マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

静岡県舞台芸術センター

2018年08月26日 | サ行

 JR静岡駅から束へ7㌔余り。富士山の眺望が美しい日本平の丘陵に、静岡県舞台芸術公園が広がる。森や茶畑の線が深い敷地は約21hr。野外劇場を中心に、二つの室内劇場、稽古場、宿泊施設などが点在する。静岡県舞台芸術センター(SPAC)は、ここで活動している。

 初代リーダーは演出家の鈴木忠志(79)。富山県利賀村(現・南砺市)で1982年に日本初の世界演劇祭を始めた「脱・東京」の先駆者だ。95年に故郷の静岡県で芸術総監督に就任。日本の公共劇場では珍しい専属劇団を組織し、芸術公園と、静岡芸術劇場(静岡市駿河区)を拠点に腕を振るった。それを2007年に演出家、宮城聴(59)が引き継いだ。

 ここは全国で最も国際色豊かな劇場の一つだろう。毎年、ゴールデンウイ-クに「ふじのくに→←せかい演劇祭」を開催。今年は欧州、中米、豪州から6団体が参加した。

 SPACも頻繁に海外へ出る。昨夏は世界有数の芸術祭であるフランス「アビニョン演劇祭」で、アジアの劇団として初めて開幕を飾った。演目はギリシャ悲劇「アンティゴネ」。戦死者の埋葬をめぐる対立を描いたこの劇を、宮城は、敵も味方もみな仏として弔う発想で包み、分断の進む世界への異議を示した。

 今は、フランス国立コリーヌ劇場の依頼で、カメルーン出身の作家レオノーラ・ミアノの戯曲「顕(あらわ)れ」に取り組んでいる。テーマはアプリカから欧米への奴隷貿易。無念と悔恨が折り重なる神話的な物語だ。フランスでSPACの舞台を見たミアノが、自昨の初演を託したいと強く望んで実現した企画。9月にパリの同劇場で幕を開け、年明けに静岡でも上演する。

 7月下旬、ミアノが舞台芸術公園を訪れた。稽古に立ち会い、「アフリカとヨーロッパとの苦痛に満ちた古い関係に、第三の目を持つ宮城さんが新しい光を当ててくれた」と感激の面持ちだった。

 なぜこれほど海外との交流に力を入れるのか。宮城の考えはこうだ。

 「静岡の子供たちに、国際水準の仕事をすれば、世界と直接つながれることを伝えたいのです。また、東京などと比べ、静岡では『ヘンな人』に会う機会が少ない。でも世界にはいろいろな人が生きている。多様な状況もある。演劇を通じてそれに触れれば、生きづらさを感じている人はきっと『自分も大丈夫だ』と思える。他者を受け入れる幅も広がるはずです」

 公演の前後に解説の時間を設けるなど、観客と作品との丁寧な橋渡しを心がける。県立劇場として中高生の鑑賞教室や子供向けの事業などにも力を入れる。頂は高く、裾野は広く。富士山型を目指す。

 公演の前、宮城は劇場の入り口で観客一人一人にあいさつをする。「シェフと顔なじみのレストランなら、たまに少し口に合わない料理が出ても、その店にまた行くでしょう。劇場ともそんな関係になってもらいたいから」。芸術総監督。肩書はいかめしいが「中小企業のおやじのような仕事です」。=敬称略。(朝日。2018,08,21夕。山口宏子)


 感想

 私は静岡県民ですが、ここで紹介されていることの半分しか知りませんでした。これは県の事業であって、静岡市の事業ではありませんから、私が知っていてもおかしくないはずです。

 外国と交流するのも結構ですが、静岡市だけが外国と交流するのではおかしいと思います。

 東京に住んでいた時は、知らず知らずに自分が日本の中心にいると思って、地方の皆さんのことは考えていなかったと思います。ド田舎のここに移住して、辺境から見ることを強いられるようになりました。

 静岡市の田辺市長も、川勝知事の県都構想には強く抵抗していますが、静岡市一局集中には黙っています。県立図書館を建て替えて巨大図書館を作ろうとしていることには黙認しています。私見では、この際、県立図書館と市町立図書館との役割分担を根本から考え直そうと提案するべきだと思います。静岡市は静岡県下のすべての市町村の代表としての役割も期待されていると思います。
       
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読者からのメール、それへのお返事

2018年08月24日 | タ行

 1,読者からのメール

 牧野紀之先生
 突然お便り差し上げる無礼をお許しください。 当方は20代の若者です。先生の『精神現象学』を拝読し感銘を受けました。 思いの丈をお伝えしたく、メール差し上げる次第です。

 大学生のとき勉強会で「お前は弁証法を知らないからダメだ」と偉い先生に叱られたことがあります。マルクスを読め、ヘーゲルを知れと言われて邦訳を紐解きましたが、全く歯が立たず苦い思いをしました。弁証法は分からずじまいです。

先日ふと記憶が蘇り、再度挑戦するべく、「わかりやすい」との評判を頼りにたどり着いたのが先生の訳書です。僭越ながら、日本語としてきちんと読める初めての翻訳でした。膨大な注釈、なかでも卑近な例を用いてヘーゲルの論理展開を示してある個所などは、難解な漢語と格闘するだけでは決して得られなかった読書経験を与えてくれました。

 注では論壇、講座哲学への戒めをしばしば書いておられます。西洋人のフレーズを幾つか引っ張ってきたり、神棚に挙げて拝んだりとは異なる、実践の哲学を論じておられる点に共感しました。しかしそういう自分を反省してみると、先生に乗っかって一緒にひとかどの批判をしたつもりになっているだけではないか、全く態度変更など起きていないではないかと見えてきます。おもねる対象を権威から市井の学者へ変えただけで、とうてい自分で考え付いた結果ではないと。

 こんな通俗的解釈をしてはお叱りを受けそうですが、これが弁証法ということでしょうか。「Aである、しかしAはXに過ぎないのでないか、ならばAではなくBだったのだ。しかしBはX'に過ぎないのではないか、ならば…」。浅学ゆえ読み取れた内容は多くありませんが、たえざる反省を自分に向けるヘーゲルに対し、妙な言い方ですが、親近感を覚えます。二度、三度と読み返しさらに学習を進めてゆくつもりです。うまく纏められませんが、偉人の難解な書にあたるというイメージを越える何かを先生の作品は与えてくださいました。

 マキペディアを拝見し、小論理学の校訂に努めていらっしゃる最中と知りました。突然に雑多な文を送りつけましてご迷惑でしたら、なにとぞお捨て置き下さい。自身で哲学する人になるべく、他の先生著作にもあたって勉強を続けようと思います。
 改めまして、先生の御訳業に感謝いたします。

 2、メールへのお返事

  ISさんへ
 お便り嬉しく拝見しました。ありがとうございます。

 大学の「偉い先生」は、実力のない人に限って、つまり「実際に弁証法的に書いた論文とか著書がない人に限って」、威張るものです。笑って聞き流すと好いと思います。

 弁証法についての一応の理解は、「弁証法の弁証法的理解(2014年版)」を「マキペディア」(2014年7月2日)に書いておきました。

 「自分で哲学する」とはどういうことかについては、拙著『哲学の授業』が参考になるだろうと思います。

 ドイツ語の勉強は、『辞書で読むドイツ語』を一通りやった後は、ミヒャエル・エンデの『果てしなき物語』(Die unendliche Geschichte)を読むように勧めています。易しすぎず難しすぎないし、300頁くらいあって、練習量的にも適当だからです。実物はアマゾンですぐに買えますし。

 成功を祈ります。
 牧野紀之

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精神科病院のない国

2018年08月12日 | サ行

  精神科病院のない国は今

 イタリアには精神科病院がない。40年前に全廃する法律が施行されたからだ。一人の精神科医が、強制入院から地域で支える仕組みに変えようと奔走した。その理念と実践は世界に先駆けた取り組みとして注目されている。(朝日、2018年08月02日。トリエステ=河原田慎一)

法の施行から40年━━地域での生活支援

 1978年に施行された法律は「バザーリア法」と呼ばれる。閉鎖病棟での強制入院が当たり前だった精神医療現場を改革したフランコ・バザーリア(1924-80)にちなむ。

 バザーリアは「危険な存在」として隔離されてきた患者と対等に向き合わない限り病気は治らないと考えた。病院を開放し、患者の自由意思による医療を導入。精神科病院長として赴任した北部トリエステで病院の廃止を宣言した。

 同法ではバザーリアの改革をもとに、患者が病院外で治療や必要なサービスを受ける仕組みが定められた。

 トリエステには患者の一時宿泊用施設が4ヵ所ある。その一つ、海岸に近い高級ホテルに隣接する施設は一軒家を改装したつくりで、個室が6部屋。施錠されておらず、外出時は看護師らスタッフが付き添う。

 患者の多くは花壇のある庭で過ごす。地面に寝そべり医師に「起こして」とせがむ女性。第2次大戦中の日本人将校について話す男性。状態は様々だ。

 平均2週間ほど滞在する。患者が地域に戻るための試行期間の位置づけだ。精神科医とソーシャルワーカーらが各患者にプログラムをつくり、地域で生活するための支援を検討する。各地域にある社会協同組合が、就労支援などにかかわる。

  暴れたときの対応は━━短期入院、拘束は制限

 薬物の影響で症状が重かったり、暴れたりする緊急時はどう対応するのか。同法は、一般病院に割り当てた精神科病棟への入院を認める。だがベッド数は15床までに制限されている。

 ボローニャにある総合病院の精神科病棟では、入院は平均1週間ほど。同病院の精神科医マウリツィオ・ムスコリさんは「集中的に治療して緊急状態を過ぎれば、すぐ公立の療養施設などに移れる」と話す。

 暴れる患者の体を拘束することはあるが、患者が起きている間は1時間に1回、血圧などをチェックし、拘束を12時間以内とすることが州法で定められている。ムスコリさんは「暴れる患者のほとんどは薬の影響。適切な治療で拘束の必要はなくなる」という。

 ボローニャの北西約50㌔にあるカルビの総合病院では2年前から拘束をやめた。患者が暴れて看護師がけがをしたことはあるが、精神科医のグラツィア・トンデッリさんは「拘束では状態が良くならず、つらい記憶だけが残る。むしろ、ほかの患者との交流で症状が改善することが分かってきた」。昨年までに全国の総合病院の約5%で拘束をやめた。

  実質的長期入院なお━━取り組みに地域差も

 精神科病院の全廃が進み、政府が「根絶」を宣言して約20年がたったが、取り組みには地域差がある。

 トリエステ地域を管轄する公立精神保健局のロベルト・メッツィーナ局長によると、バザーリアの理念を実践する精神科医は「全体から見るとまだ少数」。まず入院が必要、と考える医師は南部を中心に多い。民間の療養型施設には、実質的に患者を長期入院させるところもある。6月に政権についた右派「同盟」党首のサルビーニ副首相は、病院から地域サービスへの転換を「患者の家族を置き去りにする偽の改革だ」と批判している。

 一方、地域で精神医療を支える取り組みは他国の関心を呼び、研修や視察で専門家を派遣してきた国は米国、イラン、パレスチナなど40ヵ国・地域に上る。

 メッツィーナ氏自身、バザーリアから「抑圧された患者の権利を守らないと医療はできない」と学んだ。「隔離されることで患者は財産や市民権を失い、差別の対象になった。人としての権利を失わず、住んでいる場所で治寮を受けられることが第一。バザーリアは
それを50年前から実践してきた」と話す。
  
  日本からも視察━━入院減らす取り組みも

 日本でも入院患者を早期に退院させ地域につなぐ取り組みが始まっているが、厚生労働省の2016年の調査によると精神科病床の平均在院日数は270日に上る。

 日本の精神科医らが5月、ボローニャの精神科病棟を視察した。「必ず短期間で病院から出さないといけないのか」との質問に担当医は「退院後も療養施設や社会協同組合と情報を共有する。医療機関にいると患者が仕事に復帰しにくい。地域での生活を取り戻すのが重要だ」と答えた。

 視察に参加した精神科医の青木勉さんが院長補佐を務める総合病院「国保旭中央病院」(千葉県)では、05年に237床あった精神科の入院ベッド数が、現在は救急病棟のみの42床に。青木さんは「入院が収入の多くを占める病院が多いが、入院に頼らない精神医療サービスを進めたことが経営改善にもつながった」という。

 一方、医療スタッフの不足から、拘束せざるを得ないことがある。青木さんは「認知症の高齢者など、拘束をしないと安全が守れない場合もある」と話す。

 参考・イタリアのバザーリア法

 憲法で保障された市民権に基づき、精神科の患者は自分の意思で医療を選ぶ権利があると規定。精神科病院の新設を禁止し、「治安維持」のための強制入院から、地域サービスによる医療に移行した。2000年に政府は、精神科病院の完全閉鎖を宣言。罪を犯した精神障害者らを収容する司法省の施設も15年に廃止、各地域の精神保健局が所管する一時居住施設に移行した。
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対ベルギー戦の敗北の真因

2018年08月09日 | タ行

サッカーW杯ロシア大会の興奮もようやく冷めたようですが、例の対ポーランド戦の残り10分弱くらいの「戦い方」、と言うか、「ファウルを避けてパス回しで負けきるやり方」についてはまだ時々意見があるようです。私もそれを考えているのですが、観点が全然違うので、一文を草する次第です。

 どこが違うかと言いますと、皆さんの議論は、あのパス回しが正しかったか、攻撃をせずにひたすらマイナス点を避けるやり方が正当だったか、という点に集中しているのですが、私は、それがどうだったかではなく、その問題に西野監督がどう対処したか、その対処の方法ないし態度が決勝トーナメント初戦での対ベルギー戦にどう影響したかを問題にしたいのです。

 その対ベルギー戦についてもいろいろな意見があるようですが、おおむね好意的な評価だと思います。私もそれに同意しますが、あの惜しかった敗戦の真因と、従って又そこから学ぶべき教訓に関しては、皆さんと違いますので、率直な感想を述べておきたいと思う次第です。

 ベルギーの猛攻に耐えて0対0で前半を終えた日本チームは、後半早々の3分と7分に立て続けにゴールを決めました。日本中がわき返り、「勝てるのではないか」と思ったと思います。私もそう思いました。

 しかし、結果から推測すると、あの時点で西野監督は、当然、「さてこれから後をどう戦って勝ちにつなげるかな?」と考えたはずですが、その結論は、「もう少しこのままで戦い続けよう」だったと思います。これが拙かったのだと思います。なぜなら、主体的に、「どの時点で守りに入って、逃げ切るか」という決断がなく、受け身の判断だったと思われるからです。それまでの采配と一貫する主体的な決断は、私見では、「後半15分まで待って攻撃要因としては本田を入れ、守備要因としては山口と槇野を入れて、基本的には逃げ切り作戦で行く」だったと思います。「後半15分」は「20分」でもいいです。そういう小さい数字ではなく、明確な方針を主体的に決断したか否かが問題なのです。

 しかし、実際は、私の推測ですが、判断に迷った監督はそのままズルズルと戦況を見守りました。後半24分に1点取られ、更に29分に2点目を入れられて、「逃げ切り」の可能性がなくなってから初めて動き、本田と山口を入れました。これは第1戦の本田の投入(後半20分ころ)とも第2戦での本田の投入とも根本的に違った性格を持ったものだったと思います。どう違うかと言いますと、これは「状況から強制された受動的な判断」だったということです。もちろん時間的にも遅すぎました。第1戦と第2戦での本田の投入は「何が何でも追加点を取るぞ」とか「何が何でも同点にするぞ」という強い意志に裏付けられた主体的な采配でしたが、今回は違いました。それが結局、本田選手のコーナーキックにも出てしまいまったのだと思います。

 本田選手はあの最後のコ-ナーキックで、「意識」としてはもちろん「第1戦のようにやってヘディングで追加点を取ろう」と思っていたと思います。しかし、自分の出てきたのが後半36分であって、第1戦よりずっと遅かったこともあり、監督の判断の躊躇を「意識下」で感じていたと思います。指揮官の気持ちは部下に微妙に伝わるものなのです。そのコ-ナーキックは味方のヘディングにはつながらず、相手のゴールキーパーにキャッチされ、素早いカウンター攻撃とその結果たる逆転負けとなりました。

 なぜ西野監督は対ベルギー戦では主体的な決断ができなかったのでしょうか。それは1次リーグの第3戦で、「フェアプレイ得点の差を利用して決勝トーナメントに上がる」という作戦を取ったことに対して、外国と世間の(一部の)否定的な評価が影響したのだと思います。この逆風を受けた西野監督は、第3戦の翌日に選手たちに対して謝ったそうです。私見ではこれが失敗の始まりだったと思います。指揮官たる者は、どんな事情があっても最後の結果が出るまでは「謝罪」などを口にしてはいけないと思います。「君たちの考えはいずれすべてが終わってから聞くし、私の考えもきちんと話すから、今は前だけ向いて、私を信じて、一緒に戦ってくれ」とだけ言うべきだったと思います。

 しかし、西野監督は謝罪の言葉を口にしました。胸中の動揺を隠せなかったのです。そして、この弱気が2点リードの後の「判断の迷い」を生む背景となりました。「守りを固めて逃げ切る作戦では、また非難されるのではないか」という考えが浮かんだはずです。「浮かんだ」で言い過ぎなら、「脳裏をかすめた」と思います。そにかくその気持ちは絶対に「ゼロ」ではなかったと思います。クラウゼヴィッツ曰く。「大決戦に臨んで尻込みする者は、その懲罰を免れない」と。確かに「判断の迷い」は「尻込み」ではありませんが、前々から決めていたはずの「ルールで認められた事なら何をしてでも勝ちに行く」という大方針を疑ったという点では同じことだと思います。

 何度も間違いをしてきた情けない私が、この敗戦から引き出して再確認する教訓は次の2つです。

第1の教訓・熟慮の上で一度決めた方針を、その実行段階で疑ったり変えたりしてはならない。「決めたことは実行あるのみ」。

第2の教訓・何らかの意味で「戦い」と言えることでは、指揮官はその戦いの最終結果が出るまでは、部下に「作戦上の間違い」とやらを謝罪してはならない。反省は戦いがすべて終わってからである。
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