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マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

解放運動(01、日教組と三里塚)

2008年05月31日 | カ行
     解放運動(01、日教組と三里塚)

 昨年(2003年)の12月22日、1987年04月の国鉄分割・民営化の際、JR各社が国労の組合員たちを採用しなかったことをめぐる4件の訴訟の上告審について、最高裁第一小法廷で判決の言い渡しがありました。

 判決は、この不採用を不当労働行為とした中央労働委員会の救済命令を取り消した下級審の判決を支持し、中労委の上告を棄却しました。

 新聞は「これで再雇用を求めて16年余に及んだ採用『差別』闘争は、国労などの敗訴が〔最終的に〕確定した」と報じていました。

 そして、解説欄には次のように書いてありました。

──〔法的な道がなくなった今〕国労が頼りにするのは、「政府の責任で早期解決を」とするILO勧告、「人道的に放置できない問題」などとする国会での政府答弁などだ。年明けにも政党に要請し、政治的解決を求める一方で、「JRに使用者責任がないならば、一体誰が責任をとるのか」として、国に損害賠償を請求することも検討している。(2003年12月22日、朝日)

 その後、「政党に何かを要請」したのか、国を相手どって訴訟を起こしたのか、私は聞いていません。事実上、国鉄労組側の完全な敗北に終わったと言うべきでしょう。

 私はこの報に接した時、「戦後は終わったな」と思いました。戦後の労働運動は炭労などの民間の戦いもありましたが、やはり中心は官公労だったと思います。実体はともかく、表面的に激しい運動をしたのは全逓であり、国労であり、日教組だったと思います。

 その結果はどうなっているでしょうか。全逓はすっかりおとなしくなりました。組合の名前も変えたのではないでしょうか。日教組は1995年の文部省との和解という名の事実上の敗北で根本的には終わりました。国労も分割民営化をへて、ついに終わりました。転換の節目は皮肉にも1975年の「スト権スト」だったと思います。

 私はこの国労の敗北を論ずるつもりはありません。これは戦後の対国家権力闘争での敗北の1つの例でしかないと思うからです。

 私の見る所では、戦後の国家権力に対する闘争で負けたものの代表的な例が日教組であり、勝ったものの代表的な例が三里塚だと思います。

 ですからこの2つを考察して我々の今後の方針を考えてみたいと思います。

 今、日本の民主主義は、小泉首相の自衛隊を前面に出した対米従属・憲法改悪政策と石原東京都知事の「日の丸・君が代」問答無用路線に押しまくられて、大きな危機に直面していると思います。

 この現実に対して、「鉄道業務に再び就きたい」とか、「教壇に立ちたい」といった心情だけに頼った「戦い」ではとうてい勝てないと思います。敢えて本メルマガ 163号で論じました加藤周一さんの表現を使って対比するならば、相手は「非合理な目的」を「合理的・系統的・組織的」に追求しているのに対して、民主主義の側の人達は「合理的な目的」のために「心情的・一揆的・個人的」な方法で戦っていると思います。

 更にこんな譬えはどうでしょうか。日教組などは横断しようとしている歩行者に譬えることができます。歩行者が今、横断歩道を渡ろうとしています。前の信号を見たら青です。そこで渡ろうとするのですが、右を見たら、無法運転でこれまでに何人も殺している悪名高い街宣車が大音量でがなりたてながら猛スピードですぐそこまできています。

 この時、前の信号が青だから自分たちには渡る権利があるのだ、自分たちの方が正しいのだ、と言って渡るのが、かつての日教組であり、国労であり、全逓であり、現在の不起立派だと思います。

 私は民主派が正しくないと言っているのではありません。正しいかどうかではなく、戦術的に適当か、勝てるか否かを問題にしているのです。闘争というのは勝つことが目的なのです。一歩を譲って負けるとしても、後日の勝利に結びつく負け方をしなければならないと思います。「我々は戦ったんだ!」という自己満足的ヒロイズムは文学ではあっても、政治ではないと思います。

 民主主義の側には今こそ「戦後政治の総決算」(これは中曾根内閣のスローガンだったかな)が必要だと思います。そして、相手以上に「合理的で系統的で組織的」な運動が必要だと思います。

 日教組の運動はなぜ負けたのでしょうか。最大の理由は兵糧攻めに遭ってそれに抗しきれなかったからだと思います。相手のやり方や法律が「憲法違反だから、自分たちはその法律に違反しても『正しい』のだ」という「論理」で、違法な行動を取ったために「処分」をされ、その処分者への補償費用がかさんで経済的にやっていけなくなったからだと思います。

 現に、最近の東京都の「日の丸・君が代」押しつけに対しても、卒・入学式の君が代斉唱で起立しないという抗議行動を取っているのは個々の教師であって、組合としては強く反対はしているそうですが、不起立闘争はしていません。その理由としては「処分者を出せば、補償も必要。処分覚悟の闘争は組織の弱体化、分裂を招くおそれがある」(2004年04月04日、朝日)と言っています。

 そして、それに代わる方針は何も出せないのです。これが文部省に屈伏した日教組の姿です。今、個別的に抵抗している教師たちもいずれ少なくなっていくでしょう。校長を自殺に追い込んで国旗国歌法のキッカケを作った広島県の教師たちがその道をたどりました。

 都立大学の廃止と新都立大学の設立に反対してきた教授たちも、その96%が新大学で働きたいとの意思表示をしたそうです。

 つまり、労働者というのはサラリーマンの別名であって、収入源を雇用者に握られていますから、雇用者に逆らうことはしにくいということです。

 ここから逆に、国家権力を謝らせた三里塚農民の勝利の理由も理解できます。三里塚農民はたしかに「違法」闘争をしましたが、収入の道は有機農業などを通じて支持者、つまり仲間の国民に求めました。ですから、警察権力を使った暴力的な攻撃を撃退さえすれば(もちろんこの事自体はとても大変な事でしたが)、原理的に、兵糧攻めはされないのです。

 水俣の漁民の闘争も三里塚農民ほどではないにしてもかなり「勝利した」と言えると思います(相手は表面的にはチッソという一企業ですが、実質的には国家です)。水俣の漁民も、「チッソの毒に反対している自分たちが消費者に毒を売ることはできない」と言って、化学肥料と農薬まみれの農業や漁業を止め、農協も通さずに消費者と直接手を結ぶ路線に切り換えました。これが勝因だったと思います。

 昨年、アメリカのイラク侵略への小泉内閣の協力姿勢に反対する運動でも、大きく動いた人々の中に歌手とか作家とかいった人々が多かったと思います。これも、彼らが客と直接結びついていて、特定の人に雇用されるサラリーマンではないという事情があると思います。

 私は思想家としてのサルトルを評価する者ですが、サルトルの行動は彼が大学教授という名のサラリーマンではなくて、作家として読者に直接支えられていたという事情があると思っています。

 マルクスは「万国の労働者、団結せよ」と呼びかけましたが、そして実際「万国の労働者が団結」すれば少しは何か出来るかもしれませんが、団結は可能なのでしょうか。たとえ可能だとしても不可能に近いほど難しい事だと思います。こういう事は当時30歳の青二才だったマルクスには理解も推測もできなかったようです。

 日教組と三里塚とを対比する時もう一つ重要な事が浮かび上がってきます。それは闘争の中でどれだけの自己変革があったかという問題です。

 戸村一作さんの「小説・三里塚」(亜紀書房)などを読みますと、三里塚農民は戦いの中で自己変革をして、家庭や村の中での封建的な人間関係を変えていったそうです。昔どこかで読んだ記憶があるのですが、米軍の射撃演習場に反対した東富士の農民たちもそうだったようです。そこではかつては女性は人間とは認められなくて、食事をする場所さえ差別されていたそうです。水俣の農漁民でも同じ事が起きました。

 では、日教組の教師たちはその闘争の中でどれだけ自己変革を遂げたでしょうか。少しはあったのでしょうが(石川達三の『人間の壁』に描かれています)、私はあまり聞いていません。むしろ、先生と呼ばれることに安住して堕落する人が多いのではないでしょうか。この事は教師に優秀な人材を集めるとかいった名目で一般の公務員より教師の給与を高くしてからかえって一層ひどくなった、と私は思っています。

 そして、その自己変革と結びついて大切な事として、自分の仕事をどう考え、お客さんへのサービスをどう考えるかという問題があると思います。これが第3の問題です。

 三里塚農民や水俣の農漁民が消費者直結路線に変えて農業の内容自体も変えたことは先に触れました。では、日教組の教師たちの教育サービスはその闘争の中でどれだけ変わったでしょうか。

 周知のように、日教組の運動には2本の柱があり、第2のそれは教育研究集会に集中される教育運動です。そして、これはかなりの、と言うか、政治闘争よりはるかに大きな国民的支持を獲得してきました。「日教組の政治闘争は反対だが、教育研究集会は支持する」という人は沢山います。しかし、この運動が日教組の中でどれだけ広がったか、疑問です。

 雑誌『世界』4月号に埼玉県立高校の社会科教師・戸坂真さんが「『日の丸・君が代』を生徒と学ぶ」という文章を寄せています。戸坂さん自身もかつては校長などと「戦う」だけで、授業の中で「君が代・日の丸」を生徒と考えることはなかったそうです。その事を反省して、授業で生徒と共に考えることで新しい事が起きてきたそうです。

 しかし、日の丸・君が代に反対している教師の中の何%の人が授業の中で日の丸・君が代の押しつけに反対する本当の授業をしているでしょうか。

 全体としては、多くの国民が、教師の堕落、そこまでいかなくてもお粗末授業に批判的です。そして、これに対して日教組のトップは何らの有効な手も打ってこなかったと思います。

 全逓の集配を遅らせる戦術や国労の「遵法闘争」もとてもお客さん(国民)の支持を得られるものではなかったと思います。率直に言いまして、国労の闘争に対する支持が盛り上がらなかった背景には、これがあると私は思っています。

 このように整理すると、これからの我々の運動の3大方針が出てくると思います。第1は、国民に直接結びついた経済基盤を持つものであること、第2は、運動の過程で自分たちの自己変革を意識的に追求しなければならないこと、第3は、仕事の内容でお客さんに喜ばれるようでなければならないこと、です。

 では、これらを踏まえて今後更に具体的にはどうしていくべきでしょうか。それは次回に考えたいと思います。

   (2004年04月20日発行)

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「雪解け道」(青木陽子著)

2008年05月28日 | ヤ行
     「雪解け道」(青木陽子著)

 この小説は2007年03月19日~10月10日に共産党の機関紙「しんぶん赤旗」に連載されたもののようです。それが今年(2008年)01月に新日本出版社から単行本として出版されたようです。私が読んだのも後者です。

 内容は、主人公である生駒道子(筆者と重なる人物なのでしょう)が東北地方のK市のK大学に入学してから卒業するまでの4年間、つまり1967年04月から1971年03月までの4年間の学生生活を克明に描いたものですが、その学生生活が、時代背景もありますが、主人公の態度から当時の学生運動と深く係わることになりました。それが克明に描かれているのです。なかなかの力作だと思いました。

形としては2007年に或るきっかけで40年前を思い出して回想したということになっていますし、最後は又2007年の現実に少し戻っていますが、これは形にすぎません。

一言で評するならば「理論は低いが事実はよく調べるという共産党の特徴の好く出た小説」だと思います。まず、その理論の低さから指摘しますが、私は元々共産党に理論を期待していませんから、非難しているのではありません。事実として確認しておくだけです。

 1969年01月に東大安田講堂の籠城とそれを解除する機動隊との戦いとやらがありました。この直後の政治学の授業でのやりとりが描かれています。

──その日、教官は安田講堂の事件から話をはじめた。「革命を豪語していた人間が、放水ごときで逮捕されていく。何という言葉と行動の落差かと思いましたねえ。まじめに革命を考えていたというのを信じたとしてもね。現実の歴史の流れと噛み合うことの難しさでしょうか」/ Sが手を上げた。「東大闘争は学生運動の新たな地平を切り開きました。あの闘争は勝利です」/ 「勝利ですか」教官は唸った。/ ナンセンス!/ 揶揄するような低い叫びと、失笑が机の間を這い回った。/

 「あの結末を勝利とするのは、一般的にはなかなか難しいことですね」/ 当然だ、馬鹿じゃないかといった呟きが聞こえた。/ 「あなたの言う新たな地平ですが、僕の言葉に直すと、新しい段階ということでいいのだろうと思いますが、それはどのような段階なのですか」/ 「新たな質を持った階級闘争が展開され始めたということです」/ 「その質とは何ですか」/ 「まず、国家権力の本質が、残忍な暴力であることを暴露しました。これは教訓化されるでしょう。個別改良闘争主義者の闘争の破産が明らかになりました。これが二番目です」/

 ざわめきが起こった。個別改良闘争主義者って何だ、破産って何のことだ、と言う声がまたも机の間を行き交っている。Sはそれを無視して続けた。/ 「東大闘争支援の街頭闘争が神田・御茶ノ水一帯で展開され、労働者大衆・市民との結合が実現しました。これが三番目です」/ 何か言わねばと青山〔生駒道子の男友達でこの話を伝えた人〕が思ったその時、隣に座っていた学生が手を挙げて立ちあがると同時に声を出した。/

 「何が勝利だ。お前たちの自己満足のために、どれだけの人間を翻弄したら気が済むんだ」/ 教官が穏やかに制した。/ 「勝利という言葉一つとっても、定義ができないくらいの考え方の差がある今は、ここまでとしましょう。何十年もしてから、一度話し合ってみたいものです。もっとも、僕は生きていないかもしれないが」/ 教室中が笑い声に沸いてその話は終わりになった。(引用終わり)

 作家やこれを伝えた人は、全共闘系の主張が学生大衆に受け入れられなかったことで満足しているのかもしれませんが、ここはもう少し考える必要があると思います。

 そもそも60年代後半の学園紛争はこういうお粗末授業を改革してほしいという願いが1つの出発点ではなかったのか、ということです。

 この願いは根本的には歴史的な背景があるようです。つまり、後で分かったことですが、当時、大学進学率が20%を越えて、大学が大衆化したのです(竹内洋「学歴貴族の栄光と挫折」中央公論新社)。それなのに、大学のあり方が全然改革されなかったのです。学生の不満にはこういう客観的な背景があったと思います。

 これは当事者にどれだけ意識されていたかとは別です。歴史は直接的には当事者の意識で動きますが、その意識は当事者には意識されない歴史的背景に規定されています。この場合はその典型的な例だと思います。

 そのように根深い背景があったのですが、表面的にはこういう授業を改革してほしいと主張していたはずです。それなのに、この授業のどこがどう間違っているか、どう改革したら好いのか、指摘されないのです。これは理論の低さです。

 これはついでと言ってもいいのですが、第2に、ここで発言している全共闘系の学生S君の言葉や他の箇所に出てくる「安田講堂の攻防戦は全人民に衝撃を与えた」といった言葉は、小林多喜二の「蟹工船」の信仰告白とそっくりです。

 「蟹工船」の終わり近くには「いくら漁夫達でも、今度という今度は、「誰が敵」であるか、そしてそれ等が(全く意外にも!)どういう風に、お互いが繋がり合っているか、ということが身をもって知らされた」とあり、そして、その「付記」の4番目には「「組織」「闘争」-この初めて知った偉大な経験をになって、漁夫、年若い雑夫等が警察の門から色々な労働の層へ、それぞれ入り込んで行ったということ」とあります。

 両方共、事実の調査に基づいた研究ではなく、信仰告白でしかありません。そして、今からみれば明らかなように、内容的にも間違っていました。

 ここから分かりますように、新左翼というのは共産党の昔の姿を受け継いだものなのです。というより、左翼運動に関わり始めた人はたいてい誰でもこういう青二才左翼になるのです。それなのに作家はこれに気づいていないようです。ネットで作家が最近の「蟹工船」の人気について発言しているのを読みましたが、肯定的な発言だけでした。

 では今の共産党はと言うと、それは官僚化左翼と評することができるでしょう。

 第3に、民青に入ることを勧められた時、主人公は「赤旗も民青新聞も書いてある内容は正しいと思います」と述べています。

 そして、その後民青に入るようですが、この考え方は考え方として学問的に間違いだと思います。書いてある事が正しいかどうかは本当の問題ではないのです。もしそうなら、役所の発行する広報誌はみな「書いてある事は正しい」ですから(間違った事を書いてはいけないことになっているはずです)、問題ないということになります。

 学問というのは、部分的事実ではなく全体的真実を追求するものです。書いてある事が正しいとしても、書くべき重要な事が書いてなかったら、それは「全体としては虚偽」です。

 こういう考え方を教えるのが「学問の府」たる大学の第1の任務なのですが、それを実行しいる所はほとんどなくなったようです。東大ですら今では「専門学校の複合体」でしかないと私は考えています。

 ですから、作家やまして学生の責任ではないのですが、ともかく間違っていると思います。

 学問と言えば、主人公もマルクス主義の古典は読んだような事が書いてありますが、自分の勉強の様子も仲間で読書会をした様子も出てきません。徳永直の「静かなる山々」との大きな違いでしょう。

 後者はあまり知られていないようですが、私は敗戦直後の日本社会、特に農村とその地方に移転していた大工場の人々の様子を描いた貴重な記録だと思っています。それが共産党の立場に立って、共産党を中心とする人々がいかに戦ったか、周囲の人々とどういう事があったか、自分たちの間でどういう議論が交わされたかを克明に描いてくれた大作だと思います。

 未完であり、第3部も、ひょっとすると第4部も予定していたのに、徳永の早すぎる死で未完のままで終わってしまったのは返す返す残念です。

 第4に、ベトナム戦争反対運動との関係で次の記述があります。

 「ベトナムや沖縄に起こっている事柄について、おずおずと話し合っていたクラスの議論は、いつか、そうした政治課題に対して闘うのは学生として当たり前で、今の問題はいかに闘うのかだと、闘争の戦術論議に移っていた」。

 私が聞いた限りでも、学生運動のあり方についてこういう「感想」なり「感じ」を持つ人は少なくないようです。しかし、この「感じ」を「感じ」に止めないで、本質論と戦術論、本質論主義と戦術論主義といった問題として意識化し、考え進め、本質論主義の大衆運動を理論化して実践し、更に発展させた人はいないようです。共産党と言わず、どこの運動団体でも同じだと思います。

 第5に、この作家は愛知県で共産党系の活動を現在も続けているようですが、小説の中で、1969年には、「安保条約の固定期限終了を半年後に控えたこの選挙で、共産党は解散前の4議席を14議席に増やして躍進した」と書いているのに、終章で、つまり2007年の時点では、「あの時の若者たちの社会への目配りの仕方が変わってしまった訳ではない。それぞれに誠実に生きているのだと思うけれど、ではこの国は納得のいく発展を遂げてきたか」と書いています。

 ここから分かる事は、第1に、「納得のいく発展を遂げてきていない」原因の1つとしてこの間の共産党の消長に触れていないということです。その理由についてもこれからの展望も自分では何も出せないのでしょう。

 第2に、「若者たちの社会への目配りの仕方が変わってしまった訳ではない」と断定していますが、どれだけ調査したのでしょうか。最近、小林多喜二の「蟹工船」が読まれていることでも念頭においているのでしょうか。こういう安易な信仰告白は役立たないと思います。

 これは「理論的低さ」ではありませんが、小さな事実誤認を指摘しておきましょう。

 小説の中で「全学連指導部は60年安保の時過激な方針をとった。やがて全学連は主流派と反主流派に分裂した」と書いていますが、これは不正確すぎます。

 主流派と反主流派を構成する流派の変化も含めて大変化の起きたのは1959年11月27日のいわゆる国会突入事件がきっかけです。詳しいことは「歴史のために」の中に書いておきました。

 さて、この小説はこのように理論水準は極めて低いのですが、それにも拘らずと言うか、ひょっとすると、だからこそ、下らない理論に邪魔されることなく、当時の特に学生運動に係わった学生たちの生活とそこで交わされたであろう会話を最高の正確さで記録しています。もちろん作家の人柄の誠実さもあるのでしょう、とにかく貴重な記録だと思います。

 新左翼系の人々はこれでも「これは民青系の本だ」と言って見向きもしないかもしれませんが、旧左翼からも新左翼からも敵視されている私の見るところ、極めて公正な叙述だと思います。その意味でこの小説は、歴史に残るのではないかと思います。ともかく私は高く評価しますし、このような記録を残してくれた事に対して作家に心から深く感謝します。

 公正な記録と言えば、当時、東大の美学科に在学していたAさんが全共闘のお粗末理論(と行動)と闘った思い出話を2年くらい前に JanJan (インターネット新聞)に書いていました。これは小説ではなく、広義の自伝(の1部)でしょうが、東大の研究室の内部でのやりとりですから、貴重だと思います。紙媒体になっていないのが残念です。

 最近、私はつくづく、小説の意義ということを考えます。文学としての意義にはあまり関心はありませんが、歴史にとっての意義です。

 例えば、1928年の共同印刷の大争議が歴史に残ったのは徳永直が「太陽のない街」を書いたからではないでしょうか。同じ年、浜松日本楽器でも歴史的な大争議がありましたが、これは誰も小説に書かなかったので、今では知っている人の方が少ないでしょう。私の知っている限りでは、長谷川保の自伝的小説「夜もひるのように輝く」(講談社)の中に少し出てくるくらいです。

 60年安保も小説にはならなかったようです。

 そう考えれば、60年代末の大学紛争について、全共闘系では(小説は出ていないと思いますが)いくつかの文章が出ていますが、民青系(といってもそれほど党派的ではないと思います)からこのような長編小説が出たことはとても好い事だと思います。

 内容も形式も、柴田翔の「されど、我らが日々」など問題にしない作品だと思います(柴田の小説も1955年頃の学生党員の事を書いた小説がほかにない以上、無いよりは好いと評価はできますが)。

 石川達三の「人間の壁」は大作家の力作ですから、さすがに内容豊かで、1956年当時(敗戦から約10年後)の日本の様子と(日教組の)組合運動の中で交わされた会話(様々な考え方)を克明に記録してくれました。しかし、これは1956年03月から翌年の春までの1年間が対象です。「雪解け道」は最初の1年が詳しく、後は短くまとまったものを載せていますが、それでもやはり4年間全部をカバーしています。

 「人間の壁」に出てくる会話は内容的に整っていますが、「雪解け道」の学生運動家の会話は観念を弄んだと言うか、消化していない言葉を並べただけのようなものが多いです。しかし、これは現実に彼らの言葉がそうだったのですから、むしろ「こんな意味不明で覚えにくい言葉を好く覚えていたな」と感心するくらいです。覚えるには内容を理解していなければならないと思うからです。そういう意味でも運動の渦中にいたからというだけでなく、作家の能力が素晴らしいのだと思います。

 「学生時代のアカなんて、ハシカみたいなものだ」とは好く言われたものですが、1960年代末におけるそのハシカの様々な症状を詳しく描いた作品としてこれ以上のものはないのではないでしょうか。

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60年安保

2008年05月23日 | ラ行
     60年安保

   歴史のために(牧野 紀之)

 間もなく又6月15日が来ます。我々60年安保世代にとってはこの日は忘れられない日です。言うまでもなく、国会デモの中で樺美智子さんが殺された日です。この日だけでなく、私などにとっては1年のカレンダーが1959年から1960年の1年間の出来事の記念日と結びついています。それは11月27日であり、12月10日であり、06月15日であり、06月18日であり、10月12日です。

 団塊世代とか全共闘世代の方がもてはやされることは多いですが、60年安保世代もしっかりした役割を果たしてきたと思います。最近、インターネット新聞 JanJan でもブント〔共産主義者同盟〕を中心とした新左翼の人々のことを連載し始めたようです。しかし、当時は新左翼と戦いながら旧左翼、特に共産党系の人々も活躍していました。私もこれに属する1人でした。目にした少しの記録が歴史的事実を必ずしも正確に伝えていないのではないかと思いますので、私も一度発言しておこうという気持ちになりました。

 もう随分前になりますが、西部邁氏が「六〇年安保」(文芸春秋)という本を出しました。これによりますと、彼は1年間の浪人の後、1958年の4月に東大に入ったようです。そして、大した信念も知識もなく共産党にオルグされて入ったようです。

 その年は日教組の勤務評定反対運動〔略称、勤評闘争〕が盛り上がった年でした。西部氏はこう書いています。

 「6月の末だったか7月の初めだったか、日教組の勤評闘争が激しくなり、私は和歌山市に出かけた。北海道しか知らなかった私には、関西の夏は気が狂いそうになるくらいの暑さであった。幸いにも私の無能ぶりはすぐ認められ、市内にいても役に立たないので、すずしい山村へ遣られた。解放同盟が日教組と連帯して児童の登校拒否運動をしており、山小屋ふうのところで子供たちの自習の相手をするのが私の仕事であった。

 北海道にはそうした被差別が存在しないので、戸惑うことも多かったが、そのぶん強い印象が残っている。被差別出身の口数の少ない女教師が、田舎道を歩きながら、被差別出身のもののつらい人生についてぽつりぽつりと話しているその横顔の美しさなど、忘れがたいことがたくさんある。」

 これなども、勤評闘争は我々が入学した4月からすでに大問題になっており、我々は自治会執行部のストライキ提案をどう受け止めるかで大変だったのです。この辺の事は「本質論と戦術論」(拙著『ヘーゲルからレーニンへ』鶏鳴出版に所収)に書きました。

 その年の秋、警察官職務執行法(警職法)の改正案が国会に上程され、大問題になりました。しかし、西部氏はこれについては全然書いていません。

  1958年10月08日、警職法改正案国会提出
     11月22日、審議未了決定

 そして、翌1959年の秋です。氏はこう書いています。

 「そして11月末、自治会委員長選挙がやってきた。それまでの半年間、ブントの同盟員および同調者が少しずつ集まりはじめ、田中学〔東大教養学部自治会〕委員長はブントと共産党のあいだでよく均衡をとっていた。両派のむきだしの対立が田中委員長によって先に延ばされていたのである。しかしブントの劣勢は明瞭で、第1候補の加藤尚武、そして第2候補の河宮信郎がクラスの自治委員選挙で落選した。つまり委員長に立候補する資格を失ったわけである。そのほか、僅かしかいないブント派が次々と共産党にたたき落とされていった。私のクラスには共産党員がおらず、クラスの自治委員になることができた。それで私が立候補することになったわけである。

 まったく勝ち目がなく、勝とうとすれば、共産党ゆずりの「ボルシェヴイキ選挙」に頼るほかなかった。つまり、民主主義の原則をふみにじって、まやかし選挙をやるわけである。投票用紙の原紙が盗み出され、用紙の増刷をし、私をふくめ何人かが駒場の裏手にあった旅館に待ち構えていた。ブントの集票員が人目を避けて旅館に走り込み、そこで票の入れ替えが行われる。実数は、おそらく、共産党候補6割、第4インター候補3割、そして私の票が1割である。1割が少なすぎるとしても、せいぜい2割である。予想をはるかに下回る得票で、さすが一抹の悲哀がこみ上げてきた。」

 ここに出てくる加藤尚武氏は、ヘーゲル研究を武器に東北大学から千葉大学へ、更に京都大学教授にまで上り詰め、最後は鳥取環境創造大学とかいう大学の学長になった人です。思想を変えるのは自由ですが、思想家なら、それに思想的決着をつけるべきではないでしょうか。

 それはともかくここでは「ボルシェヴイキ選挙(ボル選)」という言葉を覚えておくことが大切でしょう。こういう事を平気でするのが左翼なのです。

 1959年の秋と言えば、忘れることのできない11月27日の国会突入事件のあった時です。しかし、西部氏は詳しく述べていません。ただ、「ブント中央はいったいどういう考慮があってのことか、私が贋の委員長になったとたんに、逮捕状の出ていた清水丈夫を駒場寮に籠城させ、共産党に恰好の攻撃材料を与える」とだけ書いています。しかし、これでは読者には何の事かさっぱり分からないでしょう。

 1958年11月の警職法反対闘争の勝利で少し落ちついた後、1959年の春からは安保改定反対運動が始まっていました。学生運動も同じです。

1959年03月28日、安保改定阻止国民会議結成
    05月15日、全学連安保阻止大会

 しかし、大して盛り上がらず、沈滞気味でした。そこに11月27日が起きたのです。

 立花隆氏は「中核 VS 革マル」(講談社文庫)の中でこう書いています。

 「11・27の国会突入闘争は、当時いわれていたように、偶発的に起きたものではなく、ブントの指導の下に、目的意識的に起こされたものだった。それにもかかわらず、闘争を現場で指導した加藤昇全学連副委員長、糠谷秀剛(ぬかや・ひでたけ)全学連副委員長、永見暁嗣都学連書記長らは、なんの警戒心も抱かずに自宅に帰り、その夜のうちに逮捕された。自宅に帰らず逮捕をまぬがれた清水丈夫全学連書記長と、葉山岳夫(たけお)ブント東大細胞キャップとは、逃げ場を失ってそれぞれ東大駒場と本郷に逃げ込んで、世に言う「籠城事件」を起こす。」

 この辺の記録ないし考察で重要な事だと思うのは、この11・27国会突入事件を契機にして、それをどう評価するかで学生運動の中の4つの派(だったと思う)の提携関係が変わったということです。

 私の記憶では当時の東大駒場(全国の縮図)には4つの派があったと思います。民青(共産党系)とブントと第4インター系(表向きの名前は覚えていません)と、もう1つあったと思うのですが、名前は覚えていません。

 そして、11・27まではレーニンの「外部注入説」を機械的に主張するブント系のやり方に反対する大多数の学生の意向を反映して、ブントに対して他の3つの派がまとまって反対していたのだと思います。従って、ブントは主導権を握れなかったのです。

 それが11・27の評価をめぐって、否定する共産党系と肯定するそれ以外の3派という対立に分かれたのです。そして、後者の中心にブントが座ったのです。

 この対立は結局60年安保闘争の間ずっと続き、その後も解消することはなかったと思います。

 思うに、この辺の事は立花隆氏が好く知っているはずです。氏はどれかの派(多分、第4インター系)とつながっていたはずですから。それなのに氏がこの辺の事を書かないのは、何か後ろめたいことでもあるのでしょうか。とにかく歴史に対して無責任だと思います。

 西部氏は1958年秋ころの委員長の名前として小島昌光を出していますが、私には懐かしい名前です。個人的にもサークルで一緒だったことがあるからです。たしか日比谷高校を出た人でアコーディオンのうまい人でした。外部から注入しなければならないと主張するブント系の人々に堂々と反論していた姿を思い出します。

さて、11月27日は安保改定阻止国民会議の第8次統一行動でした。私も参加していましたが、途中から用事で帰りました。その後、国会突入事件が起きたのです。

 これが計画的だったかは大した問題ではないと思います。計画的にしては、ほんの少し柵を動かして中に入った後、何も予定がありませんでした。

 まあ、それは大した問題ではないと思います。私の記憶が立花氏の記述と違うのは、駒場と本郷に1人ずつ籠城したという点です。私の記憶では2人とも駒場寮に隠れたのだと思います。

 それから12・10の次の統一行動で逮捕されるまで、駒場キャンパスの中は騒然として、様々な議論が起きました。警察は「大学の中も治外法権ではない」と主張して、踏み込むぞと脅しました。恐れをなした教員たちは、警官が踏み込めば大学の自治が否定されるから自主的に出てゆくべきだと主張しました。結局、上のような妥協が成立したようです。初冬のキャンパスで遅くまで議論していたことが強く印象に残っています。

 そして、いよいよ1960年となりました。1月から岸首相の訪米に反対する羽田空港での闘争とかありましたが、何といっても5月19日の強行採決が国民の不安な気持ちに火をつけました。もちろん国会審議では社会党の人々も問題点を炙りだして政府を窮地に追い込み、国民に問題点を知らせました。その背景があって初めて強行採決後の盛り上がりが理解できるのだと思います。

 国会審議は停止し、連日国会周辺では多くの人達がデモ行進をしました。しかし、特に6月4日の労働者のストライキの後、徐々に沈滞気味となりました。そこに6・15事件が起きたのです。沈滞気味となっていた運動に活を入れようという意図があったのではないかと想像しています。学生が死んだということは大きな怒りを呼び起こしました。東大文学部国史科の4年生でした。

 茅学長も抗議の声明を発表し、授業は出来なくなりました。それでも6月19日午前0時には遂に「自然成立」ということになったのです。その夜、我々30万と言われるデモ隊は国会の回りで1夜を過ごしました。

 以上が縦糸とするならば、学内でのブント系と共産党系との戦いが横糸です。私は1960年4月には本郷に進学していました。そして、共産党系として活動していました。そこで、少し書いておきたいことがあります。

 東大本郷では当時、教育学部自治会だけが学部として共産党系でした。その他はみなブント系でした。

 大学としては東京教育大学(当時はまだ大塚の茗荷谷にありました)が拠点でした。ほとんど毎晩、教育大学の教室で共産党系の活動家の集まりがありました。その中心人物は、私の記憶では、黒羽清隆氏だったと思います。

 しかし、既に故人となっている(1987年没)氏の「昭和史」下巻の著者紹介を見ますと、次のように書いてあります。

  1952~56、教育大学史学科在学。
  1956~61、新宿区立東外山中学教諭

 1960年当時、既に教師をしていたことになるのです。腑に落ちません。しかし、私にはこの名前が強く焼きついているのも事実です。教師になってからも学生の組織の指導をしていたということも考えられます。

 実際、共産党の支援は強力で、文書などは「赤旗」を印刷している印刷所でやっていたようです。活字が同じでしたから。

 もう1つ書いておきたい事があります。これは西部氏と関係することです。氏はこう書いています。

 「ところで、この場をかりて当時の東大生に感謝しておきたいことがある。安保闘争の最中、60年5月末、委員長改選の時期がまたやってきた。やはり、ブントは6対4の見当で、劣勢であった。共産党の厳重な監視のなか、私はまたしてもボル選の準備にとりかかったのである。いま思い出してもうんざりするくらいにトリッキーな方法であり、実行にたずさわった人間にはすまぬことをしたという気持ちが今でも拭えないのだが、ともかく準備は完了した。

 しかし共産党が『西部が何かをする、選挙は延期すべし』というビラを出し、その方針が全学的な支持をうけたのである。つまり、東大生は私が『何かをした』委員長であり、また『何かをする』委員長だということを知っていたわけである。奇妙なことに、私は自分の正体が全学的なかたちで見抜かれていたと知って、羞恥よりも安堵を感じた。そして、我田に水を引いて言えば、そんな贋の委員長の出す過激方針に賛同してくれた東大生が4割もいたとことに感謝したくなるのである。

 こんな私の顛末は、それ自体としては、語るに値しない事柄である。歴史の動きには何の関係もない話である。ボル選が私の前にも後にも多々あったことは左翼の常識である。左翼の内情を暴露したいのでもない。ブントなるものの実態を理解してもらう手掛かりになればとの心づもりで、四半世紀前の記憶をほじくってみただけのことである。ブントの実態というよりも、その精神の型である。駒場は、おそらく、党派抗争の最も激しかったところである。暴力は時折のなぐりあいにとどまっていたが、それだけに言葉の抗争において神経を用いなければならなかった。勝つためには、民主主義を持ち上げるふりをしながら、それを足蹴にしなければならなかったのである。」

 これは少し記憶違いではないだろうかということを書いておきたいと思います。

 まず第1に、西部氏は1960年4月には私と同様、本郷に進学していたはずです。駒場の委員長にはなれないはずです。

 しかし第2に、西部氏が何かの選挙に出たのは事実だと思いますが、それはどこかの自治会の学生大会の議長選挙に出たのだと思います。なぜそう推測するかと言いますと、対立する共産党系の候補者が私だったからです。

 しかし、ここではっきりしないのはどの自治会の議長なのかという点です。本郷では学部ごとに自治会が出来ていたはずです。法学部は緑会という名だったと思います。そして、西部氏は経済学部に進学したはずで、私は文学部でした。それなのにどうして同じ議長選挙で争ったのかということです。

 とにかく私が議長選挙に出たことはたしかであり、対立候補が西部氏だったこともほとんど疑いがありません。1度同席した時、「公正な選挙にすることを2人で共同で呼びかけよう」と提案して断られた記憶があります。その選挙で私はそれこそ4対6くらいで負けたのですが、その後「おかしい」という声がたくさん出て、「牧野に投票した人の署名集め」をしたからです。これは結局6・15事件のためにそのまま終わりになりました。

 当時、こういったボル選をした人々の中には、その後法哲学者として1人前になった長尾龍一氏などもいたはずです。すると、法文経の3つの自治会の合同の大会の議長だったのかもしれません。

 とにかく人間の記憶はあてにならないものです。私の記憶も完全とは言えませんが、西部氏は自信たっぷりに言いすぎていると思います。これが本人の書いたこととして「歴史的事実」とされては困りますので、私の記憶と調査で書きました。

 上に引用した本のほかには東大職員組合編「6・15事件前後」(東大出版会)(1960年9月)の「資料・安保改定阻止行動日誌」を使いました。(2007年06月01日)

PS・10月12日というのは書きませんでしたが、浅沼稲次郎氏が1960年に暗殺された日です。

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「蟹工船」(小林多喜二著)

2008年05月20日 | カ行
     「蟹工船」(小林多喜二著)

   「蟹工船」の読み方(牧野 紀之)

 小林多喜二の小説「蟹工船」が読まれているそうです。2008年02月14日の朝日新聞に次の記事が載りました。

        

 今年は作家小林多喜二の没後75年にあたる。代表作『蟹工船』の地獄のような労働と、ワーキングプアと呼ばれるような現代の貧困労働者との類似性が、最近注目されている。

 実際の事件をモデルにした小説『蟹工船』は、海上でのカニの缶詰め作業のため、安い金で集められた貧しい男たちがひどい扱いに怒り、暴力で支配する監督に力をあわせて立ち向かう様子を描いている。

 若年の貧困労働者問題にとりくむ作家雨宮処凛さんと作家高橋源一郎さんは、先月、毎日新聞の対談で、『蟹工船』は現在のフリーターと状況が似ているし、学生たちも共感するという意見で一致していた。

 同じ感想を私も抱く機会があった。

 没後75周年の記念に、多喜二の母校の小樽商科大(旧・小樽高商)と千葉県我孫子市にある白樺文学館多喜二ライブラリーが共催して『蟹工船』感想エッセーを募集した。応募約 120件。14歳の中学生や、中国を中心に海外からもあった。

 小樽商科大の荻野富士夫教授、精神科医の香山リカさん、女子美術大の島村輝教授、シカゴ大学ノーマ・フィールド教授と一緒に先月、選考に加わったのだ。

 1昨年刊行の『マンガ蟹工船』の助けも借りながらじっくり読み込んだ若者たちは濃淡あっても現代との共通性を感じていた。

 大賞は、東京在住の25歳の女性の「2008年の『蟹工船』」。派遣・パートなど多様な働き方が奨励された結果、セクハラも加わって女性の友人たちが住まいを失ったり、休職に追いこまれたりしている姿を訴える。『蟹工船』の奴隷のような労働者が立ち上がれたのは共有する何かがあったからで、いまは「目に見えない誰かによって一人一人撃ち殺されている」。一人で労働組合に加入し、サービス残業代を支払わせた若者のニュースが、「ポスト蟹工船」の物語のような気がする、と結んでいた。

 連絡先不明でネットカフェから応募した1人は、派遣労働者は「生かさず殺さず」の扱いをうけ、「足場を組んだ高層ビルは冬の海と同じで、落ちたら助からない」と書きつけた。

 状況は中国でも似ている。ある中国人学生は「今すばやいスピードで発展している中国では、貧富の差が激しくなり」、父母の苦労をみてきた自分には多喜二の心境がわかる、と。

 フィールド教授は、ネットカフェからの応募作に、最近のニュ-ヨークの高層ビルでおきた窓洗い作業中の転落事放を連想した、と話していた。「窓を洗う方も、窓の内側で働く方も、いまは蟹工船に乗っているのではないか。ただ負わされているリスクがちがう」。

 多喜二が特高警察の拷問で死んだ02月20日を中心に小樽市や東京などで催しがある。今秋には、日米英などの研究者が協力してイギリスで国際シンポジウムもある。グローバル化によって経済格差や若年労働者の問題がどこでも共通する。

 ガラス1枚の隔たりをどう越えるのか。多喜二は、現代に問いかけている。
(引用終わり)  (朝日、2008年02月14日。由里幸子)

 この由里さんや他の審査員達は「80年前と同じ」奴隷労働に力点を置きたいようですが、本当にそうでしょうか。実際のフリーターたちは「80年前との同じ」に驚くと同時に、「80年前との違い」に一層驚き、絶望しているのではないでしょうか。大賞を得た作品の結論はそれを言っているのではないでしょうか。

 そもそも「蟹工船」は「奴隷労働」を描くことに力点を置いていたのでしょうか。それに耐えられず立ち上がったこと、そしてそれが船の中では成功したが、日本社会全体としては敗北したことを描いているのではないでしょうか。

 しかし、更に、その敗北にもかかわらず、最後の勝利を確信しつつ戦いつづけるであろう人々への信頼を表明しているのではないでしょうか。

 小説の最後の方に次の文があります。

 「いくら漁夫達でも、今度という今度は、「誰が敵」であるか、そしてそれ等が(全く意外にも!)どういう風に、お互いが繋がり合っているか、ということが身をもって知らされた」。

 そして、小説の「付記」の4番目では次のように書いています。

 「「組織」「闘争」-この初めて知った偉大な経験をになって、漁夫、年若い雑夫等が警察の門から色々な労働の層へ、それぞれ入り込んで行ったということ」。

 この小説は日本共産党の立場に立って、党員が書いたものなのです。この小説は、共産党の信仰告白なのです。

 しかし、今ではこのような希望すら持てなくなっているのではないでしょうか。フリーターもその代弁者として大賞を得た人も、まさにこの「違い」を指摘して絶望しているのではないでしょうか。

 これに対して「このガラス1枚の隔たりをどう越えるか」という問題を提起するのはピントがずれているのではないでしょうか。問題は、このガラス1枚もなかなか破れないし、破ったとしても、それでは労働者の解放なんて考えることができない、という現実なのではないでしょうか。

 つまり、実際は幻想だったかもしれませんが、多喜二の時代(1928年前後)の日本には希望があったのです。今は、その幻想すら持てなくなっているのです。この違いこそが問題なのだと思います。

 従って、これを解決しようと言うならば、問題は、なぜこうなったのか、これをどうするのか、なのだと思います。そうすると、マルクス主義、日本共産党、国際共済主義運動といった事を真正面から扱わなければならなくなると思います。

 しかし、こう問題を立てると、一体誰にそれが出来るだろうかという疑念が湧いてきます。私の知っている限りでは、適任者は1人もいません。

 社会主義(共産主義)の歴史を研究した人は何人かいますが、それはソ連のそれとか、中国のそれとかです。そういう人たちは、社会主義を研究するのですから、もちろん、日本の社会主義運動にも、いやそれにこそ、本当の関心を持っていただろうと思います。しかし、それらの人々はほとんど自国の社会主義運動や日本共産党に言及しませんでした。

 なぜでしょうか。言うまでもなく、日本の社会主義運動について発言すると、リアクションが激しくて、研究がしにくくなるからです。そもそも学問的な議論が成り立たないからです。

 実に、ここにこそ本当の問題があったのではないでしょうか。マルクス主義の運動は、その創始者たるマルクスもエンゲルスも極めて学問的な人でしたが、それを掲げる政治運動が大きくなるにつれて、特にレーニンの定義した前衛党が生まれてからは、最も非学問的な運動と組織に変質しました(この小説が書かれた1928年頃は、ソ連でスターリン体制が確立された時期です。日本の社会主義者たちはその真相を知らなかっただけです)。

 私の見るところでは、この変質の「理論的」根拠は、理論と実践の統一であり、民主集中制であり、批判と自己批判でした。この3点セットこそ解明するべき問題だと思います。しかし、これを解明した人がいないのです。

 そのために、文学や映画や歴史研究ではいくつかの成果があるにしても、認識論と哲学では何1つ成果のない状態が続いているのです。

 かつて岩波ホールで上映されました中国映画「芙蓉鎮」も、映画としては随分好評のようでしたが、私見ではその思想水準は極めて低いものだったと思います(拙稿「中国映画「芙蓉鎮」を評す」)。

 ですから、由里さんが上記のようなその場しのぎの言葉で記事を締めくくるのは仕方のない事だとは思います。しかし、真の問題はそのような言葉で締めくくることを許さない程深いものだという事、残念ながら自分にはそれは分からないという事くらいは付け加えてもよかったのではないでしょうか。

 新聞報道によりますと、国会でフリーターの惨状を指摘した志位和夫共産党委員長の質問の動画が大人気だそうです。共産党が見直されていると言われています。しかし、この80年間の歴史から学ばず、相も変わらず共産主義を信奉し、「全体主義の3点セット」を反省していない共産党では、どんなに人気が出たとしても一時的なものでしかなく、大した事にはならないでしょう。これくらいの人気なら、これまでにも何度もあった事です。

 同じ事は三浦綾子の小説を評する時にも言えるかもしれません。つまり、その場合、キリスト教について知らなくていいのか、ということです。

 たしかに、キリスト教信者でなくても、あるいはキリスト教を知らなくても、小説を小説として読むことは出来るかもしれません。しかし、そういう作家の思想的背景を自分は知らないという事は自覚しておくべきだと思います。

 しかし、この「蟹工船」の場合は、三浦綾子の小説の場合以上に、思想的背景が重要だと思います。この80年間の同一性に力点を置こうがその違いに力点を置こうが、とにかく「ガラス1枚の隔たりを越える」事を考えるなら、思想的背景とこの80年間の歴史を考慮することはぜひ必要な作業でしょう。

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「芙蓉鎮」(中国映画)(その1)

2008年05月19日 | ハ行
      

    中国映画「芙蓉鎮」を評す(牧野 紀之)

 中国映画『芙蓉鎮(ふようちん)』を観た。随分いろいろな事を考えさせられた。ようやくまとまったので、書く。

 私は先に、毛沢東(マオ・ツォートン、もうたくとう)の『文芸講話』を論ずる機会を得、その時、芸術批評における芸術的基準と政治的基準の先後について次のように書いた。

 「芸術批評においては、所与の作品がそもそも芸術の内に入るか否かの『芸術的基準』が第1であり、次いでそれが政治的性格を持った芸術か否かを判断する『芸術的基準』が来、第三に初めて、それがどういう政治的性格かを判断する『政治的基準』が来、最後にその政治にどの程度奉仕しているかの『芸術的基準』が来るのである」(拙著「ヘーゲル的しゃかい主義」に所収)。

 この映画批評をまとめるに当たってこれに則り、よってもってプロレタリアートの立場に立つ芸術批評を考えるための具体例としたいと思う。

 まず、芙蓉鎮は芸術の内に入るか否か。文句無しに入ると思う。この点で異論を挟む人はいないだろう。では、これが芸術上の一作品と認められるということは、何を意味するのか。それは、この作品の内容の評価と関係無く、この作品の発表と享受の自由は保障されなければならないということである。

 後に述べるように、この作品は政治的性格「も」持っており、しかもその階級的立場は小ブルジョアジーのそれであって、プロレタリアートのそれではないと考えられるが、それにも拘らず、プロレタリアートの立場はこの作品の表現と享受の自由を完全に保障しなければならない。この作品の内容は多面的で、プロレタリアートの立場から見て肯定できるものとできないものとがあるが、そのような批評は、この作品の表現と享受を完全に保証した上で、私人として、即ち行政上の何らかの立場に立つ者としてではなく、言論で表明するべきであり、かつそれにとどめるべきである。

 また、私のこの批評に対しても賛否両論あろうが、反対の方々は、民主社会のルールを守ってそれを表明していただきたい。拙宅に脅迫電話をかけてきたり、押しかけてきて、回答や「自己批判」を迫るようなことはしないでいただきたい。

 第2の、政治的芸術か否かという問題については、これをメロドラマと解する方も多いようだし、その要素があることは私も認めるが、社会と政治のあり方についての見解も表明されていると思う。その意味で、この作品は政治的性格「も」持っていると考える。よって、その点については、それがどういう政治的性格なのかを吟味しなければならない。

 この映画を観ていない人々にも理解していただけるように、プログラムから、まず、あらすじを引用する。

──芙蓉鎮は湖南省の南端、二つの川にはさまれて、広東省と広西自治区に接した交通の要衝にある小さな町(鎮)である。

 1963年春、町に市の立つ日、一番繁昌しているのは<芙蓉小町>の胡玉音(フー・ユイイン、こぎょくおん)の米豆腐の店だ。彼女には従順そのものの黎桂桂(リー・タイクイ、れいけいけい)という夫がいるが、玉音の笑顔に集まる客は多い。

 解放戦争の闘士で、今は米穀管理所主任の谷燕山(クー・イェンシャン、こくえんざん)は、豆腐の原料の屑米を玉音にまわしてくれ、玉音の店の繁昌を妬んでけちをつけにきた国営食堂の女店主、李国香(リー・クオシャン、りこくこう)も追い返してしまった。

 いつも無銭飲食をするのは店の地主の王秋赦(ワン・チウショー、おうしゅうしゃ)である。かつての貧農で教養が無いが、すぐ党の運動のお先棒をかつぐ町の嫌われ者だ。

 党支部書記の黎満庚(リー・マンコン、れいまんこう)も必ず立ち寄って、店が「公認」であることを示す。彼は以前玉音と恋人同士だったが、出世の妨げになるのを恐れて玉音との結婚をあきらめた。今では三児の父だが、玉音を妹のように思い、なにかとかばっている。

 店の隅にいるのは、五悪分子(地主、富農、反革命分子、右派、不良分子)の秦書田(チン・シューティエン、しんしょでん)だ。町一番のインテリだが、右派の烙印を押されている。自ら「ウスノロ」と名のる変り者で、町では人気がある。

 玉音と桂桂は身を粉にして働いたおかげで、店を新築する。しかし、幸福は長くは続かなかった。政治工作班長に昇格した李国香が、二人を資本主義的ブルジョアジーだと決めつけたのだ。身の危険を感じた玉音は、ようやくの思いで貯めた1500元を兄と頼る黎満庚に預けて遠い親戚の家に避難した。だが満庚は党の批判を恐れ、妻の五爪辣(ウー・チャオラー、ごそうらつ)にも説得されて金を政治工作班に届けてしまった。

 玉音が不安を感じて戻ってきた時、町の状況は一変していた。谷燕山と黎満庚はその地位を追われ、夫はすでに死んでいた。そして、玉音にも「新富農」の烙印が押された。

 1966年春、文革(プロレタリア文化大革命)の嵐が吹き荒れる。李国香まで紅衛兵に吊るし上げられ、今や党支部書記には王秋赦が成り上がって、町を牛耳る始末である。だが、やがて復権した李国香は県革命委員会常任委員にのし上がり、町に舞い戻ってきた。そうなると王秋赦はまたもや、ひたすら彼女に取り入るのだった。

 胡玉音と秦書田に課せられた罰の一つは、早朝、町の中央の石畳の道を掃除することだった。初めはかたくなだった玉音の心も、書田の優しさに次第にほぐれてゆき、2人は一緒に住み始めた。

 やがて玉音は妊娠した。書田は、党に結婚を認めてくれるよう嘆願するが、一蹴されてしまう。家の入口には葬式もどきの白い紙(対聯)が貼り出され、そこには「犬畜生の男女」「反革命の夫婦」と書かれていた。その夜、2人だけのひそかな結婚の宴に、突然、谷燕山が現れ、祝いの品を贈ってくれた。

 裁判所の判決が下った。秦書田には10年の刑、胡玉音は3年の刑だが、妊娠中のため監視つきの執行猶予となり、2人は引き離された。

 この極端な処罰を苦々しく思い、残された玉音をかばってくれるのは、谷燕山だけだった。陣痛で苦しむ玉音を病院に連れてゆき、出産の時には子供の仮親になってくれた。生まれた男の子は谷軍(クージュン、こくぐん)と名付けられた。

 1979年、文革が終結して3年が過ぎた。玉音の没収された家と1500元の金も返された。秦書田も名誉を回復されて帰ってきたが、その書類にサインしたのはさらに昇進した李国香だという。秦書田が胡玉音と再会を果たした傍らには、初めて父と会う谷軍がいた。

 胡玉音の米豆腐の店は、昔と同じように繁昌している。秦書田には以前と同じ県立文化会館館長のポストが用意されていたが、彼はきっばりと断り、芙蓉鎮で胡玉音とともに暮らすと宣言した。

 人ごみの中を、気の狂った王秋赦が、ボロをまとい、破れたドラを叩いて、『また政治運動が始まったぞ!』とわめきながら通りすぎていった。──

 さて、この映画の政治的立場如何であるが、それを考えるためには主要登場人物がどういう人物として描かれているかを見てみなければならない。

 監督によるとこの映画の主要登場人物は8名とされている(プログラムの10頁)が、黎桂桂は映画の初めの方で消され、かつ後に影響を与えていないので、私はそれを7名と見る。その内の6名について、登川直樹氏が原作(古筆の同名の長篇小説、1981年作)と比較の上でまとめてくれているので、それを引用する。

 ──映画は原作にほぼ忠実といっていいが、小説が書きこんだ人物やストーリーの細部を、かなり映画は削り落としている。それも映画に必要な単純化という以上に監督がとくに意図するものがあったことがわかる。

 まず胡玉音である。芙蓉小町と評判の、と小説も書いている通りの美人で働き者だが、宿屋を経営していた両親のうち母親の方は女郎だったという噂があったりするし、玉音自身読み書きを知らない女に育っている。映画はそういうネガティブな側面を一切排除した。美人で働き者のイメージを強調して悲運の主人公を美化するねらいからである。劉暁慶
(リウ・シャオチン、りゅうぎょうけい)がこれを演じたことでこの狙いは決定的となっ
た。

 秦書田はもと州立中学校の音楽と体育の教師だったが県の歌舞団に入って脚本家演出家となる。革命を讃える新歌曲を作ったのが逆に批判的だと判定されて五悪分子の反動右派のレッテルを貼られてしまった。この町唯一の学識者といってよく、「地上のことはすべてを知り、天国のことも半分は知っている」賢者と小説は力説するが、映画は率先して愚者を装う一面を強調し底ぬけの好人物に描いている。これも、玉音と結ばれて愛に生きる男の一種の美化である。

 一方、李国香は徹底した敵役に仕立ててある。町一番の賑わいをみせる米豆腐売りの玉音を妬み憎み、いびったり罪を着せたりして迫害する。小説はもっと辛らつで、頭もきれるし弁も立つのに妊娠や堕胎の事実がばれて出世が遅れた独身女と書いている。紅衛兵の裁きで彼女は雨中に立たされる。首に古靴を吊るされるのが不貞を働いた女の罰し方だとは中国では自明のことらしいが、原作では紅衛兵がその動かぬ証拠を握った説明がある。一度は失脚したかにみえる彼女がまた復帰して出世街道を歩むあたりも、映画は理由を語らずに結果を示すという描き方をする。李国香を芙蓉鎮の人たちが毛嫌いする理由は、再三男問題を起こすためでもなく、陰険に人をおとしめるためでもない。もっと重大な理由は、彼女がここで他所者だということである。映画はそれを台詞の所々で匂わせているが、小説ほど納得させる説明になってはいない。理由よりも結果でみせていくという映画のいき方がはっきりする。

 王秋赦は原作からもっとも忠実に移し変えられた人物といっていい。代々小作農だったために革命によってまっさきに優遇された。しかし政治運動のお先棒をかついでドラを叩くばかりで何もLない。土地は分けてもらったが農機具は一切なく、食うに困れば土地を切り売りし、またいつか土地改革があって土地を貰えればいいと思っている。農業視察から帰って得意満面で忠字舞を踊ってみせる無邪気さ、李国香が復職したときいて口惜しがり、それでもゴマをすりにいく人の好さ、祝士彬(チエー・シーピン、しゅくしひん)はもはや廃人同様となるラストまでこの男の愚直さを好演した。

 食糧管理事務所の谷燕山は愛すべき好漢として登場する。陰に陽に悲運の玉音をたすけるのだ。ひそかな結婚式にも酒を携えて祝いにやってくるし、彼女の出産をたすけて生まれた子の名付親にもなってやる。彼もまた他所者だが、革命の戦いに戦功をたてた北方大兵だから尊敬されている。戦争の傷を病院で検査される屈辱的な場面も映画は省略し、この男の人間的な魅力を強調する。停職になってからの彼は酒びたりになる。何もかも終ったと叫びながら夜半の道を行くこの男の苦々しい思いを映画は哀感をこめて描いている。

 黎満庚にも過去のいきさつがある。楊民高(ヤン・ミンカオ、ようみんこう)から姪の李国香をどう思うかときかれて全く生返事しかせず、それも胡玉音と恋人同士だという関係がばれて、党をとるか恋人をとるかと詰め寄られ、玉音をあきらめた男である。玉音との恋愛は回想場面でムード的に紹介されるが彼女を裏切ることになったいきさつは描かれなかった。その彼が玉音から預けられた大金を党に届けてしまい、2度までも彼女を裏切る、その人間的な弱さ卑怯さを映画は追及せずに終ってしまった。──(続く)

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「芙蓉鎮」(その2)

2008年05月19日 | ハ行
     

 もう一人の主要登場人物の五爪辣については登川氏は言及していないが、私は後で触れる。

 さて、以上6人の階級的立場である。それは当人の出身階級や現在の所属階級に拠ってではなく、当人の言動がどの階級の立場を反映しているかを基準にして判定すべきものである。その際にはもちろん現在の所属階級についてどういう態度を取っているかが一番の問題である。

 胡玉音はまじめな露店食堂主であり、それで人に好かれ平和なマイホームが築ければ満足だという人である。正真正銘の小ブルジョアである。秦書田はその町では最高のインテリだそうだが、「全歴史の理論的理解」に達している程ではなく、絶対的にはきわめて水準の低いインテリであり、従って小ブルジョアである。文化会館館長就任を断って玉音と食堂を経営してマイホーム主義で生きることによってそれは完成する。

 李国香は典型的な青二才左翼であるが、その階級的な立場となると、難しい。国営食堂主としてまじめな小ブル胡玉音を見下す所等は、小ブル的官僚というより封建官僚に近い。一般に、自称社会主義国の官僚はプロレタリアートの立場に立っていないのはもちろん、プロレタリアでもなく、上から順に封建領主、封建貴族、封建官吏に近い。まじめに働いて金をためた玉音を、ただ金を持っているというだけで非難したり、思想に基いてではなく無節操に男問題を起す所はルンプロ的である。

 王秋赦は完全なルンペンプロレタリアートである。

 谷燕山の階級的立場を定めるには彼がどういう考えで革命戦争に加わったのかを知らなければならないが、その正義感と公正感覚から見て、多分、日本帝国主義に対する民族的自立心及び国民党の腐敗堕落に対する怒りからであろう。彼の立場はブルジョア自由主義と推定される。

 黎満庚は「惰弱なインテリ」(レーニン)の見本である。最下級の小ブルジョアジーか。但し、私は、彼の弱さはその苦しみによって十分罰せられていると思うので、登川氏のように「もっと追及せよ」とは考えない。私は自分自身それほど高潔とも思っていないので尚更である。

 以上によって明らかなように、この映画にはプロレタリアートの立場に立つ人は1人も登場せず、2人の主役は共に小ブルジョアジーの立場に立っている。従って、この映画にある文革批判や反右派闘争批判は小ブルジョアジーの立場からなされていると言わざるをえない。

 従って私は、佐藤忠男氏の次のような評価には賛成できない。即ち、氏によると、謝晋(シェ・テン、しゃしん)監督の器量の大きさは、メリハリの利いたメロドラマで大衆の支持を得、それを土台として「その状況の中で許されるぎりぎりのところで体制批判」をすることだそうである。しかし、この映画のどこに体制批判があるだろうか。この映画の立場は、政治経済の根本は党官僚が押さえておいた上で、その根本に触れない範囲で市場原理、つまり小プル経済を許すという現体制そのものではなかろうか。それとも佐藤氏は文革批判や反右派闘争批判のような過去の批判を、体制批判と強弁するつもりだろうか(佐藤説はプログラムの9頁にあり)。

 もしこの映画をプロレタリアートの立場からの文革批判にし、従って又現体制の批判にしょうとするならば、固定された分業に反対する人物を登場させなければならず、共産党や国家の会議で真の民主主義を主張する行動を入れなければならない。例えば、人民公社で肉体労働をさせられるインテリに、「『三大差別の撤廃』(農業と工業の分裂、都市と農村の分裂、精神労働と肉体労働の分裂の止揚)というのはこういう事だったのだろうか」と言わせて、自然生活を夢想させるとか、共産党の支部会議で、口が巧くて押しの強い人が勝っていくシーンを入れて、黎満庚にでも「民主集中制ってこれでいいのかな」といぶからせるとか、最低でも、谷燕山に、解放戦争の間は公正であった同志たちが、権力を握ってから堕落していく様子と、それと共に彼が孤立していく過程を回想させるべきだったと思う。

 従って、この映画の政治的性格はやはり現体制と同じもので、小ブルジョアジーの立場だと思う。しかし、こう言うと、この映画はそういう政治思想の主張が主眼ではないという反論が予想される。この問題を考えよう。

 私は、この映画には政治的性格「も」あるとして、それがどういう性格かを考えてきたのだが、その政治的性格がこの映画全体の中でどの程度の比重を持っているかは問うてこなかった。では、この映画の根本は何か。

 登川氏は、先に引用したように、原作と映画とを比較検討した上で、最後に、両者の一番大きく異なる所として、秦書田が最後で、文化会館長への復職を断る(原作では受諾)ところを挙げ、「メロドラマに徹しようと言いたげな謝晋監督の意図」と言っている。

 しかし、これをメロドラマないし男女の愛の讃歌と取るには、気の狂った王秋赦のラストシーンが邪魔になる。そこで山田洋次氏の次のような改作案が出てくる。

 「王秋赦という、いつの世にもいる愚か者の描写に、少し力が入りすぎていないか。この辺は議論の分かれるところだろうし、是非謝晋監督の意見もきいてみたいのだが、寅さん映画の監督としては、気の狂ったこの男の幕切れのセリフのかわりに、髭面の好漢谷燕山あたりに、イギリスの女流作家アフラ・べーンの有名な箴言を言わせてみたいところである。
 ──恋は、それが秘密でなくなると共に、楽しみではなくなってしまう」(プログラムの3頁)。

 私はこの改作案の卓抜さに参ったということを告白する。しかし、それが監督の意図に沿うものかどうかは又別である。監督はたしかに、「どのような暗黒の中においても美しいものを忘れる事なく持ち続けたということが描かれています」と言っているが、同時に、「私の映画監督としての希望は、この作品を通じて過去を振り返り、このような悲劇を2度と起してはならないということ、そして、これを乗り越えて、より新しい1つの大きな物に向って進むことであります」とも言っている。そして、この線では、高野悦子氏が、「文革という苦しい時代をのりこえ、未来に進む中国人の決意がにじみでている」と評価している(以上、プログラムの11、10、16頁)。

 しかし、その「より新しい1つの大きな物」とは具体的に何なのか、監督は示さないで終わった。それ程意図的ではないにしても、事実上は、まじめな小ブル人生の肯定ということになっている。プロレタリアートの立場などは、薬にしたくても、そのかけらさえない。そのため、「今日、富こそ正義とする風潮さえ見られるらしい」(杉本達夫氏、プログラムの13頁)という現実に、何の指針も与えられない作品となっている。

 第4の基準は、その作品がその目的にどの程度奉仕しているかという芸術的判断であった。これは、映画については、更に具体的に見ると、その筋立てや登場人物が十分典型的か、出演者が自分の役をどの程度完全に演じ切っているか、カメラワークや美術や音楽はどの程度目的に適っているか、といったことになるだろう。しかし、これらの点については、私には語る資格が無いと思うので、遠慮したい。ただ、2時間45分にわたって、何の違和感も持たず、かつ飽きることなく、随所で画面の美しさに魅かれた、と言うくらいの事は言ってもいいだろう。そして、私がもっとも典型的だと思ったのは五爪辣だということも。

 彼女は文字通り民衆の代表と言えるのではあるまいか。というのは、「あきれたね、階級闘争とやらを孫〔子供とすべし〕にまで押しつけてさ」とか、「谷さんはいいけど、王や李主任は気にいらないね」というセリフに示された健全な感覚がまず第1である。しかしその五爪辣も、自分に危険が及びそうになると、夫を説得して玉音から預かった金を党に届けさせる。しかし又、夫の心の恋人玉音憎しだけではなく、虐げられる玉音を助けもする。こういう複雑な存在が民衆の本当の姿なのではあるまいか。

 以上で狭義の映画批評は終わりである。以上は、映画を見ながら、又見終わってしばらくの間の考えをまとめたものである。しかし、私の考えはこれで終わらなかった。その後も考え続けざるをえなかった。その考えは、「ああいう描き方をすると、『絶対に階級闘争を忘れてはならない』とか、『三大差別の撤廃』(このスローガンは映画には出てこないが、文革まではよく言われた)とか、『政治第一』(この映画では『政治運動が足りない』という言葉になっている)といった、それ自体としては正しい言葉が、戯画化されて、言葉自体が間違っていると考えられてしまうのではないか」ということであった。

 私がかつて定式化した言葉で表現するなら、「真理定式化の反動的役割」ということである。即ち、これらの言葉なり考え方は、マルクスやエンゲルスやレーニンが「歴史の全運動の理論的理解」に基いて言葉として定式化したものだが、ひとたびそれが言葉として定式化されると、「歴史の全運動の理論的理解」をしてもいなければ、する能力も無い人々でも、オオムのように口にすることができるようになるということであり、その時にはその言葉はむしろ誤謬に変わり、歴史を後退させる働きをするということである。

 即ち、能力が無く、従って又その資格の無い人が、プロレタリアートの立場に立って共産主義社会をつくる運動を指導しようという政党に入って、分かりもしない言葉を振り回しても、回りの人に迷惑をかけ、自分自身も不幸になるということである。日常の言葉を使うなら、人間には、どこでどうやって決まるのかは分らないが、器量というものがあるのであり、その「分」を弁(わきま)えて生きるしか幸福の道は無いということである。自分の器に入り切らないものを入れようとしたり、押し込まれたりすると、その器が壊れてしまうのである。

 李国香と王秋赦がこの気の毒な人の例である。李は発狂はしなかったが、不幸な人である。我々の回りにも、「あんな運動などに関らなければ、もう少しまともに生きられるのに」と思われる人は多い。私はこういう人を今では憎まない。気の毒だと思う。

 この極端な例が王秋赦である。しかし、王に政治運動をやらせたのは誰なのだ。それは、労働者と貧農の立場に立つと称したが、その言葉を理解できず、あるがままの労働者や貧農を肯定し、彼らに権力を与えてしまった中国共産党ではないのか。そして、この中国共産党を牛耳っていたのが毛沢東であった。即ち、組織においても運動においても、末端はトップの姿を拡大して表現しているだけなのである。

 「王秋赦は毛沢東なのだ!」ということがひらめいて、私の考えは落着いた。毛は軍事指導者としては非常に優れたものを持っていたようだ。縦横無尽の戦略と戦術によって日本帝国主義を撃退し、国民党軍を倒したのがその証拠である。しかし、毛は、敵に勝つのではなく、自分に克って社会主義を建設することは出来なかった。なぜなら、プロレタリアート解放の社会主義建設運動というのは科学的社会主義と言われているが、その真意を端的に表現するならば「ヘーゲル的社会主義」と言うべきものであり、それを指導するにはヘーゲルの概念の立場を理解できるくらいの哲学的能力が無ければならないからである。しかし、毛の主要著作に対する私の批評にあるように、軍事の天才の毛沢東も、哲学に関しては二流以下だったのである。

 そのため、社会主義建設を始めてからの毛の指導は、それまでの戦争の時期と較べて一貫性が無く、「左」石に揺れることになった。挙句の果てにプロレタリア文化大革命とやらを起こして、自分はその中で老人性痴呆になり、野垂れ死をすることになった。王秋赦とそっくりではないか。

 従って、このような反面教師の生き方から引き出される肯定的な教訓は、「汝自身を知れ」という古来の不滅の真理である。従って、ここに肯定的に描かれている胡玉音と秦書田と谷燕山も、小ブル精神やブルジョア自由主義の権化として描かれているのではなく、階級的立場以前の、あるいはどの階級のものでもそこにある前進的なものの大前提の具体例として描かれていると取るべきではなかろうか。

 今の中国には、私の知る限りでは、プロレタリアートの立場に立っている政治指導者もいないし、ヘーゲルの概念の立場の分かっている哲学者もいない。こういう状況下で、一介の映画監督にすぎない謝晋氏に、プロレタリアートの立場に立った映画を作れと要求しても、土台無理である。そのような過大な要求をするよりも、私は、これからどんな社会を作っていくせよ、自分に対する誠実さとそれに立脚した友情と愛情こそ出発点であり到達点なのだという大前提を、中国の現実の中に具象化した力量を称えたいと思う。
        (1988年07月13日執筆)

付記

 この文の中国語の読み方に自信がなかったので、新島淳良民に見ていただいた。五爪辣についてのみ次のような指摘を頂いた。①五爪辣はあだ名であって実名ではない。②その意味は、中国人の友人にきいた所、「にぎりや」「がめついやつ」「倹約家(しまりや)」とのことである。③彼女の実名は原作にも映画にも出てこず、杉本達夫氏の訳本では、終始、カギつきで「五本爪(つめ)のトウガラシ」と訳されている。④従って、「ウー・チャオラー」も「ごそうらつ」も拙い。⑤中国では古来、女性は名を記されることは稀であった。五爪辣に「民衆の本当の姿」を見る慧眼には敬意を表する。作者、映画監督が彼女だけあだ名で通した意図もそこにあったのではないか。

 この返事を読んで思った事は、「先達はあらまほしきかな」ということであり、「新島さんに見てもらってよかった」ということである。しかし、五爪辣については、そういう語が登場人物「名」として出ている以上、その中国語読みが「ウー・チャオラー」であり、日本語式音読みは「ごそうらつ」であることをかっこして入れるのは、他の人名との整合性から考えて、そのままでよいと考えた。この付記により、それがあだ名であること及びその意味について、誤解の余地はなくなったと思う。新島氏に感謝しつつ、本文章の表記についての責任は私にある事を記す。

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秋野不矩(あきの・ふく)美術館

2008年05月18日 | ア行
     秋野不矩(あきの・ふく)美術館

 1908年(明示41年)、現在の浜松市天竜区二俣町に生まれ、93歳まで精力的に日本画を描き続けた秋野不矩の作品を展示する。

 54歳でインドの大学へ客員教授として赴任した秋野は、インドに魅せられ、風景や寺院などをモチーフに描きつづけた。

 美術館は二俣の町を見下ろす丘の上にある。設計を手掛けたのは藤森照信。屋根は鉄平石、外壁には藁(わら)や土、天竜の杉材といった自然素材を使用している。

 第1展示室の床には籐(とう)ござ、第2展示室には白大理石が敷きつめられ、壁と天井は漆喰塗り。入り口で靴を脱ぎ、床に座って鑑賞する。

 (美術館への道はかなり急な坂道ですが、体の不自由な人のためには特別の駐車場が用意されている)
  (さんらいふ、2008年05月16日)
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社会民主主義(01、北欧の社会民主主義)

2008年05月17日 | サ行
 「試験もないのに、こどもたちが勉強する」「それほど働いている風には見えないのに、国民一人当たりのGDPは高い」「消費税率が22~25%と世界で一番高い福祉国家なのに、国民の8割がグローバリゼーションに前向き」。

 そんな「ノルディックの謎」が問いかけられるほど、北欧諸国は元気いっばいだ。ここはまた「生活に満足している」と答える人々の割合が世界でもっとも高い幸せいっぱいの国々でもある。このほどスウェーデン、デンマーク、フィンランドのEU加盟北欧3ヵ国の首相に会見し、北欧経験の可能性とともに日本への意味合いを探った。

 OECD(経済協力開発機構)による2006年の国際的な学習到達度調査(PISA)で、フィンランドは、科学1位、読解2位、数学2位だった。フィンランドの教育は思考力、応用力、学習力という「学ぶ力」を育てるのに優れている。グローバリゼーションの時代、人々は生涯に何度も職を変えることになる。「学ぶ力」を身につけなくてはならない。フィンランド・モデルとは「学ぶ力」の新たな国際標準のことでもある。

 バンハネン・フィンランド首相は「落ちこばれゼロの機会均等原則、教師研修、そして何よりも教師に対する敬意」を成功の秘密として挙げた。それに、「本を読む文化。国民一人当たり新聞紙数もここは世界有数」。

 21世紀は、人口や国土の大小より、国民の「学ぶ力」基盤と社会格差是正機能の強弱で、国の富も暮らしの豊かさも決まる。人々が世界に広がる機会をつかめるように環境を整えることがカギだ。ラインフェルト・スウェーデン首相は「われわれはIT技術を早い段階から取り入れたことで、世界市場で競争力を存分に発揮し、国富を高めることができた。グローバリゼーションの勝ち組だ。その基盤は教育、それも生涯教育だ」と言う。

 デンマークは、労働者の「学ぷ力」を向上させることで労働市場を弾力化させている。企業は従業員をいつでも雇用、解雇できる。ここでは毎年、労働者の3分の1が職を変える。職探しの間、政府から手厚い失業補償が与えられる。「社会保障があるから、落ち着いて必要な技能を身につけ、新たな職を探すことができる。育児サービスが整っているので、女性がいつでも労働市場に入っていける。それが、労働市場の柔軟性と国際競争力の向上をもたらす」とラスムセン首相。首相の言う「フレクシキュリティー」(柔軟保障)戦略である。「自由と社会保障を結合させてこそやる気も安心感も生まれる」。

 見方を変えれば、学ばない者は許さないということでもある。柔軟保障社会を機能させるには、国民がその厳しさを自覚しなくてはならない。

 もっとも、構想通りに革新が進まない分野もある。医療、高齢化、移民などだ。スウェーデンでは医者が1日平均4人の患者しか診ない。「医者の数は足りているのだが、生産性が低い。病院の診察治療アクセスを何とかして、と私の選挙区の人々の不満も強い」(ラインフェルト首相)。

 高齢化の波を乗り切るには、移民を増やす必要があるが、国民の抵抗は強い。移民の「福祉ただ乗り」批判も根強い。バンハネン首相は「移民ではなく〝新フィンランド人″となってもらう。国民の移民に対する消極的態度を改めるべく努めている」と言う。

 北欧の「成功例」を安易にモデル化するべきではない。「博物館に陳列しておくモデルではない。それは不断に革新する福祉国家づくり」(ラインフェルト首相)だからだ。そもそも、ここの高い福祉は、高い税負担の上に構築されている。

 「税反乱が起きないのが不思議ですね」と水を向けると、そろって「国民は、カネ(税金)で価値(福祉)を手にすることができると思っているからだ」との答えだ。人々は、税負担と受益がほぼ見合っていると感じている。「高い消費税への支持は、女性の方が男性より高い」(ラスムセン首相)。彼女たちは、税が保育や介護の下支えをしていると実感しているのだ。

 北欧の「高福祉・高負担」は国民の政府への信頼を表している。福祉と教育のほとんどは市町村の仕事だ。北欧は「市町村国家」である。北欧では政府も政治も人々の身近にある。ラスムセン首相は「フェースブック」のチャット仲間との政策論議を欠かさない。ほとんどが18歳から34歳である。このほど10周年を祝い、100人近くと北の湖まで一緒にジョギングをした。

 一方、日本の「低福祉・低負担」の底には政府不信が横たわっている。1990年代以降、教育、年金、医療など、国民の政府不信は深まるばかりである。こんな政府に税金を取られたらろくなことがない、だから増税絶対反対、となる。政府は予算一律カットで応じ、行政サービスの質は落ちる。悪循環である。

 市場活用、対外開放、機会均等、女性の経済・社会進出、労働市場弾力化、地方分権、そして何よりも政府の信頼回復──その上で、革新福祉国家の骨格となる「給付と負担の目に見える適正均衡」を目指す。北欧の経験から学ぶことば多い。
(船橋洋一朝日新聞主筆)  (2008年05月05日)
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映画「追憶」を見て

2008年05月15日 | タ行

     主義を糧とする人々
       ──映画『追憶』を見て──(牧野 紀之)

 NHKのラジオ深夜便でアメリカ映画「追憶」のテーマ音楽を流しました。その時、映画の粗筋も話してくれました。曰く。「政治にかかわらざるをえない妻と脚本家を目指す夫とがどうしても一緒にやっていけず、愛し合っているのに別れなければならない。マッカーシズムの吹き荒れる1950年頃の時代を背景にして」と。

 「へえ、そんな映画があったんだ」と、俄然興味を持ちました。幸い、地元の図書館にビデオがありました。借りてきて見ました。自分の考えをまとめようと思って、2回目は大事なセリフのメモを取りました。

 まず、私が理解した限りでストーリーをまとめます(少し誤解があるらしい)。

 主役の女性の名はケィティ、その相手たる男性の名はハベルです。場所はニューヨークですが、時はスペイン内戦の1937年ころです。2人は同じ大学の学生でした。ハベルはスポーツ万能で有名な学生で、ケィティはアルバイトをしながら勉強している貧乏学生ですが共産党系の活動家としてこれ又有名でした。

 2人が一緒になるのは短編小説を書く授業でです。ハベルの作品が先生から褒められます。猛勉強して書いたのに評価されなかったケィティはがっかりして自分の作品をごみ箱に投げ捨てて帰る途中、ハベルがビールを飲んでいる所を通り掛かるというわけです。

 さて、そうして知り合ったのですが、ハベルは卒業後海軍に入ります。

 時は過ぎで第2次大戦末期の1944年、ニューヨークで情報局に勤めているケィティは仕事の後、レストラン(バー?)に行きます。するとそこにハベルが休暇か何かで来ていたのです(映画はここから始まっていて、学生時代のことは回想として描かれたことでした)。

 酔っぱらったハベルを自分のアパートに連れて行ったケィティ。2人の間には当然の事が起きます。その後、戦争が終わってからでしょう、一緒になるのですが、政治狂いのケィティとは一緒にやっていけないとして、いったんは別れるのですが、ケィティの方が頼んでハベルは戻り、2人してハリウッドに行きます。ハベルが小説を映画の世界に売って生きていくためです。

 これは成功して、そこで楽しくやっていくのですが、1950年頃、マッカーシズムの嵐がハリウッドにも及んできます。ハベルはケィティと一緒にワシントンまで抗議に行ったりはするのですが、やはり結局は2人は合いません。

 ハベルは元の恋人(金持ちの娘)と一緒になってニューヨークに行ってテレビの脚本家になろうとします。ケィティはハベルとの間に生まれた女の子と共に又別の男性と結婚し、原爆反対の運動を続けています。駅頭で出会った2人は別れを惜しみます。

 下手な説明でしたが、こんな所です。さて、私が考えた事を箇条書きにまとめます。

 最初に私の観点を申し上げておきますと、私はケィティを私の言うところの「青二才左翼」の典型と見て、ハベルは自由主義的な市民の典型と見ます。もちろんこの「青二才左翼」というものの本性について、その純粋な心情と幼稚な言動を考えるのが本稿の目的です。私自身もその一人でしたから。

 第1に問題にしたい事はスペイン内戦とソ連の評価についてです。

 ケィティは1937年の学生の頃共産青年同盟の委員長で、もちろんソ連かぶれです。スペイン内戦における共和派支持の学生集会で「スペイン内乱で市民を援助しているのはソ連だけだ」とか「ソ連は人民を救おうとしている」などと演説します。

 当時のアメリカやヨーロッパの知識人や青年にとってスペイン内戦がいかに大きな問題だったかは、日本人の我々には想像できないほどのようです。多分、ベトナム戦争が当時の日本人にとって持った意味と同じ程度だったのでしょう。

 しかし、今でははっきりしていることは、ソ連は必ずしも十分に共和派を応援したわけではないことです。そして、共和派の中にも義勇軍に馳せ参じて戦った人々と共産党系の人々との間には大きな溝があったということです。この問題に焦点を当てて描いた作品がオーウェルの「カタロニア讃歌」(1938年)であり、ケン・ローチ監督のイギリス映画「大地と自由」(制作年は知りませんが、日本で公開されたのは1997年だと思います)のようです。

 当時のケィティにこういった判断を要求するのは無理でしょうが、しかし、アメリカでは既にスターリンの暴政は伝えられていたのです。学生たちがジョークで「スターリンの粛清」などという言葉を口にする場面が出てきます。

  つまり青二才左翼はレーニンの言う「左翼小児病患者」であるだけでなく、左翼信仰者なのです。ですから大人にもそういう人は沢山いるのです。問題は、「科学的」社会主義を自称する運動なり人々がなぜ信仰的になったのかということです。

 第2のそして最大の問題は、その青二才左翼というものはどう考えたらよいのか、です。

 ハベルはケィティを批評してまず「君は何でもそう確信があるのか」と批評しています。つまり、青二才左翼の特徴の1つは、自分の、あるいは自分たちの考えを事実上「絶対的真理」と思い込んでいることです。これは弁証法的唯物論の立場からはもちろん、どんな哲学上の立場に立っても間違いなのですが、人間誰しも一つの事を信じると、とかくこういう信念を持ちがちです。

 それと一緒になっている傾向は「君は美しい。だがムキになりすぎる」、「革命家にもユーモアが必要だ。〔君達は〕まるで清教徒だ」、「努力しすぎる奴も困ったもんだ。いつも本ばかり抱え込んで」と批評されています。

 それは更に話題の乏しいことと結びついています。ハベル曰く。「話題はいつも政治か?」。ハベル達は「最高のバーボンは?」とか「最高のアイスクリームは?」とか「最高の美女は?」といった「下らない」ことを言い合っては笑い転げています。もう少し高尚だとしても、せいぜいファッションの話とかクルマの話とかでしょう。

 更に言い換えるならば、「君はひたむきすぎる。生活を楽しむゆとりがない。遊びが無さすぎる」という批評になります。これに対してケィティは答えます。「世の中をよくしたいからよ。私もあなたも好くなるのよ。戦いよ、そして理想に向かって進んでいくのよ。」

 そうなのです。この「世の中をよくしたい」という気持ち、理想に向かって進む人生にしか意義はないという考え、ここにこそ青二才左翼の本性がよく出ていると思います。その時、「世の中をよくする」とはどういうことか、現在の生活は零点なのか、自分たちと違うやり方で「世の中をよく」している人はいないのか、「理想に向かう」にも世の中の仕組みを知らなければならないし、個人個人でやり方は違っていいといった反省は全然ないのです。

 ワシントンへ行って抗議行動をして傷ついた後、ハベルは「民衆は臆病なのだ」といった事を言います。そして、更に「〔こんな事をしても〕自分たちが傷つくだけだ。〔世の中は〕何も変わりやしない」と言います。

 それに対してケィティは「虐げられている人々を見殺しにする気? 仕事ほしさに」と反問します。ここにも青二才左翼の特徴が好く出ていると思います。

 「大切なのは人間だ。主義主張が何だ」と言うハベルに対して、ケィティは「主義こそ人間の糧よ」と答えます。

 これらの問答は言葉こそ違え、多くの青年の間で、特に戦後の学生運動の華やかりし頃、交わされたのではないでしょうか。

 最後に取り上げたい特徴は、「敵」ないし支配階級の人々より、それと戦わない中間の人々を敵視する態度です。ケィティ曰く。「恐ろしいのは平和のために立ち上がらない人々」だ、と。

 或る事柄で対立しているとすると、世の中には「悪」を押し進める人々とそれに反対する人々の中間に「中立的な人々」がいるものです。その時、悪を押し進める人ないし勢力より、この中間派が悪を助けているから悪いのだと考える、これも青二才左翼の特徴の1つだと思います。

 スターリンはかつて「〔帝国主義ではなく、帝国主義に対して軟弱な〕社会民主主義に主要な打撃を集中する」という間違った「理論」を展開しましたが、スターリンはまさに青二才左翼の権化だったのです。

 こうしてまとめてみて気づいた事には、ハベルからのケィティ批評の言葉は沢山あるのに、ケィティのハベル批評は少ないということです。この事も特徴的なことです。つまり、青二才左翼は自分の主観の中に閉じこもっていて、外を見る余裕がないということです。

 しかし、少しは感想を述べています。ケィティはなぜか分かりませんが、ハベルの小説が好きなのです。最初の先生にほめられた作品については「あなたの小説が大好き」と言っていますし、第2作については「小説、最高よ」と褒めています。しかし、具体的な理由は述べていません。

 ハベルから悪い所は言ってくれよ、と要求されて、「突き放している」、「人間を遠くから見ている」と批評しています。その具体的な根拠を求められて、ただ「全体として」と答えています。

 これはやはりケィティの低さではないでしょうか。そして、こういうのが青二才左翼の特徴ではないでしょうか。

 外を見る余裕がないということは、自分の事を反省する力も乏しいのだと思います。逆に、ハベルは最初の小説の主人公の口を借りて、自分の事をこう言っています。

 「彼〔登場人物〕は自分の育った国と似ていた」、「万事が安易、彼自身それをよく知っていた」、「自分をいいかげんな人間だと思うことがある」。

 「何事にも確信を持っている」ケィティとの対照は鮮やかです。

 これだけの事を考えさせてくれただけでもこの映画には感謝しています。しかし、私の哲学的な観点からは、ケィティの共産党の仲間たちの集まりの様子を少し描いてほしかったな、と思います。それがどの程度本当に民主的な話し合いになっていたか、ということです。

 最後に、2人はその後どうなったのでしょうか。この映画の主題ではありませんからもちろん描かれていませんが、私は勝手に創作しました。

 ケィティは戦いを続けるが、1953年のスターリンの死、特に1956年のスターリン批判とそれに続くハンガリー事件で共産主義に疑念を持つようになる。1959年のキューバ革命の成功は喜ぶが、戦後のヨーロッパの社会民主主義の発展を知り、社会主義国の内情が分かるようになって、スペイン内戦でのソ連の役割も考え直すようになる。1960年前後の公民権運動に参加し、60年代末の学生騒動には共感し、ベトナム反戦に加わる。

 ハベルはテレビの世界で脚本家として成功するが、「これだけでいいのか」と反省するようになり、やはり公民権運動に参加し、学生騒動には共感し、ベトナム反戦に加わる。この過程のどこかで2人は3度出会って、又結ばれる。

 1951年頃に生まれたことになっている娘のレイチェル(これはケィティの母の名をもらったもの)は自分の名が『沈黙の春』の著者であるレイチェル・カーソンと同じであることに気づき、その偶然を単なる偶然と思わず、環境保護運動の活動家となる。

 1937年頃に学生生活の最後を送ったことになっているから、2人の生まれたのは1915年頃であり、2004年の現在、2人は生きているとすれば89歳であり、レイチェルは53歳である。

 2人はアメリカのイラク侵略に反対しただろう。レイチェルは環境保護運動の先頭に立っているだろう。
  (2004年04月01日発行)

     関連項目

歴史の審判(「人間の壁」)
日教組と三理塚
雪解け道
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ねむの木村

2008年05月14日 | ナ行
     
1、ねむの木学園を訪ねて(日野原 重明)

 静岡県沼津市の聾学校を訪ねた日の午後、私は秘書とともに、掛川市の郊外で宮城まり子さんが運営する「ねむの木学園」を訪れました。

 家庭に恵まれない障害児の存在を知ったまり子さんは、現在の同県御前崎市の海の見える小高い丘に自らの資金で土地を求めて、1968年に障害児たちのための定員12人の養護施設・ねむの木学園を設けました。

 1979年に養護学校(小学部、中学部)を、3年後には高等部も設置します。

 さらに、成人した園生たちが引き続きここで教育を受けられるような肢体不自由児療護施設も設けました。

 1997年に現在の掛川市の海の見える丘に移転。付近の住民たちの労力を借りて、壮大な「ねむの木村」を造り、さまざまな施設が造られていきました。学園の子どもたちが参加したユニークな絵が、新しい建物の壁いっぱいに描かれています。

 ここでは感受性を大切にし、集中力を養う教育として絵画、国語、工芸、音楽、茶道などを教えています。

 園生たちの作品は、国内外の美術展でも展示されたことがあります。コーラスやダンスのパフォーマンスが上演されることもあります。

 私たちは園生の宿舎を訪ねました。広い部屋に3人ずつ入居していますが、そこも巧みな色や形でデザインされており、子どもたちのアイデアが生かされているとのことでした。

 宿舎の中の大きなホールでは、まり子さんの指揮で全園生が合唱を聴かせてくれました。日劇ダンサーだったボランティアの指導で「スラブ舞曲」にのった見事なダンスも披露されました。

 まり子さんの恋人だった作家の吉行淳之介氏を記念した文学館も見学しました。彼女の事業をいつも応援した吉行氏の写真が飾られたロビーにはピアノがあり、室内音楽会を催せるようになっています。

 宿舎の玄関に戻ると、子どもたちが集まって手を振り、「また来てください」と口々に声をかけてくれました。まり子さんは私たちを掛川駅まで送ってくださり、彼女のハグを受けて帰京の新幹線に乗りました。

 学園で生治を楽しむ園生たちの中心には、いつもまり子さんがマリア様のようにみんなを抱きしめています。80歳を超しても若々しく優しいクイーンのような存在として園生に慕われている彼女の、いのちの芽を育てる仕事の尊さに感嘆しました。
 (2008年03月08日、朝日。日野原さんは聖路加国際病院理事長)

2、10年ぶりの訪問(牧野紀之)

 約10年ぶりだと思います。これを書くために昨日、ねむの木むらを訪ねました。

 かつて御前崎の学園(学園は見せ物ではありませんから、見学できません。日野原さんは招待されたお客さんですから、別です)を訪ね、美術館を見、海岸近くの喫茶店でお茶を飲んだこともあります。

 掛川市郊外に移ってからは、我が家から車で約1時間の距離なので、友人などが来たとき、何度か案内しました。しかし、吉行淳之介文学館を見てから、約10年行っていなかったことになります。

 かつては植えたばかりの苗木だった木がすっかり大きくなっていました。「村」の発展と成熟を象徴しているようでした。

 しかし、そこに流れる時間のゆったりしていることは昔と同じでした。喫茶店「まり子」で原木を加工したテーブルに席を取り、池を眺めバロック音楽を聞きながらカレーセットを食べました(天気のいい日ならベランダで飲食もできます)。

 そこから「ねむの木こども美術館」まで、1キロ弱の道をゆっくりと往復しました。

 こどもたちの絵には不思議な力強さというか、生命力があるように感じました。美術館の建物も、どこかの農家をまねて設計したのではないかと思いますが、しっとりとしたものでした。

 1年に1度は来たいな、と思いながら家路につきました。(2008年05月13日執筆)

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聖火リレー

2008年05月06日 | サ行
     聖火リレー

 聖火リレーが近代五輪に登場したのは1936年開催のベルリン大会だった。その8年前のアムステルダム大会で「聖火」が初めて使われ、ベルリン大会で「リレー」が加わった。

 なぜ、聖火リレーになったのか。

 国威発揚を狙ったということは容易に想像がつく。1933年01月に政権を握ったヒトラーは、オリンピックを国家プロジェクトと考えていた。国民の結束を強め、ドイツの発展を誇示する。聖火リレーはそのために不可欠な仕掛けだった。

 驚かされるのは、ギリシャが特別な意味をもっていたことだ。

 ヒトラーは「ドイツ人は古代ギリシャ人の直系子孫である」と唱えていた。ギリシャとドイツとを結びつける聖火リレーは、この妄想を真実と思いこませるための手段でもあった。

 暗黒の時代はすでに始まっていた。ユダヤ人への迫害が始まり、ドイツ選手団からユダヤ人を排除しようとした。

 1936年07月20日、オリンピアの丘で採火された聖火を掲げた走者が北方へと走り出した。伴走するラジオ記者の中継に、ドイツ国民は熱狂した。

 13日目、スタジアムで最後の走者を迎えた観衆は「ハイル・ヒトラー」と独裁者をたたえた。(ダフ・ハート・デイビス著「ヒトラーへの聖火」)

 なにも、北京五輪の聖火リレーに異議を唱えようというのではない。ただ、聖火リレー誕生の秘話を知っておくことも無駄ではなかろう。

  (朝日、2008年05月01日。脇阪紀行)
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モザイカルチャー

2008年05月05日 | マ行
     

浜松市で2009年09~11月に「浜松モザイカルチャー世界博2009」が開催される。

 モザイカルチャーは、モザイクとカルチャーを組み合わせた造語で、金属製の骨組みに土を詰め、色とりどりの植物の苗を植えつけた、いわば立体花壇のこと。

 19世紀のフランスで生まれた。

 世界的なコンテストが2000年から3年ごとに開催されており、4回目の浜松は国内初開催となる。

 (朝日、2008年05月03日)

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パリの5月革命

2008年05月04日 | ハ行
     パリの5月革命

          一橋大教授、鵜飼哲

 「68年5月」は、この出来事の当時の世界的な波及力とは裏腹に、このところフランス固有の歴史的文脈で論じられる傾向が強い。

 その一因はニコラ・サルコジ現大統領が1年前の投票直前の集会で「68年5月」の精神的遺産の清算を唱え、この40周年がにわかに思想闘争の様相を帯びたことにある。

 サルコジ氏によれば「68年5月」は善悪、真偽、美醜の区別を抹殺し、個人主義を蔓延させ、人々の心に家族、社会、共和国に対する憎悪を植え付けた。いまやフランスこの「業病」から解放されるべきだ、と彼は主張する。

 対抗の論陣もすばやく形成された。哲学者のアラン・バディウは「68年5月」清算論を、かつてヴィシー政権がフランス革命の「負の遺産」の清算を唱えたことになぞらえ、国家再建のモデルが現在ではドイツからアメリカに代わっただけだと主張する(「サルコジとは何の名か?」)。

 1968年03月、パリ西郊外ナンテール校で生まれた学生運動は、05月初めにパリ市内で学生と機動隊の激しい衝突に発展する。やがて労働者が学生に連帯してゼネストに突入し、フランス全国の社会的機能は数週間にわたって停止した。

 数々の新しい言葉と歓喜の情動に彩られたこの運動は、しかし、ドゴール政権の解散総選挙戦術の前に議会派と反議会派に分断され、06月の総選挙では与党が圧勝、事態は急速に終息に向かった。

 だが、このような政治過程の背景には、家族、企業、学校における旧弊な支配関係への異議申し立て、大学の危機に対する告発、女性差別、同性愛者差別からの解放の希求、ヴェトナム戦争への反対、高度資本主義の大量消費、環境破壊、スペクタクル社会への批判など、よりよい世界を求める多様で強烈な欲求が渦巻いていた。

 学生運動の指導者ダニエル・コーンベンデイツトが閣僚からドイツ系ユダヤ人として指弾されたとき「私たちはみなドイツ系ユダヤ人」というスローガンが叫ばれたように、そこには国や民族の境界を超えた連帯の精神が息づいていた。

 サルコジ大統領の「68年5月」清算論は日本で安倍前首相が唱えた「戦後レジーム」脱却論とも一脈通じるところがあり、問題の根はおそらく普遍的な性質のものだ。21世紀初頭の世界的危幾は、「68年5月」の問いかけがいまだ十分な答えを得ていないことにこそ起因するのではなかろうか。

  (朝日、2008年04月26日)
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