マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

まちづくり 家守

2014年10月30日 | マ行
 補助金ゼロのまちづくり 

 「地方創生」のかけ声がかまびすしくなるなかで、「家守」(やもり)を増やそうと地道に活動する市民がいる。

 ヤモリといっても、トカゲに似た生き物のことではない。むかしの江戸で借地・借家を管理してまちづくりの世話をした民間人のことだ。江戸時代後期、町人人口約60万人と言われた江戸のまちに、約2万人いたと伝えられる。

 まちづくりの主役はあくまで市民。江戸時代のような民間主導のかたちで、さびれゆくまちを盛り上げよう──。そう呼びかけるトークイベントに先日、顔を出した。

 語り部は、北九州市の商店街再生を手がけ、今年5月に国土交通大臣賞を受けたまちづくり会社「北九州家守舎」代表を務める建築家の嶋田洋平さん(38)である。

 会場は、東京都豊島区にあるおしゃれなカフェ。トークが始まり、覚醒剤撲滅キャンペーンをもじった刺激的なフレーズが音声とともにスクリーンに映し出された。

 「あなたは補助金やめますか? それとも人間やめますか?」

 「現代版家守」の理念の柱は「市民の自立」と「補助金ゼロ」だ。国や自治体は地域活性化のための補助金メニューを用意しているが、嶋田さんは「補助金は麻薬と同じ。市民の自立心をそぐような補助金に頼るな」と訴える。

 家守構想では、建築家や飲食店オーナー、研究者、市民らが「家守チーム」をつくり、不動産オーナーとともに知恵を出す。例えば身銭を切って空き店舗におしゃれな飲食店をつくり、にぎわいを取り戻す。その結果、補助金がなくても収益が上げられるまちができあがれば成功だ。

 現代版家守の提唱者で、岩手県紫波(しわ)町の町有地で進む公民連携事業「オガールプロジェクト」など、多くの補助金に頼らない試みを支える都市・地域再生プロデューサーの清水義次さん(65)は言う。

 「税金の源は民間のかせいだお金。民間が補助金に頼るのは逆転した発想だ。人口減少時代のいま、事業をシビアに考え、空いた建物や土地があればそれを使い、新しい産業と雇用、利益を生んで税金を払う。その当たり前の姿に戻さなければ、いつか財政は破綻し、まちは死んでしまうかもしれませんよ」

 むろん補助金を全否定はしない。現代版家守の育成と普及を図るリノベーションスクールという事業は補助金を受ける。ただそれ以外は、とことん民間の自立にこだわる。

 安倍晋三首相は「ばらまき型の投資は断じて行わない」と宣言した。けれど、どうも国・自治体の議論は予算配分に熱が入りがちだ。

 公共事業費の消化が追いつかないとか、来年度予算で地方創生特別枠をつくるとか。そんな話を聞くと、またぞろ選挙目当てのどんぶり勘定にならないかと心配になる。

 かたや現代版家守は最近にわかに注目を浴び、清水さんや嶋田さんは引っ張りだこだ。予算額でははかれない、市民のがんばりを応援する環境づくりに期待したい。

(朝日、2014年10月26日。編集委員・前田直人)

「文法」のサポート、詳細索引・従属文(副文)

2014年10月29日 | 「関口ドイツ文法」のサポート
101──文の分類
108──主文に従属文が先行した場合

111──従属文での定形正置
119──従属文での定形倒置
126──従属文での定形先置
133──副文と変則的定形後置

137──主文化された従属文

746──従属文中の動詞の時制
819──副文中の再帰代名詞

1028──疑問詞で始まる副文と接1
1054──副文に直接法を使う場合
1082──副文中に2つ以上の定形(文)がある場合

1151──従属文の位置

1177──副文でのnichtの前置

1296──譲歩の表現の従属文
1307──認容の表現の従属文

1398──副文中の前置詞句を接続詞の前に置く

1424──断り書きとしての従属文
1493──副文とコンマ


雑司ケ谷霊園

2014年10月26日 | サ行
 生前の約束で〔漱石の『こころ』の〕先生はKの遺骨を雑司ケ谷の墓地に葬る。この墓地は、漱石も眠る雑司ケ谷霊園(東京都豊島区)とされる。

 広さ約10万平方㍍で約9000基の墓がある。江戸前期に薬草園として整備され、のちに将軍の狩りに使うタカの飼育場所に。

 1874(明治7)年に東京府によって共同墓地となった。漱石と縁の深い人物もここに眠る。親友で東京市長を務めた中村是公、門下生の森田草平、漱石が東大で講義を受けた独哲学者ケーベルらの墓がある。

 「空を隠すよう」なイチョウの木、「金色の落葉で埋(うず)まる」地面など作中描かれる風景は今にも通じ、散策に訪れる人も多いという。豊島区は、著名人の似顔絵や墓のイラストを載せた「霊園マップ」を2008年に作成。霊園の管理事務所などで配布し、発行部数は累計13万部を超える。   (朝日、2014年09月17日。竹内誠人)

 感想・東京にいたころの我が家の近くなので、懐かしいです。しかし、当時はホームレスの人たちのねぐらになっていたという面もあります。今はどうなのでしょうか。

私の研究生活

2014年10月24日 | 読者へ
 「ブログ入力をお休みになり、『小論理学』、『関口ドイツ文法』御改訂・御完成に集中して頂き度存じます」という読者からの意見について、箇条書き的なお返事をします。

第1点。私は「常に数本の連載を抱えている流行作家」のように、複数のテーマを同時進行的に追求しています。
 
ベースに成っているのは、ブログ百科事典としての「マキペディア(第一と第二)」の拡充の仕事と時々に出てきた問題への意見表明です。その上に、主たる仕事や従たる仕事があります。それは、現在なら、それぞれ、『小論理学』(未知谷版)の仕事と『関口ドイツ文法』第2版の仕事です。

『関口ドイツ文法』の第2版のための準備は常にしていますが、それは主として用例集めです。今は、その『小論理学』(鶏鳴版)の改訳の仕事の中で出てきたものを集める事が中心です。が、文法は本質的に比較文法だということを最近、特に意識するようになりましたので、英訳2種類のほかに仏訳2種類も見るようにしています。ただし、仏訳にはZusatzの訳はありません。先日までは朝日新聞に『こころ』が連載されていましたので、英訳の新しいのを入手し、仏訳も取り寄せて、使いました。

最近、特に強く意識するようになった第2の点としては、ドイツ文法を「比較文法的に」研究するからと言っても、何も原典としてドイツ語のものを採用するのが正しい、という事にはならない、という事です。なぜなら、或る「意味形態」を表現するための「文法形態」をすべての言語が持っている訳ではなく、特定の言語しかそれを持っていないという事があるからです。例えば、日本語の副助詞の「ハ」がその例です。です。これの主たる機能は「主題の提示」です。「主語の提示」ではありません。

関口存男でさえ三上文法を知らなかったために、「ハ」を主語を表すものと理解し、「総主論」の立場に立っています。関口が「強調的先置」としているものは、8割くらいは「強調」ではなく、「提題的先置」というべきものだと思います。例えば、Das weiß ich schonのDasです。ですから、関口自身、「強調的先置」は「何々は~」と訳すと当たる、と言っています。

そうすると、例えば「フランス語独特の文法形態」が出てきた時、「独英日はそれをどう処理しているかな」という問題意識を持つことができるのです(本当はロシア語なども読めるといいのですが、私の語学力では無理です。済みません)。従って、少し遅きに失した感がありますが、今では、原典としては独英仏日を均等にするように気を付けています。

幸い、特に仏訳との比較で新しいことに2点、気づきました。その1つは「事が事だから」という日本語をどう処理するかです。独と英は言わば兄弟か姉妹関係の言語ですから、両者で一致することは多いですが、仏を見てみますと、異なっている場合が結構あります。

第2点。私が「休憩」と言いますのは、今の場合で言いますと、その「主たる仕事である『小論理学』の改訳を先に進めることを中断する」ということです。そして、それに関連したことをするということです。今回は、本質論まで終わったので、関連したものを読んで反省してみようと思ったのです。選んだのは、寺沢恒信訳『大論理学2』(本質論)への「付論」です。

寺沢は、『大論理学1』(存在論)で初版を読んで再版との違いを知ってびっくりし、両者の比較をしました。それが「哲学する」ことだと思ったようです。幸せな人です。ともかく訳文以外に書くことが出て来ました。その内容については、特に「始原論」については、既に批評を書きました。

ヘーゲルは「本質論」も再版を書くつもりだったようですが、突然の死で叶いませんでした。そこで寺沢は「再版が書かれていたらどうなっていただろうか」という問題を立てました。今回は比較対象として再版の代わりに『小論理学』を選びました。いくつかの点で両者を比較していますが、「比較的簡単な場合から検討」するということで、「現実性論」の比較から始めています。それを読んでみて、「違うのでは」と思いました。寺沢の結論は「再版が書かれたとしても現実性論は初版とほとんど違わなかっただろう」ということですが、疑問を持ちました。

まず、『小論理学』の現実性論の第142節から149節までを「前書き」として、小題の付いている第150節以下だけを「本文」としていることです。そもそも寺沢は「内容目次を付ける」という「方法」を実行していません。知らない訳ではないと思いますが。

『大論理学』には『小論理学』のような「節」はありませんが、それでも「文脈を明確にするために」、場合によっては適当な「段落」の頭に「内容見出し」を付けた方が好かったと思います。特にヘーゲル読解ではこれは必須だとさえ思います。「訳注の中で文脈の説明はしている」と言うかもしれませんが、不充分です。ゼミでもそういう練習を指導していませんでした。

第3点。他者を批判するなら対案を出さなければなりませんから、私は『大論理学』の現実性論を読み直しました。大したことはありませんでした。一読してこれがスピノザ論だと分かります。ここで出てくるのは「実体」「属性」「様態」ですから。実際、ヘーゲル自身、「スピノザの哲学とライプニッツの哲学」と題した注釈を付けています。

ではなぜここにそれを出したのでしょうか。私の考えでは、ヘーゲルとしては、スピノザの実体・属性・様態の概念をどこかで扱いたいというか、扱わないわけにはいかない、と考えたのでしょう。しかしどこにどう位置づけたらよいか、自信が持てなかったので、ここに置いたのだと判断しました。

私は続いて『哲学史講義』でスピノザとライプニッツを読みました。これも別段の事はありませんでした。しかし、それと並行して「『イエーナ論理学』でも読んでみるかな」と思って読んだのが大成功でした。

ラッソンの編集した哲学叢書版で読んだのですが、その48頁に「ヒュームによる必然性の証明の否定」が出てきます。ここでひらめきました。「ヘーゲルは因果等の必然的関係をどうしたら証明できるかと考えたのだ」と。そして、カントの答えでは満足できなかったヘーゲルは、「1つのものの2つの部分ないし側面」と理解しなければ「必然的関係」は証明できないと気付いたのです(一番分かりやすい例を出しますと、作用と反作用は1つの力の2つの発現形態ですから、同じになるに決まっているわけです)。それが実際には実体性の相関関係と因果性の相関関係と相互作用の関係となったのです。ですから、この3つは必然性の下位形態なのです。

『哲学史講義』でもヒュームの所を読み返してみましたが、そのような事は全然書いてありませんでした。せめて「問題に気づかせてくれてありがとう。自分の見解は必然性の3形態です」くらいの事は書いてもよかったでしょうに。そうすれば、『哲学史講義』なら『イエーナ論理学』よりはるかに多くの人が読みますから、気づく人も出ていたと思います。

寺沢は卒業論文で、たしか『イエーナ論理学』の「目次」か何かを、原稿のドイツ文字が紛らわしくて、編集者が読み違えたのだろう、とかいった推測を書いたはずです。ゼミで得意げに話していました。目次だけでなく、内容も読めばよかったのに、と思いました。

「再版でどうなったか」は分かりません。私なら、『大論理学』の「本質論」の第3部の「現実性」は、偶然性と可能性と必然性に三分し、最後の必然性の下位形態として上の3つを置きます。そして、相互作用から「世界の一般的相互関係」を引き出して、「概念(の立場)」を導出します。要するに、「弁証法の弁証法的理解(2014年版)」の第4節のようにします。

『イエーナ論理学』の76頁では「相互作用で相関関係の概念が成就された」として、そこから「思考の関係〔概念の世界〕」即ち「普遍と特殊」に移行した」と結んでいます。この時点(1802年頃かな)では「個別」は入っていなかったようです。

第4点。ついでに、寺沢の最大の欠点は「自分の哲学の反省が欠けている」ことです。自分の『弁証法的論理学試論』で「発現の論理」の中に「必然性と偶然性」を入れ、「発展の論理」の中に「現実性と可能性」を入れたこと及びその内容を全然反省しておらず、再検討していません。これでは哲学とは言えないでしょう。

5点。この現実性論には2つの「実体」が出てきます。これをどう考えるかも問題ですが、そう難しくはありません。スピノザ的実体は、「宇宙の実体は何か。物質的なものか精神的なものか」といった場合の「実体」です。これを「宇宙論的実体」と名付けましょう。もう一つの「実体」は「機能」に対立する実体です。機能や性質の担い手としての実体です。Substanzen(諸実体)という複数形が出てくるのはそのためです。これを「個物的実体」と名付けましょう。

第6点。かくして私の今回の「小休憩」は「大休憩」となりました。時間的に「大休憩」に成っただけでなく、内容的にも「大休憩」になりました。学問ですから、こういう事のあるのは仕方ありません。

「これくらいの事にこんなに時間がかかるのか」という批判もあるかと思いますが、私は本を読むのが遅いのです。それに勉強時間が短いのです。白川静は午前も午後も夜も勉強したそうですが、そんな事をしたら私はいっぺんに病気になってしまいます。ですから私は「鈍足のマラソンランナー」なのです。

「休憩」はまだ終わっていません。今、許萬元の『ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理』の中の圧巻である第3章(「現実性の実践的概念」)の再検討にかかりました。この後、「概念論」の冒頭の「概念一般について」もこの際読み返すつもりです。しかし、もうそう長くは掛からないでしょう。ともかく『小論理学』(未知谷版)の仕事はしているのです。

 第7点。意見をくださったKさん(実名は分かっています)の発言の仕方について一言します。こういう意見を言う場合は、「『小論理学』(鶏鳴版)または『関口ドイツ文法』を自分はどう使って、どういう感想を持ったか」といった発言もほしいものです。そうでないと「自分の事を言わない醜い日本人」に成ってしまいます。自分の頑張っている様子を発表するのが他者を励ます最良の方法だと思います。

 「マキペディアを読んでいます」との言葉を聞くこともありますが、「本当に読む」とは「それについて小論文程度の文章を書く」場合だけだと思います。その程度の文章も書かないのは「文字面をなぞっている」と言うべきだと思います。メルマガ時代に比べて、内容のあるコメントを書いて下さる方がほとんどいなくなりました。寂しいです。

 第8点。「ブログ入力をお休みになり」と言いますが、この「休憩」の間に発表しました「実証主義的社会学の意義と限界」とか「理論と実践の統一の真意」などの文章をどう考えているのでしょうか。つまり、『小論理学』等の仕事とこれらの論文との関係をどう考えているかということです。

私は、これらの論文のような考え方が出来るようになるためにヘーゲルを勉強しています。つまり、こういう論文で世の中の間違いを正す仕事が「目的」で、ヘーゲル研究はそのための「手段」です。又、関口文法の研究は「ヘーゲルを一層自信を持って読む」ための「手段」です。

皆さんはどういう目的で私の仕事を待っていらっしゃるのでしょうか。それを自分にはっきりさせてほしいと思います。と言いますのは、どうもこの点の曖昧なのが皆さんの勉強が進まない原因ではないかと推測するからです。「目的」がはっきりしないと、自分の勉強(研究)が十分か否かを「測る尺度」が無いことになるからです。

上に述べましたように、私の研究では「目的」がはっきりしています。ですから、才能の無い私でもいくらかの成果を上げることが出来たのだと思っています。我が人生の本当の目的は「公正な世の中にしたい」ということです。ですから、2011年の市長選挙に「仮」立候補さえしたのです。今でも、機会さえあれば政治ないし行政に関わりたいと思っています。この点でも私は、フランス革命に対する共感を終生持ち続けたヘーゲルの弟子です。

第9点。寺門伸の研究についても同じ欠点があると思います。皆さんから教えていただき、また友人のSさんから「かつて寺門さんとは三修社の『Mein Deutsch』の編集で一緒に仕事をしていた」と聞いて、自分の無知を反省しました。別の文章を書くほどの事もないと思いましたので、ここに短評を書きます。

意味形態論(1999年)のほかに2001年に発表したらしい「二重否定について」の論文を読みました。とても驚いたことには、そこに「意味形態」という言葉が全然出てこなかったことです(もし私の見落としでしたら、教えてください)。何のための「意味形態論研究」だったのでしょうか。意味形態論は文法研究のための「方法」の1つなのです。実際の文法研究の前に意味形態論を研究するとは、「水に入る前に泳ぎを習う」という正真正銘のカント主義です。この場合のように、「意味形態」を論じた後での文法研究にその意味形態論を使わないのも同じです。成果の出ないのは当たり前です。

内容的にも「意味形態」という言葉を使えば簡単に済むところがあります。nicht schlechtです。つまり、「文法形態」としての二重否定(1つの文の中にnichtを2度使う)は「意味形態」としての二重否定の1つの在り方でしかないのです。このように「文法形態」と「意味形態」を対比的に使えるようにならなければ意味形態論を書いても意味がありません。

そもそも寺門のこの論文には区切りがなく、全体の論理構成が見えにくくなっています。「(論理学でいう)論理」という言葉が2回出てきますから、論理学を勉強した事はあるのでしょうが、「文章全体を論理的にまとめて、題を付けて章節にまとめる」練習をしていないようです。

参考までに、私の案を次に書きます。

第1項、問題の確認
第2項、二重否定の二義(1頁の下から5行目の「二重否定というと~」以下)
第3項、それの検討(3頁の中ほどの「このことを~」以下)
第4項、二重否定の変種(3頁の下から3行目の「ところで」以下)
 その1、nicht ohne(4頁の中ほどの「これだけでは」以下)
 その2、nicht schlecht(5頁の1行アキの後から)
第5項、二重否定の二義性の根拠(6頁の中ほどの1行アキ以下)
第6項、第5項への注釈、
 その1(7頁の8行目以下)
 その2、(7頁の下から9行目以下)
 その3(8頁の6行目以下)
第7項、二重否定の第3義(「例外なし」)(9頁の頭から)

 私も『関口ドイツ文法』で「二重否定」(1215頁以下)を扱いましたが、内容的には寺門から学ぶものはありました。感謝しています。しかし、関口が既に指摘している「二重否定の変種」(拙著の1217頁)に気づかなかったのはなぜでしょうか。Dudenに載っていないからでしょうか。大欠陥です。

又、「ところで」という「つなぎの言葉」が合計3回出てきますが、これは前後の「論理的関係」を全然示していない言葉ですから、学術論文では原則として使うべきではないと思います。

第10点。要するに、応用しない「理論」などというものは無意味だと思います。寺沢も「認識論」という言葉の好きな人でしたが、「議論の認識論」ひとつ発表していません。

或る時、ゼミの終了後、自治会をやっている大学院生が、大学院生の自治会には学部学生の自治会とは別に独立した権限(大学の在り方について意見を言う権限)を認めるようにとかいう問題で寺沢に意見を言いました。当時、寺沢は、その問題での大学側の委員の一人だったからです。両者譲らず、寺沢は徐々に激してきました。私はここで退席しましたから、その後どうなったかは知りません。

又、博士課程の入試の口述試験ではこういう事がありました。私に対抗意識を持っていた寺沢は「この『存在論』とか『認識論』という言葉はどういう意味で使ってるの!」と、喧嘩を売るような口調で聞いてきました。私は一応答えたのですが、寺沢は「答えられないのは当然で~」と言って、私の日頃の態度を非難しました。「議論は対等な立場でしなければならない」という事すら知らないようです。楽しい思い出です。インターネット時代の今まで生きていてくれたら、面白いことに成っていたでしょうに。

寺沢の名誉のために、冷静な時は公正に振る舞う人でもあるという実例を1つ。1967年秋、許萬元の博士論文「ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理」の完成と審査のために、彼は指導教官である寺沢としばしば二人だけで会うことがありました。その頃、私の論文「『フォイエルバッハ・テーゼ』の一研究」が都立大の哲学研究室の雑誌『哲学誌』に載りました。或る時、寺沢は「許君と牧野君は似てるなあ」とつぶやいたそうです。許萬元から聞きました。

第11点。今、「関口独和辞典抄」を最後まで作り上げることを精力的にやっていますが、これは、「これを、荒っぽくても、とにかく最後までやって『枠組み』を完成させておかなければ、仕事がやりにくい」と判断したからです。

こう考えれば、『関口ドイツ文法』でさえ、今後の前進のための「枠組み」を「とにもかくにも作った」だけでしかないことが分かります。しかし、近いうちに出るであろう『小論理学』(未知谷版)を「鶏鳴版」と比較すれば、この「文法」をまとめたことには大きな意義のあったことが誰にでも分かるでしょう。

いや、敢えて言いますと、ヘーゲルの「エンチクロペディ」でさえ、「枠組み」を提示しただけと言ってもいいくらいです。「だけ」は言い過ぎとしますと、「内容的にも大筋で正しい枠組み」を作ったものだと思います。ヘーゲルは「内在的導出による体系こそが真の学問だ」と言っていましたから、そのような体裁を整えてはいますが、ごまかしている所も多いです。そういう事は一個人に出来る事ではありません。本当にそれが出来ているならば、第2版でなぜ第1版の文章を直したのでしょうか。

 ヘーゲルは「知っていることと認識していることとは違う」ということを言っていますが、それを判別する基準は「知識が『包括的な体系』にまとめられているか否か」です。まとめられていない「知識」でもその中には高低の段階があります。「包括的な体系」にもいろいろあり、高低の区別があります。しかし、この根本的な区別をまず考えなければなりません。この「学問の根本条件」を明確に主張して実際に示したのがヘーゲルの不滅の功績だと思います。私が、「今の大学は、東大を含めて、皆、専門学校でしかない」と言うのは、こういう「学問とは何か」の問題が「その大学の全活動の中心に据えられていない」と考えるからです。

寺門が「二重否定の変態」を見落としたのも、多分、これと関係しています。「二重否定」だけで関口の全著作を調べ直すのは大変ですから、それをしなかったのです。しかし、初めから「ドイツ文法の全体を自分なりにまとめよう」という「目的」を持って関口の言葉を集めて整理し、自分でも用例を集めて整理していたならば(私は不充分ながらそうしたのですが)、その中には「二重否定」という項目があったでしょうし、その項目には多分「二重否定の変態」が収集されていたでしょう。「包括的で体系的に」まとめる事にはこういう意義があるのです。全体像を無視した「部分の研究」は、理工系ならいざ知らず、人文系の学問では学問たりえないのです。

 日曜大工を始めた頃、家(親の家)で付き合いのあった棟梁に「大工の修業って、何から始めるのですか」と聞いたことがあります。答えて曰く、「カンナ掛けだね。カンナ掛けをすると、仕事の全体が頭に入ってくるんだよね」。この「理由」が印象に残りました。「常に仕事の全体像を持とうとし、部分に携わっている時でも、その全体像を正確にしてゆくことを忘れないこと」。これは誰でも「無意識には」していることなのですが、これを意識化して提示するのが哲学の仕事の一つだと思います。

第12点。かつて「物陰から人を打つような卑怯な事はするな」というような事を言いましたので、最近は名前を書いて意見や批判をする人が増えました。しかし、なぜ名前を書く必要があるのかまでは考えていないようです。それは、その批判者に「批判する資格」があるかを誰でもが確かめられるようにするためだと思います。

批判は自由と言っても、資格が必要な場合もあるのです。ですから、自分の実績をきちんと発表していないと「批判する資格」があるか否か、他の人には判断できませんから、名前を書いただけでは無意味なのです。

 時枝国語学の信奉者や三浦つとむ哲学の支持者はよく牧野批判をしてくれます。多分、偽名を使って。しかし、「関口ドイツ文法」をまとめた人を批判するためには、まず自分自身に「時枝日本語文法」という題の「包括的で体系的な日本語文法」を出してある必要があります。あるいは、「三浦哲学の論理的再構成」といった本を出すことが先決です。その前に他者批判をするのは本人にとっても学問にとっても有害無益です。時枝や三浦はこういう事すら教えていないのでしょうか。情けない学問です。

 第13点。そうはいっても、いつまでも「休憩」しているわけにはゆきません。12月で75歳になります。仕事をし残して死んだ関口さんの轍を踏まないようにと戒めています。後十年くらいは出来ると考えて、すべき仕事の重要性と必要時間を考慮し、全体の割り振りを間違えないようにしなければならないと思っています。

一番警戒しているのは交通事故です。かつて「文法」の校正で疲れた時、自律神経失調症になりました。運転していて、ブレーキを踏もうと思っても足が動かなくてあわてました。田舎でしたから、大事には至りませんでした。2度とそういう事のないように、「勉強をしない日」を意識的に作っています。しかし、今回の「大休憩」ではやはり「頑張りすぎたかな」と反省をしています。少し疲れました。文字通りの「休憩」が必要です。

19日には縄文楽校の稲刈りに参加してきました。秋晴れで楽しかったです。何年振りかな、と考えてみたら、大学院生だったころ、信州で勉強していた時、近所の農家に「やらせてください」と言ってやった時以来なので、50年ぶりだと気付きました。5月の田植え(手植え)は、たまごの会の八郷(やさと)農場(茨城県)でやったので、30年ぶりくらいだったと思います。

そういうわけで、間もなく「主たる仕事」に戻る予定です。今後もどうぞよろしくお願いします。

2014年10月24日、牧野紀之

「文法」のサポート、詳細索引・von

2014年10月23日 | 「関口ドイツ文法」のサポート
157──von etwas reden
331──数量を規定するvon
332──die Lehreやdie Theorieを規定するvon
335──動作名詞の主語を表すvon

339──動作名詞の目的を表すvon
378──連語の頭に使うvon
388──同語を対立させるvon .. zu

535──方角の形容詞に付くvon
560──ein Fieber von 38 Grad
573──ein Tropfen von Wasser

583──パーセントのvon
646──ein Nachbar von ihm
938──被使役者を表すvon

1119──時の副詞を名詞に附置する場合
1321──能動主を表すvon


ニュージーランド流酪農

2014年10月22日 | ラ行
                酪農学園大学教授・荒木和秋

 7月に「ニュージーランド(NZ)・北海道酪農協力プロジェクト」が発表された。NZ政府が道内4戸の放牧酪農家に技術者とコンサルタントを派遣して調査分析とアドバイスを行い、放牧経営の指標を作成する。海外の政府が直接、農家の指導に当たるのは極めてまれなことだ。

 日本とNZは、生乳生産量が20年前は共に年間860万トンと肩を並べていたが、昨年度は日本が745万トンに減少する一方、NZは2000万トンに迫る勢いである。なぜこのような違いが生まれたのか。

 NZでは、半世紀以上前に合理的な営農システムが確立した。大きな圃場(ほじょう)に長期間牛を放しておくのではなく、圃場を電気牧柵で区切り、毎日牧区を替えていく集約放牧が実践された。短い牧草は高栄養で穀物を不要とし、年間放牧で牛舎もいらない。省力的な搾乳場も簡素ながら早くから整備された。

さらに春から夏に伸びる牧草を産後の牛が食べられるよう分娩を春先に集中させる季節繁殖は、乾乳期となる冬の農閑期を作り、長期休暇を可能とした。それに加え、酪農民でも夕刻には仕事を終え、生活を優先する作業スタイルは若者を多く集めている。

 一方、日本では年間を通した繁殖と生乳生産が、酪農民の年中無休を作りだした。機械化や立派な施設は規模拡大を可能にしたが、長時間労働と負債の増大につながった。関税ゼロの輸入穀物の多給は安価な時代には多大な利益をもたらしたが、高騰すると裏目に出た。農協も販売手数料を得るため、飼料が売れなくなる放牧には否定的だった。

 だが、日本でも1990年代後半にNZ方式を導入した北海道足寄町旧開拓農協地区では8年間でコストが2割下がり、所得も増えて後継者が戻っている。道内では新規参入者の多くが放牧酪農を実践しており、道外でも入会牧野や耕作放棄地などを使って導入可能ではないか。

 NZで合理的な営農システムを築くことができたのは、少ない人口の下、いかに省力化するかを絶えず追求した結果である。国の行財政改革で補助金がほとんど無くされたこともあり、日本の4分の1という低コスト酪農の実践で生き残りを図ってきた。逆に日本では手厚い補助金行政が推進されて高コスト体質となり、酪農が裏返しているというのは皮肉な結果であろう。

 貿易自由化など将来への不安から離農者が増える中、納税者から支持される低コストで、かつ若者から支持されるゆとりある営農システムの構築が急がれる。(朝日、2014年08月24日)

 感想・ノルウェーの漁業とかドイツの林業とか、日本でも学ぶような動きがあるようですが、どれだけ広がっているのでしょうか。政府はこれらからどう学んでいるのでしょうか。

     関連項目

ノルウェーの漁業

東京都写真美術館

2014年10月21日 | サ行
資生堂名誉会長・福原義春

 私は、経営者として企業組織を動かすとともに、個人として非営利組織や公益法人の運営に関わってきた。さらに2000年には、公立美術館の館長として、公務員集団を率いる機会を得た。

 東京・恵比寿に、東京都写真美術館がある。1990年に開館した、日本では数少ない写真と映像専門の美術館だ。しかし、3代目館長の徳聞康快氏が逝去した後は館長不在の状態で、廃止が取りざたされたことさえあるという。

 その活性化のために、私は2000年に館長職を拝命した。当時の石原慎太郎都知事は、依頼に戸惑う私を誘って自ら館を案内し、ひとまわりすると、「もういやとは言わないだろうね」とほほ笑んだ。

 当時、公立文化施設の長に民間の経営者を据えることが一種のはやりだった。民間の手法で官僚組織を変革することが狙いだったのであろう。

 はたして就任してみると、設備や収蔵作品以上に、組織と館員の発想の硬直化に問題があると感じた。しかし、さらに観察してみると、個々は優秀で意欲もあり、見習うべきところも多かった。民が良くて官が悪いという単純な問題ではないとわかったので、さまざまな試みに着手した。

 まずは、ピラミッド型縦割り組織の弊害である情報伝達の遅さと不正確さをなんとかしようとした。問題を見つけると、館長の私から、学芸員や受付スタッフら現場の担当者に、直接電話やファクスで連絡した。上意下達の指揮系統しか知らない館員にとって、このやり方は、いわば劇薬であった。いきなり館長から連絡を受けた館員は、驚いて同僚や上司や副館長に相談し、結果的に私のビジョンは迅速かつ正確に全員に伝わるようになった。

 次に、年間入館者数という明確な目標で意識改革を図った。私の就任した年の入館者は約22万人だったが、それを30万人にするという目標を掲げた。多くの館員は到底無理だと反対したが、ビジョンが浸透すると、「ではそのために何をするか」という発想に変わった。学芸員から警備スタッフに至るまで、優れた企画、来館者のもてなしなど、アイデアを次々と出し合って実行するようになった。

 年間入場者30万人という目標は2002年度に達成し、今ではコンスタントに40万人を超えるようになった。

 財政難のために、東京都からの予算が半減する中での健闘が話題になった。しかし、これらはすべて館員の努力のたまものだ。私は単純に民の手法を官に押し付けたのではなく、官と民のいいところを見据えてビジョンを掲げ、モチベーションを高める手助けをしたにすぎない。

 開館からおよそ四半世紀が経った美術館は、〔2014年〕9月24日から2年弱の予定で大規模改修工事に入る。長い休館で皆さまにはご迷惑をおかけするが、さらに良い美術館に生まれ変わることをご期待いただき、ご容赦いただきたい。
     (朝日be、2014年08月30日)

七福神参り

2014年10月16日 | サ行
 七福神参りは都内でもあちこちにあるが、〔台東区の〕谷中(やなか)が一番古い。これは上野寛永寺を開いた天海僧正の創設によるという。

 天海僧正は徳川家康を若いころに知り、いずれは天下人となるお方、とその吉相福相を見抜いた。そして経典「仁王経」の「七難即滅七福即生」の文にもとづき、

 「公は長寿、富財、人望、正直、愛敬、威光、大量の七徳を備えたまい、困難な天下統一の大業を果され、平和な国土を築かれた。これは寿老人(じゅろうじん)の長寿、大黒天の富、福禄寿の人望、恵比須の正直、弁才天の愛敬、毘沙門天の威光、布袋(ほてい)の大量の七徳すべてを兼ね備えたものというべきでしょう」

 と申し上げた。家康公大いに喜び、早速、絵師狩野探幽を召して、宝船に乗った七福神の画を描かせた。これを模写したものが全国に伝わり、おめでたい、縁起がよい、と江戸の民間信仰になっていった。七つの徳を備えてさえいれば、どんな世の荒波にもまれても、楽しく乗り切り、目的地に着けるというのだ。

 江戸時代は、正月二日のお昼から夜にかけてこの七福神乗合船の図を売って歩く人がいた。

 「お宝、お宝、お宝エー、宝船、宝船」

 と早口で節をつけ客を呼ぶ。この半紙には、

 長き夜のとおの眠りのみな目ざめ / 波のり船の音のよきかな

という歌が絵につけられていた。これは下から読んでも同じ、いわゆる回文である。

 この紙を買い、枕の下に敷いて寝れば、おめでたい初夢が見られるという。(森まゆみ著『路地の匂い 町の音』旬報社26-7頁)

お断り

2014年10月15日 | 読者へ
 或る読者から次のご意見をいただきました。

──ブログ入力をお休みになり、『小論理学』、『関口ドイツ文法』御改訂・御完成に集中して頂き度存じます。日本共産党を含む反戦勢力が急伸することはまず望めませんので、秘密保護法施行で御著書が発禁とか伏字だらけとかになりかねませんので。(引用終わり)

 「日本共産党を含む反戦勢力が」以下はともかく、前半については同意見の方も少なくないと推測します。近いうちに詳しくお返事します。少し待ってください。

2014年10月15日、牧野紀之





父兄

2014年10月11日 | ハ行
 明鏡は第1義として「父と兄、父や兄」とした上で、第2義として「学校で、児童・生徒の保護者」と書いています。新明解はその第1義は省いて、初めから「未成年者を保護・監督する立場にある父や兄。広義では、まだ自立していない子供の保護者も指す」という「語釈」を書いています。

 明鏡の第1義で使われる事はあるのでしょうか。まあ、どうでもいいです。第2義が問題です。いや、その説明ははっきり言って間違いでしょう。正しくは「未成年者の保護者という意味で使われることがあるが、間違いである」と書くべきでしょう。

 かつて、保護者を「父兄」と言ったのは、古い家族制度の立場が前提されていたからでしょう。今では、家族制度は、不十分ながら、変わりました。男女同権です。長男(長兄)が妻(母)より偉いという考えは不当です。

 それなのに、今でも、「父兄」はかなり頻繁に使われています。そして、「差別用語」とはっきり意識されていません。辞書でさえ上記のような有様です。

 昨日の朝、と言うのは、2014年10月10日の午前1時過ぎのことですが、NHKのラジオ深夜便を聞いていました。「明日への言葉」の再放送でした。インタビュー番組でしたが、ゲストは佐藤朝代(けやきの森保育園園長)、題名は「園児が、富士山頂に立てるまで」で、 インタビューしていたのは大沢ディレクターでした。そのインタビューの中で大沢は2度にわたって「父兄」と言っていました。驚きました。「皆様のNHK」ではアナウンサーをどう指導しているのでしょうか。

 我が浜松市の広報誌『はままつ』の2014年4月号の25頁の一番下の「④棚田稲作体験」の記事の中に「中学生以下は父兄同伴」とあります。これには驚きませんでした。女性差別で悪名の高い浜松市らしいミスだな、と思っただけでした。

 長女が中学生だったのはもう相当昔の事ですが、そこの校長が又、よく「父兄」を使う人でした。長女は帰宅すると、「校長は又、『父兄』って言ったよ」と笑って報告してくれました。

 「女性が輝く社会を作る」と言っている首相はこの事実に気づいているのでしょうか。

理論と実践の統一の真意

2014年10月04日 | ラ行
 またまた、このテーマを振り返る機会を与えてくれる文に出会いました。大下英治『日本共産党の深層』(イースト新書)と丸山真男対談集『一哲学徒の苦難の道』岩波現代文庫の中で、です。後者は古在由重との対談です。

 前者は以下の文です。

──図書館通いが一年半になろうとするころ、松本〔善明〕は、カントの『実践理性批判』をまた読み返した。カントは、そのなかで、彼に強烈に語りかけてきた。どうしても人間には、こうしなければならないということがある。それが、当然の前提なのだ。実践こそ、すべての前提である。

 〈マルクスこそカント、ヘーゲルのドイツ観念論の流れを受け継ぎながら、世界を解釈するのではなく、変革する立場から発展させた理論だ〉

 彼は、眼の醒めるような思いであった。

〈そうだ。マルクス主義は、実践の理論だ。自分が動かなけれは、生きていく道は生まれないのだ!〉

 彼は得心し、初めて動き出した。その思想を、自分の思想として生きていけると感じた。革命のため、人民のために、命を捧げることを誓い、日本共産党に入党した。(大下英治『日本共産党の深層』イースト新書、109頁)

 後者は、次の3つの文です。

──その1

 丸山 政治活動へのきっかけは……。

 古在 きっかけはむしろ偶然でした。やはり、マルクス主義的立場から一人の学生の書いた倫理学のレポートに、これはよくできていたので僕は百点をつけました。そうしたら、その学生が卒業してからすぐに、たしか前夜からの雪があがって晴れあがった三月の末あたりでしたか、うちへ訪ねてきて、まずいろんな雑談をしたのですね。おそらく、これは「あの先生は傾向がいいわね」というようなことだったと思うのです。そのうちに来訪の動機がはっきりすることになった。「実はモッブル(直訳すれは革命戦士救援の国際組織)という解放運動犠牲者の救援会がある。先生、それに協力してもらえないでしょうか。たしか先生は理論と実践との統一ということを授業のときにおっしゃった」というのですね。

 丸山 一本とられたわけですね。

 古在 ええ、そして「理論の上ではそうおっしゃったけれども、実際上もそれをやっていただけないでしょうか」ということなのですね。そこで僕はちょっととまどったけれども、「協力を否定する理由は少しもない、ただ一日だけ回答を待ってくれ」といった。と いうのは、結局は資金や住宅を提供してくれということらしかったので、これには多少とも危険は覚悟しなければならないから。(古在・丸山真男『一哲学徒の苦難の道』岩波文庫、59-60頁)

──その2

古在 一回目に捕まったときは、僕はなんにも言わないで帰ってきた。それはこの前に言ったように、パラチフスかなんかにかかって、ひどい状態だったのと、両親が重病だったから、執行停止の形でちょっと出された。そのときは、「理論的にはマルクス主義は正しいけれども、実践はやらないで、理論的研究だけを続ける」というので、1933年ころはそれでもすまないことはありませんでした。(152-3頁)

──その3(対談を終えての丸山眞男の感想)

 〔作家や芸術家なら何かを残そうとするのがあるが〕これにくらべると、学者・研究者の場合には、同様の形の記録はまだほとんど公にされていないし、そうした作業についての関心も前二者の場合ほどには高いとはいえない。

 これには一応もっともないくつかの理由があると思われる。第一に、何といっても学者・研究者の生活は、外部的な「事件」という形で現われる部分が少なく、また、政治家・軍人・事業家などのように、個別的状況にたいする個別的な決断ということがすくなくも第一義的な活動の場を構成していない。これは「理論と実践との統一」を志向するマルクス主義学者の場合でも、彼が職業としての学問を放棄しないかぎり、事情は同じである。(201-2頁)(引用終わり)

 日本のトップレベルの知性に属するとされる方々がこのような幼稚な考え方を終生持ち続けたということには本当に驚きますが(松本は存命)、それはこういう考え方がいかに根強いものかを証明していると思います。これまでも私見は述べてきましたから、まともに反論する気にもなれませんが、要点だけ書いておきます。

 ①まず確認すべき事は、弁証法でいうところの「理論と実践の(闘争と)統一」とは、「対立物の闘争と統一」という一般法則の一特殊事例だ、ということです。

②しかるに、「対立物の闘争と統一」とは、対立物は対立物ですから当然互いに排斥(闘争)しあっているのですが、人々は一般にはこの面だけしか見ませんが、それは一面的な見方で、一段高い観点からみると、両者は一致(統一)しているという面もある、ということです。

③ここでは、両者の闘争(不一致)は当然の前提ですが、一番大切な事は、「両者の闘争不一致」も「両者の統一(一致)」も、どちらも、「実際にそうである」という「事実命題」であって、「そうあらねばならない」という「当為命題」ではない、という事です。

④もし、これがそういう当為命題だとするならば、「理論と実践は一致させるべきだ」という事は弁証法やマルクス以前に昔からあった道徳律ですから、特に言う必要もありません。陽明学では知行合一とか言っているはずです。

 ⑤更に、「理論と実践」と言う時、理論とは実践の反省形態だということです。理論研究などを含む人間の全行為について、特定の或る行為が絶対的に理論であったり、実践であったりするわけではない、ということです。

 この事は、「方法とその適用」の関係でも、「手段(道具)と目的」の関係でも同じです。

 さて、これを確認した上で、上に引きました発言の誤りを指摘します。

 松本善明(日本共産党の元代議士)の発言に「世界を解釈するのではなく、変革する立場から発展させた理論」という言葉が見えますが、これは、言うまでもなく、マルクスの「フォイエルバッハに関するテーゼ」の第11番目のテーゼを踏まえたものです。多くの人もこれを踏まえて「理論と実践の統一」を「両者を統一すべきだ」と解釈しています。

 この解釈の根本的な誤りは、この第11テーゼはそれまでの10個のテーゼから引き出される結論として出てきているのに、このテーゼ全体がどういう風に展開されているかを検討しないで、1個の文だけを解釈しているという事です。はばかりながら、このテーゼ全体の論理的構成を研究したものは拙稿「『フォイエルバッハ・テーゼ』に一研究」(拙著『労働と社会』に所収)以外にないはずです。全体を研究すれば、この結論の意味は「現状を肯定する人は解釈という実践をするだろうし、否定する人は変革する行為に出ることになる」という当たり前の事を言っているだけだ、という事が分かるはずです。

 「マルクス主義は、実践の理論だ」に至っては、笑止です。「実践の理論」でない理論がどこにあるというのでしょうか。大学教授として保身を図るのも実践の一形態ですから、そういう「理論」(考え)も「実践の理論」です。ただ、みっともないから、正直には言わないだけです。

 丸山からの引用の「その1」は、典型的な「当為命題」的解釈に立っています。上の説明③で十分でしょう。

 「その2」の「実践はやらないで、理論的研究だけを続ける」という古在の言葉は、上の説明⑤で説明できます。もう少し説明を加えておきますと、「実践はやらないで」と言う時、その「実践」とは「政治活動」とかを意味しているようです。左翼の間では「政治団体に入る、または入っている」ことを「実践」と思っている人も沢山いますが、完全な間違いです。

 そもそも、人間の社会活動(全生活)を社会的存在と社会的意識に二大別した場合は、政治活動は後者に入ります。ですから、もっとも広い意味ではそれは「理論」であって「実践」ではありません。すなわち、経済活動という「実践」の「理論」的反省の1形態が政治(活動)だ、ということです。

ちなみに、マルクスも後半生は経済学の研究に没頭しました。若い頃、「実践、実践」と言っていた人で後年もその「実践」とやらを続けている人は非常に少ないです。私は、或る人に「お前の『小選挙区制反対』の実践はどうなったんだ」と聞いたことがありますが、答えは返ってきませんでした。個人の本当の評価はその人の棺の蓋が閉まってから始まるのだと思います。

ついでに断っておきますが、経済活動などを「土台」と言い、政治などを「上部構造」と言うのは「命名」(ないし「換言」)ではなく「形容」です。経済活動などを「土台」と言い換えたものではありません。「マキペディア」の「土台と上部構造」の項にこう書いておきました。

──「土台が上部構造を決定する」という命題は、少し考えてみれば分かる通り、同語反復的な真理です。2つのものが規定し規定される関係にある時、規定する方を「土台」に譬えるのです。規定される方を上部構造と言うのです。生産関係を土台と名付けたのではないのです。生産関係は土台のようなものだと、生産関係の規定的な性質を譬えで表現したものなのです。ですから、本当は「土台が上部構造を決定する」と言うのではなくて、「生産関係が土台(みたいなもの)で、精神生活は上部構造(みたいなもの)だ」と言ったならば、無用な誤解を生まなくてすんだでしょう。(引用終わり)

 実際、自称マルクス主義の運動程、理論的にお粗末な運動は少ないと思います。その一因はそういう運動組織のトップが、こういう誤解の方が自分たちの役に立つと「感じている」からだと思います。

 「その3」の「『理論と実践との統一』を志向するマルクス主義学者」という丸山の言葉は松本の若いころの「マルクス主義は、実践の理論だ」と同じです。それを青二才左翼ではなく、政治学者として大成した人が平然として言っているのですから、話になりません。

 最後に、理論と実践の統一を事実命題として理解すると、どのような問題があるか、拙著『理論と実践の統一』(論創社)に載せた同名の論文の各節の見出しを載せておきます。

理論と実践の統一(牧野紀之)

  1、理論と実践の統一とは理論と実践は一致させなければならないという意味か。
  2、「フォイエルバッハ・テーゼ」の第11テーゼはどういう意味か。
  3、毛沢東の「実践論」の意義と限界はどこにあるか。
  4、理論と実践の統一が両者は事実一致しているという意味だとすると、言行不一致をどう考えるか。
  5、理論と実践の分裂の意義とは何か。

  6、理論と実践の二元性とは何か。
  7、「○○の思想と行動」という見方はなぜ可能か。
  8、マルクスはこの問題に何を加えたか。
  9、通俗的見解のどこがどう間違っているのか。
  10、或る行為が実践か理論かを判定する基準は何か。

  11、理論と実践の統一の諸段階は何か。
  12、「革命的理論なくして革命的行動なし」という言葉はどう理解するべきか。
  13、個人の成長過程における理論と実践の統一の諸段階は何か。
  14、実践の根源性とは何か。


     関連項目

理論と実践の統一

実践

土台と上部構造

丸山真男