参考
01、主観的必然性即ち習慣(カント「プロレゴーメナ」篠田訳岩波文庫15頁)
02、一般に、存在しているものが自己の存在の中で自己の概念であるという存在者の本性が「論理的必然性」である。これのみが理性的なものであり、有機的全体のリズムであり、内容の「知」であると同時にその内容の概念であり本質である。即ち、この論理的必然性のみが思弁的なものである。(精神現象学47頁)
03、そこには絶対者から非存在への新店の必然性もなければ、その非存在が同一性へと絶対に解消する必然性もない。即ち、同一性の生成もその諸規定の生成も欠けている。(大論理学第2巻167頁)
感想・ヘーゲルの大発見は「生成の必然性」を見出したことです。拙稿「弁証法の弁証法的理解
」(「西洋哲学史要」に所収を参照)
04、この必然性は同時に相対的である。──それは前提を持ち、前提から始まる、つまり偶然的なものに出発点を持っているからである。(大論理学第2巻179頁)
05、絶対的必然性はそれ故盲目である。(大論理学第2巻183頁)
06、必然性は消え去ることで自由になるのではない。その未だに内的である同一性が顕現することで自由になるのである。その顕現は区別された[両項]の自己内での同一の運動であり、仮象としての仮象の自己内反省である。(大論理学第2巻204頁)
07、実体の規定された関係が必然性であり、……自由は概念の関係である。(大論理学第2巻214頁)
08、必然性の領域は存在と反省[本質]の最高点である。(大論理学第2巻477頁)
感想・概念の最高点は自由。
09、真に現実的なものは必然性である。即ち、現実的なものは自己内で必然的である。必然性とは、全体的なものが概念諸規定の中へと分化するのだが、その分化が、分化して生まれた1つ1つの要素が死んだ規定ではなくてしっかりした規定、自己解体の中で繰り返し再生するような規定を持っているような過程の事である。(法の哲学第270節への付録)
10、必然性の過程は互いに何の関係も結びつきも持たないように見えるバラバラの諸事情があるということから始まります。これらの事情が無媒介の現実ですが、それが自己内で没落し、この没落から新しい現実が生まれ出てきます。
つまり、ここでは、内容上は1つのものが形式上は2つになって現われるのです。つまり、まず第1には事柄としての内容〔これが肝心な事なのですが〕であり、第2にはバラバラの諸事情としての内容です。後者は〔はじめは〕肯定的・自立的なものに見え、又肯定的・自立的なものとして自己を主張します。しかし、この内容は自己の中は空っぽなので、自己の否定態に転倒され、事柄としての内容に成ります。つまり無媒介の諸事情は条件としては没落しますが、事柄としての内容という形で保存されます。すると、この時、それらの事情と条件から全く別のものが現われ出てきたと言われ、この過程を成している必然性は盲目だと言われるのです。
これに対して合目的的〔目的意識的〕な活動について考えてみますと、ここでは目的という形で前以って知られた内容が与えられており、従ってこの活動は盲目ではなく目明きです。〔ですから〕世界は〔神の〕思し召しによって統制されていると言う時、そこで言われている事は、目的というのは一般に前以って絶対的に規定されたものとして働いているものであり、従って現われ出て来る事は全て前以って知られ欲せられたものに合致するということです。(小論理学第147節への付録)
11、外的必然性──現実の3契機が互いに自立した存在となっていること、これが外的必然性の過程である。(小論理学第148節)
12、必然性、つまり自己を区別しながらも内容的には同一であること。(小論理学第177節)
13、有限な認識が証明という形で示す必然性は先ずは外的必然性であり、主観的洞察を規定する必然性でしかない。しかし、この認識は必然性を示す中で、自分の前提たる出発点は見いだされた物、所与のもの[偶然的なもの]であることから踏み出す。必然性とは本来自己内で自己関係する概念だからである。主観的理念はかくして絶対的に規定されたもの、所与でないもの、主観に内在的なものに到達する。これが意志の理念である。(小論理学第232節)
感想・これが認識の理念から意志の理念への「内在的な移行」です。大分無理があると思いますが、「内在的な移行」という方法こそが真の哲学であることを提示した事自体は偉大だと思います。
14、必然性とは、その最も本来的な意味では、互いに自立している現存在の単に内面的であるが故に又単に外面的でしかない関係のことである。(精神哲学第381節への付録)
15、理性的な必然性(精神哲学第401節への付録)
16、(絶対的必然性)自己の本質を知る精神、本来的に絶対的に自由な精神、自分を解放する活動を自分の現実としている精神、そういう精神の原理の中以外には、国家権力と宗教と哲学的真理とが一致する絶対的可能性、即ち絶対的必然性は存在しない。(精神哲学第552節への付録)
17、窮乏(Not)──必然性(Notwendigkeit)の実践的表現(マルエン全集第2巻38頁)
感想・英語のwantの2義は「欠乏」と「要求」でした。
18、観察と経験だけでは必然性を十分に証明することはけっして出来ない。それはポスト・ホック(その後に)は示すが、プロプテル・ホック(それ故に)は示さない(ヘーゲル「小論理学」)。……
必然性の証明は人間の活動、実験、労働にあるのである。ポスト・ホックを作り出す事が出来るならば、そのポスト・ホックはプロプテル・ホックと同じになるのである。(マルエン全集第20巻497頁)
注・経験は確かに多くの、言わば数えられないくらい多くの同じような知覚を示しはする。しかし、普遍性というのは大量というのとは全く別物である。同じく、経験は確かに変化が前後して起きる事や色々な対象が並んで存在する事を承認しはするが、それらの間の必然的なつながりはこれによって証明されはしない。(小論理学第39節)
感想・労働では多数の条件が作用しているから、本当の証明にはならない。問題になっている事柄だけを抽出して実験する実験こそが本当の証明である、というのが
板倉聖宣さんの主張でしょう。
19、外的必然性の過程は条件と事柄と働きという3つのモメントの外的媒介の過程であった。ところが、この過程の成果として出てきたもの即ち生産物は、すでに外的必然性の過程を止揚したものとしての意義を持っている。なぜなら、たとえ過程においては自立的に存在する3つのモメントの外的媒介であったとしても、しかし生産物が意味するものは、事柄自身がその働きを介して自己へ反省した、という意義をあらわすものだからである。ということは、外的必然性の場合でも即自的には「内的必然性」──すなわち自己を自己と連結する円環性──が背後にあるということを意味するのである。(許萬元『ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理』大月書店)
20、ここで私は便宜上「必然性」の二種類の概念を区別しておかなければならない。つまり、ある事物が他のものへと止揚されるべき有限性として否定的連関において示されるところの歴史的必然性に対して、ある体系内において全体的なもの(無限性)との肯定的連関のうちに位置づけられる体系的必然性というものが区別されなければならない、と思う。ヘーゲルの「現実性」も、歴史的過程のうちでは歴史的必然性において考えられたが、しかし究極的な意味では、体系的必然性において理解されているのである。体系的必然性とは、ある体系における有機体論的合目的的連関のことにほかならない。(許萬元『ヘーゲル弁証法の本質』青木書店、第2編第3章)