「郷土研究」創刊号(大正2年3月15日発行
高木敏雄「郷土研究の本領」を読むつもりでなにげに次の川村杳樹(はるき・・・柳田がつかったペンネームの一つ。ほかに久米長目といった筆名も使用)「巫女考」の論攷を見ていて思い当たるところが2点ほどあった。一つは尾道渋谷家文書(広島県史・古代中世資料編Ⅳ所収)に「神子(みこ)」の語が・・・。石見守は石井石見守だろか、それとも寺岡石見守(この場合は伊勢宮さんの神主)?まあ文書が沼隈郡神村の土地台帳なので、石井石見守だろ。そうだったとすれば、近世の地誌類の中では神村石井家の祖でどこかの城主ということになっているが、明らかに、この人物は沼隈郡神村の荘鎮守八幡宮神主だ。神子は職掌の「みこ」を言い、三郎衛門と五郎衛門(男性)という人物だったことが判る。 次に「巫女考」の中の「今日の王子権現若王子はほとんど熊野の信仰であるが、古くは八幡にも王子の神があった」に注目。沼隈郡内には王子神社とか王太子宮(備後国一宮:吉備津神社境内にも摂社としてあり)という呼称のお宮さんがかなり目立つ。大阪辺りの旧熊野街道(熊野古道)沿いには一里塚のような感じで「王子」というものが沢山あった。この語のルーツを考えるヒントが川村の論考を通じて得られたような気がする。そういえば風俗問状答書からのネタらしいが「備後福山領では毎年6月と11月の13日に神酒燈明を供え赤飯と膾とで御子神の祭りする」とも書いていた。ここにも柳田国男執筆の福山情報
熊野信仰においては少年あるいは少女の姿であらわされる神としての若王子/若一王子が(、地方社会において)熊野権現を勧請する際に、多くの場合この神が祀られるということはあったようだが、川村杳樹こと柳田国男の言う「今日の王子権現若王子はほとんど熊野の信仰であるが、古くは八幡にも王子の神(若宮八幡ー筆者注)があった」については、美味しそうな話題だったが、やはりわたしの姿勢としてはすぐに飛びつかず、今後とも確認作業を進めていくことになろう。
旧沼隈郡東村・大谷の「王子権現」。『沼隈郡誌』には大己貴(おおなむち)神社。近世絵図には王子権現(平の王子権現)。同様の事例は高須町阿草の王子社で祭神は大己貴(おおなむち)神、ちなみに高須町大山田の大己貴社の祭神は大己貴神&スクナヒコ神で、通称「瘡/かさ神」。
なお沼隈郡今津村には町上荒神の東隣に伝承上の「若宮」(これとの関係は不明だが地名「若宮畠」)、字「王子丸」に王子社(現在高諸神社境内摂社)があった。
『沼隈郡誌』には山手村・郷分村・瀬戸村・金江村(皇子神社)、浦崎村(無記載だが、高尾に王太子神社、検地帳上は字「わうたいし」)、山南村(皇子神社)、柳津村(無記載だが実在)に王子神社とある。現段階では『元禄13年備後国検地帳』は一部をのぞき、その他は未チェックだが、『備後郡村誌』(沼隈郡分)には藁江の王太子(皇子神社は未記載)、田島及び下山田の王子大明神という形で記載。尾道市向島(旧御調郡)には王太子社あり。
わたしは柳田国男の郷土研究をチェックするためにその復刻版の創刊号を読みだしたところだが、東京高等師範などで教鞭を執ったドイツ語教師高木が執筆した「郷土研究の本領」よりも川村の「巫女考」の方が興味深かった。高木は人類学の父フレーザーの名前をあげていた。こちらは後刻、目を通すことにしよう。まあ、たいしたことは書いていなかったように思う。
投稿原稿は潤色をさけ、民話・伝承はその地方の方言でと注文をつけている。