マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

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ながく、牧野紀之の仕事に関心を持っていただき、ありがとうございます。 牧野紀之の近況と仕事の引継ぎ、鶏鳴双書の注文受付方法の変更、ブログの整理についてお知らせします。 本ブログの記事トップにある「マキペディアの読者の皆様へ」をご覧ください。   2024年8月2日 中井浩一、東谷啓吾

「文法」のサポート、詳細索引・定冠詞

2013年10月31日 | サ行
295──定冠詞の付く地名
388──句内での同語の対立で定冠詞の付く場合
498──定冠詞が「当該の」の意味を持つ場合。
520──特殊化規定があっても定冠詞の付く場合
544──定冠詞と所有形容詞

558──定冠詞を冠置する数詞
571──ein Schluck Weinとder Schluck Wein
590──日本語における定冠詞の「きざし」

595──定冠詞総論

615──性格の1面を表わす類型単数
658──die Möglichkeitは仮構の含みを表わす語

671──普遍妥当命題の定冠詞と無冠詞

712──先行詞に定冠詞の付いた用例
842──um-zu的zu-Inf.と定冠詞
1122──zu不定句を感情評価する名詞と定冠詞

1165──比喩的援用のwieと定冠詞
1280──間投と定冠詞
1363──最上級と冠詞

1405──形容詞評辞と定冠詞
1410──形容詞評辞と定冠詞
1414──形容詞評辞と定冠詞

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世の中はなぜ好くならないのか(その2)

2013年10月30日 | カ行
 01、学校現場の現状

 2013年10月2日、下記のコメントをいただきました。ありがとうございます。まず、そのコメントを引きます。

  記(校長の断固とした対処が必須)(筆者・grasshopperphon。「いなごさん」とします)

 私が勤務していた中学では日常的に〔対〕教師暴力がありました。生徒間のいじめも多いこともあり、〔生徒からの〕対教師〔暴力〕に対応する時間はありませんでした。つまりやられっぱなし。益々、生徒は助長〔増長〕します。

 管理職も教育委員会にとっても、明るみにされる問題件数は少なく〔して〕、外部からの避難〔非難〕をさけたいのですから、教師が暴力を受けてもひたすら校長がもみ消しして、同僚教員さえ実情を知らされない状態でした。私も、暴力を受け、1ヶ月休みました。その件は、公務災害の適用ではなく自費で払いました。

 社会が荒むと比例して生徒も荒れるのは自然なことです。生徒を憎むのでなく、責められるべきはもみ消しばかりしてなんの策も取らない校長にあります。(引用終わり)

 感想

 辛口でも甘口でもない(と思う)、正直な感想を書きます。それが相手に対して「本当の意味で親切」だと思うからです。いなごさんは、現在は定年退職して、年金生活を送っているのだと思います。そう前提して書きます。

 「学校の問題は何よりも先ず校長の責任である」という主張には、賛成です。しかし、長い間教師をしてきて、既に60歳を超しているのに、この程度の意見しか書けないのは、少し情けないです。

 なぜかと言いますと、教員の年金は平均よりいいはずです。そして、年金生活に入れば、首の心配はなくなるはずです。従って、今こそ、こういう問題の解決に向けて戦うべきなのに、「どういう活動をしているのか」の報告がありません。現在は「説明責任の時代」ですから、報告し説明していない活動は「していないもの」と見なされても仕方ないのです。

 黒沢明監督の作品に「生きる」というのがあります。ガンで「余命半年(?)」と告げられた三無主義職員が、一念発起して、サボリ上司と掛け合って、住民のために公園を作るとかいったストーリーです。その人の葬式の後の宴会で、残った同僚は「これからは我々も死んだ○○さんのようにやろう」と誓い合います。しかし、実際に仕事に戻ると、今まで通りの三無主義職員として保身を図るのです。

 なぜか。死んだ主人公は「余命半年」と言われて、命を掛ける気になれましたが、まだ先の長い現役職員にはそれは不可能だからです。黒沢監督は映画監督としては優れていたのでしょうが、社会観は不十分だったようです。こういう根本問題が全ての観客に分かるような作りには出来なかった、自分でもそうは理解していなかった、ようです。

 しかし、いなごさんは年金生活に入ったのですから、首の心配はないはずです。実際、年金生活に入ってから、立派な活動をしている元教員も沢山います。但し、その「活動」は趣味か研究みたいな事が多く、行政のあり方を健全化する活動をしている人は少ないようです。オンブズパーソンとして県職員の裏金問題などを追及した静岡県の元県議の服部寛一郎さんは、その少ない例外の一人ですが、彼も今では体力的に続けられなくなったようです。

 いなごさんは、自宅の近くの学校のホームページの評価でもしたらどうでしょうか。市民がこういう事をするのが、学校民主化の最後の保証だと思います。議員に通信簿を付ける会などをするのも有意義でしょう。

 半世紀以上、社会運動をし、それを理論的に研究してきた私のたどり着いた結論は「修身斉家治国平天下」ということです。一時的な怒りや運動では、世の中は好くなりません。自称「社会主義」も日本の民主党政権もダメでした。修身と斉家が無かったからです。それなのに、「治国平天下」を唱えたからです。

 いなごさんも先ず、身の回りで息の長い活動をしてください。その上で、他者を批判してください。対案を出してください。

 又、いなごさんは、教師時代の活動についても著書などを残していないようです。本というものは10年間研究を続けていれば書けるものなのです。それなのに、自分の教育活動を本に纏める人が少なすぎます。研究をしている人が少ないからです。大学で研究方法を身につけないで卒業するからです。

 校長がだらしないからだ、と考えたとします。そうしたら、なぜそういう事態になっているのか、その原因を考えるべきです。もちろん、それでも更迭されず、給与も退職金も年金も変わらないからです。校長の給与は年収1000万円を越えています。仕事は部下に丸投げしていても、です。年金は「事務次官の年金より多い」といって、問題になったことがあります。しかし、そのままのようです。校長ほど甘い商売はないのです。

 東京都の杉並区立和田中学校で民間人校長になった藤原和博さんは「我が校には沢山の人が見学に来たけれど、校長は一人も来なかった」と言っていました。藤原さんでも「なぜそうなのか」は考えないのでしょうか。これでは、「よのなか科」をやった意味がありません。

 ついでに言っておきますと、あの「よのなか科」では「官と民の違い」は問題にしなかったようです。官の堕落を防ぐにはどうしたら好いかを考えさせなかったようです。商売のやり方などを練習させたようです。これでは「よのなか科」とは言えません。一番大切な事が抜けていますから。

 静岡県の川勝知事は、先日、学テ問題で、校長の名前を発表するとかで物議を醸しました。校長の責任を問うのはよいのですが、「学校教育は、個々の教師が行うものではなくて、校長を中心とする教師集団が行うものだ」という根本命題をきちんと言わない(知らない)のは、見識がなさ過ぎます。

 又、校長の責任を問うならば、その前に教育長の責任を問うべきです。教育長が校長を評価せず、指導せず、交代させないから、校長は平然としているのです。私は10年ほど前、引佐町の或る自治会長として、教育長に、「ホームページを作っていない校長がいるがどうか?」と聞いた時、教育長は、どんな形で報告をするかは学校の「個性」だ、と答えました。サボルのも「個性」の一つだから好いのだ、という事です。

 サボリ校長をサボリ教育長(評価と指導をしない教育長)が支えているのです。それなのに、川勝知事も教育長の責任は一切、問題にしませんでした。これを言うと、教育長を任命した自分の責任問題になるからです。教師をし、学長も務めたのに、「私の授業と大学運営から学べ」とも言いませんでした。その種の本を出していないから、言えないのでしょう。

 結局、首長のリーダーシップの問題なのです。いなごさんもここまで理解してほしいものです。我が「マキペディア」を読んでいるのですから、尚更です。

 いなごさんは、首長選挙の時、こういった事を考えて、適任者を教育長にする候補者に投票しているでしょうか。ネットでそういう主張をしているでしょうか。

 02、浜松市の中学校でのイジメ自殺問題

 我が浜松市の中学校でもイジメ自殺がありました。昨年の事です。その自殺者の親が学校や市を相手取って、裁判を起こしたようです。新聞記事を引きます。

──浜松市立曳馬中学校2年の男子生徒=当時(13)=が昨年(2012年)6月、住宅屋上から転落死した問題で、死亡した片岡完太君の父道雄さん(48)ら両親が27日、いじめで精神的に追い詰められて自殺したなどとして、同級生ら11人と浜松市に約6200万円の損害賠償を求め、静岡地裁浜松支部に提訴した。

 市に対しては、片岡君の死後、学校側の配慮に欠けた対応で精神的苦痛を受けたとして、両親へそれぞれ100万円を支払うことも求めた。

 訴状によると、2012年2月からいじめが始まり、片岡君は通っていた学習塾で「死ね」などの悪口を言われたり、帰宅時にエアガンで撃たれたりした。学校では教室で首を絞められたほか、床に倒され馬乗りになって腹をたたかれた。あらゆる場面で継続的にいじめがあったが、校長や学級担任、部活顧問はいじめを放置。学校側は亡くなったあとも調査をほとんどしなかったとしている。

 市教委の高木伸三教育長は「訴状が届いておらず内容を確認できていない。今後よく検討し、誠実かつ適切に対応する」と文書でコメントした。

 片岡君は2012年6月12日夕、浜松市中区の自宅の十階建て集合住宅屋上から落ちて亡くなった。同12月、市教委が設置した第三者調査委は「いじめを背景にした自殺」との報告書を公表。道雄さんはことし5月、同級生らから暴行を受けたなどとして、浜松中央署に被害届を提出した。

 父親の片岡道雄さんは提訴後、記者会見し「完太がどれほどつらい思いをしたのかを考えると到底許すことはできない。いじめに対する厳しい判断が出ることで、安心して通わせられる学校に変わることを願っている」と提訴への思いを語った。

 明るく友達が好きだった片岡君はいじめが始まったあとも、家では笑顔でいた。父として気持ちを察することができなかったことが、今でも悔やみきれない。「家族を失った後悔を一生背負っていくしかないと思っている」と苦しみは消えない。

 学校側は度重なるいじめ行為を気づかなかったとしているが、「それこそが異常事態ではないか」と強い調子で指摘した。(中日新聞、2013年06月28日)

 参考・浜松市教育委員会は6日、いじめ問題の早期解決を図るための専門家チームを設置し、同市中区で第1回検討会議を開いた。市教委によると、外部専門家で構成するチームの常設は県内初。学校や市教委では対応しきれない問題が発生した場合、チームの委員が助言と支援を行う。

 チームの設置は、同市立曳馬中(中区)の男子生徒が昨年6月に自宅マンション屋上から転落死した問題で、背景にいじめがあったとした第三者調査委員会の報告を踏まえた。臨床心理士と元警察官、精神科医、弁護士、2人の学識経験者を加えた計6人で構成する。任期は来年3月末まで。

 市教委はこの日の会合で、いじめ問題を程度に応じて6段階に分けて対応に当たる方針を示した。学校と保護者らで解決できる問題を「レベル1」、曳馬中の問題のように、第三者調査委員会設置の必要がある最も重大なケースを「レベル6」と位置付けた。専門家チームは、学校だけでは解決できず、市教委指導課が中心になって対応する「レベル4」以上で問題に関わる。

 委員の1人に任命された原拓也弁護士は「現場ではさまざまな問題が起こっている。委員それぞれが、専門性を発揮して問題解決に当たりたい」と話した。(静岡新聞、2013年06月07日)

 感想

 この親御さん(父親の片岡道雄さん)は「学校や教育委員会の誠意のない態度に怒っている」とどこかで読んだ記憶があります。当然でしょう。実際、校長や教育長の態度はひどいものです。浜松市や静岡県では何十年も前から、イジメや教員不祥事が続いています。それなのに、全然改まりません。それなのに、教育長は交代させられず、給与の一部返還もありません。発覚されたり、教員が逮捕されると、記者会見をして頭を下げて「謝罪」し、臨時校長会を開いて、「再発防止に万全を期すように」と話して終わりです。十年一日の如く、毎回毎回、これを繰り返しています。

 これを改めさせられるのは首長しかいません。それなのに、市長も知事も何もしないのです。それに対して、市民からは何の抗議もないのです。万事休す、です。ここでも「辛口でも甘口でもない」感想を書きます。

 父親の片岡道雄さんは「学校と教育長の不誠意」は指摘しましたが、市長の責任は問題にしていないのでしょうか。少なくとも、新聞では読んだ記憶がありません。大津市でも同じ事件がありましたが、こちらは大分違った経過をたどりつつあるようです。なぜか。市長のやる気が浜松市とは違うからです。

 市長まで視野に入れなければ、本当のことは分かりませんし、解決もしません。敢えて言いますが、2011年の浜松市長選で片岡さんはどういう行動を取ったのでしょうか。あの時、私は「仮」立候補しました。ほとんど反響がなく、正式立候補は出来ませんでした。片岡さんは私の「仮」立候補を知っていたのでしょうか。もし私が市長になっていれば、このイジメ自殺は起きていなかったかもしれないのです。少なくとも、起きていない確率の方が起きた確率より高いです。なぜなら、私が市長になったら、先ず教育改革を始めるからです。しかも、現在の予算枠内で可能で、かつ効果的な改革をする案を持っているからです。

 ここまで考察を深めてほしいものです。そうしないと教育改革は行われないからです。「国民は自分に相応しい政府しか持つ事が出来ない」と言われています。市民と市政(市長)の関係でも同じです。どこかの車屋の会長に「改革」してもらおう、などという他人頼みの態度では市政は好くなっていません。当たり前です。市政を改革出来るのは主権者たる市民だけです。他者を責めるのは結構ですが、自己反省を伴わない他者批判では何も変わらないでしょう。

 03、3つ目として朝日新聞の社説を取り上げます。朝日紙の9月26日の社説は2つありましたが、その内の1つは次の通りです。

──題・私たちの目で育てよう

 地方分権が叫ばれて久しい。自治体が独自の施策を競う時代とも言われる。だが、議員のレベルは向上しているだろうか。各地で相次ぐ不祥事に、市民はあきれている。とくに、政務調査費と呼ばれる支給金をめぐる問題は、地方自治のあり方の根幹を考えさせる。

 都道府県議や政令指定市の市議は調査活動の費用として、月50万~60万円をもらっている。だが、飲食や遊興などへの流用があとを絶たず、「第二報酬」とも揶揄(やゆ)されている。名古屋市では、議員の高額報酬を批判し、議会リコールを実現させた地域政党、減税日本の議員たちも不正が発覚した。

 政調費が制度化されたのは2001年。全国的に住民訴訟が相次いでおり、これまで50件超の返還判決が出ている。

 第三者チェックなどを強めるベきなのは言うまでもない。だが、もっと重要なのは、どうしたら地方議員の質を高められるか考えることだろう。この問題を長年追及してきた仙台市や名古屋市、京都市などの市民オンブズマンは最近、議員通信簿の活動を始めた。

 議事録から質問を項目ごとに分析し、点数化する。現場を調べたか、他都市と比較したか、改善策を提案したか。道徳論を延々述べて「教育長いかがですか」と聞く京都市議の質問は0点。民間資金を活用する手法を実地研究し、学校への空調設置の知恵を出した仙台市議は高得点という具合だ。福岡市議会では、一般質問94件のうち48件は事前調査がなかった。名古屋市議会では、1年間、本会議で一度も質問しない議員が75人中19人もいた。

 成績の悪い議員からは「議会外の要望活動も仕事だ」と反論も出たが、そんな論争が生まれること自体が前進だろう。市民が議員活動への関心を高めることが何よりの薬になる。

 もっとも、壁になるのが議会の情報公開度だ。早稲田大の調査などによると、75%の地方議会が本会議の議事録をネット公開しているが、常任委員会については25%にとどまる。 大阪市議会は議案ごとの会派別の賛否を公開している。だが市民研究者らの「議会改革白書」(2011年)によると、全国の議会の65%はそんな情報を出していない。これでどうやって市民の信頼を得るのだろう。

 みなさんも一度、自分の街の議会をのぞいてみてはいかがでしょうか。議員は自分たちの代表です。私たちメディアとともに、もっと間近に注視し、議員を育てていきましょう。(引用終わり)

 感想

 「どうしたら地方議員の質を高められるか」が重要問題だとしながら、「市民オンブズマンは最近、議員通信簿の活動を始めた」などと寝言を言っているようでは、論説委員の「質の向上」が先だなと言わざるを得ません。

 議員通信簿を付ける運動は神奈川県相模原市で随分前から始まり、様々な経験を積んでいるはずです。我が静岡県にはそういう活動が一つもないようですが。

 しかし、議員の質を高める方法としては、国会議員を含めて、松下政経塾の失敗を踏まえて、私は「本当のシンクタンク」を提案しています。そして、その活動の中心は「行政機関のカウンター・ホームページを作る事」だとしています。朝日紙も「情報公開」を念仏のように唱えていますが、「カウンター・ホームページ」という発想はないようです。

 最大の問題は、朝日紙のOB、OGの内、何人の人がこういう「行政を監視する活動」をしているかと言うことです。東北で漁業の活性化に協力しているとか言った話は聞いています。そういう活動なら行政にも歓迎されるでしょう。しかし、日本社会の根本的変革にはならないでしょう。朝日新聞社にも「修身斉家治国平天下」という言葉を贈りたいです。

 04、では、このような低レベルの事態の原因はどこにあるのでしょうか。大学と大学教員にあると思います。「一国の文化のレベルは大学と大学教員で決まる」というのが私の考えです。

 5月18日、朝日新聞に桜美林大学の芳沢光雄教授の文章が載りました。まず、それを引きます。

   記(論理的に考え、書く力を。芳沢光雄)

 大学受験資格にTOEFL〔トーフル、と読むようです〕の基準を設けるなど、大学入試改革に向けた与党案などが論じられている。いうまでもなく、大学入試が教育全般に与える影響は大きく、また、教育そのもののあり方とも深く関わらざるを得ない。まず、そこから考える必要がある。

 今や、人や情報が国境を越えて活発に行き来する時代であり、経済、環境など解決すべきグローバルな課題が山積している。こうした課題に取り組むには、論理的に考え、文化の異なる他者が納得できるように、自らの立場を筋道を立てて説明する力がきわめて重要だ。

 そのために欠かせない1つに、「比の概念」がある。通貨危機への対処には、対国内総生産(GDP)比の債務残高を国際比較する必要があるし、国内の企業価値を測るときも、社員1人当たりの利益が基準になりつつある。環境問題ではたとえば、PM2・5の濃度を国際基準値と比較して対応しなければならない。

 ところが、現在の若い世代は、比の概念の理解が大変苦手だ。まず、「何々の何々に対する割合」という表現にあるような2つの量を定める必要があるが、マークシート問題の答えを当てるテクニックだけに慣れた学生は自ら考えることをせず、暗記に頼って答えを当てようとして間違えてしまう。

 昨年の全国学力テストの中学3年理科で、10%の食塩水1000gを作るのに必要な食塩と水の質量を求める問題が出題され、正解率は52・0%だった。1983年の同様の問題では、正解率は69・8%だった。

 最近の大学生の就職適性検査では、この程度の算数の問題ができない者が少なくなく、「替え玉受験」が横行している実態がネット上に氾濫している。

 また、数学の証明文を書く教育は、筋道を立てて説明する力を育む上で欠かせない。ところが、1970年と2002年の中学数学教科書にある証明問題数を比戟したところ、全学年合計で約200題から約60題に減っていた。

 その結果、2004年1月に文部科学省が発表した全国の高校3年生10万人を対象にした学力調査結果では、ヒント付きの簡単な証明問題でも6割以上が無回答だった。

 日本数学会が昨年2月に発表した数学教育への提言も、「証明問題を解かせるなどの方法で、論理的な文章を書く訓練をする」「数学の入試問題はできる限り記述式に」の2点を強調している。入試を通して、多くの大学が、論理的に考えて説明する力を大切にする姿勢を打ち出してほしいと思う。(朝日、2013年05月18日)

   感想

 芳沢光雄という方は数学者としても業績を挙げているようですし、特に数学教育者としてはとても評判の高い方のようですが、このご意見には疑問を感じます。

 第1に、「論理的思考能力」が大切とした後で、全体を見る事無く、「その中の1つである比の概念」に持って行って、自分の専門である数学教育の話に全体を矮小化してしまった点です。我田引水の見本です。

 第2に、高校までで不十分な教育を受けてきたとしても、最後の砦である大学教育がしっかりしていればかなりの所まで挽回できるはずです。金沢工業大学は、中学レベルの数学も出来ない学生を大卒時にはしかるべき水準まで引き上げる事に成功して、評判になったはずです。他者に「入試改革」を要望する前に、自分の大学の教育改革を学内で提唱し、実行したらどうでしょうか。

 そもそも芳沢氏はどういう理由で桜美林大学に呼ばれたのでしょうか。私の記憶では、数年前に数人の「優秀な教授」と共に他の大学から特別に招かれた(スカウトされた)のだと思います。桜美林大学の掲げる「リベラル・アーツ」とやらの看板として、です。つまり、現有教授のあり方を変えるのではなく、少数の看板教授を使って、見かけだけを好くしようとしたのだと思います。金沢工業大学は学長のリーダーシップの下に、「現有教授の意識改革」を通して、教育体制を一新したのだと聞いています。芳沢氏は桜美林大学のこういうやり方をどう考えているのでしょうか。ぜひとも「論理的な説明」をしてほしいものです。

 桜美林大学については、私は大学院時代に関係のあった永瀬順弘教授(既に退職)を見ていたのですが、アメリカに留学して「意見と主張の言える人間教育」とやらを掲げていました。その「具体的内容」の説明を求めても、回答はありませんでした。大学にもメールで質問しましたが、返事はありませんでした。説明しないのですから、「やっていない」と見なすしかありません。最近、ホテルなどでの「メニュー偽装」が大問題になっていますが、桜美林大学のこれは「シラバス(広義)の偽装」ではないでしょうか。初年度納付金が126万円にもなる大学での「シラバス偽装」です。

 芳沢氏自身は立派な方のようですが、自分の属する大学の「偽装」を是正していない、あるいは学長にその是正を提言していない以上、「修身」は出来ていても「斉家」が出来ていないと言わざるを得ません。従って、「治国平天下」は無理ですし、それを言う資格もないと言わざるを得ません。これでは「世の中は好く」ならないわけです。

     関連項目

世の中はなぜ好くならないのか(その1)

教員人事の真実

議員の通信簿

民間のシンクタンクのあるべき姿(官僚主導を考える)

浜松市長選(2011年)関係の目次

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「文法」のサポート、詳細索引、同格

2013年10月29日 | サ行
309──Appositionの説明
333──同格の2格
355──同格の万能3格

498──同格付置的形容詞
511──複数の人称代名詞の同格説明語

628──比率単位での格の一致
697──同格付置と冠詞
1496──コロンの前の語と後の語の同格

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歌人と哲学者

2013年10月25日 | カ行
 俵万智の『ちいさな言葉』(岩波書店、2010年)を読みました。この本の「あとがき」にこう書いてあります。「これは、子どもとの暮らしのなかで、はっとしたり、へえっと思ったり、えっと驚いたり、ふふっと笑ったりしたことを、近況報告のような感じで綴ってきたものです。特に、赤ん坊だった息子が言葉を獲得してゆく過程は、ほんとうにおもしろく、言葉好きな母としては、まことに観察のしがいがありました」。

 私の関心もここにありました。しかし、同じ「関心」と言っても、歌人と認識論の研究者とでは関心の対象が違うだろうから、そこから学ぶ事もあるだろうと思ったのです。又、同じ現象に関心を持ったとしても、それにどういう切り口から関わるかは、多分、違うだろうから、それも面白いだろうと予想しました。

 この予想は当たりました。先ず、私には無い観点を2つ引きます。

 第1は「連濁」という言葉です。私は、こういう国語学の用語及び現象(66頁)を知りませんでした。新明解国語辞典によりますと、その意味はこう書いてあります。「ある条件下の二つの語が連接して複合語を作る時に、下に来る語の第一音節の清音が、濁音になること。例、『あさ+きり→あさぎり』」。

 その文は「くつした」と題されています。つまり「連濁」を教わった子どもがなぜ「くつじた」と言わずに「くつした」と言うのか、と聞いてきて、答えに窮したという話です。俵万智は最後まで答えが分からずに読者に教えを請うています。

 私にも分かりません。そもそも辞書を引いてみますと、「連濁」に反した読み方は結構あるようです。又、「下」には「じた」と濁る読み方はあるのでしょうか。思い付きませんでした。「下々(しもじも)」ならありますが、これは「下」の読み方ではあっても、「じた」ではありません。

 先の新明解の説明では、冒頭に「ある条件下の」という句があります。これは何を意味しているのでしょうか。明鏡国語辞典にはこういう「条件」に当たる句はありませんでした。ですから、新明解の語釈を引いたのです。つまり、この規則は決して絶対的なものではなくて、こうならない複合語もあるということなのでしょう。そうすると、例外になる場合の条件は何かが問題になります。国語学ではこの「例外の条件」が解明されているのでしょうか。少なくとも俵万智はそれを知らないのでしょう。私がここで引かれているような状況になったら、「言葉の法則にはほとんどの場合、例外がある」という事を話すでしょう。

 第2は歌人石川一成です。短歌にも俳句にも川柳にも疎い私が知らないのは当然です。それはこう出てきます。

 ──〔息子が〕年下のいとこに「雪」を説明してやるとき、「おそらからふってくる、まあ、おしおみたいなもん」。なんとこれは、石川一成の名歌「風を従へ坂東太郎に真向へば塩のごとくに降りくる雪か」に使われていた比喩ではないか。親バカ丸出しではあるが、「まいりました」と思ってしまった。(58頁)

 次に同じテーマないし対象について俵万智と私とでは違った観点から捉えている事に移ります。

 その1つは、子どもに説明することの「難しさ」です。こう書いてあります。

──ある日、息子が言った。「べつばらって、なあに?」。知らない言葉に出会うと、必ず知りたがる。最近は、けっこう説明がむずかしいような言葉も多く(子どもにわかる語彙で、かみくだいて意味を伝えるというのは、大人に説明するよりも大変だ)、この「べつばら」も、なかなか苦労した。(65頁)

 実はこの文は先に引いた「くつした」の書き出しです。それはともかく、「子どもに説明するのは大人に説明するより難しい」と一般的に言えるのでしょうか。私はこの問題を『哲学夜話』に収めた文章「人間の相互理解」で考えました。

 そこでは、先ず第一に、「相手に何かを分からせるためには、その事柄をそれ自体として説明するのではなく、相手の知っている事柄と結びつけるようにして説明しなければならない」という事を確認しました。次いで、「母親が五歳の子供に何かを説明して分からせるのと、大学の教師が大学生に何かを説明して分からせるのと、どっちが易しいか、あるいは難しいか」という問題を「読者」に出して、「学生に教える方が易しいんじゃないですか。なぜって、学生の方が五歳の子供より多くのことを知っていますから、新しいことを相手のこれまでの知識と結びつけて説明するにも、結びつける材料が沢山あるということになるわけですから」という答えを引き出しました。俵万智が「大人に説明するよりも大変だ」と安易に考えているのも、その根拠はここにあるだろうと推測します。

 こういう考えに対して、私は「たしかにそういう面はある」と認めた上で、「しかし、ここにもうひとつの条件として、教える側が相手の意味の世界を知っているか否かという条件がある」と主張しました。それは例えば、「母親の場合には、子供が生れてからこれまでにどんな経験をしてきて、どれくらいの知識をもっているかを、母親はよく知っていますから、今説明しようと思っていることと関係があって、しかも子供も知っている事柄を的確に引合いに出すことができる」と言いました。ですから、「世の母親はみなそうしてます。子供に何か聞かれると、たいていは、その事柄と関係のあることで、しかも子供の知っている事を思い出させるように、『ほら、○○ちゃん、この間あそこで……というのがあったでしょ?」と話すのです(同書、159頁)。実際、俵万智の場合でも、この通りの方法で、「べつばら」を大体、的確に説明したと言えるでしょう。

 拙稿「時枝意味論の論理的再構成」(雑誌『国文学、解釈と鑑賞』1995年1月号に所収)で披露した我が姉妹の会話を再録します。

──これも私の長女(みち、という)の小さかった頃(小学校に入るか入らないかという頃)のことである。長女と次女(まみ、という)とが一緒に庭の小さな池の金魚を見ていた。大きい金魚の横で小さい金魚が餌を食べる様子でも見ていたのだろう。長女が「大きい金魚が譲ってるんだね」と言った。次女は「譲る」という単語を知らなかったのだろう。「『譲る』って?」と聞いた。長女は直ぐに「ほら、朝、顔を洗う時、みっちゃんがまみちゃんに先にやらせてあげるでしょ? ああいうのを『譲る』って言うの」。「ふーん」。少し離れた所でこの会話を聞いていて、この長女の説明の鮮やかさに感服した私は、付ける薬も無いほどの親馬鹿だろうか。(引用終わり)

 2つ目は「最初に出会った個別は普遍として理解される」という認識過程の法則に関係しています。俵万智はヘーゲルの認識論を知りませんから(哲学教授でも知っている人はほとんどいません)、次のような形で理解しました。

──子どもが言葉を操っているように見えても、実はその意味が対応していないことも多い。最初にその言葉と出会った状況を、わしづかみにして、子どもは理解している(7頁)

──欧米人らしき人を見ると「あ、英語の人だ」と言う(9-10頁)

──背中でだっこ(13頁)

 拙著をお読みくださっている方々ならば、ほとんどの人が知っているでしょうが、まとまった説明は拙稿「昭和元禄と哲学」〔『生活のなかの哲学』に所収)にあります。ここでも今し方引きました論文に出した実例を再録します。

──長女が小さかった頃、こういう事があった。まず、或る日、ヘリコプターが飛んできた。例によって、「これ、なあに」と聞かれた。「ヘリコブター」と答えた。それから何日か経って、今度は飛行機が飛んできた。長女は、今度は自分の知っているものが来たので喜んで、「ヘリコプター、ヘリコプター!」と叫んだ。それを聞いて空を仰いだ妻が「なんだ、飛行機じゃない」と言った。長女はキョトンとした。

 長女が最初「これ、なあに」と聞いた時、その「これ」で考えていたことは「空を飛ぶ機械一般」のことだったのである。従って、その名前を「ヘリコプター」と聞いて知った時、次に飛行機が飛んできたら、それももちろん「空を飛ぶ機械一般」だから、「ヘリコプター、ヘリコプター!」と叫ぶのは当然だったのである。(引用終わり)

 我が家では長女も次女も、初め、私の読んでいる本の事を「お父さんの絵本」と言う段階がありました。この時、「絵本」とは「本一般」という意味だったのです。なぜなら、生まれてから最初に出会った本が「絵本」だったのですし、「絵本」以外の本を知らないのですから。

 3つ目は次のような事です。俵万智はこう書いています。

──まもなく3歳になる息子、なんだか最近、とみに理屈っぽくなってきた。「こうしたら、こうなる」「これこれは、こういうわけだ」というような、モノゴトの筋道のようなものが、わかりかけてきたのだろう。(17頁)

 普通、3歳前後に第1反抗期が来る、と言われていると思います。私の孫も今年の4月に来てくれた時、3歳2ヶ月でした。「複合文が言えるようになったな」と思いました。「何々だからこれこれ」「何のためにこれこれする」という文が言えるようになっていたからです。拙稿「恋人の会話」(『生活のなかの哲学』に所収)に、3歳前後には、「なぜ?」「どうして?」という問いを発するようになると書きましたが、こういう文法学者的観点はありませんでした。これは俵万智との違いではなく、自己反省です。

 最後の4つ目は次の大問題です。

──子どもが、まず覚えるのはモノの名前、すなわち名詞だ。それから「ちょうだい」とか「おいしい」とか、だんだん動詞、形容詞が加わる。(56頁)

 後半は今は問題にしません。「先ず覚えるのは名詞である」という事実が何を意味するかです。俵万智はあまり深くは考えなかったようですが、私は近著『関口ドイツ文法』の82頁以下で詳しく考えました。核心的な点だけ繰り返しておきますと、名詞こそ言語の中心であるが、他の品詞はみな「事」であるのに反して、名詞だけは「モノ(物、者)」であるということです。だから、言語によって人生の何かを「完全に」表現したり、伝えたりすることは「原理的に」不可能なのである。しかし、それが不可能と知りながら、それを追求せざるを得ないのが文章家の定めなのである、といった事です。

 最後に総括的な感想を書きます。

 その1つは、俵万智は子どもと好く遊んでいるなあ、というものです。だから、これだけ沢山の材料を持っているのだと思いました。残念ながら、私にはそういう能力がありませんでした。家で仕事をする時間が長かっただけです。

 もう1つは「卒業の季節」という題の文を読んだ感想です。

──私が最後の春休みを味わったのは、もう20年近く前になる。高校で教員をしていたあの頃は、三月といえば卒業の匂いがした。

  三月のさんさんさびしき陽をあつめ卒業してゆく生徒の背中
  去ってゆく生徒の声のさくら貝さざめきやまぬ正門の前
  はなむけの言葉を生徒に求められ「出会い」と書けり別れてぞゆく

 当時作った短歌を読みかえしてみると、自分の心のアルバムを開くような気持ちになる。勤めていた高校の門、そこに吸い込まれ、そして出てゆく生徒の背中。それを2階の職員室から見守っていたときの、切ないような、ほっとしたような気分が、鮮やかに蘇る。(略)いかにも頼りない新米教師だった自分が、どんな思いで、生徒たちを見送っていたか。短歌にしていなかったら、たぶん記憶はおぼろになり、年々薄れていったことだろう。短歌には、そのときの思いを、真空パックで保存してくれる一面がある。(145-6頁)

 「時々の思いを真空パックのように保存するもの」は、何も必ずしも短歌でなくても、俳句でも川柳でも、あるいは写真でもスケッチでも作曲でも好いと思います。とにかく持ってさえいれば幸せです。「私にはそういう才能が1つもないなあ」というのが正直な感想です。(2013年10月25日)
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漁業(ノルウェーの漁業)

2013年10月24日 | カ行
 日本の水産業関係者の間で近年、ノルウェーの漁業の手法が注目を集めている。生産量が減り、従事者の高齢化も激しい日本に対し、ノルウェーでは漁業の自動化や合理化が進み、若者に人気の職業ともなっでいる。この夏ノルウェーを訪れたのを機に、大西洋岸の漁業拠点オーレスンを訪ね、その実像を垣間見た。

 漁業の町に来たからには、まずは何より、魚市場に行きたい。活気にあふれる様子は、いつ見ても楽しいものだ。どんな魚が揚がっているか。北海産といえばタラか。ひょっとするとクジラがあるかもね。

 GLOBE編集部がある東京・築地の朝日新聞東京本社の隣には、世界最大規模の卸売市場「築地市場」がある。全国の魚がずらりと並び、威勢のいいかけ声が飛び交う。そのような光景を想像して出かけていった「魚市場」は、町の真ん中のオフィスビルの中にあった。地元の漁業者販売組合(SUROFI)の事務所だ。受付のカウンターの背後で、若い女性がヘッドセットで電話中だ。他に職員が2人。

 これが、ノルウェー流の魚市場の姿なのだという。床もぬれでいなければ、長靴姿の仲買人もいない。そもそも、魚が1匹もいない。

 「ノルウェーの漁業のシステムは、世界で最も巧みにつくられています。だからこそ、水産資源を枯渇させずに漁業を続けていられるのです」。StJROFIのスヴェイヌンク・フレム代表(58)が胸を張った。

 取れる魚はサバ、カラフトシシヤモ、タラなどが主だ。漁船はSUROFIに、その日の漁獲高を直接連絡する。SUROFIはこれを受けて、電話やインターネットを通じて競りを実施。先ほどのヘッドセットの女性は、競りの最中だったのだ。

 魚は、漁船内で冷凍され、倉庫に直接荷揚げされる。競り落とした買い手は、倉庫から直接魚を受け取る。漁業管理が徹底し、品質が安定しているから、買い手はいちいち魚を目にしない。だから、魚のない魚市場が可能になる。

 漁獲量は、船ごとに正確に割り当てられでいる。それ以上に多く取る必要はないし、取ってもいけない。SUROFIは、競りを担当すると同時に、漁民が割り当てを守っでいるかどうかの監視役も担う。「違反はほとんどありません。漁業資源を守ることの大切さは、漁民も十分理解しています」とフレム代表。

 この手法をそのまま日本に導入するのは難しいかもしれない。日本には小規模な事業主が多く、魚種も豊富なことから、管理が難しい。ただ、ノルウェーに多くのヒントがあるのは間違いない。実際、日本からもしばしば視察団が訪れるという。

 大型船を利用するノルウェー漁民の年収は1000万~2000万円分にも及び、200万円あまりの日本を大きく上回る。悩みは、漁業者間で淘汰が進み、漁民の数自体が減っていること。現在は国内で約1万人の漁業者がいるが、あと10~20年で8000~7000人に減りそうだと、StJROFIと同じビルに入るノルウェー漁業者協会のウルモルテン・ソルナ会長(48)は予想した。「海底油田の掘削のために操船技術者を求める石油産業が、人材を引き抜いでいる」と語った。(以下略)

 (朝日新聞グローブ、2013年10月20日。国末憲人)

   感想

 元朝日新聞の論説委員だった高成田亨が、何年か前、やはり朝日新聞グローブに、ノルウェーの漁船に乗り込んだ体験を発表していたと思います。

 その高成田は定年退職後、東北に住み、地元の漁業に関心を持っているとか、書いてあったと思います。そして、震災後は、東北の漁業をノルウェー方式で復興させる努力をしているはずです。

 国末も「この手法をそのまま日本に導入するのは難しいかもしれない」と書いて済ませるのではなく、そういう努力が今、どこまで進んでいるかを含めて、報告してくれるとありがたかったと思います。
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時枝意味論の論理的再構成(その1)

2013年10月23日 | タ行
                        牧野 紀之

  小目次

 1、言語研究の態度と方法及び言語の定義
 2、言語行為の目的、成立条件、内部構造
 3、言葉の二側面と意味
 4、行動の意味と事物の意味

 時枝誠記(ときえだ・もとき)は1900年に生まれ、1967年に亡くなった。その主著である『国語学原論』(1941)は41歳の時のものであり、その『続篇』(1955)は55歳の時のものである。前者は「言語を、それと関連する人間行為全体から切り離して、専ら言語自体の構造を抽象的に観察した」ものだが、後者は「言語を、人間生活全体の中において捉え、それとの交渉連関において記述しようとした」ものとされている。言語の意味を考える本稿では、主として前者(『原論』と略記する)に依りつつ、適宜後者(『続篇』とする)によって補足、訂正しつつ、時枝氏の意味論を考えたい。

 1、言語研究の態度と方法及び言語の定義

 『原論』を繙いてまず感じることは、その強い主体性である。41歳の学者を「青年」と評するのは必ずしも適当とは思われないが、青年のような壮大な気宇を感じる。時代の風潮もあるいは影響しているのかもしれない。ともかく、その気宇は具体的には、早くも、国語学の仕事をどう考えるかに現れる。氏は「日本語は言語の一分肢ではなく、完全な一言語だから」「国語学は言語学の一分業部門ではない」とし、「国語学は即ち日本語の言語学」(序)だ、と宣言する。

 私は、この意気を買うものではあるが、この規定はやや不正確だったのではないかと思う。そもそも「日本語の言語学」という表現では、その意味が明確でない。ここは、時枝氏自身も採用している一般と特殊の関係についての常識的な考えを用いて、国語学(日本語学)は「日本語による言語学(日本語を手掛かりとする言語一般についての科学)」という面と、「日本語についての科学(日本語という一特殊言語のその特殊性についての科学)」という面とを持つ、としておけば十分であろう。この出発点での不正確さは、それほど大きな問題になるというのではないが、後に尾を引くことはたしかである。

 このような目的をもった氏は、言語の具体的な経験に立脚して言語を研究しようとする。しかるに、「最も具体的な言語経験は、『語ること』『聞くこと』『書くこと』『読むこと』に於いて経験せられる事実」(『原論』11頁)である。では、それに「立脚する」とはどういうことか。それは、言語研究の方法として、「言語活動の主体がその時どう意識しているか」と考える方法となるのである。

 これは私もその通りだと思う。たしかに「この様な主体的活動を考えずして、我々は言語を経験することは出来ない」(同)であろう。そして、氏のこの言語主体の意識に基づいて言語を考える方法は大きな成果を挙げたと思う(1)。しかし、氏はここから直ちに、これを言語の定義としてしまうのである。即ち、「更に厳密にいえば、言語は『語ったり』『読んだり』する活動自体であるということが出来る」(同、12頁)、「言語は話者の思想的内容を音声或いは文字に表現する心的過程の一形式である」(同、345 頁)と。

 これは時枝氏自身の方法に忠実だっただろうか。もし言語主体の意識に基づいて言語を定義しようとするなら、言語という言葉がどういう風に使われているか、その主たる使われ方を調べて、そこでの曖昧さを除いて正確に定義するという手順を取るべきだったのではあるまいか。そして、単語の定義とは、単語の「意味」を学問的に正確に表したものだとするならば、まさに自分の意味論の結論に基づいて、その出発点における定義を検討し直すべきであっただろう(2)。残念ながら、時枝氏がこれをしたとは思えない。そのために、その意味論自体も不正確なままに終わってしまったと思われるのである。

 時枝氏による言語の定義には、言語と音楽や絵画との違いについての突っ込みも足りなかった。この定義の「言語」の部分に「音楽」を入れてみると分かる(「絵画」でも同じなので、以下では音楽と話し言葉の関係だけを論じる)。その違いは思想の表現を媒介するものの違いにしか求めえない。それは「言語的音声」と「音楽的音声」の違いなのである。両者はどう違うのか。時枝氏はそれを立ち入って論じていない(3)。氏は専ら、言語の定義そのものの中に「過程」とか「活動」といった言葉を入れることに執着する。そして、そのことだけに関心を集中する。たしかに、言語を媒介物としての音声や文字に限定して定義するならば、そのような媒介物をば、それを使ってなされる行為から切り離して理解する危険はあるだろう。しかし、「危険がある」ということは可能性ということに過ぎない。必ずそうなるということではない。媒介物とは「行為を媒介するための物」だということを忘れなければ、必要な時には、その媒介物をその行為全体から切り離して考察し、又必要な時には、それをその行為全体の中に位置づけて考察することもできるのである。要は、考察者の方法と能力の問題であろう。それなのに、時枝氏は、言うところの言語構成説に対する対抗意識からか、言語そのものを「過程」と定義してしまった。そのために言語と言語行為とが完全に等置されることになったのである。

 私は、やはり、言語は音声や文字に限定し、それを使ってなされる活動は言語行為として、そのメカニズム(と言うと、時枝氏は又反対するだろうが)を解明すればよいと思う。そうしないと、時枝氏のように、言語的音声つまり言語と音楽的音声の違いは何かという問題を素通りしてしまうことになると思うのである。では、言語的音声と音楽的音声とではどこが違うのか。音楽的音声では、音声の感性的なあり方そのものが働くのである。音楽は音声の感性的なあり方を媒介にして思想を表現するのである。それに対して、言語では、音声の感性的な面は言語の担い手にすぎず、それが他の何かを指示する信号として働くのである。しかも、それは信号一般ではなく、個体・種属信号でなければならないのである(4)。つまり、言語行為とは、個体・種属信号としての音声を媒介にして思想を表現する行為なのである。

 2、言語行為の目的、成立条件、内部構造

 時枝氏は『原論』では「語の本質である伝達理解の用」(426 頁)という形でついでに触れているだけだが、『続篇』では「言語〔行為〕による思想の伝達」を「第2篇・各論」の冒頭に掲げ、正面に据えて論じている。誰が見ても、言語使用の目的は何よりもまず「思想の伝達」にあることは確かであろう(5)。

 思想の伝達ということになると、もちろんここでは言語による伝達だけを考えているのだが、当然、伝達する人、伝達される人、伝達される事柄、どういう状況の下でその伝達が行われるかという伝達の状況・場面、が問題になる。この四つが伝達の「成立条件」となる、と持ってくるのが論理的思考というものである。これをヘーゲルは内在的導出と言ったのである。しかし、時枝氏はこのようには持って来なかった。氏は、言語の目的との関係は少しも考えずに、「具体的な言語経験が如何なる条件の下に存在するかを観察する」と称して、主体・場面・素材の三つを、事実として、指摘する(6)。

 「言語〔行為〕の主体」とは話し手のことである。それは文法上の主格や1人称の代名詞ではない(これらは素材)。ここまでは分かる。しかし、「主体の態度、気分、感情」は「場面」に入れられてしまうのである。これが分からない。こうなると、主体には何が残るのか。私は、主体の感情は主体に含めて考えるべきだと思う。

 「言語的表現行為は、常に何等かの場面に於いて行為されるものと考えなくてはならない」のは当然であろう。しかし、その「場面」とは「純客体的世界〔これは素材〕でもなく、又純主体的な志向作用でもなく、いはば主客の融合した世界である」とされる。「最も具体的な場面は聴き手」だが、それだけではなく、「聞き手をも含めて、その周囲の一切の主体の志向的対象となるものを含む」(以上、『原論』44頁)とされる。この「場面」があまりにも広すぎて曖昧だと思う。そのためか、『続篇』では「場面」という用語さえ「聞き手」に代えられてしまった。しかし、これが聞き手に代えられると、本来の場面・状況(言語行為の行われる状況)の要素が無くなってしまう。だから、初めから、言語行為の成立条件として先の四つを挙げておくのが正しかったのである。

 素材とは「について語られる事柄」である。氏は言語構成説への対抗心から、素材が言語の「内部の要素」ではなくして「成立条件」だとしきりに主張している。これはこれで聴くべきではあるが、その前に、言語行為の成立条件を正確に規定する方が先ではなかっただろうか。
 かくして言語行為が成立する、つまり何かが話される(以下、書かれるも含む)。その行為はどのような内部構造を持っているか。これを氏は『原論』の91頁に図解している。

   (『原論』の91頁の図、略)

 これについては異論はない。もう少し説明があってもよかったと思うだけである。内容的には、氏の理解とは逆に、概念と聴覚映像の二面をきちんと捉え且つ結び付けている点で、ソシュールの考えと同じではないかと思われる。
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時枝意味論の論理的再構成(その2)

2013年10月23日 | タ行
 3、言葉の二側面と意味

 さて、このようにしてこのような構造を持った発話がなされた。それは言葉を使った伝達であり、四つの条件下で成立したものであった。従って、それらの条件はすべて言葉の中に何らかの形で入り込んでいるはずである。では、言語の成立の四つの条件は、それぞれ、言葉の中にどのように表現されているだろうか。それはどの言語においても同じような形で表されているのだろうか。日本語ではどうだろうか。

 言語の四つの成立条件はそれぞれ別個に言葉の中に表現されるのではない。話し手は直接的には素材について話すのだが、その時、聞き手を考慮し、場面を考えに入れて話す。又、自分自身についても多かれ少なかれ反省しつつ話す。この考慮や自覚はすべて話し手の話し方となって表現される。即ち、言語は話し手の行為として生まれるために、話し手の意識と感情によって色付けされることになる。従って、言語表現は大きくは素材を表現する要素とそれ以外の条件に対する話し手の態度(7) を表現する要素とに分かれることになる。両者はどんな言語にも表現されているはずだが、その表われ方は言語によって異なるだろう。日本語ではそれらは別々の単語に表現される。従って、日本語の単語の分類では、まずこれを基準にして単語を二大別しなければならない。国語学の伝統に従って、前者を「詞」とし、後者を「辞」と名付ける、と持ってくる。これが論理的思考というものであり、「日本語で言語学をやる」ということではなかろうか。しかし、ここでも時枝氏は、これまでの前提との関係を問うことなく(8)、又言語一般と日本語との区別と関係への顧慮もなく(9)、事実として、〔日本語の〕言語表現の中には客体を表現する要素と主体を表現する要素とがある、と主張するのである。そのために、詞について、これは「表現の素材を、一旦客観化して、概念化してこれを音声によって表現する」(『原論』231 頁)などと、重複表現を犯すことにもなってしまう。「素材」とはそもそも「概念化された限りでの対象」のことだったはずである。

 このように論理展開と言うには程遠い叙述になってはいるが、ともかく言語表現の本質的な二面として客観的なものと主体的なものとを指摘したことは正しかった。そして、この両者の統一したものが「言葉の意味」だと言う。即ち、言語の意味の中には、「主体が事物を把握する仕方と、かくして把握された対象とが含まれている」(同、407 頁)。これも卓見であろう。しかし、両側面を対立させるような形で「語源学の追求する語の根本義とは、語の表す素材そのものではなく、その事物をなぜそのように言い表したかということ、つまり立名の根拠である」(同、418 頁)と言ったり、「言語は、素材に対する言語主体の把握の仕方を表現し、それによって聞き手に素材を喚起させようとするのである」(同、404 頁)と言ったりするところは、あるいは主観の側に、あるいは客体の側に偏っているのではなかろうか。芥川の『蜘蛛の糸』を例にとって片岡良一氏の理解を批判し、「作品の真の味読とは、素材的な人物や事件に即して表現されるところの作者の主体的なものの理解でなければならない」(『続篇』48頁)と言うが、「素材に即した主観の理解」とは又「主観に彩られた素材の理解」でもあるのではなかろうか。

 それはともかく、言葉の意味は二側面の統一したものである。思うに、ヨーロッパの言葉に意味を表す単語が二種あり、一つは「感覚」をも意味する単語であり(sense, Sinn, sens) 、もう一つは「指示する」という動詞から来た単語(meaning, Bedeutung, signification) であるのは、これと関係があるのではあるまいか。もちろん前者が主観的側面に対応し、後者が素材表現に対応する。

 時枝氏は言語の質的な単位として語と文と文章を挙げており、それぞれに異なった統一原理を推定している(『続篇』89頁)。それならば、言語の意味というものを考える時にも、語の意味、文の意味、文章の意味の三つをもう少し区別して考察することで、意味論を深めることもできたのではあるまいか。

 語の意味でまず確認するべきことは、語の成立はその語の対象についての特定の理解と結びついている、ということである。先に引いた時枝氏の言葉もその間の事情を指していると思われる。「ひと(人)」という日本語は「ひ(霊)の止(と)まっているもの」という意味だという。しかし、実際は、対象が初めから画定されていてそれについての特定の理解と共に語が出来る、というのではなく、特定の理解と結びついた語の成立と同時に、それによって対象が画定されるのである。だから、例えばフランス語では川を、海に直接注ぐか否かでfleuveと rivièreとして区別するが、英語では単に大きいか小さいかでriverとstreamを区別するのである(10)。この事を明らかにしたのがソシュールの功績であった。

 しかるに、特定の対象が画定されるということの中には、他の対象との関係が含まれている。ヘレン・ケラーが最初にwaterという語を知ったという有名な例で説明するならば、それは同時にnon-waterとの区別を含んでいた、ということである。即ち、語の成立の中にはその指示対象の画定と他の語との関係の成立とが含まれているのである。これが「語の意味」にほかならない。従って、語の意味を明確に規定することを「語の定義」というならば、語の定義は他の語との関係を明らかにする文になるのである。だから、言語を個体・種属信号と定義しても、それを言語行為の中に位置づけて考察することは可能なのである。

 歴史の中で対象自身が変わることがある。特に人間の作ったものの場合にはそれが多い。その時、それに対応する語がどう変わるか、あるいは変わらないか。それはいろいろである。又、対象自身は変わらなくても、それについての人間の認識が変ったり深まったりすることもある。その時は大抵、定義の変更となる。今では「ひと」を「霊の止まっているもの」とする定義は通用していない。

 語は他の語との関係の網の目の中に組み込まれている。その網の目の形は歴史と共に変っていく。しかし、特定の時点を取れば大体確定している。「大体」と言うのは、人によって確定の度合いも確定の仕方も少しは違うからである。そこで、或る言語共同体に新しく参加しようとする人は、子供でも他言語人(異種の言語を母語とする人)でも、既に確定されている語をその意味と共に体得しなければならない、ということになる。これが言語学習(の一部)である。しかし、その時、子供の場合と他言語人の場合では異なる。子供にとってはそれは母語の学習であり、他言語人にとっては外語の学習である。外語の学習には二種の考え方の衝突の問題があり、母語が外語の習得を妨げるという問題(11) がある。しかし、ここではこれ以上この点には深入りしない。ここでは母語の学習における語の意味の二面を考えたい。

 語の習得には二つの方向がある。一つは、対象なり事柄なりが目の前にあるけれどそれを表わす正しい語を知らない、という場合である。子供は二歳前後になると言葉を覚え始める。その時、子供の発する問いは「これ、なあに(何)」である。子供でなくても大人でも、初めての物に出会ったらこの問いを発する。又、適当な動詞や形容詞が分からなくて、「こういうの、なんて言うの?」と聞くこともある。これらの場合がまさにこの方向である。この時は、聞かれた人は大抵その単語そのものを答える。もちろん知っていればの話である。それが正しい答えだったとして、問題は、質問した人がその時「これ」で考えていたことと、答えた人がその「これ」で考えたこととが同じかということである。

 私の長女が小さかった頃、こういう事があった。まず、或る日、ヘリコプターが飛んできた。例によって、「これ、なあに」と聞かれた。「ヘリコプター」と答えた。それから何日か経って、今度は飛行機が飛んできた。長女は、今度は自分の知っているものが来たので喜んで、「ヘリコプター、ヘリコプター!」と叫んだ。それを聞いて空を仰いだ妻が「なんだ、飛行機じゃない」と言った。長女はキョトンとした。長女が最初「これ、なあに」と聞いた時、その「これ」で考えていたことは「空を飛ぶ機械一般」のことだったのである。従って、それの名前を「ヘリコプター」と聞いて知った時、次に飛行機が飛んできたら、それももちろん「空を飛ぶ機械一般」だから、「ヘリコプター、ヘリコプター!」と叫ぶのは当然だったのである。

 第二の方向は、単語は知っているがその意味を知らない、つまりその単語の指示対象や使い方を知らない、という場合である。この場合には、語の意味の二面に従って、対象を示すことと言葉で説明することとの二つの方法がある。両方を併用するのがベストであろう。しかし、感覚的な事でないと、対象を指示することはできない。その時には、具体例を使うという方法がある。又、言葉で適切に説明するのもかなり難しい。辞書で単語をどう説明しているかを見れば、その難しさは推し量れるであろう(12)。又、言葉での説明となると、相手(質問者ないし正しい意味を知らない人)が既に知っている事ないし言葉と結び付けて説明しなければならない、という問題がある。時枝氏は長女が「オッチョコチョイ」という語を誤解しているのに気づきながら、何も出来なかったと言っている(『続篇』39頁)。この時、氏が説明しようとしてみたら、氏の国語学も又深まったのではあるまいか(13)。

 文の意味と文章の意味は完全に一緒にすることは出来ないだろうが、かなりの部分が重なる。ここではその要点だけ確認したい。文の意味と文章の意味を、関口存男(つぎお)氏は「意味」と言ったのでは足りないとして、「達意眼目」と呼んでいる(注5に述べた)。ここでの問題は、話し手が自分の言いたいこと(達意眼目)を正確に表現する能力と技術を持っているかと、聞き手の理解力とであろう。このように個人の能力がからんでくる事から見て、言葉による意思の疎通はかなり難しいものだという人は多い(14)。

 その能力を高めることに関係した諸問題はそれぞれの専門家に任せるとして、ここでは、文の意味との関連で語の意味について深めたい。つまり、語の意味は、辞書に書かれてあるような意味と「文中での意味」とで異なる、ということである。母語においても、語としては知っていても、文中での意味が取りにくいということがある。外語の学習では、単語は引いたが文としての意味が分からない、ということはよくあることである。これの説明として、ソシュールは「連辞関係」(syntagme)と「連合関係」(association)ということを言うらしい。所与の単語とその前後(広義)にある単語との関係を「連辞関係」という。いわゆる「文脈」である。それに対して、所与の単語と、そこにその単語の代わりに置かれ得たが実際には使われなかった単語との関係を「連合関係」という(15)。日本語には適当な言い換えが見つからないが、敢えて似たものを探すならば「行間を読む」と言う時の「行間」が近いかと思う。つまり、文中の単語の意味は連辞関係と連合関係の中で確定される、ということである。それを決定するものはもちろん話者の達意眼目である。だからこそ関口氏は、「達意眼目から出立してはじめて語句の末の末の末までわかる」と言った(16) のである。

 時枝氏は「言語が、特定個物を、一般化して表現する過程であるということは、言語の本質的な性格である」(『原論』88頁)と言って、「言語表現の一般性」を指摘しているが、これは哲学の世界では昔から「思考の一般性と感覚の個別性」として知られてきたことである。問題はこれをどう説明するかである。氏は、文中での「言語が限定的に特定個物そのものを表現していると考えるのは大きな誤り」として、それは、一般的な言語を聞いた聞き手が「現場や文脈」によって「具体的な感情を理解する」からだとしている。存在と認識の発展は個別・特殊・普遍のカテゴリーではどう捉え直すとどうなるかは論じた(17) ので、ここでは繰り返さない。幼い子供にとっては「お父さん」「お母さん」という言葉が固有名詞であるように、普通名詞が状況によって固有名詞に具体化される場合もあると思う。

 4、行動の意味と事物の意味

 意味という言葉は言葉についてだけ使われるのではない。人間や動物の行動についても、あるいは事物についても、その「意味」が問題にされる。時枝氏も「お祭り騒ぎは意味がない。長年の苦労も意味があった」といった例を挙げている。そして、その「意味」の意味を説明して、「これらの場合の『意味』とは、或る事物が話者に対して特殊な関係に於いて結ばれていることである」(『原論』420-1 頁)と述べている。しかし、私は、時枝氏はこれをあまり研究しなかったのではないかと思う。ここでは直接的に事物と話者の関係が問題にされるのではない、と思うのである。ここでの要点は、事物や行動の「意味」が問題にされる時には、所与の事物(ないし行動)はそれ単独で話者ないし或る主体との関係が問題にされているのではなく、他の事物(や行動)との関係で問題にされているということである。こう言えば、これが言葉の意味における一面(指示対象との関係ではない一面、他の単語との関係の面)に連なることが分かる。

 終わりに、意味論の効用について一言したい。というのは、やはり、原理的に言って、人間の完全な相互理解というのは不可能なのだが、当事者の能力の低さの故に、可能な限りの理解も阻害されていると思われることが多いからである。そして、この能力を向上させ、表現力と理解力を高めるために、もう少し辞書が改善されてもよいのではないかと思うからである。

 9月28日付朝日新聞の夕刊に、「中国『最強軍団』の素顔」という大見出しのついた記事が載った。その小さな見出しが「長髪・化粧・恋ともに厳禁」となっていた。私は「おやっ」と思った。長髪、化粧、恋と、三つの単語を並べた場合、それをまとめる言葉は「ともに」ではなくて「すべて」ではないかと思ったからである。辞書を引いてみた。しかし、どこにも、「二つのものを並べてまとめる時は『ともに』で、三つ以上の場合は『すべて』」とは、書いてなかった。「三つ以上の場合でも『ともに』を使うこともある」とも書かれていなかった。つまり、こういう疑問を持った時、答えてくれる辞書が無いのである。これはやはり拙いのではあるまいか。しかも、この種の用語法の混乱は今やものすごく広がり、文章の模範を示すべき大学教授や作家や新聞記者の文章の中に溢れているのである(18)。

 大槻文彦氏は「辞書における語の説明に必要な5項目」として「発音・語別〔品詞〕・語源・語釈〔意味〕・出典」を挙げる必要があるとした、そうである(19)。発音を示すのは日本語の場合なかなか難しいが、最近はいろいろ工夫して、アクセントを教えてくれる辞書が多い。これはありがたい。品詞は当然であろう。肝心の意味については、語源(初めの意味)、その後の変遷、現在の意味の三つが必要である。語源の項では、その単語を作った人とその事情なども書いてほしい。現在の意味を明らかにするためには、近接する諸語との異同や関係を説明する必要がある。これは「類語辞典」になるのかもしれないが、本来の辞典に必要な事項だと思う。又、その使い方を示すために、用例(正しい使用例、転用例、そして、必要な場合には、誤用例)を挙げることはやはりどうしても必要だと思う。

 学問も究極的には人間の幸福のためにあるのだとするならば、意味論の研究が辞書のあり方への提言によって人間の相互理解の促進に貢献するのも、その一つではあるまいか。(1994,10,10)

(1) 言語の価値(『原論』35頁)や単純語と複合語の問題、単語を一回的過程とし、文の条件として統一性と完結性を指摘したこと、その他。

(2) 「言語研究の道程は、いはば仮定せられた言語本質観を、真の本質観に磨上げて行く處にあると思う」(『原論』序)「たとえ対象の考察以前に方法や理論があったとしても、それはやがて対象の考察に従って、或いは変更せらるべき暫定的な仮説として、或いは予想としてのみ意義を有する」(同、4頁)

(3) 『続篇』10頁でその違いに触れている。「音楽は音の高低強弱を──媒材として成立するのに対して、言語は、人間自身の発声発音──を媒材として成立する」では、答えになっていない。

(4) この事はパヴロフの条件反射理論の論理的再構成を通して明らかにした。(拙著『労働と社会』鶏鳴出版)

(5) 「言語はただ人間を正直に反映しているだけの事と思えばよい。言語は意を達するために発明されたものではない。意を充たすために発明されたものなのである。ドイツ人は思ったことを普通どういう風に言い表すかがドイツ語なのではない。ドイツ人は思ったことを普通はどういう風に言い表したら気がすむか、これがドイツ語なのである。」(関口存男『冠詞』第2巻、三修社、143 頁)──この関口氏の指摘は素晴らしい洞察であり、よくよく考えてみる必要があるだろうが、氏が「文の意味」と言わず「達意眼目」という用語を提唱している(『冠詞』第3巻、167 頁)ことも合わせて考える必要があろう。氏の真意は「達意」の否定ではなく、その上に「充意」もある、と言うより、「充意」を通して「達意」が行われる、いや、「充意」の中に「達意」がある、ということであろう。これは後の意味論との関係で重要な問題である。

(6) 『原論』ではこれは言語の存在条件とされていたが、『続篇』では成立条件と呼ばれることになる。

(7) 「場面」は「主体の感情」も含み、「聞き手をも含めて、その周囲の一切の主体の志向的対象となるものを含む」というのだから、そして、ここで説明なしに使われている「志向」とは態度・振舞い・評価のことだろうから、氏は「場面が辞に表れる」と言うべきだったのではあるまいか。

(8) 「辞によって表現されるものは、主体それ自体であって素材ではない」(『原論』235 頁)といったように、成立条件と結び付けて考えている所もある。これを意識的に追求すべきなのである。

(9) 氏は「印欧語の単語は、国語に於ける詞辞の結合即ち文節に相当するものと考えられる」(『原論』326 頁)と言っているのだから、もし氏に論理的に書くという意識がもう少しあれば、言語一般についてと日本語についてとを関係して論述することは出来たはずなのである(先に、国語学を「日本語の言語学」とした不正確さが後に尾を引く、と言ったのは、ここを指している)。もっとも、印欧語やその他の言語で客体的表現と主体的表現とがどう表われているかは、氏が思っているほど単純ではないと思う。

(10) カラー著、川本訳『ソシュール』岩波書店

(11) 高田誠著『英語の学び方』旺文社、34頁

(12) 時枝氏はこう言っている。「『ツクエ』という音声に対して一個の具体的な机を示すという方法は、語によって表現される素材それ自身を教えることは出来ても、その語によって表現されているところの意味を示すことが出来ない。ところが『ツクエ』という語の表現するところのものは、事物それ自体ではなくして、事物に対する意味であるから、意味を教授することなくして、語の完(まった)き教授ということは出来ないのである。『ツクエ』という語を教えるのに、仮に、『書物を読む為のものである』とするのは、語の意味を教授するに幾分近い。このようにして教えられるならば、およそ机としての意味あるものであるならば、有り合わせの板や箱を重ねたものも、時には『ツクエ』として表現されることが可能となるのである。」(『原論』412-3 頁)

 語の意味には「事物それ自体」も含まれているから、示せるものなら語の対象を示すことは正しいし、必要なことだと思う。又、氏のこの場合の説明では「作業机」などは落ちてしまう。つまり、言葉での説明は難しいのである。又、食卓は「ツクエ」に入るのか、そういった周辺の単語との関係の説明も必要であろう。

(13) この「言葉による説明」については、原理的な事は「辞書の辞書」(拙著『生活のなかの哲学』鶏鳴出版、所収)で述べたが、私が感心した実例を紹介しよう。これも私の長女(みち、という)の小さかった頃(小学校に入るか入らないかという頃)のことである。長女と次女(まみ、という)とが一緒に庭の小さな池の金魚を見ていた。大きい金魚の横で小さい金魚が餌を食べる様子でも見ていたのだろう。長女が「大きい金魚が譲ってるんだね」と言った。次女は「譲る」という単語を知らなかったのだろう。「『譲る』って?」と聞いた。長女は直ぐに「ほら、朝、顔を洗う時、みっちゃんがまみちゃんに先にやらせてあげるでしょ? ああいうのを『譲る』って言うの」。「ふーん」。少し離れた所でこの会話を聞いていて、この長女の説明の鮮やかさに感服した私は、付ける薬も無いほどの親馬鹿だろうか。

(14) 『続篇』27頁。谷崎潤一郎『文章読本』第1章第1節。なお、人間の相互理解の三つの領域とそれぞれの領域における相互理解の可能性については、拙稿「人間の相互理解」(拙著『哲学夜話』鶏鳴出版、所収)で論じた。

(15) 丸山圭三郎著『ソシュールの思想』岩波書店、98-100頁。「連合関係」は「連想関係」と訳した方がベターだと思う。

(16) 『冠詞』第3巻、167 頁。

(17) 「昭和元禄と哲学」(拙著『生活のなかの哲学』鶏鳴出版、所収)

(18) その実例の一部は拙稿「日本語疑典」(鶏鳴出版刊『鶏鳴』第127 号所収)で取り上げておいた。

(19) 小池清治著『大学生のための日本文法』有精堂、28頁。
                          
 備考・本稿は雑誌『国文学、解釈と鑑賞』1995年1月号に掲載された。今回、ほんの少し加筆した。この原稿の後、『関口ドイツ文法』(未知谷、2013年)を出し、その第一部を「文法研究の方法」とした。その中に「ソシュールの連想関係」がある。(2013年10月23日)
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「文法」のサポート、詳細索引・heissen

2013年10月19日 | サ行
146──属詞文のheißenによる言い換え
150-1──繋辞としてのheißen
662──無冠詞名詞とheißen
668──heißenと同義のsein
673──es heißt

686──heißenと冠詞問題
831──heißtは意義評価に向く
965──heißen(命令する)

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模範的な反面教師

2013年10月17日 | タ行
 10月11日に、「通りすがりの仏文学者」さんから我がブログの或る記事に批判をいただきました。反面教師として模範的というか典型的なものですので、詳しく見る事にしました。

01、前提となるブログ記事

 ①茂木都立大学総長の言と行

 ②その後の動き

 ③吉川一義教授の教養

02、昔の事ですが(筆者・通りすがりの仏文学者)

 ひどい記事です。吉川先生が「不十分な研究業績」しか出せていないとしたら、多分日本の大学教授の99,9%は不十分な研究業績ですよ。もちろん、牧野さんの研究業績等、話になりません。

 ちらとみましたが、日本語論文しかない。ドイツ語が大しておできにならないからでしょうか、それとも、とても内弁慶なかただからでしょうか。

 当時、吉川先生の日本語の業績が少ないように見えたのは、フランス語でフランス人相手に世界の第一線で研究活動をしておられたからです。

 牧野さんはどれだけ、ドイツ人をうならせ、納得させる仕事ができたのでしょうか。そもそもドイツ語でちゃんと論文を書けるくらいの語学力をお持ちなのでしょうか。

 まあ、僕は吉川先生のことを個人的に知ってはいますが、別に吉川先生のフリークでもなんでもないです。とはいえ、こんな馬鹿な記事を見て、説得されてしまう輩がいると思うと悲しくなりますし、また見ているこちらが恥ずかしいので、早めにこの記事は削除したほうがいいと思います。(引用終わり)

03、お返事(牧野 紀之)

 第1点。「昔の事ですが」としていますが、「歴史の評価こそ本当の評価」ですから、そして、今こそ「都立四大学を廃止して、首都大学東京を作ったことの評価」をするべき時ですから、これは「昔の事」ではなく、「現在の事」だと思います。吉川さんはこれをしているのでしょうか。

 私の記事がこういう機縁を与えたとするならば、嬉しいです。「通りすがりの仏文学者」さんもこのような「おざなりな駄文」(高校生の小論文にも劣るもの)ではなく、ぜひとも本格的な評価(首都大学東京の評価と反対運動の評価)をして下さい。日本人はとかく一過性で、熱しやすく冷めやすい傾向があります。

聞き知った限りでは、その後、吉川さんだったか、朝日新聞に、「都立大学ではマル経の人々が先頭に立って石原知事の軍門に下った」とか書いていたと思います。逆に、仏文関係の人たちは最も頑強に石原知事と戦ったので、石原知事は「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とばかりに、フランス語に当たり散らして、物笑いの種を提供してくれたようです。

 都立大学の「マル経」などは、正しくは「代々木経済学」とでも言うべき人々で、「真っ先に石原知事に屈服した」のは、十分に理解出来ることです。

 授業をサボッテ政治運動ごっこをしていた阿部行蔵氏は、その後、立川市長になり、共産党の謂う所の「トロツキスト」対策とやらで直ぐに機動隊を導入したので、職員組合から、「保守市政でもこんな事はなかった」と批判されました。

 私の個人的に知っている「都立大学のマル経だった人(永瀬順弘)」はその後、桜美林大学に就職し、アメリカに留学したら、かつての「アメリカ帝国主義反対」はどこへやら、「自分の意見と主張の言える人間教育」を学んできたそうで、桜美林大学の「リベラル・アーツ」とやらの一環として、それを売り歩くようになりました。私が「どういう授業をしているのか、具体的に発表しろ」と要求すると、何も言えませんでした。代々木哲学についてはもう言う必要もないでしょう。

 ともかく、首都大学東京が出来て10年くらい経ったのですから、関係者は一度、振り返ってみるベきです。私は60年安保についても、65年の日韓闘争についても、その他の経験についても、その色々な場面を繰り返し考え、幾つかの論文に書いています。

 第2点。「通りすがりの仏文学者」さんは匿名で牧野批判をしていますが、あなたの親は「物陰から人を撃つような卑怯なまねはするな」と教えなかったのですか。ダメ親の元にダメ息子あり、ですね。

 そもそも、成人した子供の先ず第一に為すべきことは「親を批判する」事だと思います。ここで「批判」とは「非難」という意味ではなくて、カントの「純粋理性批判」の「批判」と同じ意味です。つまり、対象を全面的に吟味して、その意義と限界を明らかにする、という意味です。

 親を批判する事で、その親の影響を受けて育った自分を反省するのです。こうすれば、ダメ親に育てられても、立派な社会人になれます。マルクスは「子どもは親を批判しなければならない」と言いましたが、その意味も同じだと思います。しかし、あなたはこれをしなかったようですね。これではまだコドモでも仕方ないでしょう。

 私は父についての批評(薄幸な自由主義者・牧野純夫)を、その追悼文集『雪山の歌』に載せ、拙著『哲学夜話』に転載しました。「(親の事を)よくあれだけ悪く書けるな」と言ってくれた友人もいますが、私としては客観的に論じたつもりです。今回の『関口ドイツ文法』の34頁には父と母への献辞を書きました。

 第3点。私の吉川批判を否定するならば、まず自分の吉川論を書いてからにするべきです。社会的な論争の枠組みはnot .. butの構文です。butを出せない人にnotを言う資格はありません。私は池内紀さんの関口存男論である『ことばの哲学──関口存男のこと』について、「『伝記』としては60点、『業績評』としては0点」としましたが、私自身は、『関口ドイツ語学の研究』を当時、既に出していました。その後、『関口ドイツ文法』を出しました。

 もちろんbutを「言う」だけでは世の中は好くなりません。実行しなければなりません。それがnotで否定されたものより好いものでなければなりません。社会主義は資本主義を批判しましたが、その実行した自称「社会主義」は資本主義より悪いものでした。民主党も自民党の「官僚主導政治」を批判しましたが、自分の実行した「政治主導」とやらはお粗末なもので、結局、野田政権の「自民党より悪い官僚主導政治」になりました。

 「通りすがりの仏文学者」さんもぜひ、自分の吉川論を出して下さい。その時には、石原都政との闘争における吉川さんの言動もしっかり取材して(友達なのですから、出来るでしょう)、それについての自分の客観的な評価も書いて下さい。牧野の吉川論を批判するのはその後でも遅くありません。

 第4点。「友を見れば人が分かる」と言います。吉川さんはこのような「仏文学者」さんからの援護射撃を喜ぶでしょうか。多分、喜ばないでしょう。それなら、吉川さんには希望があります。これを喜ぶようでしたら、もうおしまいです。

 ともかく、「修身斉家治国平天下という言葉をかみしめてください」。これが私の「お返事」です。

 関連項目

池内紀著『ことばの哲学──関口存男のこと』を評す

桜美林大学教授、永瀬順弘
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「文法」へのサポート、詳細索引、「ハ」(助詞)

2013年10月15日 | サ行
141──「ハ」の三上説
146──「ハ」と「デ」
170──「規則は規則だ」型の同語反復文

201──「ハ」と「ガ」
853──「ヲ」を代行する「ハ」

1457, 58──提題の「ハ」
1463──「ハ」の全体像
1468──「ハ」の諸問題
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浜松市のHPのリニューアル

2013年10月14日 | ハ行
 浜松市役所のホームページがリニューアルされました。図書館のコーナー(と言うのかな)が別になり、独立したのは、私にとっては便利になったかな、と思います。

 さて、一番重要な「市長と市民との対話」に改善が有ったでしょうか。否、です。浜松市のHPにも「市長への意見」という欄は以前からありましたが、市長へ質問をするには越えなければならないハードル(答えなければならない項目)が実に多いのです。そして、その項目の中に「悪名の高い」「市からの回答を希望しますか」という質問があるのです。こんな馬鹿げた質問に答えなければならない「トップへの質問」を作っている所は浜松市だけではないでしょうか。皆さんの市ではどうですか。調べて、教えてください。

 この質問の「希望します」にチェックを入れますと、市長は、マニュアルに則って、まず、「担当者に回します」と答え、1から2週間後に「市としては以下のように考えています」と言って、「担当課の書いた官僚的作文」を送ってくるのです。「希望しない」にチェックを入れますと、「聞きおく」だけで終わりです。

 これでは「市長に質問する」意味がありません。これなら、初めから、広報課にメールを送るのと何ら変わりがありません。市長自身の考えを聞きたいから、市長に質問するのです。こういうふざけた応答は前の市長だった北脇さんから続いている事ですが、「市民から逃げて、逃げて、逃げ回っている」現鈴木康友市長も、自分に都合がいいので、そのまま受け継いでいるのです。

 浜松市には行革審という「飾り」がありますが、その委員は商売で成功しただけの人達ですから、お金の事は分かるようですが、この「市長への意見」を使った事がないようです。しかも、行革審の事務方のトップに職員出身の人を据えていますから(NHKの経営委員会と同じ)、そのHPに「市民からの要望」を聞く欄がないのです。市民が勝手に書きこむ所はありますが、行革審の会長が責任を持って答える義務はないし、その意志もないので、今では書きこむ人もほとんどいなくなりました。

 月に1回出る広報誌には「市長コラム」があって、「小天皇気取りの作文」が載っていますが、議論はありません。学校のHPにある「校長の話」もほとんどが「朝会での話」や「入学式での式辞」などの再録です。本を読んで考えたこと、映画や芝居を見て考えた事、新聞記事を読んで考えた事、他校の様子から学んだ事などは、薬にしたくてもありません。市長に相応しい校長と教育長が君臨しているわけです。「組織はトップで8割決まる」のです。

 イジメ自殺が市内の中学で起きても行動しない市長です。浜松市に希望はあるのでしょうか。 

 参考・新HPからの抜粋

市長への意見

 市からの回答を希望される方は、ご住所、お名前、電話番号、メールアドレスを必ずご記入ください。また、ご住所やメールアドレスが正確に記入されていませんと、お返事できない場合がありますので、ご了承ください。なお、回答に対する再度のご意見につきましては、直接担当課から回答させていただく場合もありますので、ご了承ください。

 牧野による注釈・最初の回答は「間接的に、つまり市長を通過するだけで担当課から回答する」ということです。

 回答する場合は、市長がご意見を拝見した後、〔自分では回答せず〕担当課が回答を作成し、お返事するため、回答までに2週間程度の時間がかかります。また、ご意見の中で、担当課での詳しい調査・検討・調整などが必要な場合は、さらにお時間をいただく場合もありますのでご了承ください。(角括弧は牧野の注釈)

 ご質問やお問い合わせなどについては、「市長へのご意見箱」とは別に各担当課でお受けしております。担当課がおわかりの場合は「担当課へ」をクリックし、連絡先をご確認いただいて、直接ご連絡をお願いいたします。また、担当課がどちらかおわかりでない場合には、「広聴広報課へ」をクリックしてください。お寄せいただきましたお問い合わせは、広聴広報課が担当課に送付し、直接担当課から回答いたします。

牧野の感想

 こんな事をしないで、全て広報課に送ってもらって、市長が答えるべきものは市長に回して、市長が答える、担当課でよいものは担当課に回す、と一元化すると好いでしょう。
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静岡県民の暮らし、2013年

2013年10月10日 | サ行
 給料が増えず、暮らしが苦しい――。県がまとめた2013年度の県政世論調査(速報値)で、県民の4割超が日々の生活にそう感じていることがわかった。昨年度から2・4ポイント減少したが、4割以上が「苦しい」と回答したのは6年連続。「変わらない」と答えた県民も2年連続で増加し、51・1%になった。

 調査は今年7月、県内の成人男女4000人を対象に郵送で実施。生活についての意識や県政への関心度などを質問し、2039人から回答を得た(回答率51・0%)。

 昨年の同時期と比べて暮らしの変化を尋ねたところ、「楽になっている」はわずか2・5%(51人)。これに対し「苦しくなっている」は42・3%(862人)、「同じようなもの」は51・1%(1041人)に上った。

 苦しい理由(複数回答)は「給料や収益が増えない、または減った」が最多の492人。「預貯金が増えない、または減った」が338人、「税金や保険料の支払いが減らない、または増えた」が328人と続いた。

 実際、静岡労働局が10月1日発表した8月の有効求人倍率は前月と同様の0・86倍で、雇用情勢は回復基調だが、155人(18・0%)は「失業、退職、休職で収入が減った」と回答しており、県内経済全体では大きな改善がみられない状況だ。

 一方、政府は来年4月から消費税を8%に引き上げるが、過去の世論調査では「生活が苦しい」との回答が、消費税導入時の1989年は21・6%(前年17・5%)、3%から5%に引き上げた1997年は28・7%(同25・2%)とそれぞれ増加する傾向にあり、今回の調査結果も、増税が影響したとみられる。

(2013年10月6日 読売新聞)

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「文法」へのサポート、詳細索引・掲称的語局、掲称的付置

2013年10月09日 | サ行
266──換言的並置と掲称的付置
270──掲称的語局の1例
294──国名と掲称的意味形態
301──掲称的付置と同格(Apposition)

306──命令形と呼格は掲称的
310──換言的並置と掲称的付置
333──掲称の2格
361──引用の4格は名詞の掲称的語局

502──無冠詞(掲称的語局)の1例
662──無冠詞は掲称的である
698──掲称的付置
1485──助詞の「モ」と掲称的語局

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お知らせ

2013年10月07日 | 読者へ
 今日10月7日の朝日新聞朝刊の一面の中央に、植樹している人々のカラー写真が載っています。「鎮魂2万本、防災林に育て」という見出しの字があります。

 朝日新聞はなぜか書いていませんが、これが「命を守る森の防潮堤」運動です。宮脇昭さんが提唱し、多くの人が賛同して、昨年から着実に進んでいます。

 この運動に背を向けて、クロマツ防潮堤を作ろうとしている変人もいます。わが静岡県の川勝知事と浜松市の鈴木康友市長です。今日から、そのクロマツ防潮堤の「堤」のための土を運ぶ作業がはじまりました。次の記事は中日新聞のものです。

──浜松市沿岸部の防潮堤整備で使う土砂の運搬をめぐり、同市は6日、土砂を運び出す天竜区阿蔵山(あくらやま)周辺の住民から運搬の開始について同意を得た。7日から搬出を始め、当面は1日に最大50台の10トンダンプが定められた経路を通行する。

 市は6日、阿蔵山の地元住民15人を対象に説明会を開き、掘削する場所や騒音対策を説明。住民から「搬出開始は時期尚早」などの意見が出たため、その場では同意を得るに至らなかった。

 説明会終了後、市幹部が対象の住民を戸別訪問し、説得を続けた結果、搬出について了解を得た。阿蔵自治会の田村和史会長(63)は中日新聞の取材に対し「市と自治会、住民の協力の結果、地元の気持ちが整ったと受け止めている」と話した。

 市は最終的に1日300台のダンプを走らせる計画だが、この日の同意では1日最大50台での試験的な通行が認められた。搬出は原則平日のみで、通勤時間帯を避けて午前8時半~午後5時。阿蔵山を出発し、天竜川右岸の堤防道路などを通って約28八キロ離れた南区の海岸まで運ぶ。

 説明会を開いた市道路課は「防潮堤事業の意義を理解し、協力してくれることに感謝したい。本格的な搬出に向けて今後も丁寧な説明を続けていく」と話している。

 防潮堤整備事業は南区の2カ所で県による試験施工が始まっている。市は土砂の調達と地元調整を担当。市は9月上旬にも搬出を始める計画だったが、阿蔵山周辺で調整が難航し、1カ月近く搬出が遅れていた。(引用終わり)

 このクロマツ防潮堤の一部に宮脇理論に基づく「広葉樹の森」を作って、本当に命を守る防潮堤にしようとしている人々もいます。

    関連サイト

いのちを守る森の防潮堤

縄文楽校

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「文法」へのサポート、詳細索引・wissen

2013年10月06日 | サ行
801──直前の過去
837, 839──wissen+zu不定句

903──1人称現在単数と3人称現在単数とが同形

1451──目的語の繰り返し
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