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ながく、牧野紀之の仕事に関心を持っていただき、ありがとうございます。 牧野紀之の近況と仕事の引継ぎ、鶏鳴双書の注文受付方法の変更、ブログの整理についてお知らせします。 本ブログの記事トップにある「マキペディアの読者の皆様へ」をご覧ください。   2024年8月2日 中井浩一、東谷啓吾

歌劇「ウィリアム・テル」の原作について(関口存男)

2010年08月21日 | ア行
                               関口存男

 ウィリアム・テルというのは英語化された名称で、原名はヴィルヘルム・テル、ドイツの劇作家シラーの作です。凡そ人口に膾炙しているという点ではドイツ文学中屈指の脚本と申しても差支えありますまい。以下、極く座談的にこの作の中心をなしている筋と思想とを紹介致します。

 筋は、一口に言えば、つまり所謂『義民伝』という奴で、アルプス山脈の真只中に現在のスイスという国が出来上る時の話、即ちスイスの建国美談でもあるわけです。テルという人物が主人公になっていますが、ではこの人物が義民の頭目か何かかと言うと、別にそういうわけでもない、彼は極く温良な、謂はば個人主義的な、どっちかと言うと寧ろ引っ込み思案ばかりしている一介の猟師に過ぎない。弓矢を手に取ればあたり界隈に彼に及ぶ名手はいないが、暴徒と行動を共にしたり、独立運動の陣頭に立つといったような事は、彼の性に合わない。現に蜂起の申し合せをする席などには、はっきりとその旨を断って、顔を出しておりません。そうしたテルが、どうして国民的英雄に舁(かつ)ぎ上けられてしまったか? そうしたテルがどうしてこの建国美談、この義民伝の主人公となっているか。ここにこの作の中心思想があるように思われます。

 ロッシーニの歌劇の序曲も大体そういう風になっていますが、幕が上ると、遠景に永遠の積雪を頂くアルプスの連山を望み、いわゆるフィールヴァルトシュテッテル湖という湖水を中景に控え、牛飼が牛の群を番しながら、のどかに牧笛を吹いているという、大体まあスイスとい言葉で誰もが連想するような平和な景色が第一景です。国情から言えば、この国には今や[13世紀終わりから14世紀初め]オーストリアの毒手が延びて来て、ゲスラーという無情な代官が支配し、それまでは太平の逸民であったこの地の土民も、今は異国の侍の前に小さくなって暮しているという、あまりのどかな事情ではないのですが、大自然は人間界の出来事なぞは顧みない、山紫水明のアルプス地方はさながら平和その者の如くに澄み、例の、ちょっと風鈴屋が表を通る時のような可愛らしい音を立てて、沢山の家畜の頸の鈴が緑の牧場の遠近に鳴っています。

 すると忽ち、あたりが少しひいやりとしたかと思うと、一天にわかに掻き曇り、見渡す限りの山野に暴風雨が襲来します。こうした高山地方の天候の激変という奴は実際あっという間もないそうです。今まで真青に澄んでいた空が一瞬にして墨を流したようになる、どこからどうしてこんな風が起きるのだろうと思われるような物凄い突風が突如として湖水の上を吹きまくる、──これがこうした高山地方の夕立ちです。歌劇の序曲にもこの嵐の描写が出て来ます。この端倪すべからざるアルプスおろしが、次いで勃発する挙国一致の建国運動を預め象徴しているに違いありません。

 そう言えば、この平和な山水と、そこに棲息している土民との間にも何かこう関係がありそうです。風俗が風土にあやかるとでも申しましょうか、天の心が人の心に通うとでも申しましょうか、このアルプスの自然は直ちに以て地元の民の性格でもあるのです。山が悠々として迫らざる如く、これらの民も亦悠々たる太平の逸民です。その代わり、あばれ出した日にはどうにも手の付けようがない。また、いつあばれ出すかという事は表面の静けさを見ただけでは判断できない。

 ──山は、人間共が己が神聖を侵しても黙っています。山の民も、異国の虐政者がどんな事をしようと、黙ってされるようにされています。しかし、あんまり猪口才(ちょこざい)な真似をしに来る奴がいると、或いは何等の予告もなく雪崩を下してこれを谷底に葬り、或いは路に迷ってじたばたするのを見ながら黙って見殺しにしてしまいます。山の民の異国人に対する態度もその通りで、いつどこでどうされたか分からないが、時々あちこちのお役人が、ポッポッと姿を消してしまう。捜索しても取り調べても探偵しても拷問しても、消息は絶体に分からない。国民全部が山その者のように黙ってて馬鹿のような顔をして見物している真ん中を、当局だけが血眼になって狂奔しているとでもいったような恰好になる。

 凡そ鈍重な愚民に対して加えられる強力政治というものはすべてこうしたものであるらしい。これで為政者の方が根気負けして方針を改めるという事にでもなれば、這般の問題は時と共に平和な解決を見る事が無いとも限りませんが、このスイスの場合は不幸にしてそうではなかったのです。皇帝の代官ゲスラーは、この平和の民に対する施政方針が当初から間違っていた事を反省しないで、思い通りに行かないのに業を煮やし、口惜しまぎれに色々と所謂る『えげつない』事を考え出すようになりました。つまり、これまでの強力方針を更に強化し、事毎に反動的な辣腕を揮うようになって来たのです。

 そういう風にして、増長に増長を重ねた最後の『脱線』とも言うべき『えげつない』仕打ちが、これが即ち例の有名な『リンゴの場面』となって、いわゆる全篇のクライマックスをなしています。ウィリアム・テルと言えば誰でも直ぐに『あゝ、あのリンゴの話か』というほど有名な話ではありますが、筋の上ではこれが最も重要な部分をなしていますので、これを中心にして紹介しなければなりますまい。

 テルという男は、前にも言った通り、みんなの者が寄り寄り協議して自由独立の旗上げを企んでいる最中にも、ちっとも顔出しをしないで、多少変人扱いをされていますが、いざとなると、黙って思い切った事をやります。既に(第1幕)パオムガルテンという男が捕吏に追われて湖畔まで落ち延びて来た際、本職の船頭まで二の足踏むほどの大嵐の中を、舟を出して向う岸に渡してやった事もあります。この事件を薄々嗅ぎつけた代官は、段々とこのテルという男に対して眼を光らし始めますが、自ら持する事高き孤独のテルには何一つ落ち度らしい落ち度が見出せないので、下手に手出しをすると逆に自分の方が負けたような恰好になるものだから、代官ゲスラーは、内々口惜しくて堪らぬが、どうにも手の出しようがない。その代り、機会ある毎に、妙に意地の悪い態度を取って所謂るいやがらせという奴をやる。テルは何をされても黙っている。代官の方では、テルが黙っていればいるほど癪に障る……と、まあ二人の間はこれほど緊張していたのです。

 すると或る日の事、テルが弓矢を提げて狩から帰って来ると、右は岩壁左は千尋(せんじん)の谷という人間一人がやっと通るに過ぎない山中の小径で、向うの方から供も連れずに代官ゲスラーがとぼとぼとやって来た。多分狩の最中に供の者にはぐれたのでしょう。運命の悪戯とは正にこういう事を称して言うにちがいない。天下の大道で供を大勢連れて歩く時には飛ぷ鳥を落す代官様だが、平常さんざ虐めていた土民と、しかも腕っ節の強い鬼のようなテルと山中の一本道でバッタリ出会ったのでは、飛ぷ鳥どころか、代官様御自身の足許が問題になって来る。
 向うからやって来るのがテルと判るや否や、代官ははたと立ちすくんでしまった。立ちどまったのではなくて、実際歩けなくなってしまったのです。強ひて平静を装って歩き続けようとしても、膝がががたがた顛へているから、喧嘩にならない内にひとりでに足下の谷底に顛落してしまうかも知れない。代官は見る見る顔面蒼白となり、冷汗をだらだらと垂らしながら、岩壁に片手を掛けた。テルの方では、この様を見ながら、悠々と近づいて来て、まず何気なく挨拶をし、鼻の先に立ちどまって、おやおや、どうかなさいましたか、と言って顔を見るが、その時代官はもう気が遠くなってテルの言葉も何も聞こえなかった。それもその筈です、この懸崖の一本路をお互いに身を除け合って通りすぎるのには、なにしろ狭い危い路の事だから、お互ひにしっかと抱き合って頬擦りするようにしないと除けられない、しかもそれには相当の時間がかかる。そうして絡み合ってゐる最中に、テルが悪い男なら、オッとどっこい旦那危のうござんすよと言いながら、力の入れよう一つで相手を谷底へ転落させてしまう位の事は訳はない。またそうされても文句のないだけの事はこちらの方でちゃんとしてある! これだけの事を大車輪で頭の中で考えたのだから、既にその考えの目まぐるしさだけのためにでも、代官がポーッとなってしまったのは全く無理もない事です。

 悪い事をされた時の怨みはまだ本当の怨みではありません。善い事をされた時の怨みという奴が、これが本当の怨みです。前者は人に訴え神に訴える事が出来るが、後者は誰にも訴える事が出来ない。まさか『俺の方で平生こんな悪い事をしていたのに、相手は俺に対してこんな善い事をして返した!』と言って不平を言う訳にも行きませんからね。咫尺(しせき)の間(かん)に対面して完全に相手に頭が上らなかった、しかもそれを莞爾たる温容を以て、半ば憐まれ半ば皮肉られながらポンと軽くあしらわれてしまった、しかもその皮肉というのが恐らくこちらのひがみで、相手は本当に人間として数等偉かったのだと感じた時、しかも相手が自分より目下の者だとなると、ここには人間最後の悲劇があります。代官ゲスラーは、いわゆる悪役ですけれども、作者シラーはこういふ風に実に旨い具合に持つて来ています。こういう事があったればこそその次に出て来る例のリンゴ射落としの場が本当に生きて来るのです。

 と言うのは、この第1回目は偶然代官の方がテルの手中に飛び込んで来たのですが、その次には、これまた偶然に、代官の張った網にテルが引っかかるという段取りになります。即ち、代官は、国民一般の反抗的気勢に愈々(いよいよ)我慢を切らし、遂に具体的に彼らに徹底的帰順を強いんとして、己が駐在する大広場の真中に王室を象徴する帽子を掲げてこれに敬礼をさせるという強引なお触れを出したのです。勿論その側に兵隊を立てて置いて、敬礼しないで通る者があったら早速引っ立てるといふ手筈です。すると、敬礼するのは口惜しいし、しなければ引っ立てられるというので、土民達は誰もその側へ近づいて来ない。只一人何も知らずに近づいて来たのがお人好しのテルその人です。テルはその時、二人ある男の子の中の一人を連れて来ている。平生は余り人中に顔を出さない男だが、たまに村へ降りて来ると大失敗をしてしまうというわけです。

 一たい天下の御法度というものは皮肉なもので、ちょっと引っ掛かった方がよさそうな人間に限って決して引っかからない。むしろその罰則・規定の精神の目標としてははなはだ見当の外れた種類の人間が真先に引っ掛かる。テルが竿頭に掲げられた帽子にお叩頭(じぎ)をせずに通り過ぎようとして番卒にちょっと待ったを食らうのも、つまりこうした皮肉な風の吹き廻しに依ると思ってよろしい。

 番卒が引っ立てようとする、テルの子供が泣き叫ぷ、村人が寄って来る、その中には革命の志士もいるから、ごたごたして大騒ぎが待ち上がる、そこへ遠方からラッパの音が嚠喨(りゅうりょう)と響き渡って、大勢の供を従えて威風堂々と近寄って来たのが丁度鷹狩から帰って来た皇帝の代官ゲスラーその人です。

 『こらこら、何を騒いでおるか、静まれ静まれ』と言いながら群集に近づいて来た時には、彼はまだ、まさかテルが捕まっているとは知りません。そのうちに番卒が彼の前に罷り出で、実はかくかくの次第、帽子に対して欠礼をしたのはこの男であります、と言いながら指差す方を何気なくふと見ると、いたいた、例の一件このかた夢寐(むび)にも忘れぬテルのこん畜生が、ポソッと突っ立っている!

 誰も人のいない所だったら恐らくニタりと笑って両手を揉んだに違いない。しかしこの度は人中だ、しかも衆人注目の的たる代官様だから、そう露骨に有卦(うけ)に入(い)ってはいけない。嬉しい所をぐっと我慢して、彼は強いて気むずかを装いながら、手に持っていた鷹を小姓に渡す。この鷹を小姓に渡すという科(しぐさ)はシラーが脚本ではっきりと指定していますが、この一寸した動作がなかなか面白い。何でもない事のようですが、たとえば喧嘩と聞いた兄貴が腕まくりをしたり、これから何か爆弾宜言でも叩きつけようとする男が予めほくそ笑みながら一本煙草に火を付けたりするのと同じような寸法で、舞台の上では物凄い効果があります。『ようし来た、──まあゆるゆると取りかゝろう、仕事はこれからだ』といったよぅな感じを与える。舞台はシーンと静まり返る。

 それからまあ、そろそろと、身元調査という奴から始めるわけですが、身元といったところで、夢にまで見る男であって見れば、改めて聞かなければ解らない程の身元でもない。けれどもまあ、これからする事を考え考え、空とぼけた顔をして何気なく訊いて行く。訊きながらテルの頭から爪先までじろじろと眺めていると、まず差しづめテルが手に持っている弓銃(アルムプルスト)が注目を惹く。この弓銃という奴は、普通の弓とは一寸様子が違っていて、矢を番(つが)えて引金を引くと飛ぶようになっている特殊な弓です。テルが弓銃の名手だという事は有名ですから、さしづめ大した名案も無いとなれば、弓でも引かせて芸人扱いにでもして侮辱してやろうか………と考える。この瞬間には勿論まだまさかわが子供の頭の上にリンゴを載せてそれを射止めさせようなどという悪辣な名案は代官の念頭には無いので、その思いつきは、その次の瞬間に、テルの子供が横合から口を出すのを聞いた瞬間に初めてキラリと彼の脳裡に閃めくのです。

 『その方は、なんでも、弓銃の名手だというが、それに相違はないか?』と言って訊くと、止せば好いのにテルの子供が横合から出しゃばって、「そうだとも、百歩向うにあるリンゴの実だって中(あ)てるよ!』と言う。電光石火、代官の復讐計画はこの瞬間にピタッと決まった。その時まではテルの方ばかりに気を取られていて、連れている子供という奴には大して注意しなかったのです。

 『これは、おまえの子か?』
 『そうです』
 『この外にもまだ子供があるか?』
 『子供は二人あります』
 『どちらの方が本当に可愛い』
 『どちらも可愛うございます』
 『そうか、よし!』、さあ代官はもう面白くて面白くて仕様がない、『ではテル、わしの方から一つ相談がある。百歩の外にリンゴを射貫くという名人のお手並みを拝見するとしよう。では百歩の距離を距ててその児の頭にリンゴを載せ、それを見事に射落として見よ。最初の一矢を以て射落としたらばそれでよし、さなくばおまえの首を申し受けるがどうじゃ』

 大抵の事では愕かないテルも、これには流石に度肝を抜かれてしまった。本当にリンゴを狙えば我が子を殺すかも知れない、我が子の命を惜しんで故意に外せば妻子を後に残して自分が死なねばならぬ……只一つ助かる途は彼の弓から百歩の外なるリンゴの真中を貫いて彼方に通じているのだが、当り前の時ならいざ知らず、わが子に向って弓を引くとなれば自分の腕にもそう自信は持てぬ………

 顔面蒼白、全身汗だくとなってわなわなと顛へ始めたテルは、我にもあらす、つい不覚な気持が生じて、代官の前に跪いて命乞いをします。ただ一人、子供だけは呑気なもので、お父さんは絶対に上手だと思っているから、的に立つと言って聴かない。一人で駈けて行って、代官の指定した木の下に立って、自分の頭にリンゴをのせて待っている。

 それからテルが、絶対絶命と知って、愈々弓を手に取るまでには相当の暇がかゝります。ちょっと試みに照準して見るが、手が顛へて照準が定まらない。群衆が危ないから止せ止せと言って留めてしまう。

 この時に、代官ゲスラーの供としてやって来た侍たちの間にも、だいぶ色々な危機が動き始めます。代官のやり過ぎを多少非難し始める者もあり、諌めるものもあり、中には遂に反抗して彼と袂を分かつ者も生じます。群衆も段々と不穏の兆を見せる。

 飛んでもない事態に面すると、たとえどんなにしっかりした男でも、最後の肚を決めるまでには相当の時間が掛かる。けれども、見定める可き所を見定め、見極める可き所を見極め、もはや絶対に遁れ方なき鉄扉の前に跪き疲れ、叩く可き所を叩き、揺さぶる可き所を揺さぶってしまって、もはやどうしても動かない扉だという事が腑に落ちて来るというと、その後の決心は案外速いものです。テルは、遂に弓を本当に手に取って、本腰を据えて狙います。但しその前に、恐ろしい眼付きをして代官を睨めつけ、同時に、何と思ったか、第二の矢を抜いて、それを序でに腰に差してから仕事にかゝります。これは、若し射損じたり我児に当たったりした暁には、反す二の矢を以て代官を射殺そうという下心であったのです。

 矢は見事にリンゴを貫いた。『これはいかん』と思ってあたりの者が止めに出ようとするうちにテルは引金を引いてしまったのです。子供は実に呑気なもので、相変わらず遊んでいるような気持で、矢の刺さったリンゴを高く翳しながら駈け寄って来る。半ば夢心地でじっと矢の行衛を見送っていたテルは、この様を見て半信半疑、擬したままの手つきで弓銃をばたりと地に取り落とし、駈け寄って来た我が児を両の腕にひしと抱き締めたまゝその場にばたりと立ち崩れてしまいます。

 これが有名なスイス建国、ウィルヘルム・テル、リンゴの挿話なのですが、これで問題は終らない。代官はテルの一拳一動を見張っていたから、テルが二の矢を出して腰に挿んだ事を見逃がすわけがない。そこで、一応は大いに褒めてつかわして置いて、後でこの『矢のお替り』を準備した理由を問ひ糺し、それを口実にしてテルを獄に投じます。けれども連行する途中でテルは脱走し、代官の帰路を擁し、問題の『二の矢』を以て代官を射止め、これが謂はば合図の狼火となって国内の志士が決起するというのがウィリアム・テルの後年部の荒筋です。

 幾度も申し上げた如く、別に政治的な意味における志士とか何とかいったような気持の毫もないテルという男が、ただ仲間に対して義侠的な男であったがために代官に睨まれ、遂には衆人の面前において残虐無道の取扱いを受け、この調子で行くと今後一家にどんな危事が及ばぬとも限らぬ、妻子の身の上が案じられるというので、謂はばまあ追い詰められた野獣の如き絶対絶命の正当防禦的立場から放った復讐の一矢図らずも邦家を救ひ建国の礎石となるというのがこの実験の面白いところでありまして、作者シラーの自由思想もまたこの点を面白いと思ったればこそ、この題材を取り扱ったのだろうと思います。政治問題の解釈としてはあるいは多少理想的、あるいは少し個人主義的に過ぎる点もあるかも知れませんけれども、シラーとしては、時代が例の有名なフランス革命の直後乃至最中と言っても好い頃の事ですから、人間本来の自然な気持から出立しないで、政治思想から出立してやたらに群衆的行動に出たり、為政者を放逐したり、他人を殺したりする事に対する批判的な気持が動いたのは無理もない事だろうと思います。
   (ロッシーニの歌劇「ウイリアム・テル」の序曲のレコードに付けた解説)

ドイツ語と英語(関口存男)

2010年08月18日 | タ行
                関口 存男

 英語に比べると、ドイツ語の文法、造語法等は、遥かに規則正しいのである。だから、英語だけでは全然訳が分からすに丸呑みにしていた事が、ドイツ語に来るというと、文法の上から判然して来る場合が多い。

 英語で年寄のことを oldと言い、その比較級に elderという形がある。これは古い不規則な形である。と言って教えるのが普通らしいが、不規則と言って決して偶然という事ではない。英国人という奴は変な奴で、誰に一言の挨拶もなく、理由も根拠もない elderなんてものを拵えてしまった──というわけではない。それには文法上の理由がある。それがドイツ語では、ちゃんと規則に合しているのである。

 ドイツ語では、比較級を造る時に大体英語に似た法則があって、原級の上に -erを足せば比較級になり、-stを足せば最上級になる、ところが、ドイツ語には英語にない変音(へんいん)という現象があって、母音の上に二個の縦線を引いて、aを äに、oをöに、uを üにする。そして äは殆んどeに等しく発音する。この変音符を、比較級と最高級の上に打つのが通則である。そこで年寄の altという語が älterになるわけである。そこでまた英語のelderの訳がわかる。

 つまりドイツ語には、英語の方では既に消滅してしまった古来のゲルマニア語の文法を今に到るまで伝えて来ているのである。その文法の最も主要の部分は、ラテン語ギリシャ語、遡ってはサンスクリット即ち古代のインド語と共通なのである。もっと極端に言えば、ドイツ人は、釈迦が説法した時に用いたと同じ語法を、現代の文明国にあって、最も純粋に最も正しく伝えているのである。

 それに反して英語は、その単語の上からも既に、自己の語彙の過半部をフランス語に借りている。丁度中興の世に中国語を取り入れて大和言葉と中国語とを半分半分にしゃべっている日本そっくりである。フランス語という言葉は、ガリア人という野蛮人が、やはり、ドイツ語と同じ系統のラテン語を無茶苦茶に砕いてまねた語であるから、自身既に不純なものである。そいつをまねしたのだから堪らない。英語ほど語彙の不純な国語ほ恐らく世界中に比類がないであろう。

 別に英語を貶(けな)してドイツ語を褒めようというのではないが、抽象論に亘らないで語学的史的に根拠のある、しかも全体に関して話をすると大抵そういう風なことになるのである。ドイツ語が哲学的で、英語が実際的であるとか何とか言ったところで、それは要するに何とでも言えるる議論である。どんな国語でも哲学的たり得る。どんな国語でも実際的である、たゞその語彙、即ち単語と単語との間の開係となるというと、これは確かに史的に根拠のある事実の問題であって、英語が不純で、ドイツ語が純粋なことは誰が見ても疑う事の出来ない、数学的確かさを持った事実である。

 純粋なのが良くて不純なのがいけないとは言わない。或るいは不純な方が好い時すらある。これは一寸面白い問題である。両語を比較して研究する人は、必ずやそこに、一寸簡単には言い難い諸種の一長一短を発見される事であろうと思う。
 (独逸語研究社発行「新ドイツ語講座」第1集第1号[昭和2年]に所収の関口論文「独逸語と英語との比較」から。仮名遣い等、現代的に変えてあります)

絶版書誌抄録の目次

2010年08月15日 | サ行
 「絶版書誌抄録の目次」を現在までにアップしている分について発表します。矢印の右側の名前のフォルダーの中にあります。少しずつ増やして行くつもりです。
 2010年08月15日。牧野 紀之

     あ
・「赤ずきんちゃん(赤帽子)」グリム童話、川村義雄訳注、尚文堂→関口系、初級篇1
・アンデルセン作「皇帝の新衣装」(裸の王様)、荒木茂雄訳注、三修社→関口系、初級篇1
・アンデルセン作「びくともせぬ錫の兵隊」、荒木茂雄訳注、日光書院→関口系、初級篇1

     い
・石川伊織・柴田隆行・神山伸弘共同執筆「長谷川宏訳『精神現象学』は感動の新訳か」、『理想』2002年第668号→その他
・いばら姫(グリム童話)、小西長明訳注、三修社→関口系、初級篇1

     う
・ヴィンクラー氏の霊に捧ぐ→「その他」にある「りんでん」特別号
・ヴィンクラー著「真意と諧謔」の注解、関口存男著、三修社→関口系、中級篇1

     お
・大野勇二著「詳説中級ドイツ語」(三修社)→関口系、中級篇2
・大野勇二著「高級独文和訳教室」(日光書院)→関口系、中級篇2

     か
・神山伸弘・石川伊織・柴田隆行共同執筆「長谷川宏訳『精神現象学』は感動の新訳か」、『理想』2002年第668号→その他

     き
・許萬元(キョ・マンゲン)→ホ・マンウォン
・「金の巻たばこ入れ」小西長明訳注、三修社→関口系、初級篇2

     く
・クライスト著「拾い子」の注解、関口存男著、三修社→関口系、中級篇1
・グリム童話「赤ずきんちゃん(赤帽子)」川村義雄訳注、尚文堂→関口系、初級篇1
・グリム童話「いばら姫」小西長明訳注、三修社→関口系、初級篇1
・グリム童話「幸運なハンス」小西長明訳注、日光書院→関口系、初級篇1
・グリム童話「灰かぶり(シンデレラ)」小西長明訳注、日光書院→関口系、初級篇1

     け
・「原子論」末吉寛訳注、三修社→関口系、初級篇2
・「現代経営学と弁証法」ホ・マン・ウォン執筆、「立命館経営学」32巻3号に所収→許萬元小品集

     こ
・「幸運なハンス」グリム童話、小西長明訳注、日光書院→関口系、初級篇1
・「皇帝の新衣装」(裸の王様)アンデルセン童話、荒木茂雄訳注、三修社→関口系、初級篇1
・小島恒久「マルクス紀行」法律文化社→その他
・「湖畔」(シュトルム著)の注解、関口存男著、三修社→関口系、中級篇1
・「子どもが問題」近藤逸子訳注、関口存男校閲、三修社→関口系、初級篇2

     し
・柴田隆行・神山伸弘・石川伊織共同執筆「長谷川宏訳『精神現象学』は感動の新訳か」、『理想』2002年第668号→その他
・シュトルム「湖畔」の注解、関口存男著、三修社→関口系、中級篇1
・ショーペンパウエル「学識と学者」の注解、関口存男著、三修社→関口系、中級篇1
・「真意と諧謔」(ヴィンクラー著)の注解、関口存男著、三修社→関口系、中級篇1

     す
・末吉寛訳注「原子論」、三修社→関口系、初級篇2
・「スターリン哲学の問題点」ホ・マン・ウォン執筆、雑誌『現代と思想』1978年06月15日発行に所収→許萬元小品集

     は
・「灰かぶり(シンデレラ)」グリム童話、小西長明訳注、日光書院→関口系、初級篇1
・「長谷川宏訳『精神現象学』は感動の新訳か」、柴田隆行・神山伸弘・石川伊織共同執筆、『理想』2002年第668号→その他
「波多野精一」宮本武之助著、日本基督教出版部→その他

     ひ
・「びくともせぬ錫の兵隊」アンデルセン作、荒木茂雄訳注、日光書院→関口系、初級篇1
・ヒルティ「労働術」の注解、関口存男著、三修社→関口系、中級篇1
・「拾い子」(クライスト著)の注解、関口存男著、三修社→関口系、中級篇1

     へ
・ヘッベル「理髪師チッターライン」の注解、関口存男著、三修社→関口系、中級篇1
・「ヘーゲルにおける概念的把握の論理」、ホ・マン・ウォン執筆、雑誌『哲学』都立大学哲学研究室発行、第7号に所収→許萬元小品集
・「ヘーゲル哲学研究における問題点」、ホ・マン・ウォン執筆、雑誌『構造』1970年8月号に所収→許萬元小品集
・「ヘーゲルにおける体系構成の原理」ホ・マン・ウォン執筆、都立大学「人文学報」第106号に所収→許萬元小品集
・「弁証法」ホ・マン・ウォン執筆、芝田進午編集『マルクス主義研究入門』①に所収→許萬元小品集

     ほ
・ホ・マン・ウォン「ヘーゲルにおける概念的把握の論理」、雑誌『哲学』都立大学哲学研究室発行、第7号に所収→許萬元小品集
・ホ・マン・ウォン「ヘーゲル哲学研究における問題点」、雑誌『構造』1970年8月号に所収→許萬元小品集
・ホ・マン・ウォン「スターリン哲学の問題点」、雑誌『現代と思想』1978年06月15日発行に所収→許萬元小品集
・ホ・マン・ウォン「ヘーゲルにおける体系構成の原理」、都立大学「人文学報」第106号に所収→許萬元小品集
・ホ・マン・ウォン「現代経営学と弁証法」、「立命館経営学」32巻3号に所収→許萬元小品集
・ホ・マン・ウォン「弁証法」、芝田進午編集『マルクス主義研究入門』①に所収→許萬元小品集

     ま行
「マルクス紀行」小島恒久著、法律文化社→その他
宮本武之助「波多野精一」日本基督教出版部→その他

     ら行
・「ラジオ講座のテキスト」NHK。1957年度の1部、1958年度の1部→「関口ラジオ講座のテキスト」。
・「理髪師チッターライン」(ヘッベル著)の注解、関口存男著、三修社→関口系、中級篇1
・「りんでん」特別号(ウィンクラー先生の霊に捧ぐ)→「その他」(横浜国大独文研究室の雑誌で、レオポルト・ヴィンクラー氏の追悼文集です)

・「労働術」(ヒルティ著)の注解、関口存男著、三修社→関口系、中級篇1


お知らせ

2010年08月13日 | 読者へ
 「関口ドイツ文法」の再校のゲラが今日13日の正午前に届きました。初校を送ってから約4カ月後ということになります。約1500頁になってきました。これからは当分、この再校の仕事に集中します。

 いつ頃には終わるだろうとかいった予定や見通しは一切考えない事にします。前回は「3か月くらいでしょう」などと書いたので、最後の方は少し頑張ってしまいました。まあ、いつものペースを崩さないようにするつもりです。

 皆さんのご協力を得てここまで来られたことに感謝しています。健康に留意してきちんとした本に仕上げることが私の義務だと思っています。

 今後もよろしくお願いします。

2010年08月13日、牧野 紀之

客観主義

2010年08月11日 | カ行
 客観主義という言葉は、マルクス主義の歴史の中では、唯物論との対比で使われる場合と、主観主義との対比で使われる場合とに分かれます。

 前者についてはレーニンが特に使いました。参考に引いた3つの文でわかるでしょう。レーニンはマルクス自身が「客観主義」という「言葉」を使っていたかのように言っていますが、マルクス自身は「客観的」と言っているだけです。しかし、内容的に間違った理解はしていないと思います。

 もう1つの「主観主義」と対比して使う用語法は毛沢東のものです。ここで「主観主義」とは、事実を十分に調べないで自分の思いこみで考え行動する態度を指しています(主観主義は大きくは教条主義と経験主義に分けられます)。従って「客観主義」とは、事実を十分に調べて考え行動する態度となります。これをスローガンとして出したのがかの有名な「調査なくして発言権なし」です。

 しかし、ここでの本当の問題は、どの程度調べたら「十分な」調査かということです。実際には、共産党の中では、幹部が自分の考えを正当化し、異論を圧殺するための口実となりました。

  参考資料──「毛沢東の名言」(「囲炉裏端」所収)、「議論の認識論」(「マキペディア」所収)

  参考

 01、客観主義者は所与の歴史的過程の必然性を云々するが、唯物論者は所与の経済的社会構成体と、それによって生み出される敵対的関係とを精密に確認する。客観主義者は所与の一連の事実の必然性を論証しながら、つねに、これらの事実の弁護論者の見地に転落する恐れを持っているが、唯物論者は階級的矛盾を暴露すると共に、その事によって自分の見地を確定する。客観主義者は「克服されえない歴史的傾向」について語るが、唯物論者は所与の経済制度を「支配しつつ」、他の諸階級のこれこれの抵抗形態を作り出すところの階級について語る。

 このように、唯物論者は、一方では、客観主義者よりも徹底的であり、自己の客観主義を深くかつ完全に押し進める。唯物論者は単に過程の必然性を指摘するだけにとどまらないで、どんな経済的社会構成体がこの過程に内容を与えているか、どんな階級がこの必然性を規定しているかを明らかにする。例えば、この場合には、唯物論者は、「克服されえない歴史的傾向」の確認だけで満足しないで、この制度の内容を規定している一定の階級、生産者自身の行動を離れては活路の可能性の無い諸階級の存在を指摘するだろう。他方では、唯物論は党派性とでも言うべきものを自己の中に持っており、諸事件のどのような評価に当っても、直接かつ公然と特定の社会集団の見地に立っことを義務づける。(レーニン『ナロードニキ主義の……』、『全集』第1巻、431~2頁)

 02、客観主義と唯物論とのこのような相互関係は、とりわけ、マルクスがその著『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』の序文のなかで指摘している。マルクスはこの歴史的事件についてブルードンが本(『クーデダー』〉を書いたことを語り、そして彼の見地を自分の見地と対立させて、次のように批評している。

 「ブルードンの方は、そのクーデター〔十二月二日の〕を、それに先立つ歴史的発展の結果として説明しようとする。ところが、ブルードンにとっては、クーデターの歴史的構造が、いつのまにかクーデタ-の英雄の歴史的弁護に代わってしまう。こうしてブルードンは、われわれのいわゆる客観的歴史記述のおかす誤りに陥っている。、これに反して私は、或る平凡な奇怪な人物に英雄の役割をつとめうるようにさせる環境や事情を、どんなにしてフランスの階級闘争がつくりだしたか、ということを証明するのである。」(レーニン『ナロードニキ主義の……』、『全集』第1巻、458-9頁)

 03、それは、非合理的な生産が合理的な生産に取って代られるという事情のもとで発展しつつある階級的敵対の新しい諸形態に対する指摘を伴っていないからである。例えば、著者は、「経済的合理性」は「もっとも高い地代」を意味するという走り書き的な記述だけにとどまっているが、地代は農業のブルジョア的組織を前提していること、即ち、第一に、市場に対する農業の完全な依存を、第二に、資本主義的工業に固有なブルジョアジーとプロレタリアートという二つの階級が、農業においても形成されていることを前提していることを、付言するのを忘れている。

 ストルーヴュ氏における叙述の不十分さ、不完全性及び説明不足とは、彼が合理的農業について語りながらもその社会経済的組織を特徴づけなかったという結果をもたらし、また彼が、蒸気運輸はどのようにして非合理的な生産を合理的な生産に置きかえつつあるかを示しながらも、その際形成されつつある階級敵対の新しい形態を特徴づけなかったという結果をもたらした。(レーニン『ナロードニキ主義…‥』、『全集』第1巻、463-5頁)



客観(客体)、客観的、Objekt

2010年08月10日 | カ行
 01、日常生活の用語では、我々の外に現存し、知覚を通して外から我々にやってくるものが「客観的」と言われている。(略)しかしカントは、思考されたもの、一層詳しく言うならば普遍的で必然的なものを客観的と呼び、単に経験に与えられ感じられただけのものは主観的と呼んだ。(小論理学第41節への付録2)

 02、客観の3義。①単に主観的なもの、考えられたもの、夢想されたもの……との対比で「外に存在するもの」。②感覚に属する偶然的なもの、特殊なもの、主観的なものとの対比で「普遍的で必然的なもの」(カントの客観概念)。③単に思考されただけで事柄自身または本来の事柄から区別されているものとの対比で「そこに現存している本来的な姿が思考されたもの」。(小論理学第41節への付録2)

 感想・第1は「人間の意識の外にある」ということです。唯物論では普通この意味に理解しています。「対象的」とも言えますが、「対象的」と言いますと、「物質的」という意味から「意識の対象となったすべてのもの」という意味まで含みますから、後者の意味では他人の意識も「対象的」と言えます。もちろん「客観的」という語の意味にもこの程度の幅はあります。
 第2の意味は「普遍的で必然的」という意味で、これはカント哲学での「客観的」概念です。
 第3の意味はヘーゲル独特のもので、「事物の概念(普遍的で必然的なもの)が思考によって捉えられたもの」という意味です。つまり第2のカント的な意味を更に押し進めたものですが、その際「必然性」概念を根本的に変えました。

 03、客観という語の下で考えられていることは、抽象的存在、現存する物、現実的なもの一般ではなく、自己内で完全で具体的な自己者である。しかるにこの完全性とは「概念の全体性」のことである。(小論理学第193節への注釈)

 04、思考あるいは表象の外にある客観的な存在者の本質的な徴表は「感覚で捉えうること」である。(フォイエルバッハ「将来の哲学」第7節)
 05、客体という概念は元来、「他の自我」という概念以外の何物でもない。(フォイエルバッハ「将来の哲学」第33節)


規定

2010年08月09日 | カ行
 01、規定性、それは一層詳しく言うと特殊性と個別性である。(大論理学2、243頁)
 02、単純な「或るもの」(Etwas)の中にありながら、その本質から言って、この或るものの他の契機、即ち「或るものの身につけているもの」(An-ihm-Sein)と統一されている本来的な存在であるところの質、これが規定性から区別された厳密な意味での規定と呼ばれて好いものである。(大論理学2、245頁)
 03、規定性そのものは存在と質に属している。概念の規定性としては、それは特殊である。(大論理学2、245頁)

 04、あらゆる規定性は、もっぱら他の規定性に対する規定性である。(自然哲学第381節への付録)

 05、(形態規定と質料規定)ヘーゲルにおいてもマルクスにおいても、概念的把握(=体系的認識)の対象は「形態規定」なのである。では、「形態規定」とは一体何か? それは一言でいえば、有機的全体の体系的連関からのみ受け取る関係規定のことである。したがって「形態規定」は全体の体系的連関から切り離されてはまったく存在することはできない。あたかも身体から切断された手がもはや手として存立しえないのと同様である。これに対して、素材または質料規定は全体的連関から切り離されてもそれ自身として存立することのできる規定なのである。これをマルクスはしばしば「実体規定」とも呼んでいる。かくしてマルクスは次のように言う。

 「黒人は黒人である。彼はただ一定の諸関係の中で初めて奴隷となる。紡績機械は糸を紡ぐ機械である。それはただ、一定の諸関係の中で初めて資本となる。これらの関係から切り離されたならば~それは決して資本ではない」。

 黒人は黒人である。機械は機械である、という規定は質料規定にすぎないが、奴隷、資本という規定は特定の体系的連関からのみ受け取る形態規定(=関係規定)なのである。マルクスが「資本は物ではなく関係である」と言うのも、このためである。この両規定を正しく区別せずに混同するならば、人は決して物神性の秘密を理解しえないばかりでなく、体系的弁証法(=総体性の弁証法)の認識にも達しえないであろう。(許萬元「弁証法」、増補版『ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理』大月書店)

 参考文献──悟性的認識論と理性的認識論(「ヘーゲルの修業」に所収)


浜松市行革審はどこが間違っているのか

2010年08月08日 | ハ行
 行革審(浜松市行財政改革審議会)の公開審議会の傍聴者が減ってきているようです。事務局の「行革110番」への投稿も激減しています。全体として、市民の行革への熱意が薄らぎ、行革審への期待感がしぼんで来ていると感じます。私の考えでは、今まで好く持ったなとさえ思うくらいです。本当なら、とっくの昔にもっとしぼんでもおかしくなかったと思います。

 この際、私見を率直に述べます。

 行革審の根本的な間違いは何よりもその「行財政改革」という言葉に出ていると思います。この言葉のどこが間違っているのか。行政改革と財政改革を並べたことです。この2つの改革は並列するものではありません。財政改革は行政改革の中に、その最大の要素の1つとして含まれているのです。行政改革の目的の1つは、「自分で財政改革の出来るような行政組織を作り上げること」だということを理解すれば、これは分かるでしょう。それなのに、これを見抜けないで、両者を並列したこと、ここに行革審は初めから失敗が運命づけられていました。

 そのため、行革審の委員たちは「行政とは何か」「行政改革とは何か」という本質論をすることなく、初めから数字とのにらめっこに集中しました。そして、「ここに無駄がある」「ここを切り詰めろ」と提言しました。一部は実行され、他は議会で否決されました。いずれも財政問題でした。

 そして、行政改革については提言すらほとんどなく(議員の定数削減くらいかな)、「だんまり行政」「丸投げ行政」は全然変わっていません。

 多大の熱意にもかかわらず成果は乏しかったと言わざるをえません。世の中では「善意」や「熱意」だけが全てではないのです。善意を生かすには「知識」も必要なのです。

 第2の大間違いは、行政改革は市長(トップ)の最大の仕事であって、頭から他者に丸投げして好い事ではない、ということを理解しなかったことです。実際に行政改革をしている所を見れば、どこでもトップが自分で改革しています。名古屋市しかり、大阪府しかり。

 たしかに行政改革の1部だけなら他者に丸投げする場合もあります。かつて長野県知事をしていた田中康夫さんが特殊法人改革(だったか外郭団体だったかな)を数人の人に頼んだのがそれです。しかし、これは、田中さんが自分で出来る限りの改革をした上で、この特殊法人の改革だけは自分では出来ないと考えて、数人の専門家に頼んだのです。ですから、その改革は成功しました。

 ついでに指摘しておきますと、浜松行革審は人選にも問題がありました。ほとんどが浜松市に仕事ないし生活の拠点を置く人で、それを10人も選んだのは多すぎます。長野県の前述の特別委員(と言うのかな)は数人で、しかも全国的な人でした。ヤマト運輸の小倉昌男さん(故人)とか慶応大学の金子勝さんとかです。

 まあ、このような全国的な本当の識者は浜松には来てくれないでしょう。市長が頼んだとしても、「それくらいの事も自分で出来ないなら、市長なんか辞めろよ」と言われるのが関の山でしょう。

 本論に戻って、従って、浜松市で行政改革(行財政改革ではない)審議会を作るとするならば、市長が自分で2年間くらい頑張って改革してからでも遅くはなかったと思います。と言うより、2年間くらいは市長の改革を見るべきでした。そして、市長が精いっぱい改革努力をしていると分かった時、その時に初めて、特定のテーマに絞った行政改革審議会を作るべきでした。

 実際には、浜松市長には行政改革の意志も能力もありませんでした。そのため、今や行革審は市長にやる気のないことを隠すイチジクの葉に成り下がっています。

 第3の大きな間違いは、行政改革の半分は教育行政の改革だということがいまだに分かっていないことです。教育委員会部局(と言うのかな)は、一種の特殊法人であり、しかも大特殊法人だということが分からないのでしょうか。これ以上の説明の必要の人は行政改革とは無縁な人です。国の行政改革でも特殊法人の改革が大問題です。

 残りは以上の点よりは小さな事になりますから箇条書きにします。

・市長も行革審も情報公開No.1とやらを口にしていたと思いますが、それが出来ていません。情報公開の中心は今ではホームページですが、北脇時代とほとんど変わっていません。

・行革審事務局の在り方が職員主導で間違っています。その最大の証拠が行革審のホームページが市役所のホームページと同じ原理で作られていることです。

 後はもう言う気もありません。間違いが多すぎます。最後に、ではこれからどうしたら好いかについて提案します。

 「市長にやる気のないことが分かったので、解散する」と言って解散するのがベストシナリオでしょう。かつて第1次行革審の最後の公開審議会で、初めて出席した北脇市長(当時)のノラクラ答弁に怒った鈴木修会長(当時)が、「もういい」とさえぎり、絶縁宣言のような事を言いいましたが、それを又やることです。

 なお、この時の鈴木修氏はその会の終わりころ、傍聴者の市民に対して「乞食根性を捨てよう」と呼びかけたと報じられています。この発言は間違っていました。市民が正当な補助金を要求するのは「乞食根性」ではありません。自動車会社が車の積み出しのために港の整備を要求するのと同じです。

 市民に言うべき言葉は、「臣民根性を捨てよう。市長と教育長に『週間活動報告』を出させよう。議員の通信簿を付けよう。学校ホームページを採点しよう」でした。こういう言葉の出てこなかった点にも、鈴木会長が行政の本質と現状についていかに無知だったかが好く出ています。

 絶縁が出来ないなら、せめて公開審議会には必ず市長と教育長が出席するようにして、「行革110番」の投書にその場で答えさせることです。その回答が不十分だったら、突き返すことです。

 しかし、これも無理だろうなあ。そこで老人の「遺言」として行革審に言いたい事は、ソクラテスの「無知の知」とはどういう意味だったのか、勉強し直してほしい、ということです。


機械的(機械論、力学)

2010年08月07日 | カ行
 01、機械的な関係とは、その表面的な形式一般において「部分が互いに、又全体に対して自律的なこと」である。(小論理学第136節への注釈)

 02、力学は、広義のそれも狭義のそれも、量を知るだけであり、速度と質量と、せいぜい体積を扱うだけである。(マルエン全集第20巻517頁、「自然の弁証法」)
 03、力学的な見方というのは、しかし結局こういうものになる。それは、全ての変化を場所の移動から説明し、全ての質的区別を量的区別から説明し、質と量との関係は相互的であり、質が量に転化するのは量が質に転化するのと同じであり、ただ相互作用があるだけだということを見落とすのである。(マルエン全集第20巻517-8頁、「自然の弁証法」)
 04、ここではヘーゲルは「機械的」ということを「盲目的・無意識的に作用する」という事に等置している。(マルエン全集第20巻518頁、「自然の弁証法」)

 05、ヘーゲルは人間の実践を可能にする自然の法則を機械的と化学的とに区別した。レーニンはこの区別が重要であることを認めた。機械的と化学的とは言葉をかえれば、ある意味において、巨視的変化と微視的変化であり、特に現在の意味においては化学的といえば原子の結合についてである。巨視的と微視的とを形式的に区別するのは正しくないけれども、まことにこの区別は重要である。ここにおける機械的変化とは分子の構成の変化を受けないような変化をいい、化学的とは分子の構成が変化することであって、こうして異った質を有する新たな物質を得ることである。(武谷三男『続弁証法の諸問題』理論社、50~1頁)


官僚(官僚主義)

2010年08月06日 | カ行
 官僚をどう考えるか、これは社会の改革の根本問題の1つでしょう。

 人が或る程度以上大きな組織を作って活動すると、どうしてもその組織の指導者のほかに事務員が必要になります。一般には組織は指導者(広義のトップ)と大衆に二分して考えますが、正しくないと思います。事務員という特殊な人々の役割を見落としているからです。組織運営はトップの方針を事務員が実行するのです。しかるに、その仕事の性格から必然的に事務員は実務に通じるように9なりますから、方針そのものにも自分の考えを持つようになります。それがトップへの「参考意見」や「お伺い」程度に留まるうちは問題ないでしょうが、無能トップが事務員に方針作成を丸投げしたりするようになると官僚支配になります。

 この事務員というのは、事務員と言うと間違える可能性がありますが、国家レベルでは軍隊も事務員に入るのです。要するに「実務部隊」です。こう考えると、官僚主義の最たるものが軍隊が権力を握った国家であることが分かります。

 こういう行政権力の政治支配は自称革命組織でも置きます。ソ連共産党が変質したのは、スターリンが書記局(事務部局)を乗っ取り、そこを拠点にして政治局を征服して始まったのです。このように考えると、以下の「参考」に引用してあるレーニンの考えは不十分であることが分かります。

   参考

 01、近代社会において権力をその手に握っている特殊な層は、官僚である。この機関と、近代社会で支配的な階級であるブルジョアジーとの直接のきわめて密接な結びつきは、歴史の上からも(官僚は、封建領主に対する、一般に「旧貴族」層の代表者に対する、ブルジョアジーの最初の政治的武器であり、名門地主でなくラヅノチーネツや「町人」の、政治的支配の舞台への最初の進出であった)、また、この階級の形成および補充の条件そのもの(その門戸はブルジョア的な「人民出身者」だけに開放されているし、無数のきわめて強い糸でこのブルジョアジーと結びっいている)からも、はっきりと分かる。
(レーニン『ナロードニキ主義の経済学的内容……』、『邦訳全集』第1巻、452頁)

 02、官僚主義とは、メストニーチェストヴォ[地位争い]というロシア語に翻訳することが出来る。官僚主義とは、事業の利益より[自分の]出世を上に置くこと、好い地位に特別の注意を払って仕事を軽視すること、思想のための闘争の代わりに補充のために喧嘩をすることを意味する。(レーニン「邦訳全集」第8巻351頁、「一歩前進二歩後退」)

 03、官僚、すなわち大衆から遊離して大衆の上に立つ特権的な人間(レーニン「邦訳全集」第25巻527頁、「国家と革命」第6章第3節)

口蹄疫(こうていえき)

2010年08月05日 | カ行
口蹄疫は牛、豚、羊など蹄(ひづめ)が二つまたは四つに分かれた偶蹄類(ぐうているい)という仲間がかかりやすい病気です。大量のよだれが出て、口や蹄、乳房などに水ぶくれができます。とても広がりやすく、最もこわい家畜の伝染病の一つと言われています。

 病気になった家畜の体の中で、ウイルスは増えます。ほかの家畜にうつさないよう、病気が出た地域の家畜はみな殺処分されました。近くの家畜に病気を広げないよう、ワクチンを打たれました。

 ワクチンを打つとウイルスの量は減り、うつす心配は少なくなります。ただ、ウイルスはゼロにならないので、検査しても病気なのか、ワクチンを打ったからウイルスがいるのか、分からなくなってしまいます。このため、ワクチンを打った家畜も殺処分しなくてはなりませんでした。

 また、病気がほかの地域に広がらないよう、病気の家畜がいた農場から半径10㌔の中は牛や豚を動かせませんでした。半径10~20㌔の間では、その外に牛や豚を運び出せませんでした。7月27日にようやく、病気が広がる心配がなくなったため、これらの制限はすべて解除されました。

 8月末には、ウイルスがいるかもしれない家畜の糞や尿をすべて消毒し肥料にする作業が終わる予定です。これからも病気がないか検査を続け、日本の肉を自由に海外に輸出できるよう、来年2月の国際会議で、世界に「口蹄疫がない国」と認めて欲しいと話し合う予定です。

 ただ、これからも日本のどこで、口蹄疫が出てもおかしくありません。今回は日本で10年ぶりの発生でした。前回は宮崎県と北海道で広がりました。

 世界ではこの2年間でも、韓国、中国、台湾、ロシアなど60カ国・地域以上で口蹄疫が出ています。どうやって、日本に病気が入ったのか、分かりませんが、宮崎では家畜を運んだ人や車から広がったのではないかと考えられています。風やハエ、ネズミが広げたのかもしれません。

 病気になった家畜は埋められるので、人間がその肉を食べることはありません。もし食べても、うつりません。ただ、病気が出た農場に行ってウイルスが服や靴につけば、冬は12週間、夏でも9週間生き延びると言われています。人ののどにウイルスがついても2週間は生きるそうで
す。

 宮崎でも、家畜に接した獣医師さんたちは、ウイルスが体につかないような防護服を着ていました。車のタイヤに消毒液を吹き付けたり、農場の周りに強いアルカリ性の消石灰をまいたりして病気が広がらないようにしました。

 オーストラリアやニュージーランドの空港では、国に入る時に「最近、農場に行ったり、家畜にさわったりしていませんか」と聞いて厳しくチェックし、靴の泥も持ち込ませないようにしています。

 日本にもたくさん外国人が来ます。たくさんの日本人も海外に行っています。病気が出ている国では、むやみに農場に行って、ウイルスを体や荷物につけて、日本に持ち込まないようにしましょう。みんなで注意することが大切です。
    (朝日、2010年08月04日。杉本崇)


感情

2010年08月04日 | カ行
 01、生体のこの自己内分裂が概念の一様な普遍性の中へ、感受性の中へと取り込まれた時、それが感情である。(大論理学2、424頁)
 02、感情としての精神は非対象的な[意識の対象とされていない]内容そのものであって、意識の最低の段階であり、魂が動物と共通する形式の中にある意識である。(グロックナー版全集第8巻18頁)
 03、感情そのものは、一般的に言うと、人間が動物と共有している感性的なものの形式である。(小論理学第19節への付録2)

 04、直観と感情とは、反省されていない意識であるという点で、同一である。(歴史における理性143頁)
 05、たしかに全ての精神的なもの、意識の全ての内容、思考の全ての産物と対象は、特に宗教と習俗とは、感情というあり方でも人間の中になければならないし、さしあたってはそうである。しかし、感情というのは、これらの内容が人間にやって来る源泉ではなく、その内容が人間の中で取る様式、しかも最悪の形式、動物と共有している形式にすぎない。(歴史における理性44頁)


観察

2010年08月03日 | カ行
 01、特に日本の田辺一派の哲学者たちの甚だしい誤謬は、不確定が測定における主観の作用こよっておこるというような何の根拠もない主張をなすことである。観測者と対象との間に相互作用があり、測定行為によって対象が攪乱されることは古典力学も量子力学も変わりはない。古典力学においてはこれは力学的相互作用であって、攪乱が計算され、予測されうるものであるのに反して、量子力学における観測者と対象の相互作用は、両者の有する運動学的空間の相互浸透であって、予測されない、そして制御されない相互作用がおこなわれることである。

 ただし重要なことは、その個々の状況に応じて、この不確定の範囲は理論的に予測することができるのである。このような相互作用はまさに部分と全体の弁証法的関係に基づくものであって、ワイルの「群論と量子力学」や、ノイマンの「量子力学の数学的基礎」にしめしてあるように、2つの系を合成して1つの合成系がつくられる時の合成則にその基礎をもつものであり、全然合理的なものであって、哲学者が言うように非合理的なものではないのである。

 もしこの不確定が主観の作用であるならば、いかなる測定にも主観の作用が同様に働くために、不確定の度合いは全ての測定にたいして同一であるはずだのに、実際はそうではなく、不確定が全く起こらないような測定もある。即ち、この基礎は全く客観的な構造にあるのだ。(武谷三男「弁証法の諸問題」上、理論社55-6頁)

 02、量子力学の測定問題において、観測者と対象の間に切れ目を入れることが必要となる。この点において色々の人の間に様々の異論が起こる。これに対して私は一つの立場を発表した。すなわち、この切れ目は主観的なものではなく、測定装置において、微視的なものが巨視的なものに移るところに置かれ、波束のレダクションということは、そこにおいてあらわれるものであり、主観的なものではないこと。すなわちすべて、ことは測定装置における問題であって、それまでいわれていたように、人間の脳髄まで含めた「我」の問題ではないことを明らかにした。(武谷三男『弁証法の諸問題』理論社、58~9頁)

 03、観察一自然科学はまず自然に起っているさまざまな現象を記述することが必要である。これを経験的事実とよんでいる。この記述には質的な記述と量的な記述とがある。この両者のいずれが先にあるかということは一がいにはいえない。量的な観察は特に観測及び測定といわれる。(武谷三男『続弁証法の諸問題』理論社、131頁)


還元(現象学的還元)

2010年08月02日 | カ行
 01、超越論的立場に身を置くこと。自然的な見方に含まれている臆見(ドクサ)や暗黙の確信の条件を吟味するために、いったんこの確信を取り払ってみる作業。(竹田青嗣著「現象学入門」NHKブックス210頁、228頁)

 02、上述したような、自然的見方から現象学的見方へと移るための操作を総称して、「現象学的還元」という。

 すでに明らかなように、現象学的還元ほ、大きくみて二つの段階を含んでいるといえよう。一つは、超越的存在を定立している自然的見方から、純粋に内在的な意識へ還元することであって、これをフッサールは「先験的還元」と呼んでいる。いま一つは、個別的な事実から、普遍的な本質を洞察するための手続きであって、これを「形相的還元」と呼んでいる。
 フッサールはその著『イデーン』Ⅰにおいては、まず形相的還元について述べ、次に先験的還元のことを述べているが、わたしの見るところでは、真に還元の名に値するのは、先験的還元であると思われる。そして形相的還元のほうは、先験的に還元された主性を、記述し、分析するさいの方法というべきものであると思われる。というのは、先験的還元によって自然的世界から先験的主観性の領域に移ることは、まったく新しい経験が与えられることなのであるが、いわゆる本質(形相)を記述するのは、すでに形式論理学や数学において適用されている方法なのである。

 もちろん、先験的還元も広い意味では方法と呼んでもよいであろうが(フッサール自身もしばしは現象学的方法と呼んでいる)、それは単に与えられた経験の領域の記述と分析に適用される方法といったものでほなく、むしろ新しい経験そのものを与えるための見方および態度の変更を意味するのである。フッサールは晩年の著作においては、先験的還元について、しばしば論及しているが、「形相的記述の方法」といういい方はあっても、形相的還元ということばほほとんど見あたらないのも、この間の事情を物語っているものと思われる。
  (細谷編「世界の名著」[ブレンターノ・フッサール]中央公論社28頁)



春華堂

2010年08月01日 | サ行
 浜松市西部の工業団地。自動車部品工場が立ち並ぷ一角に、週末ともなれば観光バスが次々と押し寄せる。

 お目当ては、あの「うなぎパイ」の生産ラインを見学できる春華堂の工場「うなぎパイファクトリー」。2005年のオープン以来、旅行会社のツアーにも組み込まれるぼどの人気を誇り、全国各地から年間50万人以上が訪れる。

 創業者の山崎芳蔵は1865(慶応元)年、東海道・岡部宿(現藤枝市)で茶店を営む一族に生まれた。江戸時代には、参勤交代の大名行列で店は大にぎわいだったという。

 茶店を継いだ芳蔵は1887年、当時まだ珍しかった甘納豆を独自に創作し、菓子職人として「春華堂」の看板を掲げた。2年後の東海道線全通に合わせ、浜松駅近くに移転。2代目の幸一は、卵型のもなか「知也保(ちやぼ)」を考案し、和菓子屋としての基礎を築いた。

 春華堂の名を一躍全国区に押し上げたのが、ウナギのエキスを生地に練り込んだうなぎパイ。甘納豆やもなかに代わる新しい看板商品を考えあぐねていた幸一が、「ウナギをテーマにした、浜松らしいお菓子を作ろう」と社内コンペで呼びかけたのがきっかけだった。しかし、同社にとって洋菓子作りは初めての挑戦とあって、かば焼き風にパイを串に刺して焼くなどの失敗を重ねた。ようやく完成したのは、1961年のことだ。

 「夜のお菓子」のキャッチフレーズは「一家だんらんのひとときに楽しんでほしい」という願いを込めたものだが、精力増強と結びつける誤解も目立った。そこで、これを逆手にとり、当初は青色だったパッケージを、当時の栄養ドリンクに用いられていた赤、黒、黄色に変えたら、売り上げが一気にアップ。東海道新幹線開業や東名高速道路開通も追い風となり、発売翌年に60万枚だった生産は4年後に700万枚を記録した。

 順風満帆だった業績が危機に直面したのが、創業から120年を超えた2008年ごろ。総売り上げの9割を占めるうなぎパイには国産の上質なバターが欠かせないが、バター不足が全国で深刻化した。山崎貴裕副社長(36)は「会社始まって以来の危機。原材料が高騰したことはあったが、手に入らなくなったことは一度もなかった」と振り返る。

 山崎副社長は自ら全国の酪農団体を回って頭を下げ、2ヵ月で50トン近くのバターをかき集めた。ようやく確保した国産バターはすべてうなぎパイに回し、他のお菓子は海外から輸入したバターを使ってしのいだ。

 浜松市中区にある本社の事務室には、「温故創新」と書かれた額が飾ってある。山崎副社長は「うなぎパイを超える新しいものを作らなくては、というプレッシャーはない。l0年、20年、100年と続いてきた伝統を守っていくのが、ぼくらの仕事」と話す。

 (朝日、2010年07月30日。滝沢隆史)