マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

お知らせ

ながく、牧野紀之の仕事に関心を持っていただき、ありがとうございます。 牧野紀之の近況と仕事の引継ぎ、鶏鳴双書の注文受付方法の変更、ブログの整理についてお知らせします。 本ブログの記事トップにある「マキペディアの読者の皆様へ」をご覧ください。   2024年8月2日 中井浩一、東谷啓吾

鈴木恵・前浜松市議のブログ

2012年04月30日 | サ行
 鈴木恵・前浜松市議の最新のブログ記事を読んで考えました。

 01、04月24日のブログ記事(久しぶりに市役所へ)

 これまでの市民活動スタイルが、「こんなニーズがあります。ですから、これを市でやって欲しい」という要望型だったとしたら、新しい市民活動スタイルは、「こんなニーズがあります。私たちはお金をどこからか調達しますので、一緒にやりましょう」という協働型。

 後者の協働型を今回提案したところ「ニーズはわかるが」と前置きしたあと、「つくっていただいた文章を添削することはできますが……」。「1つのNPOとだけ協働できない」、「公式な会議、委員会ではないので……」

 あら? 市民協働って、市役所のお手伝いだけじゃないよね。添削しますと聞いて、笑える。「うけ」を狙ったのかと……。

 さらに、「言い忘れていましたが、3週間前に異動してきたので、よくわからないのです」と管理職であるはずの課長補佐。

 私たちの市は、大丈夫なのかしらと心配になった一日でした。

 02、感想

 ここで鈴木さんの言っている事自体は正当だと思います。しかし、自己反省が決定的に欠けていると思います。

 鈴木さんは12年間市議を務め、浜松市議の中では最も頑張っていた人だったと私は評価します。それなのに、昨春の選挙で落ちました。次点の次でした。女性の市議仲間を増やそうと立てた2人の新人は法定得票数にも達せずに落選しました。まずこの事実の反省が先だと思いますが、少なくとも、その反省はブログでは聞けません。

 そして、市議時代からはめっきり落ちたブログの更新頻度も問題です。本当に浜松市政を好くしたいと思っているのなら、市議であるか否かに関係なく、ブログで問題提起するべきではないでしょうか。少なくとも「大きな」落ち込みはないはずです。

 そして、その結果、ブログのPV(ページヴュー)も減少しています。元々PVは2桁で、時々3桁になる程度でしたが、今では2桁も下の方です。

 私は半世紀以上、世の中を公正なものにしたいと思い、その方法を考え、出来る限りの行動もしてきたつもりですが、この経験からの現在の結論の1つが「修身斉家治国平天下」であり、「より好いものを実行できない人が他者を批判しても無意味である」という事です。

 社会主義の資本主義批判はおおむね正当でしたが、社会主義は資本主義以上の社会を作れませんでした。社会主義政党も全体としては民主的ではありません。

 日本の民主党の自民党批判はかなり正当でしたが、民主党には自民党以上の政治をする能力がありませんでした。現在の川勝静岡県知事も前知事と変わりません。現在の浜松市長の鈴木康友さんは前市長の北脇さんより悪いかもしれません。

 元に戻って、鈴木恵さんについて言いますと、一番悪い事は「他者からの批判を聞かない」「反省しない」ということです。こういう人が市役所を批判しても無意味だと思います。


所在不明児童

2012年04月27日 | カ行
 学校が居場所をつかめず、1年以上も「行方不明」とされている小中学生がいる。都市部を中心に全国で1000人超。市区町村が適切な教育を受けているかどうかを把握できないまま、事件に巻き込まれるケースも出ている。「消えた子どもたち」に何が起きているのか。

 大阪府富田林市で今月(4月)、9歳男児の安否が不明となっていることが判明し、祖父母ら4人が生活保護費を不正受給した疑いで12日に大阪府警に逮捕された。文部科学省の学校基本調査によると、昨年5月1日時点で「不明児」とされる小中学生は1191人。9歳男児はその1人だった。

 男児の場合、小学校入学を控えた2009年3月、ともに住民登録された曽祖母が市に「一緒に住んでいない」と説明。市は学校への在籍を認めたが、男児は登校せず、1年後に「不明児」扱いになった。

 曽祖母が昨年8月に「ひ孫の住民登録を消して欲しい」と訴えるまでの2年5カ月間、市は男児の安否を確認していなかった。男児は乳幼児のころ、すでに行方不明になっていた可能性が高い。

 文部科学省によると、日本国籍を持つ就学年齢の子どもは、住民基本台帳に基づいて市区町村教委が学齢簿を作る。居場所がつかめないまま1年以上たつと、学齢簿の別冊に移して「居所不明」として数えられる。家庭内暴力(DV)や夜逃げで、居場所をたどられないように住民票を移さない例が多いとみられる。父母のいずれかが外国人で、日本国籍を持つ子を自国に連れ帰ってしまうケースもあるという。

 住民票を移さなくても、希望すれば、子どもは移転先の学校に通うことができる。文科省の担当者は「逃げた先で、親が前の住所を学校に教えなければ、学校間で子どもの行き先がわからず、不明児になる」。東京都葛飾区教委は「よそから区内に逃げてきて、親子
が元の学校名を明かしていない実例はある」という。

 1191人の中には、そうした形で学校に通う子どもたちも含まれるが、転居後に義務教育を受けられずにいる子どもが含まれている可能性も否定できない。

 市区町村教委は年に1回、学校基本調査の一環で不明児の数を国に報告している。2010年度は326人だが、昨年度は1191人に急増した。文科省が昨年4月に調査の徹底を求めたためだ。文科省は同時に各教委に、民生委員や児童相談所と連携して子どもの行方の把握に努めるよう通知を出した。
(朝日、2012年04月20日。工藤隆治)

 感想・日本社会が崩れて来ているのだと思います。根本から取り組まないと、解決しないでしょう。

教育員会の議事録の公開

2012年04月26日 | カ行
 全国の多くの教育委員会が議事録の公開に消極的な実態が明らかになった。情報公開が進んでいない教委では、教育行政の中身が分かりづらい。

 「情報公開請求があれば公開可能だから、非公開とは認識していない」。そんな見解の福井県教委は、議事録だけでなく、会議自体の公開に後ろ向きだ。2010年度にあった20回の会議のうち、一部でも傍聴できたのは10回。全107議案のうち18議案の議論しか公開しなかった。

 教委事務局は、議事録を公開していない理由について「会議を傍聴できる部分では事務局からの報告が多く、委員同士の議論が少ないので」と話す。「傍聴不可の部分の議事録は、公開請求されても非公開が多い」とも言い、大半の議事が県民には分からない。

 10年度は、県立高校入試の制度変更や教科書採択に関する議論も非公開だった。林逸男委員長は「事前にパブリックコメントを募るなどしている。県民の意向は反映されている」と話す。事務局によると、近年、事務局が出した議案が否決された例はないという。一方、関東のある市教委担当者は、公開しない理由を「傍聴者もほぼゼロ。必要が感じられない」と話す。

 議事録を公開しても、不十分なケースもある。栃木県日光市は11年度からウェブサイトで議事概要の公開を始めたが、発言者を「委員」と表記。誰の発言か分からない。担当者は「委員の自由な発言を妨げない配慮でもある」と話す。

 東京都教委の木村孟委員長は「公開されないと委員に緊張感が生まれず、事務局の考えを追認するだけになる。形骸化と批判されても仕方ない」と言う。都教委は01年度に議事録の公開を始め、08年度から発言者を実名にした。「誰がなぜそう決めたのかが見えないと、責任の所在があいまいになる。情報発信を充実させ、住民の関心を喚起する努力が必要だ」と話す。

 議事録の情報公開請求をしても、内容が乏しい可能性もある。東京都足立区教育委員の小川正人・放送大教授(教育行政学)は「そもそも活発に議論する教委は全国的に少ない」と指摘。委員の多くは教育に縁のない本業をしながらの非常勤で、会議も月1回程度といい、「事務局の運営に誤りがないかをチェックするのが精いっぱいだ」。

形骸化招く恐れ(小松郁夫・玉川大大学院教授・教育行政学の話)

 教育委員会は、地域の教育に関する基本方針を決める重要な機関で、議会と同程度の情報公開・発信をする必要がある。住民が簡単に情報を得られる環境が大切だ。それなしでは教委の役割が住民に伝わらず、関心がますます薄れ、形骸化を招く恐れがある。
 (朝日、2012年04月10日)

  感想

 議事録自身は取ってあるようですが、議事録の在り方自身も変えた方が好いと思います。現在は、多分、テープかACレコーダーに録音したものを業者に渡して、速記のように一字一句正確に起こしているのだと思います。が、これを読む人はほとんどいないでしょう。

 原記録としてはACレコーダーに録音したものをPCに移して保管し、必要な場合には聞けるようにしておくが、実際の用には、新聞記事の10倍くらいにまとめた「記事」を文字で発表しておけば好いと思います。

 浜松市の行革審の公開審議会の記録は2週間くらい後に発表される「簡略版」と、更に後に発表される「完全版」の2つから成り立っていますが、前者は「新聞記事の3倍くらいにまとめたもの」にして、すぐ翌日に発表する方が役立つと思います。


ゲーテの晩年の1日

2012年04月22日 | カ行
           レオポールト・ヴィンクラー著
           牧野 紀之訳

・これはゲーテの晩年の生活を1日にまとめて描いたものです。ヴィンクラーさんの大作家に対する敬慕の情に満ちた文章だと思い、訳しました。(牧野 紀之)


 朝6時。ゲーテの寝室にはカーテンを通して11月の淡く弱々しい光が差し込んでいる。眠気まなこに少し表情を崩し、頭を振り、手をモゾモゾと動かし、そして目覚める。やっと目を開いたゲーテはなおも笑みを浮かべたまま溜息をつく。

 ああ、折角素晴らしい景色を見ていたのに、どうして終わってしまうのだ。南の海の岸辺に立つギリシャの美しい女神・ヴィーナス、銀色に輝く波頭、空には消えなずむモルゲンロート。この完成された古代美の与えてくれるほのぼのとした雰囲気。だがこれもようやく褪せてしまった。さて、起きなければならぬ。仕事が待っている。

 伸びをして腕にさわる。しばらく前から腕に神経痛が出て、痛むのである。脚に出来た湿疹も痒くて困る。顔をしかめる。体に故障があると目覚めも楽しくない。

 今日は休むとしようか。いや、起きよう。休むのはダメだ。この程度の事で作家としての日課を休む訳には行かない。歳は取ったがこれ以外は悪くない。仕事の力は衰えていないし、歳よりも若く見える。さあ、起きるんだ。いつもの仕事だ。

 ゲーテはベッドに垂らしている紐を引いて呼び鈴を鳴らす。ドアが開いて従者が静かに入ってくる。「お早うございます、檀那様」。「お早う」と応える。従者はカーテンを開ける。「天気はどう?」と聞くが、直ちに自分で答える。「昨日予想した通りだな、曇ってる。まあ、いい。明日は多分晴れる。こういう事が分かっていると、いつも晴々した気持でいられるものだ」。

 起き上がり、顔を洗い、自分で髭をそる。ゲーテは他人(ひと)の手で顔に触られるのが嫌いなのだ。続いて椅子に座る、従者が理髪用の前掛けを掛けて髪を整える。ゲーテはいつも外見を気にしていて、不意の来客があっても困らないようにしているのである。調髪の間、従者と言葉を交わす。これまでの長い人生の間にあったちょっとした事を話したり、従者との世間話に花を咲かせたりする。民衆がどういう考えを持っているかと聞くこともする。自分の認識が世の変化に遅れないように努力しているのである。

 耳では従者の言葉に傾聴しているが、口では時々自分の意見を言う。それでも心ではそれらとは別にその日の仕事の事を考えている。ワイマール公国の王女の誕生日にちょっとした詩を贈るんだったな、と思い出す。冒頭の句はもう頭の中にある。その後も大筋は出来ている。

 着替えと整髪を済ませると、従者がミルクコーヒーとラスクを運んでくるので、朝食を美味しく食べる。昼食は何かね、と聞き、「それは楽しみだ」と応える。

 それから着替えの間に頭に浮かんだ事をすばやくメモする、あるいは従者に書き取らせる。この仕事は従者にとっては特別名誉なことである。

 書斎に行くともう書記が待っている。変わりないかなどと二言三言(ふたことみこと)言葉を交わしてから、口述を始めるのである。

 書記は部屋の真ん中のテーブルに席を取り、ゲーテはメモの置いてある斜面台の前に立つ。両手を背中に組み胸を張って部屋の中を行ったり来たりすることもある。

 ちょうど『ファウスト』第2部を口述しているところだ。ゾルゲ女史が老ファウストを訪ねてくる場面である。ファウストはこの女性に会った事がない。女性はファウストに息を吹きかけて眼が見えなくしてしまう。しかし、老人は雄々しく立ち向かい、自分の人生訓を語る。

 「この世の事は十分に知り尽くした」。
 続けて人間存在を擁護して言う。
 「勇敢な人間に対しては世界はその扉を開く。
  人間はしっかりと立ち、周りを見回す。」
 「前進する時には苦しみも喜びもある。
  勇者は片時も自己満足しない」。(1)

 (1) 関口存男氏はこのそれぞれ2行から成る2個の句の大意について次のように注しています。「腕ある人間が断乎として行動すれば現世は必ずこれに対して報いる所がある(人生は生き甲斐があるように出来ている)、かるが故に男子すべからく奮起して以て現実を踏まえて立て、前後左右の現実をシッカリにらめ……」、「真の人間は、好い加減なことに満足して惰眠に堕してはいけない、時々刻々野望に鞭打たれ、前進また前進のあわただしき移動心境の内に現世の喜怒哀楽を満喫すべきである」。

 ゲーテはそこでいったん止まる。窓辺へと歩み寄り外を見る。「そうだな、自分もこの長い人生をそうして生きて来た訳だ。この方針でここまで来られたのだ」。

 『ファウスト』用のメモを机の上に戻し、それを慈しむようになでる。いくつかのメモは何十年も前のもので既に黄色くなっている。ずっと持っていたのだ。この作品自体、彼の作家人生とほぼ重なる(1)。他のメモは比較的最近のものだ。

(1) 『ファウスト』はゲーテ24歳の頃に書き始め(原ファウスト)、死(1832年)の前年に第2部を仕上げた、とされる。

 この大作の仕事はまだ続いている。ゆっくりと考え考えだけれども、それは昨今の自分の生き方と同じだ。それもようやく終わりに近づいた。断片的になるかもしれないが、ともかくけりをつけなければなるまい。

 もう少し口述筆記をしてから「今日はここまでにしよう」と言うと、従者が朝食を持って来る。鶏の冷肉が少しと白パンにワインである。全て美味しくいただく。

 朝食を終えると馬車を玄関に呼んでそれに乗る。従者が肩に温かいマントを掛ける。お気に入りのつば付き帽子を被り、手には竹の鞭を持って近辺の一周ドライブに出かける。

 ゲーテの眼は今でも鋭く、光を失っていない。馬車の上からせわしなく周囲を見ては雲の動きを観察し、うっすらした霧から透けて見える山々の形と色彩を注視する。下方に眼をやって道を見ることも忘れない。文学の仕事の傍らで自然科学者としての研究も続いているのである。

 道のわきにある石の塊に気づくと馬車を止める。降りてかがんで観察する。ポケットから小さな金槌を取り出して石を叩き、2,3個の石を馬車に持ち込む。

 更に進んで近くの鉱業所に来ると長めの中断をする。所長を呼んで仕事はうまく行っているかと訪ねる。採掘した鉱石の見本を持ってこさせ、今後の採掘方法について指示を出す。それから帰宅するのである。

 帰途でもゲーテの注意深い観察は続く。道端の木や草、枝の小鳥とその巣に眼をやり、晩秋とはいえ最近の温かい日々で芽を出した新しい草を見て喜ぶ。その内、馬車のゴトゴトいう動きで眠くなる。眼を半分閉じると、最近マリーエンバートから帰ってきた時のような感じを覚える。

 あの時は相変わらずの恋情に囚われそうになり、そこから何とか逃れて来たのだったな、わしの人生はこれの繰り返しだった、自分自身を救い、仕事を優先して、恋の喜びから逃げて来たのだったな、これが自分の運命だと思ってな。

 今や完全に眼を閉じる。馬車の側面に頭をもたせかける。

 この間の逃げ帰りにはこれまでになく傷ついた。ゲーテらしい予言能力で、これで恋の甘美な苦しみから永遠におさらばすることになると分かっていたからだ。「マリーエンバートの悲歌」の中にはその苦悩が好く描かれている。この原稿は上等な革製の紐で結んで机の秘密の引き出しにしまってある。特に親しい友達にしか朗読していない。

 あの恋を捨てたのは物凄く辛かった。しかし、こういう事は我が人生には付き物だったな。若いころ既にこれを学んだ。ライプチヒのケートヒェン・シェーンコプフと別れた時だ。次はゼーエンハイムのフレデリーケ・ブリオンだった。その次はあのロッテ〔シャルロッテ・ブッフ〕だ。これは「若きウェルテルの悩み」として結晶した。

 いつでも別れは辛かったが、思えば我が人生は苦しみの人生だった。人生は「毎回毎回改めて持ち上げなければならない重い荷物」のようなものだ。

 馬車はヴァイマールの市街に入って行く。馬のひづめのパカパカいう音で憂欝な仮眠から眼覚める。背筋を伸ばして座り直し、眼を大きく開けると、すぐに我に返る。迷妄は既に消え去り、耳には『ファウスト』の1節が聞こえている。それはしばらく前に考え付いたもので、近い内にその悲劇の掉尾(ちょうび)を飾る予定だ。

 「たとえ妖怪変化が出没しようとも、大悟した人間はその歩むべき路を歩む。
  切磋琢磨を忘れず努力を怠らない人間は必ず救済される」。(1)

(1) 前半は、煩瑣な抽象論やくだらぬ感傷性にわずらわされることなく、はっきりと現実を見つめて行動せよ、との意。後半は、努力主義の人間は必ず救われるという考えでファウスト全篇の中心思想(以上、関口氏の注釈。訳は一部拝借)。

 そうだ、そうだ、その通りだ。迷妄を追い払うのだ、邪魔を乗り越え、常に新たな創造に邁進するのだ!

 車は玄関前で止まる。従者が既に待っている。「閣下、着替えの時間です」。「分かっている、すぐ行く」とゲーテは応える。若者のような軽い身のこなしで階段を上がり、庭に面した部屋に入る。

 昼食には客が来るのだ。盛装しなければならない。外国の高位の客がヴァイマールに来ていて、歓迎の祝宴を開くのである。それには幾組かの友人夫妻も招待してある。

 ゲーテはもう一度少しの間調髪用の椅子に座り、従者に髪を整えてもらう。それからフロックコートを着、金の針をマフラーに刺し、胸にはヴァイマールの勲章とナポレオンから授与されフランスのレジオンドヌール勲章を下げる。もう一度鏡を見てから、背筋を伸ばしてゆっくりと階下の応接室に降りて行く。

 そこには既に客が待っている。客は広い玄関階段を上がってきたのであるが、その階段横の台にはイタリアで買ってきた彫刻が並び、高価な絵画が壁に掛かり、ガラス戸の付いた棚には他の芸術品が収まっている。更にサイドテーブルの上にはエッチングやその他の版画の入った鞄が置いてある。

 昼食は2時からの予定である。その少し前に客間のドアの内側に立っている従者が「閣下のお出ましです」と告げる。ドアを開ける。サッとゲーテが入ってくる。威厳を感じさせる様子である、それは殿様のような威厳である。というのも、ゲーテは精神界の覇者だからである。態度がどことなくぎこちないが、背はすっくと伸ばしている。微笑みを浮かべ、主賓の所に歩み寄り、懇(ねんご)ろに挨拶する。他の客たちにも歓迎の言葉を述べる。素晴らしい応接間に立っている1人1人の所へ向かい、相手に合わせた会話を交わす。

 それも終わる頃、従者が「食事の用意が出来ました」と告げる。ゲーテが先頭に立ち、皆を案内して食堂に行き、着席する。メインディッシュはガチョウに栗を詰めてローストしたものである。その後、デザートにアップルパイが出る。

 ゲーテは甘い物は食べない習慣である。そこでスイスチーズを一切れ取る。コーヒーも午後には飲まないようにしているので、ワインを飲む。これは南ドイツの人間らしく若い頃から嗜(たしな)んだ。

 長い食事の間、疲れも見せず客と話す。常に座の中心となり、会話をリードする。これまでの経験談をする、その時の問題や人間の本性に関係した事を話題にする、特に芸術や学問や文学の話を好む。得意の「色彩論」や植物についての博識を披露することは何度もあった。

 間には客の仕事や研究について質問することも忘れない。客はゲーテが色々な分野で深い洞察と広い見識を持っているのを知ってびっくりする。ゲーテは冗談を言って笑うこともある。そのもてなしは実に魅惑的である。その間でも空になったワイングラスをそのままにしておくことはない。
 客はゲーテの生き生きした精神に感嘆すると同時にその健啖ぶりにも感心する。皆、ゲーテの内容豊かな話や光り輝く眼や素晴らしい頭の虜になるのであり、要するに、天才ゲーテの人となり全体に呪縛されるのである。かつて作曲家のメンデルスゾーン・バルトルディはこの人を「キラキラした眼を持つ老魔術師」と評したが、今でもそれはそのままなのである。

 食事が終わるとゲーテは鞄の中にしまってある芸術作品を皆に見せる。日に一度は素晴らしい芸術に接してそこから気を受けるべきだという考えである。1つ1つの作品についての説明がまた、その作品の特長を明らかにする独特のものである。こうして一時を過ごした後、客は帰る。

 するとゲーテは2階の自室に行き、肘掛椅子に腰をおろして休憩する。心弾む食事ではあったが、この歳では休んで自分に集中する時間も必要である。いまでも人と会うと初めは少し内気で堅い所もあるが、人と会う事自体は彼は本当に好きだった。実際、自分でも書いている。しばらく人から離れていると、人の顔を見るだけで好きになる、と。社交的な場では最初はとっつきにくく儀式張っているように見えるが、根は「育ちの好い少年」のままなのである。これはかつて婚約時代に書いた詩の中での言葉である。実際、ゲーテは生涯、穏やかさと忍耐強さと全ての事に対する理解力とを持ち続けた、と言ってよい。人々を導き、困っている人には救いの手を差し伸べたいという熱い衝動で生きて来た人であった。

 夜になった。もう一度馬車を走らせて、お城での会合に出る。記念行事があるのである。ゲーテは一般的には外出は少ない方なのだが、大きな行事に欠席する事はなかった。半時ほど貴族たちと過ごしてから帰宅する。

 白い木綿の心地よい室内着に着替えて机に向かう。明日の仕事の準備をし、心に浮かんだ考えやひらめきを書きとめ、日記を書くのである。日記は何十年も前から書いている。
 その後、読みかけの本を読み、パンを一切れ食べてワインを口にする。それらを終えて初めてベッドの脇にある背の高い椅子に移るのである。数年後ゲーテは死ぬことになるのだが、それもこの椅子の上である。息を引き取る前のしばらくの間、膝の上の毛布に指で字を書いていたと言う。

 快い疲労感が襲ってくる。椅子の背に頭を凭せ掛ける。随分寂しくなったなあ、歳を取ったからなあ、妻の死んだのはもうだいぶ前の事だ、息子のアウグストもだ、旧友もほとんど鬼籍に入ってしまった、生涯仲間のように応援してくれた公爵も、そして嗚呼、シラーもだ。
 ゲーテはこの自分と渡り合える唯一の友の事を思うといつも心が痛むのだった。自分を本当に理解してくれたのはシラーだけだったなあ。中年の頃、作家としての活動に自信を失い、どうして好いか分からなくなっていた時、彼の励ましがあったからこそ再び筆を執ることが出来たのだ。

 あの最大の理解者のシラーももういない、とゲーテは悲嘆にくれる。そのほかにも多くの理解者がいなくなった。一番長生きしたのは自分だけか。いつも時代を超越して生きて来たからかな。残る仕事はライフワークのあの超大作を完成させることだ。

 この作品あればこそ自分は持っているのだ。自分の力と若さはここから生まれてくるのだ。この作品に関わり、どこにいても人間としての精神的安定を保ち、スケールの大きな考えを持っている事、これが自分を支えて来たのだ。

 ゲーテの生き方を貫いた思想と原則は「ファウスト」の中で普遍的な意義を付与されている。それは終幕の次の言葉である。

 「そうだ、この考え方にこそ自分は帰依してきたのだ。
  これこそ智慧の最後の結論だ。
  自由と永世に相応しい人だけが
  自由と永世を日々戦い取る宿命を負う」

 ゲーテは身を起こす、寝床に就くためだ。その前に再度窓辺に行く、明日の天気を予測するのが習慣だった。月が出ている、星の明るい光が空から降りている。明日も晴天のようだな、又心弾む一日になるだろう、作家として1日1日を意義あらしめるのだ。
 生きる事はゲーテにとっていつも大なる喜びであった。「ファウスト」の中でこの事をトュルマー(塔守の名)がこう語っている。

 「幸せ者の眼よ、
  お前の見た事どもは
  どれも皆、
  やはり素晴らしい事だったなあ」

 ゲーテは窓の外を見やる。その眼差しは宇宙の星と同じように光り輝いている。上方の無限に目を遣る、「ファウスト」の最終幕で天使たちが救いと慰めの言葉を与えてくれるが、それは又ゲーテ自身の心からの慰めでもある。

 「常なき物ごとは
  [永遠の真理の]模写でしかないのだ」。


中学校の昼食時間は短すぎる

2012年04月19日 | ハ行
                        歯科医師、藤木 辰哉

 中学校の昼食時間が短いと、患者さんの母親からしばしば訴えられる。私が聞くところ、昼食時間は通常で15分、前の授業が延びたりすれば、5分ぐらいしかない日もあるという。

 これでは、きちんと食事をするには短時間すぎないだろうか。中学校は、食べることの大切さについて、もう少し配慮をするべきだと考える。

 近年、「噛まない人が増えた」とよく言われる。実際、食べる機能に問題を抱えた若者が潜在している。

 私の医院に通ってくる小、中学生の患者さんにガムを噛んでもらうと、頻繁に口の中へ指を入れてガムを動かしながら噛んだり、奥歯で噛むべきところを前歯で噛んだりするなど、普通に噛めない人が少なくない。

 また、おにぎりを食べてもらうと、1個のおにぎりを30秒弱で食べ終える子もいれば、5分以上かかっても食べきれず、苦しそうにのみ込んでいる子もいる。

 「食べる機能」に問題を抱えた中学生にとって、学校で昼食を短時間で食べることを強いられるのは大きな苦痛に違いない。中学校は、食べるのが遅い生徒のことも考えて、余裕をもった昼食時間を設定すべきである。

 とはいえ、昼食時間を長くすると、早く食べ終わった生徒たちがふざけだして困る、という現場の考え方もあるだろう。

 そこで、昼食時間には、一口最低30回噛んでからのみ込むよう、すべての生徒に指導してはどうだろうか。こうすることで、食べる機能の向上を期待できるうえ、食べるのが遅い生徒たちの負担も減るはずだ。

 さらに、昼食時間を健康教育の一環とするのもよいだろう。昼食を食べながら「食」についての話を聞いたり、議論したりする。要は、昼食時間を単なる栄養補給の時間としないで、教育機関として充実した時間にしていくことが大切だと考える。

 食べることは、生きるために不可欠な営みであるとともに、人生の大きな楽しみでもある。現在の中学校の短すぎる昼食時聞では、食べることを楽しいと感じられるはずもなく、生きるための必須事項としての役割を果たしているのかさえ疑問である。

 義務教育の中学校の昼食時間を長くして、有効利用すれば、「食べることは楽しい」と感じる人たちが増えるだろう。そうした気持ちが、生活の質の向上、ひいては生きる力を育むことにつながっていくと思われる。
(朝日、2012年04月10日)

       お知らせ

 竹原市長時代に鹿児島県阿久根市で行われた模範的な「職員給与の発表方式」を「絶版書誌抄録」の「資料集」に載せました。

 2012年04月19日、牧野 紀之

 絶版書誌抄録

カント認識論の現実的意味

2012年04月16日 | カ行
    その1(構想力)

 第1項・哲学する姿勢

 ○○さんも言ったように、カントの演繹論を読んでいると「構想力」というものが大きな役割を果しているように見えます。へーゲルのカント論だけしか知らないと、こういうものがあることも知らないで終ってしまいそうですが、自分でカントを読んでみると、これが分かる。
 と同時に、自分でカントを読んでみるとまず気づくことは、「へーゲルのカント論から描いたイメージと大部違うな」ということだろうと思うのです。つまり、へーゲルのカント解釈はものすごく強引な所があると思うのです。

 しかし、ここで「強引」ということは必ずも「悪い」という意味ではないのでして、この点もよく考えてみなければならないのです。実際、そういう「強引な」へーゲル的解釈とそういう「強引さ」のないサラリーマン教授たちのカント研究とを比較して、どっちが哲学にとって意味があるかと考えてみれば簡単に分かるように、ヘーゲルのカント解釈が強引であるということは、第1に、へーゲルのカント研究はそれだけ強い主体的な問題意識に基いたものだということであり、第2に、強引といっても根拠がない訳ではなく、やはり根本は鋭く見抜いているということなのです。ただ、サラリーマン教授のように、枝葉末節を気にしないというだけなのです。ですから、私たちがカントを考える際にもこのへーゲルの態度は学ぶ必要があると思うのです。

 第2項・構想力とは「ひらめき」の事

 そこで本論に帰つて、ここで出てきました「構想力」というものについて考えてみますと、これは「対象が現在していないのにその対象を直観において表象する能力」(B版151頁)とされています。そのほか「感牲に属する自発性」とか「感性を先天的に規定する能力」とか言われています。では、これを一体どう考えたらよいのか。前回、カントが認識というもので考えていることは、人間の認識が方法をもって行われるという面に立脚しているのだとお話しましたが、それではこの構想力はその「方法に基づく認識」のどういう面を捉えているのでしょうか。これが問題です。

 そこで私は考えてみたのですが、これはいわゆる「ひらめき」に当たるのではないかと思うのです。例えば、幾何の証明の問題などを考えてみますと、うまい所に補助線を1本引くと、それに適用できる定理がおのずと浮かんできて、証明がスラスラ進むということがあります。しかし、その補助線がひらめかない限りどうしようもないというような場合です。この場合を考えてみますと、そこで適用されるべき定理は方法であり、カントで言えば、これを極端に一般化したものが純粋悟性概念ということになるのだろうと思うのです。しかし、概念=方法だけではその方法は適用できない。一般的なものである方法と個別的なものであるその実例(目前の問題)とを結び付けるものが「ひらめか」なければならない。だから、方法の適用のためにはその「ひらめき」に当たる構想力が必要だということになるわけです。

 これは何も幾何だけではない。現に今問題になっているカントを考える時でもそうです。カント哲学の現実的意味を考えるという「方法」をお話し、しかも「人間が認識する時、頭の中に予め持っているものを対象の中に持ち込むと言ってよいような側面はないだろうか」とまで具体化して問題を出したのに、皆さんは答えがひらめかなかった。それは何も知らなかったからではなくて、私から言われれば分かる事なのに、自分ではひらめかなかったのです。

 第3項・カントの偉大さ

 このように考えてみますと、カントの構想力というものには十分な現実的根拠があることが分かってくるわけです。そして、或る哲学の偉大さとは、結局は、その哲学がどの程度現実を深く捉えているかに依るわけですから、カント哲学はやはり歴史に残っているだけのことはあると分かるわけです。

 しかも、ここで大切な点は、カントのこの構想力というものは、カントが人間の認識能力を直観と悟性とに二大別し、それぞれを受容性と自発性として特徴づけたにもかかわらず、それらと矛盾するのではないかと思われるのに、あえて「感性の物における自発性」として構想力を持ち出したことなのです。ここに、自分の立てた大きな枠組みとの矛盾をも厭わず現実に忠実たらんとするカントの鋭い感覚を見ることができます。そして、この現実感覚こそ、哲学者に限らず、あらゆる人の偉大さを決める最大の要素なのです。この点は、「ヘーゲル哲学と生活の知恵」(『生活のなかの哲学』に所収)にも書きましたが、もう一度この事をしっかりと理解しておいて欲しいと思います。

 第4項・先験的統覚

 続いて、今回私が考えました事は、やはり「先験的統覚」の問題であります。A版の107ページを見ますと、「意識のかかる統一(これが先験的統覚ですが)がなければ我々の内にはいかなる認識も生じえないし、また認識相互の結びつきも、認識の統一も不可能である」と言われています。

 この言葉は我々の言葉に翻訳するとどうなるでしょうか。手掛かりは「認識相互の結びつき」と「認識の統一」という言葉にあると思うのです。皆さんは「認識相互の結びつき」とか「認識の統一」という言葉を聞いたら、何を思い浮かべますか。

 やはりそれは「思想」とか「世界観」とかいうものだろうと思います。しかるに、先験的統覚というものは自覚された自我のことですから、カントのこの言葉の意味は、人間が世界観とか思想といったものを持ちうるためには自我に目覚めていなけれはならない、ということになるわけです。そして、こう取れば、それは全く正しいということが分かるわけです。子供や精神薄弱で自我の目覚めに達していない人は、世界観を持つことは出来ません。

 第5項・カントとヘーゲルとの違い

 さて、それでは人間はどのようにして世界観を作るかといいますと、それは自我に目覚めた思考が、当人のそれ以前の一切の経験を総括し、それを人間とは何かという中心テーマの下にまとめあげることによって作られるわけです。そして、それは、当人のその後の生き方と考え方を決めていくわけですから、人生観とも呼ばれるわけですが、それはともかく、このような面はカント哲学にどう反映されているでしょうか。

 すると、カントがカテゴリーとしてあげた12個の概念は、万人がそのような総括によって作り上げる考え方に共通するもっとも普遍的なものと見ることができると思います。そして、この同じ問題に対してへーゲルの与えた答が彼の論理学体系だったと思うのです。そして、この2つの答えはものすごく異なったものなのです。

 そこで私の考えたことは、この2つがなぜかくも違ったものになったのかということです。はっきりした事は分かりませんが、根本的には、問題をこのように明確に立てたか否かの問題だと思います。私の問題提起はかなりヘーゲル的なのですが、カントには自我の目覚めの論理化という意識はほとんどないのではないか、と思います。もう1つの理由は、方法というものをどう考えるかということで、それを「単なる見方」と捉えるか、「同時に世界観でもあるもの」と捉えるか、の相違だろうと思います。いうまでもなく、カントの方法観は前者であり、へーゲルのそれは後者でした。

 この方法観の相違というものはなかなか大切な問題でして、唯物史観の理解においても、それを単に土台・上部構造関係でだけで捉えるのは「単なる見方」的な方法観だと思うのです。それに対して、やはり一定の通史観をバックにして、しかもプロレタリアート独裁をその結節点と見ることまで含めて考える見方こそが唯物史観の正しい把握ではないかと思うのです。

 第6項・スターリンはマルクス主義におけるカント的段階

 こう考えてみれば簡単に分かるように、理論と方法を分裂させたスターリンのマルクス解釈はカント的立場に立つものであったわけです。ついでに言っておきますと、ミーチン流のマルクス解釈、これは今日いわゆる正統派の教科書に書かれている代物ですが、それはみな根本的にはカント的立場に立っています。スターリンはその典型でしたが、スターリン批判後もこの点は少しも変っていません。そして、マルクス解釈におけるカント的段階を止揚してへーゲル的段階にまで高めようとした人が梯明秀氏で、それを基本的に完成させた人が許萬元氏です。私はこう見ています。

 ここまで言ったので、誤解を避けるためにもう一言付け加えておきますが、マルクス解釈におけるへーゲル的段階は決して最高の段階ではないのでして、マルクス研究は更にマルクス的段階まで引き上げられ、人民的段階にまで上らなければなりません。そして、これを目指しているのが我々の「生活のなかの哲学」という思想運動なのです。

 第7項・ヘーゲル的「個別・特殊・普遍」観の重要性

 大分横道にそれましたが、最後に、それでは方法を「単なる見方」でなくして、「同時に世界観でもあるもの」にするには、理論的にはどこが問題かと言いますと、やはり、それは個別と特殊と普遍という概念の捉え方だと思うのです。

 カントが普遍と特殊(個別)を悟性的に対立させていたことは、カントが、一般的法則は先天的に与えうるが、特殊法則には更に経験の援用が必要だと言っている所などによく出ています(B版165頁)。そのため、カントの説には特殊法則が含められず、一般法則も深まらなかったのです。これに対してヘーゲルは、「自己を自分で特殊化する普遍」という考え方を発見することによって、この対立を克服するのです。

 この点から見ても、「昭和元禄と哲学」(『生活の中の哲学』に所収)以来、私が繰り返し力説しています「個別・特殊・普遍」についての正しい見方の確立がいかに決定的に重要かが分かろうというものです。

         その2(図式と原則)

 第1項・問題の確認

 今回のテーマは図式論と原則論でした。まずここで確認すべきことは、図式と原則とはどういう関係にあるのかということであり、それと関連しているのでしょうが、前回に主要テーマになりました構想力とここで初めて出てきました判断力とはどう関係しているのか、ということです。

 図式と原則の関係については、○○さんから指摘のありましたように、B版175頁によくまとめられているようですが、この言葉を読んで意味が分かるでしょうか。

 図式とは「純粋悟性概念が使用されうるための唯一の感性的条件」であり、原則とは、「この条件のもとで純粋悟性概念から先天的に生じて、他のすべての先天的認識の根底に存する総合的判断」とされていますが、まあ、簡単に言って、図式を一層具体化したものが原則である、と言ってよいのではないでしょうか。

 ともかく、この図式と原則の項では、認識主観が主観内に予め持っている先入観、つまり方法をもって具体的事例を研究する際、その研究はどのようになされるか、という認識論上の大切なテーマが扱われています。

 第2項・図式とは何か

 そこで、この問題に対する答えとしてカントの出したものが、まず「図式」ということであったのです。例によって、我々はカントの言葉を我々の言葉に翻訳しなければならないのですが、カントの言っている図式とは我々の言葉で言うとどうなるでしょうか。

 その手掛かりとしては、形像と図式の区別が一番よいと思いますが、カントは図式は形像そのものではなくて、「概念を形像化する一般的方法の表象」という言い方をしています(B版180頁)。ここで「形像」とは個々のイメージ、ないし個々の実物が考えられているのでしょう。カントの出している例で言えば、個々の三角形ないし、個々の三角形についての個々の像がそれに当たるのでしょう。カントは対象そのものと、対象についての認識主観内の像とをはっきりは区別していませんが、そこは今は言わないことにしましょう。こういう事ばかり問題にして、「意識から独立した客観的実在」とやらを振り回して得意になっているのが俗流「弁証法的唯物論者」なのです。

 私の考えた所では、この形像と区別された図式とは、典型とか実例とか言われているものであり、我々の言っている所の「普遍として機能している個別」のことだと思うのです。例えば三角形について考える時、たしかに我々は或る一個の、個別的な三角形を頭の中に描いたり、黒板に書いたりして考えるわけですが、その時その個別的な三角形は三角形一般として機能しているわけです。三角形を代表しているわけです。ですから、これがカントの図式に当るものだと思うのです。たしかにカント自身は「図式は形像の中に内在しうる」とは言っていませんが、これはカントの悟性的思考の限界です。しかし、大切な点は、そのようなカントの不十分さではなくして、カテゴリー(方法)の適用の際には図式が要るという形で、自分自身の「個別と普遍を対立させるだけですませる考え方」にあえて疑問を投げかけ、後にへーゲルにおいて基本的に完成される概念的個別への道に一歩を踏み出したことを確認することであり、このような重要な点を現実の中に感じとったカントの偉大な現実感覚を認め、受け継ぐことだと思います。

 第3項・原則とは何か

 続いて、原則論ですが、カントが原則論で展開したことは何だったかというと、私の解釈した所では、恐らく、それはこういうことだろうと思うのです。

 例を第3の原則「経験の類推」の中の第2の原則に取りますと、それは「一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起する」というものなのですが、これをカントが「原則」としたということは、要するに、我々人間はある現象に出会うとすぐにも「その原因は何だろうか」と考える、あるいは「その結果はどうなるのか」と考える、そういう思考上の習慣を持っていますが、そういう習慣がなぜ正しいのか、それを根拠づけようとしたのだと思うのです。そして、そういう普遍性を持った考え方として4つの原則というものを挙げたのだと思うのです。こう捕らえると、一応分るのではないでしょうか。

 第4項・ヘーゲルのカント批判

 そして、それが分かると、今度は、我々がこの原則論を読んで何となく失望することの原因も分かるだろうと思います。つまり、先にも述べましたように、我々はここに「方法の適用の論理」というものを求めて読んだのですが、この希望は肩透かしを食らって、ここに与えられたものはあまりにも自明な「原則」とその証明だったのです。

 カントは、人々によって公理のように認められているものの根拠づけをやっただけで、これらの公理のような原則の内容を吟味して、その理解を一層深めるということはしなかったのです。ですから、カントの原則論によっては、原因と結果についての考え方が深まる、ということは少しもないのです。それに反して、へーゲルの論理学を読むと、原因と結果とは同一のものである、とかいったようなことも分かりますし、第4の原則で扱われている現実性とか可能性とか必然性については、一層深い理解が与えられるわけです。

 そこで思い出されるのがへーゲルのカント批判ですが、へーゲルは「カントは、カテゴリーの吟味といっても、カテゴリーを単に主観的か客観的かという観点から吟味しただけで、それを絶対的に考察しなかった」と言っています(『小論理学』第41節への付録2)。そして、この批判は以上に述べた点から見て、やはり当たっていると言えるわけです。

 しかし、今回この第一批判を読んで分かったことは、カント自身この点に気づいていたということです。その証拠にB版の249頁を読みますと、「私のこの批判の意図するところは、もっぱら先天的かつ綜合的な認識の源泉の究明であって、概念の解明のための分析ではない。概念の解明のためには『純粋理性の体系』を考えている」という趣旨のことを述べています。つまり、これはあくまでも概念の「源泉」の批判ないし吟味であって、概念そのものの解明ではない、というのです。

 第5項・ヘーゲルの偉大さ

 この点でカントを弁護することは出来るのですが、もう一歩突っ込んで考えてみますと、それではカントはなぜ「批判」と「体系」とを分けたのか、そもそもこの両者は分けることが出来るのか、という問題が出てくるのです。そして、ヘーゲルの言いたかったことはまさにこの点でして、ヘーゲルは、概念の吟味はその概念の生成の必然性を示すこと、つまり源泉の吟味と切り離せない、と考えたのです。ヘーゲルは概念を an und fuer sich (アン・ウント・フューア・ジッヒ)に検討すると言っていますが、その an sich(アン・ジッヒ)な検討とはその概念の生成の必然性の吟味であり、fuer sich (フュア・ジッヒ)な検討とは、その他の概念との関係の検討によってその概念の意味を確立することであり、かくして、その概念の限界に達して他の概念に席を譲ることの吟味でした。

 このように、ヘーゲルのカント批判は深い意味で捉えなければならないのでして、この批判が正しかったことは、カントが結局、『純粋理性の体系』を書けなかったことによく現れています。

 第6項・カントの功績

 このようにヘーゲルを見た眼でカントを読むと物足りなさを感じますが、カントの置かれた哲学史上の時点でカントを考えますと、やはりカントは偉大だったと思います。そもそも、それまでの形式論理学に対して、その内容も含めた論理学というものを主張し、それをともかく先験的論理学としてまとめたことだけでも、やはり大きな功績と言えるのではないでしょうか。

 第7項・構想力と判断力

 最後に、構想力と判断力の関係ですが、私にはこれはよく分かりません。判断力の問題は第三批判の主要テーマですが、ここでの判断力は、「規則〔普遍〕のもとに〔個別的事例を〕包摂する能力」と定義されています(B版117頁)。形像を生むのはもちろん、図式を作るのも構想力のようですが、その構想力によって作られた図式を使って、与えられた個別的事例をどの図式のもとに包摂するのかを考えるのが、判断力なのでしょう。ですから、○○さんも言いましたように、この判断力は「英雄やーい」(『生活の中の哲学』に所収)の中でまとめた「個別的判断能力」のことでしょう。

 もちろん判断能力の問題はとても大切な問題で、私も「人を見る眼」(『生活の中の哲学』に所収)の中にまとめてみましたが、あのように判断能力を体系化して理解してみることは大切ですが、一番大切なことは我々が自分の判断能力を高めることであり、そのための方法は何かないのか、ということです。B版の137頁には、実例が判断力を鋭利にするというような面白い話が出ていますが、カントによると、実例は理論的能力の発展にはむしろマイナスだということになるようです。

 人を見る眼というものについて考えてみても、ある程度人生経験を積んでいろいろな人と付き合ってみなければ、判断能力は高まりませんが、付き合う人の数が増えれば増えるだけ人を見る眼が肥えていくかというと、事はそう単純ではないと思います。

 又、後の方の「実例は理論的能力にはマイナスだ」という説も、実証主義的な考えを排するという点では正しい面を持っていますが、こう一面的にも言い切れないと思います。やはりここでも、我々が期待しているものは与えられないわけです。まあ、結局、判断能力を高める特効薬なんてものは、無いのではないでしょうか。

 (『鶏鳴』第20、21号から転載)

 (注) 文中で引用されたテキストはカントの『純粋理性批判』です。


べ一トーヴエンの街を訪ねる

2012年04月15日 | ハ行
                岸浩(きし・こう)

ライン河畔の小都市ボンは、第2次大戦後、ドイツの「仮の首都」として半世紀近い歴史を刻みました。そのボンはべ一トーヴェンの生まれた町としても知られ、中央駅から東へ15分ほどにある生家は、音楽ファンが世界中から訪れます。

でも、ボンにはそれ以外にも見逃せない場所があります。そのひとつが、「アルタ-・フリートホーフ」と呼ばれる墓地です。(略)

ボン中央駅正面口から北へ 300メートルほどのところに、18世紀初頭に設けられた公共墓地「アルター・フリートホーフ(Alter Friedhof)」があります。公共基地というのは教会に墓地を持たない人たちのためにつくられた場所です。樹齢 150年ほどの木々が茂り、今日ではボンの人々のオアシスになっています。

この墓地には有名な人物も埋葬されていて、ドイツの歴史、文化史の証人でもあります。大作曲家べ一トーヴェンの母親マリア・マクダレーナ・べ一トーヴェン、今年没後 200年を迎えた劇作家シラーの妻シャルロッテ、また作曲家ロベルト・シューマンと、彼の妻であり19世紀に名を残した女流ピアニスト、クララのシューマン夫妻、またワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』作曲に大きな影響を与えたマティルデ・ヴェーゼンドンクが夫のオツトーとともに葬られています。(略)

ボン観光の目玉はなんといってもべ一トーヴェンです。首都だった頃に比べると、今日ボンを訪れる人は減っていますが、それでも生家べ一トーヴェン・ハウスを訪れる人は、今も季節を問わず絶えません。かつては東洋人の訪問者というと圧倒的に日本人が多かったのですが、最近は韓国人や中国人の訪問者が激増しています。これも韓国、中国でのヨーロッパ音楽の受容の現実を反映しているのでしょう。

ところで中央駅正面口を出てべートーヴェンの生家へ向かう途中に、ミュンスター・プラッツという広場があります。この広場に面した中央郵便局を背に、べ一トーヴェンの立派な銅像が建っています。この銅像は生誕75年を記念して、リストの提唱で建てられたもので、今年で建立 160年になりました。1845年8月12日の除幕式は、英国のヴィクトリア女王、プロイセン国王フリートリヒ・ウィルヘルム4世、作曲家のベルリオーズなど、ヨーロッパの各界著名人が臨席し、華やかに行われたといいます。

この除幕式に合わせて、8月10日から13日までの4日間、第1回のべ一トーヴェン音楽祭が開かれ、リストとシュポーアの企画で、べ一トーヴェンの全交響曲、そして合唱曲や室内楽のコンサートが行われました。

160年目の今も、べ一トーヴェン音楽祭はあります。規模は大きく発展し、毎年9月初旬から10月初旬にかけて行われていて、今年の音楽祭は9月8日から10月2日まで、25ケ所で64の催しが計画されています。

 ・これは2006年のドイツ・サッカーW杯に因んでasahi.comに掲載されたいくつかの文章の1つです。

臨時校長会を笑う

2012年04月13日 | カ行
         お知らせ

sky drive「絶版書誌抄録」の中に下記のものをアップしました。矢印の右側はそのアップした場所です。

関口存男編集「独文評論」創刊号(1933年10月号)→「独文評論」
同、第3号(1933年12月号)→「独文評論」
 こんな貴重なものを或る人が入手し、寄付して下さいました。

宮本武之助著「波多野精一」日本基督教団出版部、1965年→「その他」
 波多野氏の、多分、唯一の伝記でしょう。

小島恒久著「マルクス紀行」法律文化社、1965年→「その他」
 マルクスゆかりの地を訪ねた紀行文です。こういう事をしてこれだけの成果を挙げた人も少ないでしょう。

        臨時校長会を笑う


 01、読売新聞の記事

 教職員の不祥事が相次ぐ中、県教委は03月22日、静岡市内で臨時校長会を開き、安倍徹・県教育長が「県全体の問題として、校長全員がスクラムを組んで対処してほしい」と再発防止を訴えた。その後、報道陣の取材に応じた安倍教育長は「(現状は)非常事態。オール静岡で臨むことが校長の責務」と話した。

 不祥事を受けての臨時校長会は昨年10月に続いて2回目。県内の公立高校の校長ら約120人が参加した。

 会の冒頭、安倍教育長は「この年度末に臨時校長会を開かなければいけないのは非常に残念」とした上で、「たった1つの不祥事が自分の人生に、そして静岡県全体に、ひいては教育界全体に及ぼす影響がどれくらい大きいのか、(現場の教職員に)訴えてもらいたい」と呼びかけた。

 続けて、「『自分の学校では起きなかった』と安心する気持ちもあるかもしれない。しかし、これは県全体の問題。校長先生全員がスクラムを組んで問題に対処する固い決意を持ってもらいたい」と力を込めた。

 訓話の後、報道陣の取材に応じた安倍教育長は「教員一人ひとりの心に落ちるような訴えかけを、校長からしてもらいたい」などと語った。出席した浅羽浩・県高等学校長協会会長(静岡高校校長)は「緊張感のない、使命感に欠ける教員がいる。教職員一人ひとりの心にブレーキをかける力を育てていく以外にない」と神妙な顔つきで話した。

 県教委によると、20日に県立袋井高校の教諭が窃盗未遂で逮捕されるなど、県内で今年度逮捕された教職員は8人に上っている。
(2012年3月23日 読売新聞)

 02、感想

 不祥事が起こると「臨時校長会」を開いて、教育長が何かの話をして、「再発防止の徹底」を図ります、と発表する。これが「教育行政に精通した」教育長のいつものやり方です。不祥事は起こり続けています。誰も無くなるとも減るとも思っていません。

 もちろん当事者の教育長も校長も何も変わらない事は百も承知です。定年まで「無事に」過ごして(消化試合をして)1000万円を超える年俸をもらい、何千万円もの退職金をもらい、最高の年金をもらう事だけが目的なのです。

 知事は「教育行政には構造的な問題がある」とは発言しましたが、その「構造的な問題」が何なのかは、一言も言っていません。分からないからです。研究しないからです。そして、この4月に「安倍徹氏の教育行政は堅実である」と言って再任を認めました。

岡田芳郎さんの楽隠居

2012年04月12日 | タ行
 NHKの「ラジオ深夜便」2012年2月号に岡田芳郎さんの話の文章化したものが載っていました。題して「定年人生をこころ豊かに」。

 前書きみたいな形で紹介文があります。まずそれを引きます。

 ──300年ほど前、尾張藩の重臣に横井也有(よこい・やゆう)という人がいました。也有は御用人、大番頭(おおばんがしら)、寺社奉行を務め、53歳で職を辞すると、82歳で亡くなるまで風雅な隠棲(いんせい)生活を送っています。死後出版された『鶉衣(うずらごろも)』は江戸俳文の最高峰とされ、充実した第二の人生を願う現代人にも示唆に富む内容です。

 エッセイストの岡田芳郎(おかだ・よしろう)さん(77歳)は、1956(昭和32年)、大手広告代理店に入社。企画一筋で活躍しました。定年退職後、『鶉衣』を現代文に訳し、『楽隠居のすすめ』を出版した岡田さんが、自身の第二の人生に引き寄せながら、也有の魅力を語ります。[聞き手 佐野剛平]──(引用終わり)

 こういう事で、表題から察せられる内容がインタビューという形で書かれています。最後のページに「岡田さんの人生をこころ豊かに保つヒント」が囲み記事として載っています。それを引きます。

 ──なんとなく元気がないときや、めげているとき、私はユング(1875~1961。スイスの心理学者)の「幸福の5条件」を思い起こし、チェックしてみることにしています。

  ①心身ともに健康であること。
  ②朝起きて、今日やることがあること。
  ③美しいものを見て美しいと思えること。
  ④楽しい人間関係が保てること。
  ⑤ほどほどにお金があること。

 おもしろいのは、②でしょうか。佐藤一斎の「清忙」しかり、洋の東西を問わず、人間にとって、その日やるべきことがない状態は苦痛以外の何物でもないのですね。心に張りを持つことがいかに大事か、ということです。──(引用終わり)

 私もこのユングの5条件は参考になると思います。しかし、岡田さんのこの取り上げ方には賛成できません。大前提である第5条件を避けているからです。

 たしかに第2条件は「面白い」かもしれません。こういう事に気づくのはさすがに心理学者だと思います。かつて、朝起きて、することが無い苦しみを味わった経験のある私には身につまされる話でさえあります。

 しかし、しかし、です。この5条件を見て、②だけ取り上げて済ます態度には賛成できません。今の日本の定年後の人、あるいは年寄りの人全体を見て、一番の問題は何でしょうか。貧困です。これこそが第1の問題です。これを知らないとしたら、無知も甚だしい、と言わざるを得ません。

 同じ雑誌の4月号で樋口恵子さんはこう言っています。「特に今、高齢女性の貧困が目立ってきております。……今80歳前後の方ですと、現在の制度では、老齢基礎年金を満額もらえたとして、月に6万5000円ほどです。これでは生活できませんね。日本の高齢女性の方にはそれ以下の方も多く、家族と暮らしているか、1人暮らしかにかかわらず、年収120万円以下の方は、男性より女性の方が多いのです。」

 ①から④は生活の大前提たる⑤「ほどほどのお金のあること」の上に成り立っているのです。この前提のない仲間(同年齢の人)が全体の3割くらいに達すると言うのに、その人たちの事を考えないで、「楽隠居」していられる人の神経を疑います。

 先ず「ほどほどのお金」のない人のために何かをして、その上で外の事を考えるべきだと思います。この深夜便などに出演される方には「ほどほどのお金」の無い人はいないようですが、時々寂しく思うことがあります。

 もっとも岡田さん自身は、言わないけれど黙って何かをしているのかもしれません。それならそれで立派な事だとは思います。しかし、それでも一言何かを言った方が好かったと思います。

         お知らせ

sky drive「絶版書誌抄録」の中に下記のものをアップしました。矢印の右側はそのアップした場所です。

関口存男編集「独文評論」創刊号(1933年10月号)→「独文評論」
同、第3号(1933年12月号)→「独文評論」
 こんな貴重なものを或る人が入手し、寄付して下さいました。

宮本武之助著「波多野精一」日本基督教団出版部、1965年→「その他」
 波多野氏の、多分、唯一の伝記でしょう。

小島恒久著「マルクス紀行」法律文化社、1965年→「その他」
 マルクスゆかりの地を訪ねた紀行文です。こういう事をしてこれだけの成果を挙げた人も少ないでしょう。


2011年の給与

2012年04月11日 | カ行
01、自治体職員の年収

 兵庫県芦屋市の職員給与が年収758万円(推計)で1位。日経が総務省の発表した数字で推計した。手当が月15万5000円、ボーナスが年間169万円と多いのが原因。

 上場企業は社員の平均年収の開示が義務付けられている。自治体では開示している所は少ない。大阪市のように、局長級、課長級、係長級と分けて発表している所は例外。

 いわゆるラスパイレス指数は手当とボーナスを含んでおらず、実体とかい離している。
 (日経、2012年04月11日。磯道真の記事の要旨)

02、NHK職員の年間報酬

 3月下旬の衆院総務委員会では、NHK職員の年間報酬がサラリーマンの平均年収の4倍、約1780万円に上ることが問題視された。(日刊ゲンダイ、2012年4月6日)

03、フリーター

 35~44歳の高年齢フリーターが50万人を突破した。(SPA)

04、感想

 給与はかつて鹿児島県阿久根市で市長の竹原さんが発表したような形で、即ち個人名だけは伏せて、決算に基づいて(第1条件)、全職員(全社員)について(第2条件)、年収(給与、諸手当、時間外手当、期末・勤勉手当毎の数字と共に)と共済費(保険などの会社負担分)の総額を(第3条件)、分かりやすい一覧表にして(第4条件)、発表するべきだと思います。

 阿久根市の発表でも非正規職員は除外されていたようですが、本当は非正規職員も含めるべきです。又、教員(正規、非正規)は県の担当だからか、発表されませんでしたが、教員の給与も同じように発表するべきです。教員の給与こそ問題です。

 退職金も年金もそのような形で発表するべきでしょう。「元校長の年金は事務次官のそれより多い」ということが問題視されたことがあったはずです。校長の年収は、みな、1000万円を超えている事を皆さんはご存知ですか。

              関連項目

「給与」の小目次

安倍晴明

2012年04月09日 | ア行
                        歴史研究家・野呂肖生
 
 安倍晴明(あべのせいめい)は摂関政治が華やかに展開していた平安中期の陰陽師(おんみょうじ)である。当時の貴族たちは運命や吉凶を気にかけて怨霊(おんりょう)におびえ、除災招福の祈祷(きとう)に頼る者が多かった。これにこたえて吉凶を判断し、呪術をおこなう人々が陰陽師で、晴明は自他ともに許すその第一人者だった。

 晴明の逸話は「宇治拾遺物語」「今昔物語集」「古今(ここん)著聞集(じゅう)」などに残されている。式神(しきがみ)と呼ばれる鬼神を操って身の回りの世話をさせていたとか、嵯峨の寺で若い僧たちの求めに応じて、草の葉を投げただけで池のほとりの5、6匹の蛙をおし殺したとかの話である。

 時の最高権力者、関白藤原道長にからむ話もある。ある時、奈良から道長のもとへ瓜(うり)が送られてきた。晴明がこの一つに毒気があると占ったので実際に割ってみると、中から小さい蛇が出てきたという。

 後につくられた話もある。道長は自ら建てた法成寺(ほうじょうじ)を毎日のように訪れたが、ある日、連れていった白い犬が前で吠えたり、衣の裾をくわえたりして道長の邪魔をした。急いで呼ばれた晴明は沈思すると、呪詛者の存在を予言して地面を掘らせた。出てきた土器には朱色の砂で呪いの文字が記されていた。晴明は紙で白鷺(しらさぎ)をつくると空に投げ上げ、鷺は南方へ飛んで晴明と張り合っていた陰陽師芦屋道満(どうまん)の足元に落ちた。道満は道長の政敵の依頼で呪詛したことを白状し、故郷の播磨国(兵庫県)へ流されたという。

 それより千年、京都市上京区に晴明神社があるが、驚かされるのは参拝者が多いこと、それも若い女性が目立つことである。科学の進んだ現代だが、今も不安の時代なのだろうか。
   (朝日、2012年03月08日)

カエサル(シーザー)

2012年04月08日 | カ行
                          河合塾講師・青木裕司

 帝政ローマの基礎を築いたユリウス・カエサルは貧乏貴族の出身だ。20代前半で海賊に拉致され、身代金を要求された。要求額の少なさに腹を立て「もっと上げろ」と迫り、解放後、即座に海賊を退治した。

 美男子、不細工、痩せぎす、肥満など彼の容姿には諸説あるが、大変もてたのは間違いない。上流階級の多くの女性が彼に誘惑された。部下の兵士からは愛着をこめて「女たらし」と呼ばれ、カエサル自身もこの称号を気に入っていた。

 前1世紀のローマは危機の連続。元老院が中心の共和政は形骸化し、時代は英雄を求めた。カエサルはポンペイウス、クラッススと共に元老院に対抗する三頭政治を進めた。

 民衆の支持を得るための手段の一つが外征だった。現在のフランスに遠征、平定する。彼自身の筆による「ガリア戦記」は簡潔明瞭な文体でラテン語散文の白眉とされる。

 クラッススが西アジアで死に、ポンペイウスにも勝ち、ローマの実権を握った。下層民には気前よく「パンとサーカス(娯楽)」を提供、エジプトも事実上支配下に置き、地中海世界をほぼ統一した。新しくつくった暦の月には、自分の名前さえつけた。これがJuly(7月)だ。

 こうした行いは元老院共和派の反発を招き、暗殺された。享年55。暗殺の中心人物プルートゥスの母はカエサルの愛人。プルートゥスも彼の息子だったという説がある。

 カエサル後に実権を握った養子オクタヴィアヌスがローマ帝国初代皇帝と称されるが、カエサルの仕事を仕上げたにすぎない。広く知られる通り、ドイツ語のカイザーなど、カエサルの名は「皇帝」の語源となった。   (朝日、2012年03月29日)

 感想・「ジュリアス・シーザー」(Jurius Caesar)という言い方は英語のようです。ドイツ語では「ユーリウス・ツェーザル」(Jurius Caesar)。フランス語では「ジュール・セザール」(Jules César)。

正岡子規

2012年04月06日 | マ行
                     歴史研究家・河合敦

 俳人・歌人の正岡子規は、30代の若さで脊椎カリエス(結核性脊椎炎)のため寝たきりになった。だが子規は「病気の境涯に処しては、病気を楽しむといふことにならなければ、生きて居ても何の面白昧もない」(『病床六尺』)と述べ、死の直前まで生を満喫しようとした。

 亡くなる1月半前に「このごろはモルヒネを飲んでから写生をやるのが何よりの楽しみとなつて居る……朝はモルヒネを飲んで蝦夷菊(えぞぎく)を写生した……午後になつて頭はいよいよくしやくしやとしてたまらぬやうになり、終(つい)には余りの苦しさに泣き叫ぶ程になつて来た。そこで服薬の時間は少くも八時間を隔てるといふ規定によると、まだ薬を飲む時刻には少し早いのであるが、余り苦しいからとうとう二度目のモルヒネを飲んだのが三時半であつた。それから復(また)写生をしたくなつて忘れ草といふ花を写生した」(同)と書いている。

 すでにモルヒネを飲まなくては、日常生活も送れない状況になっていながら、あふれ出る創作意欲は驚嘆に値する。しかも「写生ハ多ク モルヒネヲ欽ミテ後 ヤル者卜思へ」と書き付け、己の境遇を諦観している。なんと子規は、死ぬ12時間前まで苦しい息の中で旬をひねりつづけた。仰向けに寝て痩せた手で筆を握り、妹に画板を持ってもらい、弟子の河東碧梧桐に墨をついでもらいながら最後に3句をしたためた。

   糸瓜(へちま)咲きて痰(たん)のつまりし仏かな

 糸瓜水は痰を切るので、結核だった子規も愛飲していたのだろう。もちろん「痰のつまりし仏」とは自分自身だ。すでに魂は身体を離れ、死にゆく己の姿を冷静に見下ろしていたようだ。見事な最期であった。
      (朝日、2012年03月22日)

医道審議会

2012年04月05日 | ア行
 医療ミスを繰り返す「リピーター医師」として、被害者から医師免許の取り消しを申し立てられていた三重県の男性医師(71)が、03月19日に厚生労働省から戒告処分を受けた。行政処分の中で最も軽いものだ。申し立てから処分まで9年かかり、処分理由もほとんど明らかにされない。

 「なぜ戒告なのか。軽すぎる」。妻や子どもを亡くした被害者は不信感を募らせている。

 麻酔薬の投与ミスで妻を亡くした伊藤永真さん(46)ら3人は2003年4月、産婦人科医院を営んでいた塩井澄夫医師が3件の医療過誤を起こしたとして、厚労省に処分を求めた。2007年6月には、同じ医院で子どもが死産となった若林一道さん(53)も申し立てた。「免許を取り消さないと被害者が増えかねない」と訴えた。

 刑事罰が確定したケース以外では厚労省が調べて事実認定をする。昨年9月、4件の中で刑事事件にもなった伊藤さんの妻のケースだけで戒告処分にした。

 4件の民事訴訟はすべて和解で決着。厚労省は、記録をそのまま事実として認められないと判断した。男性医師は聞き取りに過失を否定した。若林さんらの2件について、診療上の怠慢があったと認定した。

 しかし、厚労相の諮問機関の医道審議会が戒告処分とした理由や、議論の中身は公表されない。厚労筈は「手順を尽くして調べ、議論を尽くした結果」としか答えない。

 情報公開に詳しい清水勉弁護士は「医道審での議論は、医療の受け手の利害に直結する。会議の中身は相当程度、公表されるべきだ」と話す。「処分まで長期間、放置するのはおかしい。すみやかに研修を行い、医師の水準を高める制度が必要」と指摘した。

 一方、塩井医師は昨年夏に医院を閉じ、いまは診療はしていないという。朝日新聞の取材に対し、「厚労省もミスと認めたわけでないからこの処分になったのだろう。結果が思わしくなかったことは申し訳なく思っている」と述べた。
  (朝日、2012年03月19日。小林舞子、月舘彩子)

揚水発電

2012年04月04日 | ヤ行
 揚水発電は、ほぼ一定の出力で運転される原発を補完して電力需給のバランスを取る役目を負っている。しかし、天候や日照などで発電量が変わりやすい風力や太陽光など再生可能エネルギーの普及とともに、その「蓄電」価値が改めて注目されそうだ。

 宮崎市から車で約1時間半の山あいにある九州電力小丸川(おまるがわ)発電所(宮崎県木城町)。現地を訪ねた03月21日、地下400㍍に備え付けた出力30万㌔ワットの発電機の1台が午後1時直前、急にうなりを上げ始めた。

 昼休みを終えた工場などが一斉に操業を再開すると電力需要が急に増えることがあるという。「それに備えて休止していた発電機を起動させました」。九電宮崎電力センター西都工務所の伊達和史課長が説明してくれた。

 だが10分もたつと、轟音は迫力を弱め、元の静けさに戻った。「思ったほど電気が使われなかったので止めたというわけです」

 揚水発電所の基本は水力発電所と同じで、ダムから落ちてくる水の力で水車を回して発電する。だが電力を使ってポンプを回し、水をくみ上げる(揚水する)機能もあり、くみ上げた水の形でエネルギーをためられるのが特徴だ。

 深夜の余った電力で山の上に設けたダムまで水をくみ上げ、昼間の需要ピーク時には放水して発電する。国内では需要に関係なく夜も運転する原発の電気の余りを昼間に回せるよう、1970~90年代に多くが運用を始めた。全国で40数カ所ある。

 揚水発電は、原発や石炭火力などと違って放水量の調整などで短時間に発電量を変えられる。寒暖などによる需要の見込み違いを軌道修正したりするのも容易だ。

 日本では90年代前半から、放水量で発電を調整する基本的な機能に加え、モーターの回転数を変えられる可変速揚水発電システムの導入が進んでいる。2007年に運転を開始した小丸川もその一つで、昨夏に4台目の発電機が設置されたことで、わずか2分半で発電量ゼロから原発並みの最大出力120万㌔ワットまで上げて7時間連続運転できるようになった。

 水力発電機メーカー、日立三菱水力の名倉理(なぐら・おさむ)・可変速センター長によると、それまでは水のくみ上げ速度が一定だったので夜間に電力をためるペースを変えられなかったが、可変速型は変化がつけられるようになった。昼間の発電量も素早く調整可能だ。

 「刻々と変わる再生可能エネルギーの発電量を補完できる。需給バランスが取れれば、再生エネが増えても周波教が安定した質のいい電気を送れる」と、名倉さん。

 例えば風力や太陽光の発電量が瞬時に落ちても、昼なら回転速度を上げて揚水による発電量を増やし、夜間なら水のくみ上げ量を減らして、ためる電力量を抑えるという具合だ。

 可変速型の発電機は、従来機に対して約3倍の価格といわれるが、こうした効果が欧州などから注目され、建設が始まっているという。増える再生エネヘの対応とともに、発送電分離によって、安価な深夜電力を利用した昼間に電気を高く売るビジネスが生まれる可能性もある。

 揚水発電は揚水時に使った電気の約7割しか発電できないことに加え、大規模なダム開発を伴うことから自然保護の問題なども抱える。国内では建設中の発電所を除くと新設は難しいとみられている。

 それでも、高橋洋・富士通総研経済研究所主任研究員は「原発のために使ってきた現存の揚水発電の蓄電機能をきちんと使えば、再生エネのためにもそのメリットは大きい」と話す。 
 (朝日、2012年03月28日。森治文)

          関連項目

再生可能エネルギー一覧