浜松大空襲
昭和20(1945)年、軍都・浜松では8月15日の終戦まで多くの悲劇が生まれた。
昭和20年5月19日昼前、中区相生町の鈴木式織機(現スズキ)の工場付近に爆弾が落ちた。勤労動員された西遠女子学園の生徒は防空壕に避難したが、近くの太い水道管に命中して破裂。水が防空壕に流れ込み、生徒18人と教師1人が死亡した。
死亡した鈴木さだの遺体は、リヤカーに乗せられて夕方、自宅に戻った。妹のみつは母とともに砂利にまみれたさだの体をふいた。西遠では4月30日にも河合楽器製作所などで11人が死亡した。
西遠は毎年5月、慰霊式を開いているが、みつは2015年、生徒たちに当時の体験を校長代読で伝えた。大庭知世校長(58)は「女性は平和を望みます。戦争の悲劇は語り継いでいく」と話す。
「市民の木」が今も
6月18日0時40分、後に「浜松大空襲」と呼ばれる激しい攻撃で市街地は壊滅。焼夷弾(しょういだん)は推定6万5千、死者1157人。市内空襲死者の47%。市街のプラタナス46本のうち3本が残った。浜松駅前に「市民の木」として今も立つ木は、その1本だ。
米軍は3月10日の東京大空襲を皮切りに大阪など大都市への無差別爆撃を開始。6月には地方都市へ拡大し、最初に浜松、四日市(三重県)、大牟田(福岡県)、鹿児島を爆撃。県内では19~20日静岡、7月7日清水、17日沼津と大規模空襲が続いた。
ところで、浜松はなぜ軍都になったのだろうか。大きな要因が三方原台地の存在だ。未開発で広大な大地が注目された。第1次世界大戦で航空機が主戦力になり、日本軍はフランス航空技術団を招き、三方原を爆撃訓練場とした。
遠州は航空と関係が深かった。大正11(1922)年、磐田市掛塚の福長飛行機製作所が日本最初の旅客機「天竜10号」を完成。大正12年に朝日新聞社が主導して東京・大阪間の定期航空を始め、三方原を発着した。この時、政府から指導官として派遣された永淵三郎大尉が、後に日本楽器製造(現ヤマハ)に移り、プロペラ生産に携わった。
大正15(1926)年、飛行第七連隊が現在のホンダ浜松製作所の場所に設置された。その後、航空関係の部隊が増強され、中国やアジア空爆の拠点となった。
米海軍が戦果誇示
7月29日23時19分、遠州灘から戦艦サウスダコタなど17隻の部隊が1時間30分近く、浜松市街地に艦砲(かんぽう)射撃。砲弾は猛烈な音を伴って着弾し、市民は恐怖した。米軍上陸のうわさも飛び、北遠の二俣方面へ逃げる人の列ができた。
過去の無差別爆撃を主導した陸軍航空軍の少将ルメイは、この艦砲射撃は海軍が主導したと自伝で書く。「我々は浜松の写真を示して『砲撃は弾薬の無駄遣い』と伝えた。しかし、海軍は実行し戦果を誇示した」。浜松は米海軍の手柄の犠牲になった。
軍需工場で最大標的になった日本楽器社長の川上嘉市は短歌を趣味にした。浜松城に近い高台から焦土の街を見渡して、こう詠んだ。
「焼けあとの 荒野ぞわびし この町の 高さも低さも ただひと目にて」=敬称略
(朝日、静岡版、2019,08,09。長谷川智)
感想
事実を好くは知らない我々にはありがたい情報です。
浜松には復興記念館という施設があります。先日、何十年ぶりかに中に入ってみました。前に来た時より新しくなっていました。しかし、この建物の目的と実際の在り方ないし運用は一致しているのでしょうか。疑問です。