最近、朝日新聞夕刊の「人生の贈りもの」欄に立花隆が取り上げられました。この欄はかつては5回で完結していたと思いますが、今年からは(?)一人について6回以上のスペースを割くことも当たり前になってきています。それにしてもせいぜい10回くらいが普通でしたのに、立花隆については14回だか15回も連載したのには驚きました。さすがに「知の巨人」と言われている人です。
しかし、立花の「半生」を聞くならばどうしても触れなければならない2点が落ちていました。一つは、日本共産党への批判と相手からの反批判です。もう一つは、立花の評論活動への批判に対して立花が応えない事です。立花批判には私の知っているだけでも「立花隆の無知蒙昧を衝く」(宝島社)と「立花隆『嘘八百』の研究」と「立花先生、かなりヘンですよ」の3つがあります。
ここで考えておかなければならないことは、批判に対して論者は絶対に応えなければならないか、という問題です。もちろん、答えは「否」です。応えなくてもよい批判もたくさんあります。内容が低級である場合とか、批判の仕方が間違っているとか無礼であるとかです。また、結構あるのが、批判者が「自分が世間から相手にされないので」、他者批判をして、反論を求めている場合です。
しかるに、前記の批判書はいずれも軽率なものではなく、各界の実力者が、あるいは大学生がまじめに立花を検討したうえで批判したものです。これにはやはり応えなければならないと思います。
それなのに立花は応えていないのです。これは不誠実であり、正しくないと思います。世間はこういう「批判に対してまじめに応えない人」に対しては、しかるべき態度をとらなければならないと思います。マスコミなら、そういう論者には発言の機会を与えないとか、機会があった場合には「なぜ批判に応えないのか」と質問するべきだと思います。
私に知っている人では、こういう「批判に対してまじめに応えない人」は立花隆と長谷川宏です。それなのに朝日新聞はこの両者にインタビューをしたりしています。そして、その際、「なぜ批判に応えないのか」という質問をしていないのです。
批判に対して反論はしているのですが、その相手が自分と同じ土俵に立っているものだけで、根本的に違う批判は黙殺している人もいます。私の知る範囲では、許萬元がそれに当たります。許萬元は創風社版の『弁証法の理論』上巻への「まえがき」の中でそれをしています。つまり、自分と同じように喫茶店で談論風発する材料としてのヘーゲル研究(酒肴哲学と命名したいです)をしている人たちからの批判に対しては反論をしているのですが、この本(青木書店刊『ヘーゲル弁証法の本質』)を最も広く深く読み込んで評価しかつ批判した拙稿「サラリーマン弁証法の本質」(『哲学夜話』に所収)は黙殺しているのです。
論争は民主社会の大きな武器ですから、我々は、それを正しく使わなければならないと思います。そして、応えるべき批判に対して応えない人に対してはしかるべき対応をするべきだと思います。また、その「しかるべき対応」をしない人やマスコミに対しても「しかるべき対応」をしなければならないと思います。