参考
(1) ゲーテの現世主義、瞬間主義は有名である。その内容は決して単にここの口調に現れているような軽率な自己自棄的なものではなく、瞬間に永遠あり、仮の世は仮なるが故に最大の魅力を有するなり、と云う、非常に深いものであるが、その表現法に至っては、俗物をあっけにとらせるために、往々にして江戸っ子の兄貴みたいな無邪気な啖呵形式を用いることが多い。
(関口存男『ファオスト抄』35 頁)
『ファオスト』について
(1) 地獄極楽に関する迷信は西洋も東洋も全然同じであるが、西洋のは、ちょうど赤鬼青鬼に相当する悪魔 (Satan, Teufel)という奴が、一見普通の人間のように化けすまして娑婆を徘徊し、当局(というのは即ち教会、宗教、僧侶)の眼をかすめて盛んに潜行的地下工作を行い、何処かその辺の不良分子を誘惑しては盛んに危険思想を注入し、遂には宗教に反抗し神に背いて全くの悪人になるのを待ってその魂を地獄へ持っていく、という事になっている。
俗本の Faustsage(ファオスト伝説)は、つまりそういう迷信に結びつけた勧善懲悪のお噺で、悪魔と結託したファオスト博士が、魔法を用いてありとあらゆる狼藉を働いた揚げ句、遂には約束の日が来ると、轟然たる音響と共に四肢五体が四壁に飛び散り、魂も悪魔に持っていかれてしまったという事になっている。つまり、宗教全盛時代に於ける不良分子、悪人、空恐ろしい人間の見本としてファオスト博士という伝説人物が出来たわけである。
ところが、ゲーテがこの変な伝説に注目したというのは、勿論教会や坊主のように、悪人として例を引き、勧善懲悪の意味に於いて世を警(いまし)めんがためではない。
世人が見放して以て空恐ろしいとなしているこのファオスト博士の運命の中に、あらゆる例外的、非凡的、悲劇的、男性的、冒険的一生涯の象徴を感じたからである。
酔生夢死(すいせいむし)の徒はいざ知らず、いやしくも人の世に生を享(う)けて、この五十年の生涯を一期一会(いちごいちえ)と思って緊張して生きている人間には、何処かこう「悪魔に身を売った」ようなところがありはしないか?
五十年なら五十年と、年期を限られて生きている人間には、ただぼんやりとその日その日を暮らしている人間とは本質的に打って変わった真剣な緊張がありはしないか?
後生はどうせ地獄落ちだという事がはっきりと分かって、命の続く間だけが我が世だと云う悲壮な意識を抱いて人生を眺めたならば、その時に於いて初めて人生が真に人生らしく見えてくるのではあるまいか?
ぼんやりした酔生夢死の一生よりは、そうした一生の方は、二乗三乗四乗五乗した白熱的・高圧的人生ではあるまいか?
ゲーテは、かくの如き空恐ろしい、神に見放された悪人を主人公として選び、この主人公の心境におのが全感情、全認識、全禅定(ぜんじょう)を総摂(そうせつ)せしめんとした以上、必ずやかくの如く感じたに相違ないのである。
この、五十年の人生を乾坤一擲(けんこんいってき)のやけくそ相場と解する事によって二乗三乗に高められた高次の価値のものとすると云う考え、このあくまでも雄々しい、神に挑み悪魔に挑む闘争的気構え、これを称して取りも直さず Faustismus (ファオスト主義)と云い、こうしたタイプをはっきりとした性格に作り上げて全欧州人の血を沸かし、哲人、文学者、政治家、その他ありとあらゆる頭の熱した文化人の溜飲を下げると同時に、「人間」というものの最高理想の1つをおっ立てた、これがゲーテの画期的功績である。(関口存男『ファオスト抄』32-3頁 )
(2) 初めの2行は別に大した意味もないが、最後の2行が非常に辛辣な皮肉である。
「そんな大きな事を言いなさるが、そんな天地神明に向かって挑むような態度は決して長続きするものではない。今に御覧(ごろう)じろ、緊張と努力の生活なんてものはつくづく厭になって、やっぱりまあ、ゆっくりと腰を落ちつけて、なんか甘い物を抱え込んでひとりでゆっくりと舌鼓(したつづみ)を打っていると云ったようなのんきな人生の方がよくなる時が来ますぜ」というのである。常識的見地から批判すれば、なるほどそれに違いない。「偉そうな事を云ったって駄目だ」というあきらめ、「どうせ~」と云う物の考え方、これがあらゆる俗物根性の根本的気構えである。
俗物の頭の好さという奴はつまりこの「どうせ~」という大悟徹底的な考え方に於いて最もよく顕れる。自分自身が大したものでない事を知っているから、すべてをその眼で見るのである。
しかも往々にしてこの俗物の予言は命中することが多いという事も事実である。つまり、「どうせ」と云うくだらない考え方は、或る種の全然ちがった意味に於いて、天地自然の最後の理法、即ち所謂「天地の心」、或いはキリスト教の所謂「神の摂理」、或いは現代人の所謂「最後の真理」という奴に合致することが多いのである。
これが往々にして這般(しゃはん)の問題を複雑微妙にし、時にはあたかも俗人の俗感がそのまま神の心であったかの如き変なことになって、「事実が何よりの証拠じゃないか」と云って俗人は威張るのであるが、この種の場合に於いて何か天地の理法の如きものが証明されたなどと思うのは飛んでもない誤りで、天地の理法はむしろ俗人の介入を怒って姿をかくしてしまったのだと見るのが妥当である。
この Doch, guter Freund 云々の皮肉も、俗人の俗見であるか、或いは人生最後の真理であるかは、ちょっとなかなか見分けがたい。しかしいずれにせよ、一つはっきりと云えることは、このメフィストフェレスという人物は、ファオストを誘惑する悪魔ではあるが、ゲーテはこの悪魔なるものに相当特徴のはっきりとした実在人物的性格を与えていると云う事で、しかもその性格は、「すこぶる常識的な、箸にも棒にも掛からぬ現実主義者」と云えばほぼ定義される。
世の中には実際そういう男の見本が沢山うろついている。頭脳はすこぶる明晰で、むしろあまりに明晰すぎて温かい人情の育つ余隅(よぐう)がない。くだらない意味に於いて、裏を裏と考える事に於いてこの男の頭脳は最も明晰である。自分もくだらないから、人もくだらないものときめて掛かっていて、その間一点の感傷性の介入することをも許さない。
また彼の頭の好さは、あらゆる理想を土足にかけて踏みにじって見せる場合に於いて最もその威力を発揮する。自分の頭の好さと、自分の現実的明徹性でもって世の中が全部割り切れると信じているから、頭の好さだけでは解決のつかない或る種の心の問題や、美しい事柄や、善い事柄となると、真っ向から反対はしないまでも、何とかしてけちをつけてやろう、滑稽化しよう、万人の眼に滑稽に見せようとかかっている。
ゲーテは、世間によく見受けるそういうタイプを持ってきてこのメフィストフェレスという悪魔にしたのである。それは既に、悪魔は必ず骨ばった痩せた男であるという考え方にもぴったりと合っている。毒舌を好む、温かみとお人好さのない、頭の好い、人の悪い、現実的な人間と云えば、これはもう人情の自然として、鋭く角張った痩せぎすの男しか考えないのが普通である。西洋の Hexe (鬼婆〔おにばばあ〕、魔女)という奴でも、我が国の安達が原の鬼婆でも、骨と皮とのような婆(ばばあ)でないと板につかない。
誰しも己(おのれ)が漠然たる過去の印象に問うてみるが好い。人間誰しも心に憧憬というものを持ち、神と云ったようなものを抱いている。ところが、社会は何処へ行っても、ちょうどこのメフィストフェレスのような奴がいて、この男が一言辛辣なことを云うと夢も憧憬も吹き飛ばされてしまう。「この男はおれの鬼門だ」と云ったような男がその場所場所で必ず一人位はいるものであるが、これが即ちメフィストフェレスのモデルである。
ファオストの全篇は、至る所このメフィスト的「下司(げす)な、噛んで吐き出したような」、物みなを泥濘の中に引き下げて土足で踏みにじって快哉を叫んでいるような、くだらないようで深刻な、深刻のようでくだらない啖呵(たんか)で満ち満ちている。そして、こうした俗論的毒舌、破壊的言辞と、一方ファオストの儼乎(げんこ)たる理念とが常に鎬(しのぎ)を削る。これがファオスト一篇の基調なのである。
(関口存男『ファオスト抄』 44-6 頁)
(3) この契約の趣旨は、ファオスト全篇の総序とも云うべき Prolog im Himmel (天上の序詞)に於ける、神と悪魔との間の賭けとも関係している。
この所で、メフィストフェレスは、このファオストと云う人間をおれがこれから普通のくだらない凡人にして見せると云い、神は、そんな事は出来ないと云い、いや出来る、いや出来ないの議論で以ていよいよ賭けと云う事になるのであるが、ここでいよいよその同じ賭けを当のファオスト自身を相手に取り決める所である。
凡そ悪とか不運とか誘惑とか云ったようなものは、之(これ)に堪え得る人間と、堪え得ない人間とがある。堪え得る人間にとっては悪は善を益々善ならしむる所以であるが、堪え得ない人間にとっては、たとえば不運は彼を益々だらしなくする。つまり生地の問題である。鉄は打つほど固くなるが、馬の糞は打つほどぐにゃぐにゃにもなり、くさくもなる。しっかりした人間は不幸に遇うほど益々骨が出来るが、くだらない人間は不幸に遇うほど益々乱れてでたらめになる。
(関口存男『ファオスト抄』48頁 )
(4) Ein guter Mensch, in seinem dunklen Drange, / Ist sich des rechten Weges wohl bewusst.
好漢は如何に躓(つまず)き迷うとも・/ 往く可き所に往かで止むべき
この場合の guter Mensch は、普通に考えそうな「善人」(悪人の反対としての)ではない。即ち、この gutは boese(邪悪)の反対としての gutではなく、 schlecht, untauglich (駄目な)の反対の gut(しっかりした)である。
普通の善人であったら、これは通り言葉と云ってよいほどの、既に認められた結合であるから、或いは der gute Mensch と云ってよかったところであろうが、この guter Mensch は、いわば作者がこの場に特に創出した結合であって、従って gutという性質がこの際には特に強調されているのであるから、それで Einを用いたのである。
たそれがファオスト全篇の思想であって、ゲーテは人の善悪を問題にせず、ただその良否のみを問うていると解すべきてある。
(関口存男『冠詞』第1巻 420頁)
(5) Wie ich beharre の一句に、ファオストが敢然として排するところの Beharren (一所にとどまって動かないこと、固定的になること、一たび陥った安易な形式の虜となって之〔これ〕を墨守すること、その他そうした概念を一括したもの)と云う概念が出てきたのに注目を要する。
ファオストの理想とする所は、要するに安逸安易なる形式の絶えざる打破である。しかも本人が主義としてみずから敢行していくところの克己的自己打破である。まるで蛇が時々皮を脱け出すように、その時々の自得的自我の皮を勇敢にかなぐり捨てかなぐり捨てつつ、よりよき自我へと絶えず脱け出しにぢり進んで行こうとする、克己を以てする解消的進化、破壊的建設である。
これは或る種の自力本願的宗教と云っても好い。これがファオスト全篇の内容であり、これがおのずから他力本願的な意味に於いて最後の神意に合致すると云うのが、ファオストの大詰め、第2部の終わりのところの天上の場面なのである。
地上の五十年を悶々として闘い通す「人間」なる現象をば、かくの如く「絶えざる発展的解消の道場」と見る見方は、後に至って後輩ヘーゲルの心を深く動かす所があり、その結果としてヘーゲルの歴史哲学が生まれたのである。
それらすべての意義ある迷路と意義ある転身をば、総括して之を神意の直々の顕れと見るところなどもゲーテのファオストのヘーゲルの思想に対する影響は誰人の眼にも明らかである。
ゲーテの箴言として
Stirb und werde!〔死して成れ〕
と云うのが有名であるが、これを一個の人間が身を以て敢行していくところを書いたのがファオストであり、之を個人問題を離れて人類全体の動きに通用する理法として磨き上げたのがヘーゲルの歴史観である。
(関口存男『ファオスト抄』54-5 頁)
(1) ゲーテの現世主義、瞬間主義は有名である。その内容は決して単にここの口調に現れているような軽率な自己自棄的なものではなく、瞬間に永遠あり、仮の世は仮なるが故に最大の魅力を有するなり、と云う、非常に深いものであるが、その表現法に至っては、俗物をあっけにとらせるために、往々にして江戸っ子の兄貴みたいな無邪気な啖呵形式を用いることが多い。
(関口存男『ファオスト抄』35 頁)
『ファオスト』について
(1) 地獄極楽に関する迷信は西洋も東洋も全然同じであるが、西洋のは、ちょうど赤鬼青鬼に相当する悪魔 (Satan, Teufel)という奴が、一見普通の人間のように化けすまして娑婆を徘徊し、当局(というのは即ち教会、宗教、僧侶)の眼をかすめて盛んに潜行的地下工作を行い、何処かその辺の不良分子を誘惑しては盛んに危険思想を注入し、遂には宗教に反抗し神に背いて全くの悪人になるのを待ってその魂を地獄へ持っていく、という事になっている。
俗本の Faustsage(ファオスト伝説)は、つまりそういう迷信に結びつけた勧善懲悪のお噺で、悪魔と結託したファオスト博士が、魔法を用いてありとあらゆる狼藉を働いた揚げ句、遂には約束の日が来ると、轟然たる音響と共に四肢五体が四壁に飛び散り、魂も悪魔に持っていかれてしまったという事になっている。つまり、宗教全盛時代に於ける不良分子、悪人、空恐ろしい人間の見本としてファオスト博士という伝説人物が出来たわけである。
ところが、ゲーテがこの変な伝説に注目したというのは、勿論教会や坊主のように、悪人として例を引き、勧善懲悪の意味に於いて世を警(いまし)めんがためではない。
世人が見放して以て空恐ろしいとなしているこのファオスト博士の運命の中に、あらゆる例外的、非凡的、悲劇的、男性的、冒険的一生涯の象徴を感じたからである。
酔生夢死(すいせいむし)の徒はいざ知らず、いやしくも人の世に生を享(う)けて、この五十年の生涯を一期一会(いちごいちえ)と思って緊張して生きている人間には、何処かこう「悪魔に身を売った」ようなところがありはしないか?
五十年なら五十年と、年期を限られて生きている人間には、ただぼんやりとその日その日を暮らしている人間とは本質的に打って変わった真剣な緊張がありはしないか?
後生はどうせ地獄落ちだという事がはっきりと分かって、命の続く間だけが我が世だと云う悲壮な意識を抱いて人生を眺めたならば、その時に於いて初めて人生が真に人生らしく見えてくるのではあるまいか?
ぼんやりした酔生夢死の一生よりは、そうした一生の方は、二乗三乗四乗五乗した白熱的・高圧的人生ではあるまいか?
ゲーテは、かくの如き空恐ろしい、神に見放された悪人を主人公として選び、この主人公の心境におのが全感情、全認識、全禅定(ぜんじょう)を総摂(そうせつ)せしめんとした以上、必ずやかくの如く感じたに相違ないのである。
この、五十年の人生を乾坤一擲(けんこんいってき)のやけくそ相場と解する事によって二乗三乗に高められた高次の価値のものとすると云う考え、このあくまでも雄々しい、神に挑み悪魔に挑む闘争的気構え、これを称して取りも直さず Faustismus (ファオスト主義)と云い、こうしたタイプをはっきりとした性格に作り上げて全欧州人の血を沸かし、哲人、文学者、政治家、その他ありとあらゆる頭の熱した文化人の溜飲を下げると同時に、「人間」というものの最高理想の1つをおっ立てた、これがゲーテの画期的功績である。(関口存男『ファオスト抄』32-3頁 )
(2) 初めの2行は別に大した意味もないが、最後の2行が非常に辛辣な皮肉である。
「そんな大きな事を言いなさるが、そんな天地神明に向かって挑むような態度は決して長続きするものではない。今に御覧(ごろう)じろ、緊張と努力の生活なんてものはつくづく厭になって、やっぱりまあ、ゆっくりと腰を落ちつけて、なんか甘い物を抱え込んでひとりでゆっくりと舌鼓(したつづみ)を打っていると云ったようなのんきな人生の方がよくなる時が来ますぜ」というのである。常識的見地から批判すれば、なるほどそれに違いない。「偉そうな事を云ったって駄目だ」というあきらめ、「どうせ~」と云う物の考え方、これがあらゆる俗物根性の根本的気構えである。
俗物の頭の好さという奴はつまりこの「どうせ~」という大悟徹底的な考え方に於いて最もよく顕れる。自分自身が大したものでない事を知っているから、すべてをその眼で見るのである。
しかも往々にしてこの俗物の予言は命中することが多いという事も事実である。つまり、「どうせ」と云うくだらない考え方は、或る種の全然ちがった意味に於いて、天地自然の最後の理法、即ち所謂「天地の心」、或いはキリスト教の所謂「神の摂理」、或いは現代人の所謂「最後の真理」という奴に合致することが多いのである。
これが往々にして這般(しゃはん)の問題を複雑微妙にし、時にはあたかも俗人の俗感がそのまま神の心であったかの如き変なことになって、「事実が何よりの証拠じゃないか」と云って俗人は威張るのであるが、この種の場合に於いて何か天地の理法の如きものが証明されたなどと思うのは飛んでもない誤りで、天地の理法はむしろ俗人の介入を怒って姿をかくしてしまったのだと見るのが妥当である。
この Doch, guter Freund 云々の皮肉も、俗人の俗見であるか、或いは人生最後の真理であるかは、ちょっとなかなか見分けがたい。しかしいずれにせよ、一つはっきりと云えることは、このメフィストフェレスという人物は、ファオストを誘惑する悪魔ではあるが、ゲーテはこの悪魔なるものに相当特徴のはっきりとした実在人物的性格を与えていると云う事で、しかもその性格は、「すこぶる常識的な、箸にも棒にも掛からぬ現実主義者」と云えばほぼ定義される。
世の中には実際そういう男の見本が沢山うろついている。頭脳はすこぶる明晰で、むしろあまりに明晰すぎて温かい人情の育つ余隅(よぐう)がない。くだらない意味に於いて、裏を裏と考える事に於いてこの男の頭脳は最も明晰である。自分もくだらないから、人もくだらないものときめて掛かっていて、その間一点の感傷性の介入することをも許さない。
また彼の頭の好さは、あらゆる理想を土足にかけて踏みにじって見せる場合に於いて最もその威力を発揮する。自分の頭の好さと、自分の現実的明徹性でもって世の中が全部割り切れると信じているから、頭の好さだけでは解決のつかない或る種の心の問題や、美しい事柄や、善い事柄となると、真っ向から反対はしないまでも、何とかしてけちをつけてやろう、滑稽化しよう、万人の眼に滑稽に見せようとかかっている。
ゲーテは、世間によく見受けるそういうタイプを持ってきてこのメフィストフェレスという悪魔にしたのである。それは既に、悪魔は必ず骨ばった痩せた男であるという考え方にもぴったりと合っている。毒舌を好む、温かみとお人好さのない、頭の好い、人の悪い、現実的な人間と云えば、これはもう人情の自然として、鋭く角張った痩せぎすの男しか考えないのが普通である。西洋の Hexe (鬼婆〔おにばばあ〕、魔女)という奴でも、我が国の安達が原の鬼婆でも、骨と皮とのような婆(ばばあ)でないと板につかない。
誰しも己(おのれ)が漠然たる過去の印象に問うてみるが好い。人間誰しも心に憧憬というものを持ち、神と云ったようなものを抱いている。ところが、社会は何処へ行っても、ちょうどこのメフィストフェレスのような奴がいて、この男が一言辛辣なことを云うと夢も憧憬も吹き飛ばされてしまう。「この男はおれの鬼門だ」と云ったような男がその場所場所で必ず一人位はいるものであるが、これが即ちメフィストフェレスのモデルである。
ファオストの全篇は、至る所このメフィスト的「下司(げす)な、噛んで吐き出したような」、物みなを泥濘の中に引き下げて土足で踏みにじって快哉を叫んでいるような、くだらないようで深刻な、深刻のようでくだらない啖呵(たんか)で満ち満ちている。そして、こうした俗論的毒舌、破壊的言辞と、一方ファオストの儼乎(げんこ)たる理念とが常に鎬(しのぎ)を削る。これがファオスト一篇の基調なのである。
(関口存男『ファオスト抄』 44-6 頁)
(3) この契約の趣旨は、ファオスト全篇の総序とも云うべき Prolog im Himmel (天上の序詞)に於ける、神と悪魔との間の賭けとも関係している。
この所で、メフィストフェレスは、このファオストと云う人間をおれがこれから普通のくだらない凡人にして見せると云い、神は、そんな事は出来ないと云い、いや出来る、いや出来ないの議論で以ていよいよ賭けと云う事になるのであるが、ここでいよいよその同じ賭けを当のファオスト自身を相手に取り決める所である。
凡そ悪とか不運とか誘惑とか云ったようなものは、之(これ)に堪え得る人間と、堪え得ない人間とがある。堪え得る人間にとっては悪は善を益々善ならしむる所以であるが、堪え得ない人間にとっては、たとえば不運は彼を益々だらしなくする。つまり生地の問題である。鉄は打つほど固くなるが、馬の糞は打つほどぐにゃぐにゃにもなり、くさくもなる。しっかりした人間は不幸に遇うほど益々骨が出来るが、くだらない人間は不幸に遇うほど益々乱れてでたらめになる。
(関口存男『ファオスト抄』48頁 )
(4) Ein guter Mensch, in seinem dunklen Drange, / Ist sich des rechten Weges wohl bewusst.
好漢は如何に躓(つまず)き迷うとも・/ 往く可き所に往かで止むべき
この場合の guter Mensch は、普通に考えそうな「善人」(悪人の反対としての)ではない。即ち、この gutは boese(邪悪)の反対としての gutではなく、 schlecht, untauglich (駄目な)の反対の gut(しっかりした)である。
普通の善人であったら、これは通り言葉と云ってよいほどの、既に認められた結合であるから、或いは der gute Mensch と云ってよかったところであろうが、この guter Mensch は、いわば作者がこの場に特に創出した結合であって、従って gutという性質がこの際には特に強調されているのであるから、それで Einを用いたのである。
たそれがファオスト全篇の思想であって、ゲーテは人の善悪を問題にせず、ただその良否のみを問うていると解すべきてある。
(関口存男『冠詞』第1巻 420頁)
(5) Wie ich beharre の一句に、ファオストが敢然として排するところの Beharren (一所にとどまって動かないこと、固定的になること、一たび陥った安易な形式の虜となって之〔これ〕を墨守すること、その他そうした概念を一括したもの)と云う概念が出てきたのに注目を要する。
ファオストの理想とする所は、要するに安逸安易なる形式の絶えざる打破である。しかも本人が主義としてみずから敢行していくところの克己的自己打破である。まるで蛇が時々皮を脱け出すように、その時々の自得的自我の皮を勇敢にかなぐり捨てかなぐり捨てつつ、よりよき自我へと絶えず脱け出しにぢり進んで行こうとする、克己を以てする解消的進化、破壊的建設である。
これは或る種の自力本願的宗教と云っても好い。これがファオスト全篇の内容であり、これがおのずから他力本願的な意味に於いて最後の神意に合致すると云うのが、ファオストの大詰め、第2部の終わりのところの天上の場面なのである。
地上の五十年を悶々として闘い通す「人間」なる現象をば、かくの如く「絶えざる発展的解消の道場」と見る見方は、後に至って後輩ヘーゲルの心を深く動かす所があり、その結果としてヘーゲルの歴史哲学が生まれたのである。
それらすべての意義ある迷路と意義ある転身をば、総括して之を神意の直々の顕れと見るところなどもゲーテのファオストのヘーゲルの思想に対する影響は誰人の眼にも明らかである。
ゲーテの箴言として
Stirb und werde!〔死して成れ〕
と云うのが有名であるが、これを一個の人間が身を以て敢行していくところを書いたのがファオストであり、之を個人問題を離れて人類全体の動きに通用する理法として磨き上げたのがヘーゲルの歴史観である。
(関口存男『ファオスト抄』54-5 頁)