- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

王子権現について

2019年08月05日 | 断想および雑談
「郷土研究」創刊号(大正2年3月15日発行


高木敏雄「郷土研究の本領」を読むつもりでなにげに次の川村杳樹(はるき・・・柳田がつかったペンネームの一つ。ほかに久米長目といった筆名も使用)「巫女考」の論攷を見ていて思い当たるところが2点ほどあった。一つは尾道渋谷家文書(広島県史・古代中世資料編Ⅳ所収)に「神子(みこ)」の語が・・・。石見守は石井石見守だろか、それとも寺岡石見守(この場合は伊勢宮さんの神主)?まあ文書が沼隈郡神村の土地台帳なので、石井石見守だろ。そうだったとすれば、近世の地誌類の中では神村石井家の祖でどこかの城主ということになっているが、明らかに、この人物は沼隈郡神村の荘鎮守八幡宮神主だ。神子は職掌の「みこ」を言い、三郎衛門と五郎衛門(男性)という人物だったことが判る。 次に「巫女考」の中の「今日の王子権現若王子はほとんど熊野の信仰であるが、古くは八幡にも王子の神があった」に注目。沼隈郡内には王子神社とか王太子宮(備後国一宮:吉備津神社境内にも摂社としてあり)という呼称のお宮さんがかなり目立つ。大阪辺りの旧熊野街道(熊野古道)沿いには一里塚のような感じで「王子」というものが沢山あった。この語のルーツを考えるヒントが川村の論考を通じて得られたような気がする。そういえば風俗問状答書からのネタらしいが「備後福山領では毎年6月と11月の13日に神酒燈明を供え赤飯と膾とで御子神の祭りする」とも書いていた。ここにも柳田国男執筆の福山情報




熊野信仰においては少年あるいは少女の姿であらわされる神としての若王子/若一王子が(、地方社会において)熊野権現を勧請する際に、多くの場合この神が祀られるということはあったようだが、川村杳樹こと柳田国男の言う「今日の王子権現若王子はほとんど熊野の信仰であるが、古くは八幡にも王子の神(若宮八幡ー筆者注)があった」については、美味しそうな話題だったが、やはりわたしの姿勢としてはすぐに飛びつかず、今後とも確認作業を進めていくことになろう。


旧沼隈郡東村・大谷の「王子権現」。『沼隈郡誌』には大己貴(おおなむち)神社。近世絵図には王子権現(平の王子権現)。同様の事例は高須町阿草の王子社で祭神は大己貴(おおなむち)神、ちなみに高須町大山田の大己貴社の祭神は大己貴神&スクナヒコ神で、通称「瘡/かさ神」。



 なお沼隈郡今津村には町上荒神の東隣に伝承上の「若宮」(これとの関係は不明だが地名「若宮畠」)、字「王子丸」に王子社(現在高諸神社境内摂社)があった。


 

『沼隈郡誌』には山手村・郷分村・瀬戸村・金江村(皇子神社)、浦崎村(無記載だが、高尾に王太子神社、検地帳上は字「わうたいし」)、山南村(皇子神社)、柳津村(無記載だが実在)に王子神社とある。現段階では『元禄13年備後国検地帳』は一部をのぞき、その他は未チェックだが、『備後郡村誌』(沼隈郡分)には藁江の王太子(皇子神社は未記載)、田島及び下山田の王子大明神という形で記載。尾道市向島(旧御調郡)には王太子社あり。


わたしは柳田国男の郷土研究をチェックするためにその復刻版の創刊号を読みだしたところだが、東京高等師範などで教鞭を執ったドイツ語教師高木が執筆した「郷土研究の本領」よりも川村の「巫女考」の方が興味深かった。高木は人類学の父フレーザーの名前をあげていた。こちらは後刻、目を通すことにしよう。まあ、たいしたことは書いていなかったように思う。

 

投稿原稿は潤色をさけ、民話・伝承はその地方の方言でと注文をつけている。
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融道玄(1872-1918)

2019年08月05日 | 断想および雑談

融道玄


April 05 [Fri], 2019, 13:19

参考メモ 融道玄に関しては融道男『祖父 融道玄の生涯』、2003.融ら明治期における古義真言僧侶としての宗教史的な評価は阿部貴子「真言僧侶たちの近代ー明治末期の『新仏教』と『六大新報』から」、現代密教23号、平成24,303-325頁。 思想的には融道玄は海外宗教学の紹介に終わった密教僧侶だが、その底流にはscience(唯物)-art(唯心)を論理化する途中で融自身行き詰ったからだと思う。あえて誤解を恐れずに言えばそれをうまく彼一流のレトリックでインテリたちを納得させてしまったのが物/心、水/油、主/客とかといった価値軸上で相反する両極に位置付けられるようなものを統合することを試みた西田幾多郎『善の研究』ではなかったか。 関連紹介記事(執筆中) 融道玄の東京帝大哲学専攻の先輩に心霊研究で東京帝大を追放された福来友吉(1869-1952)がいた。同年代(融は1872年、姉崎は73年生まれ)の宗教学者姉崎 正治とは第三高等中学-東京帝大哲学科と同じコースを歩む。姉崎(高島平三郎と懇意)とよりも朝永三十郎(ノーベル賞受賞の物理学者朝永振一郎の親父)とは昵懇だったようだ。 融道玄は哲学者(東京帝大文科に籍を置いた典型的な明治-大正期の御用学者)井上哲次郎門下(だが、明治30年に東京帝大に迎えられる融より5歳ほど年上の高楠順次郎に原始仏教研究面で薫陶をうけていたようだが、高楠自身からは美術史家のような職に就いたらどうかと言われ、誇り高き融は大いに憤慨)。梵語に造詣の深かった高楠(明治34年開講の梵語学講座では印度古文献=原典主義を推進)から見ればせいぜい英語・ドイツ語あたりでインドの原始仏教を研究していたに過ぎない融道玄などやはりどうしようもなくまどろっこしくとるにたらいない存在に感じられたのではあるまいか。 融は井上円了の哲学館(東洋大学)を媒介として、境野哲、渡辺海旭、加藤玄智、田中治六、安藤弘、高嶋米峰、杉村縦横とつながっていた。彼は高野山に妻帯肉食を持ち込んだ紛れもない”破戒僧”だったが同時に当時の停滞した日本仏教に対する改革運動の有力な推進者の一人でもあった。 『祖父 融道玄の生涯』というのを公立図書館に寄贈したが、送り主からは書評を求められている。わたしは仏教史の専門家ではないのでその辺は丁重にお断りし、代わりに当該書籍を福山中央図書館に寄贈しておいた。


 

関連記事

「近代日本における知識人宗教運動の言説空間 ―『新佛教』の思想史・文化史的研究」 The Discursive Space of an Intellectual Religious Movement in Modern Japan : a Study of the "Shin Bukkyo" Journal from the viewpoint of the History of Culture and Thought 科学研究費補助金基盤研究B 研究課題番号 20320016 2008 年度~2011 年度 代表:吉永進一(舞鶴工業高等専門学校)
 

◎融 道玄(とおる どうげん) 生没年 未詳 (1)略歴 広島県福山の生まれ。真言宗僧侶。高野山大学教授。生年・家族構成共に不詳であるが、高島平三郎と同郷であり、かつ融の実家は高島の家の「すぐ向ふ側」にあったという。融の実母が高島家に世話になっていたとしているので、父を早くに亡くしている可能性がある(「他人の疝気」4-11)。 1883(明治16)年から84(明治17)年にかけて備中の寺にいたとあるが、詳細は不明。しかし融の師僧である葦原寂照(1833~1913)が岡山県出身であり、岡山では東雲院や性徳院にあったという(『密教大辞典』)。 1888(明治21)年に第三高等中学校に入学する。当初は宗像逸郎の家に寄宿していたが、その後中沼清蔵の家に移ったという。中沼家には有馬祐政も寄宿していたと回顧している(「山のたより」13-3)。 1894(明治27)年に東京の誠之舎という旧福山藩人の寄宿舎に入り、1895(明治28)年に東京帝国大学文科哲学科に入学。1896(明治29)年頃には本郷台町の北辰館に下宿しており、北辰館では三島簸川と同室であった。またこの頃から釈尾旭邦と交友があったという(「一日一信」8-9)。1898(明治31)年に同大学を卒業。同窓生に朝永三十郎、近角常観、吉田静致らがおり、朝永とは手紙のやり取りを続けていたようである(「一日一信」8-9)。同年、 同大学院に進み「密教ノ教理及其発達」という研究題目で1903(明治36)年まで在籍。 仏教清徒同志会の設立に際して創設者の一人であるが、当時の活動については明らかではない。『新佛教』上には宗教・宗教学に関する論説を多く翻訳しており、この時期にケアードの『宗教進化論』を訳出している。 1909(明治42)年末に、融が高野山大学の教授兼教務主任として現地に赴くことになったことを受けて送別会が行われているが、既に1905(明治38)年頃に高野山の大学林に関係しているような文章がある(「南山の一月」6-2)。なお送別会には同志会の中心的な人物の多くが参加しており、融の同志会における交友関係が窺われる。 送別会の段階で融には既に妻子があったようであるが、1912(明治45)年頃に高野山中の準別格本山自性院にて一家五人で暮らしていると述べている(「山のたより」13-3)。 1913(大正2)年2 月に融の師僧である葦原寂照が死去。葦原が京都高尾山神護寺の住職であったため、融は神護寺の住職となるべく京都に向かったという(「人、事、物」14-4)。 後、同年7 月には藤井瑞枝(=妙頑禅尼)を高野山で案内しており、その際に藤井は融のことを高野山新派の驍将であるとしている(妙頑禅尼「高野山奥の院と融先生」14-9)。なお、この藤井の紀行記において、東寺の総黌(現、種智院大学)に高野山大学を合併するという動きがあることが述べられているが、おそらく藤井の訪高野山後に融はこの問題に関連して文部省に陳情している(「人、事、物」14-8)。 その後の消息は不明であるが、1917 年の『現代仏教家人名辞典』に神護寺の住職を勤めていること、権小僧都であることが述べられており、かつ高野山大学教授として高名であるとされている。 (2)年譜 未詳 広島県、福山に生まれる。生年・家族構成共に不詳。 1883-4 この頃備中の寺(未詳)にいたという。 1888 第三高等中学校に入学。在学時にはまず宗像逸郎の家に寄宿し、その後中沼清蔵の家に移ったという。 1894 「東京丸山の阿部伯爵の前にある誠之舎と云ふ旧福山藩人の寄宿舎に入った」という。 1895 東京帝国大学文科哲学科入学。 1896 この頃本郷台町の北辰館に下宿し、三島簸川と同室であったという。 1898 東京帝国大学文科哲学科卒業、東京帝国大学大学院進学。研究テーマ「密教ノ教理及其発達」。 1903 東京帝国大学大学院に在学していた最終年度(翌年は名簿に名前がない)。 1905 この頃、高野山に滞在して学林に関係していたようであり、日露戦争戦勝祝賀の式を高野山小田原天神で挙げたという(「南山の一月」6-2)。 1909 高野山大学に教授兼教務主任として招かれ、現地に赴くことになる。12 月9 日に神田で送別会が行われ、同志会の主要な人物が集まった(「融道玄君送別会の記」11-1)。 1912 この頃、高野山中にある準別格本山自性院にて一家五人で暮らしているとのこと(「山のたより」13-3)。 1913 2 月19 日に師僧である葦原寂照が死去。これを受けて葦原が住職であった京都高尾山神護寺の住職になるべく高野山から京都に向かう(「人、事、物」14-4)。 7 月に藤井瑞枝(=妙頑禅尼)が高野山を訪れ、融はこれを案内(「私信の公開」14-8、妙頑禅尼「高野山奥の院と融先生」14-9)。 その後(7 月から8 月にかけての頃)上京して文部省に高野山大学問題について陳情(「人、事、物」14-8)。 その後の消息は未詳。 (3)著作 訳書としてエドワード・ケヤード著、融道玄訳『宗教進化論』(帝国百科全書、第128 編)

博文館、1905 がある(原本、Caird, Edward The Evolution of Religion, 1894)がある。

また河南休男、越山頼治との共著で『註解英文和訳辞典』東華堂、1909 年を出している。(4)『新佛教』との関係 仏教清徒同志会の創設者の一人。融道玄、(融)皈一/帰一、(融)希山、(融)友世といった筆名で『新佛教』には70 本近くの寄稿をなしているが、やはり高野山に移った1910 年以降は寄稿が少なくなり廃刊号にも寄稿がない。 寄稿の多くは宗教学に関する論説の翻訳であり、宗教学に強い関心を持っていたことが窺われる。その集大成的なものとして11-1 に融道玄編述『宗教学』という全79 頁の冊子が附録として付けられている。これは融が編述したものであるが、冒頭でチーレ『宗教学綱要』(Tiele, Cornelis Petrus Elements of the science of religion, 2 vols. 1897-1899)、ジャストロウ『宗教研究』(Jastrow, Morris The study of religion, 1901)、プライデレル『宗教哲学』(Pfleiderer, Otto The Philosophy of Religion, 4 vols. 1886-1888)、ケヤード『宗教進化論』(前掲)、マックス・ミュラーの著作などを参考にしたとあり、当時の宗教学受容の一端を見て取る事ができるだろう。 融自身の著述としては、例えば2-5 の六綱領の解説では「迷信の勦絶」を担当しており、「平安時代の日本人は、加持や祈祷をよろこんでをッた。吾々にはこんなことでは満足ができぬ」としている。融が真言宗の僧侶であり、かつ後に高野山に招かれるように宗門との関係を保ち続けていくことを考え合わせると興味深い。 その一方で、「原始仏教と新仏教」(6-7)では『新佛教』で論じられている汎神論を「頗る自由なる進化論的汎神観」であると指摘した上で、しかしそれに基づいた「健全なる信仰」が「果して仏教なるや否やに疑なき能はず」として根本的な疑義を呈しており、同人の間での見解の違いが明らかになっている。 (5)関連事項藤井瑞枝は高野山の紀行文において、融の見かけが高野山の阿闍梨風であるとしながら「これがどうして野山で公然たる肉食妻帯を主張された青年文学士であるなどと思へよう!?」としており(14-9)、かつてそのような主張を公にしたことが窺われる。 また関樸堂は融と田中治六の名を挙げて両者共に学究肌で真面目であると評している(「人物漫評(一)」7-11)。 (6)参考文献 『シリーズ日本の宗教学(4)宗教学の形成過程』クレス出版、2006 年(訳書の『宗教進化論』 所収) 東京帝国大学編『東京帝国大学卒業生氏名録』東京帝国大学、1926 年 『現代仏教家人名辞典』現代佛教家人名辭典刊行會、1917 写真が「新仏教編集員」写真(『新佛教』5-1)内にある。(星野靖二)  以上は全文引用(261-263頁) 同年代(融は1872年、姉崎は73年生まれ)の宗教学者姉崎 正治とは第三高等中学-東京帝大哲学科と同じコースを歩む。 融道玄は井上哲次郎門下(だが、明治30年に東京帝大に迎えられる高楠順次郎の薫陶をうけていたのだろか)。 融は井上円了の哲学館(東洋大学)を媒介として、境野哲、渡辺海旭、加藤玄智、田中治六、安藤弘、高嶋米峰、杉村縦横とつながっていた。後年高楠や高島平三郎は東洋大学の学長を務めた。阿部貴子「真言僧侶たちの近代ー明治末期の『新仏教』と『六大新報』から、現代密教23号、明治維新前後の廃仏毀釈により衰弱していた仏教者の意識を鼓舞し、仏教の近代化に邁進したものとして、大谷派の境野黄洋、本願寺派の高島米峰、浄土宗の渡辺海旭らによって明治三十二年に結成された「新仏教徒同志会」がある。その活動は吉田久一や柏原祐泉といった近代仏教研究者により論究され、綱要である「健全なる信仰・社会改善・自由討究・迷信勦断・旧来的制度儀式否定・政治権力からの独立」の六カ条は、今日でも明治仏教の特徴として語られている。 なかでも同会が特に強く主張したのは、非科学的迷信と利己的欲望に基づく「祈祷」の否定であったが、その「祈祷儀礼の排斥」運動が仏教界全体の主流だったわけではない。少なくとも古義・新義の真言僧侶が、都会で開催される演説会の議論に大きな影響を受けることはなかったと言ってよい。明治期の真言宗は、明治五年の一宗一管長制、明治十一年の分離独立(西部大教院・真言宗・新義派)、明治十二年の再統合、明治三十三年の分離独立(御室・高野・醍醐・大覚寺・智山・豊山)、明治四十年の四宗独立(東寺・山階・小野、泉涌寺)に直面し、これに拘わる内部論争で紛糾していたという事情が大きいだろう ) 1 ( 。しかし、一部の若き真言僧侶―毛利柴庵、融道玄、古川流泉、和田性海、小林雨峰―が、宗団権力と離れたところで、「新仏教徒同志会」として活動していたことは注目すべきである。社会主義者で後に僧籍を剥奪された毛利柴庵以外に、学界で彼らの名前が挙がることは少ないが、いずれも明治三十三年七月に発刊された同会の会報誌『新仏教』において大きな役割を担っていた。 そのうち、融道玄、古川流泉、和田性海は、古義真言宗系の会報誌『六大新報』を創刊して学者や布教師として活動し、豊山派の小林雨峰は『加持世界』を創刊する。」 「○融道玄(皈一、帰一、希山) 融道玄は、これまで近代仏教研究者にほとんど注目されてこなかった。生没不詳であるが、明治三十八年にエドワード・ケヤード『宗教進化論』の翻訳を出版し、明治四十四年より高野山大学の教授となった人物である。「新仏教徒同志会」の評議員として活躍し、『新仏教』創刊号(明治三十三年七月)の「所謂根本義」では、輪廻転生や厭世観を排して中道に徹するべきであると示す ) 4 ( 。また、翌年の「迷信の勦絶」では、「宗教の心髄は、理想を渇仰し発現するにありといってよい。…平安時代の日本人は加持や祈祷をよろこんでをッた、当時の性情には、これでもよかッたのである。吾々にはこんなことでは満足ができぬ。時代の精神といふものがあッて、時代に相応する理想を立てさしてをる…彼等を導いて吾々と同様に時代相応の理想を立てさせようといふのが、迷信勦絶の真意である。」と、迷信祈祷の排斥という新仏教運動の綱要を説明している。 ) 5 ( しかし『新仏教』誌上では、最初期にこそ自らの主義を唱えるものの、その後は西洋の宗教哲学や神秘思想の紹介に徹しており、後述するように、一貫してこの姿勢を保持したわけではなかった。」 tek_tekメモ:「西洋の宗教哲学や神秘思想の紹介」という部分だが、高野山には元東大助教授福来友吉が[物理的検証といった方法論を放棄し、禅の研究など、オカルト的精神研究を行なった。1921年(大正10年)、真言宗立宣真高等女学校長、1926年(大正15年)から1940年(昭和15年)まで高野山大学教授。]


融道男(道玄の長男で医師の紀一の子:精神科医で国立大学医学部名誉教授) 著 『祖父 融道玄の生涯』 勁草書房 平成25年。 この本は書店購入は出来ず、創造印刷 白井担当、TEL 042-485-4466(代)より購入可能だ(¥3000)・・・・実際に読んでみたが、道玄の著書(英語辞書や翻訳書など)や主な投稿雑誌の抄録など掲載するなど貴重な内容を含んでいるが史料としては”融道玄日記”など翻刻されていないなどやや残念な部分が目立つ。本書が融道玄研究の出発点となることを願う。 わたし? ①融と高島平三郎との関係、②融の父祖;福山藩士小田(おだ)家のルーツが芦品郡有地・字迫出身の迫氏で、本姓は小田(『備陽6郡誌』外篇・芦田郡之2・小田家系、『備後叢書・1』、536-39頁)と言う点、そして③融が新仏教運動に参加した当初の思想を曲げて加持祈祷を肯定するようになった経緯:福来の高野山大学への招へいが何か影響していたか否か、以上3点には興味があるが・・・・・・雑誌「新仏教」CDーROM版 下有地の小田氏に関しては『備陽6郡誌・外篇 芦品郡の2』(備後叢書1、536-538頁に系図を掲載)

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高島平三郎と誠之舎(予察) June 26 [Wed], 2019, 16:50

2019年08月04日 | 高島平三郎研究

高島平三郎と誠之舎(予察) June 26 [Wed], 2019, 16:50

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病める国を憂いてこれを医せんとするものは

2019年08月03日 | 断想および雑談

雑誌「広島医学」10-7(1957-7)に「永井潜先生を憶ふ」という特集が組まれている。その中に「利を求めて病を追わざる者は下医、病を究めてこれと闘うものは中医、病める人を知ってこれを癒さんとするものは上医、病める国を憂いてこれを医せんとするものは大医」という東京帝大名誉教授永井潜(一八七六-一九五七)の言葉(医道観)を紹介したのが永井の教え子、沼隈郡高須村出身の医師:三島粛三(丸山鶴吉と同年代、関東大震災時に一家被災、ご本人は東京帝大に提出予定の法医学関係の学位論文用のデータなどを失ったことがもう一つの大きなダメージ)だった。

 

 

この言葉のルーツを最近になって知った。 唐代の名医、孫思邈(そんしばく)の著書『千金方』にある「上等の医者は国を治す、中等の医者は人を治す、下等の医者は病気を治す」という言葉がそれだったようだ。

永井は竹原の出身で,幼少期長谷川桜南を慕って,松永浚明館という漢学塾(明治16-18)で勉強していたときに、高島平三郎(写真は明治18年初秋/旧暦7月撮影、椅子に座るむかって左側の男性が永井に出会った当時の高島)と出会い、その才能を惜しんだ高島が、漢学塾をやめて師範学校付属の小学校に行くように説得。その後誠之館⇒第一高等学校(独語)から無試験で東京帝大医科に入学し、生理学教室の第二代目教授になった御仁。ドイツ・優生学の我が国への導入者として戦前の国家主義に魂を売った医者だが、著書には純粋な医学関係よりも哲学関係のもの,今日風にいえば生命倫理学方面のものが多い。終生高島平三郎を恩人として慕った。永井は岡山出身の日本のビール王馬越恭平の甥に当たり、沼隈郡水呑村出身の帝室制度研究の権威で古典籍研究者(東京帝大史料編纂官・教授)だった和田英松の親族。永井の実弟が河相達夫(元外務省事務次官、墓地は福山市木ノ庄町仁伍墓地・河相家墓地)。

 

 

永井潜にかんし,江川義雄『広島県医人伝』(第一・第二)、第一巻分の46-47頁に紹介記事

 


最近永井の医学史研究の集大成『哲学より見たる医学発達史』、杏林書院、1950、1033+20頁の大著を入手した。古書店から届いたがまだゆうパックを開封していない。医学史研究では富士川游がとくに有名だが・・・・
町医者で広島県医学史研究家江川義雄(松永町出身)の場合、永井潜にかんし,江川義雄『広島県医人伝』(第一・第二)、第一巻分の46-47頁に紹介記事。
沼隈郡松永村出身の医者江川は富士川游に比べ永井は医学的業績面でこれはというものはないという言い方をしていたが、それはまったく正しい指摘なのだが、私などには、ドイツの優生学を我が国に根付かせようとした永井の精神(geist)には孫思邈の教えに忠実に足らんとしてちょっと力みすぎた印象を禁じ得ない。

大沢謙二述 東大生理学同窓会編『燈影蟲語』、昭和54年4月復刊(初版昭和3年)。

この本では大沢の後継者:永井について永井先生は恩師をまねて毎日乾布摩擦をしていると編集後記で。昭和53年段階には東京大学生理学教室では東条内閣に文部大臣をつとめた実験生理学の権威橋田邦彦の著書の宣伝を掲載。哲学史と生命倫理(優性思想)方面を主として研究した永井はいまの生理学教室では異端児・あだ花視されている対象か。

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「縄の比喩」のこと

2019年08月03日 | 断想および雑談


ヴィトゲンシュタインの「縄の比喩」とはギアツによれば以下のようなものだ。「縄というものは一本の縦糸端から端まで繋がってその独自性や特異性を定義し何らかの全体をつくっているのではない。重なり合うさまざまな糸が交錯しもつれ合う、一本の糸が終わるあたりに、別の糸が絡み、すべての糸がお互いに緊張を保って複合体をつくりあげ、部分的には途切れても全体的には繋がることになる」。ギアツはそうした糸をほぐし、複合体の複合性、つまり深い多様性を探ることこそ文化の分析が要請されているものだという。


ギアツの言う「縄の比喩」の原文をヴィトゲンシュタインの著書の中で探そうとしたが、いまだに果たせず。


ヴィトゲンシュタインの名言集

⇒「私たちが見ているのは、多くの類似性 ー 大きなものから小さなものまで ー が互いに重なり合い、交差してできあがった複雑な網状組織なのである」は雰囲気的には『縄の比喩』に似ている。

ウィトゲンシュタインにおける言葉の意味と哲学の意義



【メモ】この比喩を使った最初の論攷(1995年福岡アジア文化賞創設5周年記念フォーラムでの講演内容)で、クリフォード・ギアツ(小泉潤二訳)「文化の政治学-分解する世界におけるアジアのアイデンティティ-」、みすず416,1995,2-10㌻(クリフォード・ギアツ、小泉潤二訳編『解釈人類学と反=反相対主義』、みすず書房、2002,44-58㌻に転載)だ。むかし、事のついでに『ヴィトゲンシュタイン全集』の中にちょっと探してはみたのだが、そのときは発見できなかった。小泉はギアツの日本への紹介者として大いなる貢献をした人だ。ただ残念ながら、クリフォード・ギアツ、小泉潤二訳編『解釈人類学と反=反相対主義』、みすず書房、2002に関してだが、英語タイトルはGeertz著”The politics of culture:Asian identities in a splintered world and other essays”,2002という奇妙なものである。講演原稿など所収する形で小泉が「解釈人類学と反=反相対主義」なる独自のタイトル(英語版とはまったく異なるタイトル)のもと編集出版したものだ。本書において惜しまれるのは書名を『解釈人類学と反=反相対主義』とした根拠を説明するような小泉自身による説明が簡単な「注釈」「おわりに」で済まされ、しっかりとした論文解題が付されてはいないところ。Geertz研究者の中から彼を超えるような人は出ないとの印象を振りまいてきたのがまぎれもなく小泉潤二さんだった。

思うに、ギアツとの付き合い方だが、かれは自らの実証研究の至らなかった部分を文化人類学以外の学知(今回の場合は哲学者ウィトゲンシュタイン)を動員して補強しようとした人なので、まず、そうした実証研究中の問題点を洗い出しつつ、誤りを正していくことが先決だ。それが正しいGeertzとの付き合い方。  
ちなみにインドネシア・バリ島のNegara/伝統的小国家(藩国)をTheatre State(「劇場国家」)として措定したGeertzの在り方はビクトリア王朝期における英国(大英帝国)の国政の在り方を論じた.Bagehot(1826-1877)の”The English Constitution”(中公クラシックス『イギリス憲政論』、小松春雄訳)風の切口からインドネシア伝統的小国家Negaraを捉え、そこから透かし見えてきた儀軌を重んじ儀礼的細部に拘る社会的論理を必要条件としながら成立していた(人心を引きつけるための)Rajah/藩王の権威的側面だけをもって、これこそNegaraの本質だとしたもので、私などは、Geertzをかなり真剣に学習してきた人間だが、この人には古今の国家論を正面から捉え直すといったスケールの大きな学知的構えはまったく不在で、逆にインドネシアの離島に閉じこもって重箱の隅をつつくといった傾向が強く、そういうこともあって、Geertzのインドネシア研究には時として大いなる行き詰まり感を覚えさせられたものだ。

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「松永史談会」からのご挨拶 

2019年08月02日 | 松永史談会関係 告知板

永らく活用してきたyaplogが2019年(正確には2020年1月末日)をもってサービス停止となります。 そのためこの度、松永史談会を開業致しました。本ブログにはお引越し分として公開分・非公開分の合計2494記事を収蔵しています。


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何卒、ご理解の上、今後ともよろしくお願い致します。




松永史談会の関連サイト

松永史談会2019年度8-9月例会のご案内 第一報


1)8-9月例会は9月末に合併させた形で実施


2)7月例会の続編(石井家蔵史料の紹介-④)ということで、引続き石井氏に文化13年改正元禄検地帳控およびその関連簡略村絵図など石井家文書についてご紹介していただきます。


3)開催場所は石井さんのお宅。




松永史談会7月例会案内(第一報)


June 22 [Sat], 2019, 8:04


松永史談会7月例会のご案内(第一報)

日時:7月26日、午後1時。
場所:石井様宅
話題はご当主による「天保11年御公用日記・文化13年改正元禄検地帳控およびその関連簡略村絵図(文化13年)ー石井家蔵史料の紹介(3)ー」/その他の話題:武井節庵に関する追加情報ほか(一例 沼隈郡東村における史料の残存状況及びその研究の進め方→藩政村としての沼隈郡東村の領域構造の解明は比較的短期間に可能)




松永史談会5月/6月例会


May 14 [Tue], 2019, 8:01


松永史談会6月例会

開催日時・場所  6月21日 (金曜日) 午前10-12時、於『蔵』(開催場所については変更の可能性あり)
話題 「近世福山城下絵図」及び「藩領分地図」(いづれも仮題)の研究  
我が国において独自に発展を遂げてきた上記の地図類やその文字情報版たる地誌(郡村誌類・探検記などを含む)を17-19世紀における世界のnatural history(自然史・博物学)やそれと連動した世界経済の歩みの中にどう位置づけうるのか。そのあと、史料自体の表象するところに注目しながら読図作業を試みる。その中ではとくに環境/防災面や権力配置(政治経済+神仏活用=イデオロギー操作)と言う点で福山藩領や福山城下というのはどのような問題点を胚胎しつつ形成されていたのかを解説していく。


 


松永史談会2019‐4例会のご案内(重複)


March 25 [Mon], 2019, 19:42


松永史談会2019‐4例会のご案内

日時と場所
4月26日(金曜日)、午後1時半
3月例会と同じ、東村・石井さんのお宅

晴天時には15:30~16:30をめどに小学校の屋上より「屏風絵に描かれた『遺芳湾』」の実景を展望。

話題 福山の嘯雲嶋業編「備後国名勝巡覧大絵図」について。 





 

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遺跡/遺物を通して見た幕末期に活躍した地方文化人を巡る虚と実

2019年08月02日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
遺跡/遺物を通して見た幕末期に活躍した地方文化人を巡る虚と実
August 18 [Sat], 2012, 15:29
京都大に山路機谷の長男球太郎が寄贈した機谷の著書『白雪楼読史記考文』、『白雪楼史記読本』などがあることを知った。
山路機谷とは・・・・・・。池田春美編『山路機谷先生伝』、1933を通じて少々紹介しておこう。


池田春美 編「山路機谷先生伝、 森田節斎と平川鴨里」

[目次]
標題
目次
第一編 山路家總說
第一節 山路家略歷 / 1
第二節 山路系譜 / 6
第二編 山路機谷先生事蹟
第一節 系出 / 16
第二節 漢學者としての山路機谷 / 16
第三節 勤王家としての山路機谷 / 21
第四節 山路機谷と神社佛閣 / 34
第五節 機谷の公共慈善事業 / 60
第六節 山路機谷の殖産 / 70
第七節 機谷の儉約 / 72
第八節 鐵砲所持不仕證文 / 73
第九節 百姓騷動と岡本 / 74
第十節 豐臣秀吉公遺愛の石燈籠 / 76
第十一節 山路機谷の終焉 / 77
第十二節 機谷の贈位運動顚末 / 83
第三編 森田節齋先生事蹟
第一節 森田節齋の修學 / 85
第二節 森田節齋と江渚五郞 / 85
第三節 森田節齋と吉田松陰 / 86
第四節 森田節齋と岡村達 / 87
第五節 森田節齋と杜預藏 / 87
第六節 賴士剛を送る辭 / 89
第七節 森田節齋と魯三郞 / 90
第八節 吉田松陰と江渚五郞、宮部鼎藏 / 91
第九節 森田節齋と藤川冬齋 / 93
第十節 吉田松陰の入門 / 94
第十一節 節齋姫路侯に仕官す / 95
第十二節 節齋の勤王 / 95
第十三節 節齋の文章三戰 / 96
第十四節 節齋無絃女史を娶る / 96
第十五節 節齋山路機谷に寄寓す / 97
第十六節 節齋の晩年 / 99
第四編 平川鴨里先生事蹟
第一節 平川家略歷 / 100
第二節 鴨里の修學 / 100
第三節 鴨里十四歳にして詩を作る / 101
第四節 鴨里高橋氏を娶る / 101
第五節 鴨里寺地舟里に師事す / 101
第六節 藤江村に開業 / 103
第七節 明治戊辰の役 / 104
第八節 榮進 / 104
第九節 笠岡にて徒に授く / 105
第十節 鴨里佐々木東洋に師事す / 106
第十一節 福山に開業す / 106
第十二節 二兒を送るの辭 / 106
第十三節 翁の晩年 / 107
第十四節 翁山陽に私淑す / 108
第十五節 翁と編者 / 108
第十六節 二竹樓記 / 109
第十七節 鴨石 / 112
第十八節 翁の人となり / 112
第十九節 遺著 / 113
第二十節 自製碑銘 / 114
第二十一節 結尾 / 116
第五編 其の他の事蹟
第一節 山路之保 / 116
第二節 山路嘉兵衛 / 117
第三節 山路亀太郞同妻キヌ / 118
第四節 山路重信 / 119
第五節 山路重敏 / 120
第六節 岡本家監松兵衛 / 121
第七節 山路右衛門七 / 122
第八節 山路康次郞 / 124
第九節 其の他 / 125 (以上、「国立国会図書館のデジタル化資料」より)


かれは幕末期に備後国で活躍した豪農兼社会事業家、やや浪費的なB級文化人(=dilettante)だった。

岡本・山路家は明治24年に没落するが、機谷の友人平川鴨里が昭和3年に、そして昭和6年にはこの池田がこの山路の贈位運動を展開するが、いずれも失敗に終わっている。
断っておくが、ここで参照する池田春美著『山路機谷先生伝』(元版は昭和8年、その後昭和60年に内外印刷・出版部より復刻版)はそういう著者の思いの込められた貴重な自費出版書だ。山路機谷のイメージは『沼隈郡誌』と本書に基づいたものが流布しているが、それはあくまでも彼の一面を捉えたもの。

今は立派な石垣を残すだけとなっている岡本山路家邸跡


彼一族の墓地の現在


荒廃した山路家墓地だが、手前左端の空風輪のない五輪塔が山路氏の祖:山路孫三郎の墓、もとは鞆・南光山にあったが、後代に藤江村の念仏院に改葬したものらしい。墓石の風化度等勘案すると後代のもののようだ。
藤江村の山路家は貞享3年嘉兵衛之勝の時代に、藩主水野勝種より松永湾の独占的な漁業権(藩側からみると漁業を巡る一元的な入漁料=営業税の委託徴収権)を得たらしい。
ここは山路一族の菩提寺・念仏院の墓地だが、墓地の中央に機谷の巨大な墓石(慶応2年に妻が没したときに造立した生前墓)があって、山路氏の祖の墓はその左奥に収まっている。墓石の規模・配列などからも、機谷のやや自己中心(=独善)的な性格というか有頂天と言うかそういう気分が読み取れよう。浜本鶴賓は「家富むも自ら奉ずる倹素、孜孜として自ら鋤犁を把って耕す」(序9頁)と述べているが、藤江村民の大半は間脇(430戸)・名子(13戸)・水呑百姓(104戸)で本百姓は明治4年のデータでは585戸中わずか30戸だったし、庄屋・山路家の墓石の大きさはこの地方の庄屋クラスの水準を大きく超えており、機谷の生き様は、周知のこととされる倹約質素のイメージからは程遠い。
特に化政時代:表山路の嘉右兵衛之保ー嘉兵衛之基、之基の弟で吉本山路の忠平重信(剣大明神に玉垣・雁木などを寄付)ー熊太郎重㉀(岡本山路を継ぎ、機谷と号す、歿年53)以後は、過剰なまでの敬神崇祖の念を抑えがたく、藩権力側から与えられた特権に胡坐をかき、村内・村外に民心とは遊離した形での威信財(社寺仏閣を含む)の建造・整備に腐心した。そのため、いまでは念仏院・柳見堂・大神(だいじん)社は倒壊寸前のものを含め相当に荒れている。福山藩内の溜池築造などの公共工事は藩内6郡あるいは関係する一郡の請負で行われたが、岡本山路家の場合はそれを自前で行い、それが地元では美談として語り継がれているが、それは民衆の不満を予防するための一種のガス抜き政策の所産に過ぎないことだっただろ。
これと比較する意味で福山藩の儒官伊藤梅宇(伊藤仁斎の次男)の墓碑(高さが1メートルにも満たない、中央の板碑型石碑)を掲載しておこう。
牛頭天王か牛神か 山路機谷が建造した港を見下ろせる丘陵の一角に打ち置かれていた。地元の人の話では天神さんの一部で、山路家所縁の大神(だいじん)社にこれだけ移転されなかったらしい。


機谷の息子たちは家を再興するためにアメリカの大学に留学し、長男は中退、二男はペンシルバニア工大を卒業し、ボストンにて兄弟で事業(古美術品販売・・廃仏毀釈で叩き売りに出されていた旧寺宝類をアメリカに輸出しそれを現地で販売)を興したが、失敗し、帰国している。山路球太郎の方は日本に活動写真の映写機を輸入し、福澤諭吉等を興味がらせたらしいが、晩年は親類の備前屋を頼り港町尾道に帰っている。そういえば、江木鰐水の息子:外務官僚の江木高遠が外交特権を悪用した美術品密輸に関わったとして大使館の吉田公使から叱責され、ために高遠は1880年6月6日にワシントンの日本公使館で自殺していた(江木高遠は明治の地理学者:志賀 重昻の恩師の一人)。

参考 今は無き山路家ゆかりのモノたち


山路忠平重信は機谷の父親。山路忠平乗時と言う人物が慶応2年「石州戦争」に出兵し、戦死している(森本繁『福山藩幕末維新史』、131頁掲載の「福山藩戦死者の位碑」参照)。この人物は山路一族の系図には出てこないが、おそらく何らかのゆかりの人物だろう。この山路は調べて見る価値はあるかもしれない。当時は士卒身分の藩兵だけが藩領外の戦に参戦していたが、さてさて山路忠平乗時という不運な青年はなにものだったのだろ。

尾道・浄土寺門前の巨大標柱金石文
松永湾の西岸・山波から見た岡本山路氏の拠点

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江戸から東京へ : 土地所有の変遷

2019年07月06日 | 断想および雑談
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『諏訪八勝図詩』

2019年07月01日 | 松永史談会関係 資料配布


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武井節庵(1821-1859)ゆかりの人探し

2019年06月08日 | 断想および雑談

武井節庵 のゆかりの人さがしは 『諏訪八勝図詩』[むかしの版木が、昭和4年当時は実在。山田茂保『諏訪史概説-文化史を中心として-』によると「天保7(1836)年に50歳で亡くなった吉田霊鳳」に対する(、以下はわたしの見解だが)、おそらくは挿絵入り追悼漢詩集で、末尾に天保9年の年紀のある霊鳳の八勝詩に加える形で、霊鳳と交流のあった人々が吉田霊鳳の故郷:信州諏訪の名勝地関係の漢詩や絵(山水画)を提供している。 諏訪八勝詩 吉田清編 東條畊序(天保九年一二月) 菊池桐孫序(天保八年八月) 武井恭跋(天保八年一〇月) 天保九年歳次戊戌肇秋七日 信陽 吉田清(不求堂蔵板) 文末に当時15歳だった息子・武井恭(雪庵印)が跋文を添えている・・・この件に関しては研究中]を復刻した在野の考古学者であった 武居幸重さん(1996年に第5回相澤忠洋賞を受賞)のところでストップ状態になってから2015年5月以後、私的には中断していた。最近になってふと諏訪市の郷土史本の中に武井節庵に言及したものがあることをGoogleBook上で発見。 これがそのとき見かけた文面のコピー。 それからこの文面を有する書籍探しが始まった。幸い、ほどなくそれが昭和4年に当時の郷土研究ブームの中で出されたガリ版刷り・山田茂保『諏訪史概説-文化史を中心として-』(校長だった筆者が昭和4年から8年にかけ行った、職員向け講義のガリ版刷りテキストを印刷したもの)であることが判明。検索開始より5分後のことだった。 幸い、その活字版が昭和54年にご子息の山田敦夫さんによって復刻されていることわかり、その3日後(6月18日)に当該書籍を入手。6月22日土曜日午前中に、前日に電話連絡した地元自治体の文化財関係の部署へ情報提供(『諏訪八勝図詩』元版を古書市で販売した茅野市内の古書店主はもちろんのこと、その復刻版を出した武井幸重さんですら武井節庵については全く不知だった)。 山田茂保『諏訪史概説-文化史を中心として-』、岡谷書店版(1979)の再発見が起点となって武井節庵のゆかりの人さがしがもっか再始動中って訳だ。明治23年に武井見竜 (寛) 著 『田疇斎遺稿』の再刊者にして、大正5年刊『天龍道人事迹考』(渋川氏系図など掲載)の著者武井一郎さん(長野県諏訪郡豊田村小川⇒大正5年段階には長野市西後町72番地)あたりは同族だろか。 諏訪市の小川(こがわ)といえば学生時代に諏訪大社春宮とか諏訪湖のほとりにある高島城跡を訪れ、その近くをぶらついたことがあるところだった。不思議なものだ。城の湖側の一角に永田中将の銅像があった。わたしが訪れた頃地元諏訪では野尻湖の湖底よりナウマン象の骨が出てきた話題でもちりきだった。 武井節庵の伯父武井見龍[肥前出身の「天龍道人」こと渋川虚庵 (1718~1810)という、後半生を信州諏訪に居を定め、高島藩主の支援を受けながら、多くの書画を制作した江戸中期の勤王の志士/絵師より、天龍道人碑碣銘(てんりゅうどうじんひけつめい)と言う形で撰文を依頼された人物]の居宅が現在の諏訪市の小川にあったことを突き止めた訳だが、なぜかわたしは不思議な縁をこの武井節庵に対して感じる。 寛塾時代の門人だったIさんのご子孫やわたしがときどき墓参をしている。墓誌に安政6(1859)年、38歳で没とある。『諏訪史概説』には文化4(1807)年生まれとあるが、武井が生年月日をごまかしてきた可能性はあるが、まあ、普通に考えれば、これは誤りだろ。ただ、文政4(1821)年生まれだったとすると後述する『節庵初集』はいくら早熟な漢詩人だったとしても彼が21歳の時に刊行されたということになろう。天保13(1842)年には兄貴吉田慎斎のいた〈芝将監橋〉で居候。自らを武井精一郎と称した。菊池五山の序によれば、実父の吉田鵞湖が出資して公刊したもので、親父吉田鵞湖の跋によれば、節庵の年来の詩稿が火事で焼失したため、再び火災に遭っても残るようにと上梓したものだとか。ってことは吉田鵞湖が天保7年に50歳で没した(『諏訪史概説』、206㌻)という話とは矛盾? 『沼隈郡誌』の中に墓誌が収録されただけで歴史の表舞台から完全に消えた御仁のことをどこまでハイライト化させるのがよいのか。とりあえずは武井節庵を西国遊歴に出かけたまま、消息不明となっていると語ったおそらくは武井寅太郎さんの、いまだ私的には未接触の子孫の方(その代替物が地方自治体・文化財部署か郷土史家)くらいか・・・。節庵は門弟たちに対し、自分は寛永寺貫首(輪王寺宮)の故臣だと自己紹介をしていた。それが事実であったとすれば、おそらく当該貫首とは第十三代貫首公紹法親王(1815-1846、有栖川宮韶仁親王の第3王子,1843年に門跡に)だろ。薨去(こうきょ)は節庵25歳の時、かれは26歳の時(1847)に叔父武井見龍(父親吉田霊鳳の実兄)のところに一時滞在の後、『諏訪史概説』(206㌻)の言う尊皇の志を抱きつつ西国遊歴に旅立った。これはわたしの単なる想像だが、諏訪には自分の居場所を見いだし得なかったのだろ。その彼がたどり着いた先が備後国沼隈郡藤江村の豪農山路熊太郎(機谷)の元だった。一時期(1849-1852)は精力的にこちらの漢詩好きの文人たちと交流を重ねていた。1856年段階の節庵は尊皇家森田節斎(武力を使わない社会変革を提唱)を当該山路家に匿う工作をしていた福山藩儒江木鰐水(や備中興譲館の坂谷朗蘆ら)からは冗談抜きに邪魔者扱い(否、笑いもの扱い)をされていた。 参考までに言及しておくと岩瀨文庫の『節庵初集』書誌中では節庵は天保8年12月に致仕。その後西国へ、とある。なお、節庵初集第9/10巻辺りは天保11,12年頃ヵとする。前述した武井節庵の墓誌にある「輪王法親王の故臣」云々に関する言及はなし。 どなたかこの人物に興味のある方は是非とも永井荷風の史伝『下谷叢話』ではないが節庵研究に取り組んでもらいたいものだ。この荷風の名作は鷲津家一族の中の没落=負け組:大沼枕山一族に対する永井荷風自身の共感がベースとなっている味わい深い名作だ。 『節庵初集』など武井の残した文章の研究が進めば、武井節庵の再評価を含め、才能豊かだったこの人物の実像により迫れるはずだ。 いまは90歳近い高齢の山田敦夫家に電話して見たが、そのとき応対に出られた人は敦夫さん50歳頃に当たる昭和54年岡谷書店から復刻した山田茂保『諏訪史概説-文化史を中心として-』にかんしては、山田茂保さん(昭和21没)の存在を含め、自分はよそからきた人間だということ一点張りで口を閉ざした。

武井節庵の郷里:長野県 諏訪市 豊田小川 武井姓の電話番号

武井節庵研究に役立ちそうな基本文献の一つ『日本詩史・五山堂詩話』岩波・新日本古典文学大系28月報(1991)所収の、富士川英郎「詩話」についての雑談、1-4頁。 富士川英郎は広島出身の医学史研究の泰斗富士川游の息子。







武井節庵研究の現在
わたしの研究は①武井の漢詩については検討対象外であること、②武井節庵(お墓は今津町薬師寺本堂裏手に立地)に関する古文書は門弟の家筋に当たる満居石井家蔵もの及び松永竹原屋高橋氏(『西山遺稿』)限定で,新史料の発掘面でまだまだの状態である。

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永井荷風『下谷叢話』に記載された漢詩人大沼枕山(1818-1891)

2019年06月06日 | 断想および雑談

永井荷風『下谷叢話』に記載された漢詩人大沼枕山(1818-1891)


永井荷風の『下谷叢話』は自分の母方の祖父鷲津毅堂と鷲津家から江戸の大沼家に入った鷲津幽林の長男:鷲津治右衛門(大沼竹渓)、その子の大沼沈山を巡る今日風にいえば繁栄/衰退といういわば真逆のコースを辿った鷲津一族(鷲津毅堂と大沼枕山(力点おいて記述))のファミリーヒストリーをまとめたもの(典型的な「伝記文学」というよりも歴史研究もの)。鴎外の『渋江抽斎』に触発された作品のようで大正13-15年にかけて書かれている。これを読むと歴史小説に力を注いでいた文豪森鴎外が永井を高く評価し慶応大学教授に推薦したことも首肯出来よう。 月報1/2/3


荷風曰く「わたくしは枕山が尊皇攘夷の輿論日に日に熾ならむとするの時、徒に化成極勢の日を追慕して止まざる胸中を想像するにつけて、自ずから大正の今日、わたくしは時代思潮変遷の危機に際しながら、独旧事の文芸にのみ恋々としている自家の傾向を顧みて、更に悵然(筆者注ーがっかりしてうちひしがれるさま)たらざるを得ない」(369㌻)と。 こんな感じの表現でやや自嘲気味に感慨をもらしているので、あるいは、荷風自身としては、大沼枕山の生き方とダブらせながら、こんなご時世に文芸などにうつつを抜かす自分に対する不甲斐なさとか、自分の作風に関しても一風変わった、文章形式の浮世絵の世界を徘徊しているといった風の自覚は大いに持っていたのだろ。彼の場合漢籍を幼少期から先生について学習していた。


後記(『荷風全集15』、岩波、昭和38年より引用)


尾道市立図書館蔵の史料『嘉永五(1852)年対潮楼集 観光会詩』白雪堂主人(山路機谷)の裏表紙に書き込まれた大沼枕山(34歳)の名前と住所(下谷和泉橋通御徒町)この情報の出所は? この『観光会詩』中には"未開牡丹"のお題の漢詩を会に出席した房州人の某が詠んでいた。ただし、この人物の漢詩は安政2年刊白雪樓藏版『未開牡丹詩』には所収されておらず、当然森鴎外『備後人名録』にもその名前は記載されてはいない。房州といえば大沼は房州谷向村在住の親友鈴木松塘( 梁川星巌門下。大沼枕山・小野湖山とともに星巌門下の三高足と称された。なお、永井荷風は大沼と梁川との関係は師弟関係にはなく、枕山は梁川を先輩として尊敬していたのみだと書いている-328㌻)のもとをときどき訪ねていた(375㌻)。そういう点を考えるともしかするとといった程度のことではあるが、これは房州某発の情報だったか。あるいは鈴木の旧友でもあった山路のところに滞在中の武井節庵(元卿)発のそれだったか・・・。それとも


枕山の長女嘉年(かね)は門弟の鶴林を婿にし、大沼の家を継いだ。嘉年は後年目を患い、ほとんどものを見ることができなくなっていたが、父枕山から受けた漢詩の才は衰えなかったという。昭和9年3月22日に74才で亡くなった。号は芳樹。写真は麹町の家(下六番町13番地。現在六番町5−3)の二階で撮られたもの。永井荷風がここに嘉年を訪ねて枕山の話を聞き、資料を借りて帰った。その後関東大震災が起こり、荷風は再び嘉年のもとを訪ねて見舞ったということが『下谷叢話』に書かれている」とある。 枕山の息子新吉(大沼湖雲)には放蕩癖があり、勘当状態。その息子家族は、荷風による戸籍簿調査の結果、大正4-5年に「東京市養育院⇒地図中の①に収容され、そこで(新吉は)死亡した。而してその遺骨を薬王寺に携来った孤児の生死については遂に知ることを得ない」という形で作品を締めくくっている。小説よりも奇なりを地で行くような永井荷風のノンフィクション作品『下谷叢話』であった。息子新吉の子孫については関東大震災・第二次大戦の戦災などあったので役所関係の調査は難航するかもしれないが、ここを含め、なんらかの手がかりを薬王寺あたりが把握しているかも。枕山の息子新吉(大沼湖雲)は放蕩癖があり、勘当状態とぼろくそに書かれた御仁だったが、こちらは息子新吉&娘嘉年(嘉禰)校訂の『江戸名勝詩』明治11年刊


【備忘録】梁川星巌と橋本竹下/宮原節庵関連  星巌集@早稲田大学

参考文献)鷹橋明久「竹下『竹下詩鈔』の序文・跋文について」尾道文学談話会会報8,2018,pp21-37.

『星巌集』版本の成立経緯について
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雑記帳 頼山陽の『日本外史』&『日本政記』(執筆中)

2019年06月04日 | 断想および雑談

雑記帳 頼山陽の『日本外史』&『日本政記』(執筆中)
February 08 [Thu], 2018, 10:45
頼山陽『日本政記』・・・・神武天皇から後陽成天皇(秀吉時代)までの天皇を基軸に据えた紀伝体の史書&政論(日本の歴史に即して治政の在り方を具体的に論評。執筆の目的はお国の為になるような為政者・支配者の実際的な政治論書の提供だった)。山陽政治思想史ともいうべき性格を持つ(『日本思想史体系ー頼山陽』、岩波、解題)。本書に関しては徳富蘇峰の頼山陽研究に詳しいらしい。『日本政記』の種本だが、16巻(正親町天皇)までは林羅山の三男林 鵞峰 (1618-1680)著「王代一覧」、「大日本史」、それ以後16巻の「後陽成天皇」部分は関藤陰藤執筆分で典拠は頼山陽の「日本外史」。分量的には1-9巻(神武天皇ー近衛天皇)までが過半を占める。14巻・北朝最後の後小松天皇までが分量的には全体の3/4以上、この部分は「大日本史」が種本、それ以後は「日本外史」からの引用。外史は正史に対する民間の史書:稗史のこと。論賛部分は新井白石『読史輿余論』、安積澹泊『大日本史賛叢』からの引用。この点は『日本外史』も同様。

『日本政記』12巻は後醍醐天皇編だが、間違った年月日の記載を含め(『楮幣』とよばれる新紙幣、貨幣の発行について言及しているが、これらは計画され、3月には「乾坤通宝」発行詔書が発行されているが、乾坤通宝の存在は確認されていないなど)不正確な事項の記載も多々あるようだ。こういう部分は頼山陽のライターとしての未熟さ・杜撰さの発露(。作田『続日本権力史論』、183頁に乾坤通宝・楮幣の話題)。

第十二巻:後醍醐天皇では名分は備わっているが、建武の親政の悪政ぶり(施策が性急すぎ『二条河原の落書』にあるような世の中の混乱ぶり)に言及し、天皇の支配者としての資質のなさを指摘(後醍醐天皇は『大日本史』がいうような仁政を布き民生を安んずる為政者の資質を欠く御仁だった)。「宮室を営むを以て急となし、妃嬪を悦ばせるを以て務めとなす」(『日本政記』 340頁)、と。作田高太郎も頼山陽の影響を受け後醍醐天皇を捉えて子供が30数人いる▽力×倫男呼ばわり・・・・(この種の認識は浅薄皮相な頼山陽以来の後醍醐天皇観の反映だが、これは紫式部の執筆した一種の「栄花物語」たる『源氏物語』を主人公・光源氏を中心としたハレーム=頽廃小説だといった捉え方と類似の困った誤解の所産だ。わたしの理解では、多くの子孫を残すためのハーレムを形成することは今流の感覚で言えばまことに嘆かわしいことではあるが当時としては正統な王権行使であった)。その治世は後鳥羽上皇時代と同様で上下をあげて頽廃的だった、と(『日本権力史論』 240‐241頁)。頼山陽が注目したのは、そんな後醍醐天皇の資質の有無ではなく、悲惨な状況にあった天皇のために命を投げうってまで忠義を尽くし”嗚呼忠臣楠氏墓”と命名して徳川光圀を感激させた臣下:楠木正成の生き様の方であった。後醍醐天皇の近習の中では一番家柄の劣る楠木をその功名は永遠だとも頼山陽は書いているので、これは幕末の勤王家たちを十二分に鼓舞するところとなったこと疑いなしだ。

『日本外史』は後醍醐天皇という帝王としてはいささか資質に欠ける人物の有する本朝伝統的権威(天照大神を信仰する人物)に対する忠義の示し方に応じて忠臣/逆臣を区別し、足利尊氏は後者の典型(註解では国賊とも記載)、北条・足利氏は姦雄。前者の典型として家柄が劣り出自のもっとも卑しい人物:楠木正成を忠臣の代表として形象化している。いわく「楠木正成公の広大な節義は巍然として山河と共に並び存し世道人心を万年の後までも存分に継ぎ保つもの、それに引き換え姦雄:北条・足利氏らの権勢の持続期間は高々数百(2,3百)年、楠木氏と彼らの優劣は」明らかだろうとばかりの激賞ぶり。時間論のduration(持続時間)面から言えば楠木の節義は永遠の価値を有するものだが、姦雄(足利氏)の権勢はたかだか数百年程度のものだ、と(頼山陽特有の巧みなレトリック)。徳川幕府の長い繁栄は北条・足利とは異なり新田氏時代の善行・忠義のおかげだとも。

『日本外史』解説としては『日本外史』、岩波文庫(上)の尾藤正英のものが要を得ており、それを参照のこと。


日本外史を一種の文学作品、長大な叙事詩だと・・・・納得!  学問的には史実に関してやはり誤謬が多過ぎらしい。


論賛部分には「大日本史」・新井白石の「読史余論」、北畠「神皇正統記」などを参照した形跡
頼山陽の名分論(「名分のあるところ踰越すべからず」)からすると新井の足利将軍=国王、当時は天皇というものは実質的に不在だったといった歴史理解にはもう反発。

頼山陽のいう「尊皇」至上主義は討幕とか天皇親政への待望とは無関係。そもそも本書は老中松平定信に提出された軍記物の衣装をまとった朱子学的名分論の書で、為政者たちにとってはお馴染みの当然「史記」の書法などを手本とする。頼山陽の名分論は藤田幽谷が松平定信に提出した正名論(「君臣上下の名分を正すことの重要性を強調しつつ、幕府が天皇を尊べば大名は幕府を尊び、大名が幕府を尊べば藩士は大名を敬い、結局上下秩序が保たれるようになるとして、尊王の重要性を説く」)と同類。その限りにおいて両者は幕藩体制を擁護する尊皇思想に言及したといえよう。


本編(『日本外史』・第五巻:新田氏前記)は臣下の名分(朱子学的な名分= 立場・身分に応じて守らなければならない道義上の分限)などといった儒教的倫理観を、中国の古典に登場する人物、中心的には楠木正成を引き合いに出しつつ我が国の軍記物語の中に注入・改作した作品なのだ。プロット構成の中では楠木正成を後醍醐天皇の「夢想」、建武の親政の「寿命」を大坂・天王寺蔵聖徳太子「未来記」を持ち出しわずか3年だと楠木自身に予め悟らせるといった筋書きになっており、このように神のお告げ的要素を表現する在り方の中で、頼山陽のおそろしくDoxa(憶断)に満ちた原始的心性は全開する。ここでは天命・天誅の「天」に相当する普遍的価値を担う部分に「聖徳太子」が当てられていることにも注目しておきたい。(徳富蘇峰『人間山陽と史家山陽』1932、民友社…大正11年東京築地での講演会で「頼山陽は世の中をひっくり返すぞといった危険思想の持主ではなく、国家主義と皇室中心主義の唱道者」80頁)。


『日本外史・第五巻(冒頭の文章)』皇室に対する忠勤(王事に勤むること:勤王の精神)の乱れ、皇室(権威)自体の乱れの中での臣下(権力者:源平、北条)の横暴

徳川家は新田氏系得河氏・得川氏の末裔を称したので南北朝期の新田氏をハイライト化し、その背後に楠木氏らを配置するといった明らかに徳川幕府(日本外史の最終巻では時間をかけて慎重に天下を取った家康公を持ち上げ、だから徳川氏の治世が長続きしたのだと豊臣氏を引き合いに出しつつ称賛)にゴマすりをする(=媚びをうる)やり方を頼山陽は取っている。因みに*新田氏前記・楠木をメインに中興諸将;北畠・菊池・名和・児島・土居・得能の各氏を付記⇔新田前記を読むと軍記物語の形式を借りた家柄・門地の面で劣位にあった楠木正成一族を『史記』中の人物に準えながら特徴付け、楠木の行動を引き合いに出しながら儒教的な倫理(忠義・仁・名などの徳目)を唱道したまるで浪曲台本のようだ(執筆中)、『日本外史』は文化文政期の文芸作品『里見八犬伝』などと同じ土俵の上で眺めてみるというのもありなのだろ(たとえば成功例とは思えないが井上厚史「『南総里見八犬伝』と『日本外史』の歴史意識」同志社国文学 (61), 514-503, 2004-11 )。

・・・日本政記

名分論:名分を乱したものは激しく攻撃、それを守ったものには最大級の称賛を与える立場から記述。
頼惟勤によれば楠木正成との出会いに関して後醍醐天皇の夢想が契機となったといった記述があるらしい(中公バックス『頼山陽』 日本外史 、234頁)。

「瑞夢石」(夢枕に現れた霊石)というお題の漢詩屏風(幕末明治期・沼隈郡今津村)・・・・頼山陽の生きた時代の生活世界の中には現実の世界と夢の中の世界のことは同一の座標系の中で矛盾なく共存していたことがわかるだろう。


確認したところこの箇所だ。


夢想というのは頼山陽の心性の在り方の反映か。夢想は鎌倉時代の代表的史書:『吾妻鏡』にも出てくる言葉だが、『日本外史』のメインテーマ部分でのお伽話めいた筋立て。本書の性格の一端が少しく透かし見えてきた。


当時は「和臭」を嫌う風潮が徂徠派を中心に関東では強かったらしいが、山陽は地名・人名・官名は中国風に改めることを避け、日本語表記した・・・・この点は無問題。江戸を中国風に「武陵」とか「武昌」と表記されたらそれこそ困りものだ。森田節斎は日本は中国文化圏内に在ることを力説していたが、頼山陽の歴史制作も当然に『大日本史』、中国の「史記」「後漢書」「三国志」等を手本(=準拠枠として過去を再構成)としたもの。頼惟勤は本書が山陽の「日本にて必要の大典とは芸州の書物と呼ばせ申したき」(33頁)思いといった芸州№1主義の発露に過ぎず、本書が後時間(=時代)的に帝国主義「日本」の思想、勤王家を鼓吹した歴史的事実があったとしても、別問題。本書自体の価値とは一旦分けて考えるべきだ(36頁)という。
ただ、頼惟勤が日本外史研究史の中の平泉澄・和辻哲郎(「尊皇思想とその伝統」・・・山陽は詩人だ。したがって歴史叙述は学問的というよりは芸術的、その功績は歴史叙述の上にあるのであって、歴史探究の上にあるのではない、と)・丸山真男・尾藤正英(岩波文庫『日本外史1-5』昭和43年、解題:「日本外史」は人物中心の武家時代史であり、その中では個々人の人物の人間像を描写し、その心情の美しさ、行動の正しさや勇ましさを顕彰することに主眼が置かれていた。読者は山陽の記述を通じて武士(和辻のいう「臣下」)としての生き方、日本人としての人生観を学ぶことが出来た、と、34頁)らの論考をハイライトした時点で、頼山陽が帝国主義「日本」の思想に与えた影響とか勤王家を鼓吹した歴史的事実を『日本外史』そのものから分離して考えるべきだという論拠は半ば失われているというべきだろ。

私自身は『日本政記』『日本外史』はまことに下らない本だという印象を深くした訳だが、作田高太郎を理解するためには最低限、このくらいは通読しておく必要があろうと思っているところだ。頼山陽には被支配者側の事柄は視野に入っておらず、言及領域は支配者間限定。『大日本史』は為政者論、『日本外史』は臣下忠勤論、作田の『日本権力史論』三部作は支配される側の立場から行論されている。

『福翁自伝』では賴山陽は子供時代の教えの中で信じるに値しない存在だと思い込まされたこと、そして『学問のすゝめ』の中では
『日本外史』が説いたような儒教的名分論は根本的に否定(例えば明治7年4月執筆の第8編「我が心を持って他人の身を制すべからず」)。名分論は陰陽五行説同様の妄説。忠臣義士の死は徒死(無駄な死)・犬死だったという福澤の主張は当時大批判をあび、その弁解を,明治7年11月7日付けで慶應義塾59楼仙万記のペンネームを使い、時勢論を持ち出して弁明。時勢論では昔は忠死だった、だが今は対外的な懸案事項も関係することだが、そんなことは徒死同然だという風に反論。福澤の考え方は英国の歴史家E・H,カー風にいえば「歴史とは尽きることのない過去と現在との対話の中にある」ものだという事になろう。福澤諭吉は当たり障りのないことは言わないタイプで、「ああ言えば上祐」風のところもある位の抜群に頭脳明晰な御仁だった。

福澤は拝金主義の宣教師であって学校教育で商売をする人物だと言う意味の評伝『学商福澤諭吉』明治33を書いた福山藩出身の渡辺修二郎は明治3年故郷中津に帰る途中の福澤に対して,多分岡田𠮷顕(岡田本人は東京に出向中だったので、洋学者江木鰐水)らが誠之館の視察をお願いした。それを快諾した彼の主たる関心事は自分の著書や翻訳書がどの程度、誠之館の寄宿生達の間に浸透しているか、そしてそれらは海賊本ではないか否かと言う点にあっただろう言った調子の渡辺一流の勘ぐりを(意地悪く)書いていた。

◆「古い革袋に新しい酒を盛る」

浜野靖一郎『頼山陽の思想 日本における政治学の誕生』、東京大学出版、2014

 『「天下の大勢」の政治思想史 -頼山陽から丸山眞男への航跡』, 筑摩選書 231, 筑摩書房, 東京, 400頁, 2022年

 

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福山出身の森下博の寄進物

2019年06月02日 | 教養(Culture)
The iconography of Japanese paternity in the 17th century(17世紀における日本的父性の図像学)
京都の嵐山にある大悲閣千光寺といえば・・・・。<リンク:http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/senkou-ji.htm>大悲閣は、慶長19年(1614)、保津峡を開削した角倉了以が、清涼寺(嵯峨釈迦堂)近くにあった千光寺を現在地に移し、保津川の開削工事で亡くなった人とその関係者の菩提を弔うために二尊院の僧、道空了椿(どうくうりょうちん)を中興開山に講じて建立したもの。</リンク></大>



大悲閣からの眺望;Aは比叡山、Bは大文字山、Cは音羽山(滋賀県境)、A-Bの下にある丘陵:双ヶ丘

<大>角倉了以(1554~1614)といえば・・・・・・・・・・・・・・、安土桃山時代から江戸時代にかけて豪商。わが国の民間貿易の創始者として、南方諸国と交易や海外文化の功績をたてた人物で、国内においては、保津川、富士川、天竜川、高瀬川などの大小河川を開削し、舟運の便益に貢献した。晩年は、この地に隠棲し余生を過ごしたという。嵐山の亀山公園内に角倉了以の偉業を称えて建立された銅像が、また嵯峨二尊院には墓がある。角倉家の本姓は吉田氏。ご先祖さんは室町時代には臨川寺(かつての河端御所)の東隣に居宅を構えた地元(大井郷)の豪族(下司)であった。了以の父吉田宗桂は漢方医。親族には土倉(金融・商社経営)が・・・・・・・・・・・。現在の角倉町に角倉神社(長慶天皇陵の南隣に清明墓と並置)が残る。<色:#3366cc>大悲閣千光寺の入り口に立つ石造物(大正14年森下博の寄贈とある。森下仁丹の創業者)。大阪商人たちの中には財力の一部を郷土の社会事業や京都の社寺など多方面に寄進(社会還元)したようだ</色>。勧修寺(かじゅうじ)の塔頭仏光寺にも森下仁丹の寄進物が・・・・。



洛東の勧修寺の大悲閣を寄進したのは尾道出身の山口玄洞だった。山口は京都高尾の名刹・神護寺の金堂、洛東醍醐寺伝法院大講堂、比叡山延暦寺阿弥陀堂なども寄進していた。



エキゾチックな観音さんだ。


大悲閣の観音さんといえば山口玄洞の故郷・尾道の千光寺のそれを想起するが・・・・・。山口の頌徳碑はたしか尾道の西国寺にあったとおもうが、山口家は代々この寺の門前(ニシテラ小路)に居宅を構え、醤油販売も手がけた医者の家系だった。

岡村敬二「山口玄洞の軌跡を辿る」
岡村敬二氏は三原市出身の書誌学者で論攷「山口玄洞の軌跡をたどる」は蒔苗暢夫, 長沼光彦 編(2013)『京のキリスト教 : 聖トマス学院とノートルダム教育修道女会を訪ねて』に所収。山口氏の寄進物に関しては『仰景帖』1938に詳しい。
信仰心旺盛な社会奉仕家⇔功名心旺盛な浪費家
仰景帖 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

 

 

 



わたしは勧修寺の近所に永く居住していたが、ここを初めて訪れたのは歴史研究の一環であった。その中で山口玄洞のことを知り、幼少期よく口にしていた大石順教尼のことで松永・福山に来訪の時には地元婦人会のメンバーと講演会に出かけていた。この尼さんの弟子が福山市東村町の大塚全教さんであったことを知ったのは福山に帰省後のことであった。門跡さんにいろいろインタビューしたが、歴史のことはこちらは情報提供する感じで、大西順教さんの弟子が養護老人ホーム入所の2人がいて一人は一年前に亡くなったという話を伺ったことが思い出される。その人が大塚全教(1920-2007)尼だった訳だ。門跡さんは筑波さんという元皇族山科家出身の方で、山口のことを聞いたら「そのものは・・・」という感じの言葉づかいで元皇族時代の口ぶりが残っていた。1935年生まれの方なので現在89歳。わたしがお会いしたのは71歳の時だったことになる。この人の兄貴がNHKラジオ放送でおなじみの農学者筑波常治さん。 関連記事
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矢野天哉「高諸神社神明記・3」

2019年05月31日 | repostシリーズ




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西川國臣編『芦田鶴の聲』明治26

2019年05月27日 | 教養(Culture)
西川國臣編『芦田鶴の聲』明治26


February 27 [Fri], 2015, 11:53


西川國臣(蕉月)の母親:玉琴77歳(喜寿)祝いの句集『芦田鶴の聲』を名古屋の古書店で入手した。






備後とある福田桃洲・石井竹風・井出松塘・井出松烟.らは松永在住者、立神多樹麿は西村(尾道市西藤町の神官)、阿部正学は福山藩主阿部家の親族で江戸屋敷を中心に勢いを持た佐幕派が藩主・阿部正方の後継者として推した人物。

「(前略)猶関藤藤陰が喜多村安正と同時に類中風を発した事が言つてある。又塩田良三、矢島玄碩の仕宦を評した一句がある。良三、後の真と云ひ、渋江優善、当時の矢島と云ひ、並に皆枳園の平素甚だ敬重せざる所であつた。それゆゑに枳園は劇を評する語を藉り来つて、「官員様大出来也」と云つたのである。 書中には又阿部正学の東京に来た事がある。正学、通称は直之丞、これと日夕往来した棠軒は、其日記 ...(後略) 」(森鴎外『 伊沢蘭軒』)






明治26年と言えばその年の暮れ12月に穀蕃合資會社が松永で創業開始した年に当たるが、我国の文学・文芸史的には正岡子規が「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」を連載し、俳句の

革新運動を開始した年に当たる。西川のこの句集から当時俳句が全国的に流行していたことの一端は伝わってくる。











「広島藩では,侍士でも100石以上と以下とでは格式が大きく異なる。100石以上の侍士は,知行取りといい,知行地(給知)を指定され,年貢を直接知行地から徴収する。100石以下は切米取りといい,藩の米倉から米を支給される。 侍士はさらに細かく,長柄(ながえ)以上(行装に長柄傘の使用を許された者),布衣(ほい)以上(礼式に布衣の着用を許された者),馬持(うまもち)以上(知行高300石以上),御直支配(御側詰以上),御序(おついで)の御前御用(御直支配に準する格式),それ以下(知行高100石以上)に分かれる。20石が侍士の最低である。」西川(●五郎)さんの話では表向き300石でも三原藩での実際の手取りは28石程度だったとか。(Q041 : 広島藩士の階級と俸禄



こういうものは玉琴女史の知人友人が自発的に喜寿記念歌(句)集刊行会を立ち上げ、玉琴ゆかりの人たちに声をかけて作品を提供してもらい、句集をだすという性格のものだと思うが、西川國臣の場合は今回も、その辺が違っていたな~「非売品」?・・・・まあどうでもいっか 松上鶴はコウノトリのこと。当時は今津河原辺りでは普通にコウノトリが飛来していたらしく、我が家の倉庫には最近まで紐に釣るされたコウノトリの脚部があった。今津村の古記録『村史』(天明~寛政期)には付近の剣脇新涯への鶴(葦田鶴:あしたづ)の飛来が(やや珍しい事柄として)記載されている。







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