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「天タマ」第3号

2018年10月30日 | カ行
    天タマ  第3号

1998年10月19日発行  浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

 授業もレポートも3回目となって、皆さん益々乗ってきたきたようです。

ここの病院の苦情処理システムの現状とその改善案

 これについては、①患者の病院に対する不満、②実習生の病院に対する不満、③患者の実習生に対する不満の言い方に対して、と3種に分けられます。

①についての代表的な意見を紹介します。

- 今、ここの病院には苦情を言えるシステムなどない。苦情がくるといえば、患者の家族が直接ナースに言いにくるくらいだろう。しかし、実際には患者が病院に対して不満を持っている事は多い。ただ病院に苦情を言える設備がないだけのことである。

 私も実習を通して患者の不満の声をいくつか聞いた。例えば「ロッカーがないから荷物を置けない」、「ここではCTばっかりとっているが、体に害はないのか。それにお金がかかってしょうがない」、「看護婦さんはすぐどこかへ行ってしまって、私の話を親身になって聞いてくれない」等である。

 これらは患者から見た不満であるが、私達学生から見ても看護婦さんに対して不満がある。例えばお風呂に入れない人に対してタオルを配っているが、検査等で病室にいない時もタオルを配っているので、冷たいタオルで体をふいている患者さんがいたり、食事の30分前からエプロンをさせられ車椅子に抑制されテーブルの近くに座らされているお年寄りの患者さんがいたりする。

 本当に患者さんのための看護をするためには、やはりアンケートを配ったり、苦情について医療従事者が話し合う場をつくらなければならないと思う。

 ★ その他。前回の実習の時、患者さんが「ドクターにいろいろ聞きたいけれど聞けないのよ。みんなそう思っているわよ」と教えてくれたとか、「態度の悪い看護婦に患者さんが激怒して怒鳴ったという事件があったそうだが、その時に看護婦が『何を言っているの、この人は』という感じで、笑って済ませるという様子で、特別な謝罪はなかったらしい」という噂を紹介していた人もいます。

 逆に、患者が褒めていた例としては、「婦長は他のナースと違って全体をみて行動しているから、ちょっとの事でもすぐ気がつく」と或る患者が言っていた、というのもありました。

 改善案としては、看護婦に(は忙しくて)できない事を学生が(時間があるので)できるようにするというシステムが提案されていました。

 又、改善点を提案し合うための悪意のない自由な苦情処理システムがあるといいと思うという意見ももっともだと思います。

 他の病院の実例として、入院時に患者に1冊のノートを渡し、毎日、そこに色々な思いを書いてもらって、患者と看護婦の交換日記みたいなものにしている、という実例の紹介がありました。

 問題点も解決案の核心も出ていると思います。要するに、学校とか病院とかは、原則として、大きくなればなるほど悪くなりがちである、ということです。

 市看は割合に好い学校だと、私は気に入っていますが、その理由は、①小さいこと、②国家試験があること、によると思います。そして、人間関係では、人間の中にある負の要素=悪意を直視すること、人間は誰でも悪く言われるのは嫌なこと、を考慮する必要があると思います。

 では、どうしたらよいか。その時、どんなシステムも結局は人であり、組織はトップで8割決まるということを知っておくことだと思います。つまり、トップにやる気があって、改善しようという雰囲気が全体にあることです。

 それを偶然にしないために、トップと組織全体を外部から評価するような制度を作ることが、そういうシステムの根本だと思います。

 ② 実習生としての不満もかなりあるようです。

次のは必ずしも代表的な意見というわけではありませんが、明確に不満点を挙げているものを紹介します。

──私たちも病棟に実習に行って結構不満を感じています。(本校の)先生は病棟の看護婦さんとそれほど深く接していないから気づかないようですが、直接指導してもらっている私たちは不満をもっています。

 私たちは学校の物品であればどこに何があるのか、どういう風に使ってよいのか分かるけれど、病棟のものはどこにあるか分からなかったり、どうしていいか分からずに看護婦さんに聞くと、すごく無愛想に言う。

 また、私たちが選んで午前中から病棟に行くのではないのに、或る看護婦さんは「なんでこんなに忙しい時にくるのかねえ。午後からにしてほしい」と、私たちに聞こえるように言った。

 私たちではなく、先生に直接言ってくれれば、なぜ午前中から来るのかという理由も分かりそうだし、病棟の意見も私たちに伝わってくる。だから、私たち学生の不満、病棟の看護婦の不満を伝える機会を作ってほしい。

 ★ この点については、実習の最後に、婦長が「不満があったら言ってほしい」と意見を求めたという話もいくつありました。しかし、それでも言いにくいようです。

 これは実習生と看護婦(病院)との関係だけでなく、看護婦同士、医者と看護婦、看護婦と看護助手といった間にもあるようです。これが大問題なのです。

 根本的には私は①と同じだと思います。人間は誰でも否定的な事を言われると好い気持ちがしないという人間心理をどう処理するかに関係します。しかし、特殊的には、看護婦が忙しすぎるという労働条件的な面も考慮する必要がありそうです。

 ③ 実習生としての態度について患者から間接的に不満を言われたことを取り上げている人が一人いました。

- 実習中の私たちの態度を看護婦に、学校に電話のみで「態度が悪かった」と言われたりしますが、直接でなく、学校の先生を通しての間接的な形では、納得できないと思ったりします。おまけにこちらはこの先就職の事とかいろいろあるから、強く言えない。

 指導してもらう時も「私たちのためを思って言ってくれるんだ」と思う時もありますが、なんか明らかに悪意を感じるという時もあります。

 患者も言いたい事がいろいろあるだろうと思う。学生にそれを言う患者さんもいます。でも私たちが言われた事を報告しようと思っても、病棟の誰に言ったらいいのか、分からない。ソーシャルワーカーがやってくれるのかな、と今までは思っていたけれど、違うのでしょうか?

 病院も内側から変わらなければダメだと思う。病院の職員には、サービス業だっていう自覚のない人もいろいろいると思う。

 ★ 批判は直接が好いか、それとも間接が好いか、という問題はよくよく考えるべきでしょう。授業で取り上げましょう。これはアンケートは匿名か記名かというテーマとも関係します。

 尚、ここの病院には意見箱みたいなものも置かれているようですが、あまり知られていないようですし、大して機能していないのではないかという意見が大勢でした。投書は、どういう投書があったか、それをどうしたか、を発表すべきであるという意見がいくつかありました。

 私も、かつてはアンケートへの返事を伝えませんでした。レポートへの感想も書きませんでした。悪かったと思っています。感想を書いて返すようにしたのは3年前からです。皆がとても喜んでくれるので、今では過去を取り戻すつもりで熱心に書いています。

学校の苦情処理システムについて

 これは、学校によって実に様々のようです。投書箱への投書などをきっかけとして、頭髪自由化が実現されたという例もあります。高校でも、生徒会の要望が実ってスニーカーの色が5色になった、という例もあります。又、相談室があって、先生が相談にのってくれた所もあるようです。小中では日記を毎日書いていて、担任との意見交換が出来たという人もいます。

 しかし、中学と高校、特に高校では先生と学校に対する不満がとても強いようです。

- 自分の苦情が事件として取り扱われることがある。私もこれらの事で様々な思いをしてきた。現在では、もう先生に言ってもしょうがないと思う気持ちで一杯である。やはり日本の学校にも苦情を受け入れてくれる人が必要である。

 アメリカでは学校カウンセラーが各校に一人ずついて、このような役割を果たしてくれる。私はこのような人は、教職とは無関係で独立した立場の人でなくてはいけないと思う。つまり、生徒と教員の間に立つ人でなくてはならないと思う。生徒が素直に苦情を出せる場が必要である。そして、それを正確に、かつ人権を守って教員に伝える技術を持った人が必要である。

 ★ 或る高校では、投書箱に投書した苦情について、朝礼で先生がそれを読み上げて、「こんな事を書いた人がいる」などと怒ったそうです。こうして、生徒は諦めていくのです。

 しかし、ここは分析すると、①生徒の教師や学校への要望や批判は、どんな事でも好い、どんな言い方でも好いということではないから、その内容自体は何らかの形で問題になりうる、②しかし、それを朝礼で一方的に「失礼だ」と決めつけてよいかは又別である、の2点を区別して考えて下さい。

 意見の内容とその表現形式の区別、言われた側が反論する権利とその方法の区別です。これはこれからの授業のテーマです。「苦情を伝える側にもそれなりの態度と感情に流されない理論が必要」という意見もありました。

 市看ではアンケートもあり、先生にも相談にのってくれる人が多いようですが、一部に「あなたはそんな事言える立場なの?」と言われて不満だった人もいます。しっかり授業を聞いていても分からない先生がいるのに、言うと「予習や復習をしないからだ」と言われて納得のいかない人もいます。又、講師の先生にも不満があるようです。

 根本的には、結論の如何ではなくて、話し合ってよかったという気持ちになれない所に不満があるようです。私は皆さんの気持ちに共感しますが、残念な点もあります。それは、自分が主任になった時にこうしようとか、立場的に下の人(例えば看護助手とかいずれ迎える看護学生とか自分の子供)の意見を聞くために自分はこうするといった、主体的な考えがなかったことです。これは縦の関係を論じた時もそうでしたが、皆さんは自分が上級生になった時どうい
う行動を取ったのでしょうか。こういう事は反省しなくて好いのでしょうか。

「天タマ」について

 「天タマ」はお蔭様で好評で、疲れも吹き飛びます。「いつもは読まないのにこれは読む」という人もいました。「哲学の授業内にとどめないで他の先生にも読んで欲しい」という意見もありました(哲学講師はこれ以上出しゃばっていいのでしょうか?)。

 名前の原則は「本人の意志による」です。講師の判断で匿名にすることもあります。

エピローグ

 私は中高一貫の学校でした。縦の関係もよく、先生の評判からあだ名まで、先輩から後輩へ連綿として受け継がれていました。先生の担当教科に関係した言葉を使ったうまいあだ名がありました。

 数学の先生に「π」(パイ)というあだ名の人がいました。その心は「割り切れない」でした。

 化学の先生で「ナフタリン」というあだ名の人がいました。その心は - 「虫が好かない」








「天タマ」第2号

2018年10月27日 | カ行
   天タマ

(第2号、1998年10月16日発行) 浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

 患者が「あなたじゃ心配だから、他の看護婦に代わって」と、新人看護婦を断った。これをどう考えるか。

 次のAさんのレポートが標準的な考えのようです。それをまず掲げます。

───例に挙げられた看護婦の話は難しいところだと思った。私たち看護婦側からいうと、やはりそれなりの経験を積んでいるのだし、経験の浅さだけで全面的に否定されるのは辛い。でもやはり患者さん側から言えば、新米看護婦に任せるのがこわいのも仕方ないと思う。

 学校では、「堂々とした態度で接して患者に不安が伝わらないようにする」と教わっているが、経験の浅さや不安がどうしても表れてしまうと思うし、患者さんは自分に対してだけでなく、他の患者に対しての看護婦の失敗なども覚えているのだと思うから、十分に実力をつけることが私たちにとってまず大切なことだと思った。

 ★ これを中心にして、

 「一年目の看護婦だからといって、技術や知能が他の先輩看護婦より劣っていると、頭ごなしに決めつけるのは、まちがっていると思う。新米看護婦だからこそ、初心を持って慎重に看護行為を行うものだし、ベテラン看護婦にも、慣れたころにおこるミスがあると思うから」、「患者もあるがままに振る舞うのではなく、一人の人間としてその場に在ってほしい」という意見と、

 「そういう患者の気持ちを理解してあげられる看護婦になりたい」、「看護婦の誰もが通る道なので、気にせず仕事に励んでほしい」と看護婦を励ます意見とに分かれるようです。

 更に分析して、「看護婦のケアは医療的なものと身の回りの世話に分かれる。医療的なことで新人が拒否されても仕方ない面もあるが、身の回りの世話まで拒否するのは偏見ではなかろうか」という意見もありました。

 実習の中で同じような事を言われた例を挙げます。

- このままじゃ〔あなたは〕絶対に看護婦にはなれないね、と言われた。
- 先生には話してくれるのに、私たちには話してくれなくて、悲しく悔しかった。
- 9月の実習で患者に「自信をもってケアしろ」と言われた。
- 1人でやろうとしたら「看護婦呼んでこい」と怒鳴られた。

 ★ 対策としては、「先輩看護婦に付いていてもらって援助を行う」という意見が多数ありました。ここの病院ではこういう事は認められているのでしょうか。「甘ったれるな」と言われるような事はないのでしょうか。又、「なんで嫌なのかその理由を後で聞いて、それに対応する」という意見もありました。

 自分に密接な関わりのあることなので、よく考えたと思います。しかし、考え方としては、看護婦個人の問題として考える域を出る発想はなくて、もの足りません。私は、
 ① 病院のシステムの問題として考えること、
② 患者と看護婦の関係だけでなく、生徒と教師とかいった病院以外の世界に広げて考えること、の2点を求めていました。

①は、患者が看護婦や医者に不満を持った時、それを処理するシステムがあるか、又看護婦が困った事があったら、仲間で相談する場が設けられているか、ということです。

②は分かるでしょう。皆さん自身、「こんな先生代わって欲しい」と思ったことがあると思います。それなのに、その時どこにもそれを言えなかったと思います。この患者にしても、看護婦だから言ったけれど、医者には不満があっても言わないと思います。力関係で言える関係になったり、言えない関係になったりするのは、民主的な社会ではありません。

縦の関係をより良くするために

 「他の学年との接触がないからといって特に困ったこともないし、今更縦の関係を良くしたいとは思いません」という意見も少数ながらあるようです。高校の関係や寮の関係で個人的に良い関係を持っている人も何人かいるようです。が、全体としてはもう少し良くしたいという意見が圧倒的に多数のようです。

 その関係の中身については「先輩とも友達と呼べるような関係が築けたらいいな」が多いと思います。

 その方法としては、
 ① 体育祭をクラス対抗ではなくて、混成チームにする、
 ② 3学年交流会を2回でなく、もっと多くする、グループの人数を減らし、内容も工夫する、時期も4月でなくもう少したってからにする、
 ③ 可能な授業(例えば哲学など)は3学年合同にする、
④ サークルを多くする、がありました。

③は私も望む所ですが、現実には難しいでしょう。④は生徒が自由に作れるのではないでしょうか。

ある中高一貫校では「姉妹遠足といって中1から高3まで各学年1人ずつのグループを作り、遠足に行ったり、掃除も一緒に行ったりした。そのため先輩や後輩と仲良くなれた」という経験の紹介もありました。

学校における上下関係の経験は社会に出た時の勉強になる、という意見があります。しかし、これは日本社会が「タテ社会」(中根千枝)と言われる特異な社会であることを無批判に肯定した意見で、賛成できません。日本社会自体を考え直す視点がほしいです。私は、先生と生徒も友達のような関係でよいと思います。では、その時、先生と生徒の最後の一線はどこに引かれるのか。これが問題です。

 いずれにせよ、中学時代のいびつな上下関係で傷ついた人も多いようです。残念な事です。問題は校長にあると思います。「学校教育は校長を中心とする教師集団の行うもの」です。この集団がしっかりしていれば、大抵の事は出来ます。「校長が変われば学校が変わる」という報告もあります。校長の責任は重大です。しかし、この事が十分に認識されていません。

 3年になると卒業生の現役看護婦の話を聞く会もあるようです。

ディベートのビデオについて

 ここに出てくる高校生のしっかりしていることに、又ディベートの迫力に皆さんびっくりしたようです。相手を言い負かそうという感じに付いていけないと思った人もいたようです。しかし、それは誤解だと思います。ディベートはどこでも通用する訳ではありません。今アメリカでは対話の重要性ということが言われているそうです。どっちが勝つかではなくて、話し合いの中からより良いものを、一緒にやっていける方法を見いだしていくマナーです。対話の必要な時には対話が、ディベートの必要な時にはディベートが出来る社会人を目指すべきではないでしょうか。

 又、反駁者が答えを途中で遮ったことが気になった人もいます。これも誤解です。反駁者は、答弁がスムーズでないとか冗長と判断した時は遮ってよいのです。そうでないと、時間を引き延ばされて自分の聞きたいことを全部聞けなくなりかねません。しかし、その判断が間違っていて、答弁がスムーズなのに遮った場合は「非礼行為」として減点されます。つまり、審判の判断によるのです。

講師から

 名前を出さないでくれと言う人が出ました。皆さんは2回分を見て、名前を出すことについてどう思いますか。載った人、まだ載っていない人、両方の意見を聞きたいです。

 今年の授業は今までになく順調にスタートしました。協力に感謝します。今後一層盛り上げていく工夫を考えています。乞御期待。乞御提案。

 新しい事も始めました。しかし、教科通信を出すこと、レポートの感想をワープロで書くこと、成績の根拠を説明すること(その準備をしていくこと)は、かなり大変だということも分かりました。が、もう少し頑張って続けてみます。

 9日はとても早口になってしまいました。自分の話す時間を制限したのに、話したい事が沢山出てしまったからです。この矛盾に困っています。

 私の声はビートたけしとかいう人に似ているそうです。去年も言われました。

 昔、東京の或る高等専門学校で哲学を持っていました。面白い生徒がいて、試験の答案を中断して、こんな名句(?)を書いていました。

 ここで一句。
   名調子、そら始まった牧野節

「天タマ」第01号

2018年10月26日 | カ行
お断り・ブログ「教育のひろば(第2マキペディア)」を解消するために、教科通信「天タマ」をこちらに引っ越します。45号ありますので、大変です。

「天タマ」第01号
  (1998 年10月09日発行) 浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

「天タマ」か「大玉」か

 「天タマ」と聞いて連想するものは何か。私は「大玉」を思い出す。「大玉」というのは、早稲田大学の学生街である大隈通りにある牛飯屋のメニューで「大盛り玉子入り牛飯」の略称のことである。

 思うに、東京で典型的な学生街はこの大隈通りと一橋大学のある国立(くにたち)ではなかろうか。国立は上品だが、早稲田はがさつである。しかし、共に学生街らしい。国立は遠いので1~2回しか行ったことがないが、大隈通りはよく行った。古本屋を歩くのである。どこに何という本がいくらで出ているか、覚えていたものだ。昼に行った時は、この「大玉」を食べることがよくあった。

アカウンタビリティ

 最近よく聞く言葉に「アカウンタビリティ」という言葉がある。たいてい「説明責任」と訳される。社会人には自分はどういう考えで行動しているのか、きちんと説明する義務がある、という考えである。日本の官庁や企業や個人はこれが出来ていない、と言われる。大学では「シラバス」が出るようになった。しかし、内容の不十分なのが多い。私は去年から「授業要綱」を配るようになった。説明責任を果たそうと思ったのである。

先生と生徒の関係は対等か

 Aさんが、「その他」に次のように書いています。

──今日初めて哲学の授業を受けてみて思ったことは、「哲学という難しそうなイメージではなく、楽しくやっていけそう。先生も生徒と対等に授業をしていこうとしていて、いい印象」と思った。私も、ウワサで「哲学の先生はこわい人」と聞いていて、「どんな人がくるんだろう」と思っていたが、授業要綱の紙を見て、生徒の意見も反映しようとしてくれているところが印象良く感じた。(後略)

 ★ 今年も、先生と生徒の関係はどうあるべきかを一つのテーマにして考えていきたい。というのは、多くの人が悩み、疑問を持ちながら、本当の事が分からないまま、流されていると思うからです。

 なぜこういう事になるかと言うと、先生になる人が大学でこういう事を習ってこないからです。それは更に、大学教授がこういう問題を避けているからです。

 さて、Aさんの文からは沢山の問題が出てきます。それを箇条書きにします。

 ① 先生と生徒は対等か(何が対等なのか、何が対等でないのか)。
② 生徒の意見を聞いて、反映させることは何の「対等」を意味するか。
③ 先生と生徒の意見が違った時(勉強の内容、学校の運営などで)、両者は議論するべきか。
④ 話し合うことと議論することとは同じか。違うとしたらどこが違うか。
⑤ 先生は一段高い所(教壇で)で話し、生徒は一段低い所にいるのは何を意味するか。
⑥ 先生と生徒が話し合う(議論する)として、その時先生が司会者を兼ねているのは何を意味するか。

Aさんの言いたい事は私にも嬉しい事なのですが、それをこのように突っ込んで考えると哲学になるのです。そうすると、Aさんの本当に言いたかった事が一層正確に表現されるようにもなると思います。

学級通信について

──小学校の時「学級通信」というものを、担任の先生からもらっていた。学級通信の題名は「あしあと」とか、「たけのこ」とか、「タンポポ」などのように、成長を意味した類のものが多かった。内容は、日頃書いている日記が載ったり、水泳大会や本読み大会の結果が載ったりして、いい事ばかりが載っていた。

 私はそこに載るのが非常に嬉しかったのを覚えている。自分の事が学級通信に載ると、その日は何だか自分がヒーローにでもなったかのように、自分に自信がついて、帰って直ぐ母親に見せていた。

 私にとって学級通信というものは非常によかった。自分のことを両親にあまり話せなくて、学校であったこともほとんど話さないような子だったので、たぶん私の両親は、私のことを、非常に静かで、友達もあまりいない子として誤解していた気がする。私はそう思われているのがとても嫌で嫌でしょうがなかった。学級通信を通して、少しでも私の学校生活のことを分かってもらうことで、私は救われていた気がする。

 ★ ここにはどういう大切な点があるか、私の考え。

① 好い事だけ載せる。つまり、悪い事は載せない。では、悪い事はどうするか。悪い事の種類を分けて(本人の人生を傷つけること、他人の人権を侵害すること、成績が悪いこと)対処する。

② 親が子供について持っている評価なりイメージなりに、子供自身が賛成していない場合がある。→人間は誰でも、特に子供は、「○○は~というタイプなんだ」と決めつけられたくないと思っている。

③ 人間のコミュニケーションには、口で言うのが好い場合と、文字で伝えた方が好い場合とがある。両方をうまく使い分けましょう。特に、愛の表現には!

それはともかく、皆さん、多くの人が学級通信では好い思い出を持っているようで、よかったと思いました。教科通信をもらったことのある人はやはりとても少なかったです。

道徳や倫理の授業について

──道徳・社会(倫理はやったことがない)は、ゆっくりと物事を考えられる時間だった。良否を追求するのではなく、自分の感じたことを追求した結果、「私はこう思う」という意見が導き出された。小学校時代の授業で互いの意見を発表することは、自分の思いもしないことが出てきたり、同じように感じている人がいたり、新しい発見の場だった。今ではこういう機会が少ない。

 ★ 多くの人が道徳の時間は楽しかったと書いています。しかし、皆の前で発表するのが嫌だったという人も何人かいました。又、話し合いのない授業もあったようです。次のような意見もあります。

──小学校の頃の道徳は、社会的に正しいと考えられていることを教えるための教科だということが、今になってよく分かる。あの頃は素直に意見を手を挙げて発表していたなあ、と思う。先生達は一所懸命に社会性を身につけさせようと思って授業をしていたと思うが、実際にはいじめなどがまかり通っていたから、頭では分かっていても行動には移っていなかったと思う。

──高校生のとき受けた倫理の授業は、仏教やキリスト教など宗教の思想、体制の変遷などを教科書に沿って学んでいきました。歴史のようなものでした。宗教・思想を内面からではなく、外から眺めるような授業でした。もちろん、発言の機会や話し合う機会もなく、ただ先生が板書した事柄を後に控えるテストのために、ノートに書いていました。つまらないけれど、楽な教科ではありました。

 ★ 「授業の善し悪しは教師の実力と情熱で8割決まる」と私は考えています。皆さんの意見を聞いていると、やはり、生徒参加型の授業を求めているようです。それは当然だと思います。そうでなければつまらないし、身にも着かないからです。

 昨年の哲学のテーマは「教育と学校の問題」としました。或る時、私は教師の問題を取り上げ、上のように言いました。その時、レポートに次のように書いた人がいます。

──「授業の善し悪しは教師の実力と情熱で8割決まる」。確かにそのとおりだと思います。残りの2割は生徒が握っていると私は考えます。教師は授業という名のショーを行う。生徒という名の観客はそれをみて、善し悪しを決める。ショーの主人公である教師は観客にあることを教えようと必死になる。良い授業は生徒がもっと続けてほしいと願うショー、つまり授業だと思う。(後略)

 ★ 私も去年まではそう思っていたと思います。だから、このレポートにもこの点については何も書きませんでした。しかし、この春、例の中学の英語の授業にディベートを取り入れている中嶋先生の本を読んでいて、考えが変わりました。先生は俳優ではいけない、先生は俳優である生徒に演技をさせる演出家でなければならない、と。私はこれからは、及ばずながら、演出家を目指します。

成績について

──成績をつける時の基準をはっきりしてほしいと思う。今はほとんどがテストの点でつくのでいいのですが、高校の時は、「あんなにがんばったのにどうして?」と思うこともたびたびあり、そのたびに「何でこの成績なんだろう。どこで引かれたのだろう」と思いました。がんばった課目に限ってそういうことがあり、とてもくやしかった。全課目を通して評価のしかたを一定にしてほしかったです。

 ★ 私も成績のつけ方については揺れ動いてきました。今年は皆さんの意見も聞きながら、本当の成績とは何かを考えたいと思っています。

休憩、その他、について

──「休憩」の「日本一短い家族への手紙」はとても面白かったです。本屋に行って私もそのようなエッセイ集を見るので、自分の世界やホンワカした気分にひたれた気がします。またこれからも続けていくのですよね~。カンファレンスではお互いのことがよく知れて、こう思っていたのかと分かりました。ずっと同じ形態で授業を行わないので、時間がすすむのが早かったです。

──〔哲学の先生はこわい先生だと〕うわさには聞いていたので、どんなものか~楽しみだった。皆がこんなに真剣に取り組む授業は、今までなかったような気がする。必ず、クラスの中の一人は内職したり、居眠りをしたり~。何か後ろから皆の姿を見て、何だか笑えた。やればできるんだ、ということもわかった。

講師から

 授業中に休憩を入れるという考えは、21回生の人が提案してくれました。こういう休憩にしたのは私のアイデアですが、休憩という発想は生徒からもらいました。アンケートはやはり役立ちます。とにかくこの休憩によって授業の幅が広がったと思います。

 次回のレポートの時、名前にかなを振って下さい。1回で結構です。

 鉛筆で薄く書かれたレポートはとても読みにくいので、濃く書ける筆記用具を使って下さるよう、お願いします。

 4日(日)、わが町の小学校(全校生徒50名足らず)の運動会でした。部落対抗の綱引きに出ました。「よいしょっ」と掛け声を掛けていたのに気づきました。昔は綱引きの掛け声は「おーえす」に決まっていたものです。

 このワープロはカットなども入れられるのですが、私がそこまで出来ないので、こういうつまらないものになりました。最後にサラ川(サラリーマン川柳)から一句。

  父帰る娘出かける妻眠る  欠く家族


お詫び

2018年10月18日 | 読者へ
 読者から「『鶏鳴出版』の項に出ている記号と番号では郵便局間の振替送金が出来ない」とのクレームをいただきました。


 訂正しました。新しい記号と番号と名前で振替を試みてみてください。

 よろしくお願いします。

 10月18日、牧野紀之


PS

読者の指摘を受けて「pdf鶏鳴双書」の項(2009年12月12日)も訂正しました。(10月26日)
 

鶏鳴ヘーゲル原書講読会、開講

2018年10月15日 | 読者へ
     鶏鳴ヘーゲル原書講読会のお知らせ

 鶏鳴ヘーゲル原書講読会(略称「原書講読会」)という名前で、大学院レベルの哲学演習の会を始めてみることにしました。もちろん受講生がいなければ始まりませんが、私としての義務は果たさなければならないでしょう。なぜそう考えたか、以下に説明します。これまでの多くの失敗と少しの成功とを反省して引き出した結論です。

 組織としては、全体を本科(博士課程レベル)と予科(修士課程レベル)に分けて考えます。誰でもまずは予科に入って6ヶ月過ごしていただきます。

 ① 会の目的は「自分の考え方を確認し、更に発展させて哲学的思考能力を高めること」です。初等哲学講座としては、『哲学の授業』があります。それの目的は「自分の考えを自分にはっきりさせ、更に発展させること」としています。従って、中級以上の哲学修業では、単なる「自分の考え」ではなくて、「自分の考え方」を自覚的に反省するようでなければならないと思います。

 ② 入会希望者は、鶏鳴出版(又は牧野紀之)宛ての手紙で(メールではなく)その旨を伝えてください。その際、氏名、住所、電話番号、メールアドレスを知らせてください。読みにくい漢字にはカナを振ってください。
 431-2201 浜松市北区引佐町東久留木 307-2(鶏鳴出版又は牧野紀之)

 そうしたら、どういうものを出していただくか、返事を書きますので、それに従ってください。「何を求めて原書講読会の門を敲いたか」と題する小論文(2000字前後)をメールで送ってください、などといったことです。

 それへの返事を受け取って又、次の課題ないし質問をします。こうして何回か必要な対話をし、相互理解を深めましょう。かつての鶏鳴学園ではこういうことをしませんでした。患者の病状を調べもせず、病歴を聞きもしない愚かな医者みたいなものでした。

 ③ 会費は6ヶ月ごとに、前金で、1万円を郵便振り込みで送っていただきます。つまり、最初の6ヶ月が「申し込み期間」でもあるのです。ずいぶん長い「申し込み期間」ではあります。しかし、それは単なる「申し込み」ではなく、課題とレポートから成り立っている事実上の修業の始まりでもあるのです。そして、その後正式に入会となった場合には、その後も半年ごとに1万円の会費を前金で振り込んでいただきます。

 ここで会費の件について考えてみましょう。かつての鶏鳴学園は私の生活のためという一面を持っていました。あまり成功したとは言えませんでしたが、そういう目的があったのは事実です。しかし、哲学教育の理想から言うと、「会費で生活する」のは拙いと思います。どうしても、生徒に対して甘くなるからです。
 察するに、プラトンのアカデメイアは会費など取っていなかったと思います。当時は奴隷制社会でしたから、自由人に生活の心配はなかったでしょう。奴隷制がいいか悪いかの議論はともかく、これが哲学者を生み、哲学の発展に寄与したのは事実でしょう。
 今の私には、「これで食っていこう」という考えはありません。とても裕福と言える現状ではありませんが、幸い、最低の生活は出来ていますから。ではなぜ会費を取るのか。もし無料とすると、今度は逆の意味で生徒を甘やかすことになるでしょう。「タダだから冷やかしにやってみよう」という人も出ると思います。生徒に覚悟を決めさせる意味から考えても、有料の方が親切だと思います。

 昨今はボランティアが喧伝されていますが、私は無償ボランティイアにはかねがね疑問を持っています。もちろん尾畠春夫さんのように、自発的にそれをするというなら、否定する理由は何もありません。しかし、「自発」を意味するボランティア活動を「当然のこと」のように騒ぐのはおかしいと思います。
 かつて埼玉県志木市役所で「市民サポーター」とかいう名のボランティアを多数に導入した時、「働くのは週に2日以内、時給700円」という条件(たしか、サポーターたち自身が決めた)だったと記憶しています(間違っていたら、正しい情報を教えてください)。この「週に2日以内、時給700円」というのは、思うに、「ボランティアをする気はあるけれど、持ち出しは困る」という意味でしょう。私はこういう有償ボランティアが主流になってほしいと思っています。

 又、上に書きました本会の会費の金額が適当か否か、この点を含めて、生徒の意見も聞きつつ考えていくつもりです。本会では、会のあり方についても、生徒に言論の自由があります。

 これらを実行した上で、6ヶ月以内に、こちらで正式入会とさせてもらうか否かを判断します。残念ながら、入会をお断りする場合も出るだろうと思います。学問上の会ですから、それは仕方ないと思ってください。もちろん折角申し込んでくださったのですから、少しでも長く勉強してもらえるように出来るだけの努力はします。

 以上の説明でも分かるように、本会は基本的に個人指導です。会員が複数になり、能力的にもいわゆるゼミのようにやれると分かったら、スカイプなどを使ってゼミが出来たら有意義だろうとは思っています。

 ④ 修業の内容は、「学ぶ」とは「真似る」という語から来ていますように、基本的に、牧野の既に発表してあります論文や本を読んで、「これはどういう意味か」「これでいいのか」「他の考えはないか」といったことを一つ一つ考えて、その考えを大小の論文にまとめることです。

 画家を志す人はルーブル美術館で自分の学びたい大家の絵を模写するそうです。かつて日本の小説家志望者は、志賀直哉の小説を原稿用紙に書き写したそうです。
 少し前ですが、NHKTVの「日曜美術館」で名古屋城本丸御殿の再建を特集した番組がありました。それを見ていたら、絵画の修復を担当した人が、確か、狩野派の絵を描いていたら、「画家のその時々の気持ちが伝わってきた」と言っていました。また、『ラジオ深夜便』8月号の41頁では、芥川賞を取った若竹千佐子さんが「(デビュー前には)大好きな向田邦子さんの本を丸ごと書き写したりしていました」と語っています。
 まねをすることで、そこから学ぶものがあるのです。私の許で勉強したいという人は、私の考えた問題とその答えを追体験することから出発して、自分の考え方を作っていき、独立して行ってほしいと思います。

 ここで重要な点は、我々の哲学修業は「書き言葉主義」だということです。「白熱教室」のような口から出任せの「自由討論主義」は取りません。かつての鶏鳴学園では論文を書かせることがあまりにも少なすぎたと思います。

 尚、私の業績では「ドイツ語で発表する」という点が不十分ですので、哲学書や哲学論文の「和文独訳」にも力を入れます。

 ⑤ 勉強計画をあらかじめ出してもらい、調整します。勉強計画の立て方や論文にまとめるための準備などを身につけるのは本会での修業の初歩です。

 また、勉強の結果は毎週、報告してもらいます。これを読んで、正しく進んでいるかを判断し、必要な場合には忠告をするつもりです。「勉強は自分でするもの」ですから、こちらが教えることはしないようにします。これがこれまでの鶏鳴学園と大きく違う点です。

 ⑥ 先に会費の件でも述べましたが、それ以外の事でも、会の運営について疑問点が出てきた場合には、それを「哲学する」のが本当の哲学ゼミだろうと思います。その際、意見の違いはブログ論文「議論の認識論」(「マキペディア」2009年5月28日号)の原則に従って処理します。

 かつての鶏鳴学園でも、或る人が勉強の終わった後で、三里塚か何かの運動の署名集めをしようとしたことがありました。翌週、この問題を考えようと提案して、考えました。
 或る会に別の事を持ち込むというのは「当然のこととして」広く行われています。しかし、これこそ哲学するべきテーマの一つではないでしょうか。
 そもそも既存の運動に疑問を持たないのでしたら、それを実践すればよいと思います。理論的反省は必要ないでしょう。
 ですから、本来的な関係は、その運動を哲学勉強会に持ち込むのではなく、逆に、哲学勉強会で学んだこと、作り上げた自分の考えを、その運動に持ち込んで、その運動を発展させることだと思います。こういうのが「理論と実践の統一」の一つのあり方でしょう。

 こういう事もありました。吉本隆明の『共同幻想論』で読書会をした時、私が吉本を低く評価したのを不満に思った人が、第一ラウンドが終わって第二ラウンドまでの休憩時間に私の許に寄ってきて、「吉本は共産党に入っていたことはない。撤回してほしい」と発言したことがありました。
 この態度を、その後少し考えてから、授業で取り上げました。多くの人は随分びっくりしたようで、これは後々までしこりを残す事になりました(雑誌『鶏鳴』第33号に所収の「自己批判の自発性をめぐる討論」および『ヘーゲルと共に』に所収の「自己批判の自発性を考える」を参照)。
 この時の皆さんの態度を今考え直してみますと、多くの人は逃げ腰だったと思います。自分に都合のいい1点だけを取り上げて発言する人がほとんで、そこで問題になっているすべての点を取り上げて考えた人はいなかったと思います。
 こういう実際の問題を正しく考えられるようになるために勉強をし、ヘーゲルを読んでいるのだという事を確認するべきだったと思います。又、その時も、毎回、自分の意見を小論文にして提出させるべきだったと思います。

 要するに、本会では、こういう現実の問題を考えることにも力を入れます。と言うより、これこそが「哲学する」ことでしょう。「応用しない哲学は無意味」だと思います。いや、哲学だけでなく、どんな学問でも応用することが本当の目的だと思います。

 ⑦ 会の勉強に休暇を作るべきかは考慮中です。ゼミをするようになった場合には、会としての休暇を一応、設けた方が好いでしょう。しかし、一人一人の勉強には休みはないので、自分の計画に沿って修業をするものと考えます。

 ⑧ 一人の人の在籍期間はは、予科も本科も、それぞれ、最大で4期丸2年以内とします。予科の2年には「申し込み期間」の半年も含めます。予科の人はその間に本科に上がるか退会するかです。試しに6ヶ月間の申し込み期間だけ受けてみて、後は自分で勉強する、というのも自由です。
 本科生は2年以内に「卒業」するか退会するかです。

かつての鶏鳴学園では、年限を定めずにダラダラと続きましたが、間違っていたと思います。人生に限りがあるように、人生の個々の段階にも限りを付けた方が締まりが出来て有意義なものになると思います。本当にやる気のある生徒なら、先生から指導を受けるのは2年で十分でしょう。後は自分でやれば好いのです。他者から「芸を盗む」のは一生続けるとしても、です。いつまでも上下関係を続けるのは日本の学校の悪い習慣ではないでしょうか。

背景説明

 なぜこういう事を企画したか、私の考えは以下の通りです。まず、外面的な事情は次の2点です。

第1点。ネットで調べてみたところ、大学でヘーゲルの論理学の演習が行われていないのではないか、と危惧したからです。主たる大学のホームページを見てみましたが、そういう演習をやっていそうな感じがしなかったのです(もし私の推定が間違いで、ヘーゲルの論理学をテキストにしたゼミがあるのを知っている方は、お知らせください)。

 これはやはりただならぬ事態だと思います。私の少ない経験と知識に基づいてではありますが、やはり哲学修業の基礎としてはヘーゲルの論理学を一字一句読んで考えることが中心になると思います。このゼミはいつでもどこかでやっていなければならない事だと思います。それなのに、そのゼミがどこでも行われていないらしいのです。

 第2点。ゼミだけでなく、「邦訳全集」の出版でも、ヘーゲル全集は極めてお粗末な状態だということです。近世哲学の完成者とされる人の全集がそれに相応しい形で出ているとは言えません。岩波書店が2回にわたって全集を出しましたが、2回共に、内容がお粗末すぎました。『小論理学』などは2回目に訳者を替えて悪化しました。『大論理学』と『哲学史講義』は1回目と変わっていないと思います。
 最近、山口祐弘(まさひろ)がかなり精力的に翻訳していますから、いずれ全てを訳して、それを「全集」としてどこかの出版社から出すのかもしれません。もしそうならば、その努力自体は歓迎しますが、山口の訳は注釈がありませんので、決定的に不十分で、内容的な期待が持てません。

 英語圏でもフランス語圏でも「ヘーゲル全集」は出ていないのではないでしょうか。フランス語では『小論理学』の翻訳ではZusatzの訳を省いたものだけです。『大論理学』の仏訳でも同じ訳者が訳したものは「存在論」と「概念論」だけで、「本質論」は別の訳者が別の出版社から出しているという奇妙奇天烈な有様です。
 研究書も注釈書もいくつかありますが、「ヘーゲルの抽象的な表現の現実的な意味」を解明したものは、私の知る限りでは、皆無です。もし「これがある」と知っている方がありましたら、教えてください。

 たしかに私は「学問は一代、思想も一代」と言ってきました。今でもその考えは変わりません。しかし、この「原書講読会」は、各自が自分の哲学を作って生きてゆくための「基礎的修練の場」にすぎません。聞くところに依りますと、古武術家の甲野善紀の道場でも「教えるのではなく、各人が自分で研究する場でしかない」という話です。学問も自分でするもので、人から教わるものではありませんから、それを自覚している人が「芸を盗む場」と考えればよいのではないでしょうか。

 次に主体的な事情ですが、これも2点考えました。

 第1点。「教育」の仕事で私のし残している事は何かと反省してみますと、それがまさに「大学院レベルの哲学演習」だと思います。第1期鶏鳴学園はヘーゲルの原典を読みましたが、内容的に見て、とてもその模範を示したとは言えません。第2期以降は原書講読を省いて、哲学的テーマを考えるという方向に舵を切りましたが、これは完全な失敗に終わりました。

 その後、大学や専門学校の非常勤講師に戻りまして、そこでは過去の反省を踏まえて、ドイツ語教育でも哲学教育でも、「初等レベル」のそれに関しては、自分のものを作り上げることができました。しかし、それはあくまでも「初等レベル」のそれに関しての話です。大学院レベルの哲学演習で講壇哲学を上回る実践をしていません。

 『小論理学』(未知谷版)を出版した今、その欠陥を埋めようと考えたわけです。すると、「お前に残された仕事全体を考え、自分の健康を考慮した時、それが本当に可能なのか」という疑問が浮かびます。これが主体的条件の第2点です。

 これまでは周囲の人々には、「後十年は楽勝で生きているからな」と言ってきましたが、帯状疱疹と自家感作性皮膚炎に2年続けて足をすくわれた78歳の今、「楽勝で」という語句を削除せざるをえないと思っています。「一病息災を実行して」くらいに言い換えなければならないでしょう。そうすればまあ、後十年は仕事ができるかな、と思います。鬼に笑われそうですが。

 今回の「原書講読会」の受講生には「やる気満々」であることを条件とします。即ち、例えば次のような志を持った人だけが来てほしいということです。もちろんこれ以外の志でも、世の中のためになる真っ当な志なら、それで構いません。

──2031年のヘーゲル没後200年には仲間と一緒に「真の邦訳ヘーゲル全集」を出す。
──フクヤマの『歴史の終わり』とヘーゲルの歴史哲学とを比較して検討する。
──『関口ドイツ文法』で提起されただけで答えのない問題に答えを出す。
──真の日本語辞典を作る。
──三上文法を受け継いだ「三上日本語文法」のような包括的日本語文法書を出す。
──哲学教授になって大学を内部から改革する。
──学問的に優れた和書を独訳する。
──政治家になって「哲人政治」を実行する。
──日本の政治を変える「真のシンクタンク」を作る。
──実業家に成って真のシンクタンクを財政的に支える。

こういう志を持った方々とのゼミならば、負担になることもなく、「学問は一代、思想も一代」という考えとも矛盾せず、かえって若返って元気になれるのではないか、と考えました。
しかし、この会が幸い成功したとしても、最長でも10年後には止めるつもりです。2030年3月末には止めている、という事です。といっても、その間に後を任せられる人が育ってくれた場合には、その人に継いでもらうことも考えています。これが理想でしょう。

以上、鶏鳴ヘーゲル原書講読会の開講の挨拶とします。

2018年10月15日
                     牧野紀之


     関連項目

鶏鳴出版

ヘーゲル原書講読会の1ヶ月

『哲学の授業』をすべての図書館に

2018年10月05日 | タ行
読者からのメール

『哲学の授業』をすべての図書館に

                      S・H

牧野先生
 
 小生は地方弱小私大の教師をしているものですが、メルマガ「教育のひろば」はいつも読んでいます。毎回とても考えさせられます。今回は先生の近著『哲学の授業』(未知谷刊)を早速講読してその感想を述べたいと思いまして、メールを差し上げています。

 小生の大学など昔風に考えたら大学といえるでしょうか?大学再編の荒波の中、果たして生き残ることができるでしょうか?お隣の大学は今年定員200名に対しなんと60名しか学生が集まらず、閉鎖を検討中と聞いています。

 いったい何が問題なのでしょうか?確かに少子化によって就学者人口は大幅に減少しました。でも大学はそれに備えて努力してきたでしょうか。少子化は早くから分かっていたはずです。小生の大学には「教育のひろば」の基準でいったらニセ物教授が90%以上いるでしょう。大学に入学してくる新入生の気質は明らかに変化しているのに十年一日の如くマンネリ授業をして大学は倒産しないと信じて疑わない「大学の癌」のような教授、研究・研究とタコツボに入り込んで黒板と話をして学生と目をあわせられない教授。

 学生は本当にやる気がないのでしょうか?学生は若者らしい期待を抱いて、その到達レベルはどうであれ潜在的に「やる気を」を「好奇心」を持っているはずです。

「本当の授業はかくあるべきか」。大学といわず、およそ教育に携わるものが、父や母になるものまでも考えねばならないときに来ているのではないでしょうか。そんな折、『哲学の授業』を読んで、本当の授業を追い求めた牧野先生の姿勢に触れたような気がしたのです。

 先生には直接お会いしたこともなく、無論授業も受けたことはありません。しかし、本書にある問題意識は真剣に本当の授業を考える教師なら共通したものです。その教育実践も相当の見識をうかがわせるものでした。早速、教員志望の学生達の授業の教科書に指定しました。若い学生にこそ本書を読んで、自分の教師としての将来像を描くべきだと考えてからです。しかし、売店に入荷するのは7月5日だそうです。

 日本の出版物の流通事情は最悪だと考えています。地方ですと書籍を注文しても2ないし3週間もかかってしまいます。パソコンの普及で「流通革命」が起こったようですが、それは俗な書籍の話しで正当な本は田舎の書店の店頭には並びません。そこで本書がまず教師が読むという観点から各級の学校図書館に常備されるべきだと思いました。

 率直にいって、全ての現役教師、教員志望の学生は本書を読んで、自分の授業のあり方を今一度、問い直すべきだと考えています。

注・これは最初メルマガ『教育のひろば』(2002年)に掲載した物です。その後、ブログ『教育の広場』2012年02月28日に転載し、今回再度転載しました。