マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

ドクダミの効用、水虫

2012年06月29日 | タ行
 水虫をドクダミで治したという記事があるかと、検索してみましたが、(私の見た範囲では)なかったので、書く事にしました。

 中学生時代に悩まされた水虫に、数年前から再度、取りつかれました。理由は分かりません。とにかくびっくりして、幾つかの事を試しましたが、効果がありませんでした。

 昨年の今頃、「ドクダミはどうかな」と思って、試みた所、あっさりと治りました。今年も又、少し出ましたが、3回ほどで治りました。

 どのようにするかと言いますと、ここは田舎なのでどこにでもある、従って我が家の庭にもあるドクダミの葉を30枚くらいちぎってきて、両手の掌の間で玉を作るようにまとめながら押しつけます。それを、汁が出てくるまで続けるのです。少し時間がかかります。汁が出てきたら、その汁を患部に(患部の周りも含めて広めに)塗るのです。それだけです。これを3回する(1日に3回ではなく、3日かけて3回する)と、治ります、私の場合は。

 気を付ける事は、ドクダミの汁を衣服につけると取れないので、雑巾などを用意して、終えた後、手を洗い、それで拭くようにすること。残ったドクダミの葉はもちろん捨てるのです。

 又、ドクダミの葉は冬でもない限りいつでもありますが、今頃が一番汁が多いので、時期を失しないようにすること。

 都会でも少し探せば勝手に取れる所が見つかるのではないでしょうか。

 子供の頃の記憶なので不明確ですが、私は、たしか小学校の3年の夏、デキモノが体に出たようです。ひと夏、お茶の代わりにドクダミを煎じたものを飲まされました。その後は、デキモノが出なくなったようです。

 ニキビにもドクダミは効くようです。かつではカネボウで「十薬」を売っていましたが、今はないようです。その代わり、ネットで検索すると、ドクダミの粉薬などを通販で買える所があるようです。ニキビに悩む方は、試してみる価値はあると思います。

 ひそかに思うのですが、上のやり方で得られたドクダミの汁を直接ニキビ面に塗ったら効果があるのではないでしょうか。少なくとも、悪い作用はしないでしょう。

 ご成功をお祈りします。

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健康法

新型インフル対策

森の防波堤を築こう

2012年06月25日 | ハ行
 東日本大震災の津波に襲われた太平洋岸に、森の防波堤を築こう──そんな運動が始まっている。

 タブノキやシイ、カシ類などの広葉樹の森を育てて、将来の津波被害から命を守る。盛り土には震災がれきをいかす、という構想だ。

 世界各地で植林運動を続ける生態学者の宮脇昭さんは先日、東京で開かれた記者会見で、「今回の震災で多くの広葉樹が生き残った。土深くまで根を張っていたからだ。次の氷河期が来るという9000年先までもつような森を築きたい」と語った。

 宮脇さんによると、昭和初期以降に造られた防潮林にはマツが使われてきたが、根は浅く、大津波には弱い。土地本来の常緑広葉樹こそが森にふさわしいという。

 北海道・富良野から駆けつけた脚本家の倉本聡さんも力を込めた。

 「津波に残った木々の根っこは互いに絡み合って、生きていた。それこそが『絆』ではないか。被災した家族の歴史がしみついたがれきをゴミ扱いせず、生かしていきたい」。

 あの会見以来、街を歩くと新緑の木々の名が気になって仕方ない。タブノキやシイに出会うと、思わず、その美しい姿を見上げてしまう。

 国民運動として盛り上げようと、細川護煕琴元首相を理事長とする財団法人も結成された。多くの人々の参加を期待したい。
  (朝日、2012年06月20日。窓、脇阪紀行)

送電網の問題

2012年06月24日 | サ行
 再生可能エネルギー(再生エネ)を固定価格で全量買い取る制度(FIT)は、再生エネをできるだけ増やすため、電力会社に対し、風力などの発電設備を自社の送電網とつなぐことを義務づける。だが、この「接続義務」の原則を阻む大きな壁がある。送電網の貧弱さだ。

 日本海からの風が吹きつける。北海道苫前町は「風のかおるまち」がキャッチフレーズだ。風力発電の数は42基。道内の自治体として北端の稚内市に次いで2番目に多い。

 だが、最後の風車が建ったのは2000年。「気象条件を考えれば、もっと建てられる環境。できないのは大消費地の札幌などに電気を流す送電網が未発達だから」。町営3基の管理を担当する高田和彦係長は嘆く。

 再生可能エネルギー特別措置法が昨夏成立した。電力会社は原則として、再生エネを供給したいとする業者の発電施設との「電気的な接続を拒んではならない」と明記している。「全量買い取り」の根幹をなす条文だ。

 しかし、例外規定で、「電気の円滑な供給の確保に支障が生じるおそれがあるとき」は拒める。拒否理由の一つが、送電網の弱さとされる。

 最たる例が北海道北部や北西部。風力に適しているものの、人口が少なく、北海道中央部の名寄・旭川地区までつなぐ送電線の容量が小さい。そのため、発電量が一挙に増えると、送電トラブルを起こしかねないという。

 FITが導入される7月以降、稼働する風力は全量買い取られるはずだ。北海道電力はそれにもかかわらず、風力を導入できるのは「20万㌔ワット」との制限を公表した。

 今年2月、これまでと変わらない抽選方式で発電業者を選別。1㌔ワット時の買い取り価格が約23円という好条件に、これまでで最も多い187万㌔ワット分の応募があった。9倍の狭き門だった。

 FITの意義を損なうやり方ではないかとの批判に、北電は「道内で再生エネで発電した電気をやり操りするには限界がある」と弁明する。

 北電によると、風力による発電量の割合は電力会社10社中最大の6・7%。1999年以来、送電網への受け入れも拡大してきた。02年、06年、08年と段階的に拡大し、今年3月末時点で計約29万㌔ワットになっている。

 仮にFITに基づき、風力の応募分に加えて太陽光の接続申し込み約90万㌔ワット分もすべて受け入れると計約280万㌔ワット。フル稼働が実現すれば、再生エネで北電の平均的な電力約415万㌔ワットの約3分の2に達する。

 送電網が充実しているドイツやスペインでは、時間帯によっては再生エネで数十%分の電気をまかなえている。これに対し、道内の現状では全量買い取りの余裕はないと北電はいう。「(再生エネ)事業者にはこうした状況を説明するしかない」。

 風力の適地の送電網が貧弱な状況は東北も同じ。そこで資源エネルギー庁の有識者の研究会では、送電網の系統連系の強化策を議論してきた。

 4月に出した中間報告は、北海道や東北の風力を出来るだけ生かすよう提言し、各域内の送電網の強化を求めた。さらに北海道と本州を結んで電気を融通する「北本連系」の容量について、今の60万㌔ワットから早期に90万㌔ワット、さらに風力の増え方をみながら増強することを検討すベきだとしている。

 だが、その整備には10年以上がかかるとされる。域内の送電網整備は通常、電力各社の負担。提言に沿えば、道内だけで2900億円かかるため、国が例外的に支援することにも中間報告は言及した。

 日本風力発電協会によると、今年3月末の風力発電導入量は推計252万㌔ワットで世界13位。1位の中国は昨年末で6千万㌔ワットを超え、原発大国フランスも6位で680万㌔ワットに上る。

 同協会の目標は20年に約1100万㌔ワット。同協会の斉藤哲夫企画局長は「FIT導入だけで風力を急増させるのは難しいが、系統連系の整備が進めばその可能性も広がる」と話す。
    (朝日、2012年06月14日。森治文、小坪遊)

          関連項目

再生可能エネルギー一覧

浜松大空襲

2012年06月19日 | ハ行
 1945(昭和20)年6月18日、浜松市の市街地は米軍の空襲で約1万5000戸が全焼し、1000人以上が死亡した。焼け野原となった当時を写した貴重な写真が残っていた。

 焼け野原を撮影した写真は2枚。いずれも浜松市中心部の中区常盤町辺りを撮ったもの。1枚に写っているれんが造りの2階建ての大きな建物は、当時、現地にあった「丸八平野紙店」(現在は浜松市南区)の倉庫の一部とみられる。一帯はがれきばかりとなり、幹だけになった木が立つ。

 撮影し、ネガを保管していたのは現場近くに住む102歳の鈴木宗一さん。当時35歳だった。妻と3人の子は妻の実家に預け、自身は実家のある愛知県豊橋市に住み、豊川海軍工廠に動員されていた。常盤町の自宅には家族は住んでいなかった。

 あの日未明、浜松方面から爆撃音が響き、炎で夜空が赤くなっていたという。夜が明け、鈴木さんが自宅に駆けつけると、周辺は焼け野原になっていた。がれきの間に遺体がずらりと並べられていた。

 「ああ、何もかもなくなったんだな」。悲しいとか怖いとか、そんな気持ちにならなかった。頭がぼ―っとなった。

 それまでも浜松市は頻繁に空襲に遭い、日夜の空襲警報で市民はへとへとになっていた。「これでもう空襲はないな、という肩の荷が下りたような不思議な感覚だった」。

 戦争の負けを直感した。自宅のがれきを掘り出すと、高熱で一部溶けた陶器の七福神の貯金箱が出てきた。

 鈴木さんの義弟、藤井利一さん(92)は当時、歩兵部隊にいた。現在の浜松市北部の三方原に爆撃機の拠点だった飛行場があり、周辺で塹壕掘りなどの任務に就いていた。

 空襲から一夜明けて部隊は市街地の後片づけを命じられた。現地では人が焼けたにおいが鼻についた。防空壕から、折り重なるようにして亡くなった大人や子どもを引っ張り出した。

 そこで、鈴木さんに出くわした。「えらいことになった」と言い合った。鈴木さんがカメラを構えていたのを覚えている。丸八平野紙店の倉庫をバックに藤井さんが納まった写真は、この時に撮影されたものだ。

 浜松市の戦後の復興を写真に撮ってきた郷土史研究家の神谷昌志さん(82)は「戦時中はカメラは珍しくフィルムも乏しかった。カメラを構えているのを憲兵が見つけたら飛んできただろう。当時の写真が残っていたとは驚きだ」と話す。

 丸八平野紙店の5代目社長長・平野新太郎さん(75)は当時は小学3年生で、疎開していた。今月(6月)上旬、この写真を見てもらうと、「うちの倉庫だ」と言った。戦後、焼け残った倉庫に入り、堅く縛った紙の周りは焦げたのに、真ん中はそのままだったので不思議に思ったのを覚えている。

 鈴木さんは、曇った日にはいまも空襲を思い出すという。「ブーン、ブーンって不気味な音が上空から聞こえるんだ。機体は見えない。いつ爆弾が落ちてくるか分からない。あれは嫌だった」。

メモ・浜松大空襲

 1945年6月18日午前0時過ぎ、B29爆撃機約100機が浜松市中心部に来襲、約6万5000発の焼夷(しょうい)弾を落とした。市調べで1157人(警察調べでは1717人)が死亡した。
 同市には軍施設や軍需工場が多くあり、空襲や艦砲射撃で計27回の被害にあったが、この空襲の被害が最も大きかったとされる。

  (朝日、2012年06月14日。高田誠)

     感想

 浜松市には復興記念館というのがある(あった?)のですが、私が行った時は閑古鳥が鳴いていました。ああいうのはネット上に作っておく方が適当だと思います。


警察官の不祥事

2012年06月18日 | カ行
 警察官の不祥事が今年も止まらない。警察庁は不祥事だけを話し合う異例の委員会を設け、防止策を探り始めた。

 警察庁によると、今年1~3月に懲戒処分を受けたのは110人。うち12人が最も重い免職となった。前年の同じ時期よりそれぞれ18人、4人多い。逮捕された警察官は22人に上り、4月以降も相次いでいる。

 「必ずタマを出せ」。警察庁の一室で5月7日、金高雅仁官房長(57)が首席監察官や審議官ら幹部22人に命じた。警察庁が4月末に設けた「『警察改革の精神』の徹底等に向けた総合的な施策検討委貞会」の初会合だ。「タマ」は不祥事を確実に防ぐ具体策を指す。

 不祥事発覚のたび、全国の警察本部に通達や訓示で「再発防止の徹底」を指示してきたが効果なし。委員の一人は「警察官の犯罪に警察の内外とも驚かなくなった。この異常事態を何とかしたい」と委員会設置の理由を話す。

 委員長を務める金高官房長は「警察改革」のきっかけとなった1999~2000年の不祥事多発の際、本部長が部下の事件もみ消しにかかわって犯人隠避罪で在宅起訴された神奈川県警で、警務部長として事実解明と処理に追われた経験がある。「当時の屈辱と再生の誓いが忘れ去られている」。

 1~3月に懲戒免職になった12人は年齢も行為の内容もさまざまだ。最年少の愛知県警豊橋署巡査(処分当時21)は女子中学生の首を絞めてわいせつな行為をした。警察官になる前から痴漢をしていたといい、調べに対し「警察官になったら改心しようと思っていた」と話したという。最年長の群馬県警捜査2課巡査部長(62)は、捜査費を交際女性との飲食代に充てていた。

 故人の非行だけではない。静岡県警では磐田署の署長(58、警視)が、盗撮や盗みなどの犯罪にかかわった署員3人について、立件も県警本部への報告もしないまま辞めさせていた。署長は4月、犯人隠避容疑で書類送検され、懲戒免職となった。

 「長崎ストーカー殺人事件で明らかになった危機感の乏しさも度し難いが、トップがもみ消しにかかわった磐田署問題は『不祥事は隠さない』という改革の根幹が定着していないことを示している。もっと深刻だ」と警察庁幹部は嘆く。

 5月21日にあった2回目の委員会では委員からいくつかの提案があったが、金高官房長は「具体性に欠ける。もう一度警察を変えるくらいの策を出せ」と突き返した。警察の中枢幹部たちが今後も議論を重ね、7月末までに対策をひねり出すという。

(朝日、2012年05月25日。編集委員・緒方健二)

   感想

 昔、都立の高等専門学校の5年生に教えていた時、料理屋でバイトをしている生徒がこう書いていました。「客で態度の悪いのは教師と警官だ」と。

 人を裁く立場に立つと、その事自体がその人を高慢にし、堕落させる働きをすると思います。その誘惑に負けずにまともな人間として生きてゆくには相当の勇気と信念と努力が要ると思います。静岡県でも教員の不祥事問題が未だに解決の糸口すら見出せません。

私にとってのオウム事件

2012年06月17日 | ア行
 一昨日の6月15日は60年安保闘争における「6・15事件」の記念日でした。樺美知子さんがデモ隊と機動隊の衝突の中で殺されたあの事件です。今ではあれは「歴史」になったようで、若い人たちは歴史の時間に習ったり習わなかったりのようです。

 かつては6月15日には国会の南通用門の脇に花束を捧げる人たちがいて、16日の朝刊にはそれが写真と共に紹介されたものでしたが、最近は見かけなくなりました。今年も、私は目にしませんでした。多分、そういう事をする人たちが高齢化して止めたのでしょう。

 しかし、60年安保闘争前後の経験を理論的に説明する事を中心的問題意識としてきた、と言うより、そうなってしまった私にとっては、いつまでも6月15日と、特に11月27日は必ず感慨に浸る日となっています。詳しくは「60年安保──歴史のために」に書きました。

 今年はその6月15日に、オウム事件の特別手配人物で最後に残った高橋克也容疑者が逮捕されるという事件がありました。私はオウム事件には特別の関わりはありませんが、1つだけ報告しておきたい事があります。それは1995年の3月20日にオウムによる地下鉄サリン事件が起きた時、そしてその後、そのサリンを作った人たちが「大学の特に理工系の学部を優秀な成績で卒業した」という事が分かった時、世間は「大学が勉強だけで成績を付けるからこうなるのだ」といった論調が見られた事です。

 例によって例の如く、その論調は深められる事もなく、その後忘れ去られましたが、私は忘れることはありませんでした。先ず第1に思った事は、「勉強で成績を付けなかったら、何で成績を付けるのかな」ということです。

 世の中の問題はたいていnot ... butの構文になっています。notだけ言ってbutを言わない、あるいは言えない人が多すぎます。世の中が好くならない大きな理由の1つがこれです。民主党はbutを言いましたが、実行できませんでした。政権が自民党に戻っても同じでしょう。だから多くの国民は政治に期待が持てないのです。社会主義はbutを実行して見せましたが、そして中には良い点もありましたが、全体としてはnotより悪いものでした。

 私は幾つかの学校で非常勤として授業を持ちました。教師生活の前半は「皆に分かってもらおう」という考えでした。これが間違いでした。経緯は省きますが、1度辞めた後に1990年代に再度教壇に戻ってからは、「トップレベルの人を失望させない」という方針に替えました。そして、成績の基準として「学ぶ姿勢が出来ている事は前提とする」という方針を打ち出しました。これがあちこちの学校で問題を引き起こしました。なぜなら、勉強は1番出来る生徒でも、「学ぶ姿勢が出来ていない」という理由で「不可」を付けることが何度か起きたからです。

 T私立大学では一部の職員と教師が一緒になって「これはおかしい」と噛み付いてきました。幸いその大学のドイツ語科ではまともな教員が多かったので、「担当教員の裁量権」ということで終わりました。しかし、或る教員(主任だったかな)が拙宅に電話をかけて来ました。私は「オウム事件の時、勉強だけで成績を付けることが問題になったのではありませんか」と言いましたら、相手は、「オウムなんか関係ない」と怒鳴りました。

 国立のS大学では、「成績に納得できない時は1度だけは質問を受け付ける」としてありますので、本人から問い合わせがありました。そこで、その人の書いたアンケートをコピーして送り、「これを見せて親と相談してほしい」と書きました。彼は実行したようで、「親からは『意地を張らないで、単位を落とさないように』と忠告された」と書いてきました。

 しかし、彼はその後、大学当局に投書をして訴えたようです。副学長から「話をしたい」との連絡があり、会いました。そしたら、「当人の成績を他の学科についても調べたが、非常に優秀である。『学ぶ姿勢が出来ている事は前提とする』という条件を止めてくれないか」とのことでした。

 私は、「外国の事はいざ知らず、日本の大学は東大を含めて皆、実態は専門学校だ」と考えていますが、「S大学もやはり専門学校だったのだな」と納得したものです。何しろ「学ぶ姿勢」が出来ていなくても、勉強さえできればよい、というのですから。

 看護学校でも私のこの条件は物議を醸しました。そもそも看護学校では非常勤の講師が不可を付けるなどということはないようなのです。それなのに、そういう理由で不可を付けるのですから、「哲学の先生は怖い先生だ」という噂が立つわけです。哲学ではドイツ語と違って真面目に自分の意見を書いていれば、不可にはしないのですが、なぜか私を嫌ってくれて、それを態度に出す生徒が出るのです。真の原因は担任にあるのは分かっているのですが、それを言ってはお終いです。

 まあ、オウムというと私はいつもこの問題を思い出します。今回、オウム事件に一区切りが付いたとか言われていますが、かつて問題になった「大学が勉強だけで成績を付けるから悪いのだ」という点はどうなったのでしょうか。熱しやすく忘れっぽい日本人の皆さんは、自分のこの発言を思い出さなかったようです。

          関連項目

60年安保

親の仕事

「明鏡」編集部とのやりとり

2012年06月15日 | サ行
01、牧野から「明鏡」編集部へのメール(2012年05月08日)

 ブログ「マキペディア」(5月4日号)に「北原保雄の辞書と文法」を載せました。

 結果目的語と同属目的語の混同を始め、かなりの間違いや不徹底さがあると考えたからです。

 関心があるならお読みください。北原さんにも伝えて下さって結構です。

 私の事はアマゾンとかのネットで調べられます。

02、「明鏡」編集部から牧野への返事(2012年06月14日)

牧野紀之 様

この度は『明鏡』についてご指摘いただき、またご連絡くださいまして、どうもありがとうございます。拝読させていただきます。どうもありがうございました。

大修館書店 明鏡国語辞典編集部

03、感想

 まだ読んでいないようです。読んだ後、何か言ってくるか、黙殺するか、待ちましょう。

        関連項目

北原保雄の辞書と文法

「鳥肌が立つ」


原子力ムラの灰色学者たち(その2)

2012年06月14日 | カ行
 日本原子力研究開発機構の高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)の安全性を調べるために設置された専門家委員会の委員7人のうち3人が、原子力関連の企業・団体から寄付を受けていたことが、朝日新聞の調べでわかった。寄付は、もんじゅのストレステスト(耐性評価)の業務を受注した原発メーカーなどからで、5年間で計1610万円になる。

 委員会は、昨年11月に文部科学相の指示で機構が設置した「もんじゅ安全性総合評価検討委員会」(委員長=片岡勲・大阪大教授)。

 朝日新聞が委員の所属大学に情報公開請求し、対象となる過去5年分(2006~10年度)が開示され、委員に直接取材した。寄付を受けていたのは宇根崎博信・京都大教授(計180万円)、片岡勲・大阪大教授(計450万円)、竹田敏一・福井大付属国際原子力工学研究所長(計980万円)で、3人は取材に対し受領を認めたうえで、審議への影響を否定している。

 寄付をしていたのは、もんじゅの原子炉を建設し、ストレステストを1億6000万円で機構から受注した三菱重工業、ストレステスト関連業務を受注した関西電力グループ会社の原子力エンジニアリング、関電関連団体の関西原子力懇談会(関原懇)、核燃料会社のグローバル・ニュークリア・フュエル・ジャパン、11年度に機構の業務を計15億円分受注した三菱電機──の五つの企業・団体。

 寄付は研究助成が名目で奨学寄付とも呼ばれ、研究者を指定して大学を通じて寄せられる。寄付者側に使途を報告する義務はない。

 委員会は、これまで会合を2回開き、原発事故を受けて機構が進めるシビアアクシデント(過酷事故)対策やストレステストの途中経過について報告を受け、意見を述べた。機構はストレステスト終了後に、最終的な意見を得る予定だ。機構によると、委員は原子炉工学や危機管理など専門分野ごとに就任を依頼。業界からの金銭支援については調べていなかったという。

 もんじゅはトラブルが続き停止中で、機構は早期の運転再開を目指している。

   宇根崎博信・京都大教授──計180万円
   片岡勲・大阪大教授──計450万円
   竹田敏一・福井大付属国際原子力工学研究所長──計980万円

(朝日、2012年06月03日。大谷聡)

     関連項目

原子力ムラの灰色学者たち

大学の統治に学生をもっと参加させよ

2012年06月02日 | タ行
    北原 和夫(東京理科大学教授。科学教育)

 昨年末にべルギーのブリュッセルで開催された「大学教育の質保証」という欧州連合(EU)の会議に出席して驚いた。各国の高等教育担当の官僚やEUの行政官、さまざまな大学の副学長や教職員などに交じって若い学生たちがたくさん来ていたからだ。

 聞いてみると大学の学生会の会長たちだった。大学院生が多く、それぞれの大学の運営にも学生代表としてかかわっているとのことだった。会議で最も重要なテーマである「学習成果に基づく質保証の枠組みの目指すところ」のセッションでは、欧州学生連合副会長の若い女子学生が議長を務め、1時間半の議論をきちんと取り仕切り、結論を見事にまとめた。

 欧州の主要大学の評議会には学生代表がメンバーとして入っている。学生副学長を置いている大学もあるという。英国の大学評価機構は学生を評価委員にくわえており、委員は公募で選ばれる。選ばれた学生は、将来の学長もしくは大学界のリーダーとなっていくのであろう。また、学生会の会長の経験は、将来政治家への道にもつながるという。

 このように若いときに大きな責任をもたせることによって、高等教育を担う人材、さらに社会を動かす人材を育成していくことは大切だとあらためて感じ入った。

 学生は大学の重要なステークホルダー(利害関係者)である。日本でも近年、学生による授業評価が定着しっつあるが、これはあくまで受けた授業の効果を評価するもので、商品の「顧客調査」にとどまる。学生にはそのレベルを超え、大学の在り方、特に大学教育の質保証については、企画段階からもっと関与させた方がよいと思う。学生時代に大学という組織のガバナンス(統治)を経験することは、学生たちが将来、社会の現実と向き合う際にも有効だろう。

 私が国際基督教大学の学生部長のとき、学生寮のある規定が長期間にわたり、事実上守られていないことが分かった。そこで、寮生の代表と何度か会い、寮会での議決手続きを踏んでもらって、一緒に規定の改訂作業をおこなった。

 このように、学生の日々の生活に直接かかわる個々の課題について、学生たちと協働することは可能であるし、大いに効果がある。彼ら、破女らにはそのような経験を蓄積させながら、さらに大学全体の運営に参加させていくことが望ましい。

 「学生参加」は、単に学生の声に耳を傾けるという意味だけではなく、学生が組織のガバナンスを学ぶ機会を持つという意味において、将来の日本のため、とても大切だと考える。

(朝日、2012年06月01日)

   感想

 趣旨には賛成です。但し、北原氏にはこういう事を言う資格があるか、疑問です。

 第1に、国際基督教大学の学生部長のとき、学生寮の問題で何か学生と一緒に取り組んで解決したようですが、それ以上の大学運営の根本問題まで進まなかった事についての反省がありません。

 第2に、現在在籍している東京理科大学でこの事をしかるべき会議で提案したのでしょうか。それが述べられていません。

 第3に、そもそも東京理科大学のホームページで北原氏についてどれだけの情報公開がなされているかとそれを開いて見たのですが、教員の情報がどこにあるのかさえ分かりませんでした。

 仕方ないから「北原和夫」と入れてヤフーで検索してみたら、ご自分のホームページはないらしいですが、業績はかなりあるらしいと分かりました。一時は静岡大学にもいらしたようで、驚きました。

 ともかく、現在は自分の公生活をきちんと報告し説明していない人は、それだけで既に半人前でしかないと思います。「修身斉家治国平天下」です。

 大分前の事になりますが、東大の秋入学が話題になった時、国際教養大学の学長である中嶋峰雄さんがやはり朝日の「私の視点」だったかに書いていましたが、きちんと自分は何をしてどういう結果を得ているかを書いていました。

 書き忘れた事を1つ。金沢工業大学ではたしか大分前から、経営の中心的な会議に2人の学生代表を入れているはずです。

        関連項目

自分の思想と行動を語ること