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マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

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ながく、牧野紀之の仕事に関心を持っていただき、ありがとうございます。 牧野紀之の近況と仕事の引継ぎ、鶏鳴双書の注文受付方法の変更、ブログの整理についてお知らせします。 本ブログの記事トップにある「マキペディアの読者の皆様へ」をご覧ください。   2024年8月2日 中井浩一、東谷啓吾

「概念の価値の吟味」の現実的意味(東谷 啓吾)

2022年06月20日 | カ行
<はじめに>
 「マキペディア」の読者の皆様、はじめまして。東谷啓吾(ひがしたにけいご)と申します。
牧野先生のもとで2年ほど、認識論やドイツ語の勉強を集中的に行っていました。現在はドイツのハイデルベルグにて、歴史学や文献学、語学などの勉強を通じて「歴史認識の方法」を思想的に追究しています。牧野先生からの助言を得て、今月から「マキペディア」にて定期的に論文を発表させて頂くことになりました。最低でも月2回程度の頻度で投稿できるようにやっていきます。ご一読くだされば幸いです。

 今回は最初なので、自分の思想的行動の出発点を示せればと思い、書きました。甚だ序説的な文章で、議論の展開として不十分ではありますが、次回から具体的な観念論批判を発表していきたいと思います。コメント等頂ければ嬉しいです。よろしくお願いします。


 「概念の価値の吟味」の現実的意味

 今からおよそ200年ほど前にヘーゲルは、当時のドイツの学問界の状況・思想的潮流を念頭に置いて次のように否定的な態度を表している。曰く彼ら〔当時の大学教授や宗教家など〕は「どこからか持って来た既成の前提から出発し、本質と現象、根拠と帰結、原因と結果といった通常の思考規定を使って、あれこれの有限な諸関係に則ったありきたりの推理をして、真理の探究を企てる」(牧野訳『小論理学』未知谷、第二版への序文、119頁、2018年)と。そしてこうした傾向に対してヘーゲルは本当の意味での真理探究の仕方としての「哲学的態度」を対置して、以下のように述べる。
「哲学とは、あらゆる内容を結びつけ規定している思考規定〔概念〕の本性と価値に関する〔明確な〕意識をもって真理を探究するものです」(同上)。

 では、この「ありきたりの態度」とヘーゲルにとっての「哲学的態度」とはどのように異なっているのだろうか。「思考規定〔=概念〕の本性と価値に関する意識をもって真理を探究する」とはどういうことなのだろうか。今回は、人間の思考、即ち認識について考えることでその現実的意味、我々にとっての意味を考えていきたい。

 まず、認識主体である我々の目の前には無限に豊かで複雑な「現実」がひろがっている。人間にとってその「現実」をそのまま全部一気に扱うことは、能力の面からしても、扱う対象の広大さからしても絶対に不可能なので、その現実のある部分を言語などによって抽象して、反映させたところに一つの観念が生じることになる。この際に「現実」は、人間の意識とは無媒介に存在する「自然現象」と、人間の営みによって形成されていく「歴史的社会的現象」の二つに大別されるが、今回は後者に限定してその観念の領域を例示するとすれば、例えば、政治的な観念の水準(民主主義、国家等々)や法的な観念の水準(民法、刑罰等々)、宗教的な観念の水準(神、原罪等々)、経済的な観念の水準(商品、資本等々)など、様々な観念の水準が階層をなし、それら観念同士が入り混じって更に次の観念を、それがまた二重三重に混合されて次の観念を、というように一見しただけではとても分からない複雑な観念の体系が築かれていく。そして、我々は実際に普段、何気なくこのように観念を操作して思考し、日常的な生活を営んでいるのである。

 しかし、この時に注意しなければならないのが、今述べたように、どんな観念といえども現実の一部の反映であるから、現実が観念に反映する時には必ず現実の中のいくつかの側面が切り落とされるという事実である。つまり、いかなる観念も一面的であることを免れない。であるにもかかわらず、日本的「知識人」に典型的に現れているように、彼らは一面的に規定された定義や既成の観念を前提して、それでもって本質と現象を区別したり、根拠付けを行なったり、原因をうまく説明してくれるものの、そこでは人間の現実のごく一部を何ほどか歪んだ形で反映させている観念体系が整理されているだけで、それによって何らかの現象が説明されたとしても、それは現存の社会構造に対して無自覚的に肯定的であるということに過ぎない。しかも、無自覚であるからこそかえって、現存の社会関係におけるイデオロギー的な影響に無批判で、自分がそれにずぶずぶに浸かっていることに気づけない。こうして観念論が出来上がる。ここでの観念論とは主に「観念が現実との接点を失ったところで観念操作を行っている」ことを指しているが、多くの人が大学その他で「この講義は社会の現実から離れているのでは?」といった類の感覚を抱いたことがあるのではないだろうか。それが現実の一面から取り出した観念でしかないものを現実の全体かのように錯覚して振り回す無自覚的観念論者の姿である。こういう事例は特に社会学や政治学等々、「客観的」な学問を謳う人々に顕著に現れているのであるが、まさにヘーゲルが「ありきたりの態度」として否定的に取り上げていた意味は、こういうことである。200年たっても学問界はまだまだ然るべき認識論的水準に達していない。

 では、いかにしてその一面性を克服するか。観念が上に述べてきたような性格を持っている故に、すべての観念的営み、即ち認識は常に観念論におちいる危険をはらんでいると言える。したがってその克服のためには我々も常に観念論批判を続けなければならない。それはまず第一に、現実が観念に反映する時に切り捨てられる側面を自覚的に拾い上げていく作業、すなわち「観念批判」に他ならない。そして第二に、これがより重要なのだが、我々が生きていて、それを認識しようとする現実自体があらゆる類の矛盾や抑圧、差別や貧困構造などの歪みを含む総体なので、その与えられた現実から観念的操作だけをして合理的な観念体系、思想的営みを作り上げられると思うのは間違っている。観念批判のみで、既存の観念体系だけを対象として批判するのではだめで、既存の観念体系を生み出し支えている社会的現実に対して、その歪みの構造は何であるかを解明していく形で、批判的に切り込んでいく作業が必要なのである。これを「現実批判」とすると、これだけでは現実主義に落ちてしまう。大切なことは、この「観念批判」と「現実批判」の両者を一体した作業を通じて、闘うべき現実に対してどのように批判的に立ち向かうか、ということである。

 以上、図式的に述べてきたが、その闘うべき現実はそう簡単に整理して捉えられるものではなく、歴史的社会的に極めて複雑な形成過程を経て成り立っているものなので、例えばキリスト教という観念体系がここドイツでどのように影響を与えているかを見ようとするにも、いくつかの観念と現在の現実だけをみれば分かるなどというものでは絶対にない。そこには極めて高い歴史認識の方法に貫かれた「歴史意識」が必要である。したがって、「歴史意識」を根底とした「観念批判」と「現実批判」の往復、これが真に現実を認識してそこから変革の力を生み出す学問的認識であると考える。カール・マルクスが観念論的ブルジョワ経済学者に対して行った政治経済学批判や当時のドイツ社会民主党の綱領への批判などはそういう作業の一つと見ることが出来る。そして、ヘーゲルのいう「哲学的態度」即ち「概念の価値の吟味」とはこういう方向のことを指しているのではなかろうか。どれほど見事に人間の現実の一部分を観念の領域にすくい上げていったとしても、人間にはその一面だけしか表現できないという限りにおいてどうしても歪みの構造をはらんでしまう。そこで、この観念はどういう一面を切り取ってきたものなのか、その際どこが切りすてられたのか、全体の中で位置づけるとどうなるのか、といったことからはじまり、その歪みの構造は何であるかを解明していく、そういった作業が、そういった知のあり方が我々には求められているのではないだろうか。

 もうそろそろ一面的な観念を無自覚に前提して組み合わせるといった、少なくと200年前から現在まで続けられている(本当はもっと長いでしょう)知のあり方を超えなければならない。それでは、いつまでたっても我々の中から現実を革新して、本質的に歴史を動かしていく力は現れない。我々はヘーゲルのこの「概念の価値の吟味」とは何かを考え続けることによって、そういった力を養っていく場になる必要がある。今の日本の社会では残念ながら、以上のような知のあり方や歴史を変革していく力について、日常ゆっくり反省し語り合う場がほとんどない。これは一人一人自分で注意していれば事足りるといったようなことではなく、そこに行けば常にその問題が語られている、という場が必要なのである。そういう人々が集まることによって、遠くは歴史を革新していく力が生み出されるのであるから。

  2022年6月20日
   東谷 啓吾

近況報告、その1

2022年05月31日 | カ行
近況報告、その1。2022,05.29

 昨年の11月くらいからかな、ブログが書けなくなりました。この三年くらいの間、どうして病気や故障ばかりしているのだろうと考えました。七十歳の十年間に『関口ドイツ文法』と『小論理学』との、いずれも千五百頁を超える物を出したので、神様が「少し休め」と命じているのだと、ようやく気づきました。
 眼の悪化が少し落ち着いて来たようですので、悪名の高い長文のブログは避けて、かんたんな問題提起に絞って、忘れないうちに、日記を書くような気持ちで書くことにしようと思います。守れるかな?
 

 今やNHKの看板番組の一つとなった感じのある「ラジオ深夜便」の一つ(だと思います)に、月に一度「日本語についての問題」をその部署の人(たいてい男性)が出し、女性アナがそれに応じて話を進め、既定の結論に達するというものがあります。
 いつも「もっと up to date な問題を出せないものかな」と思いながら聞いています。

 先日の問題は、係の男性が「~から歩いてき『たら』~に出会った」という文の『たら』と、「廊下を進んで行く『と』~が見えた」という文の『と』とはどうちがうかということだったと思います。
 認知症の私の記憶ですから少しは間違っているでしょうが、趣旨は正確だと思います。
 さて、二人はこの問題に関して思いつく例文を出し合い、結局「どちらかでなければならないという原則はない」ということを確認して、「日本語はむずかしい」という結論を出して放送を終えたのでした。

 <私の疑念>
①言葉について考えたり議論したりする場合は、必ず用例を幾つか使ってしなければならず、作例で考えたり議論をしたりしてはならない、という事をNHKの職員は知らないのでしょうか。
②この人達はなんらかの外国語については「こういうあいまいさはない」と言える程の理解をもっているのでしょうか。
 
 次回の選挙では「NHKに~する会」という団体に投票することを考えてみます。

佐伯さんの「キリスト受難劇」を読んで」

2021年01月01日 | カ行
  キリスト受難劇
1、元の新聞記事──佐伯順子・同志社大教授
    (朝日、2010年10月08日)
 ドイツ南部、オーストリアとの国境に近いオーバーアマガウという村は、十年ごとに村の人々による「キリスト受難劇」を上演することで知られる。1634年以来、ペストによる絶滅から免れたことへの感謝として続いている。今年(2010年)は5月15日から10月3日まで、計102回上演された。在外研究で滞在中の本年が上演年にあたり、ベルリンより足を運んだ。

 民衆劇といえば、日本の農村歌舞伎のような素朴なものを想像して出かけたが、舞台こそ屋外にあるものの、観客席は4720人収容で、しかも満員である。世界中から観客が訪れ、「村芝居」のイメージとはほど遠かった。

 芝居は迫力に満ちていた。キリストのエルサレム入城から、十字架上の受難、復活までを描き、人間が演じるという意味でも、イエスの人物像を表現する意味でも、文字通り等身大のイエスであった。十字架にかけられて全身から血を流すイエスの姿は、教会で目にするが、生身の人間によって再現されると、いかに残酷であるかがよくわかる。

 ロバに乗ってエルサレムに入城するキリストの姿には、既存の価値観への挑戦者としての誇りとともに、後の受難を予告するかのような哀愁が漂っていた。宗教劇が民衆の宗教理解にどれほど重要な役割を担うものであるかが実感できた。

 村の青年が演じるイエスは、新しい神の教えを説こうとする純粋さや熱意を存分に伝え、さらに、神の子という特殊な使命を負い、弟子たちにも距離を置かれ、孤独に死んでいかねばならぬ運命を目前にした恐れと苦悩を、まさに一人の人間(でありながら神の子)として説得力のある形で見せてくれた。キリストはあたかもカリスマのようであるが、実は悩みに満ちた平凡な一人の人間であったという遠藤周作文学のなかのキリスト像が納得される。間に休憩をはさんで前後3時間ずつの長丁場だったが、時間はあっという間に過ぎていった。

 日本の近代化には、キリスト教に影響を受けた知識人が大きな役割を果たしており、私がつとめる大学もキリスト教主義の大学である。特に明治以降の女子教育の発達にキリスト教が果たした役割は大きく、ミッションスクールといえば「お嬢さん学校」というイメージも定着している。
 しかし、私自身もすごしたミッション系女子校の優しく上品な雰囲気と、聖書が伝えるかくも強烈な人間の愚かさと暴力は、何と対照的であることか。キリスト教式結婚やクリスマスのような、日本におけるキリスト教の甘くやわらかいイメージは、聖書の内容をオブラートでくるんだよう。日本のキリスト教が誤りというわけではなく、本家の西洋でもキリスト教の解釈は多様であり、受難劇が伝えるキリスト像は一例にすぎない。また、かつての民衆劇は喜劇的要素が強く、教会からは涜神行為とみなされて頻繁に禁止令が出されたという(下田淳『ドイツの民衆文化』)。
 だが、愛と慈しみの教えは同時に、恐ろしい人間の性(さが)をも見せつけ、それが世界の民衆の心をひきつける力となり続けているのであろう。

2、牧野の感想
 ➀ 私は自分のブログを開くと、まず「あなたのブログへのアクティヴィティ」を確かめます。コメントがあれば開いて内容を確かめます。次いで、「アクセス解析」を見ます。その題名から、「こんな事も書いていたのか」と思うと、その記事を開いて、』読みます。そして、何か書きたくなったら、今回のように書きます。
 ➁ この記事を読んですぐにも思う事は、日本におけるミッションスクールの果たした役割とその現状でしょう。筆者の佐伯さんもそういう学校で学んだようですが、小学校、中学校、高校、大学の内のどの時をそこで過ごしたのか、従って又、自分はキリスト者なのかを述べていないのも物足りません。察するに、シンパ程度の方ではないでしょうか。
 ③ ➁とも関係しますが、日本では西洋の文化や思想や芸術をを学ぶ人は少なくありません。しかし、その「勉強」の中で「キリスト教の勉強」はどの程度の割合ないし比重を占めているでしょうか。ゼロに近いのではないでしょうか。
 英文学や仏文学や独文学の履修課程に「キリスト教概論」は入っていないと思います。これでいいのでしょうか。それどころか、ミッションスクールを出て普通の大学に来た学生でも、「高校時代にキリスト者の友人に聞いても、教えて」くれなかった」、つまり授業ではそういう事は取り上げなかった、と言うのです。
 この現実に対して、佐伯さんは教師としてはどう振る舞っているのでしょうか。これの反省の無いのがこの記事の大欠点だと思います。
 私はキリスト者ではありませんが、12月の最後の授業では、必ず、キリスト教とはどういう思想かを話します。イエス・キリストという訳語は日本語の文法に反した誤訳である(拙著『関口ドイツ文法』の1417頁を参照)ことから話しを起こし、キリスト教とユダヤ教の違いを説明します。更に、バイブル・クラスに通った時の思い出を話します。ドイツのアドベント・ツアイトの話しをし、アドベント・カレンダーの1例を見せます。そして、最後に、「1度でいいから、クリスマスに教会に行って、ミサに出る事」をすすめます。キリスト者にならなくていいから、自分と違った考えを持っている人を理解することは自分の成長に役立つと思うからです。哲学の授業でも、ドイツ語の授業でも同じです。
 ④ 最後に佐伯さんの記事に出てくる「『村芝居』のイメージからほど遠い」という表現を取り上げます。私の疑念は「AはBからほど遠い」という表現は、Aが比較対照のBと大きく違う事を言うのですが、比較対象とは比べものにならない程『悪い』場合に使うのではなかろうか」というものです。
 明鏡と国語大辞典を見てみましたが、後者の3つの用例は「海は医学部からほど遠くないのである」と「亜弥子さんは、~俗に言う箸が転ぶのを見てもおかしがる年齢のお嬢さんで結婚などとはほど遠い感じでした」と「現在、世界は~生活水準の低さから政情不安に揺れている国々が多く、平和とはほど遠い状態にある」。しかし、一般的に、「悪い方向に離れている」という条件は書いてありませんでした。佐伯さんのここの言い回しは、「村芝居などという言葉からは想像もできない」くらいにしたらどうでしょうか。

PS
12月31日から書き始めたのですが、新年になってしまいました(笑)。今年も議論をして、思索を深めつつ行動するようにしましょう。どうぞよろしく。




感じの好くない言葉(金田一秀穂教授)について

2020年08月04日 | カ行
 NHKのラジオ深夜便で杏林大学教授の金田一秀穂氏が「最近の感じの好くない言葉」(?)とかいうテーマで、「国家戦略室」とか「マニフェスト」などを挙げていました。そこでメールで意見を送りました。まだ返事は来ていません。来たら掲載します。

──────

 前略。たまたま、10月18日(19日?)夜の深夜便を聞きました。適切な問題提起だったと思います。
 「マニフェスト」についての疑念は共有しますが、代案の「政権公約」はどうでしょうか。私なら「政策要綱」くらいかな。「政権」につかない場合のことも考える必要があると思います。

 しかし、杏林大学でも使っている「シラバス」になぜ言及しなかったのですか。自己反省も必要でしょう。私も大学講師をしていますが、「授業要綱」としています。大学の指定する「シラバス」は「あれはサボリ教授のためにある」として、適当にあしらっています。

 私も日本語の現状に、と言うより、辞書の現状に問題提起をしています。「マキペディア」の
『募金」と「決める」を見て下されば大体の事はお分かりいただけると思います。10月19日。(引用終わり)
関連項目──募金決める

(初出は、教育の広場、2009年10月22日です)

 お断り
ただいま、ブログ「教育の広場」をなくすために、残しておきたい記事をこちらに移しています。
なお、リンクの仕方がわかりません。済みません。
PS──読者のご教示によってリンクが出来たようです。ありがとうございます。もう少し練習します。
(8月6日)

番茶

2020年08月02日 | カ行
      番茶

 お茶というと5月初めの八十八夜に摘まれる新茶(一番茶)を思いがちだが、今は、三番茶や秋冬番茶など「番茶」を楽しむまたとない季節だ。夏の強い日差しを受けて育った茶葉だけにカテキン量も豊富で、渋みも深みもしっかりした存在感を楽しめる。また最近では、地方の特色が色濃く出た「番茶」を見直し、食文化として残していこうという動きもみられる。

 鹿児島県知覧町の折田信男さんは今、秋冬番茶の収穫を終えたばかりだ。25haの広大な「おりた園」はひっそりと静まりかえり、春まで小休止だ。

 日照条件のよい鹿児島では、春の一番茶から始まって秋冬番茶まで5回の摘採(てきさい)期がある。折田さんは、日差しがより強い季節に育つ葉には新茶にはない力強さがあると考え、「カテキン番茶」を製造している。

 7月に摘む三番茶、7月末~8月中旬の四番茶、10月中旬~11月上旬の秋冬番茶をブレンドしたもので、100g500円。農薬を使っていないので、「粉末茶にして飲んでも安心」というのが自慢だ。殺菌力や悪玉コレステロールの抑制など、カテキンの効能が話題となったここ数年で人気商品に成長した。

 2代目の折田さんは、20代後半で農薬中毒にかかっていることが分かった。肝臓障害や言語障害、意識障害などに悩まされ、農薬の使用中止を決断する。10年余りは収穫がほとんどなく、多少の収穫があってもなかなか買い手がつかなかった。それでも土の養生方法など試行錯誤を続け、今や生茶で500トン仕上げ加工前の荒茶で100トンの生産量を誇る。化学肥料も使わず、4haはJAS認定も取った。

 もう一つの特徴は5年ほど前からやめた被覆だ。多くの茶畑では黒い布をかぶせて日差しを遮り、柔らかな葉を作ろうとするが、折田さんは被覆すると茶木が病害虫に弱くなることに気づいた。思い切って被覆をやめると茶木はみるみる強くなり、多少の病害虫は寄せ付けなくなった。

 「番茶の渋みを知っているからこそ、新茶の甘さをより味わえる」というのが折田さんの持論だ。

 日本茶インストラクターで東京都北区でお茶屋を営む高宇政光さんは、番茶の見直しを訴え、研究者などでつくる「番茶学の会」の立ち上げ準備中だ。

 製造技術が上がり、一年中、煎茶を飲めるようになってから、番茶を買うお客はめっきり減った。一方で、阿波番茶(徳島県)や京番茶(京都府)、美作(みまさか)番茶(岡山県)や碁石茶(高知県)など、各地で独自の製法で作られてきた「番茶」の中には、後継者難で存続が危ぶまれるものもある。

 だが、各地にどんな「番茶」があって、どんなふうに飲まれているのか、農林水産省もお茶の業界団体も把握していないのが実情だ。実態調査から始め、ゆくゆくは、各地でお茶がどう作られ、どう飲まれてきたのか、生活に根ざしたお茶の歴史を明らかにしたいという。

 大妻女子大の大森正司教授(食品化学)は「秋はお茶にとっても実りの秋」と話す。夏の間、たくさんの紫外線を浴び、しっかり光合成をした茶葉はカテキンを多く生成する。特に、折田さんのように覆いをせずに茶木を育てた場合は、それがより顕著に出るという。

 大森教授の実験によると、2003年産では、一番茶の葉に含まれるカテキン量は100g当たり12.5g、三番茶では14.0g、秋冬番茶はぐっと増えて18.0g。2004年産はそれぞれ12.7g、19.1g、11.0gで、秋冬番茶は台風の影響を受けたとみられる。大森教授は「今年は例外的」とみる。

 ただし、普通にお茶を入れた場合では、茶葉が軟らかい新茶の方がカテキンが出やすい。2003年産の実験結果では、100CCの熱湯に2.5gの茶葉を1分間つけた場合、一番茶から出るカテキン量は、83.1mg、三番茶では154.3mgだった。

 大森教授は、番茶からしっかりカテキンを取るために、①粉末茶にして食材として使う、②沸騰した湯で3~5分煮出す、③たっぷりの熱湯でじっくり5分ほどおく、などの方法を推奨。「甘みのあるアミノ酸の多い新茶とは違った、さわやかだけれどパンチのある味を楽しんでほしい」と話す。 

番茶の定義

 もとは「晩茶」と書き、遅摘みの葉で作る茶のことを指した。ただし近年、製茶技術や保存技術が向上し、市場も高級志向となったことなどから、上級品と区別し、アミノ酸の含有量が低い廉価なものを「番茶」と呼ぶようになってきた。さらに、地方独特の製法で作られているお茶をその地方では「番茶」と呼ぶことが多く、定義は一定ではない。

 (朝日、2004年11月20日。豊 吹雪。初出は「教育の広場」2011年2月24日)

 感想(2020年8月2日に加筆)

 この記事も「多くの人はお茶の正しい淹れ方を知らない」という問題には気付いていません。「お茶の淹れ方」とやらを教える講座は、茶所の静岡県に住んでいますと、毎年耳にしますが、たいてい煎茶の淹れ方です。番茶党のわたしには不満です。
 機会があると、私は茶の生産者に「番茶の定義」を聞きますが、はっきりしません。生産者は「よいお茶を作ること」ばかりに夢中で、その他の事情に無関心すぎます。
 最近は、コーヒーを飲ませるカフェではなく、緑茶や紅茶を飲ませるカフェがシェアを伸ばしているそうです。この機会に、緑茶に関係するすべての人の自己反省と奮起を期待します。

  

言論の自由を考える(その2、民主集中制)

2020年07月19日 | カ行
  言論の自由を考える(その2、民主集中制)

 6月11日に発表しました文章「言論の自由を考える」では、主として、「言論の自由とは間違った意見でも罰せられない事だ」という点を論じました。今回は、同じ問題を、民主主義と民主集中制の異同を考える中で論じてみたいと思います。

 私見によれば、1960年までは毛沢東の言う「東風が西風を圧倒する」で、社会主義が資本主義を追い越さんばかりの勢いで発展していたと思います。しかし、50年代末から顕在化した中ソ論争もあって、その後は東西の力関係は 西側の優勢となっていったと思います。二〇世紀末の社会主義の崩壊はその必然的結果だと思いますが、その後の歴史を見ますと、必ずしも自由経済と民主制社会が広がっているとも言えません。
 その中で世界の共産党を見てみますと、旧社会主義国の共産党はどんどん独裁政権化し、資本主義国の共産党はほとんどが解党ないしそれに近い状態だと思います。「いわゆる共産党」、つまり「マルクスとエンゲルスの考えていた革命党とは大分違うが、レーニンの考えていたそれにはかなり近い政党」は日本の共産党だけではないでしょうか。従って、日本共産党を取り上げて考えます。

 私見では、その共産党を支えている理論上の三大根本原則は「理論と実践の統一」と「民主集中制」と「批判と自己批判」の三つです。

 第一原則の「理論と実践の統一」については、繰返し指摘してきましたが、その意味は事実上、「マルクス主義を口にする者は共産党に入って革命運動をしなければならない」と曲解されています。そして、共産党に入ることを強要したり、特定の運動に参加することを迫ったりする事の理論的根拠に使われています。これは完全な間違いです。

 そもそも「理論と実践の統一」とは「両者を統一しなければならない」という当為命題ではありません。そんな事なら、「言行の一致」として、昔から言われています。弁証法で言う「理論と実践の統一」とは、「両者は対立しているが、同時に一致もしている」という事実命題です。弁証法でいう「対立物の統一」というのがそういう事実命題で、これはそれの一例ですから。

 第二原則を論ずるのが今回の目的ですから、その前に第三原則の「批判と自己批判」を片付けておきますと、これはこういう定式化自体が間違っています。弁証法の基本が「対立物の統一」なら、「批判(他者批判)と自己批判の統一」と定式化しなければならないのに、「批判と自己批判」で終わっているからです。これ以上の事は、拙稿「批判と自己批判」(拙著『ヘーゲルからレーニンへ』に所収)を読んでください。

 さて、第二原則の「民主集中制」ですが、これの理解も不正確です。まず、共産党の規約をみてみます。すると、その第1章の第3条に次のように書いてあります。

 第三条 党は、党員の自発的な意思によって結ばれた自由な結社であり、民主集中制を組織原則とする。その基本は、次の通りである。
 ⑴ 党の意思決定は、民主的な議論をつくし、最終的には多数決で決める。
 ⑵ 決定されたことは、みんなでその実行にあたる。(以下略)
 ⑶ すべての指導機関は、選挙によってつくられる。
 ⑷ 党内に派閥・分派はつくらない。
 ⑸ 意見が違うことによって、組織的な排除を行ってはならない。
以上です。

 これを考えてみます。⑶をここに入れたのが不自然ですが、その他はまあまあでしょうか。いや、まず、「全ての党員は党の方針や人事について、発言する権利を持つ。但し、まず自分の所属する支部の会議で発言し、その結果によって段々と上級機関に上げて行くのが原則であるが、場合によっては上級機関、更には幹部会や委員長に、直接、意見を言っても好い」、としておくのが、「民主主義」だと思います。こういう権利の確認をまずするべきでしょう。

 ⑴では「民主的な議論」とはどういう議論のことを言うのか、それを保証する方法はどういうものか、の規定がありません。「自由討論」では口がうまくて押しの強い人が勝つだけだ、ということを知らないのでしょうか。共産党の外では、この「自由に意見の言えるための工夫」をしている理論や団体が沢山あります。我々の「ラウンド方式」もそれらから学んだものです(拙訳『フォイエルバッハ論』鶏鳴OD選書に所収の「議論の認識論」を参照)。共産党は遅れています。

 ⑵ の「決定されたことは、みんなでその実行にあたる」を共産党は「民主集中制」の中心と考えているようです。小さなグループなどでは、民主主義の名の下にこれが当たり前の事として、理解されていると思います。しかし、大きな組織では民主主義は、「決まったことを一緒に行動しなくても好いが、それを妨害してはならない」程度に理解されていると思います。ですから、共産党が「民主集中制」として、これを言う必要があるのです。

 ⑷を飛ばして、⑸を検討しましょう。直ちに分かる事は、共産党員の一番恐れている「自己批判を強要されること」について一言も書いていない事です。共産党員と付き合っていると、彼らがいかにこの自己批判という名の土下座を恐れているかが分かります。それなのに、この点について「規約」に規定がないのです。無理論党もここに極まったと言うべきでしょうか。

 実例で説明しましょう。
 その1つは、1964年の事ですが、「労働組合の4・17ストライキを『挑発スト』と決めつけて、それに猛烈に反対し、一部では行動でそのストを妨害した事件」です。その後、共産党員は多くの所で労組の組合員から袋だたきに遭ったようです。その結果、共産党は自己批判することになりました。『日本共産党の八十年』にはこう書かれています。

──六四年春、党は、労働組合が準備していた四・一七ストライキに反対する指導上の誤りを犯しました。この年の一月、中国を訪問して毛沢東と会談し、毛沢東の「反米愛国の統一戦線」の提唱の影響を受けた一部の幹部が中心になって、このストライキをアメリカがたくらむ「挑発スト」と位置づけ、党中央の名で反対の声明を発表したのでした。この誤りは、党への信頼を深く傷つけ、国民運動の発展に深刻な影響をあたえました。四・一七ストライキは経済ストライキであり、政治的課題と正しく結合されず、民主勢力との共闘という点にも欠けていましたが、このような弱点を根拠に、経済闘争を軽視したり、否定することは大きな誤りでした。党は六四年七月の中央委員会総会と十一月の第九回党大会で、これが党の綱領路線に反する誤りであったことを明らかにし、経済闘争の位置づけを明確にしました。──

 こんな「総括」では共産党は前進しません。私の知っている党員は、「最初、上から、『あれは挑発ストだから、反対するように』という指示が下りてきた時、『この官僚め!』と怒ったが、結局、支部として指示に従うと決まった時、自己批判をさせられたが、党が今度は『あれは間違いだった』と言うことになったので、又、自己批判しなければなんないや」と言っていました。少数意見者に自己批判を強要するという「不文律」があるから、こういう悲喜劇が起きるのです。

 そもそもあの騒動では、共産党員に、組合の決定に反して、「組合で決まった事の実行を実力で阻止せよ」という指令が出ていた(と、推定せざるをえません)ことが根本の問題なのだと思います。共産党の規約には、たしか、どこかに、「大衆的組織の中で行動する時は、その組織の規約を守って行動せよ」という一句があったと思うのですが。共産党は、このように、大衆組織の中で、民主主義の規律を守らないのです。これこそ反省するべき根本問題です。

 第二の実例は、かなり前から共産党が「これには誰も反対出来ないだろう」と言わんばかりの口調で、得意になって振り回している「統一戦線の原則」とやらです。曰く「一致点で協力し、不一致点は粘り強く話し合う」です。どうです、皆さん、この「定式」のどこが間違っているか、分かりますか。実際この「原則」とやらで、何人の党員が泣きべそをかいたことでしょうか。

 どこが間違っているか分からない人は、「一致点で協力しなかったら、どういう点で協力するのか」と、考えてみてください。「一致点で協力する」という句は無意味な同語反復なのです。統一戦線の原則というものがあるとしたら、それは「どういう性質の一致点なら協力して好いか」を示すものです。しかし、そういうものはありません。レーニンがどこかで、たしか、『左翼小児病』だったと思いますが、「統一戦線の原則なんてものはない。全てはその時の事情次第だ」といった事を言っていたと思うのですが。私はこのレーニンの説に賛成です。
 ここでもう一つ不思議に思う点は、この「一致点で協力」の無意味さを指摘されて泣きべそをかいた党員が、その後、党の会議で、これを持ち出して、「反論できなかったのですが、どうしたらよいですか?」と問題提起しておらず、いつまでもそのままだという事です。規約に、「党の理論や行動に疑問を持ったり、外部からの批判に答えられなかった場合は、すぐに、支部及びそれ以上の機関に報告しなければならない。曖昧にしておくのは共産党員の態度ではない」という項目を⑹として入れるべきでしょう。
 日本共産党には、国会での活動のように立派な面もあり、だからこそそれなりの支持を集めているのですが、理論的には、皆さんが誤解しているような「理論に強い党」ではありません。無理論党と言ってもいいくらい酷いものです。

 思うに、芸術と宗教と哲学(ヘーゲルの『精神哲学』の第三篇「絶対的精神」に分類されるもの)に関しては、政治とは最も深い所では関係しますが、個々の政治行動とは関係しませんから、共産党もその他の政党も、「組織的関係」を断つべきだと思います。つまり、それらの分野の人が、「入党したい」と言ってきたら、「気持ちはありがたいが、その気持ちは自分の活動の中で表現してください」と言って、断るべきだと思います。政党の規約にそう明記しておくべきだと思います。これが常識になれば、政治との関係を利用して出世しようとか、本を売ろうなどと考えるニセモノも少なく成ると思います。

 「査問」については書き残しましたが、もういいでしょう。以上の考えが、皆さんの考えを広げ、深める事に役立てば幸いです。活発な発言を期待しています。

関連項目・言論の自由を考える

コロナウイルスと戦う方法(第4版)

2020年06月21日 | カ行
     コロナウイルスと戦う方法(第4版)

 NHKがようやく「温冷浴」を取り上げましたので、第4版を書きます。皆さんのご意見を歓迎します。

A・君子危うきに近寄らず──「三十六計逃げるにしかず」といいますか、消極的な態度ではあります。
 Aの1──手洗い
 Aの2──マスク
 Aの3──外出をしない。3密を避ける。

B・攻撃は最大の防御である──主体の生命力(抵抗力、免疫力)を高めて、ウイルスを撃退する積極的な態度

 Bの1──免疫力を高める食事を取る。ananとかいう雑誌でも特集してますし、こういうレシピをまとめたシェフ達もいるようです。説明不要でしょう。

 Bの2──『歩くだけでウイルス感染に勝てる』という本も山と渓谷社から出たようです。これが分かれば、外出の自粛とやらは、無条件には認められないことが、分かるでしょう。他者と接触しないようにジョギングをするのはむしろ奨励されるべきです。

 Bの3──温冷浴。NHKのは「お風呂をいただきます」とかいったふざけた番組で取り上げていましたので不十分でした。出てきた医者(医学博士?)もおかしな人で、「最後はお湯で出る」などという珍説を述べていました。まあ、そういう説もあるのでしょう。

 しかし、温冷浴を言うなら、その最初の提唱者である西勝造と西式健康法に触れないのは公正とは言えないでしょう。

 西式の基本は、冷ー温ー冷ー温ー冷ー温ー冷、と1分間ずつ入るものです。冷浴は18度前後、温浴は40度前後です。冬は最初の冷浴は省いても構いませんが、「最後の冷浴は絶対」です。そもそも最後の冷浴は冬でも辛くありません。(自宅では、冷浴にはシャワーを使います)

 私の周りの人たちは、「これを始めたら、風邪を引く回数が半減した」とか「何をしても利かなかった小児ゼンソクの症状が軽くなった」とか喜んでいます。

 サウナ温冷浴について言いますと、私は、「80度以上のサウナを10分と17度くらいの冷浴を2分間」、これを2セットやります。或る人が朝日で、「自分の経験からの結論」として紹介してくれたものを私なりに修正したものです。その人は「110度のサウナ」と言っていましたが、それほどのサウナは知りません。

 NHKの「趣味どき」とかいう番組では、この間「銭湯」を特集していましたが、その時に出てきた或る浴場のサウナの入り方では冷浴の後に外気浴があるようです。驚きました。
 まあ、皆さん、「自分の温冷浴」を実践してください。

 Bの4──座禅、断食
 私は断食道場に行ったことはありませんが、自分で三日間の断食をしたことはあります。胃潰瘍のためですが、後で西式の先生に聞いた所では「胃潰瘍に断食は適当でない」とのことでした。実際、効果はありませんでした。しかし、免疫力は高めるだろうと推測します。
 伊豆のどこかに断食道場があるようで、NHKの「72時間」とかいう番組で取り上げていたのを見たことがあります。皆、いい顔をしていました。

 座禅も、多分、免疫力を高めると思います。昔、新年を期して座禅をやってみようとした最初の時です。夕方から始まったのですが、「こんなに寒いのだから、部屋には暖房があるのだろうな」と思って行きました。手続きをして、コートを脱いで、道場に入りました。暖房は何もありませんでした。しかし、45分を2回座るのですが、座っている間は、全然寒くありませんでした。逆に、コートを着て外に出て、駅まで歩き始めたら、ガタガタ震えて止まりませんでした。不思議な物です。

 私は、残念ながら、冷え性で、指先が冷たくなることがありますが、座禅をすると、しばらくして指先まで血が巡ってきて、暖かくなるのが分かります。

 しかし、ここに挙げた断食と座禅は、時間が掛かりすぎます。クルーズ船でなら、これが最適でしょう。

 Bの5──最後に乾布摩擦です。これの好い所は、何と言っても、コストパフォーマンスが最高に好いことです。用意する物はタオル1夲です。所要時間は1分間で、1日に何度でもできます。
 それに、ワクチンのように、それでかえって病気になるという危険がゼロです。ワクチンで病気になったら、治りません。乾布摩擦は「百益あって、害は一つもありません」。
 正直に言って、私は今回のコロナ騒ぎの間中、いつもと何一つ変わらない生活で通しました。皆さんの幸福を祈ります。

付記
 余計なお節介ですが、「乾布摩擦で子供の病気の八割は予防できる」という事をお伝えしたいと思います。これは我が家での三人の子供での成功と失敗の経験に基づいています。子供の病気は親にとって本当に辛い事ですが、朝子供が起きて、パジャマからシャツに着替えをさせる時、一時裸になります。その時に胸を十回、背中も十回、ゴシゴシとやればよいのです。1分もかかりません。これで子供の病気の八割はなくせると思います。

関連項目・健康法


言論の自由を考える

2020年06月11日 | カ行
            言論の自由を考える

 1、朝日新聞の記事
  [朝日の付けた題は『「正しさの暴力」自分にも』でした)

 電話は鳴りっばなし。受話器を取った職員は「名前をさらすぞ」などと脅される。

 昨年8月、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」の事務局には脅迫や抗議が殺到していた。慰安婦を表現した少女像や、昭和天皇を含む肖像群が燃える映像作品が反発を招いた。

 出展者の一人で演出家の高山明(50)は、職員の疲弊を知り、参加アーティストが自ら電話を受ける「Jアート・コールセンター」を立ち上げた。約30人が交代で電話を受け続けた。

 高山は長くドイツで活動してきた。国際芸術祭「ドクメンタ」では、社会性、政治性の強い作品が並ぶ。ヒトラー政権下の言論弾圧に対する反省から、「小さな声こそ社会を健全に保つために必要」との考えが社会にあるのだという。

 日本では、公金を使う芸術祭なら、多くの共感を呼ぶ作品を展示すべきだと考える人がたくさんいた。だが、公金を使うからこそ少数者の声をアーティストはかたちにしていくべきだ、と高山は考える。

 「一人ひとりが自由に声を発していい、という権利を職業として実践するのがアーティスト。自分の思ったこと、やりたいことを表現し続けることが、いまの日本社会における我々の役割だと思う」

 白分とは異なる考えの人たちに意見もぶつけ、聞いてみたい。コールセンターをつくったのには、そんな思いがあった。直接話せば、相互理解も生まれるのでは、との期待もあった。

 ただ、考えは甘かった。

 「天皇陛下についてどう思う」 「少女像を公金で展示するなんて言語道断」。電話口の声は怒りに震え、泣いているような人もいた。自分の意見を言ってはみたが、対話は成立しない。自分がいかに「通じる人」だけとコミュニケーションをしてきたかを痛感した。「これは無理だ」。とにかく聞くことにした。

 昭和天皇の肖像を扱った作品に抗議した高齢の女性がいた。
 「あなただって正月に初詣に行くでしょう。私としてはそういうもの」

 崇拝や信仰とは違う、内面を傷つけられた気持ちになったと訴えていた。「少なくとも彼女がそう感じたことに、耳を傾けるべきだと思った」

一方で、時には3時間も話していると、だんだん相手を説き伏せたくなっている自分に気がついた。「自分は正しい、自分の考えに同化させたい。そんな『正しさの暴力』のようなものを、自分だって持っているじゃないか」

 相手を同化させようという欲望は、極まれば異なる者を暴力で排除してしまおうという思想につながる。「正しさ」をいかに疑うことができるか。それがいまアートや表現が取り組むべき問題なのではないか。高山はそう感じている。

 「彼らも自分が正しいと思っている。僕も思っていたりする。永遠に平行線。でも大切なのは意見を一致させることではなく、異なる声があるということを受け入れること、それをこそ死守するという姿勢ではないか」(朝日、2020年5月20日、石田貴子)

 2、牧野の感想

 かつて一緒に勉強した仲間の立派な活躍を知るのは嬉しい事です。だからこそ、この問題に付いての私見を箇条書きにします。

 ➀ 民主的な社会では「言論の自由」は最大限保障されるべきだと思います。

 ➁ では「言論の自由」とはどういうことでしょうか。それは「間違った事を言っても罰せられない」ということです。「或る人Aの言や行動は間違っている」と他者Bが「思った」時、BはAを言論で批判するのは自由ですが、言論以外の力を使って自説をAに強要してはならない、ということです。

 なぜなら、人間には絶対的真理は分からないからであり、その自説の方が間違っているかもしれないからです。いや、たとえその「自説」が「部分的真理」であっても、もっと大きな観点から見れば、全体的真実ではないかもしれないからです。(注・部分的真理と全体的真実との異同については、近日中に書きます)

 要するに、どちらの側も、自分の考えの主張において、暴力や脅しはもちろんの事、泣き落としのような態度も避けるべきだということです。

 ➁ この観点から今回の問題を考えますと、最も残念だった事は、名古屋市長が、自説を表明したのは自由ですが、批判派に対して「言論で冷静に発言して欲しい」という注意を言わなかった点です。

 この問題を更に大きく考えますと、日本では、学校教育において討論が少なく、その練習が意識的に為されているとは言えないという事です。

 特に国語の授業では先生の解釈に対して納得出来ない生徒が異論を言うことは、かなりの頻度で、在るのではないでしょうか。では、そういう場合、先生はどのように対処するべきでしょうか。

 こういう点について、職員会議で話し合って、何らかの申し合わせをしている学校がどれだけあるでしょうか。多分、ゼロか、それに近い数字でしょう。これが問題だと、私は思うのです。

 家庭でも、学校でも、意見の違う人と話し合うのはなぜ必要か、そのためには各人はどういう事に気をつけなければならないか、といった事がほとんど話し合われていないのです。例外は、多分、私の哲学の授業だけでしょう(失笑)。

 今からでも遅くありませんから、志のある先生はこの現実を改革するように動いて欲しいと思います。

 参考項目・「議論の認識論」    

乾布摩擦奨励に賛成だが、疑問点もある

2020年04月04日 | カ行
1,森さんの意見

前略。ちょうど今日マキペディア見ました。乾布摩擦が免疫力アップに有効であること賛同します。
 が、現下のコロナ禍に関しては、感染しない為の対策と、万一感染した場合に重症化しない(重症化しないで治ってしまう)為の平素の心掛けに分けて考える必要があると思います。乾布摩擦は後者と考えます。何故なら乾布摩擦をして免疫力を高めていれば感染しないという保証(科学的根拠)は無いし、一旦感染すると今回の新型は潜伏期間が長く軽症無症状で気付かないうちに他の人も感染させてしまうリスクが高いからです。
 新型で分かっていないことが多く、まずはマスク手洗い清潔換気等でウイルスに接触する確率を下げる努力が欠かせないのは確かだと思います。
 私見では、これから気候が高温多湿になることが流行収束の一番の助け船になると期待されます。
 森(冷温浴と乾布摩擦は積極的に取り入れたいと思っている1人です)

 2,牧野の感想
 ご意見をいただけただけでも嬉しいです。専門家やメディアに任せないで、我々も意見を出し合いましょう。森さんの意見への私の感想は、少し考えてから、発表します。














コロナウイルスとの戦い(再論)

2020年04月03日 | カ行
    コロナウイルスとの戦い(再論)

 私は去る2月23日、「新型コロナウイルスによる肺炎と闘う」という文章を発表しました。そこでは、病気、特に感染症とは、それを引き起こす病原菌などと本人の生命力(免疫力、抵抗力)との戦いだから、主たる対処法はマスクでもなければ手洗いでもなく、自分の免疫力を高めることであり、その方法としては、乾布摩擦、温冷浴、座禅などがあるが、乾布摩擦が最もやりやすく、効果も高いと論じました。
 残念ながらほんの少しの反響しかありませんでした。そこで、同じ趣旨の意見を朝日新聞の声欄に、続いてNHKに、メールで投書しました。これも取り上げてもらえませんでした。NHKの雑誌『ラジオ深夜便』の四月号の「アンカー・エッセイ」欄を見ていたら、須磨佳津江さんがこの問題を論じていました。私見に近かったので、次の文章を手紙で送りました。
──雑誌『ラジオ深夜便』4月号に載りましたあなたの「アンカーエッセー」は「新型コロナウイルスに負けないぞ!」と題されています。読んでいますと、初めの方には、「できることはマスクをすること、手指を消毒すること、人混みにはできるだけ行かないことくらい」と悲観的な事が書かれていますが、終わりの方には、「敵が近づいてきても負けないように、体力をつけ、免疫力を増して、笑顔で退散していただく、これしかないのでは……」と前向きの言葉があります。
 私もこの後者の考えに賛成です。病気というものは、本人の生命力(免疫力、抵抗力)と病原菌などとの力関係で決まる事だと思います。この戦いでは、本人の生命力を高め、強化するのが本質的で、積極的な戦いです。マスクとか手洗いとかは受け身の従属的な手段だと思います。
 それなのに、メディアで流されている事は、マスクと手洗いがほとんどです。私はこの現状を打破しなければならないと思っています。この間違いのためにこのような大問題になってしまったのだと思っています。初めから「生命力の強化」を前面に出して戦っていたならば、今頃には収束して、五輪は予定通り開けていたと思います。
 須磨さんのこの文の欠点は、その「免疫力を増す」方法が具体的に書かれていない事です。私見では、その方法で最も簡単で効果のあるのは、乾布摩擦だと思います。次いで、少し大変な方法では、温冷浴(交代浴)があります。これには、普通の温冷浴(40~42度の温浴と17~20度の冷浴を交代で行う)とサウナ温冷浴とがあります。ほかに座禅も生命力を高めると思いますが、これは時間もかかります。
 結論として、乾布摩擦が最適だと思います。1日に最低1回、自分にとって一番やりやすい時にすればよいし、道具はタオルだけです。時間も費用も掛かりません。頻度は低いとはいえ、インフルの予防注射のように、薬害に遭って一生苦しむ心配もありません。「民衆の知恵」は「百益あって、一害も無し」です。
 そこで御願いです。須磨さんの出来る範囲で、「乾布摩擦こそ最強の武器だ」と広めてくれませんか。よろしく御願いします。(引用終わり。少し文章を変えました)
 しかし、これも無視されたようです。最近、NHKのアナウンサーで大活躍している三宅民夫さんにも同趣旨の手紙を送りましたが、これも取り上げてもらえませんでした。コロナは益々猛威を振るってきています。何時になったら、皆さんは私の意見を聞いてくれるのでしょうか。
 3月31日付けの朝日新聞にはしかし、免疫力を高めてコロナに打ち勝とうという趣旨の本の広告が出ていました。その著者の石原結實(ゆうみ)の本は別のものですが、私も持っています。そこでそれを確かめてみたのですが、中心は、「体を温め、免疫力を高めれば病気は治る」という趣旨のようです。乾布摩擦はおろか、それ以外の方法は載っていません。がっかりしました。
 しかし、現状はますます破滅的な方向へ向かっています。乾布摩擦を前面に出して戦っていれば、多分、既に日本では収束していただろうと思います。これをしなかったということは、即ち、日本は「文化国家のリーダーとして、世界の平和に貢献する絶好のチャンスを見逃した」ということなのです。皆さんはこれが悔しくないのですか。
 ドイツは私の方法とは違いますが、近隣の国の重病人を引き受けることで、またもや大きな得点を稼ぎました。日本はどうしていつもこういう点でドイツに負けなければならないのでしょうか。
 皆さんにお願いします。私と一緒に「乾布摩擦をしよう!」と叫んでくださいませんか。





健康法(改訂版)

2019年08月22日 | カ行
        健康法(改訂版)

これは「健康法」という言葉について説明したり、考えたりするものではありません。その意味では国語辞書に載せるのは不適当かもしれません。しかし、世の中にあふれる健康法関係の情報や諸説を聞いていますと、私見を述べるのも無意味ではないと考えました。

 これは虚弱体質に生まれた私が、特に渡辺正(しょう)氏の『医薬にたよらない健康法』(農文協)に出会って以来、「取り入れてよかったな」と思うものを主として、その他の気になった記事を含めてまとめたものです。参考になれば幸いです。

 もちろん私が試していないものでも気功とかヨガとか面白そうなものもありますから、ここに書いたものが全部だとか絶対だとか言うつもりはありません。私の個人的な経験をお伝えするだけです。

  小目次

01、風邪とインフルエンザ
   (付録1・赤ちゃんの風邪。付録2・乾布摩擦。
    付録3・サウナの入り方)
 02、胃弱(付録・食あたり)
 03、腰痛
 04、肩凝り
 05、体力増強
 06、強い運動の必要な事もある
 07、目と歯
 08、脊椎矯正
 09、西洋医学
 10、食べ物
 11、あかぎれ、肌荒れ.ゆずの効用
12、脚の健康法
13、水虫
14、ニキビ
15、冷え性
16、便秘
17、皮膚病と自家感作性皮膚炎
18、まとめ・「自分の医者は自分」

 01、風邪とインフルエンザ

 前述の渡辺氏は西(にし)式健康法の大家です。西式健康法は西勝造氏が考え出したもので、 100年以上の歴史のあるものです。6大法則を提唱していますが、その中の1つであるこの温冷浴は風邪の予防と治療、ぜんそくなどの症状の軽減などに卓効のあるものだと思います。

 これはお風呂の入り方です(最近では、特にスポーツ選手の間で「交代浴」として広まっているようです)。温浴とは41度前後の湯に入ることです。冷浴とは17~20度くらいの水の風呂に入ることです。それぞれ1分間つかるのが原則です。

 標準的には、冷浴から始めて、温浴-冷浴-温浴-冷浴-温浴-冷浴、とするものです。つまり、冷浴4回、温浴3回です。しかし、これ以上繰り返してもかまいません。身体は最初に洗っておきます。

 最初の冷浴がほんの少し辛いですが、夏から始めると辛くありません。しかし、辛いなら無理せず、最初の冷浴は省いてもいいと、私は思っていますし、自分自身冬にはそうしています。しかし、最後の冷浴は絶対に必要です。これが急所です。

 今はスーパー銭湯にはたいてい水温の表示がありますから、それを見て、それぞれの温度を身体で覚えておくといいと思います。普通の風呂屋でも多種の風呂を用意しているところが多くなりました。

 日頃は自宅の内湯でこれをするのですが、水風呂は用意できませんからシャワーで代用します。シャワーの時の温度は水風呂とは少し感じが違いますから、無理をしないで、自分に合った温度にしてやって下さい。健康法は精神修行ではありません。これを間違えないように。

 これをすると、湯冷めをしなくなりますし、風邪が引きにくくなります。年に2回風邪を引いていた人は1回になります。年に1回だった人は2年に1回になります。ぜんそくに悩まされていた人は、完治はしませんでしたが、「症状が軽くなった」と喜んでいました。

 風邪は全然引かない方がいいとは言えないようです。野口晴哉(はるちか)氏は、「カゼの効用」なんてことも言っています。つまり、風邪を引いてしまったら、じっくりと体力の回復を図りつつ、風邪と一緒に他の毒素も体外に出して体内を掃除する機会として利用する、というものです。

 なお、この温冷浴で入浴しますと、風邪を引いている時でも入浴して大丈夫です。高熱の時は止めた方がいいでしょうが、軽い風邪くらいなら、温冷浴で入浴した方がいいと思います。

★ インフルエンザ
 インフルエンザのワクチン注射を受けるか否かは、よくよく考えて決めるといいと思います。近藤誠氏のように根拠を挙げて反対している医者もいるくらいです。我が家では、妻も3人の子供もワクチンは断って、温冷浴で済ましてきました。「だからどうだ」と言う訳ではありませんが、一つの事実としてお知らせしておきます。
 それに、日ごろから不思議に思っているのですが、「手洗いだ」「うがいだ」とあれだけ大宣伝して、その上にワクチンの注射まで奨励しているのに、毎年、インフルエンザの大流行が繰り返されるのはどうしてでしょうか。どこかに間違いがあるのではないでしょうか。製薬業界と行政が結託しているのではないでしょうか。

 79歳になった私は、事実上の家庭医である診療所の医師から、繰り返し、「ガンの検診だけは受けた方がいいと思います」と勧められています。最近は手術で治って、長生きしている人もたくさんいるようです。しかし、若くして死んだ方もいます。難しい所です。

付録1・赤ちゃんの風邪

 最近の朝ドラ「なつぞら」では、主人公が、6ヶ月過ぎの赤ちゃんが風邪になったと知らされて、大いに心配する場面が出てきました。
 私が渡辺正の『医薬に頼らない健康法』を買ったのは1977年の2月でした。その時には我が家の3人の子供達はみな、「赤ちゃん」ではなくなっていましたので、試す機会は無かったのですが、今の私なら自分の赤ちゃんにはこうするだろうという考えを書きます。

 もちろん、生まれて自宅に帰って(?)来た時からただちに温冷浴を始めます。しかし、少しずつ「本来の形」に持って行きます。つまり、赤ちゃんを大きなタライで風呂に入れる時、まずは温浴(赤ちゃんにとっての適温は何度か忘れましたので、38度と仮定します)の時、横に置いた洗面器に5度低い33度の湯を用意し、それにタオルをつけて、「軽く」絞ります。温浴をした後、これで身体を拭きます。これを3回繰り返してから、最後に乾いたタオルで拭きます。
 翌日はその冷浴の水温を34度にし、毎日1度ずつ20度になるまで下げて行きます。後はこれを続けるだけです。多分、風邪を引く可能性は格段に下がるでしょう。

 我が家の3人目の子供(男の子)は2歳ころから温冷浴をさせました。6歳で東京から今のド田舎に引っ越してきた時、「○○君は田舎の子より元気だね」と言われました。冬になった時、田舎の子は長ズボンをはいていたのに、我が家の子は短パンだったからです。自慢話で済みませんが、親馬鹿ではありません。事実です。

付録2・乾布摩擦

 我が家では二人目の子供が6月に出来て半年ほどたった冬だったと思います。上の子がどことなく元気がなくなったように感じました。原因は何かと考えた結果、下の子にかまっていることが多く、上の子と外に出ることが少なく成ったのかな、と考えました。
 対策としては、朝の着替えの時に乾布摩擦をしてみることにしました。正解でした。2,3日で元気になりました。
 乾布摩擦を、特に背中に力を入れて沢山すると、運動の代わりにもなるようですし、皮膚が鍛えられて、風邪の予防効果も大きいようです。
 私自身、今でも、寝る前と起床時には乾布摩擦をしています。

付録3・サウナの入り方

 朝日新聞に「自分で実験的に研究した結果」として、或る人がサウナの入り方を紹介していました。曰く、「できるだけ110度に近いサウナに10分間入る。続いて17度の水風呂に2分間つかる。これを2セットないし3セット行う。こういう入り方をすると、最も良く疲れがとれる」、とのことでした。私はそれ以来これを実行しています。

 02、胃弱

 朝食抜きの1日2食です。そして、生水をチビリチビリと飲みます。1日2リットルが標準ですが、無理をしなくて結構です。

 西式の6大法則の中ではこれも大効果があります。特に胃弱で困っている方は1度試してみたらどうでしょうか。

 朝食については「絶対に取るべきだ」という考えと西式のように「取らない方が好い」という考えとが鋭く対立しています。私見では、論争は互いの意見の違いを確認するためにするものです。とにかく、健康になればいいのです。自分で両方を試してみればいいと思います。

 私は長らく胃弱に苦しめられてきまして、どんな薬も効かなくなりました。偶然、前述の渡辺氏の本を読み、翌日からただちに、朝食を止めて水をチビリチビリと飲むようにしました。長年の胃弱からたった1日で解放されました。今では胃弱ではなくなりましたので、朝食も軽く取ることが多くなりました。

 なぜ朝食を止めるのが胃弱に好いかと言いますと、胃腸を休めて、胃腸の力を回復させるからです。前夜の7時に夕食をとり、朝食を抜いて12時にお昼を食べると、胃腸は17時間休めます。

 水を飲むのは、水は新陳代謝の潤滑油だからです。これが不足すると新陳代謝が十分に行われないからです。どの位飲めばいいかと言いますと、尿の色が無色透明になるくらいです。これに色が付いているということは、新陳代謝が不十分だという証拠です。

 その他の事は先に挙げました渡辺氏の本を見てください。書店か図書館にあるはずです。西式の解説書はこのほかにも多数出ています。

 西式健康会館というのが昔は東京の飯田橋にあったのですが、数十年前になくなりました。渡辺氏のほか甲田光雄氏が有名でしたが、今では渡辺医院は息子さんが後を継いでいるようです。関西の甲田医院は本人の死去と共になくなったようです。

付録・食あたり
 注意していても、時には食べ物で胃腸を悪くすることがあると思います。私は、そういうときは「活性炭の粉末」を飲みます。袋オブラートに入れて、包んで飲みます。扱いが下手だと周りを汚しますので、慎重にやってください。活性炭の粉末はネットで買えます。外国に行くときには保険に入りますが、同時に、これは持参した方がいいと思います。


 03、腰痛

 腰痛に悩んでいる方はかなり多いようです。私も軽いものですが、ギックリ腰には3回、なりました。しかし、操体法で自分で治しました。

 操体法というのは橋本敬三氏がつくり出したもので、『万病を治せる妙療法』(農文協)にまとめられています。橋本氏はなぜか自分の組織を作らなかったようですが、弟子たちがそれぞれ自分流に発展させて活動しているようです。ネットで検索すれば出てきます。

 この操体法は本を読んだけでは難しいと思いますので、講習を受けた方がいいと思いますが、とにかく本を読んで自分で練習する意義はあります。最初の方に書いてある「基本運動」なら、本でも分かります。私にとっては「基本運動4」(独特の前後屈体操)がとても効果ありました。腰に疲れがたまった時にこれをすると、明らかに楽になります。

 腰痛を治す体操はこの本に沢山書いてありますが、いろいろなものを試してみて、「これをした後は少し気持ちいいな」と感じるもの(自分に合ったもの)を自分で探すのです。それを見つけたら、1日に4回も5回もそれをするといいと思います。私のギックリ腰の場合は3回とも、だいたい3日間続けたら治りました。

 04、肩凝り

 3年ほど前まで、私も肩凝りがかなりひどくなっていました。かつては西式の木枕を使って少しは好くなったのですが、それも効かなくなりました。自彊術(じきょうじゅつ)の講習を受けてみましたら、これで治りました。

 自彊術はNHKでも放映しましたので、知名度が高まりました。普及会もあって立派な活動をしているようです。本もいろいろ出ています。

 これは全部で31の体操から成り立っていまして、全部すると20分くらいかかります。面倒な人のために「簡略版」があります。第1~4動と第16、31動の6動だけするものです。これで最低限としては十分です。私のようないい加減な人間はこれで済ませています。

05、体力増強

 社会生活では体力は重要です。体力を特に必要とする仕事をしている方々はそれぞれ工夫をしているようです。その話を聞いていますと、たいていの方がニンニクを重用しているようです。

 『民間療法』(農文協)に載っていたものを私は飲んでいました。これは次の通りです。

 材料。生ニンニク 100g 、ハチミツ小さじ10杯、黒砂糖50g 。
 作り方。生ニンニクをおろし金でおろして、広口瓶に入れます。これにハ
    チミツと砕いた黒砂糖を加えて好くかき混ぜます。保存。
 飲み方。1日1~2回、小さじ半分くらいをオブラートに包んで服用。

 06、強い運動の必要な事もある

 体力増強と関連してこれに触れておきたいと思います。と言うのも、学生時代に運動部で猛練習をしていた人が、社会人になって急にそれを止める、ないし軽い運動で済ませるようになったために生活習慣病になったり、高血圧になったり、心臓やその他の不具合に悩まされる人がいるからです。

 私自身そうでした。大した選手ではなかったのですが一応長距離の選手でした。卒業後も少しは練習していましたが、それも段々、「汗をかく程度のジョギング」になって行きました。それが続いて、どうも心臓がだるいと感ずるようになりました。外出中に駅で休ませてもらったり、授業中に苦しくなった事もありました。

 なかなか本当の原因が分かりませんでした。或る時思い立って陸上競技場に行ってスパイクをはいて猛練習をしました。そうしたらいっぺんに解決しました。「自分の体には、時々、心臓に強い負荷のかかる運動が必要なのだ」と悟りました。

 新聞でも、「医者の制止を聞かないで強い運動を再開したら血圧が正常になった」という経験談を何度か読んだことがあります。

 とても健康だった或る人が、何かで入院して心不全で死んだという事を聞いた時、私は「安静にさせられたから死んだのではないかな」と思ったこともあります。

 「強い運動」と言ってもどの位の運動が適当かは本人との関係で決まります。当然です。又、適当な運動が分からないという人もいるかもしれません。公道をジョギングするのは厭だという人もいるでしょう。

 そういう事を考えても多くの人にやりやすい運動としてお勧めしたいのは山登りです。特に冬には低い山に登るのはとても楽しく、健康的です。

 その際、「負荷を掛けるための水」を背負って登るのです。例えば10キロの負荷ならば1リットル用のペットボトルを10本、水を満たしてリュックに入れて登れば好いわけです。その水は上で捨てます。下山では膝を痛める可能性があります。

 この方法ですと、水の分量を調節することで自分に合った負荷量を探しやすいと思います。私も膝と足首が痛くて走れなくなった時、これでしのぎました。

 07、目と歯

 これもその『民間療法』に書いてあったものです。

 毎朝、塩水(自然塩を使うこと)で目を洗うのです。朝の忙しい方は、帰宅後でも、寝る前でも好いと思います。とにかく1日1回は塩水で目を洗うのを試してみると好いと思います。

 歯を磨く時も、まず歯磨きを付けずに水をつけただけの歯ブラシで磨いてから、塩水を口に含んでグチュグチュさせて、歯の付け根などを消毒するようにしています。

 喉がおかしくなった時も、ただ水でうがいをするよりも、塩水でうがいをする方が効果があるように思います。

 今では自然塩が簡単に入手できるようになりましたので、ありがたいと思っています。ともかく、以上の「塩水」とは「自然塩を使った塩水」のことです。

その後、歯は大分抜かれました。眼は特に左目が悪くなり、運転免許返納に追い込まれました。情けないです。

歯医者と眼医者
近藤誠の『医者に殺されないための47の心得』(幻冬舎新書)が売れているそうです。2013年のベストセラーになったとか。村上春樹の小説より売れたのですから、すごい物です。
 私も読みました。かつて私の健康観を覆してくれた渡辺正(しょう)著『医薬に頼らない健康法』(農文協)と根本的には同じだと思いました。数字を挙げて「現代医学」の主張の間違いを指摘しています。朝日紙には批判も載っていましたが、細かい点ではともかく、基本的な点では近藤説は正しいと思います。

 こういう異端的な説が出てくるのは真理のためによい事だと思います。しかし、近藤氏の取り上げているのはガンとか糖尿病とか心臓病とかです。歯の病気とか目の病気の事は載っていませんでした。現在、特に緑内障と宣告された(失明の心配はないそうです)私には、「では歯医者や眼医者の世界でこのような異端的な説を出す人はいないのか」「普通にある歯医者や眼医者と違った治療をしている医者はいないのか」と考えるのは自然な事でした。

 アマゾンで「歯医者」で検索してみました。ありました。飯塚哲夫さんです。いくつか見た上で氏の『歯科受診の常識』(愛育社)という新書を購入しました。読者のレビューには「正しい主張のようだが、ではどうしたら好いのか、解決策が示されてないので、絶望するだけだ」といったようなのが載っていましたが、まあ読んでみました。

 面白かったです。歯医者には歯の病気を治さずに口の中の土木工事をしているだけのデンティストと歯の治療をする歯科医師とがいるとのこと、説得力がありました。

 最後の方に近代口腔科学研究会という組織を作っているような事が書いてありましたので、それで検索してみました。ありました。HPでの説明は本の説明と同じでしたが、「会員情報」のようなのがありましたので、そこをクリックすると、会員の名前と住所などが載っていました。我が家から行けそうな所に会員がいないかと探すと、浜松市にも2人、会員がいました。その1人は隣町でした。

 先週、18日に予約の上、受診してみました。O医師です。かなりのお歳のようでした。白髪、短躯、やせ形だったためか、何か仙人のような感じを受けました。会話もはずみました。明日25日、再度受診します。

 同じようにして「異端的な眼科治療」を探しましたが、見つかりませんでした。『眼科119番』(日刊工業新聞社)を一応購入して、読んで見ましたが、本流の考えのようです。どなたか、眼科治療について異端的な考えを出し、実践している人とその著書を知りませんか。知っていたら、教えてください。お願いします。

 08、脊椎矯正

 私の理解するところでは、東洋医学はいずれも、病気の原因を脊椎の副脱臼と考えているようです。それぞれの療法によって違うところは、その副脱臼の治し方だと思います。

 副脱臼というのは、本当の脱臼というほどひどくなく、痛くもないのですが、少しずれていて、それがいろいろな形で病気とか他の所の痛みとして出てくる、そういうもののことです。

 上記のいろいろな体操などで自分で治せればいいですが、やはりどんな副脱臼でも自分で治せるというほど甘いものでもないと思います。やはり専門家に治してもらう必要のある場合があります。

 そのため、脊椎を診てもらって、必要な矯正を受けることが必要になることもあります。私も、かつて膝や足首が痛くてとても辛いことがありました。脊椎矯正を受けたら、「左の腰骨がずれています」とのことでした。腰骨のずれが膝や足首に出るなどということは、素人には想像もつかないと思います。

 いくつかの所を訪ねて、納得の行く所を見つけるといいと思います。

 09、西洋医学

 西洋医学も否定できません。やはり薬や手術で治すしかない場合も沢山あると思います。私も、薬で治った病気もあります。

 渡辺医院に、「本当の西式とはどんなものか」と試しに入院していた時も、癌の方で、手術の前と後に、西式のために入院するという人がいました。

 10、食べ物

 医食同源と言いますから、食事は大切です。私も気をつけてきたつもりですが、やはり肉の取りすぎ、バターの取りすぎ(ケーキの作りすぎ)などで、心臓に変調を来しました。

 いろいろな経過をへて、結局今ではなるべく『暮しの手帖』の別冊「誠実な食品」で紹介されているものを食べるようにしています。

 これは2001年版と2006年版とが出たようですが、今では少し古くなってしまいました。

 とにかくこれは磯部晶策氏の理念(磯部理念)に賛同する人々の物を中心にして選ばれています。その理念では「誠実な食品の条件」を、安全で安心して食べられること、ごまかしのないこと、味のよいこと、品質に応じた買いやすい価格、の4つとしています。

 決して高くありません。本当に美味しいです。一度試してみることをお勧めします。ネットで「さらど協同組合」と入れて検索すると、この磯部理念を実践する運動の中心的なグループにたどりつけます。そのほかにも同じようにがんばっている人たちがいると思います。

11、あかぎれ、肌荒れ.ゆずの効用

 冬に水仕事をすると、どうしてもあかぎれ等の皮膚の障害に見舞われがちです。私は特に右の親指の爪の端が切れがちです。その予防及び治療としては、私はゆずの実の汁を使います。その実を半分に切って、その汁を傷口に付けるのです。これだけです。卓効があります。
我が家には柚子の木がありますし、田舎ですから、冬には道端に1袋100円で、柚子の実が売られています。都会ではもう少し高い値で買わなければならないかもしれません。

12、脚の健康法

夜になると誰でも足がむくむ。ぬるめのお風呂でゆっくりマッサージすると、むくみや疲れが解消する。

 浴槽の縁に足を乗せ、足首をゆっくり何度も回す。続いて、足の指の間に手の指を入れてもみほぐし、土踏まず、足首、ふくらはぎとマッサージを進めていく。足にたまった水分を、太もも方向に戻すイメージで行うのがポイントだ。

 マッサージ後は、足首やふくらはぎを少し強めに両手で握り、手の力で筋ポンプ作用を起こす。最後に、ひざの裏側から太ももの柔らかい部分をもみほぐしていく。これを毎日30分以上、ぬるめのお湯の中で行う。

 実はこれ、信州大教授の大橋俊夫さんが美脚モデルから聞いたマッサージ法で、「医学的にみても非常に理にかなっている」という。足の水分はリンパ管だけでなく、毛細血管にも多く戻るので、お湯にゆっくりつかって血流を良くし、足を上げながら行うマッサージは、水分や疲労物質の吸収に大変効果がある。

 足のむくみは、弾力性のあるタイツ「弾性ストッキング」を日中に着用することでも予防できる。

 タイツの締め付けが筋ポンプ作用を補い、水分がたまりにくくなる。しかし、健康な人が弾性ストッキングをはいたまま眠ることはお勧めできない。かえって血流が滞り、血管に血の塊(血栓)ができる危険がある。

 リンパを流すと免疫力が上がる。大橋さんは「適度な運動と簡単なマッサージで健康増進に努めてほしい」と呼びかけている。
(読売新聞ネット版、2014年4月13日。佐藤光展)

 感想

 最近は「長生きしたければ、ふくらはぎをもめ」とかいう本が売れているようです。「長生きしたければ、肉を食べるな」という本もあったと思います。

 私も膝を痛めることがよくあります。かつて右の膝を痛めましたが、この時は根本原因は分からず仕舞いでした。自分でも色々やってみた結果、現時点で最良と思う方法はこの読売新聞の記事にある方法です。ここに書かれている通りにするのは大変です。私のは、例によって、「最低の必要条件だけしかやらない」といういい加減なやり方ですが、それは「足首を回す」という事です。左右、別々にします。「踵をしっかり突っ張る」ように気を付けます。この点が一番大切だと思います。

 健康体操では「量より質」です。「なるべく」でいいから、正しくやろうと気を付けることが大切でしょう。正しくやるなら、回数は左右1回ずつでさえ好いと思います。そうでないと、長続きしません。まあ、折角なら2~3回くらいやれば上々でしょう。最近、またまた右の膝に違和感を感じたので、これをしてみたらやはり好くなりました。

 「腰痛でも肩こりでも膝痛でもねじれば治る」とかいう本の広告文を見た記憶があります。誇大広告でしょうが、ねじることで治せる痛みもあることは事実だと思います。

13、水虫

水虫をドクダミで治したという記事があるかと、検索してみましたが、(私の見た範囲では)なかったので、書く事にしました。

 中学生時代に悩まされた水虫に、数年前から再度、取りつかれました。理由は分かりません。とにかくびっくりして、幾つかの事を試しましたが、効果がありませんでした。

 昨年の今頃、「ドクダミはどうかな」と思って、試みた所、あっさりと治りました。今年も又、少し出ましたが、3回ほどで治りました。

 どのようにするかと言いますと、ここは田舎なのでどこにでもある、従って我が家の庭にもあるドクダミの葉を30枚くらいちぎってきて、両手の掌の間で玉を作るようにまとめながら押しつけます。それを、汁が出てくるまで続けるのです。少し時間がかかります。汁が出てきたら、その汁を患部に(患部の周りも含めて広めに)塗るのです。それだけです。これを3回する(1日に3回ではなく、3日かけて3回する)と、治ります、私の場合は。

 気を付ける事は、ドクダミの汁を衣服につけると取れないので、雑巾などを用意して、終えた後、手を洗い、それで拭くようにすること。残ったドクダミの葉はもちろん捨てるのです。

 又、ドクダミの葉は冬でもない限りいつでもありますが、今頃が一番汁が多いので、時期を失しないようにすることです。都会でも少し探せば勝手に取れる所が見つかるのではないでしょうか。

 子供の頃の記憶なので不明確ですが、私は、たしか小学校の3年の夏、デキモノが体に出たようです。ひと夏、お茶の代わりにドクダミを煎じたものを飲まされました。その後は、デキモノが出なくなったようです。

14、ニキビ

青春の象徴という美名を頂戴していますが、本人にとっては辛いものです。ドクダミ茶やドクダミ酒が利くように思いますが、次の記事を読みましたので、紹介しておきます。

紹介・槇佐知子さんは、古典医学研究家で、平安時代初期に編纂された『大同類聚方(だいどうるいじゅほう)』全百巻を現代語に訳し、又『医心方(いしんぼう)』という平安中期の医学全書全三十巻を現代語に訳した方です。

 その方の話から「冷え性」と「にきび」を治す方法についての箇所を引用しておきます。(槇佐知子、『ラジオ深夜便』2012年12月号より)

 ──にきびの治療法もあるんですよ。「三年酢の中へ鶏の子(卵)を三日漬けて、顔に塗れ」って、ただ一行書いてあるんです。

 私も試してみようと、三年酢として売られている黒酢に卵を殻ごと入れたんです。3日漬けてもあまり変わらないので、1週間漬けておいたら、殻が溶けて、お酢を吸ってアヒルの卵ぐらいに大きくなりました。

 いきなり顔へ塗るのは怖いから、手に塗ってみました。ぱりぱりに乾いてからぬるま湯で洗い落とすと、跡が白い手袋をはめたみたいになっていました。試しに唇の下にできたにきびに塗ってみたら、これが一晩で取れちゃったんです。

 にきびで困って病院をいくつも回ったけど治らないというお嬢さんがこれを一週間試したら、顔一面のにきびが治ってしまったんですよ。

 ただ、お酢は刺激が強いし、また卵アレルギーの方は特に注意が必要ですね。

15、冷え性

これについても槇佐知子さんはこう言っています。

── 『医心方(いしんぽう)』っていうのは中国医学だけではなく、薬もアフリカや熱帯アジア産があり、オリエント医学の集大成なんです。

 病気になってから治すのは、下の下。病気にさせないのがいい医師と言われたんです。病気になる前の、いわゆる〝未病″対策もあります。

 その1つとして出ている腹式呼吸を試してみたら、冷え性が治るという予期せぬ効果がありました。私はひどい冷え性で、冬場は靴下をはかないと眠れなかったんです。

 鼻から息を吸って臍下丹田(せいかたんでん)へ送り、お腹(なか)が蛙(かえる)のように膨らんだら、そのまま止める。すると、両足のほうへ気がすーっと伝わっていくのがわかるんです。体がぽかぽかして、すごく調子がよくなるんです。これを「用気法」と言います。(槇佐知子、『ラジオ深夜便』2012年12月号より)

 感想・私も冷え性ですが、そして腹式呼吸には絶大な力があることはかねがね聞いていますし、やってもみるのですが、どうも正しい腹式呼吸ができません。良い先生の指導を受けたいと思っています。

16、便秘

 ラジオで聞いたのか、何かで読んだのか、忘れてしまいましたが、江戸時代、馬が今の車の役をしていました。しかし、馬は生き物ですから、排せつをします。そこでこれをコントロールし、不規則に排せつしないようにと、主(あるじ)は、朝、ごま油を飲ませたそうです。
私は便秘ではありませんが、正常な新陳代謝は健康の基本と考えていますので、「3」の付く日には(つまり毎日ではなく、3日に1度)20ccのごま油を飲みます。油を飲むなどと言うと、ギョットするかもしれませんが、植物油なら大丈夫です。ごま油は美味しいです。ただし、純正品を飲んでください。
特に女性には便秘で悩んでいる方も多いと聞きます。まちがっても害はありません。一度試してみてはいかがでしょうか。

17、自家感作性皮膚炎

この(2017年の)正月以来、「自家感作性皮膚炎」とかいう初耳の名前を持った病気に罹っています。「帯状疱疹の再発かも」と思って1月6日に診療所に行きました。親しくしているK医師は「皮膚病は専門ではないので確言は出来ないけれど、多分、自家感作性皮膚炎でしょう。帯状疱疹でないことはたしかです。皮膚科で見てもらったらどうですか」と言ってくれました。

 私は病名を聞きたかったので、「しばらく自分でやらせてほしい」と言って帰宅しました。そして、その日から毛沢東ばりの持久戦を始めました。

 作戦としては、①ドクダミ茶を飲むことと、②ドクダミ酒を患部に擦り込むこと、の2つを採用しました。

 ドクダミ茶は、水600ccを沸かして、ドクダミの茶葉15グラムを入れて、水が半量(300cc)くらいに成るまで煎じて、それを飲むというものです。

 ドクダミ酒というのは皆さんも聞いたことがないでしょうが、手元にある果実酒の本にも載っていないものです。そのような物がこの世にあるのかも知りません。昨年の10月にふと、「ドクダミ酒でも造ってみようかな」と思い立って、仕込んであったものです。ドクダミの茶葉15グラムに35度の本格焼酎を600cc入れて作るものです。これだけです。砂糖などは入れません。

 このほかに少し試みてみたものを列挙しておきますと、以下の通りです。

 ③ 45度の本格焼酎を患部に塗る。これは農文協の『民間療法』に「かぶれ対策」として載っていたので、試みてみました。最初はかなり沁みましたが、続けませんでした。45度は高価ですし。残ったものはドクダミ酒に使いました。

 ④ 小豆湯を飲む。『ゼン・マクロビオティック』(桜沢如一著日本CI協会刊)には、「すべての湿疹は、病的な疲労した腎臓から来る」とあり、「腎臓疾患には小豆湯を飲むのがよい」とありましたので、試してみました。

 小豆湯というのは、「大さじ1杯の小豆を約2リットルの水で煮て、1リットルくらいまで煮詰めたものに、塩ひとつまみを入れたもの」と書いてあります。私は、これを半分で試してみました。つまり、小豆5~6gに水1リットルを加えて煎じて半量にし、塩1gを加えました。美味しいというものではありませんが、「不味い」という事もありませんでした。悪いとは思いませんでしたが、続けませんでした。

 その後の血液検査では、腎臓は「正常」とのことでした。

 ⑤ 耳の穴の入り口付近と孔の中の壁に、ケシの実ほどの小さな粒が出来ました。このときは、診療所でもらった「リンデロンソローVG」とか書いてある「軟膏」を綿棒に着けて塗りました。一応効きました。又、アエロの液を同じようにして塗ったこともあります。これも悪くはなかったようです。

 こういう作戦で戦ったのですが、1月末までの最初の1か月間は敵の猛攻にあって、ほぼ全身に発疹が出来てしまいました。しかし、1月末頃からは、こちらの作戦も効果を発揮し始めました。腕がすこし腫れたのですが、その腫れが引いて、正常な形に成ってきました。現在は脚の腫れの引くのを待っている所です。これはなかなか引いてくれませんが、全体としては敵の力は明らかに衰えてきています。

 残りは腹部と背中ですが、これも峠は越しましたので、時間はかかりそうですが、これまで通りの作戦を続ければ勝利するでしょう。

 昨年の帯状疱疹は「軽症」でしたが、今回の皮膚炎は「重症」でした。それなのに発熱がなく、だるさもないので、K医師も「これだけ全身に発疹が出ているのに熱が出ないなんて、不思議だ」と言っていました。私は、「初めての経験で勉強になるでしょう。」と言いました。今後も2週間に1度は報告と相談に出向くつもりです。

 PS これを詳しく書いたのは同じ病気の方の参考になるかもしれないと思ったからです。逆に、同じ病気を經驗した方の良きアドヴァイスをいただければありがたいと思ったからです。

18、まとめ・「自分の医者は自分」

 要するに、自分の医者は自分だということです。医者にかかるのも、よく調べて主体的にかかるのが賢明だと思います。ご成功をお祈りします。


活動報告、2019,07,18

2019年07月18日 | カ行
     活動報告   2019年7月18日

 ようやく、遂に、光ファイバーが来ました。

 ADSLが来たのはたしか2005年だったと思います。あの時の喜びも大きかったです。しばらくの練習してから2006年に、正式にブログを始めました。よく書いたものだと、我ながら感心します。何しろ、メインのブログである『マキペディア』のほかに次々とに、「教育の広場」、「浜松市政」をテーマにしたもの、「静岡県政」をテーマにしたものまで、自分では名前を忘れてしまったものまで出したのですから。

 2011年の統一地方選挙の頃がピークだったと思います。その後は研究成果をまとめて出版することが中心になりました。『関口ドイツ文法』を仕上げたのは、2013年のことです。

 次が、昨秋の『小論理学』です。これで「ヘーゲルの論理学の現実的意味を解明して、自分の哲学を作る」という私の哲学研究の目標は、一応、達成しました。

 思うに、1831年にヘーゲルが死んでから、まもなく200年経ちますが、この間、ヘーゲル哲学を真正面から受け止めて、更に発展させた哲学が一つでも出たでしょうか。実存主義だとか現象学などは論外として、人は、あるいは、マルクスとエンゲルスの弁証法的唯物論がそれだ、と言うかもしれません。しかし、私見によれば、この両人もヘーゲル哲学を研究することが少な過ぎました。「発展させた」とは到底言えないでしょう。そして、残念ながら、このことは自称社会主義運動の堕落・変質と結びついてしまったのだと思います。

 このことを論じたのが今回の『フォイエルバッハ論』です。エンゲルスを中心にしましたが、マルクスも同じです。今回の本はいつもの通り、と言うか、いつも以上に、「付録」を沢山を付けました。以下の通りです。

一、フォイエルバッハの生涯
二、フォイエルバッハ全集の目次
三、エンゲルスの生涯
四、『フォイエルバッハ・テーゼ』の一研究
五、ヘーゲル『精神哲学』の最終章
六、弁証法の弁証法的理解(二〇一四年版)
七、価値判断は主観的か
八、議論の認識論
九、実体と機能
一〇、冠詞論の要諦
一一、時代背景(年表)

 そのほかに「後書きに代えて」として「エンゲルスにおける理論と実践の統一」という論文を書きました。結論は「中途半端な理論と中途半端な実践とが見事に一致している」というものです。

 話がそれてしまったようですが、今回の報告は、以上の仕事を、ADSLというインターネット環境の下でせざるをえなかったので、苦労が倍になったということです。しかし、そのようなハンデも遂に無く成ってくれました、ということです。
 
 本当に本当にホッとしました。しかし、今度は私の体力と視力の衰えを認めざるを得ない状況に陥っています。でも、光ファイバーが来たのですから、まだがんばります。牛歩の歩みを続けます。

 次の仕事は『精神現象学』の翻訳の決定版を出すことです。先日出ました熊野の訳は、主として仏訳を参照したそうですが、奇特な人ですね。少し前に出たブルジョアの訳を見たのでしょう。このブルジョアという人は『小論理学』も訳しているのですが、ご丁寧に Zusatz〔付録、補遺〕を省いて、本文と注釈だけを訳しているのです。奇特な熊野の先生に相応しい変人です。しかし、私もそのブルジョア訳を入手しました。どういう訳なのか、読むのが楽しみです。

 今後はブログの更新にも又、力を入れたいと思います。『教育の広場』から残すものを『マキペディア』に移して、整理する仕事も再開します。終活かな?

 では今後もよろしく。

7月18日
牧野 紀之





国語辞典はこれでいいのか(三訂版)

2019年01月19日 | カ行
   国語辞典はこれでいいのか(三訂版)

 岩波書店が『広辞苑』の第7版を出して以降、ものすごい広告を張り続けています。「広辞苑大学」などというものも、どんな大学か知りませんが、開校したようです。朝日新聞紙上でのその狂騒を見る度に、「さすがの岩波も、紙の辞典の売れなくなっている時代に危機感を抱いたのか」との感慨を禁じえません。

 また、先日はNHKTVの「プロフェッショナル」という番組で、辞書編集者を取り上げていました。

 しかし、私は、これだけの情熱を以て辞書(ここでは一応、日本語の「国語辞典」だけを問題にします)の改善に取り組んでいる人たちがいるのに、実際の辞書は日本語の現実の問題に答えていないと思います。なんだかその活動はピントが狂っているのではないかという印象を持っています。

 彼らは第1には、あまりにも語釈にばかり意識を集中しすぎていると思います。辞書編集者を題材にして書かれた小説『舟を編む』に出てくる辞書編集者も、語釈をどうするかばかり論じていました。最新の『広辞苑』でも「間違い」とやらが話題になったのものが2つありましたが、いずれも語釈の間違いでした。第2には、世間の関心も編集者のそれも辞書で取り上げるべき新語に集中するのは必ずしも悪いとは言いませんが、取り上げるべき「新語」の基準が間違っているとも思うのです。

 そこで、これまでにも本ブログで取り上げてきた問題も含めて、日本語の「語句」についての問題点を整理しておくことにしました。日本語の「文法」にも問題はあると思います。その根本は、文法(現代語文法)の全領域をカバーしたものは中学の国語の時間で教えられる橋本文法以外にはない(らしい)という事にあると思います。「研究は常に研究対象の全体を見ながら進めなければならない」のです。日本語文法でも個々の点については優れた提案があるようですが、「日本語文法」と題する著書を公刊する蛮勇を持っている人はいないようです(私は知りません)。外国人に日本語を教える人はたくさんいるようですが、どうなさっているのでしょうか。

 文法はさておき、今回は「辞書」の問題をまとめます。たくさんの辞書が出ていますが、実例としては大修館書店の『明鏡国語辞典』を主として取り上げます。他の辞書で私見を補充する、あるいは反証する実例がありましたら、教えてください。私一人でこのような大きなテーマを扱いきれるとは思っていませんし、その気もありませんし、すべての辞書を揃える余裕もありません。

  小目次

  A・用法
その1・他方
その2・お話を聞く
その3・~に注目です
その4・~を決める
その5・下り坂に向かう
その6・立ち居振る舞い
その7・すごい

  B・重言
その1、ひしめき合う
その2・注目を集める(→Aのその3)

  C・語釈
その1・冷笑
その2・皮肉
その3・募金
その4・王道

  D・意味を曖昧にする新語
その1・事実関係
その2・方向性
その3・方法論

  E・発音(漢字の読み方、アクセント)
その1・七
その2・大地震
その2・市場
その3・他人事
その4・本性

付録1・アクセントについて
付録2・サ変動詞の上一段化
付録3・手皿

   A・用法

 ここで「用法」とは「他の語句との関係」のことです。「まとまった言い方を変更する言い方」も含めます。

その1・他方
 第1に問題にしたいのは、「他方」という語が死語になりつつある、という事実です。どうもこの事実に気付いている人がほとんどいないようなのです。「一方」と「他方」は対比を表す最も基本的な用語です。思考の根本が、弁証法の説くように、「対立した事柄の統一」であるならば、この「対比」を表す語は絶対になくしてはならないものであるはずです。それなのに、「他方」が「一方」で取って代わられたり、使われなくなったりしているのです。しかも、これに気付いて警告している辞書がない(私は知りません)のです。最低です。

 用例を挙げます。

 1-1、日本アンチ・ドーピング機構の浅川伸専務理事によると、コンタクトレンズの保存液が原因で、アセタゾラミドが検出され、ドーピング違反が問われたケースは聞いたことがないという。一方で、使っている点眼薬に禁止薬物が含まれ、ドーピング検査で陽性を示したケースは日本でもあった。(朝日、2018年3月2日)
 1-2、北朝鮮の脅威を除くための外交の試みは20年余りの経緯がある。核やミサイルの開発を許した失敗の歴史にすぎないとの見方がある。一方で成功に至る好機はあったという見方もある。(朝日、2018年03月08日。天声人語)
 1-3、(自動翻訳機の発達で)日本人が苦労してきた「英語の壁」は低く成りつつある。一方で、英語が再来年度から小学校の教科になり、大学入試の英語も変革期にある。(朝日、2018年04月19日、編集委員・山脇岳志)

 感想・自動翻訳機の発展に驚嘆したことを報告している筆者は「現在最高のそれは、英語検定のTOEICで900点を取るビジネスマンと同等以上の和文英訳の能力がある」という話を聞いてきたそうです。では、その優れた翻訳機がこの引用文を訳したら、「一方で」の部分をどう訳すのでしょうか。文脈を理解して、「ここは本当は『他方』というべきところだから」と判断して、on the other handと訳すのでしょうか。それとも「原文に忠実に」on the one handとするのでしょうか。自動翻訳機もいいですが、それと同時に新聞記者の文章や国語辞典の語釈や見落としを校正する「自動校正機」も発達してほしいものです。

 教育問題を中心にして大活躍の斎藤孝の『使う哲学』(KKベストセラーズ)の中に次の用例がありました。

  1-4、ドイツの哲人イマヌエル・カントは「定言命法」を説きました。定言命法とはカントが考えた道徳の原理で、「~すべきだ」「~せよ」という正しい行ないについての無条件の義務のことです。~
 一方、誰もが納得する法則って何だろう、そんなことは決められない、それに、どうしたって、そのときどきの状況によって、できることとできないことがある。(略)」(27頁)
  1-5、 オーストリア生まれのイギリスの哲学者、カール・ポパー(1902年~1994年)は科学は反証可能性が大事であると言い、マルクス主義を批判しました。反証可能性とは、仮説や命題などが実験や観察によって間違っていると証明される可能性のことで、ポパーは間違いであることを証明できる可能性があるもののみを科学と考えました。~
 一方、たとえば、三角形の内角の和は180度であることになっていますが、これに対しては「間違いである」と反証できる可能性はあります。実際には、今に至るまで、平面上では三角形の内角の和は180度とされ、反証されていませんが、反証される可能性はあります。となると、「三角形の内角の和は180度である」ことは科学といえます。(67頁)

 感想・実際、こういう模範を示すべき人が疑問の残る用語を使っているのですから、事態は深刻です。

 では、次の用例に進みましょう。
 1-6、崔(チェ)氏は昨年10月、モスクワで一部記者団に、対話による核問題や米朝関係の解決を訴える一方、「(米国は)最大の圧力を加えて、我々が核を手放すように強要している」と批判した。(朝日、2018年03月08日夕刊、ソウル=牧野愛博)
 1-7、野田政権は「30年代原発ゼロ」に舵を切る一方、使用済み燃料については当面、再処理を続ける方向で調整に入っていた。(朝日、2018年04月22日。関根慎一)
 感想・このように「一方」ないし「一方で」を「前の文の最後に」付ける言い方の場合は、これで自然だと思います。文頭に置かなかったので、文末に置いただけと考えるべきでしょう。いったん句点で文を切った後に、次の文で「一方で」と始めるのが、昔は無かった(らしい)のに、今では当たり前になってしまったのが問題なのです。それはこのように「前文の最後に付ける言い方の影響もあったのかもしれません。

 以上の私見に対しては、「もう一方」というのを短縮して「一方」と言っているだけだ、という反論が考えられます。私も、ここで「一方」と言うのは、前に「一方」という語が出ていない状況だから、「他方」と言うのはどうかなと感じて、「もう一方」ないし「その一方」という意味で「一方」と言ったのが始まりで、それが、今では「他方」などという言葉は忘れられてしまったのだとも思います。

 1-8、英国のEUからの離脱が決まってから2年になる。メイ政権は国内政治に手一杯で、煮え切らない英政府にEUがしびれを切らすという構図は続く。その一方、欧州全体が米国やロシアの問題に直面していて、離脱どころではなくなっている。(中日新聞、2018年6月23日)
 1-9、 改革開放から40年、今月18日の記念式典で習主席が行った重要講話で、中国は引き続き発展を追求していくことが確認された。インフラ整備による大経済圏の構築、若者がリードする大衆娯楽やW杯で見られた消費はダイナミックで、中国経済にはまだまだ勢いがある。
 その一方で、米中貿易摩擦がもたらすマイナス要因に人々は不安を感じ、消費傾向の変化に敏感になっている。今年選ばれた言葉からは、躍動する社会の中で様々な問題を抱えながら生きている人たちの姿が浮かんでくる。来年はどんな言葉が生まれるのだろうか。(西本紫乃)
 感想・しかし、やはり本来は、ここには「他方」が最適だと思います。

 1-10、委員には多くの有能な方に参加して頂きたいと思っていますが、他方、実際には~(2018年03月02日、薬師寺みちよさんの質問に対する安倍総理の国会答弁から)
 感想・ラジオでたまたま聞いていただけなので、「実際には」以下の言葉は「女性の適任者が多くない」といった趣旨ではなかったかと思いますが、はっきりとは分かりません。しかし、最近では珍しく、本当に珍しく、「他方」という語を正しく使ったので記録しました。この点だけは安倍総理を評価します。
1-11、近年アフリカにおいて、国連平和維持活動(PKO)の施設整備や通信の能力強化の取り組みとして実績をあげてきた三角パートナーシップが、アジア、医療分野へ拡大する。(略)開発途上国の中には、要員を派遣できても、装備品の準備や要員の訓練が不十分な国々がある。(略)他方、私が勤務した東ティモ-ルをはじめ、ハイチや南スーダンでも自衛隊は道路の修復や人々の生活再建支援などで活躍してきた。(朝日、2019,01,10。伊藤孝一・国連上席企画官)
 1-12、定義だけで言えば、皇室の公的活動や皇居の維持などに当てられる宮廷費は公金扱いで宮内庁が管理する。1989年度は昭和天皇の武蔵野陵建造もあって約45億円だった。他方、天皇、皇族方の日常費用や毎年の新嘗祭(にいなめさい)などに使われる内廷費は公金ではない御手元金(おてもときん)とされ宮内庁の管理も受けない。(朝日、2019年01月20日。編集委員・曽我豪「日曜に想う」)
 感想・これらの「他方」が本来の使い方だと思います。

 では、この事実を辞書はどう扱っているでしょうか。

 『広辞苑』の第7版はその「序」の9頁で「語義や語法説明の精密さ」と自慢しています(笑)が、「他方」はこう説明しています。

 ①他の方向、他の方面。「~の言い分」「~からの視点」
 ②一方では。別の面から見ると。「頑固だが、~実直である」
 『明鏡』の説明はこうです。
 ⑴(名詞)ほかの方面・方向。また、二つのうちのもう一方。「一方を青く、他方を赤く塗る」⑵(副詞)別の面から見ると、(もう)一方では。

 感想・私見では、「他方」を説明するならば、「一方」と対になる語である事をまず書く。そして、用例を挙げる。「死の念は、一方においては、人の考えをこの固定した生命の有限を超えさせ、他方においては、日常生活を真面目に考えさせるように引き締める」(鈴木大拙『禅と日本文化』北川訳岩波新書49頁)。
 次いで、「一方」の代わりに「他方」を使うのが当たり前になっている現状を確認し、それは間違いであると主張する。「一方」の項には上の用例1-5、1-6のような使い方もあることを説明する。
 明鏡で「一方」を引くと、これは②で説明してあります。が、その明鏡も「純粋な他方」の代わりに「一方」が使われている事実には気づいていないようです。
 結論として、「他方」と言うべき所を「一方」という言い方には絶対に賛成できません。これでは物事を対立で考える弁証法が不明確になります。しかし、今や「他方」は死語同然です。「他方」という語を正しく使っている例は探すのが大変です。

 そうそう思い出した事があります。「大地震」の読み方についてです。NHKではこれを「おおじしん」と読むように決めているそうです。何かの放送で聞いた覚えがあります。
 その他の点でも、NHKには「放送文化研究所」みたいなところがあって、言葉の研究をしているはずです。その部署に属する人が放送の中で出てきて、今関心を持って調べている事について発言することがあります。そのこと自体は良いことだと思うのですが、私見では、そこで取り上げる問題がどうもあまり重要でない事が多いように思います。自分の関心と離れていると「重要でない」と言うのも気が引けますが、私の問題にしている点は、やはり常識的にみて重要な事だと思いますが、どうでしょうか。

その2・お話を聞く

 「お話を聞く」という言い方は頻繁に耳にします。NHKのアナウンサーでも平気で使っています。私見によれば、「お話を」と言ったら後は「伺う」と受けるべきでしょう。逆に「聞く」と言うならば前は「話を聞く」だと思います。こういう事を教えるのは辞書の仕事ではなく、文法書の仕事かもしれません。

付記・NHKの雑誌『ラジオ深夜便』2018年8月号にはこの2種類の用例が共にありました。
 1-1、まさか約40年後、こんなにすてきなお話が聞けるとは……(58頁。遠藤ふき子アンカー)
 1-2、老いや死は誰もが必ず向き合う世界、お話を伺っていて、……(113頁。石澤典夫アンカー)
 (以上、2018年07月23日)

その3・~に注目です

 「~に注目です」という言い方はいつ頃から、どのようにして出てきたのでしょうか。今では全然違和感なく使われています。しかし、「注目」で『明鏡』を見てみますと、その品詞は「名詞、自動詞、他動詞、サ変動詞」とあります。ここで問題になってくる「~に注目です」はもちろん名詞としての「注目」の1つの用法でしょう。ではそれはどういう用法なのでしょうか。他の名詞で同じように使われるものがあるのでしょうか。
 それはともかく、「~に注目です」という所は、昔ならどう言ったでしょうか。「~に注目しましょう」くらいでしょうか。「~に注目するとよいでしょう」とか「~に注目するべきでしょう」は強すぎるでしょう。
 そうこうするうちに、「とりわけ注目なのが~」という言葉を聞きました。やはり「注目だ」という形容動詞が生まれていると考えるべきなのでしょうか。

 注・そもそも「注目を集める」という言い方が今では完全に定着していますが、本来は、これは重言だと思います。しかし、『明鏡』は「不適切な重言ではない」としています。これについては既に~に書きました。

その4・~を決める

 「決める」の前に置く助詞には「~を決める」「~と決める」「~に決める」の三つがあると思います。しかし、いつごろからかはっきりとは知りませんが、かなり前から、ほとんどの場合に「~を決める」が使われるようになってきているように思います。
 『明鏡』を見ますと、私の問題にしているようなことには関心がないようです。しかし、この問題は2009年05月19日に書きましたので、繰り返しません。
 と、書いたら、次の用例に出くわしました。

 4-1、トルコ大統領選で再選を決めたエルドアン大統領は~(朝日、2018年06月25日夕刊、アンカラ渡辺丘)
 4-2、トルコ大統領選は24日、即日開票され、~エルドアン大統領が再選を果たした。(朝日、2018年06月26日、イスタンブール其山史晃)
 感想・後者の方が日本語らしいと思いますが、偏見でしょうか。ともかく、少し嬉しかったです。「~は決勝進出を果たした」という言葉をたまには聞きたいものです。

その5・下り坂に向かう

 テレビでもラジオでも同じですが、天気予報を聞いていますと、「天気は下り坂です」という言い方のほかに、「天気は下り坂に向かっています」という言い方が使われていることが分かります。後者の方が多くなってきているとさえ感じます。これでいいのでしょうか。
『明鏡』の編集者である碩学先生はこのような問題は歯牙にもかけないようです。いや、お気づきでないようです。この問題は2006年10月21日に書きました。

その6・立ち居振る舞い

 これは「用法」ではなく、二つの表現法ですが、ここに入れます。すなわち、「立ち居振る舞い」には「立ち振る舞い」という「居」を除いた表現もあるらしいということです。意味はおなじですから、辞書もそう書いていますが、問題はどちらからどちらがなぜ、あるいはどういう経過で出てきたのか、という起源の問題です。明鏡にはそういう事は書いてありません。分からないなら、「起源がどちらかは分からない」と書くべきでしょう。黙っているのは学問ではないと思います。

その7・すごい

 多くの人が気付いていると思いますが、程度のはなはだしいことの表現に「すごく」ではなく「すごい」が使われています。今や、この「間違った」使い方は9割以上の場合と言ってもよいくらいです。
 鈍感な国語辞典編集者もさすがにこれは気付いていまして、明鏡をみますと、「すごい」の項目に、「話し言葉では『すごい』を『すごく』と同じように連用修飾に使うことがある」と書いてあります。
 なぜ、いつ頃からこのような事が起きたのでしょうか。国語辞典はこの現象をただ記載するだけでよいのでしょうか。私は、「これは間違いだから、止めましょう」と提案するくらいの見識があっても好いと思います。 

   B・重言

その1、ひしめき合う

 「犇めく」で済むところを「犇めき合う」という言い方が多くなっていると思います。つい最近も、次の例を見ました。
 01、新宿駅は利用者数国内1位の座を守り続けるが、1番線から16番線までひしめき合う線路が街の東西を分断。(朝日、2018年6月11日夕刊。細沢礼輝)
 感想・「ひしめく」は漢字で書けば「犇めく」となります。牛が3頭集まっているわけで、これだけで既に「合う」は表現されているのではないでしょうか。『明鏡』には「大勢の人が一か所に集まって互いに押し合うようにする」という語釈があるだけです。「人」に限らず「他の物事」についても転用される、と書くとよかったでしょうが、今言いたいことは「犇めき合う」という重言が一般化しつつあることに気づいていないらしいことです。
 なお、学研の『国語大辞典」には語釈の第一に「ぎしぎしと音がする」を挙げています。3頭の牛が角を突き合わせるとそういう音がするのでしょうか。私はこの意味で「犇めく」を使った文に出会ったことがありません。

その2・「注目を集める」については上に言及しました。

   C・語釈

その1・冷笑
 ウルマンの詩「青春」の最後の方に When the aerials are down, and your spirit is covered with snows of cynicism and the ice of pessimism という句があります。ネットで和訳を調べてみたら、新井満訳と岡田義夫訳と作山宗久訳の3つがありました。cynicismの部分を、それぞれ、「雪のように冷たい皮肉」「皮肉の厚氷」「皮肉の雪」と訳していました。
 日本語では「シニシズム」を「皮肉」と訳すのが常態化していると思います。新井満でさえこう訳すのですから。私は前からこれの不当性を主張してきました。2006年12月09日にあります。
そこに書き落したことを追加します。①冷笑は英語ではcynicism、仏語ではcynisme、独語ではZinismusですが、この語の起源である古代ギリシャのキュニク派のことは英語ではCynics、仏語ではcynique、独語ではZynikerです。語源が良くわかります。
 ② 西欧の人もcynicをironicalという意味で使ったりすることがあるのでしょうか。英和、仏和、独和辞典にはここに「皮肉な」という訳語が載っています。
 ここで再度、論じます。
 皮肉の本質をとてもよく表現したのが次の川柳だと思います。「本降りになって出てゆく雨宿り」です。つまり「良かれと思ってしたことが逆の結果となってしまう」こと、これが皮肉の正体です。「ソクラテスの皮肉」というのも、相手を「知者」と認めて対話を始めますが、その結果、相手は自分が無知者であることを認めることになるというものです。
 ③『明鏡』の説明は、「人をさげすんで笑うこと」とあります。これでは説明不足です。「誰もが尊重するような事柄を」という限定が落ちています。

その2・皮肉

 皮肉については2007年06月29日の記事で私見をまとめました。しかし、「皮肉」の乱用は本当にひどいものです。しかも、辞書がこれに警告を発していないのですから、希望がありません。
 最近も、次の用例に出会いました。
 1、年齢を重ねると、見えるものが多くなる。でも、それを語り合う知己が次々と世を去っていく。この皮肉が、言いようもなく寂しい。(山藤章二。朝日、2018,04,16)
 感想・「見える物事が多くなるのに反比例してそれを語り合う知己が減少する」というのですから、一見「皮肉」のようですが、どうでしょうか。まあ、これくらいなら「あり」かな?

 2、ウクライナ保安局(SBU)は5月30日、首都キエフで隣国ロシアのプーチン政権を批判したロシア人記者が射殺されたと報道された事件が、実は同局による偽装で、記者は殺されていなかったと明らかにした。殺人事件を装ったおとり捜査の一環だったとし、これによって実際に記者殺害を計画していた関係者の拘束に成功したと発表した。(略)
 SBUによると、バプチェンコ氏に対する殺害計画があるのをSBUが探知。バプチェンコ氏本人に協力を求め、29日夕に本当に殺害事件が起きたかのように見せかけて関係者のあぶり出しを図ったという。
 「事件」では、バプチェンコ氏が自宅近くで血まみれになっているのを妻が発見し、病院へ搬送される途中で死亡したとされ、各国メディアが報道した。
 フリツァク長官は、おとり捜査によって拘束された人物はウクライナ国民で、「ロシア治安機関に3万㌦(約326万円)で雇われていた」と話した。ロシア外務省は30日夜、「反ロシアの挑発行為だ」とする声明を発表。「ウクライナ当局は自国で本当に起きている犯罪は捜査せず、代わりにやらせの殺人事件をやってみせるくらいしか能力を示す道がないのだ」と皮肉った。(モスクワ=喜田尚。朝日2018年05月31日夕刊))

 感想・これのどこが「皮肉」なのでしょうか。「皮肉」でないとしたら、これは何と評したらよいのでしょうか。私案は、「~と負け惜しみを言った」ですが、「強がってみせた」、「嫌味を言った」、「あてこすった」などを考えましたが、どれも適当でないと思います。皆さんはどう思いますか。こういう具体例で考えないと、言語感覚は鍛えられないと思います。ともかく「皮肉」はかくも不正確に乱用されているのです。それなのに辞書編集者自身がそれに気付いていないのです。世も末です。 

その3・募金

 1、しかし、奨学金を支える募金(1) は年々減少。2011年の約3億6600万円をピークに17年は約1億8100万円にまで半減した。寄付を募る(2) ボランティアの不足も続く。募金活動(3) は22、28日にも全国約150カ所で実施する。集めたお金(4) は全額、「あしなが育英会」を通じて遺児学生の奨学金に充てられる。(朝日、2018年4月21日夕刊。金山隆之介)
 感想・(1)の「募金」は「集まった寄付金」の意でしょう。こういう使い方も出てきています。賛成は出来ません。「寄付金」とするべきでしょう。(2) の「寄付を募る」はあまり聞かなくなりましたが、正しい表現だと思います。「募金を募る」などという言葉がNHKで平気で使われている時代ですから、「寄付を募る」は立派です。(3) の「募金活動」も正しいと思います。(4) の「集めたお金」は、よくぞ「集めた募金」と言うのを踏みとどまったと思います。

 「募金」は今では「寄付金を出す」、つまり「拠金」の意味でも使われるようになってきています。NHKテレビのニュースを見ていますと、花を手向ける人の映像に交じって、寄付金を置く人の姿を映しながら「中には募金をする人も」というナレーションがなされることがあります。
 この「募金」の意味の変遷(寄付金→寄付金を集める行為→寄付金を出す行為つまり拠金)は、私の知る限りでは『明鏡』が良く追跡しているようです。しかし、「募金」の説明の中で、「寄付金などを集める事。また、その金」という解説に続いて、「俗」として、「金を寄付すること。また、その金」と解説した後に、「難民救済のために募金した」という例文を掲げて、「主催者側の言い方をそのまま受けて言ったもの」と説明しているのは賛成できません。

 先ず第1に、「拠金」と言うべきところで「募金」という正反対の語を使っている、と書くべきでしょう。「拠金」という語を出すべきだと思うのです。
 また、根拠の怪しい「主催者側の言い方をそのまま受けて言ったもの」などという「弁護論」を持ち出すに至っては最低です。
 これは日本人の言語感覚が鈍ってきていることを示す典型的な例だと思います。はっきりと「『拠金』と言わなければなりません」と書くべきでした。世間に迎合するのは学者ではないと思います。
 逆に、「拠金」の項には、「『拠金』の意味で『募金』と言う人が増えています」という事実の指摘がなく、「これは困った現象です」という批評もありません。
 本当に、まともな辞書がなくて困ります。

その4・王道

 予備校の広告などを見ていますと、「何々への王道を伝授する」といったような文句が出てきます。これで好いのでしょうか。「学問に王道なし」という言葉は間違いで、実際には「学問にも王道、つまり『楽をして目的地に達する道』がある」のでしょうか。

 『明鏡』━━①儒教で、有徳の君主が仁徳を以て国を治める政治の道。覇道の反対概念。②安易な方法。「学問に王道なし」。③最も正統的な道。「古典研究の王道を行く」。
 ③の意味で使われている事実を事実として認めているわけです。しかし、これで好いのでしょうか。学研の『国語大辞典』を見ると、③は載っていません。つまり、これは最近になって(と言ってももう20~30年以上も前から使われてきていますが)、使われ、何の疑問も持たれなくなってきたのです。私の記憶でもそうです。ということは、誤用の始まった頃にいち早く警鐘を鳴らさなかった辞書編集者にも大きな責任があるということです。『明鏡』の編集者にはこの種の反省がないと思います。私は、今からでも、③の意味では「正道」を使うように変えてゆくべきだと思います。

  D・語義を曖昧にする新語

その1・事実関係

 01、野党議員は2日午後、東京労働局に出向いて勝田氏に会い、事実関係を確認。(朝日、2018年04月03日)
 02、東京労働局が公表済みの是正勧告の事実さえ、加藤氏が説明を拒んだ理由も不可解だ。(朝日、2018年04月03日)
 感想・いまでは「事実関係」のオンパレードの様相を呈してきています。この「事実」(「事実関係」ではありません)に気付いていない方は、注意してニュース番組を聞き、新聞を読んでください。『明鏡』で「事実」を引きますと、「実際に起こった事柄」といった語釈の後に、説明もなく「事実関係」と載っています。そして、「事実関係」という項目はありません。辞書編集者の責任を放棄しています。

その2・方向性

 01、選手の意見を尊重するのが西野監督のスタイルだ。ミーティングは活発になった。ただ、ピッチ上で攻守に方向性が見えぬチームに、話し合いが有効になっているのかどうか、疑問に思っていた。25歳の大島は言う。「皆がそれぞれの成功体験を話すことで、一つの方向に行かない難しさはある。」(朝日、2018年6月13日。藤木健)
02、(東電の福島第二原発の廃炉決定に関して)小早川社長は〔県知事との〕面会後、報道陣に「大きな方向性を示させて頂いた」と繰り返し、すべて廃炉の方向はごく最近、取締役会で説明し、賛意を得たと述べた。(朝日、2018年6月15日)
 感想・このようにごっちゃに使われています。全体としてはやはり「方向性」の方が多く使われていると思います。『明鏡』には「方向性」は載っていないようです。「方向」欄にも言及はありません。「他方」の用例2に「方向」が使われています。

 ウィンブルドンのテニスの試合を視聴していたら、「正確性を欠いている」といった言葉に気付きました。日本人は、やたらと「性」を付けて曖昧な表現を作るのが好きなようです。

その3・方法論

 「方法」と言うべきところで「方法論」と言う人が少なくありません。これについては2012年01月17日の項をお読みください。

その4・哲学の世界では、「関連」の代わりに「連関」という用語が使われるが普通です。なぜでしょうか。「哲学用語は日常用語とは『ちょっと』違う」という考えと関係があるのではなかろうか。賛成できません。関連で十分です。

   E・漢字の読み方

 その1・七

 今年(2018年)の3月11日は東日本大震災の7周年記念日でした。朝からラジオやテレビを聞いていますと、「震災から7(なな)年経って」という言葉が繰り返されました。「おや、『しち』年ではないのかな?」と思いました。その後は「しちねん」と言う人も多く出てきました。どちらが正しいのでしょうか。

 ① 「しち」──七福神、七転八倒、藤井総太七段、
 ② 「なな」──七転び八起き、七回の表、河津七滝(かわづななたる)、
 特注・証書などで金額を記す場合は間違いを避けるため「漆」とも書く。(明鏡)
 
 どういう場合に「なな」と読み、どういう場合に「しち」と読むのかを教えている辞書はあるのでしょうか。知っている人は教えてください。

 考えてみますと、日付の読み方では、月は「いちがつ」「にがつ」「さんがつ」……、日は「ついたち」「ふつか」「みっか」……ですから、「七月七日」は「しちがつなのか」と読むはずです。この「月」と「日」の読み方の違いはどこから来たのでしょうか。日の読み方はしかし、十一日以上は「二十日(はつか)」を除いて、漢字読みと言うのでしょうか。大和言葉ではないと思います。

その2・市場

 築地市場(つきじしじょう)の移転問題で、この名前が頻繁に聞かれています。しかし、「これは昔は『築地いちば』と呼んだはずだったのだがなあ」と思う人は、私のように「棺桶に片足を突っ込んだ老人」だけでしょうか。
 「いちば」と「しじょう」の違いを辞書はどう説明しているでしょうか。これは既に2014年08月29日に論じてあります。

 今回は『明鏡』を見てみました。

 b・しじょう━━①売り手と買い手が集まって、商品や株式取引を行う特定の場所。中央卸売市場、証券取引所。②商品の売買や交換が行われる場を抽象的にいう語。国内市場、国際市場、金融市場。③商品が売買される範囲。販路。マーケット。④いちば。
 a・いちば━━⑤定期的に商人が集まって商品の売買を行う所。市(いち)。⑥食料品や日用品などの小売店が集まった常設の共同販売施設。
 念のために「市(いち)」も引いてみました。⑦多くの人が集まって品物の売買や交換をすること。また、その場所。市場。「市(いち)が立つ」「朝市」。⑧多くの人が集まる場所。「市(いち)に虎を放つ」。

 「市(いち)」という言葉が先に出来て、それの場所をも表すようになったのが第2段階でしょう。そのように「現物」を扱う所であることは当然の前提だったのですが、資本主義の発達で株や債券の市場(しじょう)が開かれた時、これは「現物」ではなく「観念的なもの」を扱うので「しじょう」と読むようになったのではあるまいか。今では、株や債券の売買も一般化して、特殊な専門家だけの事ではなくなったので、「しじょう」という言葉が日常用語になったのでしょう。その時、多くの人が両者の違いを意識しなくなり、現物を扱う所もある種の場合には「しじょう」と言うようになったのだと、推測します。
 私は今でも、現物を売買する所はどんなに大きくても「いちば」と言ってほしいと思っていますが、もう無理な願いでしょう。しかし、今でも地方の魚市場(うおいちば)とかはそのままですし、卸売り市場でも「いちば」と呼ばれているところはあるようです。ニュースを注意して聞いていてください。
 「築地中央卸売市場」でさえかつては「おろしうりいちば」と呼ばれていたと思います。私の若いころはそうだったと思います。最近のニュースでも、昔からある従業員の組合(団体)の名前は固有名詞であるがゆえに「築地いちば~組合」と呼ばれている例を1つだけですが聞きました。何だったか、記録しなかったのは残念です。興味のある方は、築地市場に行って、年配の人やおかみさんに聞いてみてください。「昔は『いちば』と言った」とか「今でも『築地いちば』と言っている団体はある」と教えてくれるはずです。こういう言葉の問題に関心のないジャーナリストが多すぎて、私は孤立無援です。

 思い出したことを1つ付け加えます。築地の「場外市場」も今では「場外しじょう」と呼ばれているのでしょうか。ここは完全に「現物」を売買していますから、「場外いちば」と読むべきだと思いますし、昔はそうだったと記憶しています。これも興味のある人は調べてくださるようにお願いします。

 付記・書くのを忘れていた事を思い出しました。それはネット通販の大手「楽天市場」はその創業の当初から自分の名前を、正しく、「楽天いちば」と呼んでいることです。(2018年07月23日)

A・市場(いちば)の用例

 既に記録しましたが、大きいのでは、楽天市場があります。
 ネット空間ではなく、リアル世界で必ず「いちば」と読んでいるのは「魚市場(うおいちば)」です。
 魚が中心でしょうが、他に野菜なども扱っている所で、大きなものでその後見つけたのは、京都の錦市場(にしきいちば)があります。朝日紙にカナが振られていました。
 金沢市の近江町市場(おうみちょういちば)もこちらです。こういう大きな市場でも、旧習を守って「いちば」と言っている例を見つけると嬉しくなります。ただし、金沢市には金沢市中央卸売市場(しじょう)というのもあって、これは文字通り卸売りで、小売店が買いに来るのだそうです。
 小売りは「いちば」と呼び、卸売りは「しじょう」と言うとすれば、一応の原則は出来た事になりますが、他所はどうでしょうか。この伝で行くと、築地は場外市場は「いちば」と呼び、卸売りの方は「しじょう」となりますが、そうはなっていません。

 上に書いた京都市の場合はどうなのでしょうか。錦市場以外に卸売り市場があるのでしょうか。と考えて、市役所に電話で聞いてみましたら、中央卸売市場(いちば)というのがあるそうです。さすがに古きを愛する京都! こちらも「いちば」でした。
 皆さん、自分の都市なり町なりの「市場」の呼び方を確認して、面白い事があったら教えて下さい。

 築地市場について大発見をしました。東京証券取引所への登録名が「築地魚市場(つきじうおいちば)」となっていることを発見したのです。確かめたい人は、本屋に行って、『会社四季報』を手に取って、コード8039を探してご覧なさい。ちゃんとカナが振ってあります。

 しかし、この会社名もその内に「豊洲市場(しじょう)」と改名されるのでしょうか。ああ。

 断っておきますが、私は、読み方を元に戻せと言っているのではありません。言葉は変わる物ですから、変わっても好いのですが、いつ頃、なぜ変わったのか、を考えてほしいと言っているのです。少なくとも、辞書はそれを書くべきだといっているのです。こういう事に多くの人が関心を持つようになってほしいのです。
 「しじょう」か「いちば」かで言えば、個人的には、「いちば」の方が、その「賑やかさ」が聞こえてくるようで、楽しいから好きですが。

その3・他人事

 これについては『明鏡』が明快な説明を与えています。
━━明治・大正期の文字で「ひとごと」とふりがな付きで書かれていたものが、後にふりがなが取られ、「たにんごと」とも読むようになった。

その4・本性

 これは「ほんしょう」と読むのが本来の読み方でしょうが、哲学の世界ではなぜか「ほんせい」と読むようです。哲学者はくだらないところで「差」を付けようとするようです。情けない習性です。「呪物」でいいところをわざわざ「物神」という新語で置き換えるのも、そういう所でしか新味を出せない無能学者の負け惜しみでしょう。

付録1・アクセントについて

 日本語は高低アクセントなので、紙の上に表示するのは難しいですが、かつては高低のあった語が今では平板に発音されることが多くなっているようです。サークル、クラブ、など。
 私のような老人は世を去るべきなのかもしれません。最後のあがきとして、いくつかの出版社の辞書編集部にこの論文を送ってみようかと考えています。

付録2・サ変動詞の上一段化

 「論ずる」を「論じる」と言い、「感ずる」を「感じる」と言い、「信ずる」の代わりに「信じる」というように、本来はサ変動詞であったものを上一段動詞として使うのは今では一般化していると思います。少し古い方には同じ語について両方を、使い分けているのではなく、多分無意識にごっちゃに使っている人もいます。
 いつ頃からそうなったのか、調べたことはありませんが、たまたま読んだ鈴木大拙の『禅と日本文化』(岩波新書、1940年初版)では訳者の北川桃雄は「転ぜられる」ではなく「転じられる」と書いています(63頁)から、この変化はかなり前から起きていると推察出来ます。先に申しましたように、今ではこれは基本的に上一段になったと言ってよいと思います。実際、語釈は上一段の方に書いて、最後に「=感ずる」と断っているだけです。これでは不十分だと思います。代表的な語を決めてきちんと書くべきでしょう。
 この点で例外があるのを発見しました。「禁ずる」です。明鏡ではサ変の方に語釈を書いて、上一段の項にはただ「=禁ずる」とあるだけです。どちらに語釈を書くかで基準を決めていないのでしょうか。こういう事に無頓着な事自体、褒められた事ではないと思います。

付録3・手皿

 「手皿」という名詞は本当にあるのでしょうか。ヤフーの「辞書」で検索すると、「長手皿」といった語しか出てきません。しかし、そのヤフーでも「WEB」で検索すると、手皿が礼儀に適った作法か否かでの議論が沢山載っています。
 私は、手皿はダメだと聞いています。箸で持った物を口に運んでいる途中で落としたら、それが食卓に落ちるのを防ぐのに何で受けるべきでしょうか。手で受けたら、手が汚れます。その手は何で拭うのでしょうか。ですから、茶碗とか皿とかを常に左手で持っていて、運んでいる食べ物の下にセイフティネットのように構えているのが日本の食事作法だと聞いています。
 テレビを見ていますと、美しい方々の多くが、この手皿を使っています。子供たちはそれを自然に「模範」として理解して育ちます。
 まず、国語辞典に「手皿」を掲載することから始めなければならないようです。これが「礼儀正しい日本国の現状」です。


 付記・2019年01月20日に小さな加筆を行いました。これでこの記事は一応の終わりにしたいです。










「天タマ」第23号

2019年01月17日 | カ行
「天タマ」第23号(1999年11月15日発行)

           浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

 8日はいつもとは違う授業形態にしました。講師が「天タマ」22号について自分の意見を話しながら時々生徒の意見も聞く、という方法で60分。その後、VTRを見ました。レポートの時間は短かったので、何か1つのテーマに絞って書くというようにしました。

 時にはこういうやり方を取り入れた方が好い、という意見が多かったようです。が、今までの方がよかったという意見も2つありました。

──みんなで意見交換して考えを深めていくのも私は好きですが、私はもっと先生の今まで経験した事やいままで考えてきたことをじっくり聞きたいです。

──物事をこんなに深くまで考えられるものだということにちょっとびっくりした。1つのテーマをいろいろな角度から見ていくことはとても大切であり、1つの方向からしか見ていないと、何も見えてこないと思った。

──今回の授業では、前からの流れを時々組み入れて(17号の文、トップについてなど)、1つ1つの授業が相互作用して関連していて、前考えたことをもう1度冷静に振り返ってみることも大切だと思った。

 ★ 皆さんの考えを聞いていて、やはり拙いなと思う点が分かってきました。それは「ふざけた意見や載せていいもの・悪いものというのは、人によって違い、判断が難しい」というような考えです。

 「人によって違う」ということは、「好い悪いは決められない」、だから「自由だ」、ということになるでしょうか。

 世の中には社会通念というものがあります。もちろんそれ自体、時代と共に変化していきます。しかし、今という時点を取ったらやはり一応、社会通念は決まっています。そして、その通念に従って許されることと許されないこととが判断されるのです。

 個人の主観から「出発する」のは結構です。しかし、そこに留まっていては考えは進歩しませんし、社会的に通用しません。つまり大人とは言えません。極端な場合を挙げますと、いくら皆さんが「個人の自由だ」と思っても、裁判で判決が出て「あなたが悪い」と言われたら、それでお終いです。日本は法治国家です。

 自分の主観に閉じこもらないで、親や他の大人と話して「世の中の基準」というものを知り、それと比べて自分の考えを深めていって欲しいと思います。

      匿名のアンケートについて

──いくらアンケートで名前を出さなくても、言っていい本音と悪い本音があると思います。先生は自分の考えをしっかり持っている人だと私も思います。その下の意見もきっと同じ事を言いたかったのだと思います。言い方書き方によって受け止め方も変わってきます。そこらへんは難しいと思った。

──23回生のアンケートの「自分の考えが一番正しいと思いこんでいる」という意見には、きっと続きがあるのだと思います。「先生の話を聞いていると、自分の考えが一番正しいと思い込んでいるように見受けられるので、私の意見も受け入れてほしい」のだと思います。

 きっとその人は、哲学の授業で自分の意見に対して先生に批判されてしまったのではないでしょうか。自分の考えたことに対して、ただ「それは違っている」と批判されてしまうと、辛いと思います。

 一度意見を受け入れた上で、やんわりと自分の意見を話せば、先生に対してそういう意見がなくなると思います。先生は、少し話すのが早いので、そういう風に取られてしまったのかもしれません。私は、先生は自分の意見をしっかり持っている人だなと思ったけど、もう少しゆっくり話してもらえるといいなと思います。

──最近しばしば匿名ということが問題として取り上げられていますが、そこまで匿名にこだわる事がよく分かりません。1つの事を考えるのは良いことだけれど、考えすぎると熱が入りすぎるし、自分の考えが正しいと思い込んでしまいやすいと思います。先生の考えも分かりますが、こうじゃなきゃいけないと言われているような気がして、授業を聞いていることが少し苦痛に思えてきました。

──今までは無記名や匿名の裏の部分なんて考えたことはなかった。他人を批判する手段としては、とてもずるくておそろしい方法だと思った。しかし、他人を批判するのはやっぱり後ろめたいことなので、どこまで許されるのか考えて書くべきである。

        組織はトップで8割決まる

──私のバイト先の大型小売店の内部事情を見ていると、トップだけでもないかなと思います。パートのおばさん達によって左右されているように思うからです。これもある意味でトップのためにそうなっていると、取れるかも知れませんが。ちなみに、そこでは自己評価と上司による評価とがあり、それによって給料も出世も転勤場所も変わってきます。紙一枚で人生が左右されるのですから、恐ろしいと思います。

──母は「うん、そうかもしれないね」と言っていました。母は准看護婦としてある病院で働いています。看護婦として患者のことを優先的に考え、働いているつもりなのに、周りから「そこまでしなくても~」と陰で言われたこともあるそうです。同じ経験をした准看の人もいるそうです。

 でも、そんな母たちが言われて終わりになってしまうのは、主任や婦長などの上の立場にある人が大きく関わっているのではないかと思います。上の人達の仕事に対する考えが部下に伝わっていないのか、上の人達が曖昧にしているから、母たちのような人が目立ってしまうのかなとも思います。こういう事も考えると、就職先も内部の状況を調べて選びたいと思います。

──父に相談した。久しぶりに親との会話が成り立ったように思う。父は一生懸命に話し、うなづいている私にご満悦のようだった。父はどうしたらトップになれるかを熱く語っていた。この事から、父はトップに立てば何でもできると思っているらしいことが分かった。

       デンマークの医療制度

──私の父は病院で働いているが、実際病院で入院しても入院費が払えず逃げてしまう人も少なくない。病人に「入院費が払えるかどうか確認してから入院させる」という事実を冷たいことだと分かっていながら仕事として行うのに抵抗がある、と言っていた。

 デンマークの人々はお金云々でなく、病院という施設、介護という制度自体を大切にして運営しているのだと感じた。日本人は「お金があればなんとかなる」という考えが他国に比べて強いことが、介護保険の話し合いが長引いている原因のような気がする。

──デンマークの制度は良くできていると思います。でもうまく機能しているのはデンマークだからで、日本に導入するとしたら、日本に合った型に変えなければうまく機能しないと思います。歴史・文化・国民性などの違いがあるから、無理に押しつけても良い効果は得られないと思います。

        VTR「デルフトの眺望」

──VTRを見て、高校の修学旅行を思い出しました。長崎でハウステンボスへ行きました。とても広く、1日では全然見て回れませんでした。ああいう所に住んだら、きっとずっと外の景色や窓からの眺めを見ていたいと思います。

──フェルメールは私がもっとも愛する画家。私がフェルメールに出会った最初の絵がこの「デルフトの眺望」でした。そこに描かれた光と影、そこに立つ人の一人一人がまるで生きているかのように描かれている。それから沢山のフェルメールを見ました。彼は人を描き、その中の人はほとんどすべて、日常の動作の中の一瞬をとらえたかのように、絵の中で息づいているものばかりです。

 「デルフトの眺望」を見た時にも鳥肌が立つ思いでしたが、今もなおフェルメールの生の絵を見るとそう思います。昨年、京都でニューヨークの美術館の絵を展示する機会がありました。その中に一点、フェルメールの「手紙を書く少女」があり、私はすぐに足を運びました。茜色の毛皮のつけた上着をはおり、手紙を書きながらこちらを一瞬振り返ったような少女の顔と、現実のようでそうでないライティングの技法はまさに「その時」を一枚の絵に閉じ込めたかのようです(少女はフェルメールの娘で、その上着はプレゼントに彼女に贈ったものとも言われていますが)。

 私は今後も彼の全36枚の絵に会いにゆくつもりです。1枚はとある王室の家にあり、見るのはかなり難しいのですが。

          その他

──「天タマ」22号で先生が「犬が亡くなるはおかしい」と書いていました。きっとこの犬は家族同様に生活してきたのだろうから、別に「亡くなる」でもいいと思いました。この犬の飼い主がょっとかわいそうだと思いました。

──今日は自分のレポートが再び話題に取り上げられてびっくりした。私のいた高校は、体育の先生がみんなこわい人達ばかりで、その時の体育の先生は入ってきたばかりでした。他の体育の先生は、教室で生徒をけって怪我をさせたりして、ニュースでも取り上げられ、地方にとばされた人が何人かいるほどでした。だから、私の体育の先生もそんな感じで、厳しくしてきたのだと思います。

 担任の先生はもう何年か勤めていたので、体育の先生に話をしてくれました(体育の先生がもっと偉い人だったら、どうしたのかは分かりません)。それで、逆立ちはやらないという事になりました。次の体育の時、行くのが嫌だったけど、それから逆立ちをすることになっても、何十秒もやるのではなく、足を何回か上に上げるだけというものに変更されました。

 体育の先生とも、逆立ちの事は言わないけれど、仲良くなれました。教師の間での話はとても難しいことだと思います。だけど、そのお蔭で私は体育も何とかやってこれたので、感謝しています。

──中学の時、体育で持久走の授業があり、全員が1000mを5分以内でないと、切れるまでずっと体育の授業は持久走というルールがあった。どんなにがんばっても5分は切れず、体育が大嫌いになり、その先生が鬼に見えて顔を見たくなかった。(中略)人には得手不得手があるし、みんながみんな同じ目標は無理だと思う。だからその先生も個別性を考えて欲しかった。

──カンファレンスの内容が多いという意見は、私も同感である。実習の時でも、グループでのカンファレンスで、1つの話題でも言いたいことが沢山出てきて、結局かなりの時間話し合っている。物事を深く考えるのなら、テーマは1つにしぼり、もっと時間をかけるべきではないかと思う。

 またグループ内だけでなく、グループでの話し合いの結果を発表してクラス全体で話し合う時間があったら、考えが一層深まっていくかれしれない。時々はそういう時間があっても面白い。

   お断り

 昼休みに「天タマ」を読むことに反対の意見がありました。アンケートで聞きます。

「天タマ」第22号

2019年01月03日 | カ行
「天タマ」第22号(1999年11月08日発行)

           浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

 今年は「先生と生徒は対等か」ということから始めました。これは親子、看護婦と患者、上司と部下の関係にも関係しているということになりました。又、下の立場だけから考えるのではなく、上の立場からも考える必要があるということでした。又、それはその関係を取り巻く大小の状況とも関係させて考えなければならないということでした。

 これらを踏まえて、今後は当面、両者の関係を公正なものにしていく様々な方法を考えてみます。まず4日には「生徒による授業評価」を取り上げました。

      生徒による授業評価の経験

──本校でも一部の授業で行われている。授業の内容、先生の態度、声の大きさなどについて生徒が評価するものであった。最初は1~5にマルを付けて評価するのだが、最後に記述もある。先生の熱意が感じられた。

──実習のあとには、今回の実習での担当教官の熱意や指導のあり方はどうだったのかというアンケートを書きました。私は、初め書くのがイヤだったけど、しっかりそのアンケートを書いたら、今後先生たちが考え直して授業や実習に臨んでくれると思い、書ける所はしっかり書くようにしました。

──中学高校と通っていた塾ではこのようなアンケートが定期的に、しかも先生一人ずつ、細部にわたって生徒が評価するということを行っていました。そして、授業が分かりにくい先生や、生徒が嫌いな先生は、すぐにとばされたりして、先生がどんどん代わっていました。このように先生を代えることが正しいのかは疑問でした。

──小学校の頃、先生への通信簿を書いて交換したことが一度だけある。わたくしはその先生が好きで、オール「よくできました」だった。授業評価は両者の信頼関係を築くのに役立つから導入すべきである。

──私は中高一貫校だったが、そこでは生徒ではなく、親に子供の話を聞いてもらい、学校への意見を出してもらうというものがあった。匿名で。私の家にも高3の時、そのアンケートをやってもらいたいという依頼がありました。両親にも、なんでこんな回りくどいやり方をしているのだろうという意見もありました。なんで直接生徒に聞かないのか、考えていました。

──私は中高一貫校だったが、毎年ではないが、全校で、先生方や学校の方針についてのアンケートを行い、無記名だったので正直に書けた。

──教師側の希望で行われるのだと思ってきたが、生徒側の希望でも可能であることが分かった。生徒側にも自分に合った教育、好きな先生を選ぶ権利があってもいいのではないかと思った。私の知り合いの大学生は、人気のある教師の授業を受けようと希望を出したが、抽選で外れた。生徒側の選ぶ権利も重要だ。

──授業は先生と生徒が協力してつくっていくものだと思うので、先生が生徒に授業態度のことで注意したりすることが出来るのなら、生徒も先生に要望が言えてもいいと思います。

──教師は自分の中でだけ考えた授業を行うのではなく、生徒の反応、反響を取り入れつつ、毎回、授業のやり方を変えたり、生徒の意見から日々改善することが大切だと思う。

──高校の時、担任の先生に「○○先生は分かりずらいです」と訴えても、「ああ、しょうがないねぇ。でもがんばってみて」としか言わなかった。授業の評価を先生に訴えても、生徒の意見を受け入れてくれる制度が学校になければ、意味がない。

      その問題点と提案

──評価を求めても賛否両論になる。先生はどうするのかな。
──小学校での導入は早すぎる。中学高校では行うべきだ。
──中学では内申点を気にして思ったことが言えないことが考えられる。

──小中高は決められた授業で決められた先生なので、授業評価までやらなくても、意見があった時にはいつでも意見を出せるような方法をとればよいのではないだろうか。

──アンケートより生徒の受講態度が評価になると思う。つまらない授業は生徒は聞いていない。分かりやすく教えてくれると真剣に聞く。知的好奇心をくすぐるような授業は拍手したくなる。先生達はそこからも感じてくれるといいと思う。

──本校でのそれもそうだが、たいてい、授業の最後にアンケートをとるため〔改善点があっても〕私たちの授業では直してもらえない。授業の中頃にやってほしい。

 ★ 1時間ごとという意見もありました。

──先生が本当に直してくれるのか分からない。制度からみて直せる限度もあると思う。

──アンケートをしたら結果を公表し、改革案を発表してもらいたい。

──アンケートをとる授業は大体よい授業で、本当に考えてほしい授業ほどアンケートを取らない。

──匿名で評価表を出すのは、先生の悪い所など言いにくいことも素直に書けるので、場合によってはいいと思う。

──アンケートを生徒が集計するのもいいと思う。最終的には先生と生徒の信頼関係の問題だと思う。

──先生でも生徒でもない所がアンケートをとって、それを生かすことが大切だろう。

──生徒が本心でアンケートを書いているかが問題。
──好き嫌いの感情の入ってしまうのが問題。
──授業そのものではなく、先生の人間性についての評価になってしまう恐れがある。

──私は授業評価に何の関心も持っていなかった。めんどくさいだけだったように思う。導入するなら、授業評価の意味を〔生徒に〕理解してもらう必要があると思う。

──学校が塾みたいになる危険がある。学校で何かしたり、相談相手になったりがおろそかになるとか。

──問題は生徒に先生がこびる事にならないかという事だ。

 ★ 予備校などでは、講師が生徒の受講態度を注意しなくなるという噂も聞きます。

──評価はやりすぎがよくない。度を越すと、その評価を活用するどころか、それにより傷つき自信をなくすこともあると思う。

      病院や学校での 360度評価

──学校や病院での 360度評価は意味があるが、自分が上司、同僚、部下(あるいは生徒)から評価を受けること自体、大変なストレスとなり、多忙で神経を細かく使う仕事には負担になりすぎないだろうか。元々、人間とは欠点があり、それを理解して共同で仕事にあたっていくのだから、チーム力を高めるという点についての評価をするなど、内容が問題ではないか。

──病院に導入するのは面白い。患者、婦長、先輩看護婦、同僚から、みんなに評価されていると思えば自然と緊張感を持って仕事が出来る。悪い事を書いたら可哀相だとか、失礼かなとか考えないように、様々な工夫をし、評価することの意味をみんなが理解することが大切である。

──評価の対象となる人が評価者を選ぶのはなんだか変だ。その人にかかわるすべての人に評価されるべきだ。上・下・横の人間関係全てから評価してもらうのはよいと思う。

──部下からの評価が大切。部下だからこそ気づける悪い所もあると思う。

──特に、医師や看護婦に患者さんからの評価を与えるべきだと思う。

──自分が評価されるのは怖い。

      その他

──哲学の授業は深く物事を考えることが目的なのに、カンファレンスの内容が少し多いように感じる。

 ★ 私も授業が進んできて、少し混乱してきているように感じています。いろいろと考えた結果、今回はレポートを「その他」だけにして、講師の話す時間を増やすことにしました。それが皆さんとの対話で「全体カンファレンス」になれば嬉しいです。また、「天タマ」も今回は「生徒による授業評価」関連の問題に絞り、その他のことは次の号に回すように編集しました。

──「天タマ」に載るみんなの意見の内容が濃く、そしてハイレベルになってきたように思います。自分の考えをしっかり持つことが出来るようになり、大人になっていくのだと思います。

──もう何回か哲学の授業を受けてきて、自分の考えることが増えてきたように思う。

──今回の「天タマ」で、話し合うというのは馴れ合いでもなければ感情的対立でもない。自分の意見も冷静に言い、相手の意見もきちんと聞く。その中で本当の事はどうなのかと、一緒に考えていくことである、ということが書かれていた。これを読み、本当にそうだなと感じた。

 私はすぐ感情的になってしまうことがある。特に父親の考えをいつも素直に聞くことができないように思う。又、一方的に自分の意見を言ってしまうことが多いように思う。自分なりに気をつけようとはしているが、なかなか直すことができないでいる。どうしてかと考えてみると、私はしっかりと自分の考えを持っておらず、そのため自分に自信がないのだと思う。そして、相手の意見をきちんと聞くという心のゆとりがないからだと思う。

 哲学の授業を通して、自分の考えをもっと深め、自分の考えとして冷静に言えるようになれたらいいと思った。

 ★ 事柄(内容)について話すだけでなく、話し合いのあり方自体(形式)をテーマにして話し合うことが出来るといいと思います。親しい間柄ではこれが難しいのですが。哲学が形式的な学問だということは、こういう反省をしながら考えていく学問だからです。この授業でも、匿名希望の意味について反省したのがその一例です。

──「天タマ」の中で、否定的とか批判的という言葉が出てきていた。みんな違う考えを持っているのだから、意見が合わないのは当たり前だと思う。たまたま意見が合うと気が合うと感じ、意見が違うと否定的・批判的な人と思う。そういうことはよくあると思う。それで今回の「天タマ」で「先生に否定的にとられてしまった」という意見がで出てきたのでは、と私は思った。

──「天タマ」21号を読んで悲しくなりました。私のレポートが載っていて、「匿名希望で書くのはイケナイ事なのでしょうか?」という私の言葉について、先生が「といった反発気味の意見もありましたが」と書いてあったことがショックでした。私は先生に反発なんて絶対そんな気持ちはないし、それはイケナイ事なのか、知りたかったので、ただ問いかけただけだったのに。

 ★ なぜ反発と取られたのかというと次の2つの理由があると思います。第1に、課題は生徒が自分で考えるもので先生に質問していいものではありません。自分で考えるべきことを質問した点で教師と生徒の境界線を越えていると思います(もう1人同じ間違いがありました)。

 第2に、イケナイか否は問題になっていないのに「イケナイ事でしょうか?」と発想したことです。微妙な問題をすべて「良いか悪いか」に還元して、人が少しでも疑問を投げかけると「悪い?」と反問する人がいます。これは貧しい考え方で、これでは進歩しないと思います。あなたが反発したのではないことは分かりましたが、こういう「誤解」が生じたのはあなたの言葉に原因があったと思います。

──直立歩行のはじまりが人間の病気のはじまりというのは面白いと思った。納得したいような気はするけれど、愛犬が心臓病が原因で肺水腫で昨年亡くなっているため、その考えにまだ納得できない。

 ★ 飼い犬は野性動物ではありません。「犬が亡くなる」はおかしい。

──私も東洋医学に興味があります。先生も、話をするとき、すごくニコニコしていた。病は気から、ですね。私も自分の不調の時の症状をプラス方向に考えるようにして、自分を支えています。

──うちの母は薬があまり好きではない。カゼを引いても「人間には自然治癒力があるのだから」と言われ、野菜を食べさせられる。しかし、薬の効果や副作用をしっかり理解して使うのは全然問題ないと、私は思う。

 ★ カゼに効く薬はありません。体を休めて野菜を食べるのは最高だと思います。立派なお母さんをもったことを誇りに思ってください。

──「ミシマの泉」に行ったことあります。いろいろなお風呂があって楽しめるし、健康にもよさそうだし、個人的にも好きです。ところで先生はあそこの「人間洗濯機」に入りましたか?

 ★ 「ミシマの泉」ではぜひ温冷浴をして下さい。「人間洗濯機」のように動きの激しいものは老人には向かないと思います。

 スーパー銭湯でなく「日帰り温泉」みたいなのについてみると、ここ2~3年、このあたりにも随分いろいろと出来ましたね。八扇乃湯、大東温泉、和ぎの湯、川根のふれあいの泉、湯谷温泉のゆーゆーありいな、とかです。私は脚に故障が出るようになってから、ゆーゆーありいなのプールによく泳ぎに行っています。温泉なので水が温かいのがいいです。家から40分で行けます。