3月16日の浜松青年会議所主催の立会演説会(正しくは公開討論会。以下同じ)に出たとしたら、次の話をするつもりでした。
記(なぜ浜松発「真日本語辞典」か)
私の公約はブログに発表してある通りで、全体はそれを読んでいただくことにして、今日はその中にある「浜松発『真日本語辞典』を作りたい」という「政策の方向」について、なぜそうなのかを説明します。
それを説明するには、「今日のこの立会演説会は偽善である」ということの説明から始めるのが適当だと思います。こんな事を言うと皆さん、立腹されるかもしれませんが、まあ怒らずに最後まで聞いて下さい。感情的になったら議論になりません。
この命題を考えるためには、偽善とは何かということを正確に知っておく必要があります。では辞書を引いてみましょう。新明解国語辞典を引きますと、「うわべを飾って、心や行いが正しいように見せかけること」と書いてあります。他の辞書でもほとんど同じです。
さて、この定義を尺度にして、今日のこの立会演説会が偽善であるか否か、判断できるでしょうか。「うわべを飾って」と言いますが、今日の会の「うわべを飾って」とはどういう事になるでしょうか。分かりません。「正しいように見せかける」と言いますが、この会は「正しくないもの」なのでしょうか。
辞書の定義では現実を正しく考えるのに役立たない、ということが分かります。では偽善の正しい定義はどうなのでしょうか。
かつて18世紀のフランスの啓蒙思想家の1人であるエルヴェシウスは「偽善的な道徳家というのは、一方において国を危うくするような大罪悪〔人〕には無関心を装いながら、他方において私的な罪悪〔人〕には憤激をもってすることで、それと分かる」と言ったそうです。つまり、この考えでは、偽善とは「大きな悪を隠すための小さな善」ということになります。
ではこの定義で今日のこの会を考えて見ましょう。この会は「善」でしょうか。もちろん善です。善い事です。市民が市政に関心を持ち、市長選挙で適切な選択の出来るようにしようとしているからです。
ではこの善は「大きな善」でしょうか。これを考えるためには、現在の浜松市政全体を考慮して、どころか研究して、現在の浜松市政の根本問題は何かを明らかにしなければなりません。ですから人によって意見が異なるでしょうが、私の考えでは、現在の浜松市政の根本的な問題は市長が適切な活動報告をせず、市民と対話をしないことです。第2の根本問題は教育長がそうしないことです。第3以下の問題は、市議がそういう事をしないことであり、学校長がそうしないことです。
従って、市民のするべき事は、第1には市長に向かって「ブログを出して週間活動報告をせよ」と要求することです。第2に教育長に対してそういう要求をすることです。第3に、「市議に通信簿を付ける会」を始めることです。第4に、学校ホームページ、つまり校長を評価する会を作ることです。
もしこれらが一番重要な仕事だとしますと、これらの仕事に比べてこの立会演説会が「小さな善」であることは簡単に分かると思います。つまり、この立会演説会は「大きな悪(根本的な善をしないこと)を隠すための小さな善」だと分かるわけです。
譬えて言えば、この立会演説会は「試験前の一夜漬け」みたいなものです。一夜漬けをして「自分は勉強家だ」と思うとしたら、とんでもない間違いだということはすぐに分かります。勉強というものは毎日こつこつとするべきものです。
市政に関する関心も同じです。文字通り「毎日」関心を持つのは難しいでしょうが、出来れば毎週1回、市政をチェックする日を作って「継続的に」関心を持つべきでしょう。市長の報告を読むとか、教育長の報告を読むとか、市議に通信簿を付ける会を作るのは(静岡県には1つもないので)特に立派ですが、自宅のある学区では拙いとするならば隣の学区の学校でも継続的にチェックするのも有意義だと思います。
百歩を譲って、これらを要求するのは重すぎるとするならば、最低でも「山崎副市長の週間活動報告」くらいは必ず読むべきです。これなら出来るでしょう。この報告はとても有益です。これがあるだけで市長のダンマリ行政の欠陥が随分補われています。それなのに、これを読む市民が非常に少ないのはどうした事でしょうか。ページ・ビューはいつもの日は2ケタで、新しい記事をアップしたときだけようやく3ケタになりますが、それとても200を超えることは稀です。市民がこんな状態では浜松市政は好くならないでしょう。
とにかく「継続的に」することが一番大切です。ですから、逆に継続的にしないで、選挙の前だけこういう会を主宰したり、それに参加したりして、「自分は意識の高い市民である」と自惚れるのはいただけません。浜松青年会議所に最大の責任がありますが、参加している皆さんも無自覚であるとはいえ、褒められたものではありません。この偽善の定義では、本人の自覚の有無は問題になっていないからです。
さて、以上の事から何が分かったかと言いますと、第1に、言葉の正確な定義は現実を正しく考えるのに役立つということです。第2に、辞書の説明は必ずしも適切ではないということです。
しかし、たった1つの例では不十分だと言う意見もあるでしょう。そこで、別の例を出します。それは「募金」という言葉です。私は、辞書を見る時には、原則として、「募金」と「逸話」を見ます。「募金を集める」という言い回しについて取り上げているか、「有名な逸話」という言い方について説明しているかを調べます。見た辞書は全て落第でした。しかし、最近、「明鏡国語辞典」(北原保雄編集)の第2版が出て、ついに「募金を集める」が取り上げられました。
そこには、募金の本来の意味である①「寄付金などを一般から集めること」という意味のほかに、②「寄付金そのもの」の意でも使われる(募金を集める)、また③「寄付金を出す」意で「募金する」とも言うことが書かれています。
これを読んだ時、「ようやく気づいたか」と思いました。しかし、その説明を読んで疑問に思いました。②については、「主催者(募金活動をする人)の言い方」とし、③については、「主催者の言い方を受けて言ったもの」といった説明があったからです。
③まで気づいているのには驚きましたが、この説明はいただけません。文法研究の1原則である「同じ型の現象を集めて考える」が、忘れているのか知らないのか、実行されていないからです。その場で思いついた「説明」でごまかしたようです。専門家は「分からない」と言うのを恐れるようで、学校教師でもそうですが、何か聞かれて、知らないと、その場逃れの返事をする人がいます。感心しません。
北原さんという人は文法の問題にも発言している人ですが、「日本語文法」といったまとまった本は書いていないと思います。
お断りしておきますが、以下で「間違い」というのは「本来的でない用法」くらいの意味に取って下さい。多くの人が「間違った」使い方をするようになると、間違いではなくなるのが言葉の世界ですから、「間違い」と決めつけるのは慎重にするべきでしょう。しかし、分かりやすさを考えて、ここでは「間違い」という用語を使います。
この「募金を集める」と同型の「間違い」を集めますと、私の気づいているのは「注目を集める」「給水を取る」「受注が殺到する」です。
「注目を集める」とか「注目が集まる」とかは、皆さんは「間違い」と言われるとびっくりなさるでしょう。完全に定着していますから。「給水を取る」がおかしいのは分かるでしょうが、マラソンの生中継を見ていると、盛んに使われています。「受注が殺到する」は、ホンダのインサイトが発売された時、日経新聞で見ました。最近、「受注を獲得する」も見ました。今後、増えて行くでしょう。
では、この4例に共通の点は何か。「寄付金を集めること」とか「人々の関心を引くこと」とか「水を供給すること」とか「注文を受けること」とかいった「動作を表す名詞、これは文法用語で『動作名詞』と言うのですが、それをその動作の対象自身の意味に転化して使っている」ということです。このように4つもあると、今後増えて行くのではないかと思われます。
さて、この「募金」の例で何を言いたいかと言いますと、言葉についての知識は辞書的な知識と文法的な知識とに大別されるのですが(ですから外国語を学ぶ時は辞書と文法書とを揃えるのです)、両者は厳密に分けられているのではなくて、関係もあり、ここのように辞書的な問題を文法的な知識で説明しなければならないこともある、ということです。逆に、文法書の中に辞書的な知識が書かれている場合もあります。
とにかく、このように辞書には多くの間違いがありますし、それより重大な事は見落としている事が多すぎるという事です。辞書を編集する程の学者ならまず間違いなく朝日新聞は読んでいるでしょう。NHKのニュースも聴いているはずです。それなのに、それをしていれば、「おかしい」と気付かなければならない言語現象に気づかないのが不思議です。
辞書というのは学者の戯れではありません。日本語生活で起きている言語現象を考えるのに役立たなければなりません。それなのに、役立たない事が多すぎるのです。そして、こういう事に気づいている人が見当たらないのです。ですから、我々が浜松で「真日本語辞典」を作る必要があるのです。
これを学校の先生を中心にしてその他の賛同者も含めてネット上に作って行くとどういう好い効果があるでしょうか。市民の日本語能力が高まります。もちろん学校の先生の日本語能力も高まります。それだけでなく、学校の先生が「研究するとはどういう事か」を学びます。これが大切な点です。今の大学では「本当の研究」をしないで卒業する人がほとんどです。先生になってから自分で研究を続ける人はごくわずかです。これでは困ります。先生が何かを研究していると、それが授業ににじみ出てくるのです。していないと、にじみ出てくるものがないことになります。
この我々の作る辞書は、以上の事だけでなく、漢字の読み方とかアクセントの問題にも考える材料を与えなければなりません。
漢字の読み方はルビを振れば示すことが出来ますが、私の考えているのは「ブログを使って辞書を作る案」ですから、問題です。「青空文庫」には「総ルビ」の文章も載っています。ですから、ルビを付ける技術はあるのですが、それをブログで簡単に使えるようにしてほしいと思っています。
総ルビがなぜ大切かは、日本語を学ぶ外国人が増えているからだけではありません。日本人でも間違えます。それだけではありません。漢字の読み方については、そもそも例えば「大」を「だい」と読む場合と「おお」と読む場合を分ける一般的基準は何かという問題すら自覚されていません。これは「マキペディア」で「大」と「無」でも参照してください。
アクセントについて簡単に触れます。これも方言によって異なるだけでなく、時代と共に変化しています。ですから、例えば「ドラマ」を今では多くの人が「真面目」と同じように平板に発音しますが、かつては「ド」を高く発音したものです。NHKのアナウンサーの発音も二手に別れています。
ですから、我々の辞書では、「ドラマ」の項に「発音1」として、「1970年ころまでの発音」(と言っても、私は今でもそう発音しています)という説明をつけ、そこをクリックするとその発音が聞けるようにするべきです。同じく「発音2」として「1970年以降に若い人たちの間で使われ、今では一般にも広まった発音」という説明を付けて、そこをクリックすればそれが聞けるようにするのです。これもブログでするにはまだまだ技術の発展を待たなければならないでしょうが、目標を言っているのです。
と言いますのも、日本語のアクセントは高低アクセントですから、紙の上で示すのが難しいからです。たしかに多くの辞書はそれなりの工夫をしてアクセントを教えてくれていますが、やはり分かりにくいです。内容的にも、複数のアクセントの説明はないと思います。我々の辞書では「文のアクセント」も聞けるようにするべきでしょう。
こういう辞書は無限と言っていい程の内容がありますから、紙の辞書では無理です。ネットこそそれに向いています。しかも、ネットなら多くの人の協力で作れますし、どんどん新しい事を追加できますし、間違いを訂正できます。
こういう本当の「日本語辞典」は他の国語(個別言語)の辞書の在り方にも影響を与えるでしょう。即ち、浜松市が世界でも日本でも「名誉ある地位」を占めることになるでしょう。
PS
時間が余ったら、なぜ「独自に副教本を作るのか」を説明する予定でした。しかし、これは既に「
予習と復習」というブログ記事で説明しました。