解放運動(01、日教組と三里塚)
昨年(2003年)の12月22日、1987年04月の国鉄分割・民営化の際、JR各社が国労の組合員たちを採用しなかったことをめぐる4件の訴訟の上告審について、最高裁第一小法廷で判決の言い渡しがありました。
判決は、この不採用を不当労働行為とした中央労働委員会の救済命令を取り消した下級審の判決を支持し、中労委の上告を棄却しました。
新聞は「これで再雇用を求めて16年余に及んだ採用『差別』闘争は、国労などの敗訴が〔最終的に〕確定した」と報じていました。
そして、解説欄には次のように書いてありました。
──〔法的な道がなくなった今〕国労が頼りにするのは、「政府の責任で早期解決を」とするILO勧告、「人道的に放置できない問題」などとする国会での政府答弁などだ。年明けにも政党に要請し、政治的解決を求める一方で、「JRに使用者責任がないならば、一体誰が責任をとるのか」として、国に損害賠償を請求することも検討している。(2003年12月22日、朝日)
その後、「政党に何かを要請」したのか、国を相手どって訴訟を起こしたのか、私は聞いていません。事実上、国鉄労組側の完全な敗北に終わったと言うべきでしょう。
私はこの報に接した時、「戦後は終わったな」と思いました。戦後の労働運動は炭労などの民間の戦いもありましたが、やはり中心は官公労だったと思います。実体はともかく、表面的に激しい運動をしたのは全逓であり、国労であり、日教組だったと思います。
その結果はどうなっているでしょうか。全逓はすっかりおとなしくなりました。組合の名前も変えたのではないでしょうか。日教組は1995年の文部省との和解という名の事実上の敗北で根本的には終わりました。国労も分割民営化をへて、ついに終わりました。転換の節目は皮肉にも1975年の「スト権スト」だったと思います。
私はこの国労の敗北を論ずるつもりはありません。これは戦後の対国家権力闘争での敗北の1つの例でしかないと思うからです。
私の見る所では、戦後の国家権力に対する闘争で負けたものの代表的な例が日教組であり、勝ったものの代表的な例が三里塚だと思います。
ですからこの2つを考察して我々の今後の方針を考えてみたいと思います。
今、日本の民主主義は、小泉首相の自衛隊を前面に出した対米従属・憲法改悪政策と石原東京都知事の「日の丸・君が代」問答無用路線に押しまくられて、大きな危機に直面していると思います。
この現実に対して、「鉄道業務に再び就きたい」とか、「教壇に立ちたい」といった心情だけに頼った「戦い」ではとうてい勝てないと思います。敢えて本メルマガ 163号で論じました加藤周一さんの表現を使って対比するならば、相手は「非合理な目的」を「合理的・系統的・組織的」に追求しているのに対して、民主主義の側の人達は「合理的な目的」のために「心情的・一揆的・個人的」な方法で戦っていると思います。
更にこんな譬えはどうでしょうか。日教組などは横断しようとしている歩行者に譬えることができます。歩行者が今、横断歩道を渡ろうとしています。前の信号を見たら青です。そこで渡ろうとするのですが、右を見たら、無法運転でこれまでに何人も殺している悪名高い街宣車が大音量でがなりたてながら猛スピードですぐそこまできています。
この時、前の信号が青だから自分たちには渡る権利があるのだ、自分たちの方が正しいのだ、と言って渡るのが、かつての日教組であり、国労であり、全逓であり、現在の不起立派だと思います。
私は民主派が正しくないと言っているのではありません。正しいかどうかではなく、戦術的に適当か、勝てるか否かを問題にしているのです。闘争というのは勝つことが目的なのです。一歩を譲って負けるとしても、後日の勝利に結びつく負け方をしなければならないと思います。「我々は戦ったんだ!」という自己満足的ヒロイズムは文学ではあっても、政治ではないと思います。
民主主義の側には今こそ「戦後政治の総決算」(これは中曾根内閣のスローガンだったかな)が必要だと思います。そして、相手以上に「合理的で系統的で組織的」な運動が必要だと思います。
日教組の運動はなぜ負けたのでしょうか。最大の理由は兵糧攻めに遭ってそれに抗しきれなかったからだと思います。相手のやり方や法律が「憲法違反だから、自分たちはその法律に違反しても『正しい』のだ」という「論理」で、違法な行動を取ったために「処分」をされ、その処分者への補償費用がかさんで経済的にやっていけなくなったからだと思います。
現に、最近の東京都の「日の丸・君が代」押しつけに対しても、卒・入学式の君が代斉唱で起立しないという抗議行動を取っているのは個々の教師であって、組合としては強く反対はしているそうですが、不起立闘争はしていません。その理由としては「処分者を出せば、補償も必要。処分覚悟の闘争は組織の弱体化、分裂を招くおそれがある」(2004年04月04日、朝日)と言っています。
そして、それに代わる方針は何も出せないのです。これが文部省に屈伏した日教組の姿です。今、個別的に抵抗している教師たちもいずれ少なくなっていくでしょう。校長を自殺に追い込んで国旗国歌法のキッカケを作った広島県の教師たちがその道をたどりました。
都立大学の廃止と新都立大学の設立に反対してきた教授たちも、その96%が新大学で働きたいとの意思表示をしたそうです。
つまり、労働者というのはサラリーマンの別名であって、収入源を雇用者に握られていますから、雇用者に逆らうことはしにくいということです。
ここから逆に、国家権力を謝らせた三里塚農民の勝利の理由も理解できます。三里塚農民はたしかに「違法」闘争をしましたが、収入の道は有機農業などを通じて支持者、つまり仲間の国民に求めました。ですから、警察権力を使った暴力的な攻撃を撃退さえすれば(もちろんこの事自体はとても大変な事でしたが)、原理的に、兵糧攻めはされないのです。
水俣の漁民の闘争も三里塚農民ほどではないにしてもかなり「勝利した」と言えると思います(相手は表面的にはチッソという一企業ですが、実質的には国家です)。水俣の漁民も、「チッソの毒に反対している自分たちが消費者に毒を売ることはできない」と言って、化学肥料と農薬まみれの農業や漁業を止め、農協も通さずに消費者と直接手を結ぶ路線に切り換えました。これが勝因だったと思います。
昨年、アメリカのイラク侵略への小泉内閣の協力姿勢に反対する運動でも、大きく動いた人々の中に歌手とか作家とかいった人々が多かったと思います。これも、彼らが客と直接結びついていて、特定の人に雇用されるサラリーマンではないという事情があると思います。
私は思想家としてのサルトルを評価する者ですが、サルトルの行動は彼が大学教授という名のサラリーマンではなくて、作家として読者に直接支えられていたという事情があると思っています。
マルクスは「万国の労働者、団結せよ」と呼びかけましたが、そして実際「万国の労働者が団結」すれば少しは何か出来るかもしれませんが、団結は可能なのでしょうか。たとえ可能だとしても不可能に近いほど難しい事だと思います。こういう事は当時30歳の青二才だったマルクスには理解も推測もできなかったようです。
日教組と三里塚とを対比する時もう一つ重要な事が浮かび上がってきます。それは闘争の中でどれだけの自己変革があったかという問題です。
戸村一作さんの「小説・三里塚」(亜紀書房)などを読みますと、三里塚農民は戦いの中で自己変革をして、家庭や村の中での封建的な人間関係を変えていったそうです。昔どこかで読んだ記憶があるのですが、米軍の射撃演習場に反対した東富士の農民たちもそうだったようです。そこではかつては女性は人間とは認められなくて、食事をする場所さえ差別されていたそうです。水俣の農漁民でも同じ事が起きました。
では、日教組の教師たちはその闘争の中でどれだけ自己変革を遂げたでしょうか。少しはあったのでしょうが(石川達三の『人間の壁』に描かれています)、私はあまり聞いていません。むしろ、先生と呼ばれることに安住して堕落する人が多いのではないでしょうか。この事は教師に優秀な人材を集めるとかいった名目で一般の公務員より教師の給与を高くしてからかえって一層ひどくなった、と私は思っています。
そして、その自己変革と結びついて大切な事として、自分の仕事をどう考え、お客さんへのサービスをどう考えるかという問題があると思います。これが第3の問題です。
三里塚農民や水俣の農漁民が消費者直結路線に変えて農業の内容自体も変えたことは先に触れました。では、日教組の教師たちの教育サービスはその闘争の中でどれだけ変わったでしょうか。
周知のように、日教組の運動には2本の柱があり、第2のそれは教育研究集会に集中される教育運動です。そして、これはかなりの、と言うか、政治闘争よりはるかに大きな国民的支持を獲得してきました。「日教組の政治闘争は反対だが、教育研究集会は支持する」という人は沢山います。しかし、この運動が日教組の中でどれだけ広がったか、疑問です。
雑誌『世界』4月号に埼玉県立高校の社会科教師・戸坂真さんが「『日の丸・君が代』を生徒と学ぶ」という文章を寄せています。戸坂さん自身もかつては校長などと「戦う」だけで、授業の中で「君が代・日の丸」を生徒と考えることはなかったそうです。その事を反省して、授業で生徒と共に考えることで新しい事が起きてきたそうです。
しかし、日の丸・君が代に反対している教師の中の何%の人が授業の中で日の丸・君が代の押しつけに反対する本当の授業をしているでしょうか。
全体としては、多くの国民が、教師の堕落、そこまでいかなくてもお粗末授業に批判的です。そして、これに対して日教組のトップは何らの有効な手も打ってこなかったと思います。
全逓の集配を遅らせる戦術や国労の「遵法闘争」もとてもお客さん(国民)の支持を得られるものではなかったと思います。率直に言いまして、国労の闘争に対する支持が盛り上がらなかった背景には、これがあると私は思っています。
このように整理すると、これからの我々の運動の3大方針が出てくると思います。第1は、国民に直接結びついた経済基盤を持つものであること、第2は、運動の過程で自分たちの自己変革を意識的に追求しなければならないこと、第3は、仕事の内容でお客さんに喜ばれるようでなければならないこと、です。
では、これらを踏まえて今後更に具体的にはどうしていくべきでしょうか。それは次回に考えたいと思います。
(2004年04月20日発行)
昨年(2003年)の12月22日、1987年04月の国鉄分割・民営化の際、JR各社が国労の組合員たちを採用しなかったことをめぐる4件の訴訟の上告審について、最高裁第一小法廷で判決の言い渡しがありました。
判決は、この不採用を不当労働行為とした中央労働委員会の救済命令を取り消した下級審の判決を支持し、中労委の上告を棄却しました。
新聞は「これで再雇用を求めて16年余に及んだ採用『差別』闘争は、国労などの敗訴が〔最終的に〕確定した」と報じていました。
そして、解説欄には次のように書いてありました。
──〔法的な道がなくなった今〕国労が頼りにするのは、「政府の責任で早期解決を」とするILO勧告、「人道的に放置できない問題」などとする国会での政府答弁などだ。年明けにも政党に要請し、政治的解決を求める一方で、「JRに使用者責任がないならば、一体誰が責任をとるのか」として、国に損害賠償を請求することも検討している。(2003年12月22日、朝日)
その後、「政党に何かを要請」したのか、国を相手どって訴訟を起こしたのか、私は聞いていません。事実上、国鉄労組側の完全な敗北に終わったと言うべきでしょう。
私はこの報に接した時、「戦後は終わったな」と思いました。戦後の労働運動は炭労などの民間の戦いもありましたが、やはり中心は官公労だったと思います。実体はともかく、表面的に激しい運動をしたのは全逓であり、国労であり、日教組だったと思います。
その結果はどうなっているでしょうか。全逓はすっかりおとなしくなりました。組合の名前も変えたのではないでしょうか。日教組は1995年の文部省との和解という名の事実上の敗北で根本的には終わりました。国労も分割民営化をへて、ついに終わりました。転換の節目は皮肉にも1975年の「スト権スト」だったと思います。
私はこの国労の敗北を論ずるつもりはありません。これは戦後の対国家権力闘争での敗北の1つの例でしかないと思うからです。
私の見る所では、戦後の国家権力に対する闘争で負けたものの代表的な例が日教組であり、勝ったものの代表的な例が三里塚だと思います。
ですからこの2つを考察して我々の今後の方針を考えてみたいと思います。
今、日本の民主主義は、小泉首相の自衛隊を前面に出した対米従属・憲法改悪政策と石原東京都知事の「日の丸・君が代」問答無用路線に押しまくられて、大きな危機に直面していると思います。
この現実に対して、「鉄道業務に再び就きたい」とか、「教壇に立ちたい」といった心情だけに頼った「戦い」ではとうてい勝てないと思います。敢えて本メルマガ 163号で論じました加藤周一さんの表現を使って対比するならば、相手は「非合理な目的」を「合理的・系統的・組織的」に追求しているのに対して、民主主義の側の人達は「合理的な目的」のために「心情的・一揆的・個人的」な方法で戦っていると思います。
更にこんな譬えはどうでしょうか。日教組などは横断しようとしている歩行者に譬えることができます。歩行者が今、横断歩道を渡ろうとしています。前の信号を見たら青です。そこで渡ろうとするのですが、右を見たら、無法運転でこれまでに何人も殺している悪名高い街宣車が大音量でがなりたてながら猛スピードですぐそこまできています。
この時、前の信号が青だから自分たちには渡る権利があるのだ、自分たちの方が正しいのだ、と言って渡るのが、かつての日教組であり、国労であり、全逓であり、現在の不起立派だと思います。
私は民主派が正しくないと言っているのではありません。正しいかどうかではなく、戦術的に適当か、勝てるか否かを問題にしているのです。闘争というのは勝つことが目的なのです。一歩を譲って負けるとしても、後日の勝利に結びつく負け方をしなければならないと思います。「我々は戦ったんだ!」という自己満足的ヒロイズムは文学ではあっても、政治ではないと思います。
民主主義の側には今こそ「戦後政治の総決算」(これは中曾根内閣のスローガンだったかな)が必要だと思います。そして、相手以上に「合理的で系統的で組織的」な運動が必要だと思います。
日教組の運動はなぜ負けたのでしょうか。最大の理由は兵糧攻めに遭ってそれに抗しきれなかったからだと思います。相手のやり方や法律が「憲法違反だから、自分たちはその法律に違反しても『正しい』のだ」という「論理」で、違法な行動を取ったために「処分」をされ、その処分者への補償費用がかさんで経済的にやっていけなくなったからだと思います。
現に、最近の東京都の「日の丸・君が代」押しつけに対しても、卒・入学式の君が代斉唱で起立しないという抗議行動を取っているのは個々の教師であって、組合としては強く反対はしているそうですが、不起立闘争はしていません。その理由としては「処分者を出せば、補償も必要。処分覚悟の闘争は組織の弱体化、分裂を招くおそれがある」(2004年04月04日、朝日)と言っています。
そして、それに代わる方針は何も出せないのです。これが文部省に屈伏した日教組の姿です。今、個別的に抵抗している教師たちもいずれ少なくなっていくでしょう。校長を自殺に追い込んで国旗国歌法のキッカケを作った広島県の教師たちがその道をたどりました。
都立大学の廃止と新都立大学の設立に反対してきた教授たちも、その96%が新大学で働きたいとの意思表示をしたそうです。
つまり、労働者というのはサラリーマンの別名であって、収入源を雇用者に握られていますから、雇用者に逆らうことはしにくいということです。
ここから逆に、国家権力を謝らせた三里塚農民の勝利の理由も理解できます。三里塚農民はたしかに「違法」闘争をしましたが、収入の道は有機農業などを通じて支持者、つまり仲間の国民に求めました。ですから、警察権力を使った暴力的な攻撃を撃退さえすれば(もちろんこの事自体はとても大変な事でしたが)、原理的に、兵糧攻めはされないのです。
水俣の漁民の闘争も三里塚農民ほどではないにしてもかなり「勝利した」と言えると思います(相手は表面的にはチッソという一企業ですが、実質的には国家です)。水俣の漁民も、「チッソの毒に反対している自分たちが消費者に毒を売ることはできない」と言って、化学肥料と農薬まみれの農業や漁業を止め、農協も通さずに消費者と直接手を結ぶ路線に切り換えました。これが勝因だったと思います。
昨年、アメリカのイラク侵略への小泉内閣の協力姿勢に反対する運動でも、大きく動いた人々の中に歌手とか作家とかいった人々が多かったと思います。これも、彼らが客と直接結びついていて、特定の人に雇用されるサラリーマンではないという事情があると思います。
私は思想家としてのサルトルを評価する者ですが、サルトルの行動は彼が大学教授という名のサラリーマンではなくて、作家として読者に直接支えられていたという事情があると思っています。
マルクスは「万国の労働者、団結せよ」と呼びかけましたが、そして実際「万国の労働者が団結」すれば少しは何か出来るかもしれませんが、団結は可能なのでしょうか。たとえ可能だとしても不可能に近いほど難しい事だと思います。こういう事は当時30歳の青二才だったマルクスには理解も推測もできなかったようです。
日教組と三里塚とを対比する時もう一つ重要な事が浮かび上がってきます。それは闘争の中でどれだけの自己変革があったかという問題です。
戸村一作さんの「小説・三里塚」(亜紀書房)などを読みますと、三里塚農民は戦いの中で自己変革をして、家庭や村の中での封建的な人間関係を変えていったそうです。昔どこかで読んだ記憶があるのですが、米軍の射撃演習場に反対した東富士の農民たちもそうだったようです。そこではかつては女性は人間とは認められなくて、食事をする場所さえ差別されていたそうです。水俣の農漁民でも同じ事が起きました。
では、日教組の教師たちはその闘争の中でどれだけ自己変革を遂げたでしょうか。少しはあったのでしょうが(石川達三の『人間の壁』に描かれています)、私はあまり聞いていません。むしろ、先生と呼ばれることに安住して堕落する人が多いのではないでしょうか。この事は教師に優秀な人材を集めるとかいった名目で一般の公務員より教師の給与を高くしてからかえって一層ひどくなった、と私は思っています。
そして、その自己変革と結びついて大切な事として、自分の仕事をどう考え、お客さんへのサービスをどう考えるかという問題があると思います。これが第3の問題です。
三里塚農民や水俣の農漁民が消費者直結路線に変えて農業の内容自体も変えたことは先に触れました。では、日教組の教師たちの教育サービスはその闘争の中でどれだけ変わったでしょうか。
周知のように、日教組の運動には2本の柱があり、第2のそれは教育研究集会に集中される教育運動です。そして、これはかなりの、と言うか、政治闘争よりはるかに大きな国民的支持を獲得してきました。「日教組の政治闘争は反対だが、教育研究集会は支持する」という人は沢山います。しかし、この運動が日教組の中でどれだけ広がったか、疑問です。
雑誌『世界』4月号に埼玉県立高校の社会科教師・戸坂真さんが「『日の丸・君が代』を生徒と学ぶ」という文章を寄せています。戸坂さん自身もかつては校長などと「戦う」だけで、授業の中で「君が代・日の丸」を生徒と考えることはなかったそうです。その事を反省して、授業で生徒と共に考えることで新しい事が起きてきたそうです。
しかし、日の丸・君が代に反対している教師の中の何%の人が授業の中で日の丸・君が代の押しつけに反対する本当の授業をしているでしょうか。
全体としては、多くの国民が、教師の堕落、そこまでいかなくてもお粗末授業に批判的です。そして、これに対して日教組のトップは何らの有効な手も打ってこなかったと思います。
全逓の集配を遅らせる戦術や国労の「遵法闘争」もとてもお客さん(国民)の支持を得られるものではなかったと思います。率直に言いまして、国労の闘争に対する支持が盛り上がらなかった背景には、これがあると私は思っています。
このように整理すると、これからの我々の運動の3大方針が出てくると思います。第1は、国民に直接結びついた経済基盤を持つものであること、第2は、運動の過程で自分たちの自己変革を意識的に追求しなければならないこと、第3は、仕事の内容でお客さんに喜ばれるようでなければならないこと、です。
では、これらを踏まえて今後更に具体的にはどうしていくべきでしょうか。それは次回に考えたいと思います。
(2004年04月20日発行)