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マキペディア(発行人・牧野紀之)

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ながく、牧野紀之の仕事に関心を持っていただき、ありがとうございます。 牧野紀之の近況と仕事の引継ぎ、鶏鳴双書の注文受付方法の変更、ブログの整理についてお知らせします。 本ブログの記事トップにある「マキペディアの読者の皆様へ」をご覧ください。   2024年8月2日 中井浩一、東谷啓吾

『マオ』を読む

2020年02月20日 | マ行
 「マオ」を読む

 ユン・チアンさんとその連れ合いらしいジョン・ハリディさんの共著『マオ』(土屋京子訳、講談社、上下)が出て、大きな反響を呼び起こしているようです。

 私もかつて毛沢東を信奉していた時期のある者として、これについて何も言わないわけにはいかないと思います。

 もちろん、毛沢東の宣伝のうまさとそれによる神話の虚偽性を指摘するならば、逆に本書の信憑性についても少しは疑ってかかる必要はあるでしょう。実際、たんなるプロハガンダだと言っている人もいるようです。しかし、私にはそうは思えません。

 本書を読んでの第1の感想は、一体何を信じたらいいのか、という絶望に近い気持ちです。「実践によって証明された」などという言い方も考え方も正しくないことは、既に私も指摘していることです。

 最近も『99パーセントは仮説』と言った本も出ているようです。

 しかし、生きている以上、何らかの情報を真として何らかの考えに基づいて行動していかなければならないのです。どうしたらいいのか、それが問題です。

 そこで第2に考えた事は、やはり、説明責任を果たしていない人なり事柄は、している事自体がどんなに正しいように見えても、まず信用してはならない、ということです。公生活では「有言実行」しか認められないと思います。

 日本では伝統的に「不言実行」の徳が認められてきましたが、政治家でも大学教員でも、その他のいかなる公人でも、今後はそのような態度は「徳」とは認められないと思います。まして何でも発表できるインターネット時代です。

 漱石の『三四郎』には「偉大な暗闇」とあだなされる広田先生が出てきます。これにはモデルがいるという説もありますし、高橋秀夫さんは『偉大な暗闇』(講談社文芸文庫)という立派な評論を書いています。

 そこで「偉大な暗闇」とは、何も著作を著(あらわ)していないから頭の中に何が詰まっているか分からない(暗闇)が、素晴らしい学問が詰まっているはず(偉大な暗闇)だという意味のようです。

 しかし、これはカントの物自体に対するヘーゲルの批判を知っていれば間違いだと分かります。カントは「現象していない物自体とはどんな物か分からない」としましたが、ヘーゲルは「現象の総体の中に物自体が出ているのだ」としました。出てこなかったものは無かったのです。つまり、暗闇は偉大ではありえないのです。

 分かりやすい譬えを挙げるならば、試合で負けたスポーツ選手について、「彼は本当は実力があるのだ」と言ってみても、何の意味もないのと同じです。

 私もこの歳まで生きてきて、自分についても知人についても人生の総決算というものを考えます。そして、実績が全てということを考えます。「本当は~だったんだ」といった言い訳は成り立たないのです。

 随分長く論じましたが、最近、大学教員の発言を検討する際、大学のホームページでのその人の頁を確かめるようにしています。研究業績、授業実績、社会活動等についてどれだけ十分な説明をしているかを見るのです。すると、ほとんどの方が説明責任を十分には果たしていないことが分かります。

 第2に、それは又、反対意見を認めず弾圧する人や運動は認められないということでもあると思います。私はかつてキューバに期待する気持ちを表明しましたが、そしてその気持ちは今でも変わりませんが、キューバなりカストロのやり方でどうしても理解できない点、納得できない点は、政治犯がいるということであり、キューバには言論の自由がない(らしい)ということです。

 自分のしている事が正しいと思っているならば、どうして自由な批判を認めないのでしょうか。

 第3に、これと関連して、批判に対して答えないのも「原則として」間違っていると思います。批判には答えるに値しないものもありますが、学問的な批判には答えるべきだと思います。それが本人の成長につながりもします。

 最近というよりは少し前からですか、立花隆さんに対しては多くのしっかりした批判があるのに、立花さんは全然答えていないようです。これで支持者を失った面もあるようですが、全体としては、ジャーナリズムで今でも生きています。こういう人を生かしておくジャーナリズムも問題だと思います。

 長谷川宏さんのヘーゲルの翻訳は私も批判していますが、他の多くの研究者も批判しています。それなのに、長谷川さんは答えていません。その訳書のまえがきの中で「注解を書きたい誘惑に駆られたが、訳文そのものだけで説明するのが本当の翻訳だと考えて注解を付けなかった」という趣旨のことを述べています。批判に答えないのは、翻訳そのものが反批判になっているとでも言うのでしょうか。

 NHKのラジオドイツ語講座の講師たちも批判に対して答えない人が多いです。こういうのを見ていると、小泉首相や私の所属する静岡県や浜松市の知事や市長のように、はぐらかし回答でも回答するだけましかな、とさえ思えてきます。

 最後にもう一点。「諸君」の6月号では「マオ」などを題材として座談会をしています。その中で中西輝政京都大学教授の次の言葉が気になりました。

 「理想が論理として間違っていなくても、現実に適用したところでとんでもないことになったら、その理想は間違いだったと烙印を押さなくてはいけない」

 氏にはかつてスノーの「中国の赤い星」にいかれたり、石坂洋次郎の「青い山脈」に共感したりした1時期があったそうですが(私も同じ)、こういった「現実」を知って、その「理想」自身をも疑うようになったのでしょう。

 「理想はそうだが現実はそうはいかない」という「理論」はよく聞きます。私は以前から「この考えは間違っている」と思ってきました。現実と合わない理想がどうして「論理として間違っていない」と言えるのでしょうか。

 私は、現実と合わない理想や理論は「理論として間違っているはずだ」と思います。逆に言うならば、自己を実現する力を持っている理論だけが本当に「正しい理論」なのだと思います。

 中西さんたちは、共産主義憎しの感情ばかりで、それを「理論的に」検討してそれの間違いを明らかにしようとしていないようです。これでは学者失格だと思います。ひどい現実を引き起こした理論の「理論的な間違い」を明らかにすることは学者の大切な仕事だと思います。

 この座談会を読んでいて賛成できない点は、共産主義に不賛成は自由ですが、ではこの人達はどういう社会を目指しているのか、それが分からないことでした。

 対案を示さない主張も、自分はどういう社会のために戦っているかを言わない主張もやはり無意味だと思います。(2006年6月22日)

 注・これはかつてブログ『教育の広場』に載せたものです。「終活」の一環として、このブログの記事で価値のあるものをこちらに移して、そのブログを廃止しようと思っています。






「民主党政権はなぜ短命だったのか」を読んで

2020年01月07日 | マ行
 「民主党政権はなぜ短命だったのか」を読んで

1,寺本太蔵氏の評論

 野党・民主党が政権後退への流れを確かなものにしたのが、2007年の参院選での勝利だ。

 小泉内閣が推し進めた構造改革で格差が拡大したことへの不満や「消えた年金問題」が追い風となって、自民党に大勝。衆参で多数派が異なるねじれ国会となり、その後の第1次安倍政権の退陣につながった。

 参院の主導権を握った民主党は「実行力」を有権者に実感してもらおうと「数の力」を存分に使った。

 自衛隊によるインド洋での給油活動を一時中断させ、ガソリン税の暫定税率をめぐり、参院で法案を採決しない手法で暫定税率を期限切れに追い込んだ。実際にガソリンの値段もー時的に下がった。

 同じ国会で、日銀総裁の同意人事をはねつけ総裁ポストが一時空席に。福田康夫首相への問責決議も可決した。支持率の低迷に苦しんだ福田氏は1年での退陣を余儀なくされた。

 政権の座にいない野党が国政の課題を左石する力を握る。その強烈な存在感に有権者の期待も集まり、民主党は09年8月の衆院選で単独政党では過去最多の308議席(全議席480)を凄得し、政権交代を果たした。

 だが、満を持して始まったはずの民主党政権は、3年3カ月で終わる。野党時代に政権交代の成果としてマニフェストで約束した政策や、政治主導を強調した政権運営で、実を上げられなかったことが大きな要因だ。

 米軍普天間飛行場の移設問題で迷走し、官僚を遠ざけた政治主導は空回りした。民主党は翌10年の参院選で敗北し、国会はまたもねじれ状態に。今度は野党自民党による徹底抗戦に直面した。

 民主党政権の負の記憶としてその後も尾を引いたのが、相次いだ党内抗争だ。12年夏にはマニュフェストになかった消費増税の是非をめぐって党が分裂し、政権の弱体化に追い打ちをかけた。

 民主党政権の挫折が示すのは、野党が政権交代をめざす上で、政策だけではなく、政党としての意思決定の部分でも政権担当能力を磨く必要があるという教訓だ。下野後、多くの幹部が民主党の意思決定の仕組みの弱さを指摘した。

 野田佳彦政権で副総理を務めた岡田克也・旧民進発代表は「消費増税の時など、党が大事な時にまとまらなかった。覚悟のなさに国民が不信感を持った」と話す。菅直人政権の官房長官だった立憲民主党の枝野幸男代表は当時を振り返り、「大事な政策の柱のところで、内部でゴチャゴチャさせないということを、これからもしっかりと貫いていきたい」と語る。

 期待を集めて誕生した民主党政権の失敗は、二大政党政治への失望を生んだ。その後、旧民主党勢力を中心とする野党は低支持率をさまよい、分裂を繰り返して多弱化した。安倍晋三首相はいま、7年前に終わった民主党政権を「悪夢」と批判し、自民党の安定感を強調しようとする。野党は、その主張を覆すだけの勢いを得られていない。(朝日、2019年10月10日。寺本太蔵)

2、牧野の感想

 ① 好くまとめてくれた事には感謝しますが、自分の立ち位置を表明していないのは、いかにも日本の評論家らしいと思いました。私は今では社会主義者ではなく、福祉国家を目指すべきだと考えている者ですが、その立場から発言します。

 ② 寺本さんの挙げた「内部での異論の扱いの下手さ」は確かに日本の社会民主主義系の組織や団体の共通の弱さだと思います。共産党はもちろん公明党も自民党も、やり方は違うにしても、それなりの「異論処理方法」を持っています。しかし、社民系の団体はそれを持っていません。そのために少しの異論でいがみ合い、「内部で分裂してしまう」のだと思います。分かりやすく言いますと、日本の社民は「子供」で悪ければ「青二才」なのです。

 ③ なぜこうなったかと考えてみますと、私見では、それは、日本の社民が「資本主義はダメで、共産主義が正しいのだが、そこまでは踏み切れない」と考えているからでしょう。分かりやすく言いますと、共産党に対するコンプレックスが根底にあるのです。ここから社民の「すべてにおいての不徹底」が出てくるのだと思います。従って本当の社民が生まれるためには、このコンプレックスを理論的にか、あるいは最低でも実践的に克服しなければならないと思います。

 ④ 北欧の福祉国家論者たちはこれを実践的に克服しました。今ではドイツの緑の党は先日の党大会で、「社会主義ではダメだ。市場経済の上に立って、人権も環境保全も何でも出来ないことはない」と表明したようです。

 ⑤ 私は、マルクスとエンゲルスとレーニンの理論自体の中に大きな欠点(欠けている点)と大きな間違いを見つけて批判していますが(『マルクスの空想的社会主義』、近刊の『フォイエルバッハ論』など)、ここでは日本の社民のことに絞りましょう。

 ⑥ 民主党の短命は、それまでの準備不足からの必然的結果だと思います。
 その1・権力はどのレベルのものでも、一番大切な事は皆、隠しています。つまり、政権の行動の前提となる「客観的で全面的な現状把握」は野党には「原理的に」不可能なのです。従って、政権を取ったならば、第1にしなければならない事は、「今まで隠されてきた事柄を調査して、はっきりさせる事」です。そのための準備は、「影の内閣」を作り、野にあっても調べうる事は全て調べ、まとめておくことです。
 それなのに、民主党は一時には影の内閣を作りましたが、それも継続せず、実のあるものではありませんでした。その結果でもありますが、選挙に勝利すると、すぐに「事業仕分け」とやらで大騒ぎをしました。これで多くの「ムダ」を指摘したつもりになって有頂天になっている間に、ずる賢い官僚は同じ予算案を名前だけ変えて提出しました。

 その2・これだけならまだしも、おめでたい鳩山首相は「(普天間飛行場の移転先は)最低でも県外」などという選挙用のスローガンを持ち出して、自分の首を締めました。

 これで鳩山に替わった管直人は、これまた、ド素人丸出しで、「消費税増税」という一番言ってはならない言葉を口にしました。
 選挙の直前にイギリスに行って、イギリスの政治と行政の関係を視察してきたそうですが、「優秀な連れ合い」が一緒に行かなかったのか、その視察は何の訳にも立たなかったわけです。行政の意義を正当に評価しない「政治主導」とやらの必然的結果でした。
 その後に東日本大地震が起きて大混乱となり、浜岡原発を止めてくれたのは唯一の功績ですが、野田「消化試合」内閣に引き継ぎました。

 ⑥ 今、安倍政権は数々の大失策を犯しながらも内閣支持率は、落ちてきたとはいえ、「政権交代論」が聞かれる程ではありません。なぜなら、替わる政権像がないからです。内閣支持の理由の一位はつねに「ほかの政権より良さそうだから」です。

 立憲も国民も「合同による強化」を模索しているようです。悪いとは言いませんが、前述した「意見の違いがすぐにいがみ合いに成る」小児病を克服しない限り政権は近づいてこないでしょう。

 ⑦ では、社民勢力はどうしたら好いのでしょうか。私見では、「全ての候補者に世田谷区長の保坂展人を見習うことを義務づける事」です。
 保坂は、主として、「学校教育と合わなくて苦しんできた子供達」に寄り添う活動を続けてきたことが基礎になって、そこから曲折を経て今日の「模範的区長」となったのです。
 ですから、一般化して言いますと、困っている人たちに関わる運動を続けてきていない人は候補者としないことです。逆に言うならば、候補者に成りたい人は、まずそういう運動に関わらせることです。
 こういう迂遠な道を通らずして、日本の社民の再生、どころか「誕生」はないと思います。(2020年1月7日)

モデイ首相とマザー・テレサ

2019年06月30日 | マ行
      モディ首相とマザー・テレサ

 最近行われたインドの総選挙で、現職のモディ首相の率いる与党が圧倒的多数の議席を獲得して、自身、首相に再選されました。その原因を日経新聞は、「9割以上の家庭でトイレを作れるようにし、又電気も供給したことが、貧富の格差が広がったといった他の点でのマイナス点を上回った」と解説していました。

  かつては、「インドに旅行した人は、ほとんど疫病(赤痢?)にかかる」と言われたものです。今では、多分、そういう事は無くなっているのでしょう。中国では1990年頃にはまだ「トイレの不備」が言われていたと思います。インドは20年余り遅れたとはいえ、ともかく急速に発展しているようです。

 インドにおける困窮者救済と言うと、マザー・テレサが思い出されます。彼女が死んでから大分経ちますが、あまりそちらのニュースは聞かなくなりました。もちろん仕事自身は優秀な後継者のもとで着実に前進しているのでしょうが、やはりスーパースターがいなくなったので、マスコミに出なくなったのでしょう。マスコミなどというものはこんなものです。しかし、ウイキペディアを見ただけでも、その運動は世界的に広がっている事が分かります。

 さて、今回考えてみたいのは、世の中をよくし、国民の生活を改善する道として、モディ首相の道とマザー・テレサの道との比較です。換言するならば、世の中をよくするに当たっての政治の重要性ないし政治の力の評価です。

 マザー・テレサの道は、我々凡人にはなかなか「やる気」になれませんが、原理的には、やる気になれば誰でもすぐに出来る事です。いや、例えば子供食堂など、現在の日本でもドンドン広がっています。しかし、そういう運動はやはり大きな変革にはつながりません。

 それに対して、政治がそういう意思をもって、格差を是正し、「誰でもが健康で文化的な生活を送れるようにしよう」と意思するならば、北欧諸国のように、かなりの程度までそれは実現できます。中国やインドでも、衛生的な生活がかなり進んだのです。しかし、そのためには政治がそういう意思を持たなければなりません。

 我が日本国では、かつては優秀な官僚の力で、成熟社会に成ってからは優秀な民間人の努力で、かなり好い生活が可能になっていますが、国全体としては社会保障制度の貧弱さは大問題です。貧富の格差は縮まるどころか、拡大しています。多くの人が、「老後が不安」だと言っています。教育にも問題が多ありです。

 その原因はどこにあるのでしょうか。一に、政治家のレベルの低さにある、と私は思います。上に確認しましたように、政治の影響力は巨大なのに、日本ではその政治家に優秀な人が出ないからだと思います。政治家以外なら国際的な人が沢山いるのに、政治家には優秀な人があまり出ないからだと思います。

 では日本ではなぜ優秀な人が政治家になろうとしないのでしょうか。「優秀な政治家を養成するシステム」が出来ていないからだと思います。かつて松下政経塾というのが出来た時は大騒ぎでした。しかし、民主党が政権を握ってお粗末さを暴露して以来、松下政経塾はほとんど注目されなく成りました。そして、それに代わる塾みたいなものが生まれていないのです。

 松下政経塾はなぜ失敗したのでしょうか。思うに、創設者の松下氏には民間の会社経営と役所の運営との根本的な違いが分かっていなかったからだと、思います。我が浜松市でも立派な業績を挙げた経営者を中心にして行財政改革審議会(行革審)が設置され、市民の大きな期待が持たれました。しかし、それも失敗したと、私は思っています。最近は七つの行政区を三つにするなどという「合区」で大騒ぎをしていますが、市民の反応は鈍いです。合併で浜松市に組み込まれた人々は、「政令指定都市に成るのに協力してやったのに、見返りがない」と思っているようです。

 国政に話を戻しますと、安倍内閣は度重なる失態にもかかわらず、支持率は余り落ちません。自民党の支持率も大きな変化はありません。代わる内閣がなく、代わる政党がないからだと思います。

 どうしたら良いでしょうか。私は即効薬はないと思います。本当の政治家を生み出すシンクタンクを作ることしか道はないと、思います。私は、その「本当の政治家」としては世田谷区長の保坂展人を考えています。どこが模範的かと言いますと、地を這うような住民運動の中から住民に押されて首長になり、住民の意見をよく聞き、公正な福祉社会を目指しているからです。マザー・テレサ型からはじまり、モディ型の首長になったのです。

 田中康夫元長野県知事も立派でしたが、冷静さに欠けたと思います。保坂区長の唯一の欠点は、後継者ないし同志の育成を系統的にしていると思えない点です。彼が辞めたら又元に戻りそうです。

 そこで、そういう政治家を系統的に生み出すシンクタンクが必要になります。

 その名は、「福祉社会研究所」とする。
 以下の条件で生活を一生保障した上で、研究員を募集する。

 研究員は、男女の比が4対6より偏らないようにする。
 研究員は、自分の選挙区で何らかの住民運動を起こすか、既にある運動に参加する。
 研究員は、自分の全公生活をブログで報告する。
 研究員は、自分の選挙区の全ての行政を調査・研究して、それをホームページに分かりやすく発表する。
 研究員は、自分の選挙区の全ての行政の長の活動を監視し(ブログでの報告を要求し)、サボリ校長などを許さないようにする。そもそも教員出身者で教育長と校長が占められているのが間違いの元。
 選挙は議員から初めて、なるべく早く首長を目指す。
 前提は、供託金の廃止、または「現在の十分の一」への改正を要求する事です。

 まあ、概ねこういった事を考えています。
 資金の問題とかがありますが、ともかくこのようなシンクタンクを作って系統的に「まともな政治家」を生み出して行かない限り、日本の政治は二世議員に占領されたままで、よくならないでしょう。


失業しにくい協同組合、モンドラゴン

2018年06月04日 | マ行
     
 スペイン北部バスク地方にある労働者協同組合の企業グループ「モンドラゴン・コーポレーション」。雇用の維持を重視し、従業員の給与格差に制限を設けて最大6倍に抑えるなど「職場での人間らしさ」を理念にした経営を貫く。経済格差が広がる欧州で注目され、その哲学を取り入れようとする動きが出ている。

モンドラゴンは、従業員約7万4000人を抱える協同組合形態の企業グループ。1956年に最初の協同組合ができ、事業を次々と拡人。今では工作機械や自動車部品の製造から小売業や銀行業、大学運営まで広げ、計102の協同組合と計140の海外子会社を持つ。2016年の全体の売上高は約120億ユーロ(約1兆6千億円)で、スペイン企業ではトップ10に入る。

協同組合は、従業員である組合員の出資で成り立つ。組合員になるには1万5000ユーロ(約200万円)ほどの出資金が必要で、元手がない人は給料から分割で支払う。出資金は勤め先の企業の利益に応じて積み増されるが、倒産すれば失うおそれもある。

 モンドラゴンが注目されるのは「働き手の尊重」にある。各企業はそれぞれ独立経営だが、グループ内の失業者には、余裕のある企業が必ず手を差し伸べることが決まりだ。余裕がなければ賃下げで痛みを分け合い、雇用を確保する。

 太陽光発電パネルの生産装置などを手がけるモンドラゴン・アセンブリーで営業を担当するイゴール・エラルテさん(40)もその一人だ。勤め先のグループ内の家電メーカー、ファゴール家電が13年秋に倒産したが、2ヵ月後に今の仕事が決まった。同じく失業した妻(41)も出産や子育てを経て今年2月にグループ内の別の企業で働き出した。「倒産しても路頭に迷う心配は全くなかった」とエラルテさん。ファゴール家電の従業員約1900人のうち、早期退職者を除き、希望者のほぼすべてがグループ内で再就職したという。

 こうした取り組みは欧州企業で解雇が相次いだユーロ危機の時も関心が集まった。最近は英国の国際NGO「オックスファム」が所得格差の報告書で取り上げるなど、格差是正の面でも注目されている。

 モンドラゴンの企巣では原則として、従業員の最高と最低の給与格差は最大6倍と定めている。ロンドンの主要株式市場に上場する主要100社の最高経営責任者(CEO)と従業員平均の給与格差は約130倍で、違いは鮮明だ。グループ企業の代表者らでつくる理事会トップのイニゴ・ウシンさんは「6倍ルールは、従業員の連帯を保つうえで重要なことだ」と話す。

 格差問題が課題になる英国ではモンドラゴンをモデルに協同組合の企業グループをつくろうという動きも出始めた。英中部プレストンでは昨年、市議会メンバーや大学などが連携して「協同組合開発ネットワーク」を立ち上げた。ネットワーク代表でセントラル・ランカシャー大のジュリアン・マンレイ研究員は「地域の中で支え合うモンドラゴンのようなグループをつくり、地域経済の再生につなげたい」と話す。

 ただ、協同組合もすべてバラ色ではない。組合員になる以上は勤務先と運命共同体でもある。

 モンドラゴンの地元では、ファゴール家電の元組合員が毎週、倒産前に追加出資したお金の返還を求めて抗議デモを続ける。「会社側は経営は大丈夫と言っていたのに、だまされた気分だ」と元組合員のミケル・オラベさん(69)。モンドラゴンを相手取り、出資金の一部の返還を求める集団訴訟を起こすという。組合員と経営をめぐるリスクをいかに共有するかの課題も浮き彫りになっている。(モンドラゴン=寺西和男。朝日2018年5月5日)

感想

1、封建制社会から資本主義が出てくるには、経済的に、あるいは経営的に資本主義的な経営が「事実上」生まれて、それが大きくなり、社会の「主たる形態」(唯一の形態ではない)に成っていったからでした。それに反して、社会主義的生産方法は資本主義社会の中で少しずつ出てきて、大きくなって、最後には「主流」に成る、というのではなく、社会主義を奉ずる政党が政治権力を握って、一気に私的所有を廃止し、全体を社会主義的「計画経済」に変える、と考えられてきました。

 しかし、資本主義社会の中では経営の自由がありますから、個々の会社が社会主義的経営をして成功し、その「模範の力で」他の会社が追随して、それが広がり、社会の主流に成るというやり方は、なぜ考えられないのでしょうか。原理的には可能ではないでしょうか。現に、我が日本国においても「ワーカーズコレクティヴ」とかいう社会主義的な会社があるのではないでしょうか。ただ、それが大きくならず、他に対して影響を与えることが出来ていないだけではないでしょうか。

2、ここで紹介されていますモンドラゴンは相当大きな組織のようですが、やはりスペイン社会の「主流」には成っていないようですし、自分たちの政党を持ってもいないようですし、最近のカタローニャ州の独立やその他の問題では存在感を示していないようです(推測ですから、間違っていたら、誰か本当の事を教えてください)。

3、最近、NHKのテレビで「世界プリンス・プリンセス物語」とかいう番組がありました。モロッコとかベルギーとかイギリスとかリヒテンシュタインとかドバイとかで、プリンセスあるいはプリンスが優れたリーダーシップを発揮して、自国を発展させている例が紹介されていました。

 司会者の池上さんは「君主制というと直ちに民主的でないから悪いというイメージを持ちがちだが、民主制の国では争いが絶えず、国が混乱している例も多いのに反して、これらの国では君主制だからこそかえって内容的には民主的な政治が行われている、あるいは民主化しつつある、という事実を見ると、民主主義についてももう1度考えてみる必要もあるのではないか」といった趣旨(牧野が相当「忖度」しましたので、池上さんの実際の言葉とはかなり違っています)の事を述べていました。

 ホッブズの「リバイアサン」も、「一般意思」は「万人の意思」とは必ずしも一致しないという経験に基づいて、自然法が実行されるには必ずしも民主制でなければならないということはなく、「リバイアサン」的な独裁者が必要ではないか、という趣旨だったと思います。私はそう取りました。

 平成天皇と皇后については多くの国民が、いや、ほとんどの国民が支持と尊敬の念を持っていると思います。少なくとも、大多数の国民は、歴代の総理大臣よりは平成天皇の方が偉い、と思っているのではないでしょうか。日本の憲法は天皇に政治的行為を禁じていますから、それはできませんが、最近の政治の混乱と、それにも拘わらず安倍自民党に代わる政治勢力が出てこない状況を見ますと、一時的にでも天皇に主権を渡したらどうかと、考えてしまいます。


真向法(まっこうほう)の創始者

2017年08月22日 | マ行

80年以上の歴史を持つ健康法「真向法」。たった四つのボーズを合わせて3~5分繰り返すだけで、さまざまな効果が得られるという。政財界や芸能界、さらには医学界にも愛好者は少なくない。効果の秘密と正しい実践法を探った。

 真向法の創始者の長井津(わたる)氏(1889~1963)は、実業界で身を立てようと福井県から上京、死にものぐるいで働いた。だが無理がたたったのか、働ぎ盛りの42歳の時、脳出血に。左半身の自由を失い、医師にもさじを投げられ、失意のうちに故郷へ戻った。

 生家は浄土真宗の寺院。帰郷した長井氏は「勝鬘経(しょうまんきょう)という仏典に心の安らぎを見いだそうとする。この経典に定められた礼拝作法を正しく行うことで真理に近付けると考え、「座礼」と「立礼」を不自由な体で徹底的に繰り返した。

 はじめは満足に形もとれなかったが、続けていくうちに、こわばり動かなかった体が次第にゆるみ、感覚や動きが回復していったという。単純な動作を愚直に繰り返したことが、今でいうリハビリになったというわけだ。

 長井氏は自身の経験から、この動きには健康増進効果があると考え、普及にに努めた。その後、試行錯誤の末、先に挙げた二つの動作をもとにした「第一体操」「第二体操」に、「第三体操」「第四体操」を加えた四つの動作で構成する「真向法体操」を考案。今では老若男女を問わず、多くの人に愛好されるに至っている。

 『イラスト決定版 真向法体操』(毎日新聞出版)を著した公益社団法人「真向法協会」によれば、この体操は柔軟性や運動能力の維持・向上のほか、代謝や治癒力アップ、便秘解消、美容やストレス解消にまで効果がある、としている。
(『サンデー毎日』2016年06月26日号)

 感想

 私も真向法をやっていますが、その歴史と言いますか由来を知りませんでした。ネットで調べても載っていないようです。この週刊誌に載っていましたので、転載させてもらいます。

(ブログ「教育の広場」から転載)

牧野本へのレビュー

2017年06月05日 | マ行
   

 久しぶりにアマゾンで牧野本へのレビューを読んでみました。前回見た時からかなり間隔が空いたせいか、初見のものが主となりました。私は感覚的に、本が出てすぐ批評を書く人には「レビューオタク」とでもいうのか、レビューを書くのが趣味みたいな人が多く、後になってから書く人は、読んでから、「これはやはり批評を書いておくべきだ」と思って書く人が多い、という印象を持っていますが、今回もその「印象」は変わりませんでした。

4番と6番はかつて1度読んだことがありましたが、放置しておきましたので、今回引用しました。4番さんの批評は、批評者の方が私より文法論に詳しいようで、私には「批評の批評」はできません。哲学でも文法でも同じですが、私のスタンスは「自分の問題の解決に役立つか否か」です。

ヘーゲル哲学は私の生活に、特に他の分野での研究に役立っています。又、政治運動や自治会活動にも有効です。金もうけには、今の所、大した成果をもたらしてくれていません。残念。これが私の哲学が不人気な理由でしょう。

関口文法をまとめた事は大いに役立っています。今準備しています『小論理学』の訳注を見れば誰にでも納得がゆくでしょう。

『精神現象学』では他の訳書と比較して「分りやすいか否か」を判断していらっしゃるようで、正しい態度だと思いますが、もう1歩進んで、段落毎にたいてい付けてある「内容上の小見出し」が適当か否かをお考えになることをお勧めしたいと思います。特に近刊予定の『小論理学』ではこれをお勧めします。教師は「文脈を読め」と言いますが、「文脈を読むための技術」を具体的に教えておらず、自分自身も文脈が読めていない場合が多いです。内容上の小見出しを付けるのはその練習の1つです。これは本当の意味での「頭の体操」に成るはずです。将棋の藤井4段は詰将棋で力を付けたそうですが、内容上の小見出しを考えることは「文脈を考えるための詰将棋」みたいなものです。きっと役立つだろうと思います。

評の対象本は──(罫線)で挟んでおきました。雪美人さんは『精神現象学』と『哲学の授業』との2点について批評を書いています。後者について批評をいただいたのは初めてです。

今回のレビューを読んで、しっかり読んでくださる方がいらっしゃることが解りましたので、『小論理学』の校正を更に念入りにやって、少し遅れてでも好い本を出したいという気持ちが高まりました。
                    2017年6月5日    牧野紀之

     牧野本へのレビュー(最近の物。アマゾンから転載)

1、現代ではこれぞ決定版と呼べる労作
    ──『精神現象学』について──
2017年3月27日、投稿者・HIEN

◆本書はいくつかある『精神現象学』の全訳の一つだが、間違いなくその中で最良の一冊である。

◆なぜ最良か。それは頭からすらすらと通読できる翻訳が本書だけだからである。たとえば長谷川訳が決してそういうできのものではないことは、長谷川訳の方のレヴューにも書いておいた。確かにカッコの挿入は多いが、そのことによって明らかに読みやすくなっており、また挿入の註も実にかゆいところに手が届く、誠実な内容になっており、基本的には本文の理解に資するものばかり。この組版やカッコの挿入が読みにくいという人は、先入観に囚われて真面目に本に取り組んでいない人だとしか思えない。私はまだ本書を読み切れていないが、忙しい中に本書をたぐり、序論の第二段落までを読むことがとりあえずできた。しっかりと「分かった」という実感を持ってである。こういう実感は長谷川訳ではついぞ持ち得なかったものだし、樫山訳にいたっては意味不明で最悪なものだと思っている(牧野はこの点について、樫山は金子訳を無理矢理置き換えようとして日本語がおかしくなっていることを指摘していたが、実に納得がいく)。金子訳も取り寄せたが、訳注のための資料として参照するためのものとして考えている。

◆たとえば私は序言第二段落までを読んで、これが「序論の序論」だということや、例の「序文の存在意義」(序文など必要ないといっているのにヘーゲル自体がここで序文を書いている矛盾がある)ことについて、他の著者では納得のいかない解釈だったものが、本書では実にしっくりといった。他の著者は不真面目だから、ヘーゲルが慌てて書いたのでここは矛盾しているのだ、ということばかりしか言っていなかったので、長らくそのように考えていたのだが、そういうことではなかった。序文は必要だけれど、序文だけ読めばよいというようなものとして必要とされるべきでない、と書いてあると私には理解された。「事柄 Sache」があるのは結果=目的においてではなく、結果と過程=実現が一体になってのものであって、なるほどまさに弁証法(的全体性)である。別方向からいえば、全体性とは地理的平面的であるだけなのではなくて、生成的=継起的(≠時間)的なところがあり、それが記述的歴史観に対する論理的歴史観として現れているわけだが、こういうところからはハイデガー(もしくはドイツ観念論)的な時間論を理解する上でも有用な気がするし、学びを多く感じている。

◆私はヘーゲル研究者ではないので、原文を参照しながら正しい訳文を追求するプロジェクトにはコミットしない。ではなぜヘーゲルを読むのか。なんとなくである。直感である。ここに大事なものがあるという感じがするからである。あくまでイメージだが、カントがスタティックだとすれば、ヘーゲルにはダイナミズムがある。このダイナミズムが重要だという直感があるのである(カントももちろん重要だが)。

◆決定的な理由は「なんとなく」だが、補足的な理由は無数にある。たとえば私は弁証法の総合的効果は非常に重要だと思っていて、詳述はしないが、これは有るタイプの文学批評理論や法解釈理論にいまなお決定的な影響を与えており、そのような全体化の駆動因の起源としてヘーゲルが重要であると思っていた。また、当然ながらマルクス・エンゲルスはヘーゲルを重要な参照項としており、史的唯物論や物象化論の理解、また共産主義批判のためにも必要な知的源泉である。またフランス現代思想的にはコジェーヴのヘーゲル読解がジャック・ラカンやフーコーに影響を与えていることは周知のところであり、ハイデガーやアーレントの「動物」論を読み解く上でも本書の存在意義はいまだ大きいと推測している。それからお座敷学問的な意味ではなく、リアルな実存主義的問題として、現状に様々な苦労や制約を私も抱えているわけだが、そこにおいて「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」(法哲学)という例のテーゼを理解したいと思ったのも重要な動機である。なぜ理解したいのか。それは、理解しないと(現実に対して)諦めもつかないからである。これは私の全く別口の見解だが、諦めうるものに対してだけ忍耐が可能になるのではないかと思う。反証可能性命題だけが科学的である(とされている)ように。

◆余談がすぎたが、引き続き本書を読み進めていこうと思う。現象学を読み終えたら、マルクスに戻りたいと思っている。一応、社会がどうあるべきかにも私は興味があるのであって、テクノロジーが発展する以前の哲学者は、逆に現代であるからこそ読みがいがありそうだ。だが、牧野の小論理学が出版されるようであれば、そちらを読みたいとも思う。大論理学やその他のヘーゲル書についても牧野訳があればと思うのだが、そういうわがままはもう望めないだろう。十年後くらいにもう少しまともにドイツ語を使えていれば望ましいと思っているが、英語だけで精一杯である。著者の『辞書で読むドイツ語』なども読んだが、実に素晴らしい本で、ドイツ語に浮気したくなる気持ちを押さえねばならない。ああ、もっと学生時代に真面目に勉強していればよかったが、制約のある社会人時分でも、何を始めるにも遅くはないと思っている。

2、牧野紀之はもっと評価されるべき哲学者だと思います
    ──『精神現象学』について──
  投稿者・雪美人、2016年12月31日

詳細で読みやすいと思う。ただこれは牧野氏の読んだ現象学である。牧野はヘーゲルに比べれば小さい存在だなどと考えるのは笑うべき権威主義だ。ヘーゲル哲学にあってはヘーゲルさえ一つの契機であると思う。現代日本に生きる初学者としての私にとっては、わかりやすさは最も大事だ。これを読む前に加藤尚武編の精神現象学入門を読んだが、さっぱりわからなかった。そのものより難解な入門書とは何なのか。古典の入門書とはたいていこの類だが、牧野氏の訳注はヘーゲルの記述から全く離れた例を引いて説明してくれる。そもそも理解とは個別のものを一般化して自分の中に取り込み、それを自由に元のものとは違う個別のものとして展開するということではないのか。入門書を執筆する先生方は牧野氏の姿勢から学んでほしい。生活の中の哲学という牧野氏の考えに非常に興味がわく。「職業としての学問」ではない、狭い専門人ではない現実的な人間を見据えながら論理性において曖昧さを許さない学問感に深く敬意を表します。この本はできれば哲学を志す若い学生に読んでほしいと思います。

3、精神現象学を学ぶには最も良い訳だと思う
    ──『精神現象学』について──
   投稿者・Takayoshi K。2015年10月18日

今まで、樫山・長谷川・金子各氏の翻訳を読んだが、牧野氏の訳が最も分かり易かった。
 ヘーゲルは言葉の意味するところが文脈により異なるため、論理展開を追って理解してゆく必要がある。牧野氏の訳は注釈を交えながら丁寧にその展開の内容を示してくれる。確かに余分と思われる例示もあるが、そこも含めて自分としてどう受け止めるか考える材料となる。
 金子氏の訳も良いと思ったが、金子氏の訳とも対比しながらより分かり易い内容となっており、お勧めできる翻訳である。

4、唯一の真の認知文法(反「生成文法」)!
    ──『関口ドイツ文法』について──
   投稿者・kimko379、2015年11月23日

関口存男(つぎお)が「意味が文法を作る。」と喝破した。また、関口が名詞性・動詞性・形容詞性・副詞性などの本質を史上、初めて定式化した。故に、関口文法は事実上、最初の認知文法であったのである。また、今日ある認知文法は、ゲシュタルト文法、創発的文法、構文文法、「場所の言語学」など、全体論的・カオス理論的な偽「認知文法」であるが、関口文法は、その様な偽物ではない。この本は、その関口理論をまとめてくれている名著である。
この本の誤植は「マキペディア」内のリンクを参照されたい。
なお、牧野氏は改訂版を執筆中との事であるが、この初版も牧野氏と出版社(未知谷=みちたに)に何年も待たされた物なので、改訂版も、いつ出るか知れたものではない。

5、哲学らしくないが真の哲学だと思います
   ──『哲学の授業』について──
   投稿者・雪美人、2017年1月15日

哲学の入門編かと思ったら全く違っていた。専門学校での哲学の授業から得た思索かと思って読み進み最終章に至って、これは確かに哲学だとわかった。

著者は、対話こそ一切の教育の基本であると言っている。そして対話には、その時その場にふさわしいやり方、技術的方法があると言いたいのではあるまいか。その方法の追求は内容の追求とは別にあるものではない、と言いたいのではあるまいか。そう思いもう一度、第一章を読んでみた。学生時代の研究室の「自由な話し合い」は酒飲み話とどこが違うのかわからなかったと言う。あまりにも秩序が無さすぎるという。痛烈な皮肉だ。

著者はいたるところで現在の哲学界を批判している。特に大学教授に大変手厳しい。それがどういう意味かは初学者である私には関係がないが、哲学はものを考える手段としてとても有用であると考え、その能力を手に入れたいと思う人間にとっては本書は、目標を、遠いがはっきりと確認できるような良書である。

6、ヘーゲルの「論理学」が分かる
  ──鶏鳴版『小論理学』下巻について──
   投稿者・1066-1154。2012年2月24日

何も言えないほどに、十分な訳注と、本文の原文を補ってくれることで、日本語として「文脈」が出てくる名翻訳。上巻は、エンチクロペディの序文などで、「論理学」の本文は、下巻。抽象的世界の論理学が、多様な世界のエッセンスとして登場する。自然哲学も、精神哲学、わけても「法権利の哲学」の論理構造も、本書(論理学)に由来する。ただ、ヘーゲルの尋常でない点は、このような抽象的世界であっても、具体的、現実的な「思考」の展開・運動として赤裸々に現れ、これがまた、後続の哲学部門のバックボーンを成して、さらに豊かに展開される点だ。実証主義に汚染された「社会科学」は、往々、ヘーゲルの哲学を汎論理主義、流出論と、位置付ける安易な解釈を行い、自身のポジションを低いレベルで納得し、悦に浸るという度し難い愚行を繰り返す事例は枚挙に暇ないが、とりわけ、真の思考力(論理力・弁証力)があってこそ、帰納や、実証なども意味を持ち得るわけで、それなくしては、単なる事実の累積・賽の河原にすぎない。絶版であるが、上下巻とも積極的に勧めることができる名著・名訳で、翻訳者の些か奇態な意見主張などは目をつぶっても、メジャーな出版社が買い取り、求め安い値段で、一般読者に紹介してほしい。哲学することを学ぶなら、「純粋理性批判」「方法序説」「省察」など高名でもいざ読んでみると、論点や意味の重要性を把握するのは初学者の手に余るが、本書は、却って分かりやすく、しかも思考の訓練に最適で、「哲学入門」として、ぜひ読んでほしい一書である。

、語学学習指南書
   ──『辞書で読むドイツ語』について──
   投稿者・田舎教師、2016年6月23日

本書はドイツ語学習についての本ですが、その内容は単にドイツ語だけに留まらず、広く語学学習一般に通じるものです。
 ただし、話すことより、辞書を引き、正確に文書を読んでいくことの重要性が語られているため、語学学習に対する学習者の考え方により、適・不適があるでしょう。
 私にはとても参考になりました。

8、タイトルほどには
   ──『辞書で読むドイツ語』について──
    投稿者・さとる、2016年12月8日

タイトルほどに意欲を盛り上げるものではありませんでした。版を重ねているモノなので期待しました。


9、牧野節全開
   ──『理論と実践の統一』について──
   投稿者・不良塾講師。2015年2月22日

 牧野紀之は学会や権威に背を向けて自ら「生活の中の哲学」を追究してきた人物である。その立場から、講壇マルクス主義哲学や倫理学にもメスを入れてきた。この本も「そもそも実践とは何か」といったことを論じている。このようなことを追究しない自称マルクス主義者の怠慢を暴きだすことになっている。

ロシア型マルクス主義と日本型マルクス主義(松田道雄)

2016年11月12日 | マ行

  ロシア型マルクス主義と日本型マルクス主義(松田道雄)           

    はじめに

 思想と教条との相違は、その生活力にある。思想は創造する頭脳のなかに生まれ、その生国の土壌によってやしなわれ、他国にうつされ、そこで、おなじ過程で成長していく。したがって、思想は、その成長の過程にしたがって、なにほどか土壌のにおいを身につけている。教条は、これに反して聖職者によって儀式に使用される器具の一種である。教祖のいだいた思慮のなかから、儀式の必要に応じて、成立の背景を無視して部分がとりだされ、みがかれ、信徒の礼拝のためにそなえられる。世界宗教が、ある国の総本山によって統率されるという状況においては、教条の画一性は総本山の権威のシンボルである。

 したがって、思想には「型」がありうるが、教条には「型」はゆるされない。

 ここにあえてロシア型マルクス主義と日本型マルクス主義とを対比するのは、生活力のある思想としてのマルクス主義を、二つの国で比較したいからにほかならない。

      一

 十九世紀のロシアにおいて、マルクス主義は革命の思想であった。

 支配権カを打倒すべき勢力が、現存の権力よりも正当な存在理由をもっていることを弁護する革命思想は、もともと西欧に発したものである。ロシアにおける最初の権力批判者であったラディーシチェフが、フランス革命の思想をうつしたことからもわかる。

 ロシアの革命思想の生育すべき土壌の特徴とでもいうぺきものをあげるならば、西欧にたいする後進牲をまずあげねばならない。そして、この後進性を克服しようとするロシアの知的エリートの内部統一の欠損も重大な特徴である。さらに、ロシアが西欧と地つづきであり、支配権力からいえば、革命家の知的交流をはばみえないし、革命家にすれば亡命によって思想の純粋培養ができるということも、特異な点としなければならない。

 西欧にくらぺて、ロシアが後進国であるということは、西欧から移入する革命思想がロシアでは、大きな「時差」を示すという結果になった。市民的自由を前提にした西欧の社会主義の革命思想は、ロシアにはいってくると、市民的自由そのものの存在しないということで戸まどいせねばならぬ。

 ロシアの革命家たちが、最初に決定しなければならなかった問題は、ロシアは、はたして西欧の通過した道を、もう一度あゆまねばならぬかということであった。

 西欧において、市民革命によって打ちたてられたブルジョア体制が、社会主義者によって、もう一度革命されねばならぬということは、ブルジョア体制そのものの「悪」を証明しているではないか。

 それならば、とロシアの革命家はかんがえた、われわれは資本主義段階をとびこそうではないか。

 ロシアには、西欧諸国においては、すでにほろび去った農村共同体がまだ存在する。社会主義が理想とする共有と協同の社会は、ロシアにおいては、ここにのこっている。この共同体を、資本主義によってむしばまれないうちに、社会主義に突入すればよい。ロシアの革命家たちは、ロシアの後進性そのものをてこにして西欧に追いつこうとしたのだ。

 ロシアが西欧においつくためには、ロシア独自の道をえらぶべきであるという結論には、ロシアの革命家は一挙にして到達したわけではない。最初の革命家であるベリンスキーもゲルツェンも、はじめは西欧の道を追うことを信じた。彼らは、当時のロシアの最高の知的レベルにおいて論争し、論敵のスラブ主義者とわかれ、西欧の道をえらんだ。だが、一八四八年の西欣の革命の敗北によって、ゲルツェンはロシア独自の道へかえってきたのだ。

 ロシアの農村共同体を基礎にして社会主義の社会をつくりだそうとする農民社会主義が、十九世紀の六十年代から八十年まで、ロシアの革命家の頭脳を支配した。

 国家権力から解放されれば、農民は、その創意にもとづいて自由な共同体の連合をつくるだろうというバクーニンの思想が、出発点となった。「すべての将来の政治組織は、自由な労働者の自由な連合、農民または工場の職人のアルテリの連合以外の何ものでもあってはならぬ。それゆえ、政治的解放の名において、われわれは何より国家の徹底的な破壊をのぞむ…」

 彼らの直接にむきあったものはツァーリをシンボルとする国家権力であった。しかし、彼らは農民の蜂起を期待しながらも、革命的インテリゲンチアと農民との結合について具体的な方法をもったわけではなかった。人民から孤立した革命家は、少数者でできるもっとも効率のいい方法に訴えざるをえない。とくに、西欧の資本主義の発達のもたらす「悪」をみて、ロシアでブルジョアに先んじられまいとする焦燥感にかられたトカチョフは、亡命地のジュネーブで一八七五年に、ロシア向け非合法新聞『警鐘』の初号にかいた。

 「兄弟愛と平等とを打ちたてるためには、第一に社会風習の現在の条件を変更しなければならない。人間の生活に不平等、敵意、羨望、競争をもたらすすべての制度を破壊しなければならない。それらには反対の制度の基礎をおかねばならぬ。第二に人間の本性自身を変更し、教育せねばならぬ。この偉大な任務をはたす人たちは、もちろん、これを理解し、解決にむかって真に努力する人たちである。すなわち、知的にも道徳的にも発達した人たちである。すなわち少数者である。この少数者は、よりよく発達した知力と道徳とによって、多数者の上に知的、道徳的権力をもつし、またもたねはならぬ。……
 
 一般に現代社会においては、とくにロシアにおいては、物質的な力は国家権力に集中されている。したがって真の革命──物質的な力による道徳的な力の現実的変形──は、ただひとつの条件によってのみ達せられる。すなわち、革命家による国家権力の掌握である。いいかえれば、革命の当面の直接目的は政権を奪取し、現在の保守的国家を革命的国家に転化することでなければならない。

 したがって、革命的国家の活動は二重でなければならぬ。革命的破壊的活動と革命的建設的活動とである。

 前者の本質は闘争である、したがって暴力である。闘争は、つぎの諸条件を結合しえたときにのみ成功する。すなわち、中央集権、厳格な規律、迅速、決断、行動の統一性である。あらゆる譲歩、動揺、妥協、闘争力の分散は、闘争力のエネルギーをよわめ、活動力をまひさせ、勝利のチャンスを闘争からうばい去る。」

 トカチョフの少数者革命の理論はネチャーエフ事件をひきおこし、ドストエフスキーをして『悪霊』をかかせることになった。だが、陰謀的な暴力をよろこばない分子は、ネチャーエフらに反対して、一八六九年に結成されていたチャイコフスキー団に結集した。チャイコフスキーらは、ロシアの多くの都市にサークルをつくり、民主主義の啓蒙をおこなった。この運動が最高潮に達したのは一八七四年の「人民の中へ(ヴ・ナロード)」のカンパニアであった。三〇〇〇人の学生が農村のなかに工作隊としてはいっていった。ここからロシアの革命家はナロードニキとよばれることになった。しかし、この啓蒙運動は農民の無関心につきあたって挫折した。

 農民によって実現されるべき農民社会主義が農民にうけいれられないとなったら、革命家たちは、自己の組織以外にたのむところはない。ふたたび、強力な中央集権的な組織に革命家たちは結集することになった。この頃の組織は完全な非合法をまもりとおしたために、歴史家に文献的な手がかりを残さなかった。

 一八七六年ごろに成立した「土地と自由」という革命家集団は、たしかに中央集権的な党としての性格ももっていたが、そのなかにはさまざまの潮流がまじっていた。「土地と自由」のメンバーの思想の多様性は、ようやく生まれてきた労働者の組織(一八七五年の「南口シア労働者同盟」、一八七八年の「ロシア労働者北部同盟」)と関係がある。

 ロシアの「マルクス主義の父」プレハーノフが「土地と自由」のなかに参加したのは、まさにこのような時期であった。鉱山専門学校の学生であったプレハーノフは、古い世代の革命家とちがって、はじめからエ場労働者との接触のなかで成長した。彼がロシア語訳の『資本論』をよんだのは一八七五年か七六年と推定されているが、それによってマルクス主義を完全にうけいれたのではない。一八七九年に彼が「土地と自由」第三号にのせた彼の最初の論文「社会の経済的発展法則とロシアにおける社会主義の任務」は、農民社会主義とマルクスの二番煎じ(煎じたのはロシアにおけるマルクス主義の紹介者ジーべルだが)との混合であった。だが、このなかでプレハーノフは、ある個人が権力をにぎって上から命令によって社会変革をおこなおうという革命家は時代おくれだということをはっきりいっている。

 したがって「土地と自由」が、農民のなかの宣伝の不成功の欲求不満を個人的テロによって発散させようとする傾向をつよめてきたとき、プレハーノフはがまんできなくなる。農民よりも労働者に、革命のてこを求むべきではないかという、彼の体験が、古い型の革命家に反発させたのだ。

 成員のなかの意見の不一致によって、「土地と自由」は一八七九年に合意解散をするが、テロ支持派は「人民の意志」を結成し、正統派を主張するものはプレハーノフを中心に「黒土再分割」にあつまった。「黒土再分割」派の同名の機関誌の第一号にプレハーノフの一八八〇年にかいた「人民の声は神の声」は、「黒土再分朝」派の綱領としてうけとられた。そこで彼はいう。

 「わが党の実践的任務にかんするわれわれの見解は二つからなりたつ。科学の一般的指示とロシアの歴史と現状との特殊条件である。われわれは社会主義をもって人類社会の科学の最後のことばとする。社会主義によって所有と労働との集団主義が勝利することは、社会経済構造の進歩のアルファでありオメガである。われわれは、『自然は飛躍しない』という表現が、狭義の自然現象にあてはまるように、人間社会の進歩の過程にもあてはまるとする。」

 プレハーノフのこのことばのなかに、テロによって飛躍的に権力を奪取しようとする革命家へのつよい反対が感じられる。農民の力が信じられないでやるテロを否定するというのなら、いったいロシアの革命家は何を信じればいいか。プレハーノフは進歩の科学への信頼をよびかけている。

 それでは、どうして革命をやるのか。プレハーノフはつづけていう。

 「社会革命の党は、人民を国家への積極的な闘争に導き、人民のなかに自立と活動をそだて、人民を闘争に組織し、あらゆる小さな機会をとらえて、人民の不満をかきたて、ことばと行為とによって人民に現在および本来の社会関係の正しい見方をつたえることを目的とせねばならぬ。これによって党は、人民を、上からの「黒土再分割」を寝て待つことをやめさせ、下心ら『土地と自由』を積極的に要求するようにさせねばならぬ」

 革命は人民の下からの運動でなければならない。そうなれば「黒土再分割」のような少数革命家の組織は、人民の運動と、どういう関係にたつのか。ここでプレハーノフははじめて大衆団体としての党の問題につきあたる。

 『黒土再分割』第三号(一八八一)にプレハーノフは「『黒土再分割』編集部への手紙」をのせていう。

 「ゆえに、すべてのロシアの社会主義者の党が、その努力の最大の目的が人民のなかにおける社会革命の組織の創出であることをみとめ、ついで、この組織が政府と上層階級に提出する当面の要求のなかに、政治的自由の要求が入れられたとき、はじめて『黒土再分割』の任務はおわったとしてよい」

 「黒土再分割」の組織は、人民の党ができて公然と政治的自由の要求をかかげるまでの暫定的なものとされたのだが、事実では、「黒土再分割」の組織は、プレハーノフやアクセリロットの亡命によって、その年のうちに消滅した。プレハーノフのスイスヘの亡命は、実は機関誌の『黒土再分割』の発刊に先だつ一八八〇年の一月であった。

 ジュネーブで、プレハーノフは西欧の市民的自由の空気を心からの満足をもって吸いこんだ。ここでは労働者は集会をやっても、文書をだしても警官につかまることはない。また、ここへは西欧の社会主義者がやってきて社会主義政党の話をしてくれる。市民的自由のなかにおいて労働者の党は、はじめて自由にたたかえる。プレハーノフはそう感じた。一九一八年までロシアの土をふむことのなかった彼が、西欧のマルクス主義の旗手になったこともむりはない。

 プレハーノフのマルクス主義理論の「原蓄〔原始的蓄積〕」は一八八〇年から八二年まで精力的におこなわれた。しかし、ナロードニキのプレバーノフがマルクス主義者になることは、容易ならぬ努力を必要とした。それはバロンのいうように後進国にマルクス主義を適用する最初の試みであった。

 西欧で生まれた社会主義であるマルクス主義がどうして、西欧とはことなる段階にあるロシアに妥当するのか。マルクス主義が正しいとすれば、いままでのナロードニキの努力のすべてはぜロでないか。

 自然科学者としてたとうと一時おもったことのあるプレハーノフの合理主義的な性格から、この困難な問題への解き口がでてきた。マルクスのいう社会発展の法則を、自然科学のおしえる自然法則と同一化することである。

 ポノマリョフ監修の『ソ連邦共産党史』によって「ロシアのマルクス主義者の最初の著書」といわれた『社会主義と政治闘争』(一八八三年)はプレハーノフのナロードニキヘの訣別の辞である。

 そこで彼はいう。

 「ダーウィンがおどろくぺく簡単かつ正確な、種の起源についての科学的理論で生物学をゆたかにしたのとおなじに、科学的社会主義の創始者たちは、われわれに、生産力の発展と、生産力とたちおくれた『生産の社会的条件』との闘争とのなかで、社会組織の種の変化の原理をしめした。」

 農民への絶望からテロにうつろうとする革命家からわかれて「黒土再分割」の綱領をかいたときにいった「人類社会の科学の最後のことば」をプレハーノフはマルクス主義のなかにみつけた。

この発見が、ロシアの内部で専制と死闘をつづけている革命家たちをどんなに元気づけたか。小状況におけるたたかいがどんなに失敗しても、大状況は自然法則のように進歩にむかってすすんでいるからだ。

 プレハーノフがジュネーブについた一八八〇年から、ボルシェビキの党ができる一九〇三年まで二十年以上もあるのだが、このあいだに、彼がロシアの革命組織に言いのこした人民を基盤とした党はどうなるのか。

 『社会主義と政治闘争』のなかで党に言及されているところをひろいあげてみよう。

 「さいわいロシアの社会主義者は、もっとしっかりした土台の上に希望を托すことができる。彼らは、彼らの希望を何よりもさきに労働者階級に托すことができるし、また托さねばならぬ。他の階級もそうだが、労働者階級の力は何よりも、その政治的意識の明確性、その堅固さと組織性とにかかっている。この労働者階級の力の諸要素は、わが社会主義インテリゲンチアの影響のもとにあるべきだ。インテリゲンチアは当面の解放運動において労働者階級の指導者とならなければならぬ。労働者階級の政治的経済的利益およびこれらの利益の相互関係を説明してやらねばならぬ。ロシアの社会生活のなかの労働者階級の独自の役割にむかって準備してやらねばならぬ。インテリゲンチアは、あらゆる力をつくして、ロシアに憲法のできた最初の時期に、わが労働者階級が、一定の社会的政治的綱領をもった独自の党として登場するようにしなければならぬ。」

 プレハーノフは労働者階級が独自の党をもって政治の舞台にでるのは、ブルジョア革命によって市民的自由がえられたあとの時期であるとかんがえていた。プレハーノフの党についての、このかんがえを最初に指摘したのは、粛清された「党史」の著者ポポフであった。彼はつけくわえていう。

 「この時期まで、『社会主義的インテりゲンチア』は将来の労働者党の要素を用意する事だけを仕事とせねばならなかった。もちろんこのことはインテリゲンチアの指導下に、労働者階級が専制との革命的闘争に参加することを除外するものではない」。

 革命は何ものがてこになるにしても、これを指導するものはインテリゲンチアであるという思想は、プレハーノアもレーニンもふくめて、ロシアの革命家のかたい信念であった。革命における労働者階級のヘゲモニーの思想が、一八九八年にアクセリロットから発したという説もあるが、ジノビュフは『党史』のなかで、一八八九年バリの第二インターナショナルの席上でプレハーノフが、「ロシア革命は労働者階級の革命としてのみ勝利するだろう、そうでなければ勝利することはないだろう」といったのを、その最初にかぞえる。

 プレハーノフにおけるプロレタリアートのヘゲモニーの思想が、インテリゲンチアによる党の指導と矛盾しないことは、第二回党大会における彼のレーニン支持によってわかる。

 エンゲルスのいう「歴史的必然性」に賭けたプレハーノブにとって、ロシアにも資本主義は発達するという論証にすすむことは、論理的にも当然である。彼はこの課題を一八八四年の「われわれの相違」でときはじめ、それはレーニンの『ロシアにおける資本主義の発達』にひきつがれる。社会主義者が、みずからの社会に資本主義の存在を論証しなければならぬというのは先進国ではありえないことだった。資本主義の「存在証明」にさきだってプレハーノフは『社会主義と政治闘争』のなかで西吹の歴史法則にしたがって、ロシア労働者階級とブルジョアジーとの革命における関係を予見していう。

 専制の打倒と社会主義革命とは本質的にことなったことであり、社会主義政府の早期の可能性はロシアでは信じがたい。ブルジョアジーとともに専制にむかってたたかうが、労働者階級に、ブルジョアジーとプロレタリアートとの敵対性をおしえることをやめないというドイツの共産主義者の例にしたがうという理論は今日いう革命二段階説である。ブルジョア革命に協力はするが、政権をとってはならないとする、のちのメンシェビキ理論の萌芽がここにある。

 プレハーノフが労働者党の結成をいそがなかったことは、はじめて組織された国外のマルクス主義者グループ「労働解放団」のためにプレハーノフがかいた綱領をみてもわかる。はじめの綱領(一八八四年)には、「社会主義者は労働者階級に、来たるぺきロシアの政治生活に積極的に有効に参加する可能性を提供すぺきだ」としかかいてない。第二草案(一八八七年)にいたってはじめて「ロシアの社会民主主義者は、この基礎にたって革命的労働者党の創立を第一の最大の義務とする」ということになる。

 労働者階級の党をはやくつくらねばならぬということでイニシァチーフをとったのは、レーニンであった。レーニンは一八九五年秋に非合法につくった「労働者階級解放闘争同盟」を革命党の萌芽と考え(邦訳全集第二巻三三六頁〉、その年に逮捕された獄中で「社会民主党綱領草案」をかき、シベリア流刑中、想をねって、刑期がおえた一九〇〇年、党をつくる目的でスイスに亡命した。

 レーニンの職業的革命家による中央集権の党の思想は、マルクス主義にそれまでなかったものであり、ロシアの後進性に適応した理論である。彼の党の理論は「何をなすぺきか」のなかに定式化され、事実上の結党大会である一九〇三年の第二回大会で、参加者は、示された綱領草案の事務的な用語の背後にレーニンの「何をなすぺきか」の思想をよみとった。おおくの反対者は、これをマルクスの理論の侵犯として反撥した。たとえば七月二二日の第九次会議において「経済主義者」のアキーモフはいう。

 「このことは党の任務の章でいっそうはっきりする。そこで党とプロレタリアとは、完全にひきはなされ対立させられる。党は積極的に行動する集団的な人物であり、プロレタリアは、その上に党が作用する受動的な媒体である。だから提出された草案で党という名詞はいたるところ主語としてかかれ、プロレタリアという名詞は補語としてかかれている。

 まったく同様に政権の奪取の章も他国の社会民主主義の網領とくらべてちがって編集されている。それは、つぎのように解されうる。いや、実際プレハーノフによってつぎのように解釈された。指導組織の役割は、それによって指導される階級をうしろにおしやり、指導組織を指導される階級からひきはなすことだと。それだから、われわれの政治的任務の規定は、『人民の意志』派のと全くおなじだ」

 アキーモフの反撥はレーニンにとっては何でもなかった。レーニンは『何をなすぺきか』のなかで、そのことはとっくに明言しているのだ。

 「われわれのあいだでは革命運動の歴史がろくに知られていないために、ツァーリズムにたいして断固たる戦争を布告する戦闘的な中央集権組織を考えたりすると、なんでも『人民の意志主義』だと呼ばれるのである。しかし、一八七〇年代の革命家がもっていたみごとな組織は、われわれがすべて模範としなければならないものであるが、あの組織をつくりだしたのは『人民の意志』派ではなく、『土地と自由』派であり、これがのちに『黒い割替』派と『人民の意志』派とに分裂したのである。(邦訳大月版全集五巻511頁)。

 レーニンは『何をなすぺきか』のなかに示した革命党の組織原理が、ツァ-リズムにたいして「断乎」としてたたかってきたロシアの革命の組織の伝統を継承するものであることを宜言している。第二回大会においてプレハーノフが終始レーニンをバックアップしたのも、少数インテリゲンチアによる労働者階級の指導という彼の理論、ナロードニキとしての彼の体験からしてむしろ当然であった。ここでロシアのマルクス主義の旗手のあいだで完全なバトンタッチがおこなわれた。職業革命家の中央集権的な秘密組織としての党の理論は、その後のロシアのマルクス主義の背骨としていまにいたっている。マルクス主義がロシアの土壌にうつされて、もっとも大きな「発展」をみせたのは、この党組織の理論であり、そこにロシアの革命運動の伝統が生きているとすれば、レーニン主義をロシア型マルクス主義といっていいだろう。

      二

 一九二六年、日本共産党の結成以来、日本のマルクス主義は、ソ連からの移入品だけが正統とされるにいたった。したがって現在、正統を呼号するマルクス主義は、さきにいったロシア型マルクス主義である。そのなかに日本型をみいだす仕事は、戦前の部分については鶴見氏らの「転向」においてこころみられた。だが、ここでは、福本によって日本にロシア型マルクス主義が移入されるまえに、鎖国状態のなかで成長した日本のマルクス主義をかんがえてみたい。ロシア型マルクス主義が日本にはいってきたとき、もっともはげしくたたかれた「古くなった」マルクス主義者山川均のなかに、私は日本型マルクス主義をみたい。

 ある思想が、どんな条件をそなえればマルクス主義とよんでいいかは、容易に一致をみないことだろう。定義の仕方によっては、「私は過去一○年間マルクス主義の原理を説き続けてきた」と一九一八年に宜言した片山潜(『日本における労働運動』岩波文庫三六八頁)をマルクス主義者ということもできるかもしれない。だが一九〇三年に

「炭坑の中しかも二千尺の深い炭坑の中で働く所の人間是も 天皇陛下の赤児である。吾々今日此石炭の恩沢を受ける者、今日識者を以て任ずる所の者は、我労働者、たとい九州の隅で働くにしても東京の街に於て働くにしても彼等の為めに救助の方法を講ずると云うことは、日本国民として又識者として必要であります。」(『社会主義』明治三十六年十一月号、八頁)

 という演説をやっている片山潜と、そのとき不敬罪によって巣鴨監獄で三年目の重禁命にたえている山川均とを、おなじ尺度ではかる定義には賛成できない。

 マルクス主義は革命の思想である。こう限定すれば、日本における革命思想家は、一九〇三年に創立された平民社を中心にしてしか存在しなかったから、そのなかから生まれ階級闘争の理論によって初志をつらぬこうとした人たちにしぼられてくる。そういう意味で私は山川均を日本に生まれたマルクス主義の代表とかんがえる。

 ロシアと日本との革命思想の発生をくらぺて、もっともめだつ相違は、日本では明治二十年代において知的エリートの統一があって反権力運動のブランクがあったことである。ロシアでは十九世紀の初めから一九一七年まで、ほぼ一世紀にわたる反権力の思想の連続があった。日本では明治維新における変革につづく急速な近代化が知的エリートを「完全雇用」にちかい状態にもっていくことに成功し、編成がえの摩擦として自由民権運動がおこったものの、指導者のおおくは権力の体制のなかにくみこまれた。

 体制からはみでた知的エリートが平民社に結集したときには、「原蓄」はすでにおわって資本主義体制が確立されていた。さらに、ロシアとちがって日本の島国としての地理的条件は、日本の革命家の亡命先をアメリカにだけ局限した。それはダイジェスト版マルクス主義をもたらしただけでなく、アメリカにおけるアナーキズムがロシアに十月革命がおこるまで日本の革命思想に大きい影響をおよぼすことになった。

 いまひとつ、日本のマルクス主義がながい苦難ののちに一本だちしたとき、十月革命がおこって、そのショックをうけた。

 以上のような事情が日本のマルクス主義をロシアのマルクス主義とちがった形のものにつくりあげたといっていい。以下、そのいくらかの特徴をひろってみたい。

 反権力の知的エリートの層がうすかったということから、日本のマルクス主義は、創造的な仕事よりも、翻訳にその力をそそがねばならなかった。弾圧のひどさが、翻訳しかゆるさなかったということもあるが、マルクス主義のなかでの国際的水準に達する理論を『平民新聞』『直言』『大阪平民新聞』『社会主義研究』のなかにみつけることは困難である。わずかに十月革命以後の山川の論文にみるぺきものがあるだけである。

 マルクス主義とアナーキズムとの分離が、ずっとおくれたということも、それが、弾圧によって小さなサークルのなかにとじこめられていたということによって説明されるだろう。

 キリスト教社会主義の『新紀元』からも自己を区別し、改良主義の『社会新聞』とも対立して、解散させられた『日刊平民新聞』の代用として大阪でだされた『大阪平民新聞』(のち『日本平民新聞』と改題)には、日本のマルクス主義者が集まったが、ここでも、社会主義と無政府主義とは区別されていなかった。(森近運平、「春寒余録、」『日本平民新聞』明治41年3月5日号)

 したがって、どういう方法で権力とたたかうかについて明確なかんがえをもてなかったのもむりはない。一九〇七年に幸徳秋水は、東京の社会主義運動の沈滞の「重大なる原因」として「社会主義実現の手段及び運動の方針に関する意見の未だ一定」しないことをあげている。(『大阪平民新聞』明治四十年九月五目号)

 無政府主義と完全な分離がおこなわれるのは、ようやくさかんになった労働組合の運動におされて、「もはや札つきの社会主義者の団体ではない」、「多数の労働運動者、文化団体の代表者、進歩主義的な思想家」が参加して、一九二〇年に日本社会主義同盟を結成してからあとである(荒畑寒村『自伝』二六八頁)。プレハーノフが『社会主義と政治闘争』によって無政府主義の申し子のナロードニキから訣別してから四十年ちかくたってからである。

 アナーキズムとの訣別はおくれたけれども日本のマルクス主義者は支配権力としてのブルジョアとは、その生誕の日から対決せねばならなかった。日本の社会主義者は、日本は西欧の道をとるべきか否かという問題をかんがえる余裕はなかった。西欧化しつつある状況のなかにはじめからおかれていたからだ。大逆事件の犠牲になった大石誠之助は、社会主義の日本的な道について論じた数少い一人である。彼は「日本に於ける社会改革の運動は徹頭徹尾日本社会と言う畑地に自発誕生せるものでなくてはならぬ」という田添鉄二のことばに反対していった。

 「余が思うに、我等が運動の対象は現在日本の経済社会と産業制度であって其君臣の間に立入り国体の歴史を論ずるが如きは我等の問題の外である。……近世泰西に放ける資本主義の濁流が滔々として我国に注入し、古来の愛すぺき風俗と習慣とを破毀し尽して、今のいわゆる紳士閥(ブルジョア)なるものは我国が未だ嘗て歴史に於いて見たる事なき侮辱と掠奪とを平民の頭上に加えつつあるではないか。‥…然るに田添君が今に於いて尚お日本の歴史に執着し、我等の改革運動が日本に自発したものでなくてはならぬ、欧米社会運動の翻訳であってはならぬというは、恰も敵が舶来新式の機関砲を採って平民軍に当るに対し、我等はどこまでも昔の弓矢甲胃を以て之を防がねばならぬというが如く、あまりに愚直にして亦迂闊きわまる説ではあるまいか。…‥資本家の運動方法がすでに万国的のものとなった今日に於いて、我らは如何で小さき日本的の手段を以て之に対抗することができようか」(禄亭生「読緑蔭漫五」『大阪平民薪輔』明治四十年月九二十日号)。

 彼ら明治の社会主義者たちは、明治の末期をもって「資本家の全盛時代」(日本平民新聞』明治四十一年五月五日号)と感じ、それにたいして、山川均は「主力と主力との決戦」における労働者の「実際の武器」としての「総同盟罷工」を提唱したのだった。(同上十二月二十日号)

 日本の社会主義は生まれた日から資本主義とたたかってきたということは山川均にとっては自明のことであった。それだからこそ、昭和のロシア・マルクス主義の徒が、コミンテルン綱領によりかかって、日本を、スペイン、ポルトガル、ポーランド、ハンガリー、バルカン諸国なみの「中位の資本主義的発展段階にある国」とし、日本の革命を社会主義革命に転化するブルジョア・デモクラシー的革命だといったとき、反対したのは当然である。平民社から大逆事件をくぐりぬけ、大震災であやうく抹殺されようとしながら四分の一世紀をたたかったのが、ブルジョア・デモクラシーをもたらすためであるとは、ばかもやすみやすみいえという気持だったろう。山川均が日本の革命一段階説を固執したのは明治以来の革命家の心情にたってのことであった。

 山川の一段階説をさらにつよめたものは、十月革命のインバクトであった。彼はロシア革命の成功を「ブルジョア・デモクラシー制度が根底をおろす前に、之を無産階級革命に推し進め」たためであるとかんがえた(「普通選挙と無産階級の戦術」無産階級の政治運動、一七二頁)。したがって、日本でもブルジョア・デモクラシーの安定をさけるべきであるとしたのだった。

 無政府主義と分離し、革命一段階説を抱いて、サークルの中で純粋培養されたマルクス主義をひっさげて山川は大衆と近づこうとした。これが一九二二年の「無産階運動の方向転換」である。

 「日本における今日までの社会主義運動は、ごく少数の運動であった。……日本の社会主義は、今日にいたるまで、一度もまだ大衆的の運動となったことはない。……日本の社会主義運動は、過去二十年間を通じて、常に階級闘争と革命主義との上に立っていた。…‥われわれは思想的には純粋の革命主義者となった。…日本の無産階級運動──社会主義運動と労働組合運動──の第一歩は、まず無産階級の前衛たる少数者が、進むぺき目標を、はっきりと見ることであった。われわれはたしかにこの目標を見た。そこで次の第二歩においては、われわれはこの目標に向って、無産階級の大衆を動かすことを学ばねばならぬ。……『大衆の中へ!』は、日本の無産階級運動の新しい標語でなければならぬ。……われわれの運動は大衆の現実の要求の上に立ち、大衆の現実の要求から力を得て来なければならぬ。」

 山川は「無産階級が小ブルジョア進歩主義のうちに溶け去ることなしに、独立した無産階級の政治勢力に結晶する」(「政治勢力の分布と無産階級の政党」前掲書三三〇頁)ために、「組合に組織せられた工業労働者と農民とを中堅とする」「全無産階級党たる目標に近い」政党を普選をまえにしてつくろうとした。

 まさにこのときに、福本がロシア・マルクス主義をカバンに入れて帰朝し、山川を小状況に終始する組合主義者として刻印をうったのであった。
 (『思想』1964年12月号から)

 説明

 本を整理していたら、この雑誌を見つけました。テーマは「現代とマルクス主義」となっていました。自分の頭で考えている人の文章だけパラパラとめくってみました。この論文は面白いと思いました。保存しておく価値があると思いましたので、ここに載せます。

文化・芸術の力で町起こし

2016年09月23日 | マ行


              北海道文化財団理事長・磯田 憲一

 2040年までに国全体で2千万人の減少が予測される人口減社会。「消滅可能性都市」という言葉まで登場し、自治体経営には濃霧が立ちこめる。しかし、だからこそ、時代と向き合う自治体の姿勢が地域の将来を左右する。「住んでよし、訪れてよし」の魅力ある自治体の共通項は、人口の多寡ではなく、地域資源を生かす知恵に満ち、個性を明瞭に発信している地域だ。地域の歴史や風土、固有の文化的資源に裏打ちされたソフトパワーは人の心を捉える。それが呼び覚ます共感や感動が人やもの、経済をも動かしていることは、人口減時代でも「にぎわい」や「交流」を創出している自治体があることを想起すれば得心がいく。

 そのソフトパワーに着目して、文化庁は2007年度から、文化芸術分野で成果をあげた自治体を「文化芸術創造都市」として表彰している。9回目の今年、これまでで最も人口の少ない北海道剣淵町(3280人)が、並みいる他都市を抑えて受賞した。旭川から北へ50㌔の純農村地帯だが、28年前、隣町に住む絵本作家の呼びかけに心を響かせ、子どもの心と生命を育む「絵本の里」づくりをスタートさせた。1991年創設の「けんぶち絵本の里大賞」は、今や新人作家の登竜門と言われる。特筆すべきは、基幹産業を担う農業者が「絵本」に「農業」と通底する力を見いだし、中心的役割を果たしてきたことだ。結果として「絵本の里」の農産物のブランドカを、さらには「文化芸術」の薫りを持つ町としての知名度を高めている。

 同時受賞の富良野市はドラマ「北の国から」で知られるが、こちらも農業主体の小規模自治体だ。「富良野演劇工場」が2000年にオープンし、NPOが中心になって、学校や企業、地域で、演劇によるコミュニケーション教育を多彩に展開。演劇と人づくりを融合させ、交流人口の拡大を図っている。

 いずれも、文化芸術を核にした戦略が活力を生みだしている好例だ。ハコモノなど形の見える成果を求めるあまり、文化予算がやせ細る自治体は多い。文化は権威に依拠するものではないとしても、文化のパワーを信じて挑戦する自治体にとって、文化芸術創造都市の表彰は大きな励みになる。創造都市の交流が進み、文化の持つ創造力が地域の活力を生むパワーであることへの理解が進めばと願っている。目先に惑うことなく、「時間」が熟成する価値に着目し、文化戦略を地域発展の基軸の一つに据える勇気を持つ自治体にこそ未来は微笑(ほほえ)むに違いない。人々は確かなアイデンティティーを求めて、文化の力を備えた心和む地域や故郷に回帰していくはずなのだから。

(2016年09月14日。朝日、私の視点欄)

 感想

 私も本当にそう思います。我が浜松市を考えると、いつでも、「根本的に文化力がない」と感じます。「ない」で悪ければ「低すぎる」と感じます。「隣の芝生は青く見える」のかもしれませんが、隣の磐田市と比べても、掛川市と比べても、浜松市の方が「文化的に低い」と感じます。

 かつて長野県の松本市で生活したことのある人と話したことがありますが、彼も実感としてそう思うと、私の考えに賛成してくれました。

 音楽都市を掲げ、国際ピアノコンクールを開催していますが、それに費やしている費用及びエネルギーに比して十分な効果が上がっているとも思えません。
費用の正確な数字は公表もされていません。

 根本的に教育に問題があるのだと推定しています。教師のレベルが低すぎると感じます。特に校長にお粗末な人が多いようです。

 今年の4月からの朝ドラ「とと姉ちゃん」では、初めのころ、浜松が舞台でした。来年の大河ドラマは井伊直虎だそうで、これは北遠が舞台なので、今、市を挙げて「このチャンスを生かそう」と頑張っているようです。

 しかし、外からの好機をどれだけ生かすかは結局は日ごろの自分たちの努力だと思います。これが根本的に変わらなければブームも一過性のものに終わるでしょう。

水俣病と補償金

2016年06月20日 | マ行
   村は保証金で破滅した

    岡本達明(たつあき)(元チッソ第一組合委員長、民衆史研究者)


 水俣病の60年は、どの局面をとっても不条理です。不条理の連鎖がどこまでも続く。

 被害者が前面に出た稀有の公害闘争が水俣病でした。

 1973年、チッソに賠償を求める裁判に勝った原告団は、東京駅近くの本社で座り込みを続ける患者たちと合流して交渉を始めます。要求の柱の一つは年金と療養費。これを拒む当時の島田賢一社長に患者家族の坂本トキノさんが淡々と言いました。

 「病み崩れていく娘を何年みてきたか。あんたの娘を下さい。水銀飲ませてグタグタにする。看病してみなさい。私の苦しみがわかるから」

 4ヵ月の交渉の末、行政が水俣病と認定したら1600万~1800万円の補償金と年金、療養費も支払うという協定を勝ち取りました。

 実はその5年前、政府の公害評定直後にもチッソの専務と交渉しました。患者はものも言えない。集落から工場へ通う労働者は「会社行き」と呼ばれて別格。まして専務など雲の上の人という意識でした。闘いの中で患者は別人のように成長したんです。

 チッソに入ったのは1957年です。水俣へ赴任して間もなく、路上で「うちに来んかね」と声をかけられた。帰郷中だった詩人の谷川雁さんでした。安保闘争や全共闘の世代に影響を与える思想家とは知らない。家へ行っても左翼思想を吹き込まれたわけでもない。でも会社から目をつけられ、1年半で飛ばされました。

 62~63年の水俣工場の大争議によって組合が分裂する。大卒ではただひとり第一組合に加わり、64年に専従執行委員となって戻りました。会社は日夜、1人ずつ課長室に連れ込んで「第二組合へ来い」と責める。断れば重労働職場に配転です。でも工場内で闘うだけが組合なのか。第一組合は68年、「水俣病患者のため何もしてこなかったことを恥とする」と宣言し、人間として患者を支援しました。

 患者が激発した水俣湾岸の3集落の調査を続け、昨年、「水俣病の民衆史」を出版しました。ざっと300世帯のうち認定されたのは176世帯の331人。低く見積もっても50億円以上の補償金が落ちた計算になります。水俣では人間の評価は住まいで決まる。みんな裸電球一つの掘っ立て小屋に住んでいたから、多くの患者が競って家を建てシャンデリアを付け、ダイヤモンドの宝飾品を買う。そうなると人間が変わります。

 1次産業と工場が支えだったのが、漁業は壊滅、農業は落ち目、工場の雇用は細々。貧しくても助け合ってきた村はなくなった。水俣病のせいで村が潰れたわけじゃない。補償金で潰れたんです。

 命や健康は返らない。補償金を取るしかない。でも今度はカネで村が破滅する。公害は起こしたらおしまいということです。(聞き手・田中啓介)
(朝日、2016年05月27日)


感想

 これが人間の性(さが)なのだと思います。

 埋め立てなどで漁業権を売り渡して多額の補償金をもらった漁民でも同じことが起きたようです。

 もう少し大きく見れば、公務員になり、それも地位が上がれば上がるほど仕事は楽になり給与は増えるようです。すると、堕落が起きるわけです。

 大学教授でも同じでしょう。今はそうでもない大学も増えてきたようですが、かつては「乞食と大学教授は三日やったら辞められない」と言われていました。

 最近の舛添東京都知事の場合もこれと同じようです。極貧の家庭で育った舛添はついに都知事にまで登りつめました。高級ホテルのスウィートルームに泊まるのは夢だったのでしょう。それを公金で実現させたのです。都知事の給与があれば、私費で泊まることもできたと思いますが。

 自称社会主義革命を成し遂げた中国やヴェトナムでも、独立闘争中はあれ程禁欲的だった人民大衆とやらが、ひとたび「改革開放」ということになり、金もうけが自由になると、高級官僚を筆頭に腐敗堕落の狂乱を演ずることになりました。

 こういう事を考慮できなかったマルクスの「社会主義思想」はどうみても「科学的」とは言えません。


問題意識の重要性

2016年03月29日 | マ行

東日本大震災5周年報道の盲点

 東日本大震災5周年ということで大々的な報道がなされました。私には珍しくそれらの報道を、NHKテレビと朝日新聞だけですが、かなり丹念に見ました。それは問題意識があったからです。つまり、朝日紙やNHKは「正しい問題意識」を持って事実を整理し、復興に役立つ「本当の全体像」を与えているか、という事です。答えは残念ながら「ノー」でした。それを詳しく述べます。

 まず、復興の部門を分けてみますと、それは①大地の復興、②町と個人住宅の復興、③生活(経済生活とコミュニティ)の復興、④(復興とは少し違いますが、反省すべき問題として)避難所と仮設住宅の在り方、の4つに分ける事が出来るでしょう。

 ①の「大地の復興」について考えますと、こういう問題があること自体が阪神・淡路大震災の場合との大きな違いです。つまり、今回は原発事故による放射能汚染から大地を復興させなければならないというとても困難な問題があるということです。

 正直に申し上げますと、この問題の解決策は私自身、持ち合わせていません。映像を見ますと、あちこちに「汚染土を詰めた大きな袋」が山となって積まれていますが、中間貯蔵地も最終貯蔵地も決まっておらず、住民の強い反対があります。

 いま福島原発の立地している所に深い穴を掘って埋めるという案はどうでしょうか。これくらいではすべての汚染土を埋められないでしょうが。トイレの無いマンションと言われた原発を作ったこと自体の問題ですから、解決策のない事は最初から分っていたことです。

 ②の「町と個人住宅の復興」については、基本点は阪神・淡路の場合と同じでしょうが、今回は津波による住居喪失が主ですから、津波対策をどうするかという新しい問題があります。つまり、この問題は①の大地の復興と重なる点が大きいのです。もちろん中心問題は、どういう津波対策が取られたか、です。

 それは大きく分けて、土地の嵩上げを主とするか、宮脇昭の防潮林を主として考えるかが対立の中心だと思います。それなのに、NHKのどの特集でも朝日の記事でも後者の防潮林路線は全然取り上げられなかったのです。もし私の見落としだと言うならば、どこでどう宮脇路線が取り上げられたかを教えて下さい。後者こそ「真の復興の中心だ」と考える私の視点では、今回の復興特集は無意味だったと言わざるをえません。

 たしかに宮脇派の「いのちを守る長城プロジェクト」もそのホームページの作り方が拙劣で、行政の巨大防潮堤と宮脇派の防潮林の進展具合が一目で比較して分かるようになっていません。あれだけ優秀な人々が集まっているのに、誰一人この点に気づく人がいないのでしょうか。残念です。

 この問題意識を持つことなく、NHKの特集は青森から千葉まで800キロにわたってすべての市町村の現状を取り上げたと言っていますが、「正しい問題意識を持たない実証主義」の無力を証明しただけです。

 私の希望としては、大きな地図を描いて、その上に行政の巨大防潮堤の出来ているところと宮脇派の防潮林の出来ている所とを色分けして示し、それぞれの所をクリックすればそこの現状の写真が見られ、いつ、いくらの費用で作られたか、作られた物について近隣の住民が何と言っているか、等が分かるようにして欲しいのです。いや、そういう地図を作るべきだと思うのです。

 ③の「生活(経済生活とコミュニティ)の復興」でも同じ過ちが繰り返されています。

 経済生活の復興ではA「前の仕事を続けられるようになった人」とB「前の仕事を少し変えて続けている人」とC「新しい仕事で展望の開けた人」とD「展望のない人」に分けて考えられます。
Aは分かりやすいでしょうから、Bを説明します。私見ではBの典型は個人で酪農をやっていた人が、数人で酪農をやる道を取って希望がでた場合です。大地で農業をしていた人が水耕栽培で展望を切り開いたというのもこれに入るでしょう。

 一番素晴らしいのはCの「新しい仕事で展望の開けた人」の場合でしょう。これが今回は新聞でもテレビでも出てこなかった(私は知らない)のですが、ラジオか何かでかつて聞いた話では、誰かその道の人が縫製の仕事を組織して、主婦達に教え、もちろん販売ルートも確保したという例があるそうです。そこで働いている主婦達が「震災は嫌だったけれど、震災があって好かったと思う気持ちもある」と言っているのです。それはそうでしょう。これまで自分の力では収入が得られず、従って独り立ち出来ず、色々と抑圧を感じていた人が、生まれて初めて自立して胸を張って生きて行けるようになり、場合によっては自力で一家を支えて行けるようになったのです。嬉しいに決まっています。

 私の知りたい事は、こういう例がどれだけあるか、それの「すべての例」を知りたいし、そういう人が全被災者の中でどのくらいのパーセンテージを占めているかも知りたいです。これこそ「復興に役立つ情報」でしょう。

 NHKの特集では糸井重里が「ノルウエーの漁業から学べ」と言っていました。これは前から言われている事で、少しは出てきているようですが、不十分です。それはともかく、特集ではこの動きも取り上げるべきでした。
多方面の智恵を持っている人はぜひともその智恵をこういう方向で活かしてほしいです。又、行政も自分たちだけで考えないで、仕事を作り出すアイデアを教えて下さいと公募するべきです。

 コミュニティの再建でも報道は少な過ぎると思います。昨年2015年の春頃に出来たらしい復興住宅(?)の1つである下神白団地(いわき市)での今日までの住民の努力を特集した番組を見ました。まず疑問に思った事は、なぜ鉄筋の5階建てのマンション風の建物にしたのか、です。皆が、「仮設住宅の方が平屋だったので、外に出れば直ぐに誰かに会えて好かったのに」と言っていました。住まいというのは外壁の内側だけをいうのではなくして、外壁の外側も含めて考えるものなのだと思います。土地を含めた設計を専門家に頼むといいと思います。

 「専門家に頼む」と言って連想するのは、たしか陸前高田市だったと思いますが、そこで市が住民から買い取った広い土地に新しい町を作る計画です。そこでの市職員の努力を描いているNHKのドキュメンタリーを見ましたが、私が疑問に思った事は、なぜ実績のある建築家に相談しなかったのか、という事です。日本には外国の町の設計を請け負った立派な人が沢山いるはずです。こういう人には素人では想像も出来ないアイデアがあるものです。朝日テレビの ビフォア・アフター」を見ただけでも分かるでしょう。それなのに、この陸前高田市では専門家に相談しなかったらしいのです。残念です。

 更に、専門家と言って思い出すのが伊東豊雄の作った「みんなの家」です。これこそ仮設住宅群の中に作って「コミュニティ作りに役だった」ものの代表でしょう。なぜこれを特集の中で取り上げなかったのでしょうか。見識を疑います。

 更に又、専門家と言って連想するのは坂茂(ばん・しげる)の紙筒を使った仮設住宅です。行政の建てた仮設住宅ではあちこちに不出来な所があり不満が聞かれましたが、この紙筒を使った仮設住宅はとても快適だったそうで、「ずっとこれに住みたい」という意見さえあったようです。「仮設住宅」と言っても色々あるのです。これも掘り下げなければ、今後の仕事の役に立ちません。

 特に断らずに事実上④の仮設住宅の反省をしてしまいました。避難所については私は特に意見はありません。

 今回の一連の報道は、こういう「哲学」、つまり「正しい問題意識」を持たないと調査も報道も大した意味を持たなくなるという事の好い(悪い?)実例となりました。昨年、文科省は「文系の学部は世の役に立つものであれ」といった趣旨の通達を出したそうです。それに対して「文系の学部の意義」を主張する人々は、「文系の知は長期的には役に立つ」と反論しているようです。私は、一般論としては後者に賛成ですが、上に分析したような現状を見ますと、一般論だけで済ます事は出来ないと思います。ご覧の通り、「文系を卒業した人々」が、「事態の核心は何か」を考えて行動しているとは到底思えないからです。

 最後に、3月8日に朝日紙に載った小熊英二のコラム「思想の地層」を取り上げます。

 これは、「津波被災地復興の惨状が、ようやく新聞・雑誌に載り始めた」という事実認識から出発しています。そしてこの事実について、「ここで問いたいのは、政策の是非ではなく、なぜ被災地のこうした事態がこれまで十分に報道されなかったのかである」としています。そして、この自問を更に具体化して、「私の印象では、現地の記者たちは12年から13年には事態を知っていたし、被災者は早くから復興政策に疑問を呈していた。それなのに、なぜ報道が十分でなかったのか」としています。


 この問題に対して小熊は、「報道関係者も支援者も研究者も(がんばってくれたことは認めるが)、智恵と勇気に欠けていたからだ」と答えています。「智恵とは、耳目に入る個々の事象を超えた、総合的な全体像を理解する能力、勇気とは、短期的には不都合であっても真実を語り、長期的な視点から社会に貢献する気概である」としています。

 立派な言説だと思います。小熊は更に、「これは被災地復興に限った事ではない」と言って、「現在の日本の抱えるほとんどすべての問題について同じ事が言える」、としています。

 そして最後を、「あれから5年。変化は少しずつ起きているし、起こすしかない。なぜなら私たちは、この国の明日を探る責任があるのだから」と結んでいます。

 こういうありきたりの結論にがっかりしました。小熊の限界なのでしょうか。現在の日本の代表的論客がこれでは情けないです。私の対案は上に詳しく展開した通りです。それは小熊の言う「総合的な全体像」を作る為の指針を「具体的に」提示したものです。私案に反対の人は対案を出して下さい。(2016年03月28日)

明善翁

2015年11月12日 | マ行

1月14日(金)は、東区天竜川町の妙恩寺で、第88回明善祭がありました。

 明善翁は、江戸時代の末期から明治時代にかけて、私たちの郷土遠州の発展の基礎を築きました。

 翁は天保3年(1832年)、この天竜川下流の遠江国長上郡安間村(現浜松市東区安間町)に生まれました。

 幼い頃から、たび重なる天竜川の水害による惨禍を身をもって体験した翁は、天竜川水系の治山治水と開発こそ、この遠州の人たちのしあわせを高める唯一の道であると確信し、この大事業を実行し、大正12年(1923年)、大きな業績を残して91歳の生涯を閉じました。

 天竜奥地の大美林と天竜川護岸、そして浜名・磐田両用水による豊かな遠州の大穀倉地帯など、今日に見るこの姿は、翁及び翁の意志によって設立された金原治山治水財団の功績と、関係市町村の努力に負うところが多大であります。

 ただ一筋に遠州を愛し、天竜川とともに生きた翁の尊い精神が、国営天竜川下流農業水利事業及び国営三方原用水事業にも引き継がれて、今も脈々と生き続けております。
 (浜松市天竜区二俣町鹿島。明善翁胸像の碑文より)

(山崎ブログ、20111年01月15日より)

(ブログ「浜松市政資料集」2011年01月18日より転載)




無戸籍児童

2015年07月12日 | マ行

無戸籍児童、3割生活困窮

 小中学生にあたる6~15歳で戸籍を持たない「無戸籍の子」が全国で少なくとも142人いる。その実態を初めて調査した結果を文部科学者は8日、発表した。就学している141人のうち生活保護を受けている世帯の子は17人(12・1%)。それに準じて生活の苦しい世帯も32人(22・7%)にのぼった。他に就学していない子が1人いた。

 3月10日時点で法務省が地方法務局などを通じて把握できた142人(小学生相当116人、中学生相当26人)が対象。居住地がある104市区町村の教育委員会を通じて調べた。文科省は「把握できたのは一部に過ぎず、他にも相当程度いるのではないか」とみている。

 調査結果によると、3月末現在で就学していなかったのは1人。家庭の事情で小1から5年間未就学が続いているが、無事は確認されているという。残りの141人のうち、未就学の経験がある子は6人。期間はいずれも小1からで、7年6カ月、7年5カ月、3年、lカ月など。2人は小学校に全く通っていなかった。「生活習慣や体力面に課題」「知識が欠けている」などの状況が報告された。

 「生活保護を受けている」「それに準じて生活が苦しい」を合わせた計34・8%という数字は、全児童生徒の中の両者の割合15・6%の2倍を上回った。生活保護に限ると、全児童生徒の割合の8倍に上った。

 無戸籍になる背景には、民法の「離婚後300日以内に生まれた子は前夫の子と推定する」という規定がある。前夫の暴力で女性が逃げ、前夫の子になるのを避けて出生届を出せないケースなどがあるとみられる。今回の調査対象でも、8割近くに離婚が関係しているといい、文科省の担当者は「一人親家庭が多いことが収入の厳しさにつながっている」と話す。

 戸籍や住民票がなくても居住実態があれば就学は可能。文科省は誤解しているケースもあるとみて、無戸籍児の就学を促す通知を各教委に出した。貧困や虐待など課題を抱えている場合の支援も求めた。
(朝日、2015年07月09日。高浜行人)

森永ヒ素ミルク事件60年

2015年06月23日 | マ行
重度化する被害者支援課題

 森永乳業の粉ミルク製造過程でヒ素が混入し、飲んだ乳児130人が死亡、1万3000人に健康被害が出た森永ヒ素ミルク事件から今年で60年になる。

 被害者らでつくる「森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会」(事務局・大阪市北区、会員約2200人)の全国総会が21日、岡山市で開かれた。各地の会員代表196人と、厚生労働省や森永乳業の関係者ら計約280人が出席した。

 最初に、亡くなった被害者に祈りを捧げた。「守る会」理事長で被害者の桑田正彦さんは「私たちは60歳になった。事件の風化防止や高齢化に備え、一層、取り組みを強化しなくてはならない」とあいさつした。

 被害者の救済にあたる公益財団法人ひかり協会(本部事務局・大阪市)によると、明らかになっている被害者数は1万3440人。このうち、896人(今年3月末時点)に知的障害や肢体障害などがある。

 被害者が年をとり、障害の重度化や単身で暮らす人たちへの生活支援が課題となっている。

 協会のまとめ(2011年度)では、障害がある被害者のうち24%で、障害が重度化していた。昨年時点で両親など親族と同居している人は23%、単身生活は19%だった。将来の方向性について聞くと、単身生活は28%に増えた。協会の塩田隆常務理事は、「将来の単身生活に備える支援が今後さらに求められる」と話す。

注・森永ヒ素ミルク事件

 1955年、森永乳業徳島工場の粉ミルクの製造工程でヒ素が過って混入。急性ヒ素中寿で乳児130人が死亡し、西日本を中心に1万3000人に健康被害が出た。69年、大阪大学の故・丸山博教授らが被害児を追跡調査し、脳性まひや知的障害などの後遺症をつきとめ問題が再燃。73年、被害者団体と森永乳業、厚生省(当時)が生涯にわたる生活支援費支給などの恒久救済措置をとることで合意した。

  (朝日、2015年06月22日。北村有樹子、中村通子)

東川のまちづくり

2015年04月20日 | マ行

               福原 義春(資生堂名書会長)

 君塚直隆著『ジョージ四世の夢のあと』(中央公論新社)によれば、19世紀の英国王ジョージ4世は「浪費王」として悪評高い。一方、文化の庇護者として大英博物館、国立美術館、リージェントストリートの整備、王立美術院の拡充などを行い、それらは今日ロンドンの名所となった。

 歴史的文化資産に恵まれた地域は、それを活用した文化政策を展開できる。では、それが見当たらない場合はどうすればいいのか。

 北海道上川郡東川町の取り組みを紹介したい。東川は、旭川空港から車で13分、北海道のほぼ中央に位置する小さい町だ。旭岳を仰ぎ見る米作地帯だが、目立った産業もなく、普通なら全国に散見される過疎の町、いわゆる「限界集落」となる運命は避けられなかっただろう。

 しかし、このような不利な状況を逆手にとってまちづくりは始まった。それは、竹下首相時代の1988~89年に行われ、1億円のばらまきと不評だった「ふるさと創生事業」より前だった。

 まず、「東川には何もない。自然しかない」と言われる環境を、短所でなく長所と見なす発想の転換をした。そして、人の手が入らない山林や川や田園風景など、自然の美しさを写真に収めるのにうってつけの場所と考えた。85年には「写真の町」を宣言。世界から作家を招く国際写真フェスティバルや、全国の高校写真部が腕を競いNHKでも毎年放映される写真甲子園を開催している。今や写真の世界では、同様に国際写真フェスティバルを開催するフランスのアルルと同じぐらいの知名度がある。

 対外的アピールだけではない。全国のスポーツ少年団と同様に、この町には写真少年団があり、子どもたちは自然に親しみながら感性を磨き、写真を楽しんでいる。町が世帯ごとの写真をウェブ上で保存する仕組みもある。婚姻届や出生届を出せば、その控えを写真立てとしても使える厚紙の台紙に入れてプレゼントしてくれる。

 写真以外でも、地場産業である木工を活用し、町に生まれた子どもにオリジナルデザインの椅子を進呈する「君の椅子」プロジェクトがある。全国からの出資者に産物や各種特典を還元する「株主制度」は、町の事業の中から株主が応援したいものを選べるところが単なる「ふるさと納税」とは異なる。町が造成、分譲する宅地も道内や首都圏からの移住者ですぐに完売し、昨年は目標の人口8000人を42年ぶりに達成した。

 東川のまちづくりには、まずは内なる環境と条件をよく理解し、それを住民の幸福と合わせて最大化するという姿勢が貫かれている。もちろん当初は町内でも反対の声もあったが、あきらめずに継続するうちに独自の創造性を獲得し、結果として対外的な魅力に育った。モノ・カネでなく、知恵と努力を基軸にしたまちづくりの例として注目したい。
 (朝日、2015年02月07日。福原の道しるべを探して)

関連項目

補助金ゼロのまちづくり

まちづくり 家守

2014年10月30日 | マ行
 補助金ゼロのまちづくり 

 「地方創生」のかけ声がかまびすしくなるなかで、「家守」(やもり)を増やそうと地道に活動する市民がいる。

 ヤモリといっても、トカゲに似た生き物のことではない。むかしの江戸で借地・借家を管理してまちづくりの世話をした民間人のことだ。江戸時代後期、町人人口約60万人と言われた江戸のまちに、約2万人いたと伝えられる。

 まちづくりの主役はあくまで市民。江戸時代のような民間主導のかたちで、さびれゆくまちを盛り上げよう──。そう呼びかけるトークイベントに先日、顔を出した。

 語り部は、北九州市の商店街再生を手がけ、今年5月に国土交通大臣賞を受けたまちづくり会社「北九州家守舎」代表を務める建築家の嶋田洋平さん(38)である。

 会場は、東京都豊島区にあるおしゃれなカフェ。トークが始まり、覚醒剤撲滅キャンペーンをもじった刺激的なフレーズが音声とともにスクリーンに映し出された。

 「あなたは補助金やめますか? それとも人間やめますか?」

 「現代版家守」の理念の柱は「市民の自立」と「補助金ゼロ」だ。国や自治体は地域活性化のための補助金メニューを用意しているが、嶋田さんは「補助金は麻薬と同じ。市民の自立心をそぐような補助金に頼るな」と訴える。

 家守構想では、建築家や飲食店オーナー、研究者、市民らが「家守チーム」をつくり、不動産オーナーとともに知恵を出す。例えば身銭を切って空き店舗におしゃれな飲食店をつくり、にぎわいを取り戻す。その結果、補助金がなくても収益が上げられるまちができあがれば成功だ。

 現代版家守の提唱者で、岩手県紫波(しわ)町の町有地で進む公民連携事業「オガールプロジェクト」など、多くの補助金に頼らない試みを支える都市・地域再生プロデューサーの清水義次さん(65)は言う。

 「税金の源は民間のかせいだお金。民間が補助金に頼るのは逆転した発想だ。人口減少時代のいま、事業をシビアに考え、空いた建物や土地があればそれを使い、新しい産業と雇用、利益を生んで税金を払う。その当たり前の姿に戻さなければ、いつか財政は破綻し、まちは死んでしまうかもしれませんよ」

 むろん補助金を全否定はしない。現代版家守の育成と普及を図るリノベーションスクールという事業は補助金を受ける。ただそれ以外は、とことん民間の自立にこだわる。

 安倍晋三首相は「ばらまき型の投資は断じて行わない」と宣言した。けれど、どうも国・自治体の議論は予算配分に熱が入りがちだ。

 公共事業費の消化が追いつかないとか、来年度予算で地方創生特別枠をつくるとか。そんな話を聞くと、またぞろ選挙目当てのどんぶり勘定にならないかと心配になる。

 かたや現代版家守は最近にわかに注目を浴び、清水さんや嶋田さんは引っ張りだこだ。予算額でははかれない、市民のがんばりを応援する環境づくりに期待したい。

(朝日、2014年10月26日。編集委員・前田直人)