- 松永史談会 -

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福山出身の森下博の寄進物

2019年06月02日 | 教養(Culture)
The iconography of Japanese paternity in the 17th century(17世紀における日本的父性の図像学)
京都の嵐山にある大悲閣千光寺といえば・・・・。<リンク:http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/senkou-ji.htm>大悲閣は、慶長19年(1614)、保津峡を開削した角倉了以が、清涼寺(嵯峨釈迦堂)近くにあった千光寺を現在地に移し、保津川の開削工事で亡くなった人とその関係者の菩提を弔うために二尊院の僧、道空了椿(どうくうりょうちん)を中興開山に講じて建立したもの。</リンク></大>



大悲閣からの眺望;Aは比叡山、Bは大文字山、Cは音羽山(滋賀県境)、A-Bの下にある丘陵:双ヶ丘

<大>角倉了以(1554~1614)といえば・・・・・・・・・・・・・・、安土桃山時代から江戸時代にかけて豪商。わが国の民間貿易の創始者として、南方諸国と交易や海外文化の功績をたてた人物で、国内においては、保津川、富士川、天竜川、高瀬川などの大小河川を開削し、舟運の便益に貢献した。晩年は、この地に隠棲し余生を過ごしたという。嵐山の亀山公園内に角倉了以の偉業を称えて建立された銅像が、また嵯峨二尊院には墓がある。角倉家の本姓は吉田氏。ご先祖さんは室町時代には臨川寺(かつての河端御所)の東隣に居宅を構えた地元(大井郷)の豪族(下司)であった。了以の父吉田宗桂は漢方医。親族には土倉(金融・商社経営)が・・・・・・・・・・・。現在の角倉町に角倉神社(長慶天皇陵の南隣に清明墓と並置)が残る。<色:#3366cc>大悲閣千光寺の入り口に立つ石造物(大正14年森下博の寄贈とある。森下仁丹の創業者)。大阪商人たちの中には財力の一部を郷土の社会事業や京都の社寺など多方面に寄進(社会還元)したようだ</色>。勧修寺(かじゅうじ)の塔頭仏光寺にも森下仁丹の寄進物が・・・・。



洛東の勧修寺の大悲閣を寄進したのは尾道出身の山口玄洞だった。山口は京都高尾の名刹・神護寺の金堂、洛東醍醐寺伝法院大講堂、比叡山延暦寺阿弥陀堂なども寄進していた。



エキゾチックな観音さんだ。


大悲閣の観音さんといえば山口玄洞の故郷・尾道の千光寺のそれを想起するが・・・・・。山口の頌徳碑はたしか尾道の西国寺にあったとおもうが、山口家は代々この寺の門前(ニシテラ小路)に居宅を構え、醤油販売も手がけた医者の家系だった。

岡村敬二「山口玄洞の軌跡を辿る」
岡村敬二氏は三原市出身の書誌学者で論攷「山口玄洞の軌跡をたどる」は蒔苗暢夫, 長沼光彦 編(2013)『京のキリスト教 : 聖トマス学院とノートルダム教育修道女会を訪ねて』に所収。山口氏の寄進物に関しては『仰景帖』1938に詳しい。
信仰心旺盛な社会奉仕家⇔功名心旺盛な浪費家
仰景帖 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

 

 

 



わたしは勧修寺の近所に永く居住していたが、ここを初めて訪れたのは歴史研究の一環であった。その中で山口玄洞のことを知り、幼少期よく口にしていた大石順教尼のことで松永・福山に来訪の時には地元婦人会のメンバーと講演会に出かけていた。この尼さんの弟子が福山市東村町の大塚全教さんであったことを知ったのは福山に帰省後のことであった。門跡さんにいろいろインタビューしたが、歴史のことはこちらは情報提供する感じで、大西順教さんの弟子が養護老人ホーム入所の2人がいて一人は一年前に亡くなったという話を伺ったことが思い出される。その人が大塚全教(1920-2007)尼だった訳だ。門跡さんは筑波さんという元皇族山科家出身の方で、山口のことを聞いたら「そのものは・・・」という感じの言葉づかいで元皇族時代の口ぶりが残っていた。1935年生まれの方なので現在89歳。わたしがお会いしたのは71歳の時だったことになる。この人の兄貴がNHKラジオ放送でおなじみの農学者筑波常治さん。 関連記事
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