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マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

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ながく、牧野紀之の仕事に関心を持っていただき、ありがとうございます。 牧野紀之の近況と仕事の引継ぎ、鶏鳴双書の注文受付方法の変更、ブログの整理についてお知らせします。 本ブログの記事トップにある「マキペディアの読者の皆様へ」をご覧ください。   2024年8月2日 中井浩一、東谷啓吾

ラウンド制(集団での議論のやり方の1つ)

2018年09月05日 | ラ行
これは川喜多二郎氏のKJ法を手掛かりにして生まれた話し合いの方法です。

 まず、発言の順序をどうするかを決めておく。自由発言は一切認めない。あらかじめメモを作っておいて発言するのを原則とする。

 カードを配り、そのカードに書かれている番号順に意見を言うのも1つのやり方。出席者が円を作っている場合なら、左周りとかに決めても好い。

 第1ラウンドと第2ラウンドで発言の順序を変えても好いが、それは本質的な問題ではない。
 何ラウンド廻すかは時によるが、前もって決めておく。
 いずれにせよ、第1ラウンドと第2ラウンドとの間には10分位の休憩と言うか、考えをまとめる時間をおく。その時も、メモを作っておく事を奨励する。
 休憩時間中に発言してはならない。

 大切なことは、同一ラウンド内では、後の発言者は自分より前の発言者の意見について何かを言ってはならない。それは次のラウンドでのみ許される。

 ラウンド制の利点。
 ①言い合いがなく、激昂する事がない。
 ②全員に完全に発言権が保障される。
 ③口がうまく、押しの強い人が勝つような事がない。

 ラウンド制における採決はアンケート調査の別名でしかない。採決して結論を決める場合については、「議論の認識論」を参照。

注・ブログ『教育の広場』2012年2月1日号に載せたものを転載しました。少し加筆しました。

リベラルアーツを考える

2017年03月05日 | ラ行

 次の記事がありました。

 1、最前線、米国の作文教育から学ぶ

朝日新聞編集委員 三浦俊幸(みうら・としあき)

 米国の大学といえば、日本ではハーバード、エールといった総合大学が有名だが、実は、学部教育に力を入れている全寮制の小規模のリベラルアーツカレッジに根強い人気がある。学部はそこを出て、大学院で総合大学というのも有力コースだ。今月、戦後多くの日本人留学生を米国に送り出したグルー・バンクロフト基金の視察団に同行した。

 リベラルアーツは「一般教養」と訳される。しかし、実態は、訳語から連想される雑多な科目の寄せ集めとはまったく違う。私自身、特派員の仕事や米国の大学での研究員生活を通じて、多少知っているつもりだったが、リベラルアーツ教育の濃密さは予想以上のものだった。

 訪問先はプリンストン(ニュージャージー州)、スワスモア(ペンシルベニア州)、カールトン(ミネソタ州)、ポモナ(カリフォルニア州)の4校。プリンストンは総合大学だが、学部教育に力を入れる。

 4校に共通するのは、思考の訓練の場としての作文教育である。単なる作文講座ではない。個々の学生の興味、専門に応じて細やかな指導が進められ、カリキュラム全体が書く力の養成で貫かれていた。

 ポモナ大で見た新入生向けの授業は、アニメ、小説などを通じて現代日本文化などを学ぶコースで、十数人単位のクラスは、教員との質疑でたえず発言を求められる。1学期に4本のリポートを書かせ、作文指導には、上級生とリサーチを助ける図書館スタッフも加わる。

 ポモナ大のオクストピー学長は、「いまトップ企業が求めるのは、コンピューター科学を専攻しながら、英文学を学ぶような人材です」という。人間の理解やコミュニケーション能力が基本なのだ。プリンストン大の幹部も「何を学ぶにせよ、卒業時には、いい文章を書けるようになっています」と請け負った。

 こうした大学はもちろん全米でも一握りである。米特有の寄付文化に支えられた巨額の基金のおかげで、寮費も含めて年間500万円以上かかる学費も、親の所得によっては、返還義務のない奨学金ですべてまかなわれる。その魅力にひかれて、全米、国外から学生が集まる。

 週60時間の学習を前提にした宿題の量は半端ではない。日本の大学を選ばず、東大、慶応、早稲田を中退して来た日本の学生に会ったが、勉強ざんまいの生活を送る彼らが語ったのは、一方通行になりがちな日本の授業への不満と、双方向性を重視する米国の教育の魅力だった。

 彼らのような学生は少数だが、年々増えている。自分の力だけを頼りに挑戦する姿はたのもしい。だが、日本の大学に魅力が乏しいことが一因であるとすれば、深刻だ。大学教育に何を求めるのか。米国の作文重視は、大きなヒントになる。
(朝日新聞に載ったのは2016年秋ですが、記載するのを忘れました)

 2、牧野の感想

 たしかにここで紹介されている教育は「かなり」立派なものだと思います。しかし、新聞記者ならば、もう少し広い視野から取材をして考えてほしいと思います。欠けている点を書きます。

 ① 「白熱教室」とか言われてNHKTVで大いに紹介されました授業についてはどう考えるのでしょうか。

 ② それを、あるいはそればかりNHKが大々的に宣伝したことをどう考えるのでしょうか。

 ③ 財政的な基礎として、アメリカでは「寄付」や「資産の運用」が大きな役割を果たしているそうですが、日本でそれが出来ないのはなぜなのでしょうか。

 ④ 私が数か国の方から聞いた知識では「学級通信」を出している教師のいるのは日本だけらしい(「学校新聞」なら出している所もあるらしい)、まして「教科通信」を出している教師は外国ではゼロらしいのをどう考えるのでしょうか。

自伐型林業

2016年04月28日 | ラ行
              
高知県四万十市の宮崎秞(ゆう)ちゃん(6)には欲しいものがある。ショベルカーだ。お父さんが最近使い始めた姿が格好良く、乗りたくなるのだという。

 お父さんは先週の「eco活プラス」で紹介した宮崎聖さん(37)。自分の森の木を自ら伐採、搬出して森を持続的に生かす自伐型林業を3年前に始めた。秞ちゃんの様子について聖さんは「うれしいですよね。山を守りながら、長く続けていかないと」と話す。

 林業の世界に変化が起きていることを遅まきながら知ったのは昨秋、宮城県気仙沼市で木質バイオマス発電を取材したときだった。長年放置された山に次々と人が入り、間伐材を運び出していた。戦後の林業で主流の大型機械は使わず、搬出も普段使いの軽トラック。効率は悪そうだが誰も気にしていない。むしろ「山とじっくり向き合える」と前向きだった。

 自然の中で自分のペースで働ける。しかも工夫次第で食べていけるとなれば、関心を抱く人が出てくるのは当然だろう。

 「特に東日本大震災の後、意識が変わった。大きな組織やものに頼らず、身の丈に合った生き方を求める人が林業に飛び込んでいる」と九州大の佐藤宣子教授は話す。衰退産業という従来のイメージとは違う、持続可能な自然とのつき合い、という林業の姿だ。

 新しい林業は行政も動かしつつある。高知県は昨年から小規模な林業家を後押しする仕組みを取り入れている。小さな森林を持つ人が間伐する際の補助金制度や、森林を持たない人に提供する用地の取得費を県が市町村に補助する独自施策。人口減少率が全国3番目に高く、IターンやUターンを増やしたい、との思いが先駆的な事業を後押しした。

 こうした地方で始まった林業の挑戦を社会としてどう育てていくか。それは「人と自然」や「都市と地方」のあり方を考える際の試金石にもなりそうだ。(朝日、2016年04月12日夕刊。野瀬輝彦)

11・27全学連国会突入事件

2015年09月18日 | ラ行

 保阪康正に『六〇年安保闘争』(講談社現代新書1986)という本のある事を知り、見てみました。11・27全学連国会突入事件についての記述に違和感を持ちました。他にも同じ本があるのかなと思い、調べてみますと、塩田庄兵衛著『実録・六〇年安保闘争』(新日本出版社1986)が見つかりました。これは共産党系の本ですが、これにも違和感を感じました。半藤一利の『昭和史、戦後篇1945-1989』(平凡社ライブラリー)も見てみましたが、これはこの事件を完全に無視しています。

保阪と塩田と私のブログ記事をこの点に絞って比較出来るように掲載します。

1、保阪康正『六〇年安保』から

国会をとり巻くデモ隊

 昭和34(1959)年11月27日。この日は安保改定阻止国民会議の第八次全国統一行動の日にあたっていた。東京では、国会にむけて安保改定反対・交渉即時打ち切りの集団請願デモが行なわれることになっていた。

 午後二時すぎから、国会周辺にはデモ隊がつめかけてきた。

 警視庁は5000人の警官を国会周辺に配置していた。装甲車やトラックを国会の入口に並べて、厳重警戒態勢をとっていた。

 デモ隊は国会周辺の三カ所に集まってきた。チャペルセンター前、首相官邸周辺、それに特許庁前などに、それぞれ2万人近くの労働組合員、学生、市民が集まったが、チャペルセンター前の広場には、2万人を越えると思われるほどのデモ隊が集結して請願大会を開いていた。

社会党書記長の浅沼は、これほどの集まりに気をよくしたのか、激しい口調で、「戦犯岸は、安保改定によってわれわれ日本人の血をアメリカに売ろうとしている」とアジった。社会党右派を代表する浅沼は、このころには「アメリカ帝国主義は日中人民共同の敵」とぶったように、もっとも先鋭的な演説を好んでいた。このときも浅沼の演説は拍手でむかえられていた。
デモがくり返され、警官隊のバリケードは簡単にくずされて、国会は6万人近くのデモ隊によって包囲されてしまった。5000人の警官隊は、国会に近づくデモ隊に圧倒されてすぐに統制を失なってしまった。警官隊はあわてて国会正門前に十数台のトラック並べ、新たに待機していた警官隊をつぎこんだ。しかし、その警官隊も押し寄せる学生や一部の労組員によって破られてしまった。

全学連、国会構内に突入

午後4時ごろ、浅沼を代表とする社会党の陳情代表団が衆議院議長に陳情文をわたすために、国会正門の門をあけさせ、国会内にはいった。このとき、全学連の300人近くの学生が構内にはいった。これがきっかけであった。学生たちは正門の通用門を内側から開けようとし、外側からもデモ隊が鉄柵をゆすった。そのうちに柵が折れ、通用門が開いてしまった。デモ隊の数が多いために、警官隊はどうすることもできなかった。

この正門から、学生につづいて2万人のデモ隊が構内にはいった。数百本の赤旗が掲げられ、組合員や学生の渦巻きデモが構内で行なわれた。天皇や外国の元首しか通れないという正面入口までデモ隊はかけあがり、労働歌やシュプレヒコール、それにワッショイ、ワッショイというジグザグデモが、なんどかくり返されていった。

国会構内はまさに〝解放区″であった。

この解放区の中に、正門をこじあけた東大や明治大などの全学連主流派の学生たちが打ちふる「ブント」(共産主義者同盟)の旗があった。全学連主流派が、このとき初めて安保改定阻止闘争の先鋭的な部分を切り開いたのである。

全学連はもともと共産党の強い指導下にあった。しかし、学生共産党員の間から、共産党の「アメリカ帝国主義に従属している日本」という見方に疑問が出て、共産党の反中央グループが全学連執行部を独占した。そこで共産党との間に対立が起こり、その執行部のメンバーは除名された。彼らは「共産主義者同盟」(ブント)を結成(昭和33年12月)し、そのメンバーが全学連執行部を独占していた。これが主流派を形成し、共産党系、あるいはそれに近い執行委員は反主涜派を名のっていた。のちに反主流派は東京都自治会連絡会議(都自連)をつくって、主流派とはまったく別な動きをすることになる。

このときの国会構内への突入は、森田実、島成郎(しげお)らのブントの指導者によってひそかに計画されたものであった。彼らは安保改定反対闘争の“合法的な闘争形態〟を越え、暴力的な手段によって、まず反対闘争の内容をかえなければならないと考えていた。日本帝国主義はすでにアメリカ帝国主義に追いつくほどの力をつけてきたがゆえに、日米安保条約の対等性がはかられることになったのであり、共産党が主張するように、日本帝国主義はアメリカ帝国主義に従属しているのではないと主張していた。ブントは、反スターリニズムも掲げ、ソ連もまた帝国主義的形態の国家に堕落したと考え、あらゆる帝国主義に反対すると公然と主張していた。

日本帝国主義打倒のためには、安保改定の阻止が当面の第一目標であり、そのためにはあらゆる暴力的抗議行動を採用すべきだと主張した。その主張を裏づける行動が、この「11・27」闘争であった。

うろたえる国民会議幹部

全学連主流派を中心とするデモ隊の国会乱入に驚いたのは、国民会議の指導者たちである。
総評の岩井章事務局長が宣伝力ーでかけつけ、「われわれは今日の請願の目的は達した。これで解散しよう」と、なんども叫んだ。しかし、ブントの指導者は、その宣伝力一に乗り移り、「この態勢を解いてはならない。徹夜で座りこみをしなければ意味がない」とアジった。ブントの国民会議への公然とした批判であった。社会党や共産党の議員も、顔色をかえておろおろするだけで、「早く退去しなさい」と叫ぶだけであった。

浅沼らは「あとはわれわれに任せててださい。万歳を三唱して構内を出てください」とデモ隊を説得した。それに応じて、労働組合員らは構内をでていったが、全学連主涜派の学生たちは動かなかった。「ダラ幹」とか「イヌ」といった怒声がとんだ。浅沼が、衆議院副議長に請願書をわたしたからもう帰ってほしいと、ダミ声をいっそうからして懇願した。共産党の議員もそれに同調して説得にのりだした。全学連の学生たちは、「裏切者、このまま帰れるか」「岸に会わせろ」と罵声を浴びせた。議員団は引き揚げていった。

午後6時近くになって、2000人近い学生たちは、防衛庁にデモをかけることにして、構内から出ていった。およそ2時間にわたって構内を解放区にしての闘争であった。

 翌日の新開は、この国会乱入事件について冷たく報道した。「デモ隊、国会構内へ乱入」「赤いカミナリ族、大暴れ」「全学連 歓声あげ躍り込む」と、その暴走ぶりが半ばあきれたような筆調で書かれていた。

〝闘うブント″のイメージ

11月27日の第八次統一行動は、これまでのなかで最大の動員を誇っていた。炭労や合化労連などは24時間ストをうち、大手単産も時限ストにはいった。安保改定阻止というスローガンだけで、抗議集会が開かれたにもかかわらず、全国650カ所、約300万人もの組合員や学生が集まっていた。この日の朝、国民会議は、「安保闘争がいまや決戦段階をむかえている」という闘争宣言を発したが、規模のうえではたしかにそのとおりになった。

しかし、そのような闘争よりも、全学連主涜派の国会乱入事件のほうがはるかに大きな影響を与えた。国内だけでなく、国外にもこの乱入事件は報道され、「ゼンガグレン」という固有名詞が、世界の新聞に掲載されるようになった。

総評傘下の組合の青年部でも、「警官隊の妨害を突破したあの積極的な行動、とくに青年の情熱は高く評価すべきだ」という声があがった。
この国会乱入事件は、学生の間にも衝撃を与えた。国民会議の決まりきったワク内でのデモで、はたして安保改定が阻止できるのだろうかという疑問は、学生のなかに多かった。その疑問をブントはあっさりと突き破ってみせたのである。学生たちの間に、“闘うブント”のイメージが浸透していき、すこしずつシンパがふえていった。

〝事件″をめぐる反応

国民会議は、国会乱入事件にあわて、すぐに全学連に自己批判を要求した。社会党や共産党は、全学連の除名を主張したが、他の幹事団体のとりなしもあって、とにかくその統制に服するようにという条件づきで国民会議の傘下におくことを決定した。
 
こうした社会党や共産党の態度は、ブントに関心をもち始めた学生たちに、既成左翼が本質的には体制内の改良主義者にすぎないという不満を与えた。とくに共産党は、全学連主涜派を“トロツキスト”と断じ、「われわれの隊列の中にまぎれこんでいるトロツキスト」「挑発者の煽動に最大の警戒を払わなければならない」と『アカハタ』で執拗に訴えていたが、その批判は学生たちにはあまり受けいれられなかった。

自民党の議員は、国会乱入に怒り、「革命前夜ではないか」「非常事態宣言をだせ」と叫んだ。27日にだされた自民党の声明には、「この集団暴力行為は社会党と共産党によって指導され、煽動されたもので、両党の共同謀議にもとづく革命的破壊行為である」という一節があり、社会党、共産党の責任を追及する構えを見せた。とくに自民党は、浅沼が意図的に学生を国会構内にいれたとみて、懲罰委員会にかけようともした。
社会党も、27日夜に声明を発表している。それはあまりにもあちこちに気をつかいすぎていて、本音では何をいいたいのか、さっぱりわからなかった。

「第八次統一行動動による国会陳情は正当なる請願権に基づくものであり、ベトナム賠償、安保改定に反対する大衆の怒りのあらわれである。しかし全学連など一部の国会構内乱入者があったことはまことに遺憾である。国会の秩序を保つためにも乱入した全学連など一部の人々にたいしては断乎たる態度で反省を求める」

そういいながら、警察側に挑発があったといったり、わが党は陳情の仲介に終始し、乱入者に対しては「速かなる退去をうながした」と弁明したりしていた。社会党の本心は、全学連主流派のこの突出した行動をコントロールする自信がなく、加えて自民党からの〝神聖な国会を汚した“という批判が何よりも恐ろしかったのである。

運動の停滞

社会党は、確かに安保改定反対闘争の主役にちがいなかったが、この期には外からは自民党からの批判、内からは路線の相違からくる分裂という事態にあった。党内右派の指導者だった西尾末広は、安保改定にやみくもに反対するのではなく対案を示すべきだと主張していた。西尾は、資本主義対社会主義という図式にこだわる左派に対して、民主主義対共産主義という図式を対置していたのである。

頑迷な左派は、西尾を綱領に反しているとして統制委員会にかけることを要求していた。昭和34年8月、9月と、社会党はこの対立に明け暮れていた。党大会でその案が可決されると、西尾派はそのまま会場を去った。そして10月18日に西尾派は脱党し、民社クラブ(のちに民社党)を結成した。その民社クラブも、国会突入を激しく責めた。

こうした混乱が、社会党の安保改定反対の動きを鈍らせていた。

全学連主涜派の国会乱入で、自民党からの社会党への警告には、反対運動の牽制という意味もあった。

12月10日の国民会議の第九次統一行動は、22の単産が抗議行動に加わり、全国600カ所で集会が開かれ、450万人が参加したと発表された。しかし、その内実は安保改定反対の抗議集会というよりは、労働組合の年末要求をスローガンにするというもので、国労が中核になってストをうつことになっていたが、早朝の時限ストでお茶をにごしてしまった。
岸首相さえ、この抗議集会の低調さに驚いたと、『回顧録』の中で告白しているほどであった。(保阪正康著『六〇年安保闘争』講談社現代新書1986年、51~60頁)

2、塩田庄兵衛著『実録・六〇年安保闘争』から

ここで、〝六〇年安保闘争の主役〃と一部で「伝説化」されている当時の全学連(全日本学生自治会連合)について、一言コメントしておく必要があろう。1948年9月に結成された全学連は、学生運動の分野とかぎらず、戦後の民主運動全体のなかで、その純粋な情熱と機敏な行動力とで大きな役割を演じてきた。1955、56年の砂川基地拡張反対闘争での全学連の献身的な活動は高く評価された。ところが1958年6月、全学連指導部の共産党グループが党中央と対立し、やがて党から除名された全学連幹部たちは、12月に共産主義者同盟ブント)を結成した。そして翌59年6月の全学連大会でかれらは指導権をにぎり、唐牛(かろうじ)健太郎を委員長とする執行部をつくった。このグループはトロツキズムとよばれる極左冒険主義的思想潮流に属し、この後、安保闘争のなかで統一行動を妨害する挑発行動をくりかえした。これがいわゆる「全学連主流派」を形成して、その戦術指導に従う学生大衆も少なくなかったが、彼らの統一行動破壊に対する批判の声も強くなった。そこで全学連は事実上分裂し、いわゆる「全学連反主流派」は、60年3月に東京を中心に結集し(東京都学生自治会連絡会議)、安保闘争を国民会議を中心とする統一行動でたたかうと同時に、全学連の正常化、再建への努力をつよめた。このような問題が運動の中ではっきり表面化したのが、「11・27国会デモ」であった。

 11・27〝国会デモ事件〃

安保国民会議は、11月27日、12月10日の2回の統一行動を、安保交渉終局から調印へ進もうとする岸政府に打撃をあたえるチャンスと判断した。生産点での実力行使、全国各地での地域集会のエネルギーを11月27日に結集して、国民会議発足いらい最大規模の統一行動を盛りあげようとはかった。東京での国会請願デモは、いわばそのクライマックスとされた。たまたま、ベトナム賠償協定の強行採決が、反安保勢力を強く刺激した日であった。その日の情景は次のように報道きれている(井出武三郎編『安保闘争』三一書房1960年9月、59~60ページ)。
──午後2時半、国会に通じる三方の道路を埋めて請願大会が開かれた。国民会議は参加者八万人と発表した。警視庁は2万6000人と推定したが、それでも予想した2万を超す盛り上りだった。

警官隊5000人は三方の道路にトラックを並べ、その後に黒い人垣をつくつていた。3時すぎ、まず特許庁コースのデモが警官の阻止線に向って行動を起した。先頭には東大、早大など全学連と全金属の青年労働者がいた。デモはトラックを乗り越え、警官をじりじりと国会への坂道へと押し上げた。激しい力のぶつかり合いが続くうち、警官の背後へ別のデモ隊の一団がかけ下りてきた。たちまちデモ隊は警官隊を包囲し、その横をデモ隊がかけ上って国会構内へ。一方、チャペルセンター前から正門に向った一隊は、請願代表団のために開けられた門から学生たちを先頭に構内へなだれ込んで入ったデモ隊は、正面玄関前の広場でジグザグデモの渦を巻いた。「アンボ!」「ハンタイー」の喚声が、安保阻止闘争はじまって以来はじめて議事堂の壁にガンガンはね返った。警官隊はただぼう然として突っ立ち、その渦の熱気に呑まれた形だった。ところがスケジュールにのっていないこの事態に驚いたのは主催者側の社会党・国民会議の指導者たちであった。宣伝カーの上から岩井総評事務局長が呼びかけた。「請願の目的は達成きれた。きょうはこれで解散しよう」。社・共党代表もそれを支持して説得した。しかしデモ隊は「なぜ解散するんだ。抗議集会を開け!」「全員ここにすわり込め、岸を呼び出すんだ⊥と叫び、一部のデモ隊が構外に出はじめたあとも、全学連は動こうとはしなかった。

この日の警官隊との衝突で重軽傷はデモ隊、警官合わせて300人にのぼった。

私も、このデモ隊の中にいた。晩秋の短い日が暮れて、早くも夜のとばりにつつまれた国会構内に、新聞社がたくフライヤーのあかりに照らしだされてデモ隊の旗がなびき、歌声と喚声がとどろき、興奮を誘う光景であった。近くにいた全学連主流派の学生は、「議事堂に突入して、国会の審議を止めよう」と上ずった声でわめいていた。

この日の統一行動は東京での国会デモのほかに、大阪では5コースで約4万人の求心デモが行なわれ、京都円山公園の集会には学者、映画・演劇・崇敬人をふくむ5000人が集まったという。このほか関西地区の集会参加者は8万人にのぼり、東海・北陸では6、7カ所で8万6000人、中・四国では1万4000人、東北5万4000人がそれぞれ集会・デモを行なったと報ぜられている。全学連はこの日、全国121自治会、18万人が参加したと発表した。

この日の統一行動は、国会デモのほかに総評、中立労連翼下の組合で炭労・合化労連の24時間ストをはじめ200万人参加のスト、集会が展開され、安保反対勢力の盛り上りを示したが、政府・自民党の側も反撃に転じ、反対勢力の陣列に動揺と混乱をひろげることをはかった。自民党は同夜ただちに、デモ非難声明を発表した。

「国会前に集結した数万のデモ隊が社会党の浅沼書記長、共産党の志賀義雄氏らを先導として国会内に殺到、乱入し長時間にわたり構内を占拠して騒乱をきわめたことは民主主義の殿堂たる国会の権威と秩序をじゅうりんする痛恨事である。この集団的暴力行為は社会党と共産党により指導され、扇動されたもので、両党の共同謀議に基く計画的な革命的破壊行為であることは明らかであり、国民とともに憂慮にたえない。わが党はあくまでも民主主義と議会政治を守る決意を新たにしかくのごとき破壊勢力と対決し断固としてこれを粉砕するものである。」
加藤衆院議長も同じ趣旨のデモ非難声明を発表した。

自民党はこの機会に国会周辺のデモ規制法を画策した(この法案はやがて衆議院を自民党の単独審議・単独採決で通過し、参議院で継続審議の扱いになった)。また衆議院に懲罰委員会を設置して、浅沼社会党書記長らを対象にあげておどしをかけた。
翌朝の新聞は、「無政府状態は許せぬ」(「毎日」)、「陳情に名をかりた暴力、大衆的テロリズム」(「読売」)などとデモ隊を非難した。これを背景に警視庁は翌朝、全学連本部を摸索、指導部3人を逮捕、夜には総評・東京地評・全国金属を手入れした。そのうえ、第九次統一行動(12月10日)には「特定の場所で集団陳情を行わぬよう」との警告を国民会議幹事団体に通達した。

一方、社会党は同夜、「国会請願は正当な権利であり、この大衆行動はベトナム賠償、安保改定についての政府の態度に対する大衆の憤激の現われである」としながら同時に、「全学連など一部が広場に乱入したことは遺憾であるが、警察側で意識的に乱入を挑発した点もまた遺憾である。院の秩序を保つためにも、乱入した全学連など一部の人びとに対して断固たる態度で反省を求める」と声明したうえ、さらに翌28日の中央執行委員会で「全学連に国民会議からの離脱を求める」ことを決定し、国民会議に申し入れた(この件は全学連が〝反省〟の形式をとって蒸発した)。共産党も29日付で、正当な国会請願行動を妨害した政府与党、警官隊を非難するとともに、「このとき、反共と極左冒険的行動を主張していたトロツキストたちは、右翼の暴行や警官の弾圧などによって緊張した状況を逆用して挑発的行動にいで、統一行動をみだす行為にでた。」ときびしく批判した。

このなかで国民会議幹事会は、27日夜の声明では国会構内にデモ隊が入ったことには触れず、「われわれの請願運動に政府は警察力を動員して弾圧を加え、多くの負傷者を出した。12月10日の第九次統一行動には交渉即時打ち切り、調印停止のため、全国のあらゆる町から村から国民総抵抗の闘争を進める」と宣言した。しかし国民会議指導部が予期しなかった11・27の突発事件は、寄り合い世帯である国民会議を混乱させ、動揺と内部対立をひきおこし、運動の停滞をまねいた。12月10日の国会デモは、労働者・学生の部隊は計画を中止し、安保批判の会の文化人・芸術家集団だけが、警官隊に守られた国会に静かにデモ行進した。(塩田庄兵衛著『実録・六〇年安保闘争』新日本出版社1986年、67-73頁)

3、牧野紀之のブログ記事「60年安保」―歴史のためにーから

立花隆氏は「中核 VS 革マル」(講談社文庫)の中でこう書いています。

 「11・27の国会突入闘争は、当時いわれていたように、偶発的に起きたものではなく、ブントの指導の下に、目的意識的に起こされたものだった。それにもかかわらず、闘争を現場で指導した加藤昇全学連副委員長、糠谷秀剛(ぬかや・ひでたけ)全学連副委員長、永見暁嗣都学連書記長らは、なんの警戒心も抱かずに自宅に帰り、その夜のうちに逮捕された。自宅に帰らず逮捕をまぬがれた清水丈夫全学連書記長と、葉山岳夫(たけお)ブント東大細胞キャップとは、逃げ場を失ってそれぞれ東大駒場と本郷に逃げ込んで、世に言う「籠城事件」を起こす。」

 この辺の記録ないし考察で重要な事だと思うのは、この11・27国会突入事件を契機にして、それをどう評価するかで学生運動の中の4つの派(だったと思う)の提携関係が変わったということです。

 私の記憶では当時の東大駒場(全国の縮図)には4つの派があったと思います。民青(共産党系)とブントと第4インター系(表向きの名前は覚えていません)と、もう1つあったと思うのですが、名前は覚えていません。

 そして、11・27まではレーニンの「外部注入説」を機械的に主張するブント系のやり方に反対する大多数の学生の意向を反映して、ブントに対して他の3つの派がまとまって反対していたのだと思います。従って、ブントは主導権を握れなかったのです。

 それが11・27の評価をめぐって、否定する共産党系と肯定するそれ以外の3派という対立に分かれたのです。そして、後者の中心にブントが座ったのです。

 この対立は結局60年安保闘争の間ずっと続き、その後も解消することはなかったと思います。

 思うに、この辺の事は立花隆氏が好く知っているはずです。氏はどれかの派(多分、第4インター系)とつながっていたはずですから。それなのに氏がこの辺の事を書かないのは、何か後ろめたいことでもあるのでしょうか。とにかく歴史に対して無責任だと思います。

 西部氏は1958年秋ころの委員長の名前として小島昌光を出していますが、私には懐かしい名前です。個人的にもサークルで一緒だったことがあるからです。たしか日比谷高校を出た人でアコーディオンのうまい人でした。外部から注入しなければならないと主張するブント系の人々に堂々と反論していた姿を思い出します。

さて、11月27日は安保改定阻止国民会議の第8次統一行動でした。私も参加していましたが、途中から用事で帰りました。その後、国会突入事件が起きたのです。

 これが計画的だったかは大した問題ではないと思います。計画的にしては、ほんの少し柵を動かして中に入った後、何も予定がありませんでした。

 まあ、それは大した問題ではないと思います。私の記憶が立花氏の記述と違うのは、駒場と本郷に1人ずつ籠城したという点です。私の記憶では2人とも駒場寮に隠れたのだと思います。

 それから12・10の次の統一行動で逮捕されるまで、駒場キャンパスの中は騒然として、様々な議論が起きました。警察は「大学の中も治外法権ではない」と主張して、踏み込むぞと脅しました。恐れをなした教員たちは、警官が踏み込めば大学の自治が否定されるから自主的に出てゆくべきだと主張しました。結局、上のような妥協が成立したようです。初冬のキャンパスで遅くまで議論していたことが強く印象に残っています。(以下略)






ニュージーランド流酪農

2014年10月22日 | ラ行
                酪農学園大学教授・荒木和秋

 7月に「ニュージーランド(NZ)・北海道酪農協力プロジェクト」が発表された。NZ政府が道内4戸の放牧酪農家に技術者とコンサルタントを派遣して調査分析とアドバイスを行い、放牧経営の指標を作成する。海外の政府が直接、農家の指導に当たるのは極めてまれなことだ。

 日本とNZは、生乳生産量が20年前は共に年間860万トンと肩を並べていたが、昨年度は日本が745万トンに減少する一方、NZは2000万トンに迫る勢いである。なぜこのような違いが生まれたのか。

 NZでは、半世紀以上前に合理的な営農システムが確立した。大きな圃場(ほじょう)に長期間牛を放しておくのではなく、圃場を電気牧柵で区切り、毎日牧区を替えていく集約放牧が実践された。短い牧草は高栄養で穀物を不要とし、年間放牧で牛舎もいらない。省力的な搾乳場も簡素ながら早くから整備された。

さらに春から夏に伸びる牧草を産後の牛が食べられるよう分娩を春先に集中させる季節繁殖は、乾乳期となる冬の農閑期を作り、長期休暇を可能とした。それに加え、酪農民でも夕刻には仕事を終え、生活を優先する作業スタイルは若者を多く集めている。

 一方、日本では年間を通した繁殖と生乳生産が、酪農民の年中無休を作りだした。機械化や立派な施設は規模拡大を可能にしたが、長時間労働と負債の増大につながった。関税ゼロの輸入穀物の多給は安価な時代には多大な利益をもたらしたが、高騰すると裏目に出た。農協も販売手数料を得るため、飼料が売れなくなる放牧には否定的だった。

 だが、日本でも1990年代後半にNZ方式を導入した北海道足寄町旧開拓農協地区では8年間でコストが2割下がり、所得も増えて後継者が戻っている。道内では新規参入者の多くが放牧酪農を実践しており、道外でも入会牧野や耕作放棄地などを使って導入可能ではないか。

 NZで合理的な営農システムを築くことができたのは、少ない人口の下、いかに省力化するかを絶えず追求した結果である。国の行財政改革で補助金がほとんど無くされたこともあり、日本の4分の1という低コスト酪農の実践で生き残りを図ってきた。逆に日本では手厚い補助金行政が推進されて高コスト体質となり、酪農が裏返しているというのは皮肉な結果であろう。

 貿易自由化など将来への不安から離農者が増える中、納税者から支持される低コストで、かつ若者から支持されるゆとりある営農システムの構築が急がれる。(朝日、2014年08月24日)

 感想・ノルウェーの漁業とかドイツの林業とか、日本でも学ぶような動きがあるようですが、どれだけ広がっているのでしょうか。政府はこれらからどう学んでいるのでしょうか。

     関連項目

ノルウェーの漁業

理論と実践の統一の真意

2014年10月04日 | ラ行
 またまた、このテーマを振り返る機会を与えてくれる文に出会いました。大下英治『日本共産党の深層』(イースト新書)と丸山真男対談集『一哲学徒の苦難の道』岩波現代文庫の中で、です。後者は古在由重との対談です。

 前者は以下の文です。

──図書館通いが一年半になろうとするころ、松本〔善明〕は、カントの『実践理性批判』をまた読み返した。カントは、そのなかで、彼に強烈に語りかけてきた。どうしても人間には、こうしなければならないということがある。それが、当然の前提なのだ。実践こそ、すべての前提である。

 〈マルクスこそカント、ヘーゲルのドイツ観念論の流れを受け継ぎながら、世界を解釈するのではなく、変革する立場から発展させた理論だ〉

 彼は、眼の醒めるような思いであった。

〈そうだ。マルクス主義は、実践の理論だ。自分が動かなけれは、生きていく道は生まれないのだ!〉

 彼は得心し、初めて動き出した。その思想を、自分の思想として生きていけると感じた。革命のため、人民のために、命を捧げることを誓い、日本共産党に入党した。(大下英治『日本共産党の深層』イースト新書、109頁)

 後者は、次の3つの文です。

──その1

 丸山 政治活動へのきっかけは……。

 古在 きっかけはむしろ偶然でした。やはり、マルクス主義的立場から一人の学生の書いた倫理学のレポートに、これはよくできていたので僕は百点をつけました。そうしたら、その学生が卒業してからすぐに、たしか前夜からの雪があがって晴れあがった三月の末あたりでしたか、うちへ訪ねてきて、まずいろんな雑談をしたのですね。おそらく、これは「あの先生は傾向がいいわね」というようなことだったと思うのです。そのうちに来訪の動機がはっきりすることになった。「実はモッブル(直訳すれは革命戦士救援の国際組織)という解放運動犠牲者の救援会がある。先生、それに協力してもらえないでしょうか。たしか先生は理論と実践との統一ということを授業のときにおっしゃった」というのですね。

 丸山 一本とられたわけですね。

 古在 ええ、そして「理論の上ではそうおっしゃったけれども、実際上もそれをやっていただけないでしょうか」ということなのですね。そこで僕はちょっととまどったけれども、「協力を否定する理由は少しもない、ただ一日だけ回答を待ってくれ」といった。と いうのは、結局は資金や住宅を提供してくれということらしかったので、これには多少とも危険は覚悟しなければならないから。(古在・丸山真男『一哲学徒の苦難の道』岩波文庫、59-60頁)

──その2

古在 一回目に捕まったときは、僕はなんにも言わないで帰ってきた。それはこの前に言ったように、パラチフスかなんかにかかって、ひどい状態だったのと、両親が重病だったから、執行停止の形でちょっと出された。そのときは、「理論的にはマルクス主義は正しいけれども、実践はやらないで、理論的研究だけを続ける」というので、1933年ころはそれでもすまないことはありませんでした。(152-3頁)

──その3(対談を終えての丸山眞男の感想)

 〔作家や芸術家なら何かを残そうとするのがあるが〕これにくらべると、学者・研究者の場合には、同様の形の記録はまだほとんど公にされていないし、そうした作業についての関心も前二者の場合ほどには高いとはいえない。

 これには一応もっともないくつかの理由があると思われる。第一に、何といっても学者・研究者の生活は、外部的な「事件」という形で現われる部分が少なく、また、政治家・軍人・事業家などのように、個別的状況にたいする個別的な決断ということがすくなくも第一義的な活動の場を構成していない。これは「理論と実践との統一」を志向するマルクス主義学者の場合でも、彼が職業としての学問を放棄しないかぎり、事情は同じである。(201-2頁)(引用終わり)

 日本のトップレベルの知性に属するとされる方々がこのような幼稚な考え方を終生持ち続けたということには本当に驚きますが(松本は存命)、それはこういう考え方がいかに根強いものかを証明していると思います。これまでも私見は述べてきましたから、まともに反論する気にもなれませんが、要点だけ書いておきます。

 ①まず確認すべき事は、弁証法でいうところの「理論と実践の(闘争と)統一」とは、「対立物の闘争と統一」という一般法則の一特殊事例だ、ということです。

②しかるに、「対立物の闘争と統一」とは、対立物は対立物ですから当然互いに排斥(闘争)しあっているのですが、人々は一般にはこの面だけしか見ませんが、それは一面的な見方で、一段高い観点からみると、両者は一致(統一)しているという面もある、ということです。

③ここでは、両者の闘争(不一致)は当然の前提ですが、一番大切な事は、「両者の闘争不一致」も「両者の統一(一致)」も、どちらも、「実際にそうである」という「事実命題」であって、「そうあらねばならない」という「当為命題」ではない、という事です。

④もし、これがそういう当為命題だとするならば、「理論と実践は一致させるべきだ」という事は弁証法やマルクス以前に昔からあった道徳律ですから、特に言う必要もありません。陽明学では知行合一とか言っているはずです。

 ⑤更に、「理論と実践」と言う時、理論とは実践の反省形態だということです。理論研究などを含む人間の全行為について、特定の或る行為が絶対的に理論であったり、実践であったりするわけではない、ということです。

 この事は、「方法とその適用」の関係でも、「手段(道具)と目的」の関係でも同じです。

 さて、これを確認した上で、上に引きました発言の誤りを指摘します。

 松本善明(日本共産党の元代議士)の発言に「世界を解釈するのではなく、変革する立場から発展させた理論」という言葉が見えますが、これは、言うまでもなく、マルクスの「フォイエルバッハに関するテーゼ」の第11番目のテーゼを踏まえたものです。多くの人もこれを踏まえて「理論と実践の統一」を「両者を統一すべきだ」と解釈しています。

 この解釈の根本的な誤りは、この第11テーゼはそれまでの10個のテーゼから引き出される結論として出てきているのに、このテーゼ全体がどういう風に展開されているかを検討しないで、1個の文だけを解釈しているという事です。はばかりながら、このテーゼ全体の論理的構成を研究したものは拙稿「『フォイエルバッハ・テーゼ』に一研究」(拙著『労働と社会』に所収)以外にないはずです。全体を研究すれば、この結論の意味は「現状を肯定する人は解釈という実践をするだろうし、否定する人は変革する行為に出ることになる」という当たり前の事を言っているだけだ、という事が分かるはずです。

 「マルクス主義は、実践の理論だ」に至っては、笑止です。「実践の理論」でない理論がどこにあるというのでしょうか。大学教授として保身を図るのも実践の一形態ですから、そういう「理論」(考え)も「実践の理論」です。ただ、みっともないから、正直には言わないだけです。

 丸山からの引用の「その1」は、典型的な「当為命題」的解釈に立っています。上の説明③で十分でしょう。

 「その2」の「実践はやらないで、理論的研究だけを続ける」という古在の言葉は、上の説明⑤で説明できます。もう少し説明を加えておきますと、「実践はやらないで」と言う時、その「実践」とは「政治活動」とかを意味しているようです。左翼の間では「政治団体に入る、または入っている」ことを「実践」と思っている人も沢山いますが、完全な間違いです。

 そもそも、人間の社会活動(全生活)を社会的存在と社会的意識に二大別した場合は、政治活動は後者に入ります。ですから、もっとも広い意味ではそれは「理論」であって「実践」ではありません。すなわち、経済活動という「実践」の「理論」的反省の1形態が政治(活動)だ、ということです。

ちなみに、マルクスも後半生は経済学の研究に没頭しました。若い頃、「実践、実践」と言っていた人で後年もその「実践」とやらを続けている人は非常に少ないです。私は、或る人に「お前の『小選挙区制反対』の実践はどうなったんだ」と聞いたことがありますが、答えは返ってきませんでした。個人の本当の評価はその人の棺の蓋が閉まってから始まるのだと思います。

ついでに断っておきますが、経済活動などを「土台」と言い、政治などを「上部構造」と言うのは「命名」(ないし「換言」)ではなく「形容」です。経済活動などを「土台」と言い換えたものではありません。「マキペディア」の「土台と上部構造」の項にこう書いておきました。

──「土台が上部構造を決定する」という命題は、少し考えてみれば分かる通り、同語反復的な真理です。2つのものが規定し規定される関係にある時、規定する方を「土台」に譬えるのです。規定される方を上部構造と言うのです。生産関係を土台と名付けたのではないのです。生産関係は土台のようなものだと、生産関係の規定的な性質を譬えで表現したものなのです。ですから、本当は「土台が上部構造を決定する」と言うのではなくて、「生産関係が土台(みたいなもの)で、精神生活は上部構造(みたいなもの)だ」と言ったならば、無用な誤解を生まなくてすんだでしょう。(引用終わり)

 実際、自称マルクス主義の運動程、理論的にお粗末な運動は少ないと思います。その一因はそういう運動組織のトップが、こういう誤解の方が自分たちの役に立つと「感じている」からだと思います。

 「その3」の「『理論と実践との統一』を志向するマルクス主義学者」という丸山の言葉は松本の若いころの「マルクス主義は、実践の理論だ」と同じです。それを青二才左翼ではなく、政治学者として大成した人が平然として言っているのですから、話になりません。

 最後に、理論と実践の統一を事実命題として理解すると、どのような問題があるか、拙著『理論と実践の統一』(論創社)に載せた同名の論文の各節の見出しを載せておきます。

理論と実践の統一(牧野紀之)

  1、理論と実践の統一とは理論と実践は一致させなければならないという意味か。
  2、「フォイエルバッハ・テーゼ」の第11テーゼはどういう意味か。
  3、毛沢東の「実践論」の意義と限界はどこにあるか。
  4、理論と実践の統一が両者は事実一致しているという意味だとすると、言行不一致をどう考えるか。
  5、理論と実践の分裂の意義とは何か。

  6、理論と実践の二元性とは何か。
  7、「○○の思想と行動」という見方はなぜ可能か。
  8、マルクスはこの問題に何を加えたか。
  9、通俗的見解のどこがどう間違っているのか。
  10、或る行為が実践か理論かを判定する基準は何か。

  11、理論と実践の統一の諸段階は何か。
  12、「革命的理論なくして革命的行動なし」という言葉はどう理解するべきか。
  13、個人の成長過程における理論と実践の統一の諸段階は何か。
  14、実践の根源性とは何か。


     関連項目

理論と実践の統一

実践

土台と上部構造

丸山真男



ライプニッツ

2014年04月04日 | ラ行
 ①ライプニッツは『モナド論』の第14節で、「一(l'unité)すなわち単純な実体(la substance simple)の中に多(une multitude)を含みかつこれを表現する推移的な状態は、いわゆる表象(la perception)に他ならない。これは意識的表象(l'aperception)もしくは意識(la conscience)と区別すべきである」と述べている。

 「単純な」(simple)といわれているのは「合成された」(composé)に対立する意味であって、「モナドとは単純な実体にほかならない」(『モナド論』第一節)といわれているように「単純な実体」とは「モナド」のことである。またそれが「一」とも言いかえられていることは、ヘーゲルの用語「一」とのあいだに用語上の連関さえあるように思われ、興味をひく点である。そして『デポスにあてた一七〇六年七月十一日の手紙』に「表象とは一の中における多の表出に他ならない」といっている(河野与一訳『単子諭』、岩波文庫版、二二三ページによる)ように、表象とは一のなかに多を含む・または表現するモナドの作用であって、意識されるものをも意識されないものをも含んでいる。したがってヘーゲルがここで「観念性という意味より以上の意味をもっていない」といっているのは、正確な解釈である。

 ②「モナドにはそれを通ってものが入ったり出たりすることができるような窓がない」(『モナド論』第七節)。「しかし単純な実体の中にあるのは或るモナドが他のモナドに及ぼす観念的影響(une influence ideale)だけであって、この影響も神の仲介によるのでなければその効果をもつことができない。すなわち神がもっている観念の中で或るモナドが『神は万物の始め以来他のもろもろのモナドを支配してゆくにあたってそのモナドをもかえりみる』ということを正当に要求できるというにとどまる。

 実際に、創造されたモナドは他の創造されたモナドの内部に物理的影響(une influence physique)を及ぼすことができないのであるから、或るモナドが他のモナドと依存関係をもつにはこの仕方による他ないのである」(同上書、第五一節)。──

 この二つの引用文をよめばわかるように、ここでヘーゲルが否定しているのは、モナド相互間の物理的影響である。神がもっている観念を媒介にしてモナド相互間に依存関係が存在するということは、ここでいっているように「モナドそのものには何のかかわりをももたない」ことなのである。(寺沢1、395頁)

論争(直接的勝敗と歴史的勝敗)

2013年11月20日 | ラ行
 鶏鳴学園大学の哲学演習で、哲学は個別科学に方法を与えるものなのかということが問題になった。その時、それを主張した一例として武谷三男氏の論文「哲学はいかにして有効さをとり戻しうるか」(1964年)を取上げた。この中で氏がルイセンコの遺伝学と獲得形質の遺伝を高く評価していることを知り、中村禎里氏の『ルイセンコ論争』(みすず書房、1967年)を読んでみた。そして、それによって、先の武谷論文には山田坂仁氏の批判があり、それが「哲学の有効性論争」と呼ばれていることを知った。幸い都立中央図書館に山田氏の論文集『思想と実践』(北隆館、1948年)があるのを知り、取り寄せて読んでみた。

 たしかに哲学を科学方法論として、科学研究にただちに役立つ物差しを与えてくれというような武谷氏の哲学観は正しくない。それにくらべれば、山田氏のように、「哲学は個別科学の知識を概括し、全体としての世界の相互連関や発展法則に関して統一的な表象を提供しようとする」(前掲書120頁)という考えの方が上である。どちらの論文も非論理的で大したことはないが、あえて是非を論ずれば、哲学観では山田氏の方が正しいと思う。この意味で、この論争では「直接的には」山田氏が勝ったと言える。

 しかし、それにも拘らず、武谷氏の名声は山田氏のそれより高く、現に、武谷氏の前掲論文は現在購入できるのに、山田氏の本は図書館にしかない。これはどういうことだろうか。

 武谷氏は哲学が有効な方法を与えてくれないと文句を言ったが、それを理由にして何もしなかったのではなく、自分でその方法を発見して物理学の進歩に貢献した。素粒子論の集団研究のみならず他の分野の科学者をも集めた集団研究も組織して、科学の発展に寄与した。それだけではなく、その専門の知識を武器にして大衆運動、特に原水爆禁止運動や原発反対運動に協力した。それに比べると山田氏は自己の哲学観を実行して何らかの分野でポジティヴな成果を挙げるということがなかった。その意味で、長い歴史の観点からは武谷氏の方が山田氏に勝ったと言える。

 真理をめぐる争いにはこのように直接的勝敗と歴史的勝敗があるようである。この2つがくい違うこともあれば一致することもあるだろう。直接的勝負は言葉の表面上の意味で決着がつく。歴史的勝負は歴史の提起している問題にどういう立場からどれだけ深く取り組んだかで決まる。(1986年1月15日)


低所得高齢者のための施設

2013年05月21日 | ラ行
 1,朝日新聞の社説、2013年01月20日

 被告を裁いて、それで落着という事件ではない。重い課題が突きつけられたままだ。

 今後、大都市圏で急増する低所得の高齢者たちは、どこで、どう暮らせばいいのか──。

 群馬県の「静養ホームたまゆら」から出火し、高齢の入居者10人が死亡した事件で、前橋地裁は施設を運営していた法人の元理事長に、執行猶予つきの禁錮刑を言いわたした。

 たまゆらは役所の要請で、生活保護を受けている認知症の患者らを安い料金で入居させていた。判決は、苦しい経営事情をくみつつ、実態は有料老人ホームであり、それに見合う防火管理の義務があったと述べた。

 具体的に警報器の設置や避難訓練、当直員の増員を挙げ、これらの費用をまかなうのは可能だったとした。他の同様の施設には教訓になるだろう。

 だが、対策が不十分なところを閉鎖すれば済むわけではない。お年寄りの行き場がなくなるからだ。

 厚生労働省は、高齢者が住みなれた地域で、医療や介護などのサービスを利用しながら暮らし続ける将来像を描く。

 厚生年金を受給できるような中間所得層向けには、「サービス付き高齢者向け住宅」などの基盤整備を進めている。

 ところが、低所得の高齢者の住まいは、政策的な空白地帯といえる。国や自治体は、本腰を入れて取り組むときだ。

 朝日新聞の調べでは、東京23区で生活保護を受けながら、都外の高齢者施設に入居している人は昨年10月で約1800人にのぼる。たまゆらの火災が起きた2009年の2,6倍だ。

 この流れはさらに強まる。

 高齢者住宅財団の推計によると、民間の借家に住み、生活支援や介護が必要な一人暮らしの高齢者は2010年時点で全国に約17万8000人。2025年には33万7000人まで増える。

 低年金で、貯金を使い果たせば生活保護に頼らざるをえない人たちが多い。

 住まいとケアが一体となった特別養護老人ホームは、建設費がかかることなどから大きく増やすのは難しい。公営住宅の数も限られ、特に高齢者向けの応募倍率はきわめて高い。

 ならば、増加傾向にある空き家を活用し、ゴミ出しなど日常生活を支援していくのも一案だ。低所得者が利用できる住宅手当が必要になろうが、生活保護に至る前に手助けすることで、かえって財政負担が抑えられる可能性がある。

 誰でも、住まいなしには人間的に生きられない。

 2,朝日新聞の記事、2013年01月18日(山下奈緒子)

 群馬県の高齢者施設「静養ホームたまゆら」の火災後、無届けだった高齢者施設が有料老人ホームとして自治体に届け出るようになった。厚生労働省の通知を受けた対応だが、居住面積や準耐火構造、防火設備など設置基準を満たさない施設も多い。入居者の生活の質や安全の確保は追いつかないままだ。…

 たまゆらは無届け施設だったため、厚労省は2009年3月の火災後、無届け施設に届け出を求める通知を都道府県などに出した。全国の有料老人ホームの届け出は2006年10月に1968施設だったが、2011年10月には4640施設になった。

 だが、老人福祉法や建築基準法、消防法などに基づいて都道府県などが定める設置基準を満たさない施設が目立つ。届け出が2009年3月の183施設から2012年12月に306施設に増えた埼玉県では、基準未達成が99施設にのぼる。

 茨城県では、たまゆら火災後、基準を満たさない施設にも届け出を求めるように変わった。担当者は「放置するより管轄下に置きたい」と話す。県内で届け出ている75施設のうち、20施設が基準未達成だ。

 群馬県では、50施設が基準を満たさない一方、2009年3月に46あった無届け施設が11に減った。

 各自治体とも基準を満たすよう求めているが、職員不足が実効性をそいでいる。「以前は個別に訪れたが、施設が増えて難しい」。群馬県の担当者が出向くのは届け出時と、施設が年1回出す報告書に変化があった時だけだ。

 施設側も資金不足に苦しむ。東京都内から生活保護受給者数人を受け入れる群馬県の有料老人ホームは1部屋13平方㍍の基準以下。前事業者が撤退後に入った建物のまま届け出た際、県に「建て替える時に基準を守って」と言われたが、「費用や入居者の住まいを考えると、とても改築は考えられない」と話す。

 別の群馬県内の有料老人ホームも1部屋13平方㍍の基準を満たしていない。ようやく約4000万円を工面し、増改築の準備中だ。施設長は「当初から考えてはいたが、用意できる費用ではなかった。行政の補助を考えてほしい」と訴える。

3、感想

 たいした知識もありませんが、知っている事を総動員して考えますと、こんな事が考えられます。

 第1点。高齢者だけで考えないで、幼児や子ども、あるいは青少年までを含めて考えるという風に発想を転換する。これにはかつて長野県で田中康夫さんが知事をしていた時に実施した宅幼老所という実例があります。私見では、「幼」と「老」だけでなく、少年も青年も中年も熟年もいていいと思います。

 我が浜松市にも街中に青少年センターとかいうのがありますが、すべての年齢層に開放できないのかな、と考えています。

 第2点。高齢者にも、障害者にも、出来る範囲で「仕事」を作る事。子どもに本を読んであげる事でも、昼食の準備を少し手伝うのでも、どこかを直すのでも、何でも少しでもいいのです。仕事をして、少しでも収入が得られればいいのです。働いて収入を得る事はその人を喜ばせるでしょう。これがその人に生きがいを与え、その人の健康を増進するのです。これの実践例には「夢の湖ムラ」とかいうのがあるはずです。

 第3点。どんな事業でもマネジャーが決定的だと言うことです。これは徳島県の池田町で成功した「葉っぱビジネス」の例があります。映画「人生いろどり」にもなりました。あれは、農協の経営指導員がマネジャーとなったのです。社会的起業家養成所みたいなものを造って、そういう人をどんどん生み出すべきだと思います。

ルター

2012年03月22日 | ラ行
                    歴史研究家・渡辺修司

 宗教改革で最も著名なのはドイツのマルティン・ルター(1483~1546)だろう。

 1517年、「95カ条の論題」で贖宥(しょくゆう)状(免罪符)の悪弊を批判した。公開質問状を教会の扉に掲げたと広く信じられているが、実際は司教に書状を送っただけだった。

 無視すれば宗教改革の口火は切られなかっただろうが、ローマ教皇側は迅速に反応した。喚問や破門威嚇の教書の通告から始まり、皇帝カール5世はルターを法律外に置く、つまり殺害を容認する処置をとった。

 だが彼は頑として自説を曲げず、反教皇・反皇帝の諸侯の保護を受けて活動、支持者はドイツ全土に急速に広がった。

 音楽と活版印刷術が普及を支えた。当時のドイツの識字率は5%程度。ルター支持者は大量の印刷物を配布する中で、教皇を「陰険な動物」「悪魔」のイラストで描き、教皇=悪者の印象を広めた。

 ルターは新約聖書を初めてドイツ語に訳し、近代ドイツ語の基礎をつくった。

 楽譜も印刷され安価で大量に出回った。ルター自身が有能な音楽家で「宮廷で使われるような表現ではなく、平易な日常語で歌わせたい」と多くの賛美歌にかかわり、今も日本基督教団の「讃美歌21」に10曲が採られている。

 宗教改革は一面、音楽の民衆化でもあり、説教師はイラストで視覚に、声や音楽で聴覚に訴えた。

 彼の結婚も多大な影響を与えた。聖職者の妻帯が醜聞の時代に、周囲から推されて修道士出身のルターは元修道女と結ばれた。各界から攻撃が集中したが「結婚は神の賜(たまもの)だ。最も甘美・親愛・純潔な生活だ」と言い切った。

 プロテスタントでは教職者・牧師の結婚が認められ、今に至っている。

 (朝日、2012年03月15日)

         関連項目

ルター(01~04)

ラファエロ

2012年02月22日 | ラ行
                          河合塾講師・青木裕司

 イタリアの画家ラファエロ(1483~1520)は、レオナルド・ダピンチ、ミケランジェロと共にルネサンスの三大巨匠だ。

 21歳でフィレンツェに移り、メディチ家の保護のもと聖母子像の傑作を生み出し、25歳で教皇ユリウス2世からバチカン宮殿の壁画を依頼された。既にミケランジェロがシステイナ礼拝堂の天井画『天地創造』の制作に入っており、教皇は2人の天才を競わせようとしたのだ。

 8歳年下のラファエロと同列に扱われたと思ったミケランジェロは大層怒ったという。だが2人の関係は必ずしも険悪ではなかった。後にラファエロが作品の報酬で依頼者と揉め、ミケランジェロに報酬額の判定を頼んだ。ミケランジェロは絵の登場人物一人ごとに大金を払うよう、依頼者に告げたという。

 宮殿「署名の間」の壁画の傑作「アテネの学堂」にはラファエロが尊敬してやまないダピンチとミケランジェロが、それぞれプラトンとへラクレイトスのモデルとして描かれている。

 ラファエロの奔放な女性関係は若い頃から有名だった。愛人をアトリエに住まわせて情事を重ねつつ制作に励んだこともある。絵のモデルの一人だったという説もある。

 だが放蕩が過ぎ、突如高熱を発した。死期を悟り、愛人に正当な生活資金を与えて送り出し、財産は弟子と親戚で分配するよう遺言して、37歳の誕生日にあっけなく死んだ。

 遺体はローマにある、古代ローマ時代に神々をまつっていた神殿パンテオンに埋葬された。イタリアの人々にとって彼は崇拝する神の一人なのだろう。墓碑銘には「ここにかのラファエロあり」と記されている。
     (朝日、2012年02月03日)

論理学、die Logik

2012年02月15日 | ラ行
  参考

 01、論理学の対象は思考だが、一層規定した形では「概念的に把握する思考」である。(大論理学第1巻23頁)

 02、思考の必然的な諸形式と固有の諸規定とが[論理学の]内容であり、最高の真理である。(大論理学第1巻31頁)

 03、論理学は文法と同様、二様の現れ方をする。初めてそれを学ぶ人と諸学を学んだ後にそこに帰ってくる人とでは文法でも論理学でもその価値が違う。

 文法を初めて学ぶ人はそこに個々のつまらない規則を見出すだけだが、1つの言語を知り、他の言語と比較する人は、その国語の文法の中にその民族の精神を知る。文法の規則が充実した価値を持つのである。

 論理学の価値も諸学を知った後に初めて分かるのである。(大論理学第1巻39-40頁要旨)

 04、自然哲学や精神哲学などの具体的な学問に比べると論理学は形式的な学問であるが、それは絶対的な形式の学問である。その意味は、その形式が自己内で全体性であり、真理の純粋な理念そのものを含んでいる、という事である。(大論理学第2巻2 31頁)

 感想・どこかで「論理学の扱う形式は内容を生みだす形式である」という言葉を読んだように思っているのですが、ここを別の表現で理解したのかもしれません。その意味は、同じ事実でもまとめ方で全然違った内容になる、と理解しておけば大体当たるでしょう。

 05-1、論理的形式の中には思考の形式的機能しかない、と言うとするならば、既にそれだけで、その機能がそれ自体としてどの程度真理に合致しているかは考察に値することになるであろう。このような事をしない論理学は思考の諸規定の自然誌的な記述でしかない。(大論理学第2巻2 34頁)

 05-2、論理学の本来的な関心は、以上で述べた意味での真理の考察である。つまり、[ある実在ないし内容ないし思考規定が]自己自身と[どのように、又どの程度]一致しているかを考察する事である。……論理学の仕事は、1つ1つの思考規定がどの程度真理を捉える能力を持っているかを考察する事である、と言っても良い。(小論理学第24節への付録2)

 感想・「概念の価値の吟味」とはこの事です。

 06-1、どの科学もそれぞれの対象を観念とか概念とかの形式で捉えるものであるから、応用論理学と言える。(大論理学第2巻414頁)

06-2、論理学は純粋な思考規定の体系だとするならば、他の諸哲学(自然哲学と精神哲学)は言わば応用論理学である。というのは、論理学はそれらに生命を与える霊魂だからである。(小論理学第24節への付録2)

 07、論理学は最後の科学であると共に最初の科学でもある。(大論理学第2巻437頁)

 08、思弁的な知の本性は論理学の中で十分に展開した。(法の哲学第20節)

 09、論理学は純粋理念の科学である。即ち、思考という絶対的な地盤における理念の科学である。(小論理学第19節)

 10、有限な思考の全ての形式が論理学の展開過程の中で現れ、しかも必然性に従って登場するだろう。(小論理学第24節への付録3)

 11-1、論理学の第2部(本質論)の全体は直接性と媒介性とが互いに定立しあうようにして統一するという事、両者が本質的は1つであるということを扱っている。(小論理学第65節への注釈)

11-2、ヘーゲルの論理学の中で群を抜いて重要な第2部、本質論(マルエン全集第20巻348頁)

 12、論理学の仕事とは、表象されただけで概念的に捉えられておらず証明されていない諸観念が、自己自身を規定して行く思考の諸段階である事を示し、よってもってそれらの観念を概念的に捉え、証明する事である。(小論理学第121節への付録)

 13、普遍的なもの、絶対的に存在するもの一般と、個別的なもの、主観的なものとの一体化は、それのみが真理なのだが、これは思弁的性質を帯びている。従って、それを一般的な形で扱うのは論理学の仕事である。(歴史における理性87頁)

 14、概念の論理的な性質、あるいは弁証法的な性質、即ち概念が自己自身を規定し、諸規定を自己内に定立し、今度はこれらの規定を止揚し、それによって肯定的な規定を、前より豊かで具体的な規定を獲得するという事──純粋な抽象的概念の規定のこのような必然性と必然的系列は哲学[論理学]の中で認識されている。(歴史における理性167頁)

 15、かくして[ヘーゲルの]論理学全体は、抽象的な思考がそれだけでは無である事、絶対的理念はそれだけでは無である事、自然が初めて何物かである事の証明なのである。(マルエン全集補巻1、585頁)



労働者、der Arbeiter

2012年02月14日 | ラ行
  参考

 01、(労働運動)もし彼らが資本との日常闘争で臆病にも譲歩するならば、もっと大きな運動を起こす事など到底出来なくなることは確実である。

 それと同時に、また賃金制度に伴う一般的隷属状態のことは全然別にしても、労働者階級はこれらの日常闘争の究極の効果を過大に考えてはならない。自分たちは結果と戦っているだけで、これらの結果の原因と戦っているのではないこと、下向きの運動を阻止しているだけで、この運動の向きを変えているのではないこと、一時押さえの薬を用いているだけで、病気を根治しているのではないことを、彼等は忘れてはならない。

 だから彼等は、一時も休まない資本の侵害または市場の変動からたえず発生するこれらの避けがたいゲリラ戦だけにうずもれてしまってはならない。

 現在の制度は彼らに苦しみをおしつけてはいるが、これと同時に社会の経済的改造に必要な物質的諸条件並びに社会的諸形態をも生み出しているのだということを、彼等は理解しなければならない。彼等は「公正な一日分の労働に対して公正な一日分の賃金を!」という保守的なスロ-ガンの代りに「賃金制度の廃止!」という革命的なスローガンを、彼らの旗に書きしるきなければならない。(マルクス「賃金、価格、利潤」長洲訳国民文庫)

 02、(労働組合)労働組合は、プロレタリアがその独裁を実現するためにぜひとも必要な「共産主義の学校」であり、予備校であり、また国の経済全体に対する管理を徐々に労働者階級の(個々の職業の、ではない)手に移し、次いで働く人々全体の手に移して行くのにぜひ必要な労働者の連合体であり、また長い間そうであろうということを、忘れてはならない。(「左翼小児病」朝野・川内訳国民文庫50頁)

 03、大企業の労働者というのは一種の「特権階層」である。(宇井純「公害原論」1、亜紀書房115頁)


労働、die Arbeit

2012年02月13日 | ラ行
参考

 01、概念の労働(精神現象学57頁)

 02、欲望は対象の純粋な否定である。従ってそれは混じりけの無い自己感情を保つ。しかし、欲望の満足は単なる消失である。……労働はそれに対して制止された欲望であり、抑えられた消失である。即ち労働は陶冶である。(精神現象学149頁)

 03、言語と労働とは[言葉を使って労働する時には]、個人はもはや自己の許に留まっておらず、内的な物を全て外へ出し、他者に委ねる。言語と労働とはそういう外化である。(精神現象学229頁)

 04、特殊化された欲望をそれに適った特殊化された手段を使って達成する媒介行為が労働である。それは自然から直接的与えられた素材を多様な目的のために多様な過程によって特殊化する。手段の価値と合目的性はここで証明される。人間の消費行為は人間の作った物への関係であり、人間は自分の努力を消費するのである。(法の哲学第196節)

 05、労働は人間と自然との二分[分裂]の結果であると同時にそれの克服である。(小論理学第24節への付録3)

 06、労働時間、人間の活動の直接的な定存在(マルエン全集第2巻51頁)

 07、直接的に物質的な生産について言うと、或る対象を生産すべきか否かを決めること、即ちその対象の価値の決定は本質的にその生産にかかる労働時間に依る。なぜなら社会が自己を人間的に作り上げる時間を持っているか否かは時間に依存しているからである。(マルエン全集第2巻52頁)

 08、労働力は今日我々が住んでいる資本主義社会では商品であり、他のどの商品とも同じ商品である。しかし、それにもかかわらず、それは極めて特殊な商品である。即ち、それは価値を創造する力、価値の源泉であるという特別の性質を持ち、しかも適当に扱うならば労働力自身が持っている以上の価値を生むという特別の性質を持っているのである。(マルエン全集第6巻598頁、「賃労働と資本」序論)

 09、価値というのは労働を表す別の表現にすぎない。資本主義社会では、それは或る商品の中に入っている[それの生産に]社会的に必要な労働を印づける表現に過ぎない。(マルエン全集第6巻598頁、「賃労働と資本」序論)

 10、労働は人間の全生活の第1の根本条件であり、しかも或る意味では、労働は人間自身を創り出したと言わなければならないくらいそうなのである。(マルエン全集第20巻444頁)

 11、手は労働の器官であるだけでなく、労働が作り出した物でもある。(マルエン全集第20巻445頁)

 12、労働は道具を創り出す事と共に始まる。(マルエン全集第20巻449頁)

 13、要するに、動物は外的自然を利用するだけであり、単にそこにいるというだけによって外的自然に変化をもたらすだけなのだが、人間は[まず]自分の方がいろいろと変わってから[自然に立ち向かうので]自然を自分の目的のために役立て、自然を支配するのである。(マルエン全集第20巻452頁)

 14、どんな物でも止揚対象でないのに価値である事は出来ない。その物が役立たなかったら、その物の中に含まれている労働も役に立たないものであり、労働とは言えず、従っていかなる価値も形成しない。(資本論第1巻45頁)

 15、「人間の肉体的、構神的生活が自然と関連しているということは、自然が自然自身と関連していること以外の何事をも意味しない。というのは、人間は自然の一部だからである」(マルクス・エンゲルス全集補巻1、516頁)。

 この点については、許萬元氏が『ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理』の第3章「『現実性』の実践的概念」ですばらしい論理的な叙述を与えている。

 氏はそこにおいて、ヘーゲルの本質論の現実性までの部分を現実性の生成史(我々にとっての現実性の規定)とし、現実性の項の内的展開を現実性の運動(現実性自身の形成的反省)として捉えることによって、まずヘーゲルの現実性を再構成する。その上で、マルクスの労働論(『資本論』の労働過程論)を、ヘーゲルの現実性で捉え直す。

 すなわち第1に、労働過程の3契機と現実性の3契機とを対比させて、労働過程を土地の形成的反省過程と捉える。第2に、生産物──労働──生産物の関係と実体性関係との対比によって、労働過程を生産物の反省的形成過程と捉え、よってもって、人間と自然との必然的で有機的なつながりを論証する。この部分は氏の著書全巻中の圧巻である。(牧野「労働と社会」64-5頁)


歴史(歴史と論理)

2012年02月12日 | ラ行
  参考

 01、(歴史という語の二義)歴史という言葉は、事実としての歴史、客観的な歴史を意味する事もあれば、それについての記述ないし叙述、つまり主観的な歴史を意味することもあります。「歴史における理性」164頁、ズ全集第18巻132頁を参照。

 02、(ヒストリイという言葉)ピュタゴラスの徒は幾何学をヒストリアと言った。このようなところから自然学や自然の学的研究の事をヒストリアと言った。後でヘロドトスがその作品をヒストリイと言った所から歴史の意味に用いられるようになった。(副島民雄訳「ソクラテスの弁明」講談社文庫203頁、訳者の注)

 03、(HistorieとGeschichte)原語はhistorischであるが、へ-ゲルはGeschichiteに対しては深い意義を認めようとするのに対して、Historieはこれを多く軽蔑的な意味に用いる。即ち彼においてはヒストーリとは、相互に内面的連関の明らかでない事実或は事項を羅列し記述し物語るもので、大体ストーリというほどのものである。ヒストーリはもとギリシャ語のヒストリア或はヒストリエーからきていて、これは見聞し或は観察したありのままの事実を記述したものであるが、へ-ゲルはこのギリシャ語の語感を活用しようとしていると見ることができる。用例については、エンチユタロぺディー162節を参照。(金子訳精神現象学上巻459頁)

 04、(ヘーゲルとマルクスの「歴史」概念)このような論理こそ、まさにへーゲルとマルクスが言葉の真の意味で「歴史」と呼んだものではなかったのか。年代順に事実を並べるのが歴史なのではない。それは年代記にすぎない。お話にすぎない。それらの事実の中に発展的な関係を見抜くことこそ真の歴史である。英一が叙述したように、前代の仕事の意義を認めることによって同時にその限界を明らかにし、よってもって後代の仕事を必然的に導き出すという叙述こそ、真の歴史叙述である。(牧野「『パンテオンの人人』の論理」)

 05、法の諸概念がどのように現れて来たか、それがどう発展するかといった事を時間の中で現象している姿で考察すること、この純粋に史実学的な努力も、又そこからどのような事が帰結されるかを推理して、既に現存している法的諸関係と比較して認識する事も、その固有の領域の中ではそれなりの価値と意義を持っている。歴史的根拠からの展開と概念からの展開とを混同せず、歴史的な説明と正当化を絶対的な正当化と過大評価しない限り、それは哲学的考察とは無関係である。(法の哲学第3節への注釈)

 06、従って歴史の全運動は[私有財産の積極的止揚としての]共産主義を実際に生み出す行為である──それの経験的な存在を生みだす行為である──と同時に、その共産主義を思考する意識に対してはその生成の運動を概念的に把握し、意識にもたらす事でもある。(マルエン全集補巻1、546頁)

 07、歴史には、そのどの段階にも1つの物質的な成果が、生産力の総和が、自然への関係と人間相互の関係における歴史的に作り出された関係が存在しており、そしてこの総和はどの世代に対しても先行する世代から伝えられるのである。即ち、ひとまとまりの生産力と資本と環境があって、これは一方では新しい世代によって変革されはするけれども、他方ではまたこの世代にその生活諸条件を指定し、一定の発展と一つの特殊な性格をこの世代に与えるのである。従って、人間が環境を作るのと同じように、環境が人間を作ることになるのである。(マルエン全集第3巻38頁)

 08、しかし、彼(フォイエルバッハ)を取り巻く感性的な世界は、直接に永遠の昔から与えられた所のつねに自己同一な事物ではなく、産業と社会状態との産物であるということ。しかもこの事は、この感性的な世界がひとつの歴史的な産物であり、引き続く諸世代の活動の成果であって、これらの世代の内のいずれもが、自己に先行するものを受け継ぎ、その産業と交通とを更に発展させ、その社会的な称序を欲望の変化に応じて変更したという意味だということ。(マルエン全集第3巻43頁古在訳60頁)

 09、歴史とは、個々の世代の継起にほかならず、これらの世代のいずれもがこれに先行する世代から譲られた材料と資本と生産力を利用する。従って、一方では、受け継がれた活動を全く改変された環境のもとで続けて行き、他方では古い環境を全く改変された活動でもって改めてゆくのである。(マルエン全集第3巻45頁古在訳64頁)

 10、ある地方で獲得された生産力や殊に発明がその後の発展にとって失れてしまうかどうかは、もっぱら交通の拡がりに懸っている。(マルエン全集第3巻54頁古在訳80頁)

 感想・昔はそうでしたが、最近は政治的な事情や経済的な事情もあるのではないでしょうか。

 ★ 歴史と論理

 この歴史と論理の関係の問題も自称マルクス主義者を誤らせた躓きの石の1つです。

  参考

 01、科学において最初の物は歴史的にも第1の物として示されなければならなかった。(大論理学第1巻74頁)

 02、法的規定の時間的出現と展開との考察は哲学的考察と混同してはならない。(法の哲学第3節への注釈)

 03、哲学は現在を、現実的な物を扱う。精神が自己の背後[過去]に持っているように見える諸契機も、精神は自己の現在の深みの中に持っている。精神は歴史の中で諸契機を経めぐってきたように、現在の中でも、つまり自分の概念の中でもそれらの契機を経めぐらなければならない。(歴史における理性183頁)

 04、歴史においても歴史の文献上の反映[科学]においても発展はおおまかに見れば、最も単純な関係からより複雑な関係へと進んで行くのである。(マルエン全集第13巻474頁)

 05、しかし、論理的な扱い方というのは、歴史的な扱い方からただ歴史的形式と撹乱的な偶然的なものとを取り去っただけのものにほかならないのである。歴史の始まる所から思考の歩みもまた始まらなければならない。

思考のその後の歩みは歴史の経過を抽象的で理論的に一貫した形式で反映したものにすぎない。(従って)それは修正された映像であるが、その修正とは、それぞれの要因が、その全き成熟とその典型的な発展の瞬間に考察されるようにすることによって、現実の歴史的な経過が与えてくれる法則に基いた修正なのである。(マルエン全集第13巻475頁)

 06、抽象的なものから具体的なものへと上っていく方法は、思考にとってのやり方であるにすぎず、思考が具体的なものを我が物にし、精神的な具体物として再生産するための思考にとってのやり方にすぎないのである。それは決して具体的なもの自身の発生の過程ではないのである。(マルエン全集第13巻632頁)

 07、単純なカテゴリーは又、具体的なカテゴリーに先立って、独立の歴史的または自然的実在を持つのではなかろうか。それは事と次第に依る。(マルエン全集第13巻633頁)

 感想・つまり、「歴史と論理の一致」とやらと言って、歴史的な順序で並べると論理的に成らない事もあるのです。例えば、寺沢恒信氏がその「弁証法的論理学試論」で「概念より判断の方が先だった」と言って、主観的論理学を判断から始めたのはまさに戯画だったのです。学問は論理の世界なのです。

 08、すなわち、単純なカテゴリー[例えば貨幣]が表現している関係は、未発展な具体物[例えば古代社会]が精神的には一層具体的なカテゴリー[例えば資本]によって表現されるような一層多面的な関係[例えば労働力の商品化]をまだ定立せずに、それとして[ただ商品交換の行われている社会として]実現されているような関係である。

 他方、一層発展した具体物[例えば資本主義社会]は、この単純なカテゴリー[例えば貨幣によって表現される関係]を従属的な関係として持っている。

 貨幣は、資本や銀行や賃労働の存在する以前にありえるし、事実あった。この面から見るならば、次のように言う事も出来る。即ち、一層単純なカテゴリー[例えば貨幣]は、比較的未発展の全体[例えば古代社会]の支配的な関係や比較的発展した全体[例えば資本主義社会]の従属的関係を表現する事が出来るが、[ともかく]その関係[比較的単純なカテゴリーで表現される関係、例えば貨幣関係]は全体[社会]が比較的具体的なカテゴリー[例えば資本]によって表現されるような面では未だに発展していない時にも[つまり、例えば社会がまだ資本主義的に成っていない時にも]、歴史的には既に存在していた。その限りでは、抽象的な思考の最も単純な物から一層複雑なものへと登って行く歩みは歴史の現実の過程と照応する。(マルエン全集第13巻633頁)

 09、かくしてこの全く単純なカテゴリー[例えば労働]がその集約的な形で現れるのは、歴史的には、社会が最も発展した状態[資本主義社会]においてでしかないのである。……かくしてたとえ比較的単純なカテゴリーは歴史的にはより具体的なカテゴリーよりも前に現存するにしても、それがその全き内包と外延とをもって展開されるのは一層複雑な形の社会においてである。

 他方、一層具体的なカテゴリー[例えば家族]はあまり発展していない形の社会にあっても[単純なカテゴリーよりは]純粋に展開されていたのである。(マルエン全集第13巻634頁)
 10、どのような形式の社会にあっても他の全ての生産に位置づけをし、影響を与えるような生産がある。それが普遍的な照明であって、その中では他の全ての色が沈み込み、その普遍的照明の特殊性の中で修正されるのである。(マルエン全集第13巻637頁)

 11、一般に、弁証法は、事物をその歴史的発展において洞察することだ、ということはよく熟知されている。だが、事物の歴史的発展は、あの「反省即形成」の論理を基礎としなければ理解しえないのである。

 けだし、もし事物を、ただ発展的展開としてのみとらえるならば、どこにその事物の歴史の質的限界点、または完結点をおくかは、全く不明瞭とならざるをえないからである。むしろそれは、一定の事物の固有なる生涯を知らぬ悪無限的進行を追ってゆく「退屈な」(ヘーゲル)認識とならざるを得ず、単なる便宜主義的限界設定ということに帰着せざるをえないのである。

 展開または形成過程を、同時に反省過程として統一的に把握してこそ、はじめて、事物の展開過程が最も内的な本質を定立すると共に、その事物としての生涯が完結するのだ、という真の歴史的論理が解明されうることになるのである。

 言い換えれば、事物の歴史的形成過程を、まさにその事物の歴史的反省としてとらえかえすべきことを、意味しているのである。このようにしてのみ、事物の歴史なるものを、自己を自らに連結する円環として概念的に把握することが可能になると言うべきであろう。(許萬元「ヘーゲルにおける概念的把握の論理」、東京都立大学哲学研究室発行『哲学誌』第7号)