マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

立憲民主党の代表選、その2

2021年11月28日 | 読者へ
立憲民主党の代表戦(その2)

 まず前回書き残した事を一つ書きます。
 それは、私の聞き違いでなければ、逢坂さんが、党員に対して県知事選挙や市長選挙や町長選挙といったいわゆる「首長選挙」及びその下の議員選挙にドンドン出てゆくことを奨励する、という趣旨の発言をしていたことです。それはこの選挙運動及び当選後の活動で政治家としての力を伸ばすことができるからでしょう。
 私はこの考えに賛成です。逢坂さん自身北海道のニセコ町長を経験して、それがいかに有益だったかを知っているのでしょう。党員にそれをすすめるなら、その費用や万一落選した場合の保証はしっかり考えておくべきでしょうが。
 っつまり、私は「逢坂さんについて、党員教育にとっての機関紙の意義を知らない」と書きましたが、機関紙だけが党員教育の手段と見ていた限りで、私の批判は一一面の正しさしかなく、半分は不当な批判でした。この点でお詫びします。
 あえて補足するならば、党員は何らかの地域運動に加わって活動をしていることを前提し、その活動をしていない人はサポーターにとどめるべきだとおもいます。


 第二に取り上げたいことは、「新代表は共産党との関係で苦労するだろう」という枝野現代表の言葉です。これは26日付け

の朝日新聞の記事の中にありました。
 この問題、すなわち社会民主党系の政党といわゆる正当な共産党との関係はいかにあるべきか、という古くからの大問題につながります。
 理論的にはそうですが、、、実際的には日本だけの問題です。なぜなら、政権を握った共産党や労働党はどこでも独裁党に変質しまっているからです。
 この問題は好き嫌いの感情的な問題となることが多く、どちらの側もマルクス、エンゲルス及びレーニンにさかのぼっての議論はほとんどなく、「科学的」社会主義の「科学とはヘーゲルに由来する語なのに、それを研究して理解している人は皆無であるため、本当の話し合いになっていません。
 このはなしあいを可能にするためにも、まずしっかりした論争のできる機関紙を発行しなければならないでしょう。
 

立憲民主党の代表選挙

2021年11月23日 | 読者へ
   立憲民主党の代表選挙

 選挙で負けた立憲民主党で枝野代表の辞任によって空席となった代表の席をめぐって選挙戦が行われています。
 四氏が立候補しました。今日21日、それぞれの考えを聞く会がNHKで放映されました。
 その内容に入る前に、或る程度以上大きくなった組織でトップの後継者を決める方法には大きく分けて二つあるということを確認しておきましょう。すなわち去り行くトップが決めておく方法と前トップが去ってから残った人々が選挙などで決める方法です。どちらがよいかは一概には言えないと思います。ともかく、立民は後者を採ったということです。
 では私はこれら四氏の発言をどういう点で評価したかと言いますと、①立民の運動の全体をどの程度落ち着いてみているかであり、②全体の中の核心をどこにみているかであり、③
その核心の実現手段をどう具体的に構想しているか、の三点でした。
結論としては。逢坂氏が80~70点、小川氏が70~60点、他はそれ以下、です。
 逢坂さんは教育を核心と見ているようです。この教育を国民全体のそれ及び立民党員のそれと見ているなら一層よい。ただし具体策はまだ分かっていないようであり、政党における機関紙の決定的重要性にも言及していません。
 小川さんは今回の選挙では、党内での政策論争が弱かったので、それが国民に十分浸透しなかったという意見のようですが、彼にも機関紙の重要性は思いうかばなかったようです。

 誰がトップになるにせよ、35歳以下の党員を「青年部」に組織して、政党助成金を全額青年部に与えて、「立民週報」を発行させるとよいでしょう。私も投稿させてもらいます。

 お断り、その1
 注意してビデオで見たつもりですが、四氏の発言を誤解している部分がありましたらお許しください。

 お断り、その2
  11月22日の、昼にNHKラジオ第1放送で放送された「候補者討論会」をきいてもこの考えはかわりませんでした。 
 

「その後」の説明

2021年10月10日 | 読者へ
「その後」の説明

ブログ前号で私の意見は今までにない反響でした。ありがとうございます。
その後、私はその「暗唱主義」のための教科書にもなれば、独習の参考書ともなる小冊子の執筆にかかりました。これを「星の王子さま」の独訳を使って作っているのです。最初の三つの節だけにするつもりですが、そこだけでも文法的な問題が結構出てきて、英訳や仏原典を見る必要に迫られた箇所がいくつかあります。時にはこれまでの和訳も見てみました。そうしたら何となく疑問を感じた所があるだけでなく、明らかに「誤訳」と言わざるをえないものもあることに気づきましました。

 一番ひどいのは第2節で「僕」が「王子」の言葉で起こされて、「えっ?なんとおっしゃいました?」と聞いて、王子が再度「羊を描いてください」と言うのを聞いて、びっくりしてとびあがる場面です。

岩波少年文庫(内藤訳)は「なん度も眼をこすりました。あたりを見回しました」と訳していますが、この「あたり
 見回しました」が完全な誤訳なのです。
 同じ間違いを、いずれ文化勲章を受けることが確実と思われる池澤夏樹も集英社文庫の中で犯しています。これはとても意外でした。
 そもそも「見回す」という動作は音声を発した主体は誰か、あるいは何かが分かっていない時に、その主体を眼で探す時に使うものだと思います。「えっ、何とおっしゃいました?」と聞き返すのは発生主体を見て、意味ではなく言葉を確かめる問いですから、今は発生主体自身は眼で捉えているるのです。この状況が分かっていたら「見回す」という訳は出てこないでしょう。
仏原文は j' ai bien regardeですから bien の意味を詳しく考えないで素直に訳すなら「よくよく見た」(管啓次郎約訳、角川文庫)とか「しっかり見た」くらいが穏当でしょう。

 しかし、ここでは私は独訳の genau hingeschaut に感心しました。日本語にすれば「ジーと見た」です。説明はここでは省きます。これは多分関口文法の不定冠詞論のなかにしか書かれていないとおもいます。英文学者にも仏文学者にも関口文法の勉強をおすすめする所以です。
 またまた興奮して脱線がひどくなりました。
 要するに、私は「星から来た王子」を全部訳すことにしたのです。ということは、「許萬元のへーゲル研究」の出版はさらに先になった
ということです。すみません。

 しかし、この間に、最新のコピー機は2萬円前後で買えることを知って、購入しました。まだ「使いこなしている」とはいえませんが、近所の方々の応援を得てがんばっています。


 

暗誦主義のドイツ語教育

2021年09月07日 | 読者へ
   暗誦主義のドイツ語教育


 視力の方は相変わらずですが、少しずつ慣れてきました。10日に次の診察があります。
 さて、眼の問題で苦しんでいる間に、或るきっかけで、自分のドイツ語教育を反省することになりました。
 同時に、大学で 
のドイツ語教育がジリ貧状態にあるという現実を知って愕然としました。
 そこで急遽『暗誦と文法でドイツ語マスター』という自習書を作っています。
 その小冊子の「はしがき」に次のように書きましたので、それだけをお知らせしておきます。9月7日 牧野 紀之

 始めに
 先に『辞書で読むドイツ語』という入門書を出して、 書名が好かったからか、お陰様で売れ続けているようです。しかし、著者としては、「独文読解の練習用のテキストが少な過ぎた」と反省していました。しかし、そのための具体案も浮かばないまま時だけが過ぎていました。
 しかるにこのたび「二八の言語で『星の王子様』で言語学をやる」とかいう本の広告を見て、関口存男(つぎお)の「語学はとにかく慣れることだ」という言葉を思い出し、更に「慣れるには暗誦が一番」という説も思い出して、本書のような指導法に辿り着いたわけです。

 多くの初等文法の授業では、単純な文を提示して、それをニ三回音読して文法の説明をすると思います。これのどこが悪いかと言いますと、例文が死んだ文であり、生徒の身についていないことだと思います。逆に、今回の我々の方法ではいきなり「生きた文」を取り上げます。しかもその文を文意もわからない内にスラスラ言えるようになるまで、暗誦するのです。何か、子供が母語を覚える過程に似ていると思いませんか。多分、子供はこういう過程を無限回繰り返しながら間違っているところは自然に気付いて治しながら、母語を身につけるのでしょう。我が家の子も最初は「作る」という語を「くる」と言っていましたが、自然に「作る」になりました。
 大人が外国語を学ぶ過程は子供の母語習得と完全には同じではありませんが、根本は同じでしょう。つまり「生きた文を暗誦して身に着けた上で、それを頭で理解する」という順序」です。
 大学で教えていた頃にこれに気付いていたら、もっと良い授業ができたのに、と後悔することしきりです。一週に90分ヒトコマの授業であっても秋には独検3級の合格者をかなり出せると思います。と言うより「ドイツ語の勉強は面白い」という感想を多くの学生に持ってもらえるでしょう。(私の授業では、中間に15分程度の『休憩』があり、さまざまなことをします。また、頻繁に学生の意見を聞いて、それを元に『教科通信』を発行します)

 さて、本書につぃて少し説明します。分かりやすさと暗誦のしやすさを考えて、ひとまとまりの塊ごとに区切り、番号をふりました。
  必ずその独文の1(ヒト)塊をスラスラと諳(そら)んじれるまで練習してから、説明を読んでください。また第1節が終わってもすぐに第2節には進まないで、第1節全体をスラスラ暗誦できるまで復習してください。『星の王子さま』をドイツ語でスラスラ言えるなんて、スゴイではありませんか。

 又、ドイツ語文法の説明に英文法等を引き合いに出すのは私の特色ですが、文法というのは本質的に比較文法であり、従ってその方が分かりやすいし、いろいろな事が考えられて勉強になると思うからです。




手術は成功(?)

2021年08月26日 | 読者へ
手術は成功(?)
 
 8月13日に、予定通り右眼の手術を受けました。手術が始まってすぐに寝てしまいましたので、手術自体には何の感想もありません。
 後日の検査では順調に眼圧が下がっているので、「手術は成功」といわれました。しかし劇的な変化を期待していた私としては、「成功と言われてもなあ」という感じです。確かに遠くは前より「少し」よく見えるようになりましたので、メガネを付けない時間が多くなりましたが、近くのものや小さいものは見えなくなりました。新聞が読めないのが困ります。そう言ったら、医者は「百均で老眼鏡を買って使うといい」と教えてくれました。なるほど最も強い老眼鏡をかけて、対象から10センチくらいまで近づけると何とか読めることが分かりました。
 新聞はイチイチ拡大コピーを取って読むわけにはいきませんが、勉強の本などは拡大コピーを取って読んでいます。
 そういうわけで、現在は手術後の視力に合わせた生活を模索しているところです。
 これで今回の報告とさせていただきます。
 

 

マルクス主義は空想的社会主義か

2021年08月19日 | 読者へ
拙著『マルクスの空想的社会主義』にて、アマゾンの該当欄に以下のようなレビューが寄せられていました。日付は2020年8月24日となっていますが、私が気付いたのはつい先日のことでした。
 牧野本に親しんできたと書かれています。しかし、問題がないかといいますと、やはりイマイチだと思います。
 わたくしが答える前に、皆さんの議論を求めるのが適切だと判断した次第です。


2020年8月24日に日本でレビュー済み

著者は、この本の目的を「マルクスとエンゲルスの社会主義思想は空想的社会主義思想の一種でしかなかった」ということを証明することと言います。さらに、科学的社会主義の「科学」とは、マルクス・エンゲルスがヘーゲルから受け継いだ「科学」、つまり、「事柄の生成の必然性の証明」であると主張します。つまり、「マルクスとエンゲルスの社会主義思想は空想的社会主義思想の一種でしかなかった」とは、マルクス・エンゲルスは、社会主義社会さらには共産主義社会の到来の必然を証明できなかったという意味でしょう。

ここで著者は「空想から科学へ」の本文から、彼らの社会主義思想が「科学」になったという根拠として「唯物史観の発見と剰余価値の発見の二つ」を挙げ、その両方をマルクスの功績としている文章を見つけます。

そこで「唯物史観」を再検討するために「経済学批判の序言」を、「剰余価値の発見」を再検討するために「資本論」を検討します。原文の翻訳と細かい注釈作業を通して検証が進むのですが、著者の主張を大ざっぱに言えば、「唯物史観」における「生産力が生産諸関係を規定する」という命題や、土台と上部構造の関係は、いずれも一義的な決定ではないということでしょう。だから、「剰余価値の発見」を端緒として資本主義の運動を解明できても、それが社会主義という特定の社会形態の「到来の必然性」に直結しないということのようです。(社会主義が到来しないことの必然の証明ではありません)。

 著者の本に親しんできた者として残念なのは、これほど大胆な命題の証明が、一冊中に収められた翻訳や小論や、注釈の中に分散していることです。また、ぜいたくを言えば、「マルクスとエンゲルスの一番大きな見落としは、フランスの社会主義思想が性善説に立ち、ドイツ観念論が性悪説に立つものであることの矛盾に気がつかず、無意識のうちに単純に両者を結合したことです」などのくだりも詳しい展開を読みたいと感じました。

ーーー


近況報告

2021年08月03日 | 読者へ
近況報告
ずいぶんご無沙汰してしまいました。「巨大な歴史的感覚」の問題を片づけてから、その他の問題を一つずつ処理しました。その間に体調も戻ってきましたので、最後の問題である「右眼の緑内障の手術受ける決意」をしました。
 既に事前の検査も済みました。医者のスケジュールによって、手術日は13日と決まりました。事前にするべき準備をしながらその日を待っています。 この手術で失明を 回避できるだけでなく、かなりの程度元に戻れると期待しています。そうなれば「ノソノソ宣言」を「ゆっくり宣言」に替えて、着実に仕事をこなしてゆこうと思います。
 手術は医者に任せて、その指示に従うつもりです。
 まもなく良い報告ができますように祈っています。
8月3日深夜、
日本とスペインのサッカー戦を聞きながら。
 牧野紀之




「巨大な歴史的感覚」の終わり

2021年07月05日 | 読者へ
「巨大な歴史的感覚」を中止します。私の緑内障が悪化して、パソコンを使うのが大変になったからです。手書きにすることが多くなりました。
 第5節は「母語とは何か」と予告しましたが、「思考と言語の誕生」としました。 第六節は「悟性的作文の見本」としました。

 許萬元の「巨大な歴史的感覚」という言葉に違和感を感じて始まった今回の思索は、予想もしなかった収穫をもたらしてくれました。皆さんの思索にも役立ったとしたらうれしいで4す・

「巨大な歴史的感覚」その2

2021年05月13日 | 読者へ
第三節 第二の問題提起、思考とは何か

 許萬言のこの論文のその後の展開は次の小目次で分かります。
一、思考の一般的性格
二、特殊性における思考(悟性)の性格
 (a) 悟性的分析の悪無限的性格
 (b) 悟性的反省の歴史的性格
 (c) 対象分析の主体的限界
三、一般性に帰った思考(概念的具体的思考)
 (a) 概念の論理的本性
 (b) 形成過程の反省的把握
 (c) 反省過程の形成的把握


 要するに「思考の本性によって思考は必然的に概念的把握をめざす」という事を証明したいのです。
 では、その思考論はどうはじまるのでしょうか。以下のとおりです。

 「ある活動というものは、それが遂行するところのもの、その所産、それの対象からのみ認識されるだけである。活動の遂行するところのもの、それが活動なのである」というフォイエルバッハの言葉引いて、「もしこれが正しいならば、思考もまた、それが一つのの働きであるかぎり、思考自身の所産、即ち『思想(Gedanke)からのみ認識されるべきもの』となろう」ともってくるのです。
 Gedannkeを「思想」と訳す松村一人の悪訳〔最低でも「観念」とすべし〕を無断で使う非常識はここでは問わずに先に進みますと、許萬元は、「次のへ-ゲルの分析は全くあざやかである」と結論するのです。
 「思考の産物、即ち思想〔観念〕の規定性または形式は一般に『普遍的なもの』〔という事〕であり、抽象的なもの〔という事〕である。『働きとしての思考』は従って『働く普遍者(das taetige Allgemeiine)』であって、しかも自己を実現する普遍者である」。

 この考え方〔第一の方法〕は、いわば「結果論的」と言えるものですが、これは既に聖書の中にあるものです。即ち、マタイ伝十二の三三には「実(み)を見れば、どんな木かが分かる」と、あります。これくらいのことで「鮮やかだ」などと感心しているのは、キリスト教を勉強していない許萬元くらいでしょう。

 事物の本質を知る第二の方法はその事物の原初形態を知ることです。これは許萬元も原論文の二の(b)「悟性的反省の歴史的性格」の中で見田石介の言葉を引いています。
 人は何かの仕事などで行き詰まった時、「初心に返ろう」と言いますが、それは初心の中に自分達の仕事の本質が純粋な形で出ていると本能的に知っているからです。かつてルソーが「自然に帰れ」と叫んだのも同じです。では思考の始まりはどうか。サルが「前原語」と言ってよい音声を使って仲間と連絡を取り合い、「前思考」を行っていた段階から、それを乗り越えて、言語を使って意思疎通をし、考えるようになった時、一体何が起きたのか。これこそ、多分、いまだに意識的な問題として建てられたことのない問題なのではあるまいか。

 この問題を考える前に、物事の本質を捉える第三と第四の方法を確認しておきましょう。
 第三の方法は、その物事の固有の対象から規定する方法です。これもフォイエルバッハが言っているのですが、魚(Fisch)をとる人を「漁師(Fischer)」と言うような事です。
 第四の方法は「同類の物を較べて共通点を探る」という方法です。この方法には共通点が二つ以上あったらどうするのかといった難点もありますが、実際に役立ってもいる方法ではあるでしょう。
 これらの事を検討しないで、自分に都合の良い第一の方法を採用したのはご都合主義者・許萬元らしいですが、我々は科学的に正しい第二の方法で、対案を出したいと思います。
 我々は、多分誰も否定しないであろうエンゲルスの「人間の言語は労働の中で生まれた」という考えを受け継ぎます。しかるに、その人間的労働は「道具の製作と共に始まる」とされ、人間の定義は「道具を作る動物である」というフランクリンの定義となっているのだとおもいます。従って、我々の検討はこの定義の批判から始まります。

第四節 伊藤嘉昭(よしあき)氏 (→その3



お知らせ

2021年03月16日 | 読者へ
  鶏鳴出版への注文の仕方を変更します。
 gooブログのコメント欄が牧野には使いにくいから、又、以下のメルアドに連絡をいただければ、返信が容易なため、です。

注文方法
➀ 送金する。
● ゆうちょ銀行から送金する場合
記号が「10180」、 
番号が「18895201」です。
 最初の記号が、鶏鳴出版の郵便振替口座の最初の記号とにているので注意して下さい。 
●ゆうちょ銀行以外の金融機関から振り込む場合は、以下の通り。
銀行名 ・ゆうちょ銀行
金融機関コード ・9900
店番・ 018
預金種目・ 普通(または貯蓄)
店名・ 〇一八 店(ゼロイチハチ店)
口座番号 1889520

➁ 注文す物の書名等と注文者の氏名と住所(とよければ電話番号)を次のメルアドに知らせる。
 メルアド── uhk87659 @ nifty.com

PS
長らくブログの更新をしていませんが、私たち夫婦の病気ないし眼病等のためです。
 近いうちにご説明をします。牧野紀之

 

お詫び

2021年01月06日 | 読者へ
お詫び
 米田さんからのコメント欄への投稿が鶏鳴出版への注文を伝えたものであるにも拘わらず「公開」にしてしまいました。今朝気づき、ただちに修正しました。
 グーブログの作り方に分かりにくい点が在るのが一因とはいえ、「確認」をしっかりしていれば防げた間違いであり、いかなる言い訳も通用しない間違いでした。心からお詫びします。二度とこのような間違いをしないように、確認をしっかりしてからログアウトするように気をつけます。
 なお、物は今朝レターパックで発送しました。
 1月6日、牧野紀之
 

尋ね人──お詫びとお願い

2020年12月23日 | 読者へ
   尋ね人──お詫びとお願い

 1週間ほど前に、pdf鶏鳴双書の注文を、郵便振り込みでいただきました。準備ができたので、レターパックで送ろうとした所、注文者の氏名と住所を書いた通知が見つかりませんでした。自分の部屋にあるはずですが、何度も探しましたがまだ見つかりません。このブログで尋ねることにしました。
 心当たりのある方は夲ブログのコメント欄を使って、住所と氏名を知らせて下さい。お願いします。
 私の左眼の失明と不注意に原因があるので恐縮ですが、今後はいっそう気をつけますが、こういう事もありますので、ご注文にはブログのコメント欄を使って下さるようにお願いします。
12月23日   牧野紀之


ノソノソ宣言

2020年12月21日 | 読者へ
   ノソノソ宣言

 今までも「鈍足のマラソンランナー」でしたし、最近は更に遅く「牛歩のマラソンランナー」と成っていましたが、今後はそれを更に徹底するために「ノソノソ宣言」を出して、皆さんのご理解を得たいと思います。

 オンデマンド選書で2つの作品を出したので、例によって悪い癖が出て、『許萬元のヘーゲル研究』をサット片付けて、その後に『精神現象学の序言と序論』という題で適当な解説を付けて、「第2版」への批判ないし不満に応えよう、と考えて仕事に掛かりました。
 そうしたら、覿面に過労になり、体調を崩しました。仕事は行き詰まりました。
 その上、『許萬元のヘーゲル研究』については読者が、私の知らない論文を探してきてくださいました。これは「嬉しい悲鳴」でした。内容的には、大体中程度の問題しかありませんが、1つだけ大問題があります。

 それは許萬元が論文「ヘーゲルにおける体系構成の原理」の中で論じています「アリストテレスに由来する質料原理と形相原理」というものは、私が論文「実体と機能」でテーマとしている事柄と同じ問題を考えているのだと思いますが、それは更に廣松が「物象化」という言葉で捉えているのとも同対象ではないか、と気付いたことです。

 しかるに、私は許萬元はほとんどすべて、廣松はほんの少し読んでいますが、許萬元は私の物は密かに読んでいると思いますが、廣松は、多分、読んでいないと思います。では、廣松はと考えてみますと、我々の物は、多分、ぜんぜん読んでいないと思います。

 ついでですので、廣松と私との接点についてお話ししておきますと、それは2回あったと思います。最初は、私が本郷の哲学科に移った年です。60年安保闘争の真っ最中でした。ですから1960年の春のことです。何かの時に、当時、大学院生だった(と思います)廣松が研究室の中で我々の議論に加わったのだと思います。「君はマルクスのコレコレ(論文名は覚えていません)を知っているか!」と怒鳴りつけたのです。私は何もいえませんでした。友達は私に対して、「もの凄い論敵を持ったね」と言ってくれました。

 2回目は、日本哲学会の総会で、私が「ヘーゲルにおける意識の自己吟味の論理」という題で発表をした日だったと思います。ですから、1971年の5月だったと思います。その年はたまた総会が東京で開かれたのです。発表が終わって、許萬元さんと二人で控え室でくつろいでいる時に、廣松が横を通りかかりました。そして、立ち止まって、「こちらが許萬元さんで、こちらが牧野さんですね」と、我々の名前を知っていることを証明して、通り過ぎました。以上です。

 話を元に戻して、この同一の対象ないし問題についてのこの三人の理解の仕方はどう違うか、それと関連して用語の違いをどう整理して、正しい用語をどう提案するか、という問題が出てきます。これはかなりの問題です。しかし、ここまで来て逃げるわけには行きません。まず許萬元の言う「アリストテレスにおける質料と形相」が、本当にアリストテレスにあるのかが問題です。哲学辞典には「質料は材料みたいなもので、その材料に一定の形を与えるのが形相だ」といったことしか書いてありません。ヘーゲルは過去の哲学を理解するときには、そこに自分の考えを強引に読み込む癖のある人ですから、彼の『哲学史講義』でアリストテレスの項を読み直してみなければなりません。これはかなりの仕事です。

 廣松の物象化論については、あの難解な日本語を読むのは辛いので止めます。熊野純彦の解説を手掛かりにして岩波現代文庫『物象化論の構図』を最近、読み返したのですが、早くも根本的な疑問が出てきました。廣松は、木材で机を作った人が、自分で使うのではなく、商品として、値段を付けて売りに出した時、「その机を物象化した」あるいは「その机は物象化された」と言うのだと思います。実際は、反対ではないでしょうか。「机は観念化された」と言うのが正しいのではないでしょうか。

 その机が出来るまでには、森の中に生きている樹木が伐採されて「原木」になり、それが売られて「材木」になり、更に机制作者に買われて「材料」になるのでしょう。これらの一つ一つの「意味の変化」もみな売買という行為に媒介されていますから、「観念化」があるのですが、普通は、最終消費者に買われる場合だけを考えているようです。

 いずれにせよ、マルクスが商品を ein sinnlich uebersinnliches Ding (感性的な姿をしているがその社会的な意味は超感性的な物、頭で考えなければ分からない物)と言ったのはこういう事だったと思います。ですから、この意味の変化は「物象化」ではなく、即ち、「感覚では理解できないものが感覚で理解出来る物に成る」と言うことではなく、その逆の変化だと思います。つまり「観念化」だと思います。
 もう1度『資本論』の該当箇所を読んで又考えてみます。

 こんな事を考えているのですが、それと平行して、「維新」の意味だとか、免疫力を高める乾布摩擦の意義だとか、台湾の民主主義だとか、幼児の言葉遣いとかを論じていますが、私見では、哲学者に取ってはこういう応用問題の方が重要なのだと思いますので、これを止める訳にはゆきません。

 それに夫婦共に衰えてきていますので、家事にも時間がかかり、間違いが頻発しています。
 まあ、これは言い訳として、ともかく、無理に頑張って勉強するのは止めようと思います。つまり、現在の力の八割くらいにして、間違っても120パーセントくらいの力でがんばるのは、今後一切止めようと思います。これの方が、結局は多くの仕事が出来ると思います。

 どうぞ事情を理解して下さって、私のノソノソした仕事の仕方をお許し下さいますようお願いします。牧野紀之
 2020年12月21日、81歳の誕生日の直前に







図書館にある電子データの利用

2020年11月15日 | 読者へ
    図書館にある電子データの利用

 文化庁は、図書館にある蔵書の電子データを、利用者のパソコンやスマホに送れるようにする「著作権法の改正」を盛り込んだ報告書をまとめ、来年の通常国会へ提出するとのことです。

 今までは図書館は、蔵書の内容の一部(単行本の場合は半分まで)を紙に複写し、手渡しや郵送で提供することは出来ましたが、この改正では、ファクスやメールでのデータ送信が可能になります。著作者の権利として今までは認められていた「公衆送信権」が弱められ、図書館は許可をとらずにデータを送れるようになります。出版市場にかなりの悪影響が出そうです。対価として、著者や出版社への補償金を義務づけると言っていますが、その金額や支払い対象などはこれから詰めるということです。

 出版の世界にとっては「黒船」と言っていいのではないでしょうか。今後の報道を中止して下さい。
(地方・小出版流通センター通信、第531号、2020年11月16日)

 牧野の感想

 自分の夲が図書館を通して利用されるより、他者の夲を図書館を通して利用する方が多い人間としては、どっちを取るか、難しいです。しかし、やはり、出版界全体の事を優先的に考えるべきだと思います。

 その前に、図書館行政は、投書箱を置いているのに、図書館への意見や質問に返事をよこさない態度を改めるべきです。民主主義の大前提がないのでは話しになりません。

お知らせと御礼

2020年10月31日 | 読者へ
お知らせと御礼

許萬元の論文「区別の弁証法」が手元に届きました。年来の協力者であるSさんが、国会図書館からコピーを取り寄せ、それを又コピーして、送って下さったようです。
 ご協力ありがとうございます。好い読者を持って幸せです。
 充実した仕事をして、御礼にするつもりです。
10月31日 牧野紀之