マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

加藤尚武訳『自然哲学』のヘーゲル読解

2012年10月31日 | カ行
お断り・先に10月23日に「加藤尚武訳『自然哲学』と関口文法」という文章を発表しました。これは加藤訳の文法上の問題点を3つ挙げて検討し、論評したものです。同時に、哲学上の問題も2つほど検討しておきました。
 今回は、加藤訳がどういう風にヘーゲルを読んでいるか、又は読んでいないか、を調べます。と言いましても、検討は読者に任せます。第246節を材料として取り上げて私の訳を対置しましたので、自由に判断して下さい。
2012年10月31日、牧野 紀之

01、第246節本文(加藤訳)

 物理学と呼ばれているものは、以前は自然哲学と呼ばれていた。物理学もまた、同様に、自然の理論的な考察、しかも思索による考察である。一面から言うと、このような考察は、先に述べたような目的のように、自然にとって外面的である諸規定から出発するのではない。他面から言うと、この考察は自然のもつ普遍を認識することを、この普遍が同時に自己のうちで規定されていることの認識を目指している。普遍とはさまざまの力、法則、類のことであり、さらにまたこれらの内容は、単なる寄せ集めではなく、目(Ordnung)とか、綱(Klasse)とかの階層秩序のなかにあって、1つの有機体の姿をあらわさなくてはいけない。自然哲学は概念的に捉える考察である。だから、同じ普遍を対象としても、しかしそれだけを単独に(Für sich)対象とする。そして、普遍を、概念の自己規定にしたがって、固有の、内在的な必然性のなかで考察する。

02、同、牧野訳(訳注付き)

 第246節〔自然学から自然哲学への諸段階〕
自然学(Physik)(1) と最近呼ばれているものは、かつては自然哲学と呼ばれていた(2) ものである。〔「哲学」という言葉から分かるように〕それは〔自然への実践的な振舞いではなく〕自然を理論的に考察することである。しかも〔理論的にと言っても表象的にではなく〕思考によって〔思考規定で〕自然を考察する事である。

 しかし、〔ここで注しておきたい事は)第1に、その思考規定は〔第245節への付録で述べたような〕目的論のそれのような対象たる自然物に内在的に関係しない外的規定ではない〔という事である〕。第2に、それは自然対象の「自己内で規定された普遍」、つまり力、法則、類などの認識を目指すものであるが、それらの(3) 内容は「単なる寄せ集め」としての力とか法則とか類ではなく、〔例えばリンネ以来の〕綱(こう、Klasse)とか目(もく、Ordnung)に分類され(4)、整理されて、体系的に秩序づけられている(5) ということである。

 〔しかし、私ヘーゲルの目指す〕自然哲学は〔同じ「自然哲学」ではあるから、上の点は同じなのだが、単なる思考的考察で満足するものではなく〕概念的考察である。従ってそれは〔かつての自然哲学と〕同じ普遍を求めるのであるが、それを独立に考察する。つまり、それらの普遍的規定が自己自身の内在的必然性に基づいて、即ち概念の自己規定(6) によって生成し、〔発展し〕次の規定に取って代わられる過程を考察するのである(7)。

(1) 15頁2行目。Physikをどう訳すかは、本書の根本に関わる問題だと思います。簡単に「物理学」とは訳せません。
 語源的にはPhysikはギリシャ語で自然を意味するPhysisの学ということですし、日本語の「物理学」も分解してみれば「物(自然物)の理(ことわり)の学」ですから、一致している訳です。かつては「自然学」と訳されていましたが、これでよかったのです。その時、自然学とは言わば自然科学全般を意味していたのです。その時は今で言う生物学も地質学も入っていたのです。
 日本語の物理学という言葉はどのような経緯で出て来たのか知りませんが、少なくとも今では「自然科学の1分野」を意味する事になっています。「名は体を表す」と言いますが、「体を表す名前」に替えるとしたら何と言うべきでしょうか。物理学会ではそういう議論はないのでしょうか。私は素人ではありますが考えた事があります。思い浮かぶ下位分科には動力学、静力学、熱力学、量子力学、流体力学、などとたいてい「力学」という語が付きますから、全体としては「力学」と言い換えて好いのではないかと思いましたが、どうしても「力学」とは言えないらしいものに「物性論」があって、結論を保留したままになっています。
 ヘーゲルの本書では「自然哲学」との対比で考えられている場合は「自然学」と訳しました。本論は第1部がMechanik、第2部がPhysik、第3部はOrganische Physikとなっていますが、内容を考慮して、それぞれ、自然哲学総論(あるいは予備概念)、非有機物の自然哲学、有機物の自然哲学と訳すと好いと思います。

(2) 15頁2行目。genanntとhießは同じ意味ですが、近い所ではなるべく同語の使用を避けるのが欧米語の特徴です。日本語にはそういう習慣がありませんから、同じ言葉で訳しました。
(3) 8行目。welcher Inhaltのwelcherは昔の定関係代名詞welcherの複数2格形で、その前のKräfte, Gesetze, Gattungenを受けています。

(4) 9行目。リンネから始まる動植物の分類の各階級の呼び名は、『岩波生物学辞典』によると、大から小の順に以下のようです。界(Reich、動物界・植物界)──門(動物界の門はStamm、植物界の門はAbteilung)──綱(こう、Klasse)──目(もく、Ordnung od. Reihe)──科(Familie)──属(Gattung)──種(Art)。
(5) 10行目。ausnehmen mussのmussは訳さなくて好いと思います。「~ということになっている」くらいの意味でしょう。「文法」(『関口ドイツ文法』)の第2部第8章第10節(müssen)の第1項②を参照。
(6) 13-4行目。この辺の「内在的必然性」とか「概念の自己規定」については拙稿「弁証法の弁証法的理解」を参照。

(7) 以上の文を読んで哲学するのはここから先です。先ず理論的考察には表象的、思考的(目的論的、寄せ集め的、分類的)、概念的と、大きくは3段階ありますが、思考的考察の内部の3段階を入れると全部で5段階あることになります。これを確認したら、今度は自分が直面している所与の考察(他人の考察でも自分自身の考察でも好い)はこの5段階のどれに属するかと考えるのです。こういう事をいつでもするのです。こういう実際の例での思考訓練を繰り返す事で徐々にヘーゲル的な考え方が身に着いてくるのです。
 私の文で考えます。「文法」(『関口ドイツ文法』)で考えますと、第2部の「理解文法」は思考的の第3段階の「分類的」だと思います。「概念的」とは言えないでしょう。
 第1章から順に、文、名詞、代名詞、形容詞、数詞、冠詞、動詞、話法の助動詞、接続法、副詞、前置詞、接続詞としましたが、文論を第1章に持ってきたのは「まず全体を見る」ためです。それに続く品詞論を名詞論から始めたのは「言語の核心が名詞にある」と考えたからです。そして名詞と関係の深いものを検討した後に、動詞論に移ったのです。
 これに対して第3部の「表現文法」は「寄せ集め的」だと思っています。否定、問い、間投、譲歩、認容、受動、比較、伝達、強調、断り、配語法、提題、としましたが、順序に全然必然性がありません。「全てを尽くしている」ことの証明もありません。表現文法を先ず「分類的な段階」に引き上げる人が出て来てくれる事を希望します。
 私の文章で概念的なものは「『パンテオンの人人』の論理」でしょう。そこで論じた「パンテオンの人人」という作品自身が概念的でしたが、それの概念的である所以を説明したものです。

03、第246節への注釈(加藤訳)

 哲学と経験的なものとの関係については一般的な緒論(Einleitung)で述べておいた。哲学は自然経験と一致しなければならないだけではなく、哲学的な学の発生と形成は経験的な物理学を前提とし、条件としている。しかし、1つの学問の発生の歩みとか準備作業とかは、学問自体とは違う。学問のうちでは、そうした歩みや準備作業が基礎として現れることはありえない。ここで基礎となるものは、むしろ概念の必然性でなければならない。すでに述べたが、哲学的な歩みの中では、対象はその概念規定に従って述べられなければならない。しかし、これだけではない。この概念規定に対応する経験的現象をつぶさに挙げて、これが実際に概念に対応することを明示しなくてはならない。とはいえ、内容の必然性との関係では経験に訴える必要はない。まして、直観と呼ばれてきたものや、たいていは類比による表象や想像(いやそれどころか空想)の働きにすぎないものに訴えることは許されない。類比は、偶然的な場合もあれば、有意義な場合もある。類比は、対象に規定や図式をただ外面的に印象づける(第231節注解)。


04、同、牧野訳(訳注付き)

 注釈〔自然哲学と経験的自然学〕

 哲学の経験知への関係については既に〔本百科辞典〕全体への序論(8) の中で述べた。〔これを自然哲学に適用して言うと〕自然哲学は自然についての経験知と別のどこかにあるわけではない。それどころか、自然哲学は経験的自然学を前提条件として初めて生まれ、発展するのである。しかし、だからと言って、哲学(10) の誕生と形成の歩みがそのまま哲学そのものに成るのではない(9)。哲学では〔哲学をそれとして展開する時には〕もはや哲学の発生の歴史を根底に置くこと(11) は出来ない。哲学の根底は概念の必然性(12) でしかありえないからである。

 しかし同時に確認しておいた事は、哲学の対象をその概念規定の順序で展開するだけでは不十分だということである。更に進んで、それぞれの概念規定に対応する経験世界の現象を指摘して、両者が実際に一致する事を示さなければならないということである。しかし、〔個々の概念規定と経験との一致ならばそれも出来るが〕内容の必然性の証明となると〔それは或る概念から次の概念への移行の内在的必然性を示す事だから〕経験を根拠にすることは出来ない。もちろん直観に頼るなどということは問題にさえならない。それは表象や想像や空想の中で類似を手がかりにして対象に外面的な規定を押しつけるものであり、その類似は〔たいてい〕偶然的なものだが、〔時には〕有意義な類似である場合もあるが、いずれにせよ、対象を外面的な図式で整理するだけで〔哲学とは縁もゆかりもないもので〕ある(13)(第231節への注釈を参照)。

(8) 15頁16行目。in der allgemeinen Einleitungとはどこか。この「自然哲学」の第245節の前のことか。「エンチュクロペディー」全体の序論、正確にはその「予備概念」の第37~39節のことか。後者と取りました。特に第38節でしょう。
(9) 15頁20行目。Ein anderes aber以下の文は、「歴史と論理の一致」とやらを振りまわして歴史的に前のものから叙述を始めるのが学問だと思っている自称マルクス主義の学者のためにあるようなものです。(9)と(10)はドイツ語原文に振った番号の順と注の順序が逆転しています。

(10) 21-22行目。einer Wissenschaftはeiner Philosophieの繰り返しを避けたのです。一般的にも、ヘーゲルでは「勝義のWissenschaft」は(ヘーゲルの定義での)Philosophieの事です。詳しくは拙稿「弁証法の弁証法的理解」を参照。なお、この不定冠詞は「Wissenschaftの名に値するものの」ということで、「1つの」という意味ではありません。日本の学者は「この不定冠詞には何か意味がありそうだな」と「感ずる」と、すぐに「1つの」と訳して誤魔化して通り過ぎていきますが、これではいつまでたっても不定冠詞の「ニュアンス」は分からないでしょう。もちろん「1つの」と訳して好い場合も沢山あります。いずれにせよ、どう訳すかの根拠を自覚して訳してほしいということです。

(11) 23行目。als etwas erscheinenはseinの言い換えですから、必ずしも律義に「~として現れる」と訳す必要はありません。「である文」は全ての文の中で9割を占めている(関口)ので、言い換えのヴァリエーションが沢山あります。日本語では「である文」の繰り返しを嫌いません。
(12) 24行目。「概念の必然性」についても拙稿「弁証法の弁証法的理解」を参照。
(13) 16頁2行目。唯物論では認識は現実の反映だから、「最後には」現実(経験)を根拠にして考えるに決まっているのですが、両者は「直接的に」一致するものではない、ということです。しかし、ではどう一致するのか。これが問題です。

       関連項目

加藤尚武訳『自然哲学』と関口文法

哲学演習の構成要素

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自己認識と他者認識、外国語を学ぶ意義

2012年10月29日 | カ行
 国語学者の金田一春彦がその『日本語の特質』(NHKブックス)の182頁以下に次のように書いています。

 ──英語から見て日本語の表現が不完全のように思われますのは、名詞の数についても言えます。英語では、たとえばたまごが1つあるか、2つ以上あるかによって言い方が違いますね。an eggというのは1つの卵であり、2つ以上あるときはeggsとsをつけて言わなければいけない。

 これはどのヨーロッパの言語でも同じです。日本語では、たとえば「学生」という言葉ならば、1人のときは「学生」、2人以上のときは「学生たち」という区別がないことはないが、「たち」という接尾語はつけなくてもいいのです。「きょうは学生が大勢やってきた」と言って別に間違いとは言えません。つまり、日本語では単数か複数かをやかましく言わない言語だということができます。

 アメリカのブロックという言語学者が日本語のこの性質をみまして、日本人は数(すう)の観念がないのじゃないか、と言ったそうですが、日本語の場合、数の観念をいちいち言葉に表現しないだけです。

 英語などはこの点大変やっかいです。新聞などで泥棒の記事を扱うときに、ある家に泥棒が何人侵入したか不明の場合、「泥棒は……」というときにthe thief or the thieves と書かなければならないそうです。

 その点、おもしろいのはハンガリー語です。ハンガリーというのはアジアから行った民族ですが、ヨーロッパの言語と同様に、単数・複数の区別はあります。ただ「3人の泥棒」のように「3人の」という修飾語がつきますと「泥棒」という言い方は単数のかたちを使うのだそうです。これは「3人の」といった以上は複数だということが明らかだから、もうそれ以上複数のかたちを使わないでもいいという理屈です。つまり日本の「大勢の学生」と同じ理屈ですね。

 英語などでは単数・複数の区別があるために、ときに大変難しい問題が起こるようです。これはイエスペルセンという人の『文法の原理』という本の中に紹介されておりますが、有名な作家にこういった間違いがあるそうです。ten is one and nine「10は1+9である」、これは。Ten are‥…と複数にすべきものだそうですね。Fools are my theme「おろか者たちは私のテーマである」、これは、テーマとすればおろか者を1つに扱っているわけですから単数にすべきなのでしょうね。

 ドイツ語なんかでも難しいのがありますね。たとえば 『千夜一夜』をドイツ語でtausend und eine Nachtと言うそうです。Nachtというのは単数です。元来「千一の夜」ですから複数にすべきですが、tausendの次に「1つの」というeineがあるので、それに引かれて単数のかたちを使う。このへんはどうも論理的ではないように思います。(引用終わり)

 私が面白いと思った事は、日本語に対するアメリカ人の批判(数の観念がないのではないか)に対しては、「日本語の場合、数の観念をいちいち言葉に表現しないだけです」と反論しているのに、ドイツ語の表現(千一夜)で自分に理解できない点については「どうも論理的ではないように思います」と軽々しい批判をしている点です。

 金田一ならかなりの数の外国語を勉強していると思いますが、それでも言葉についての常識(自分に理解できない外国語の表現を簡単に否定してはならない。それにはそれなりの理屈があると考えるべきである)という事を知らないらしいということです。

 実際、ドイツ語のこの「千一夜」の表現ではなぜ「夜」に当たる単語が複数形にならないで単数形なのかの問題に正しく答えられる人はいないようです。ドイツ人でも、です。かつてNHKのラジオドイツ語講座(中級篇)でもリスナーから質問がありましたが、ドイツ人ゲストの方はお手上げでした。

 しかし、この問題に明解に答えた人がいます。関口存男(つぎお)です。

 氏はその大著『冠詞』の第3巻(無冠詞篇)の中でこう書いています。

──英語では my und your father などという独と同じ言い方のほかに、独には見られない my und your fathersと複数扱いが盛んに行われる。これは別々に分解しないで一括して考える証拠であり、ここでも「分割」と「一括」との2原理が対立して外形を左右している現象が観察される。

 例えば、air-, car- and seasickness are the same thing(飛行機酔いと車酔いと船酔いとは同じものである)などと言うかと思うと、the American and Japanese goverments〔米日両政府〕とか the foreign, defence and finace ministers〔外務、防衛、財務大臣〕などは複数形で見かけることが多い。

 ドイツ語の考え方がすべて分解的であり、英が主として一括的であるということは、例えば「2時間半」を英は two and a half hours と言うに反し、独は zwei und eine halbe Stunde と言うのでも分かる。但し zweieinhalb, drittehalb Stundenにおいては、数詞が1語をなすから、もちろん一括的取り扱いをする(無冠詞 341頁)。

 つまり独の言い方は zwei [Stunden] und eine halbe Stunde という「考え方」だということでしょう。

 その後分かった事は、ロシア語でもドイツ語と同じ言い方をするということです。つまり「千一夜」は「ティーシャチャ・イ・アドゥナー・ノーチ」です。この「ノーチ」はカタカナで書くと単数か複数か分かりませんが、言語の綴りを見れば単数だという事が分かります。

 何となく、スラヴ系の言語はみな、分解的に考えるのではないかと推測しています。その方面に詳しい方は教えてください。

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加藤尚武訳『自然哲学』と関口文法

2012年10月23日 | カ行
 論文「哲学演習の構成要素」(ブログ「マキペディア」に2012年10月10日掲載)は、加藤尚武訳『自然哲学』(ヘーゲル著、岩波書店)の翻訳があまりにもお粗末だという事から筆を起こしましたが、その「お粗末」という判断の根拠ないし証拠は提示しませんでした。そこで今回はそれをテーマとします。

 誰にでも勘違いとか不注意による間違いというものはあるものですから、そういう類(たぐい)の問題は取り上げません。私自身、まず自分で訳してから加藤訳を見て、自分の勘違いに気づいた箇所がいくつかあったくらいです。

 取り上げなければならないのは、中級以上のドイツ語文法についての無知ないし不勉強が原因で誤解している所です。それを3つ取り上げます。

 以下で頁番号と行番号を挙げたのはみな、ズーアカンプ版「ヘーゲル全集」第9巻のものです。英訳というのはミラーのものです。

第1の問題点、es .. , der ..の構文の意味

 関口存男(つぎお)はその『新ドイツ語文法教程』(第3版、三省堂)の322項から324項にわたって「属詞としてのes」を説明しています(私は「述語」という文法用語が不適切だと考え、フランス語文法の「属詞」を採用します。説明は近いうちに公刊する予定の『関口ドイツ文法』未知谷の中に書いてあります)。
 氏はまず322項で「属詞としてのes」を説明した後、323項で「主語化するにいたった属詞のes」を説明します。それを踏まえて324項では「その文が後に関係文を伴う場合」を取り上げてこう書いています。

 1-1. Es war ein Deutscher, der die Buchdruckerei erfand
1-2. Ein Deutscher war es, der die Buchdruckerei erfand.(これも可)
  訳A・ドイツ人が印刷術を発明したのである(フランス人やイギリス人ではなかった)
  訳B・印刷術を発明したのは(それは)ドイツ人であった。

 この場合の注意。①関係代名詞の先行詞は〔主語化した属詞の〕esである。②その性と数は前の文の〔本来の〕主語を受ける。つまりesを受けるのではない。つまり「関係代名詞の性と数は先行詞に合わせる」という文法規則はここでは妥当しない。

 ここで大切な事は、この文型の目的は原文の属詞(となった本来の主語)を強調することだ、という事です。訳を見れば分かるでしょう。訳Bは日本語文の基本形である「題述文」です。

 題述文というのは、主題(主語ではない)を確認して、それについて何かを叙述するものです。属詞文(である文)でもそうでない叙述文(非である文)でもよいのですが、いずれにせよその叙述部がその文全体の眼目です。

 たとえば、「加藤は京都大学の教授だった」は属詞文ですが、「加藤は」を除いた部分に達意の眼目があります。又、「加藤はヘーゲル研究で山崎哲学奨励賞を受けた」は非属詞文ですが、これも主題部の「加藤は」を除いた叙述部分に眼目があります。「加藤は」と主題だけで終わったら、何も伝わりません。

 従って、その重点を前に持って来る場合にはそれを主題にして「何々は」と言ってはならないのです。「ハ」ではなく、訳Aのように「ドイツ人が」と、主格補語の「ガ」を使わなければならないのです。

第1例。原書の37頁37行目以下に次の文があります。

 Es ist aber der Begriff, welcher ebensowohl seine Momente auslegt und sich in seine Unterschiede gliedert, als er diese so selbständig erscheinenden Stufen zu ihrer Idealität und Einheit, zu sich zurückführt und in der Tat so erst sich zum konkreten Begriffe, zur Idee und Wahrheit macht.

 加藤はこれを次のように訳しています。
──しかし、概念こそは[1]自分の契機をさらけ出し、[2]自分を区別の中に分節するとともに、[3]同時にそうした自立的なものとして現象してくる段階を、その観念性と統一に、つまり自分に引き戻し、[4]実際には、こうして初めて自らを具体的概念に、理念と真理にする。(角括弧1, 2, 3, 4は加藤のもの。下線は牧野)

 私は次のように訳してみました。
──概念の分裂を諸規定として展開することで、諸規定には一時的なもとはいえ自立性が付与されますが、〔本当は〕そこでは概念自身が実現され、理念となっているのです。すなわち、自己の諸契機を分解展示してそれを自分の肢体とし、又かくして自立しているように見える諸段階を自分の観念性と統一へと引き戻し、よってもって初めて自己を具体的な概念とし、自己の真理は理念であると開示する主体はほかならぬ概念なのです。

 見て分かりますように、加藤は「こそ」を入れて強調しましたが、「概念こそは」と「ハ」を使いました。私は訳Bで訳しましたが、訳Aで訳すならば、「ほかならぬ概念こそが」としたでしょう。

 加藤訳でも「こそ」を入れているから同じではないか、と弁護する人もいるでしょうが、これ以上何も言うつもりはありません。そういう語感(日本語についての語感)の人とは話しているヒマがありません。

第2例。原書の24頁の13行目から16行目にかけて次の文があります。

 Die Naturphilosophie gehört selbst zu diesem Wege der Rückkehr; denn sie ist es, welche die Trennung der Natur und Geist aufhebt und dem Geiste die Erkenntnis seines Wesens in der Natur gewährt.

 この第2例では「属詞のes」の主語が普通名詞ではなく人称代名詞sieになっています。この場合は「属詞のes」はそのままです。但し、このesがdasに代わるとdas ist sieとなります(前掲書323項)。

 加藤はここを次のように訳しています。
──自然哲学そのものは、この戻りの道に属する。というのは、自然哲学は、自然と精神の分裂を克服(止揚)し、精神に自然の中でのその[精神の]本質の認識を保証するものだからである。

 私は次のように訳してみました。
──自然哲学自身はこの「元に戻る運動」の一助を為すものです。即ち、自然哲学こそが、自然と精神の分離を止揚し、精神が自然の本質である事を精神が認識するのを手伝うものなのです。

第3例。原書の36頁の34行目から37頁の2行目。

 Aber er erhält sich in ihnen als ihre Einheit und Idealität; und dies Ausgehen des Zentrums an die Peripherie ist daher ebensosehr, von der umgekehrten Seite angesehen, ein Resumieren dieses Heraus in die Innerlichkeit, ein Erinnern, dass er sie sei, der in der Äußerung existiert.

 第3例でも、第2例と同じく、主語が人称代名詞です。定形が接続法第1式になっているのはErinnernの内容という事で「間接話法」にしたからで、istとして理解して構いません。er sie seiと「定形後置」になったのは、もちろん、従属接続詞dassの中だからです。

 加藤はここを次のように訳しています。
──しかし、概念はそれら契機のなかで、それらの統一と観念性として自分を維持する。このように周辺に接する形で中心が外へ発出することば、おなじように反対側から見ると、この外へ向かうことが内面性に帰着することであり、外化[あらわれ]の中で現存する概念が存在することの想起(内面化)である。

 私は次のように訳してみました。
──しかし、概念はその場合でも諸規定の単位(Einheit)として観念性としてあり続けているのです。従って中心〔たる概念〕が周辺に出て行くと言っても、それも逆の面から見るならば、この出来(しゅつらい)は内なる者〔中心たる概念〕に集約されているのであり、外化しているものは〔実際には〕概念だという事を常に思い出させるものなのです。

 付論1・比較文法の重要性

 第2例と第3例を、比較文法的に見てみると面白いと思います。第2例の英訳(英訳1)と第3例の英訳(英訳2)を調べてみますと、次のようでした。

 英訳1・for it is that, which obercomes the division between Natur and Spirit ...
 英訳2・remembering that it is it, the Notion, that exists in this externality

 ドイツ語原文と比較して分かる事は、英語ではこのit is something, that (which) の構文でsomethingに代名詞を持って来る場合でも語順に変化はない、という事です。

 英訳2でit is itの後にコンマで挟んでthe Notionを併置して説明したのは、the Notionがかなり前の方にあるから、分かるようにしたのだと思います。主語のitが関係代名詞の先行詞である事は分かりきった事ですから、it is itと、同語反復みたいでどちらのitが何を受けるか(指すか)が分かりにくいからではないと思います。

 英語では、関係文が続かない場合はThat's itという語順になるのではないでしょうか。It is thatもあるのでしょうか。こういう問題意識の出てくるのも比較文法的に考えるメリットです。

 詳しくは拙著『関口ドイツ文法』の理解文法の第1章(文)の第6節(属詞文)の第12項(Ich bin's)の②及び第3章(代名詞)の第3節(人称代名詞のes)の第7項(関係文で修飾される「属詞のes」)を参照。

第2の問題点、dennはどこまで掛かるか

 33頁の17行目以下に次の3つの文があります(句点で機械的に1つの文と数えます)。

 Beide Gänge sind einseitig und oberflächlich und setzen ein unbestimmtes Ziel. Der Fortgang vom Vollkommeneren zum Unvollkommeneren ist vorteilhafter, denn man hat dann den Typus des vollendeten Organismus vor sich; und dies Bild ist es, weches vor der Vorstellung dasein muss, um die verkümmerten Organisationen zu verstehen. Was bei ihnen als untergeordnet erscheint, z.B. Organe, die keine Funktionen haben, das wird erst deutlich durch die höheren Organisationen, in welchen man erkennt, welche Stelle es einnimmt.

 加藤はここを次のように訳しています。
──どちらの歩みも一面的で表面的であり、目標がはっきりしない。完全なものから不完全なものへの進展の方が役に立つ。というのも、その時完成された有機体の類型が目の前に置かれているからである。こうした[流出論的な]像は、さまざまの萎縮した有機組織を理解しようとするとどうしても想念の前に置かれざるをえないものである。そうした有機組織の中で低い位置にあると思われるもの、たとえば何の機能ももたない器官は、もっと高次の有機組織を通じて初めて明らかになる。つまり、もっと高次の有機組織の中では、その器官がどういう位置をもつかが分かる。

 私は次のように訳しました。
──〔進化と発散の〕両過程とも一面的かつ表面的で、はっきりした目標を立てていません。〔しかし敢えて優劣を論ずるならば〕完全なものから不完全なものへの歩み〔発散〕の方が役立ちます。この考えでは完成された有機体が前提されているからです。未発達の有機体を理解するためには〔基準となる〕姿を眼の前に持っていなければならないからです。未発達の有機体の未発達な部分、つまり〔まだ〕何の働きもしていない器官をそれとして認識するためには、発達した有機体の中でその器官がどの位置を占めているかを認識する事で初めて可能となるからです

 引用した原文には2か所に下線を引いておきましたが、第2の下線は第1の問題点で論じたことです。1-2の例です。

 さて、ここでの問題は「接続詞dennがどこまで掛かっているか」です。加藤訳はdennを含む第1の文だけに掛けて理解し、訳しています。私は、次の文にも、更に次の文までも掛かっていると取りました。内容上そうなっていると思います。

 この「句点を超えて更に後まで掛かる語句を句点までしか掛けて理解しない」という誤読はかなり広く見られます。私はこれまでにもこの種の間違いを指摘しました。1つは、ヘーゲル著長谷川宏訳『歴史哲学講義』(岩波文庫)の中に見られるもので、拙著『哲学の演習』(未知谷)の264頁③に書いてあります。もう1つはエンゲルスの『空想から科学へ』の翻訳(これは沢山出ていますが、どれについても言えます)の中に見られるもので、拙著『マルクスの空想的社会主義』(論創社)の58頁で「第4の問題」とした所及び同59頁で「第5の問題」とした所で論じています。

 この種の誤読の原因を考えてみますと、多分それは、このような問題(或る語がどこまで掛かっているか)を考える指針を書いた文法書がないからだと思います。私は知りません。

 関口存男はその『趣味のドイツ語』(三修社)231頁以下でKannitverstanという題名の文章を取り上げて読解の指導をしていますが、この文章では232頁の冒頭にDennという語が出てきます。しかし、そこでは「というのは」という注を付け、「それはどうした訳かと申しますに」と意訳をしているだけです。文法的な説明はしていません。同じくこれを取り上げたラジオドイツ語講座の1956年10月2日の放送では「このDennはこの話の最後まで掛かっている」と述べていますが、この著書ではそれを述べていません。こういう事もあって、皆さん、無意識に「dennはその語の入っている文だけに掛かっている」と思い込んでいるようです。

 しかし、これは大きな間違いです。dennでもnämlichでも、あるいはその他の語句でも、どこにあっても文の句点(プンクト)を超えて掛かる事の出来るものは沢山あります。どこまで掛かるかはひとえに内容から判断するしかありません。それを決める形式的標識は一切ありません。この際、こういう文法をしっかり理解して置いてほしいと思います。

付論2・「ミネルヴァのフクロウは日が暮れてから飛び立つ」

 ここで引用した文の内容はドイツ語読解上の問題で終わらせる事の出来ない重要な事に触れています。それは「未発達の有機体を理解するためには〔基準となる〕姿を眼の前に持っていなければならない」という事を論じているからです。

 皆さんはこれを読んで何か連想するものはありませんか。加藤は何も思い出さなかったようです。学生時代には左翼運動に身を投じ、「自然弁証法」研究会をやっていたのに、「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」というレーニンの問題提起は受け止めなかったようです。

 ここまで言えば分かるでしょう。マルクスはそのいわゆる「経済学批判序説」の第3節「経済学の方法」の中で「人間の解剖はサルの解剖に鍵を与える」という有名な言葉を残していますが、これはヘーゲルのこの考えを受けています。一般化して言いますと、ヘーゲルのこれまた有名な「ミネルヴァのフクロウは日が暮れてから飛び立つ」という言葉になります。認識論の言葉で言い換えますと、これは「追考(Nachdenken)」の問題になります。これを中心的に研究したのが許萬元の功績です。

 これはこの通りなのですが、このままで終わってしまうと、サルの解剖の方が人間の解剖より重要であるかのような印象を与えてしまいます。では、人間の解剖はいかにして可能になるのか、それの鍵はどこにあるのか。ここまで行かないと本当の認識論になりません。許萬元の研究の限界もここにありました。私見は「『パンテオンの人人』の論理」(『生活のなかの哲学』(鶏鳴出版)及び『マルクスの空想的社会主義』(論創社)に所収)を参照。

第3の問題、不定冠詞の「含み」の1つに「内的形容」がある

 最後に高級文法の問題です。29頁6行目以下に次の文があります。

 Die Natur bleibe, gibt man ferner als ihren Vorzug an, bei aller Zufälligkeit ihrer Existenzen ewigen Gesetzen getreu; aber doch wohl auch das Reich des Selbstbewußtseins ! was schon in dem Glauben anerkannt wird, dass eine Vorsehung die menschlichen Begebenheiten leite;

 加藤はここを次のように訳しています。
──自然は、その現存の中で、どれほど偶然であっても、永遠の法則にあくまで忠実であるということが、自然の長所だと言われる。しかし、同じことは自己意識の領域でも言える。一つの摂理が人間のさまざまな営みを導いているということは、信仰のなかですでに承認されている。

 私は次のように訳してみました。
──自然界ではその現象世界は極めて偶然的ではあるがそこには永遠の法則が支配していると言って、この点を自然界の精神界に対する優越性の根拠とする人がいる。しかし、この点に関しても自己意識の世界〔精神界〕も又同じである。それは、予見〔Vor-sehung、予定=摂理〕とでも言うべきものが人間の行動を導いているという〔キリスト教の〕信仰の中にとっくの昔に承認されている通りである。

 さて、問題はもちろん下線を引きましたeine Vorsehungをどう理解し訳すか、です。加藤は「1つの摂理」と訳しています。多くの、いや、ほとんどの訳者が「この不定冠詞には何か意味がありそうだな」と思った時、そして「しかし、どういう意味か分からないな」と思った時、このように「1つの」と訳します。と言うより、誤魔化します(寺沢恒信教授のゼミでもそうでした)。これではいつまでたってもドイツ語学力もヘーゲル読解能力も高まらないでしょう。関口の大著『冠詞』のあることは専門家なら誰でも知っているはずです。なぜそれを読まないのでしょうか。

 関口はその全3巻から成る大著の第2巻で不定冠詞を論じています。この巻は第1巻(定冠詞論)と第3巻(無冠詞論)に比して格段に理解しにくいものです。それは「外見的に」分かりやすく整理されていないからです。絶対の自信など到底持てるものではありませんが、現時点での私の理解で書きます。

 Vorsehung(神の摂理)という語はほとんどの場合定冠詞付きでdie Vorsehungと使われます。この定冠詞は関口のいう「遍在通念の定冠詞」です。それはder Raum(空間)やdie Zeit(時間)と同じように1つしかない(遍在している)ものであり、die Vorsehungと言えば、誰でも説明などなくても「あああれの事か」と分かるもの(通念)だからです。従って、これに不定冠詞を付けてeine Vorsehung(1つの摂理)などと言う事はないのです。いや、そう言われても「外にどこに他の摂理があるのか」判りません。

 この不定冠詞の働きを関口は「質の含みを利かせる」としています。それは「形容の不定冠詞」とも言っています。それには2種あります。外的形容と内的形容とです。不定冠詞と名詞の2語が一体となって1句を作る場合、両語の規定関係は2つしかありえません。不定冠詞が名詞を規定するか、名詞が不定冠詞を規定するか、です。

 ein Mannという句についてみますと、Das ist ein Mannと言いますと、「この男は変わってる」という意味です。この場合はeinがMannを規定しています。「或る種の男である」という関係です。これが「外的形容」です。しかし、Sei ein Mann ! と言いますと、「男らしくあれ」という意味です。この場合はMannがeinを規定しています。「男という或る種の者であれ」という関係です。これが「内的形容」です。

 さて、現下のeine Vorsehungはどちらでしょうか。「或る種の摂理」でしょうか、それとも「摂理という或る種の事」でしょうか。もちろん後者です。つまり、内的形容です。そして、内的形容の不定冠詞とは、「次の名詞をその文字どおりの意味で100%意識せよ」という指示なのです。ですから、ここではVorsehungを「摂理」と訳してから日本語で考えるのではなく、Vorsehungというドイツ語をそのままで考えなければならないのです。それは果たして「摂理」と訳して好いものなのか、そこまで遡って考えなければならないのです。

 「予見〔Vor-sehung、予定=摂理〕とでも言うべきもの」という訳はこのように考えた上での結論です。ここではVorsehungというドイツ語をそのまま出さざるを得ませんでした。なぜなら、日本語の「摂理」ではドイツ語の特にVor- が訳出されていないからです。

 「摂」とは漢和辞典で見ますと、「統(す)べる」という意味だと分かります。つまり「神が統率する」ことなのです。「理」はもちろん「ことわり」ですから、まあSehungの中に入っていると強弁してもいいでしょう。ですから「摂理」という訳語では「摂」も「理」も共にSehungの部分を訳しているだけです。Vor- を訳していないのです。ですから、ドイツ語を出して説明的に訳すしか方法はないと考えました。言葉遊びは翻訳不可能なのと同じだと思います。

 もちろんこれは少し煩瑣な訳で、以上の事が分かった上でならば、「摂理というもの」くらいでいいと思います。

付論3・「資本論」のein sinnlichh übersinnliches Dingについて

 加藤尚武が広松渉から大きな思想的影響を受けていた事は多くの人の知る所でしょう。加藤のドイツ語を検討したついでに広松のドイツ語を見て置きましょう。日本の左翼のレベルを知る一助にもなるでしょう。ここでは『資本論』の有名な「商品の呪物的性格」の章の1句を取り上げます。

 なお、ここで「呪物的」としましたFetischを日本の資本論学者の皆さんは「物神的」と訳します。なぜでしょうか。分かりません。辞書には両方とも同じ意味で載っていますが、かつては前者しかなかったのに、マルクス学者が「物神」という語を使うのでこれも市民権を得たのではないでしょうか。既成の語で適当なのに新語を作る事に私は反対です。

 取り上げる原文は次の通りです。

 Eine Ware scheint auf den ersten Blick ein selbstverständliches, triviales Ding. Ihre Analyse ergibt, dass sie ein sehr vertracktes Ding ist, ..Als bloßer Gebrauchswert ist sie ein sinnliches Ding, woran nichts Mysteriöses, .. Aber sobald er (der Tisch) als Ware auftritt, verwandelt sich in ein sinnlich übersinnliches Ding. (商品は一見した所では自明で別段どうという事もない物に見える。しかし、商品の分析の結果分かった事は、それは一筋縄では行かない物だということである。単なる使用価値としてはそれは感性的な物であって、そこには神秘的な点は何もない。しかし、それが1度(ひとたび)商品として立ち現れるや否や、それは感性的に超感性的な物に一変する)

 この下線を引いたein sinnlich übersinnliches Dingは、私以外の訳者は「感覚的にして超感覚的な物」とか「感性的で超感性的な物」とか訳してきました。これは sinnlich を形容詞と取った訳です。

 私はなぜ「感性的に超感性的な物」と訳したかと言いますと、このsinnlichは文法的には副詞でしかありえないと思ったからです。しかし、それ以上に強い理由は、意味です。その意味は文脈から考えると、「感性的な物に担われた(感性的な物の姿を取って現れた)超感性的な物(つまり商品という社会的な物、人間関係を具現した物)」ということだからです。ここは2つの形容詞が並んで「物」に掛かっていると取れないのです。

 しかし、他の翻訳はみな、2つの形容詞と取って訳しています。鶏鳴学園に通っていた或る学生が広松さんの講演を聞きに行って質問したら、やはり「2つの形容詞だ」と答えたそうです。

 かつて東洋大学で教授をしていたドイツ人に聞いた時も、「形容詞ならein sinnlich- übersinnliches Dingと、ハイフンがなければならない」と答えてくれました。

 そして、関口存男です。氏の『冠詞』第3巻(無冠詞篇)の353-4頁に「対立的形容詞において前の語が形容詞か副詞かの判断では、ハイフンの有無が決定的である」と書いています。

 先にも書きましたように、そもそも内容から見て副詞としか解釈できないはずなのです。それなのに、文法に違反してまで形容詞と取る学者の皆さんは一体どういうつもりなのでしょうか。こういう訳では、マルクスの商品論(商品は物ではなくて、社会関係である)が分かっていない事を自ら暴露しているという事に、気づかないのでしょうか。

 俗に「ナントカは死ななきゃ治らない」と言いますが、広松さんはあの世で関口さんに会って、反省しているでしょうか。

      関連項目

哲学演習の構成要素

長谷川宏の訳業への評価
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部活と勉強

2012年10月20日 | ハ行
            ホーマー・ライス(元ジョージア工科大学体育局長)

 いま米国の大学スポーツは大きな注目を浴び、ミシガン大学のアメリカンフットボールスタジアムを筆頭に、約10万人を収容できる競技場が10ヵ所ほどある。バスケットボール、ゴルフ、ホッケー、野球など幅広い競技で全米優勝したチームがホワイトハウスに招かれるのも慣例となった。かつて、大学スポーツが非行の温床として問題となった時代からは様変わりだ。

 スポーツで重要なのは勝ち負けだけではない。大学の運動部員は人生に必要な全ての教育を受ける必要がある。スポーツの成功は、人としての成功の上にある。私はその思いから1980年、トータル・パーソン・プログラム(人格形成プログラム)を作った。米プロフットボールリーグ(NFL)のシンシナティ・ベンガルズのヘッドコーチからジョージア工科大学の体育局長になったときだ。それがいま、スポーツを支え、国家を支えるプログラムといえるものに発展した。

 このプログラムは学業を最も重視している。各部に最低1人は学業担当のコーチを置き、部員に何をどう学ぶかを助言する。将来の人生設計も大切だ。部員向けの講演に幅広い分野の専門家を招き、仕事を体験するインターンシップにも時間を割く。ストレスへの対処法、時間の管理術、性的暴行や暴力を防ぐ方法や薬物やアルコールの知識、エチケットやビジネスマナーも学ぶ。プレゼンテーション、メディアの取材への受け答えを身につける授業もある。

 サボる学生1人につき、ヘッドコーチに25ドルの罰金を科したこともある。

 地域への奉仕活動も必ず行う。例えば、非行少年や若くしてシングルマザーとなった少女が通う学校を訪ねて相談相手になったり、ホームレスの少年少女の施設におもちゃを届けたりする。

 非行対策から全米展開

 プログラムを作った当時、大学のスポーツ選手の非行が社会問題化していた。スポーツ推薦で入学した部員が授業についていけず、競技場のロッカー室で発砲事件が起き、大学周辺の治安は悪化した。プロに進んだ後の離婚率や引退後の失業率の高さも目立った。社会全体の治安も悪化し、過剰な個人主義で家庭や地域社会が崩壊しつつあった。

 開始当初は反発も多かった。授業に出なければ練習や試合に出られないルールにしたからだ。運動部員は練習のために大学に通っていたと言ってもいい時代だった。けれども、5年後には、リーグで低迷していたフットボールで、常に全米トップ5を争うようになり、バスケットボールはリーグ制覇。野球もリーグ優勝を争うレベルになった。33%だった運動部員の卒業率は、私が体育局長を引退する97年には87%まで改善された。

 文武両道が可能なことが証明でき、全米の大学から注目を浴びた。私は、いろいろな大学に助言に出向いた。大学スポーツを統括する全米大学体育協会(NCAA)も91年、このプログラムを基にCHAMPSという生活全般にわたるルールを定めたプログラムを作った。

 NCAAには全米の1000を超える大学が加盟し、40万人以上の運動部員が活動している。NCAAは、部員の学業重視と奉仕活動の支援を掲げ、シーズン中の練習時間を、ミーティングを含めて週20時問に制限した。一定の成績以下の部員は練習にも参加できない。

 人材育成、寄付金集めにも

 こうした、多くの能力を引き出してチームを強化する考え方は、国を率いるリーダーの育成にも生かされ始めている。シアトルにあるワシントン大の元フットボール部へッドコーチ、ジム・ランブライトは一例だ。99年のヘッドコーチ引退後、世界中を講演で飛び回ってきた。南アフリカでは政治リーダーに助言し、米国では元国務長官のコリン・パウエルと一緒にリーダーの育成事業に乗り出した。

 運動部員はものすごく忙しい。朝6時に筋力トレーニングを始め、午前中に授業を受け、午後に練習をし、その後自宅で勉強する。自らを厳しく律して時間を管理することが必要だ。スポーツでも学業でも成功し、奉仕活動を通じて社会を学んだ学生は、企業や組織から引っ張りだこで、就職に困ることはまずない。

 このような変化をもたらしたプログラムは、大学の体育部門の収入増にもつながった。ジョージア工科大体育局の年間収入はかつての250万ドルから5000万ドルに増えた。テレビの放映権料と寄付が大きな収入源だ。

 国の未来を担う若者を育てるプログラムの存在は、テレビ局、スポンサー、寄付者にとって、社会のために資金を出しているという理由づけになる。現学長は「文武両道を実践し、社会貢献を通して鍛え抜かれた若者は、大学を代表する親善大使のようなものだ」と話している。

 最近は、運動部だけでなく、一般学生にもプログラムを活用する動きが広がってきた。日本でも模範となるような文武両道の運動部員を育てることが、大学、ひいては社会の活力になるだろう。
(構成・スポーツ部、後藤太輔)(朝日新聞Globe、2012年10月07日)
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少年鑑別所

2012年10月15日 | サ行
 事件で逮捕された少年は、家庭裁判所による審判で処分が決定するまで、少年鑑別所で暮らす。立ち直りを重視する少年法は、厳罰化を求める議論が進む。犯罪は減らせるのか。鑑別所は更生にどんな役割を果たすのか。静岡少年鑑別所の遠藤隆行所長に聞いた。

 ──非行に走った少年とどう向き合うべきですか。

 入所時は目つきが鋭く、非常に警戒しています。ひどいことはされないとわかれば、心を開くようになります。職員は厳しさと優しさをバランスよく出す必要があります。

 一人ひとりに関心を持ち、声を掛けるのが大事。

 勉強や運動ができなくて挫折したり、子育てに無関心な親の元で成長したりした子がいます。学校では白い目で見られていた子もいます。どんな子にも平等に接するようにしています。

 ──少年による事件が起きるのはなぜですか。

 家庭環境の問題が一番大きいです。核家族化が進み、子育ては難しくなっているかもしれませんが、愛情を注いでほしいです。親が変わるべきです。非行の数は減る一方で、虐待は増えています。収容される子も虐待を受けた経験を持つ子が多いのです。子育ては人生の一部ですから、子どもに関心を持ち、成長に喜びを感じてもらいたいです。

 ──少年が事件を起こした背景をどこまで明らかにすべきですか。

 マスコミは匿名性などに十分配慮してほしいです。社会的な影響が大きい少年事件の報道は、本人と家族の生きる道をなくしてしまうこともあります。

 一般の方は、少年事件の動機が報道されると納得するかもしれません。でも、実際は表に出ていない部分で、家庭の問題や友人関係など複雑な背景が絡んでいます。それを詳しく知る機会がないような気がします。事件の原因は一つではありません。

 ──少年の更生に対する鑑別所の役割は何ですか。

 非行をした少年の問題性を見分けるのが鑑別です。収容する少年のうち、7割は鑑別所に入るのが初めて
の子です。子どもたちは、鑑別結果が家庭裁判所の審判の資料になると知っているので、本当の自分を出そうとしません。それを引き出すのが役目です。

 鑑別所は教育機関ではありません。ありのままの姿を観察するように努めています。プレッシャーをかけず、少年自身を見ています。24時間態勢で普段の生活態度を把握し、鑑別結果通知書を作成する際の参考にします。心理検査や知能検査の結果に表れない部分をつかむのが大切です。

 ──最近の鑑別結果の傾向はどうですか。

 少年の犯罪は、重大な刑事事件なら裁判員裁判になります。裁判員が鑑別結果通知書を目にするかどうかは分かりませんが、客観的事実とその根拠を示すことを心掛けています。裁判官も裁判員も心理学のプロではありません。専門用語を避けて分かりやすい表現を目指しています。

 少年鑑別所

 家庭裁判所が送致した少年を最長で8週間受け入れる。医学や心理学、教育学などの専門知識に基づいて非行の原因を明らかにし、更生方法を診断する。鑑別結果は審判の判断材料になる。全国の県庁所在地などに52庁(分所1庁を含む)が設置されている。

      (朝日静岡県版、2012年09月25日。小林太一)

 感想

 もう十数年前になると思いますが、NHK特集で「家族画」というのが放映されました。それは、名古屋少年鑑別所で監察官が入所した少年少女に自分の家族の思い出の絵を書いてもらって、それを分析し、相手とも話し合う中で、相手を正しく理解しようと努力している姿を伝えるものでした。

 VTRに取って看護学校の授業では毎年ほとんど必ず見せるようにしました。或る年の「教科通信」を引用します。

   VTR「家族画」を見て

──中学生の時、教育実習に来ていた人が少年院を経験している人でした。その人はそのような過去を皆に話すことで、生徒たちに自信を持ってほしかったのではないかと考える。

 警察に連れていかれた後は、人生に悪い影響を与えるばかりではなく、その後の人生はその人自身の考え方によりいくらでも更生できるものだと思う。だからといって法律に違反する行為をしてもよいのではなく、1度失敗しても悲観的になるのではなく、自分の人生をしっかりと見据えてがっばっていくことだと思う。

──親と子は別々なのだと感じた。そして、子供は真っ白であると思った。真っ白で何もない状態に沢山の色が混ざっていく過程で親の影響はとても大きくて、親のたった一言でも色はがらっと変化する強く大きな力があると思った。

 子供は親が大好きで、好かれたくて愛されたくて、自分の意志とは違うことをしてしまうこともあるのだと思った。親に好かれたいがために、親の抱いている子供像を子供が感じ取り、教育されていく内に、親に好かれる方法を見つけ、子供はそれを演じ、演じているために疲れてしまって全く逆の事をしてしまうのかもしれない。子供を育てることは本当に難しいのだと感じた。

──中学のクラスに、家庭環境が悪くて問題になるいわゆる不良という子がいた。授業に途中まで来ていたが、後半は席がぽつんとあり、どこか施設に行ったと聞いた。

 卒業の時のアルバムにその人の住所が忘れられていて、後から回収して付け加えられた。先生にとってはそんなもんだったのかなと思った。私たち生徒には何も言わずにアルバムを回収したが、みんな大体気づいていた。生徒は分かっていたのに、先生は忘れるなんて、悲しいと思った。

──私には、小さい頃から病気で小学校の頃に入退院を繰り返していた四つ違いの姉がいる。小中学生の時、両親の気持ちがすべて姉に行っている気がし、兄も長男ということで何か皆に特別視されている気がして、私は放っておかれていると感じ、さみしい思いをしていたことがあった。

 だからこつこつと勉強もがんばっていたし、特に道にはずれることもなくて、良い子を演じようとしていたかもしれない。でも高校や現在に至って、私はそのような気持ちでいた事を母親に話した。今までためていたものを吐き出せた気がした。私のそういう気持ちを母は分かってくれていたし、その時の私を受け入れてくれた。今の自分があるのは、その時の気持ちや受け入れてくれた家族があったからだと、最近思う。(以上、「天タマ」第44号より)

         関連項目

「天タマ」の目次
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哲学演習の構成要素、加藤尚武のヘーゲルの読み方

2012年10月11日 | タ行
 或るきっかけでヘーゲルの「自然哲学」の序論を読みかつ訳しています。久しぶりにヘーゲルに帰ってきて、懐かしい感じがします。やはり難解な所もあります。

 他の人の翻訳も参照したいと思い、調べて見ると、長谷川宏のもの(作品社)と加藤尚武のもの(上下巻。岩波書店)とがあります。かつては速見敬二のものが上巻だけですが、出ていたはずですが、いまではこれは古書にもないようです。

 長谷川宏のものは全然価値のないことは分かり切っていますので、加藤尚武のものを取り寄せて参照する事にしました。考えて見ると、加藤はヘーゲル研究でかつて山崎哲学奨励賞をもらったことがあるはずです。つまりヘーゲル研究は彼の主戦場のはずです。しかし、ヘーゲルの訳書はこの自然哲学だけだと思います。今まで加藤の翻訳を読んだ事の無いのに気づきました。

 少し読んで見て驚きました。「加藤のヘーゲル読解って、こんなにレベルが低かったのか」と、初めは信じられない程でした。もちろん私よりはるかに博識ですから、個々の事実については学ぶこともありました。しかし、ヘーゲルこそ「論理的文脈を読まなければ何も分からない」はずなのに、それが全然ないのです。文脈を読むという意識すらあまり感じられません。関口存男はその訳注書『ファオスト抄』の「序」の中で「この原文と対照させた意訳は原文には忠実でない。原『文』に忠実ではないが、それだけに原『意』と原『色』と原『勢』には忠実だったつもりである」と書いていますが、加藤の訳は原文には(ほぼ)忠実かもしれませんが、原意と原色と原勢には忠実でないどころか、それを追求する姿勢すら感じられません。その点では寺沢恒信訳『大論理学』(以文社)の方がずっと上だと思います。

 「どうしてこうなるのだろう」と考えていましたら、下巻にある「あとがき」を読んで納得できたように思いました。そこにはこう書いてあります。「本書は、私一人の力ではなく、多くの人々の助力によって、完成することができた。作業の主要な部分は、ズールカンプ版テキストのワン・センテンスごとに対訳で作成した基本ファイルである。ここにはペトリの英訳を引用した箇所もある。文法的に難解な文章には文法的な構文の分析も書き込んである。この対訳データベースから、和文を切り出して、多少の変更を加えて、本書が成立した。今後、多くの訂正や、必要な注釈などは、適宜、この対訳データベースに記入して、つねに最新・最善のデータを提供できるようにしたい。私の誤りについて御叱正を賜れば、お名前を対訳データベースに記録して永遠に改善を続けていきたいと思う。どうか、間違いにお気づきの方は、訳者までお知らせいただきたい。将来は、この対訳データベースを、長島隆氏、北沢恒人民、伊坂青司氏などが主催する自然哲学研究会に委ね、共同利用の道を開きたいと思う」。

 「今後、多くの訂正や、必要な注釈などは云々」以下の文は無視してよいでしょう。重要な点は「ワン・センテンスごとに対訳で作成した基本ファイル」であり、「この対訳データベースから、和文を切り出して、多少の変更を加えて、本書が成立した」という点でしょう。要するに、一文ずつ別々に読んで訳したということでしょう。「文脈は意識せず、ましてや論理的文脈などは眼中になかった」ということです。「原意と原色と原勢」など考えた事もない、ということでしょう。

 実を言うと、加藤と長谷川と私の3人は東大の哲学科で同学年でした(年齢は少し違います)。期せずして同学年からヘーゲルを訳す人が3人出たわけですが、我々の前の学年からも後の学年からも、今のところ、出ていないようです。不思議な事です。

 さて、加藤と長谷川は東大の大学院へ進みました。長谷川のヘーゲル訳と解釈については既に2回、批判的な文章を発表してあります。今回加藤の訳を見て、「東大ではどういうヘーゲル演習をしているのだろうか」と改めて考えてみました。そもそもヘーゲルの読み方を指導できる教授がいたのだろうかと考えました。当時の教授は岩崎武雄、桂寿一、斎藤忍随、山本信の4氏だったはずです。なるほどこのメンバーではこうなるのも仕方なかったな、と納得しました。金子武蔵はまだ倫理学科で「精神現象学」の原書講読をしていたのではないでしょうか。東大では、少なくとも当時は哲学科と倫理学科は別れていましたが、金子のそのゼミに出ていたら、もう少しましな読み方が出来るようになったのではないでしょうか。

 同時に、私が都立大学の大学院に進んで寺沢ゼミに出たことはとても幸運な事だったのだと、改めて気付きました。絶対的な水準はともかく、相対的には当時の最高のヘーゲル講読を習ったのだからです。もちろん許萬元氏と一緒になったことも幸いでした。

 しかし、それにしても、東大を出て山形大学から東北大学に栄転し、そこから千葉大学を経て最後は京都大学の哲学教授になり、日本哲学会の会長を務めた「ヘーゲル研究の大家」の加藤尚武の読み方がこれほどお粗末だという事は、日本の哲学教育のレベルがこの程度のものだということでしょう。これは大問題です。一体誰が本当のヘーゲルの読み方を教え、引き継いで行くのでしょうか。

 そのような事を考えていたら、「哲学演習の構成要素は何か」という問題にたどり着きました。実際に行われているゼミは横文字を読んで訳すだけなのがほとんどですが、理想としては、哲学の演習ではどういう修業をさせるべきかということです。私は大学の哲学科でゼミを担当した経験がありませんが、私塾(鶏鳴学園)では事実上のゼミを開いていましたので、それを反省する事にもなりました。

 第1の要素、と言うより、哲学演習の出発点にしてかつ到達点は「哲学すること」の練習でしょう。哲学演習なのですから当たり前です。しかし、これがほとんど行われていません。「哲学とは何かを考えることが哲学だ」といった愚論で哲学概論は哲学史の説明にすり替えられ、哲学演習は原書講読でお茶を濁しています。

 つまり現実の問題を日本語で哲学的に考えるということです。しかし、鶏鳴学園でかつて「現実と格闘する時間」というのを設けていましたが、大した問題提起はありませんでした。この歳まで生きて来てつくづく思う事は、「権力と戦う」ことの難しさです。野(や)にある時は偉そうな事を言っていた人も大学教授に成り安定すると、戦う姿勢を無くしてしまいます。そういう例が多すぎます。組織に入ると、その組織で実権を握っている人に対して無批判的になります。そして、それらは自分への無批判的な態度と結びつきます。これは人間の性が悪であるという性悪説を証明していると思います。

 つまり哲学と言わないでも、学問の大前提は「全てを疑う」ことなのですが、それが出来なくなるのです。そして、本人がそれに気付かなくなるのです。救いようがないと思います。従って、根本的に言って、「本当の哲学演習」は不可能に近いのですが、これは確認するだけで第2要素以下に進みます。

 哲学修業の第2の要素としては、哲学史の勉強が考えられます。哲学の勉強と哲学史の勉強を混同したり、すりかえたりするのは間違いですが、歴史をしっかり学ばずして本当の学問はありえません。ではこの要素は「哲学演習」の中でどう扱ったらよいか。私にはまだ最終的な回答はありませんが、波多野精一の『西洋哲学史要』を通読するだけでなく、事あるごとに該当箇所を繰り返し読むことは前提でしょう。教師はこのように指導するべきです。そして、この前提に立って、哲学史研究の本(和書、翻訳書、洋書)を皆で読んでその方法なり内容なりについて考え、レポートを書き、「教科通信」のようなものにまとめるという事をすると好いでしょう。

 第3の要素が原書講読です。一般化して好いか異論はあるでしょうが、ヘーゲルの原書の読み方を教え、練習させるべきです。私の知っている範囲などは狭いものですが、やはりヘーゲル程「論理的文脈を読む」必要があり、又その苦労のしがいもあり、従ってその練習に適当なテキストはほかにないと思います。

 しかるにヘーゲルの本はドイツ語で書かれていますから、ドイツ語を勉強する必要があります。しかも、ドイツがただ「読めればよい」程度ではなく、「文法的に読め」なくてはならないということになります。つまり、第4の要素として、関口ドイツ文法を勉強する必要が出てきます。

 この考えは加藤の翻訳を見て一層強まりました。加藤は高校時代からドイツ語を学んでいて、ドイツ語の好く出来る人です。私よりはるかに出来ます。自分でも相当の自信を持っていると思われます。現に上に引用した所にも「文法的に難解な文章には文法的な構文の分析も書き込んである」という句があります。しかし、はっきり申し上げますが、加藤のドイツ語学は私よりは上ですが関口に比べるならば限りなくにゼロに近いです。関口の語学はそれほども高い、あるいは深いものなのです。しかし、それ以上に問題な事は、多分、加藤が自分の語学力を「これでいいのだ」と思い込んで慢心している事でしょう。私の加藤と違う所は、私は自分の語学力が低い事を自覚して、少しでも関口から学ぼうとしてきたことでしょう。つまり、ソクラテスの「無知の知」です。

 ドイツ語の出来る人でも、自信が災いして関口を研究せず、そのためにとんでもない誤解をして平気でいるのですから、ドイツ語以外の言語の研究家が関口研究の必要性を感じないのは当たり前でしょう。しかし、これは好い事ではありません。私は先に「北原保雄の辞書と文法」という論文を発表しましたが、それの準備で北原の本や論文を読んでいる時も「関口を研究していれば好かったのに」と何度も思ったことでした。

 敢えて申し上げます。およそ語学をやる人は何語を専門とするかに関係なく、すべからく、関口文法を研究した方が身のためですよ、と。なぜか、その理由を書きます。海底の深さで譬えますと、地球上の海底の一番深いところは水深1万メートル超のようですから、そう前提します。どの地点でも、即ち何語の場合でも、一番深い所は水深1万メートル超だとします。ドイツ語という場所で海に潜った関口は水深約1万メートルまで達しました(つまり海底までは達しなかったが海底まであと少しという所まで潜りました)が、英語とかフランス語とか日本語とかの地点で潜った人々は、せいぜい3000メートルか、大甘に見てもせいぜい5000メートルくらいまでしか潜っていないのです。ですから、1万メートルの深さまで潜るとどんな景色が見えてくるかを知らないで、「群盲象をなでる」の譬え話にあるような議論をしているのです。

 こういう風に言いますと、「お前はどこまで分かっているつもりか」と言われそうですが、この歳になると嫌われるのもそれほど怖くなくなりましたので、申し上げます。私は、語学の才能があると思っていません。まとめる力ならヘーゲルのお蔭でかなりあると思っています。ですから、私は、関口の知識を使いやすい形でまとめようとしているのです。ヘーゲルの言うように「体系の無い知は学問ではありえない」と思うからです。実際、あるがままの関口文法では使えません。「この点について関口さんは何か言っていたかなあ」と思った時、探して調べられるような文法書を作っているだけです。その中に引いている知識を皆身につけているとも、全部正しく理解しているとも思っていません。

 第5の要素として、ドイツ語で論文を書く練習をするべきでしょうし、ゼミにはそういう要素なり時間を設けるべきです。英語の威張り過ぎの目立つ現代でも哲学の言葉は依然としてドイツ語だと思うからです。論文は原則として和文と独文とで発表するべきでしょう。従ってゼミの中にもその練習を入れるべきです。

 以上の観点からこれまでの自分のしてきた事を振り返ってみます。

 第1要素については、『哲学の授業』及び『哲学の演習』です。が、『理論と実践の統一』や『マルクスの《空想的》社会主義』といった「現実的なテーマ」について、これまでの説を検討し、自説を出しておきました。また、今ではブログ「マキペディア」で様々な問題について自説を述べています。ですから、哲学したい人は、こういったものを手がかりにし、材料にして、自分の考えをまとめて発表してみるといいと思います。

 なお、『哲学の演習』は特に第3部は読み下してすらっと分かるようには出来ていないので、出来れば何か補助になるようなものを提供できると好いと思っています。

 第2要素の哲学史研究については上に述べた通りです。

 第3要素の原書講読こそ今回特に反省したものです。考えて見れば、私は『ヘーゲル研究入門』というものを出しているのですが、レベルが低すぎますし、今から見れば問題提起も不十分すぎます。文法的な問題もほとんどありません。採用したテキストは悪くないと思いますので、何か好い案があれば改善したいと思っています。

 そのほか、訳書にこの目的に役立つような注解を増やすようにしたいと思います。

 第4要素は関口文法の勉強ですが、これこそここ十数年間心血を注いできたものです。『関口ドイツ文法』が出ればかなりお役にたつだろうと思います。

 文法書などというものは「完成」ということはあり得ないものですが、幸いネット時代です。「『関口ドイツ文法』のサポート」というブログを作って、その後に集めた用例などを追加して、補充したり、間違いと判明した点は訂正して行きたいと思います。

 第5要素のドイツ語での論文発表では、人に教える前に自分でやって見せなければなりません。論文のドイツ語への翻訳自体はいくつか試みているので、それをブログ上に発表することをして、それを増やしてゆくという風にしようと考えています。

 付記・加藤の翻訳の大きな問題点(看過しえない点)をいくつか近いうちに発表するつもりです。


        関連項目

加藤尚武訳「自然哲学」と関口文法

北原保雄の辞書と文法
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一条堤の構想(06、宮城県の動き)

2012年10月07日 | ハ行
 「広域処理に頼るのはやめたらどうか」──。そんな声は宮城県議会からも出はじめた。

 今年6月28日の県議会定例会。質問に立った自民党県議の相沢光哉(みつや、73)は指摘した。「広域処理が誘発した放射能汚染をめぐる住民感情のあつれきと風評被害の拡大などを考えると、今回のがれきの処理方式が本当に正しかったのか、大いに疑問である」。
 大量のがれきの処理を広域処理にゆだねる方法が「唯一、正当かつ有効な選択肢であるとは思えない」と相沢はいった。

 それに対し県は、がれきの量が減ったとしても、114万トンの県外処理が必要だと答えた。
 理由として、①仮設焼却炉29基がすべて稼働しても3年以内では処理が終わらない、②リサイクルできる木材などの利用先が県内では限られる、③埋め立て処分場の容量に余裕がない、を挙げている。

 しかし相沢には、その問題を解決できるアイデアがあった。「いのちを守る森の防潮堤」構想だ。がれきの中からコンクリートや木の無害なものを選ぶ。放射能濃度や化学物質が安全基準内のものだ。それを土と混ぜ、高さ20~30㍍の丘を築く。その丘に、タブノキや山桜など、それぞれの土地に根ざした広葉樹を植えて防潮林をつくる計画だ。

 この防潮林を被災した沿岸部のあちこちにつくっていけば、かなりの量のがれきを処理できる。がれきの丘に木が育ってしっかり根を張れば、いつかまた津波が来てもそのエネルギーをそいでくれる。人々の避難所にもなる。「燃やせば何も残らない。だが防潮堤にすれば、人々の生活の一部であったがれきが、津波の教訓とともに、千年先まで生かされる」。

 相沢は県議会の各会派に説いて回った。すべての会派が賛成した。今年3月、59人の県議全員が参加して推進議員連盟が発足した。連盟は国会や環境省、国土交通省、林野庁などに働きかける。

 6月、環境省は「ゆっくり腐るので、メタンガスなどの発生のおそれが小さい」として、丸太状の流木などの埋め立ては認める「考え方」を示した。だが、木くずや建築資材はガスの発生や地盤沈下、有害物質を含む可能性を理由に認めなかった。

 これに対し、「検討が不十分だ」と怒る植物生態学者がいる。「森の防潮堤」のそもそもの提唱者、宮脇昭(みやわき・あきら、84)だ。 

 植物生態学者の宮脇昭は、がれきを埋めて防潮林をつくるアイデアを昨年4月、首相の諮問機関である国の復興構想会議に提案した。
 宮脇は横浜国立大名誉教授で、40年ほど前から国内やブラジルのアマゾン、中国など世界各地で植林活動を続けている。理想は「その土地に古来根付く多様な木々での森づくり」だ。日本ではタブノキやシロダモ、ヤツデなど。これらの木々が茂る森林は、杉など1種類の針葉樹が中心の人工林に比べて災害に強く、防災林にもなると説明する。

 宮脇は震災から1ヵ月後の昨年4月、三陸沿岸の被災地を回る。津波でどんな木が被害を受け、どんな木が無事だったのかを調べた。タブノキやシイなど、三陸沿岸にもともと生えていた種類の樹木が残っていた。人工林の松林は多くが根ごと流された。

 がれきを埋め、その上に土地古来の木々を植えた丘をつくる。それはがれきを処理すると同時に、津波を柔らかく受け止める防潮堤になるはずだ──。

 木材などを含むがれきで丘をつくると、腐敗して土地の強度が落ちるのではないか。そんな意見もあった。それに対し宮脇はいう。「がれきをおおまかに砕いて土や砂と混ぜ、ほっこりと盛れば通気性が維持される。木片はゆっくり分解されて、木の養分になる。地面は10~20年間で5~10%沈下して安定し、強度は確保できます」。

 宮脇は環境省にも昨年5月、この構想を伝えた。しかし、環境省はそれを1年間、なおざりにしてきた。提言をどのように検討してきたのか。こちらの質問に対し、環境省広報室は明確な経緯を示さずにいる。

 だが、「構想」は宮城県議会で盛り上がった。さらに、元首相の細川護煕(もりひろ)らが市民の寄付を募る財団をつくり支援に動き出した。環境省は放置しておくわけにいかなくなった。

 今年6月、環境省は丸太状の流木などの埋め立ては認める「考え方」を示した。ただし「木くずや建設廃材は認めない」。汚水や腐敗してガスを発生させるし、有害物質を含む可能性があるからだとした。宮脇は「世界各地で30年以上、合板の端材などを土に混ぜて埋め、植林している。通気性を保つのでガスなど発生したことはない」という。
 「がれきは1年以上雨ざらしで、有害物質が流されたものもある。調査し再検討して欲しい」。

 環境省のもたつきをよそに、独力で「がれき防潮林」づくりを進めてきた自治体がある。石巻市から約6,0㌔南西の宮城県岩沼市だ。
 岩沼市は185人の犠牲者を出し、2342世帯が全半壊した。発生したがれきは推計32万トン。昨年5月、復興構想を話し合う会議が始まった。そこで議論になったのは、同じ被災地でも松島町は津波の被害が軽かったことだった。沖合に小さな島が点在している。それが津波の力をそいだのではないか。

 津波対策に巨大堤防を築くより、沿岸部の陸上に小高い防潮林を点在させてはどうだろう。土台にはがれきを埋め、津波被害を後世に伝える鎮魂の丘にしよう。
 「千年希望の丘」と名付け、8月にまとめた市復興計画のグランドデザインに取り入れた。植物生態学者の宮脇昭はこの構想を知り、協力を申し出た。

 今年5月、試験的に小さな丘をつくった。流木やコンクリート片など80トンのがれきを埋め、3000本を植樹した。約800万円かかった。それは市民からの寄付でまかなった。
 環境省は「ごみ処分場の届け出を出せ」と渋ったが、「市の責任で試験的にやるのなら」と了解した。今後、がれき32万トンのうち4万トン以上を防潮林用に使う予定だ。

 岩沼市長の井口経明(つねあき、66)は「この構想をぜひ実現したい理由があるのです」という。震災のとき、3人の市民が、海岸沿いの公園の築山に避難して津波から助かったのだ。

 昨年3月11日午後、公園の管理事務所の副所長だった茶谷仁一郎(63)は、園内の遊具の修理を終えたとき、揺れに襲われた。揺れがおさまった。茶谷は園内に人が残っていないか確認し、高さ10㍍ほどの築山に避難した。

 公園を管理する団体の臨時職員だった後藤ひろみ(35)は管理棟を飛び出した。公園の近くに住む菊池節子(77)が逃げてくるのを見て駆け寄った。後藤は菊地に寄り添い、築山に向かうスロープを登り始めた。その頃、茶谷は海の方から「バキバキバキバキ」とものすごい音がするのを聞いた。津波が松林を襲い、木が折れた音だった。

 スロープを駆け下り、菊地をおぶった。3人が築山を登りきってすぐ、津波が周囲をのみ込んだ。家も車も流れていった。3人は築山で一夜を過ごし、翌日、消防団に救助された。

     (朝日、2012年09月16-8日。プロメテウスの罠。吉田啓)

 感想・宮脇昭さんには文化勲章を授与すべきだと思います。図書館で氏の「日本植生誌」を拝んでみて下さるよう、希望します。これぞ学問、という印象を持つと思います。
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お知らせ(『精神現象学』のサポート)

2012年10月04日 | 読者へ
 私の訳しましたヘーゲル著『精神現象学』(未知谷)に訳し忘れた箇所のあることを指摘されました。そこを補うと同時に、気付いていた事を加えて、「『精神現象学』のサポート」という題名の記事(頁)を作りました。

 今後も気付いた事が出たら書き加えるつもりです。

 よろしく。

2012年10月04日、牧野 紀之

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 『精神現象学』のサポート 

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