マキペディア(発行人・牧野紀之)

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ボローニャ大学

2007年04月30日 | ハ行
     ボローニャ大学

   参考

 パリにかぎらず、大学の発祥という時点は、ヨーロッパにあって
あたかも都市の形成・発展の時期に合致している。これは偶然の一
致ではあるまい。

 自治都市、あるいは都市の構成体としてのギルドや自治組織は11
世紀から14世紀の中世社会のなかで確立された。

 大学もまた、その一環だったのである。中世社会のさまざまな特
性を、大学はゆるがしがたい基盤として内蔵し、のちの時代を用意
したのであった。

 15世紀の中世末までに、ヨーロッパ全土で80ほどの大学が建設さ
れたが、ほぼすべては自治都市の中にある。中世封建社会をささえ
る農村や、いくたの修道院をいとなんだ深い森林のなかに大学が建
設されることはまれであった。都市こそ、大学という学府にふさわ
しい舞台であり、また都市は大学を重要な構成要件として受けとり、
育んだのでもあった。(中略)

 北イタリア、ロンパルディア平原にあるボローニアは、中世自治
都市のひとつである。交通の要衝をしめ、すでにローマ時代から、
都市としての繁栄をたのしんできた。

 中世都市としてのボローニアは、イタリアの北から干渉するドイ
ツ皇帝と、かたや南のローマからくる教皇の圧力のあいだにはさま
れ、また平原に散在する自治都市の勢力争いにまきこまれて、苦難
の連続であった。(中略)

 そのボローニアにヨーロッパ最初の大学のひとつがうまれた。当
時の建物はほとんど現存しないが、それでも大学本部に相当する一
郭には、堂々とした建造物があり、数年前には「創立850年」を祝う
祭典がここでおこなわれ、みるものを圧倒した。建築様式からいえ
ばゴシックにあたるのも、偶然ではあるまい。

 伝承によれば、ボローニア大学は12世紀のなかば、私塾を母体と
して、大学への道を歩みはじめた。パリ大学をはじめ中世の大学と
おなじく、都市と教会による認可をうけた団体であり、ギルドとし
ての集団規則をもち、自治権を保障されていた。ただし、パリ大学
とくらべてみると、きわめて大きな差異があることにきづく。

 第1に、ボローニア大学はパリとはちがって、「学生の大学」で
あった。教師が規則を制定して、学生を入学させる「教師の大学」
とはちがい、学生が団体の主体となり、教師はいわば学生によって
雇用される。

 一定の条件にしたがって、教師は授業や試験をとりおこない、学
生に学位を授与する。むろん、学生は授業料を支払うのであるから、
それに相当す教育サービスをうける権利があるはずだ。しかしそれ
をこえて、教師は学生のなかから選出される学長から規制をうけ、
とくに条件に違反した教師にたいする罰則は、厳格なものがあった。

 授業に遅刻したり休講する教師、決められた期限内に授業を終了
しない教師、そして学生の期待する学問水準に達しない教師。これ
らには、子細な罰金規定や罷免規定まであてられた。

 教師も組合を結成したが、学生団体のほうが上位にある。パリ大
学とはちょうど逆のケースだが、対照もはなはだしい。(中略)

 第2のちがいは、教授科目である。ボローニアにも教養自由学が
あり、学生はそこから勉学をスタートした。

 だが、ボローニアがとりわけて学生を集めるようになったのは、
この都市に定着した法学教育の水準がきわめて高度だったからであ
る。神学が、中世ヨーロッパ世界では実用性のたかい学問であり、
学生の向学心を刺激したように、法学も社会的実用の学知として、
ようやく重みを要求しはじめていた。

 この場合の法学とは、ローマ法学である。ローマ法はかつてロー
マ帝国における社会規範として、イタリアを中心に成熟をみたので
あるが、イタリアですらもゲルマン諸部族の侵入とともに、その実
用力をうしなっていった。(中略)

 ところが、11世紀のころからイタリアにおいて都市が登場し、そ
こでは商業をはじめとする都市的経済が活発化すると、それを統御
する法体系が必要となった。ローマ法は、体系としては埋もれてい
たものの、部分としては都市のなかでほそぼそと受けつがれていた。

 ボローニアでは11世紀にペポ、12世紀にはイルネリウス、グラテ
ィアヌスという卓抜の法学者が登場した。かれらはローマ法典を発
掘し、社会の現実にたいして有用な技術を提供した。

 評判をきいた都市民がかれらのもとに教えを乞いにやってきた。
ローマ法は幾百年ぶりにイタリアの地に復活した。ボローニアこそ、
「ローマ法復活」の故地となった。大学は、その故地にうまれる。
(中略)

 ボローニアには、イタリアだけではなく、ヨーロッパ各地からき
そって学生がおとずれてきた。ローマ法に無縁であったドイツから
は、この新しい社会技術を修得しようと、学生の群れがやってきた
という。スペインも、フランスもおなじく。

 やがて、フランスはオルレアン、パリやトウールーズ、モンペリ
エなどの大学にみずから法学部を設置して、対応するようになる。
(中略)

 イタリアの大学のなかでも、もっとも古い歴史を持ついまひとつ
の大学であるパドヴァは、ボローニア大学の分身として設立され、
とりわけ医学をもってしられることになる。

 16世紀になって、近代医学・解剖学の祖となるヴェサリウス、そ
して血液循環説のハーヴェーらは、パドヴァ大学で医学をまなんだ
のである。そればかりか、医学につながる自然の学が隆盛を極め、
コペルニクスやガリレイもこの大学に籍を置いたのであった。
 (樺山紘一「都市と大学の世界史」NHK人間大学)

泣く

2007年04月09日 | ナ行
     泣く

 (1) ちなみに人間は近代に入ると、泣かなくなった。中世では人
はよく泣いた。中世よりもはるかにくだって〔吉田〕松陰の時代で
すら、人間の感情は現代よりもはるかにゆたかで、激すれば死をも
恐れぬかわり、他人の秘話をきいたり国家の窮迫を憂えたりすると
きは感情を抑止することができない。
 (司馬遼太郎「世に棲む日日」文春文庫、1-129 頁)