定できる人は浜松にはおらず、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)の伊沢修二校長に見てもらうことになりました。

 苦労して東京にオルガンを運んだものの、結果は残念ながら不合格。伊沢校長の指摘は、調律の不正確さでした。それでも寅楠はあきらめません。伊沢校長に頼み込んで、音楽学校の学生となり勉強したのです。

 調律法を学んだ寅楠は、さっそく新しいオルガンをつくり、再び伊沢校長の審査を仰ぎました。すると今度は「輸入品に代わりうるほど素晴らしい」と性能を誉めてくれたのです。浜松に、楽器産業の芽が生まれた瞬間でした。

 1888(明治21)年、寅楠は菅原町(中区)に「山葉風琴製造所」を創設。オルガン製作を始めました。事業が盛んになっていく中、寅楠は「次はピアノをつくりたい」と考えます。

 1897(明治30)年、「日本楽器製造」という会社をつくり、本格的にピアノづくりに取りかかりました。寅楠はピアノ製作の技術と設備を整えるため、1899(明治32)年に文部省の使節としてアメリカ視察に出発します。5ヵ月の間、ピアノ会社など100ヵ所もの工場を視察。知識と加工機械などを手に入れて帰国します。

 すぐにピアノをつくり始め、翌年1900(明治33)年、ついに国産第1号のピアノを完成させたのです。1902(明治35)年には、グランドピアノの製造に成功。1904(明治37)年、アメリカのセントルイス万国大博覧会では、出品したピアノとオルガンに名誉大賞が贈られました。

 このころ寅楠は、質の高い楽器をつくるために優秀な技術者を育てる見習生制度をスタート。この制度は成功し、浜松の楽器産業を大きく発展させる優秀な技術者を大勢生み出すことになったのです。その功績は、まさに「楽器のまちの父」と呼ばれるにふさわしいものでした。

  (浜松市のメルマガ、2008年08月01日)

  (ブログ「浜松市政資料集」2008年08月03日より転載)

(ブログ「教育の広場」から移動)

         お断り

 私も「終活」を考えるようになりました。ブログ「教育の広場」にある有意義な記事は「マキペディア」に移して、他は抹消して、ブログ「教育の広場」を閉じることにしました。今日から始めます。かなり長い時間がかかると思います。何しろ1日に1本の記事しか写せませんので。







世の中はなぜ好くならないのか(その3)

2015年11月15日 | ヤ行

 テレビを見ても、新聞を読んでも、あるいは又ラジオを聞いても、大成した人の若い頃の苦しかった修業の話が出てきます。私はそういう話を聞いたり読んだりするのが好きな方です。これを聞くと、先ず自分の過去の事を反省します、「自分はこれほど苦しい修業をしただろうか」と。同時に、「こういう立派な人が相当沢山いるのに、なぜ世の中は好くならないのだろうか」とも考えます。今では、この反省はいつも同じ結論にたどり着きます。「世の中を好くする力よりも、悪くする力の方が大きいからだ」と。

 「毒にも薬にもならない」という言葉があります。薬とは要するに上で言及したような立派な人たちです。毒とはマスメディアで報ぜられる犯罪者のような人たちでしょう。では「毒にも薬にもならない人」とはどういう人たちでしょうか。犯罪をしている訳ではないけれど、無気力に仕事をこなす人だと思います。人生という場で「消化試合」をしている人でしょう。しかるに、世にはこの最後の種類に分類される人が極めて多いのだと思います。この人たちの作り出す「ドローンとした雰囲気」が世の中を覆っているのだと思います。立派な行為も犯罪も結局この背景を前提しているのであって、この背景は、少なくとも現在の日本では、変える事が出来ない程大きな力になっているのだと思います。

 11月11日の朝日新聞静岡版を読んでいたら、県教委が全国学力調査の結果発表状況をまとめたのを機会に、「県内小中学生に『自ら進んで学ぶ力』が不足しているとして、親子向けに家庭学習の必要性を伝える動画を作った」と書いてありました。

 『自ら進んで学ぶ力』が不足しているのは、その不足の程度のひどさで生徒、親、平教師、校長、教育長で比較しますと、一番不足しているのは教育長と校長だと思います。教育長は週間活動報告のブログも出してなければ、県民と日頃から議論をする姿勢がどこにもありません。

校長も同じです。学校のホームページを開いて「校長」の欄を見てご覧なさい。式辞みたいなものを載せているだけです。世の中や学校で起きている問題を元にして、全教職員、全生徒と議論をしようという姿勢は全然ありません。ここを改善しなければ教育は好くならないという事自体を認識していないのだと思います。

 教育長や校長に比べれば親や生徒自身は結構、この『自ら進んで学ぶ力』の必要性を自覚していると思います。

 静岡県では教員の不祥事が相変わらず続いています。浜松市でのイジメ自殺事件はまだまだ解決にはほど遠い段階です。トップにやる気がないのですから、どうしようもありません。

     関連項目

世の中はなぜ好く成らないのか(その1)

世の中はなぜ好く成らないのか(その2)


洋食は和食と違うのか

2014年05月02日 | ヤ行
 ユネスコの無形文化遺産にも登録された「和食」。一般的には食材を生かし、日本独自の調理法を用いた料理群とされているが、一方で西洋料理に起源を持つ「洋食」と呼ばれる独自の料理ジャンルが存在する。洋食はいつ生まれたのか。和食と洋食の境はどこにあるのだろう。

  概念は明治時代に

 「日本料理」という言葉が初めて使われたのは明治時代。石井治兵衛の著書『日本料理法大全』(1898年)の出版がきっかけで広まった。「和食」という言葉の初出はよくわかっていないが、「日本料理」と同じく、明治維新以降に普及した「西洋料理」「洋食」に対抗する概念として生まれたようだ。一方、「洋食」という言葉は、1891年に川上音二郎が「オッペケペ節」で「腹にも馴(な)れない洋食」と歌っていることから、当時、和風化された西洋料理や和洋折衷料理が、すでにこの名で呼ばれていたらしい。

  ご飯に合わせ独自に進化

 「3大洋食」と言われる、とんカツ、コロッケ、カレーライスも、明治~大正期に様々な工夫が重ねられた結果、今の形になった。岡田哲著『たべもの起源事典・日本編』によると、これらはそれぞれ、カットレット(英語)、クロケット(仏語)、カリー・アンド・ライス(英語)などを語源としている。ただ、厚い豚肉を揚げる、ジャガイモを大量に具に使う、小麦粉でルーにとろみをつける等の点で、元の料理とは大きく異なっていた。

 これらの洋食に共通するのが、「白いご飯に合う」あるいは「洋風を取り入れたご飯類」であることだ。

 国士舘大学教授の原田信男さん(日本生活文化史)によると、アジアのモンスーン地帯に広がる稲作文化圏では、米のほかに、魚と豚に、醤(ひしお)が食の要素として伴うことが多いという。日本では7世紀に肉食が禁止されたため、豚が欠け落ちたが、米、魚、醤は今も食の根本だ。

 「中でも米は、酢などの調味料や酒、和菓子のための米粉など、日本の食の基本にある」と原田さん。「洋食」に求められたご飯との強い親和性も、こうした伝統が背景にあったからに違いない。

  天ぶらも海外から

 日本人は、奈良~平安時代の大饗(たいきょう)料理や鎌倉時代以来の精進料理など、古代から料理の面でも中国など、海外の影響を強く受けてきた。原田さんは「外国人が和食の典型のように考えている天ぶらはポルトガル起源だし、すき焼きも牛を使うようになったのは明治以降で西洋の影響」と指摘する。

 中国の麺文化をヒントに生まれたラーメンも、海外では今や日本料理の代表格。であれば、米文化をベースにした日本独自の「洋食」は、和食の範疇に含まれると言っていいのではなかろうか。
  (朝日新聞、2014年02月10日。編集委員・宮代栄一)

原爆火傷の処置

2013年03月16日 | ヤ行
 NHKのラジオ深夜便では年に1回「こころのエッセー」というのをリスナーから募集しています。入選作が発表されます。雑誌『ラジオ深夜便』2012年3月号に発表された第6回のそれの入選作の中に「幻の老女」と題するエッセーがありました。実名も載っていますが、写す必要はないでしょう。

 80歳になっている男性のものです。広島で原爆にやられ、上半身大火傷をしたそうです。友人と二人で逃げて行く途中、或る峠の農家で助けを求めたら、老女が「少々やっかいだが、我慢できるか」と言って、準備をして油を塗ってくれたそうです。

 それは「洗面器大の器に食用油と食塩をまぜて、それを背中から次々に、手の平と指で塗りたくる」という処置だったそうです。

 その痛さたるや飛び上がるような激痛だったそうです。全身を震わせ、老女の傍らをのたうち廻り、声を殺して泣いたそうです。

 一時、気を失ったが、しばらく経った後に気を取り戻したらしく、友人と二人で礼を言って去ったそうです。

 火傷の痕は全然残っていないそうです。

 普通の火傷なら「氷を患部に付けている」とか、「水を流し続ける」といった方法が知られていると思います。しかし、原爆の火傷となると、これでは効かないでしょう。しかし、原爆の火傷にも効く処置があるわけです。

揚水発電

2012年04月04日 | ヤ行
 揚水発電は、ほぼ一定の出力で運転される原発を補完して電力需給のバランスを取る役目を負っている。しかし、天候や日照などで発電量が変わりやすい風力や太陽光など再生可能エネルギーの普及とともに、その「蓄電」価値が改めて注目されそうだ。

 宮崎市から車で約1時間半の山あいにある九州電力小丸川(おまるがわ)発電所(宮崎県木城町)。現地を訪ねた03月21日、地下400㍍に備え付けた出力30万㌔ワットの発電機の1台が午後1時直前、急にうなりを上げ始めた。

 昼休みを終えた工場などが一斉に操業を再開すると電力需要が急に増えることがあるという。「それに備えて休止していた発電機を起動させました」。九電宮崎電力センター西都工務所の伊達和史課長が説明してくれた。

 だが10分もたつと、轟音は迫力を弱め、元の静けさに戻った。「思ったほど電気が使われなかったので止めたというわけです」

 揚水発電所の基本は水力発電所と同じで、ダムから落ちてくる水の力で水車を回して発電する。だが電力を使ってポンプを回し、水をくみ上げる(揚水する)機能もあり、くみ上げた水の形でエネルギーをためられるのが特徴だ。

 深夜の余った電力で山の上に設けたダムまで水をくみ上げ、昼間の需要ピーク時には放水して発電する。国内では需要に関係なく夜も運転する原発の電気の余りを昼間に回せるよう、1970~90年代に多くが運用を始めた。全国で40数カ所ある。

 揚水発電は、原発や石炭火力などと違って放水量の調整などで短時間に発電量を変えられる。寒暖などによる需要の見込み違いを軌道修正したりするのも容易だ。

 日本では90年代前半から、放水量で発電を調整する基本的な機能に加え、モーターの回転数を変えられる可変速揚水発電システムの導入が進んでいる。2007年に運転を開始した小丸川もその一つで、昨夏に4台目の発電機が設置されたことで、わずか2分半で発電量ゼロから原発並みの最大出力120万㌔ワットまで上げて7時間連続運転できるようになった。

 水力発電機メーカー、日立三菱水力の名倉理(なぐら・おさむ)・可変速センター長によると、それまでは水のくみ上げ速度が一定だったので夜間に電力をためるペースを変えられなかったが、可変速型は変化がつけられるようになった。昼間の発電量も素早く調整可能だ。

 「刻々と変わる再生可能エネルギーの発電量を補完できる。需給バランスが取れれば、再生エネが増えても周波教が安定した質のいい電気を送れる」と、名倉さん。

 例えば風力や太陽光の発電量が瞬時に落ちても、昼なら回転速度を上げて揚水による発電量を増やし、夜間なら水のくみ上げ量を減らして、ためる電力量を抑えるという具合だ。

 可変速型の発電機は、従来機に対して約3倍の価格といわれるが、こうした効果が欧州などから注目され、建設が始まっているという。増える再生エネヘの対応とともに、発送電分離によって、安価な深夜電力を利用した昼間に電気を高く売るビジネスが生まれる可能性もある。

 揚水発電は揚水時に使った電気の約7割しか発電できないことに加え、大規模なダム開発を伴うことから自然保護の問題なども抱える。国内では建設中の発電所を除くと新設は難しいとみられている。

 それでも、高橋洋・富士通総研経済研究所主任研究員は「原発のために使ってきた現存の揚水発電の蓄電機能をきちんと使えば、再生エネのためにもそのメリットは大きい」と話す。 
 (朝日、2012年03月28日。森治文)

          関連項目

再生可能エネルギー一覧

Yahooボックス騒動の顛末

2012年02月08日 | ヤ行
 お蔭さまで、解決しました。既にデータはYahooボックスからほぼ全部引き出しました。後は解約するだけです。これが又、結構大変らしいです。Yahooはわざと解約しにくいようにしているらしいです。

 問題はどこにあったかと言いますと、Yahooボックスと契約すると(私は有料の50GBのコースを契約しました)、PCの表紙にアイコンと言うのでしょうか、絵文字が出るのですが、ここをクリックして入ろうとしたのが間違いだったようです。

 そうではなく、1回1回、YahooのトップページからYahooボックスの絵文字をクリックして、IDとPWを入れて「ログイン」しなければならなかったのです。

 未だに分からないのは、第1に、初めのころは自分のPCの表紙の絵文字をクリックしても入れたのはなぜかということです。

 第2に、私も、困った時、Yahooのトップページから入ろうとしたのですが、Yahooボックスの入り口がどこにあるのか、探し出せなかったのです。それほどYahooボックスの絵文字は分かりにくいのです。

 これはYahooのトップページの右の中ごろにあります。カレンダーが出ているのならすぐ分かりますが、その上に「メール(メールアドレスを取得)」とある横長の欄があります。その欄の右の方に3つの絵文字が並んでいますが、その一番右のものがそれです。

 MS(マイクロソフト)のトップページなら一番上に並んでいるサービス項目の中に「sky drive」という言葉も付いたマークがあります。これが常識的な作り方だと思います。

 私はPCと言うか、インターネットを始めた時から、「インターネットの作り方は常識的でない」という印象を持っています。最近は大分好くなりましたが、まだ十分とは思いません。

 そもそも「終了」するのに「スタート」ボタンを押さなければならないなんて。なぜこれが変わらないのでしょうか。「開始と終了」という言葉に替えるべきです。「慣れれば何ともない」と言うかもしれませんが、内容に合った言葉とそうでない表現とでは長い間に心に与える影響が違ってくると思います。

 ネット通販も利用しますが、これにも非常識なのが多いと思います。「好い物ですよ」という宣伝ばかりに熱中していて、注文の仕方の分かりにくいのが多いと思います。

 公的な団体、要するに市役所や県庁のホームページも及第点を与えられるものはほとんどありません。まあ、「浜松市長への意見箱」欄とYahooボックスほどひどいのはないでしょうけれど。

 もう1つ、Yahooボックスでは「契約量の内の何パーセント使っているか」が表示されるのですが、今回私はそれをドンドン削除したのに、相変わらず17.4%と表示されたままなのです。これでは表示の意味がないと思います。

 この2月6日、ドイツのドイチェ・ヴェレ(海外放送)のサイトが根本的に変わりました。face bookだとかtwitterとか何だとか新しい物が沢山出て来て、つぎはぎ的に加えてきましたが、このやり方では限界に来たと判断したようです。

 新しくなったサイトは実に見事に整理されています。さすがにドイツ人だな、と思いました。

 我が家はド田舎にありますので、まだ光ファイバーが来ていません。ADSLでやっています。すると、音声ならスムーズに聞こえるのですが(ケロログの音楽は、前は好く聴けたのですが、最近は中断が多くなりました)、動画はとぎれとぎれです。しかし、驚いた事に、今度のドイチェ・ヴェレの動画は音声と同じようにスムーズに見られるのです。どうしてでしょうか。不思議です。ともかく嬉しいです。日本の技術者も勉強してほしいです。

 日本の新聞社のサイトの動画欄は、私が見た範囲では、日経が一番中断が短く、次いで静岡新聞が好いと思います。共にテレビを転送しているからでしょうか。朝日がその次です。読売は雑音がひどくて話に成りません。以上4社を我が家のADSLで視聴した結果です。

 私は本当にこのドイチェ・ヴェレのサイトには世話になりました。間もなく出版されるであろう「関口ドイツ文法」も、このサイトがなかったらどんなに貧弱な物に成っていただろうかと思います。

 昔、ドイツ語を学ぶ日本人は庭に高いアンテナを建てて、何とかしてドイチェ・ヴェレの短波放送を聴こうと涙ぐましい努力をしたという伝説があります。技術の進歩には驚嘆します。

 但し、急いで記事を次々とアップしますから、校正が不十分で、時々誤植がありますので、お気を付け下さい。

 長くなりましたが、解決のご報告をし、ご協力への御礼とします。

2月8日、牧野 紀之

欲望、die Begierde

2012年02月01日 | ヤ行
  参考

 01、欲望があるということは、なぜか知らないけれど、あれが欲しいということです。これがエロスの根源です。なぜか知らないけれどあれが欲しいという力が、人間に「存在可能」を与える。今日も明日も生きる、そういった存在可能を促している根源なのです。「あれが欲しい」とか「これがしたい」といった欲望が全然出てこなかったら、人間は生きることの希望も力も失ってしまいます。(竹田青嗣「自分を生きるための思想入門」芸文社87頁)

 02、人間の欲望は煎じ詰めると、自我を維持保存し、拡大しようとする欲望と、逆に自我の枠を解き放って自我に掛かっている緊張を解き放ちたいという欲望の二つに分かれる。後者の欲望はまた追い詰めると、「超越」への欲望に近づいていくと言えます。

 人間はこの基本的な二つの欲望を、日常生活の中で必ずバランスを取って生きている。一つだけに重心をかけるとバランスをくずして日常生活は成り立たなくなります。気遣いだけで生きていることはできないし、「味わう」欲望だけで生きることもできない。それが人間が生きていく上での基本的な条件なのです。(竹田青嗣「自分を生きるための思想入門」芸文社118頁)

  お知らせ

ルッター」の項を書き足しました。


有限性、die Endlichkeit

2012年01月31日 | ヤ行
  参考

 01、或る事物が有限であると言われる時、そこで理解されている事は、その事物が実在しているという事だけでなく、むしろその事物の非存在こそそれの本性であり、存在[本質]であるという事でもあるのである。(大論理学第1巻16-7頁)

 02、多様な世界と自己の自由へと高まった自我とが有限と無限として対立する時、その対立は差し当たって質的である。(大論理学第1巻228頁)

 03、有限な事物は、概念の実在性を完全には身に着けておらず、その代わりに他のものを必要としている限りで有限なのである。(大論理学第2巻409頁)

 04、思考規定の有限性は二重に捉える事が出来る。第1に、単に主観的であって、客観的なものに対立しているという意味で。第2に、内容が制限されたものであり、従って互いに対立しあい、又絶対者にも対立しているという点で。(小論理学第25節)

 05、思考についてとやかく言う時には、有限な思考、つまりたんに悟性的にすぎない思考と無限な思考、つまり〔悟性を止揚した〕理性的な思考とを区別することを知らなければなりません。

 直接にあるがままのバラバラに与えられた思考規定というものは、有限な規定なのです。しかし、真理は自己内で無限なものであり、従ってそれは有限なものによっては表現されえないし、意識されえないものなのです〔ですから、昔の形而上学のように、有限な規定で無限な真理を捉えようとするのは土台むりだったのです〕。

 〔ところで〕思考というものは常に〔本来〕制限されたものだという近頃の考え方に囚われている人には、「無限な思考」という表現は奇異の感を与えるかもしれません。しかし、実際、思考は本来自己内で無限なものなのです。形式的に言うならば、有限と呼ばれるものは終りを持つものです。つまり、存在してはいるが、他者と接し他者によって制限されている所で存在しなくなるものが有限と呼ばれているのです。つまり、有限者というのはその他者との関連の中にあるのであり、その時その他者がその有限者の否定であり限界となっているのです。

 しかし、思考というものは自己自身の許にあり、自己自身と関係し、自己自身を対象とするものです。〔換言すれば〕私がある観念を対象として持つ時、そのことによって私は私自身の許に居る〔のであって、他者と関係するのではありません〕。ですから自我すなわち思考は無限なのです。(小論理学第28節への付録)

 06、昔の形而上学の思考〔方法〕は有限な思考でした。というのは、それが使った思考規定は固定したものとされ、〔一度定立された後に〕再び否定されるということがなかったからです。例えば〔昔の形而上学が〕「神は存在するか」と問うた時、「存在」〔Dasein という規定〕は、純粋に肯定的なものとされ、究極的なもの、〔否定から〕卓越したものとみなされていました。しかし、後に見るように、「存在」という規定は決して単に肯定的なものではなく、〔「他在」によって否定されるし、最高段階である〕理念に比べれば低いもので、神〔を捉える〕には相応しくないものです。(小論理学第28節への付録)

 07、実際、有限なものとは全て、その定存在がその概念と一致していないという事であり、そしてただそれだけなのである。(小論理学第51節への注釈)

 08、有限なものとは全て、自己自身を止揚するということである。(小論理学第81節への注釈)

 09、有限なものは外から[他者によって]制限されているだけではありません。それは自己固有の本性によって自分を止揚するものであり、自分自身で自分の対立物へと移行するものです。(小論理学第81節への付録1)

 10、有限なものは或る物[定存在]だから、他者に対して無関心ではなく、本来的に自己の他者であり、従って自己変化するものです。(小論理学第92節への付録)

 11、有限なものの真理[本当の姿]はその有限者の観念性[止揚されて他者の契機になる事]である。……この有限者の観念性こそ哲学の主要命題である。従って真の哲学はどれも観念論である。(小論理学第95節への注釈)

 12、精神界での有限とは止揚されているという意味であって、或る存在者が有限であるといういみではありません。逆に、精神界での無限とは有限者に対立しているものではなく、有限者を止揚して契機として含んでいるものです。(精神哲学第386節への付録)

 13、有限なものとは自己の概念に適合していないものと定義されます。従って太陽は有限なものです。なぜかと言えば、太陽は他者がなければ考えられないからです。太陽の概念には太陽自身だけでなく、全太陽系が入っています。いや、それどころか、全太陽系が有限です。なぜかと言えば、全太陽系の各天体の他の天体に対する独立性は仮象であり、従って概念に一致しておらず、概念の本質である観念性を表現していないからです。(精神哲学第386節への付録)

          関連項目

無限


有機体、der Organismus

2012年01月29日 | ヤ行
  参考

 01、有機体は実際、実在している目的そのものである。(精神現象学195頁)

 02、自己保存するもの、自己に還帰するもの、そして自己に還帰したものとして示される。(精神現象学197頁)

 03、有機的なものの本質をなす自己内反省(精神現象学212-3頁)

 04、対立の中では1つの極(端項)を占めている規定された契機が、同時に中項でもある事によって端項である事を止め、有機的な契機になるという事を洞察する事は最も重要な論理的洞察の1つである。(法の哲学第302節への注釈)

 05、有機的に、即ち全体の中へと取り込まれた(法の哲学第302節への注釈)

 06、有機界と無機界との差異は、前者の根底には体制[システム]の概念が横たわっているが、無機界では体制は存在しないか、又はその特異的な特徴を為していない事にある。……有機界の諸形態は単に諸々の部分から出来てはいるが、それは同時に器官[organ]となっているのである。……器官の概念は目的の概念を予想する。(デボーリン「弁証法と自然科学」笹川訳白楊社224-5頁)


唯物論、der Materialismus

2011年12月01日 | ヤ行
  参考

 01、唯物論は霊魂の実体は合成されたものと取るが、思想〔の実体〕はやはり単純なものと取る。(大論理学第2巻255-6頁)

 02、経験論の原則(超感性的なものは認識できないという原則)を徹底するといわゆる唯物論に成る。唯物論にとっては物質そのものが真に客観的なものである。しかし、物質そのものというのは既に1つの抽象物であって、そのような抽象物としてはそれは知覚されない。従っていかなる物質も存在しない。存在しているのは常に規定されたものであり、具体的なものだからである。(小論理学第38節への付録)

 感想・ヘーゲルは唯物論がもちろん嫌いであるために、ここでは自分の個別・特殊・普遍論を投げ捨てています。

 03、唯物論とか自然主義は経験論の首尾一貫した体系である。(小論理学第60節への注釈)

 04、これまでの唯物論(フォイエルバッハの唯物論を含む)の主たる欠点は、対象、現実、感性を単に客体あるいは直観という形式の下でしか捉えておらず、人間の感性的な活動即ち実践として捉えていないことである。(「フォイエルバッハに関するテーゼ}第1、マルエン全集第3巻5頁)

 05、これまでの全歴史を単純に投げ捨てる素朴な革命家風のやり方とは反対に、近代唯物論は歴史の中に人類の発展過程を見る。〔従って〕その発展過程の運動法則を発見することがその課題となる。

 18世紀のフランス人においてもヘーゲルにおいても支配的であった自然観、即ちニュートンの言うところの「永遠の天体」とリンネの教える「不変の種を持った有機体」とをもって、狭い円環の中を自己同一的に運動する全体であるとする自然観とは反対に、近代唯物論は自然科学の近世における全ての成果を総括する。

 それによると、自然も又時間的歴史を持っているのであり、天体もその天体に住み着く有機体の種属も、条件さえ整えば、発生しそして消滅する。円環運動というものは、もしあるとしても、これまで考えられていたより桁外れに大規模なスケールでの話となる。

 近代唯物論は自然観でも歴史観でも本質的に弁証法的であって、他の諸科学の上に立つような哲学をもはや必要としない。どの個別科学に対しても、事物とその事物についての知識との全ての関連の中での自分の位置を明確に自覚するようにとの要求が出されるや否や、全ての物の関連を扱う〔特別な〕科学は一切、余計なものとなる。

 これまでの全ての哲学の中でその時になっても尚自立的なものとして残るのは、思考とその諸法則についての教説、即ち形式論理学と弁証法である。他の物はすべて自然と歴史についての実証的科学の中に解消する。(マルエン全集第20巻24頁)

 感想・個別科学に対して「全体の中での自分の位置を自覚せよ」と要求しても、それは簡単には実行出来ません。現実には、ほとんどの科学者にとってそれは不可能です。個別科学の上に立つのではなく、それに内在しつつ全体を見る哲学も簡単ではありません。ですから「本当の哲学」はほとんどないのです。

 06、世界の単一性(Einheit)は、それが存在している事にあるのではない。たしかにその存在は単一性の前提ではある。単一である前に何よりも先ず存在していなければならないからである。しかし、一般的に言って、その存在は我々の視界〔諸科学の到達点〕が終わる所から先では未解決の問題である。

 世界の本当の単一性はその物質性にある。この事は2、3の手品師的空文句で証明されたのではなく、哲学と自然科学の長い長い上にも長い発展によって証明されているのである。(マルエン全集第20巻41頁)

 07、もちろん唯物論的な自然観とは、自然を単純に、与えられたままに、外から何も付け足すことなく捉えるということ以外の何物でもない。従って、ギリシャの哲学者たちにとっては元々それは自明の事であった。(マルエン全集第20巻469頁)

 08、観念論が一連の発展段階を経過したように唯物論も又そうであった。既に自然科学の分野で画期的な発見がある度に唯物論はその形を変えなければならない。そして、歴史の分野も唯物論的な扱い方を受けるようになってからは、ここにも新しい発展の道が開かれているのである。(マルエン全集第21巻278頁。「フォイエルバッハ論」第2章)

 09、あらゆる形而上論を無用のものとしてしまうと、後にはもう自然界、国家、社会、史実といったような positivなものばかりが残る。そして大へん「話がはっきり」して来る。おれたちは何をなすべきか(Möglichkeiten) という問題の範囲も、はっきりとブン廻しで abgrenzen(画する)することができるほど明瞭になる。──これが唯物論的な考え方である。唯物〔論〕的世界というのは、同時に「原始的」な世界、即ち凡ゆる野蛮人がそう考えている通りの世界である(迷信等をのけて考えれば)。(関口存男『ハイデッゲルと新時代の局面』 S.127)

 10、そうした「政治的・社会的・実証的な世界観」というものは、吾人の、外界に向かってなされる実際行動の方に全注意を傾倒せしめ、また何か実際的な目的を遂行するための意志を極度に強めるものである。そのために、そうした偏した考え方が一方において(殊に人間の哲学的方面を深めるという方で)如何なる危険(例えば人間を浅薄にする危険)を伴うものであるかということを考えさせない。そうした内面的な問題の存在を忘れないためには、ある種の「緊張力」を必要とする。その内面の緊張力という奴は、外面的な実現力とはややともすれば反比例する関係にあると言える。(関口存男『ハイデッゲルと新時代の局面』 S.127)

 11、政治等、外界の問題に向かって全注意を向けている人間は、いざという時には(たとえば外界の問題が無意味に終わって自己の非を悟ったような暁には)こんどは自分自身の中に引っ込むことが出来る(政治家が失敗して坊主になったりする例は古来の歴史によくあること)。引っ込むというのは、自分自身の主観という奴がまだ内容を持たない空虚の世界だから、そこに一身を託し、何物かを開拓する余地があろうというものである。

 ところが、内面の問題、人間の問題そのものを真正面の問題にしている人はそうは行かない。それが解決されなければ彼は自ら慰むるに足る他の天地がない。だから「真剣さ」が自ずと違ってこなければならない。その事を言おうとするのである。

 この辺は、一つは言葉遣いも拙いために、一寸難文になっているから気をつけてもらいたい。こういう所が征服できてはじめて凡ゆる哲学、思想の論文にぶつかるだけの頭が出来るのである。従って私自身の解釈にも、多少原著者の意を外れるようなことも全然ないとは保しがたい。言葉を超えた思想の世界、及びその表現は真に科学的な研究の対象になりうる。文学と思想との間の機微な関係はこういう難文(拙文?)を解釈する時に本当に現れるものである。(関口存男『ハイデッゲルと新時代の局面』 S.133-4)

     関連項目

物質と観念

実体と機能

★ 「実体と機能」(『かくの如く』の哲学の検討)の中にある不十分な点を補いました。
 主として、「そもそも『位置だけあって面積の無いもの』という『点』の概念自身が現実の中から『位置という機能だけを取り出して(抽象して)作り上げた』概念なのです。……」以下の部分です。





唯物史観

2011年11月29日 | ヤ行
  参考

 01、産業が、あるいは一般的に富の世界が政治の世界に対して取る関係が現代の主要問題である。(マルエン全集第1巻382頁)

 02、この歴史観は次の事に基づいている。即ち、〔第1に〕生産の実際の過程を、しかもそれを直接的生命の物質的な生産から展開すること、〔第2に〕この生産様式と結びつき、それによって生み出される交流の形式を捉えること、かくして〔第3に〕その様々な段階における市民社会を全歴史の基礎として叙述し、かつ意識の理論的な形成物や形態、即ち宗教、哲学、道徳等々は全て市民社会から出発して説明し、それらの理論的諸形式の生成過程を市民社会の諸段階から出発して跡づけること、である。その時にはもちろん又、事柄をその全体性において〔従って又、これらの諸側面の相互作用も〕叙述されうる事に成るのである。(マルエン全集第3巻37-8頁)

 03、プルードン氏は、人間がラシャ、亜麻布、絹布を作り出すのだということを十分好く理解している。このようなつまらない事を理解しているとは確かに偉大な功績である。しかし、それに反して、プルードン氏は、その中でラシャや亜麻布を生産するところの社会的な関係も又、人間はその生産力に応じて生産しているのだという事は理解していない。まして、その物質上の生産性に応じて社会的な関係を生産する人間が、観念やカテゴリーも又、即ちこれらの社会的な関係の抽象的な観念上の表現も又、生産するのだという事は、全く理解していないのである。(マルエン全集第4巻554頁、「アンネンコフへの手紙」)

 04、近代社会主義はその方向がどんなものでも皆、ブルジョア経済学から出発している。その限り、例外なくリカードの価値論としっかり結びついているのである。(マルエン全集第4巻559頁、「哲学の貧困」ドイツ語版第1版への序文)

 05、ドイツ哲学、特にヘーゲル哲学という先行者がなかったならば、ドイツの科学的社会主義(現存する唯一の科学的社会主義)は生まれなかったであろう。〔ドイツの〕労働者たちの間にある理論的な感覚がもしなかったならば、この科学的社会主義はこのように早く労働者たちの血肉とならなかったであろう。(マルエン全集第7巻541頁、「ドイツ農民戦争」第2版への序文)

 06、私にとって〔その研究の結果〕明らかになり、そして一度(ひとたび)それを獲得してからは〔その後の〕研究にとって導きの糸として役立ったところの一般的な結論は次のように公式化できる。

 〔①〕人間たちは自分たちの生活を共同で生産していく時、確定された諸関係を、即ち必然的な諸関係を、即ち自分たちの意志に依存しない諸関係を受け入れる。〔それでは〕これらの諸関係は〔どういう性質のものか、どういう風にして決まるのかというと、それは〕その人間たちの物質生活の生産に関する諸力がどの程度発達しているかに対応するようなそういう関係である。

 〔②〕これらの生産諸関係の総体がその社会の経済構想を形作るのだが、それが実在的〔実在世界の〕土台〔柱脚〕となり、その上に法律とか政治という「上部構造」〔上階の突出部〕とでもいうべきものがそびえ立つのである。そしてその社会の経済構造にはその社会の意識形態が対応しているのである。〔すなわち〕物質生活を生産する様式が社会生活と政治生活と精神生活の過程全体を条件付けるのである。人間たちの意識が人間たちの存在〔あり方〕を決めるのではなく、逆に、人間たちの社会のあり方が人間たちの〔社会=人間関係についての〕意識のあり方を決めるのである。

 〔③〕社会の物質的生活の生産に関する諸力はその発展が或る段階に達すると、それがこれまでその中で運動してきたところの既存の生産諸関係と、あるいはその生産諸関係のたんに法律上の表現にすぎない所有の諸関係と、矛盾するようになる。これらの〔生産あるいは所有の〕諸関係は生産力を発展させる形式から〔その発展を阻止する〕鎖に転化する。その時、社会革命の時代が始まる。〔すなわち、社会の〕経済的な基礎が変わるにつれてかの巨大な上部構造全体が、あるいはゆっくりと、あるいは急激に、変わっていくのである。

 〔④〕これらの〔基礎部分におけるのと上層部分におけるのとの二種類の〕変革を考察する時には、つねに、生産の経済的諸条件の中に起きる物質的な変革、つまり自然科学的に忠実に確認できる変革と、法律や政治や宗教や芸術や哲学といった形式〔の中に起きる変革〕、要するにその中で人間たちがこの〔基礎部分での〕葛藤を意識しかつ戦い抜くところのイデオロギーの諸形式〔の中に起きる変革〕とを区別しなければならない。或る人が何であるか〔どんな人であるか〕を判断する時に、その人自身が自分についてどう考えているかを基準にしないように、そのような〔社会のいろいろの領域に起きる〕諸変革の時期を人々の意識〔人々がどう考えているか〕から判断することはできない〔し、してはならない〕。むしろ、人々の意識をば物質的な生活の中に含まれている諸矛盾から、すなわち生産の社会的な諸力と社会的な諸関係との間にある諸矛盾から、説明しなければならない。

 〔⑤〕社会構成体はどれもみな、その社会構成体が許容しうる生産力が全部展開されきるまでは決して亡びない。そして、これまでよりも高く新しい生産諸関係は、それを生み出す物質的な諸条件が古い社会自身の胎内にはぐくまれるまでは決して現れ出ない。従って、人類はいつでも解決しうるような〔そういう性質の〕課題しか立てない〔と言える〕。というのは、一層詳しく考察するとつねに確認できることは、〔そもそも〕その課題自身がそれの解決に必要な物質的諸条件が既に存在しているか、少なくとも生まれつつある時にしか、発生しないからである。

 〔⑥〕大づかみに見て、アジア的生産様式、古代的生産様式、封建的生産様式及び近代ブルジョア的生産様式〔の四つ〕を、経済的社会構成体〔社会の経済上の形態構造〕が前進的にたどる諸時期と見なすことができる。生産のブルジョア的諸関係は、生産の社会的な過程が持つ敵対的な形式としては最後の形式である。ここで「敵対的」とは個人的敵対という意味ではなく、諸個人の生活の社会的な〔個人では変えられない〕諸条件から生まれ出る敵対という意味である。〔それはともかく〕そのブルジョア社会〔近代市民社会〕の胎内で発展する生産諸力は同時にこの敵対関係を解決するための物質的諸条件をも生み出す。従って、この社会構成体をもって人間社会の前史は終わるのである。(「経済学批判」への序文)

 07、この画期的な歴史観〔ヘーゲルの歴史観〕が、新しい唯物論的な見方の理論上の直接的前提であった。(マルエン全集第13巻474頁)

 08、唯物史観は次の命題から出発する。即ち、〔第1に〕生産が、そして生産に次いではその生産物の交換が、あらゆる社会秩序の基礎であるということ、〔第2に〕歴史上に登場するどの社会でも、生産物の分配及びその分配と共に与えられる階級や身分への社会の編成は、何がどのように生産されるか、そしてその生産されたものがどのように交換されるかということによって、決められているということ、これである。(マルエン全集第20巻248頁)

 09、この世界解放の事業を貫徹することが近代プロレタリアートの歴史的使命である。この事業の歴史的諸条件とその性質そのものを究明し、それによって、その行為に使命づけられているが今日は抑圧されている階級に、彼ら自身の行為の諸条件とその性質とを意識させることが、プロレタリア運動の理論的表現である科学的社会主義の課題である。(マルエン全集第20巻265頁)

 10、人間の理念(Idee)や観念が人間の生活諸条件を創造するのであってその逆ではないという考えは、これ迄の全歴史によって否認される。これ迄のすべての歴史で、つねに、意欲された事とは違った事が起ったし、その更に後には大抵、意欲された事と反対の事が起ったのであった。観念が生活条件を創造するというような事が起るのは、多かれ少なかれ遠い将来においてであり、しかも人間が自己変化しつつある諸関係によって命ぜられた社全体制の変化の必然性を前以て認識し、意識もせず欲しもしないのに社全体制の変化を強制されるというようなことになる前に、その変化を欲するという限りにおいてのみである。(マルエン全集第20巻582頁)

 11、人がマルクスに賛成しないのは勝手だが、マルクスが以前の社会主義者に比べて新しい者である自分の見解を最も完全な明解さを以て定式化したことを否定する事はできない。

 この新しい物とは、これまでの社会主義者が自分の考えを基礎づけためには現制度の下での大衆の抑圧を示し、各人が自分で作ったものを受け取るような体制の優越性を示し、この理想的体制が人間の本性とか理性的・道徳的生活の概念等々に適合している事を示せば十分であると考えていたのに対して、マルクスは、このような社会主義に満足することは不可能である、と考えた点にある。マルクスは、現代の体制を特徴づけてそれを評価し非難するに止まらず、この体制を科学的に説明し、ヨーロッパ及びヨーロッパ以外の諸国家で様々なこの近代的体制を共通の基礎へと還元し、即ち資本主義的社会構成体へと還元し、この社会構成体の機能と発展の法則を客観的に分析したのである(彼は、この体制の下での搾取の必然性を示した)。

 それと全く同様に、社会主義的体制だけが人間の本性に合致するという主張(偉大な空想的社会主義者たちやその亜流たる主観主義的社愛主義者たちはこう言ったのだ)に満足することは出来ないと考えた。そして、資本主義体制を分析したのと同じ客観的分析によって、資本主義の社会主義への転化の必然性を証明したのである。……マルクス主義者においてしばしば見られることだが、あのような必然性を引き合いに出す事の起源はここにあるのである。(レーニン邦訳全集第1巻152-3頁)

 12、この社会主義社会の到来の必然性を現存する社会関係のなかに見ぬくことこそ、科学的社会主義が空想的社会主義から区別される点である。空想的社会主義は現実を反映せず、頭の中からデッチあげられたものだという説は、文字通りの意味で言うなら、反唯物論的である。唯物論は現実を少しも反映していない認識の存在を認めないものだからである。

 しかし、「(ヘーゲルにあっては)現実性という属性は、同時に必然的でもあるところのものごとにのみ属するのであつた」(マルエン2巻選集第2巻331頁)。従って、社会主義の到来の必然性の洞察のない社会主義思想は、たとえ個々の点でどれだけ鋭い洞察と批判とを含んでいようとやはり「空想的」と評されなければならなかったのである。(「『フォイエルバッハ・テーゼ』の1研究」、『労働と社会』41頁に所収)

 感想・マルクスとエンゲルスの社会主義思想も、本人たちは「社会主義社会の到来の必然性」を証明したつもりでしたが、客観的にはその証明はできていませんでした。ですから、この自称「科学的社会主義」思想も、客観的には「空想的社会主義」と評すべきものです。

    関連項目

土台と上部構造

『マルクスの空想的社会主義』

ユーゴー

2011年11月02日 | ヤ行
                河合塾講師・青木裕司

 「レ・ミゼラブル」を書いたフランスの文豪ヴィクトル・ユゴー(1802~85)は、詩人・作家の枠を超え、文学を社会改革につなげようとした政治の人でもあった。

 20歳で刊行した初の詩集が高い評価を受け、国王から年金をもらうほど早熟だった。父はナポレオン軍の将軍だったが、ユゴー自身は王政の支持者だった。ナポレオンを嫌った母の影響だという。

 徐々に下層の民衆に関心が向き、産業革命が起き、劣悪な環境で暮らす労働者の生活を改善しようと国会議員にもなった。

 1851年、ナポレオンのおいのルイ・ナポレオン(後のナポレオン3世)がクーデターを起こすと、独裁を厳しく批判。以後ノルマンディー半島沖の英領ガーンジー島などで20年近い亡命生活を送った。帝政への抵抗は徹底的で、2度目の特赦令が出た時も「白由が祖国に戻る時、私もまたフランスに戻るだろう」と語り、若い詩人らから「民主主義の父」と呼ばれた。

 家族には孤島の生活は鬱々たるもので、愛娘は精神を病んだ。ユゴーは交霊術にとりつかれ、ダンテやキリストらと交信したと信じていた。生活に疲れた妻と3人の子は次々に
島を離れ、最後まで残ったのは美貌の愛人ジュリエッタだけだった。

 1845年に着手していた「レ・ミゼラブル」の執筆を孤島で12年ぶりに再開し、62年に完成させた。爆発的な人気を呼び、発売日には人々が本屋に殺到した。普仏戦争でフランスの第二帝政が崩壊した70年、パリに戻り歓喜する民衆に迎えられた。

 帰国後15年、83歳で亡くなる最期の言葉は「黒い光が見える」。フランス国民は文豪の死を国葬をもって弔った。

(朝日、2011年10月27日)

与謝野晶子

2011年04月03日 | ヤ行
 与謝野晶子(1878~1942)の初の歌集『みだれ髪』は、当時タブー視されていた恋愛や性を、女性が堂々と歌にしたことで世間に衝撃を与えた。

 晶子はその後、夫・鉄幹の主宰する詩歌雑誌『明星』に作品を載せて人気を博したが、日露戦争後、『明星』の売り上げは落ち込み、100号を最後に廃刊となった。このため鉄幹は、創作意欲を失ってしまった。

 そこで晶子は夫を元気づけるため、海外へ留学させようと決意、自分の歌を屏風に書いて販売し、資金を捻出したという。

 その後の晶子は、詩歌のみならず、小説や童話などジャンルを問わずに文章を書き家計を支えた。しかも11人の実子の多くを立派に育て上げたのである。

 彼女は、単なる良妻賢母を理想としていたわけではない。「皆が皆結婚に由て幸福の得られない現代に、『女は結婚すべきものだ』というような役に立たない旧式な概論に動される事なく、結婚もしよう、しかしそれが不可能なら、他にいくらも女子の天分を発揮すべき文明の職能がある。結婚のみが自分の全部でないという見識から、境遇と自分の個性とに順じて思い思いの進路を開き、いろいろに立派な変り物の婦人が多く出て来られる事を望みます」(『婦人の鑑』1911年)。

 そんなふうに、当時としては進歩的な女性論を述べている。私娼の廃止をとなえ、女性参政権の獲得運動にも加わった。

 女性が経済力を培うことで男性の保護下から抜け出して独立自営せよと説き、これらのメッセージを文学に託し、近代の女性たちを激励した。
     (朝日、2011年03月31日。歴史研究家・河合敦)

青空保育(森の幼稚園)

2010年05月19日 | ヤ行
1、ドイツの例

 輪になって見つめる子どもたちは一瞬、静まりかえった。女性の教員研修生が、オレンジの皮をロウソクの火に近づけて2つに折ると、ばっと火がついたからだ。恐るおそる近づいた男の子が「オレンジのにおい!」。研修生が「皮に小さな穴があいてて、その中にオレンジオイルが入っているの」と説明をした。

 ドイツ北西部のオスナブリュックの森。幼稚園「折れた角」の朝の集まりだ。森の入り口にある小さなコンテナが唯一の建物。森の中で保育をする「森の幼稚園」だ。

 あちこちに雪が残る中で、スキーウェアに身を包んだ3~6歳の子ども14人は遊び回り、泥だらけになっている。森の中へ入ると、思い思いに遊び始めた。教員が4本の木にロープを渡してこしらえた「クモの巣」に虫のようにからみ続ける子、木々を転々として隠れんぼの鬼から逃げる子……。

 あきた子のために副教諭ニナ・クラウゼさん(31)が絵本を広げると子どもたちが集まった。ちょっと離れた場所では、モミの倒木を海賊船に見立てた「海賊ごっこ」。ヤコブ君(6)が「いつもは『船』だけど『宇宙船』になるときもあるんだ」と教えてくれた。「森では鹿もトカゲも見た。他にはカエルもいるよ」。

 主任教諭クリスティアーネ・ベッセルさん(35)は「コンセプトは自然の中で子どもたちが一緒に遊ぶこと。それを通して、森と人間も互いに頼りながら共生していることに気づいてほしい」と願う。

 始まりは、地元の親たちの「森の幼稚園がほしい」との思いから。1996年に運動を始めると福祉団体が協力に乗り出したが、当初、市の反応は「どんな幼稚園か想像できない」。市との話し合いを重ねて99年、、開園にこぎつけた。市から運営費が出るので、保育料はふつうの幼稚園の水準と変わらず、月86ユーロ(約1万円)。親の年収によって安くなることもある。

 テレビゲームやインターネットなど、ドイツでも子どもを取り巻く環境は変わってきた。娘が通うコンスタンツェ・クラインゾルゲさん(38)は「今の子はずっと屋内にいて、出来あいのおもちゃに囲まれすぎ。屋外で想像力を使って遊ぷ機会を与えてあげたい」と話す。

 森の幼稚園は1950年代にデンマークで生まれた。隣のドイツで第1号が認可されたのは93年。ドイツ北部にあるリューネブルク大の教育学者、ウーテ・シュトルテンベルク教授によると、2001年に50園だったのが、環境意識の高まりとともに増えて、09年には427園に。

 国連がすすめるESD(持続可能な開発のための教育)に取り組むシュトルテンベルク教授は「現代では、森の幼稚園での体験は非常に大きい。森の倒木と木のおもちゃにどんな関係があるか──までを結びつけるような工夫があればもっといいが、いい体験は後に生かすことができる」と指摘する。

 森の幼稚園「折れた角」の卒園生で、中学に通うヨナス・ケアスティング君(15)は振り返る。「幼稚園の自然体験はしばらく忘れていたけれど、学校で環境を学ぶようになって、体験を意識できるようになった」。

 ドイツでは早くから、学校での環境教育が進められた。始まりはプラント政権(69~74年)が策定した環境教育計画。「折れた角」のあるニーダーザクセン州の場合は80年代から校庭でのビオトープづくりや、学校内のむだ遣いを探す「エネルギー探偵団」などの取り組みが盛んに。いまはESDに合わせ、指針を見直している。

 そうした学校での環境教育に子どもを橋渡しするのが、幼児期の自然体験だ。森の幼稚園だけでなく、自治体や環境団体も様々な幼児向けの環境プログラムを提供している。昨年からは、NPOが全国4000の幼稚園を対象に「エネルギーと環境」を幼児に教えるための研修を始めた。持続可能な社会へ、息の長い人づくりが続く。
(朝日、2010年03月31日。河村克兵)

2、1の記事への補足

  日本でも2008年に、森の幼稚園の「全国ネットワーク」が旗揚げし、70の個人・団体が参加する。ネットワークの運営委員長で、83年から長野市で「森の幼稚園」を続ける内田幸一さん(56)は「政府は、幼児を環境教育の対象として見ないけれど、子どもの『その後』にどうつながっていくかをよく認識してほしい」と望む。

 政府が08年にまとめた「環境教育プラン」は、幼稚園・保育園での環境教育も「取り組みイメージ」として挙げたが、文部科学、環境両省とも幼児に絞った具体策は打ち出せていない。

 汐見稔幸白梅学園大学長(教育人間学)は「環境意識の醸成に幼児期の体験はとても大事なのに、日本では学力や受験に目を奪われ、深いところから人間を育てようという意識が薄い。子どもに森を提供する人への税制優遇など、できる政策はいくらでもある」と話す。
 (朝日、2010年03月31日)

3、日本の例

 子どもの集団保育で一般的なのは保育園や幼稚園です。けれど、園舎やカリキュラムがなくても、子どもがのびのびと育ち合う空間があります。今回は、そんな「青空保育」の現場を訪ねました。

 神奈川県鎌倉市の野村総合研究所跡地。5月のある日、早朝から20組ほどの1~3歳の子どもと親たちが集合した。

 「青空自主保育なかよし会」のメンバーだ。保育者は、親たちの当番制。1、2歳児は「小さい組」、3歳児は「大きい組」に分かれて、まる半日を、近くの山崎・谷戸と呼ばれる里山の中で過ごす。

 記者は「大きい組」の子たち10人の横子を見学した。同行してくれたのは1985年に会を立ち上げた相川明子さんと、保育者の当番の母親、景山恵さんだ。

 午前9時半、リュックを背負った子どもたちが手をつないで出発。車も行き交う住宅街を通って、山道へ向かう。はしゃいで走ってしまうから転んでしまう子もいる。転んで泣いていたマユちゃんに、ナギくんが「はい。これあげる」と、道ばたにあったタンポポの綿毛を差し出した。マユちゃん、泣きやんだ。

 途中、女の子4人組が突然、ガードレールを乗り越えて、草むらへ。「おいしいよ」と言いながら、植物の茎をチュウチュウ。摘んだ花束や拾った小枝は、Tシャツに縫いつけてある大きなポケットに。「ダンゴ虫だよ。ほら」とミヨちゃん。こんな住宅街にも、虫がいるんだね。

 斜面が急な山道も小走り。「くっつく葉っぱ、み一つけた」。マユちゃんがヤエムグラをくれた。「服につけるといいんだよ」。ほんとだ。くっつくよ!

 適度に刈られた草むらは、相川さんらがつくる「山崎・谷戸の会」が整備した。鎌倉市が当初デイキャンプ場にしようと計画していた土地は水田にしている。地域全体で子どもが育つ環境を守っているという。

 山肌の見えるがけは、2ヵ所つくった。がけの所まで来ると、子どもたちはリュックを投げ出し、木の枝やつるを使ってのぼり始めた。のばっては滑り降り……を繰り返す。

 ちょっと難しいがけに挑戦して泣いてしまったハルミちゃん。先に下りていたカイくんが駆け上って、ハルミちゃんが安心して下りられるよう両手を広げてカバーした。「助け合う力も、手どもたち自身で身につけたものです」と相川さん。

 その理由は、すぐ分かった。

 リュックを背負ったまま岩に上ろうとする子に「下ろしたら」と声をかけると、相川さんから「いいの。自分で考えるから」。たしかに景山さんも、子どもたちにほとんど話しかけていない。大人の見守りは主に危険の判断のためで「ロにはチャック、手は後ろ」が原則だ。

 景山さんは図書館で相川さんの著書を読んで入会した。「今では当番が楽しみ。親同士の預け合いも、気軽にできるようになった」。

 有給休暇を取って、当番になる父親も増えてきた。「卒会」した保護者がつくった別の青空保育もある。

 遠方の入会希望者もいるが、相川さんは「地域で自主保育をしてみては?」と提案する。「最近は、習い事を掛け持ちしている親子もいますが、ころころ集団が変わると、子どもが安定しない。できるだけ同じ仲間と育ち合う環境が必要です」。

 午後1時、子どもたちは歌いながら帰っていった。

 (朝日、2010年05月17日。杉原里美)