- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

Repost版 『水野記』にいう今津浦の川東

2019年05月06日 | 断想および雑談
『水野記』にいう今津浦の川東
15, 2015 06:05
中世における本郷川の旧河道が現在の安毛川に在ったという話は第四紀学的や地形学的な根拠を基にしていわれていることではないが、沖田地区に関して長波と矢捨分に分かれ、集落として矢捨(安毛)は神村八幡の氏子、長波は本郷八幡(剣大明神)の氏子圏内、また農業水路「安毛川」が「大明神」と「宮下」との字堺に当たり、宮下地区の水田には神村住人の所有地もある。
ところで、『水野記』に「今津浦川東は神村の内」という記述がある。
この古記録は扱いの難しい代物だが、削平された字田中の「大明神」社の立地する小丘が今津分で、その丘に建立された大明神は今津への帰属を明示するマーカーだから、当然そこまでは<川西>。<川東>とは河川Aを念頭に置いたものではなく、大明神以東を流れていた川の東のことのようだ。
どうも河川Aの中世後期段階での旧河道の一つを捉え、その川東は神村分だという領域認識を『水野記』は表現していたようだ。
明治26年今津村測量図中の字「宮下」はその付近の宮前などの地名から考えて明らかに神村八幡宮を念頭に置いた地名。字「宮下」は神村にもあり、今津分との境は八幡さんの参道だ。近世の村切りの段階にこのようなことになったのだろ。同様の措置がとられたため、中世の沼隈郡神村内に属した安毛集落は村切りの結果今日では行政的には今津村分だが、祭祀面ではなお神村八幡の氏子。こうしたことを勘案すると川東は現在の農業用水路「安毛川」あたりに中世後期段階の河川Aの流路があり、その東にあたる字「宮下」あたりは『水野記』にいう今津浦の川東だったのかも。 
今回取り上げた『水野記』のこの文節の重要なところは河川Aの河道は、羽原川ー町裏川同様、どうも後代に瀬替えされ、中世後期段階には大明神より東方にあったらしいというという点を史料面で示唆しているところだ。


安毛川はJR松永駅の南端部から松永町の長和島西側の竪入川に接続する水路だが・・・・一度、中世後期における本郷川の旧河道が現在の安毛川に在ったか否か、第四紀学的や地形学的調査をやってみる必要がありそうだ。


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Maluku地方@IndonesiaにみるGlobal jihadismの残酷 August 03 [Thu], 2006, 17:43

2019年04月20日 | 断想および雑談

インドネシアのマルク(Maluku,モルッカ)地方といえば16-17世紀の世界経済に大きなインパクトを与えた香料(丁子、ナツメグ、メース)産地。18世紀になると英仏によって世界各地の植民地へ盗木移植が進む一方、香料貿易の独占の崩壊と香料価格の値崩れを恐れた、オランダによって香料生産地の制限措置が強化された。南モルッカ地方ではオランダによる植民地支配が長く続き、その間に住民のキリスト教への改宗が進んだ。
  インドネシア独立(1950)後はジャカルタ政府の支配が強化され、ジャワ島やスラウェシ島など外部からイスラム教徒が多数送り込まれた。両者の対立はスハルト政権(1968-98年)崩壊後、周知のごとく一挙に表面化。
写真はアンボン島のパソにおけるイスラム教系住民の警備小屋(Laskar Jihad`Post)とそこに貼り出されたオサマ・ビン・ラデン(Osama bin Laden)のポスターだ。



インドネシアのLaskar Jihad, or ‘Holy War Warriorsは2000年にジャファ・ウマル・タリブによって結成されたもので、彼は1980年代後半にパキスタンでイスラム教神学を学び、1980年代後半にはアフガニスタンのムジャヒディンと共に侵攻してきたソ連軍と戦っていた(Laskar Jihad, or ‘Holy War Warriors,’ was founded in 2000 by Jafar Umar Thalib, who spent several years studying in Pakistan and fighting alongside the mujahidin in Afghanistan in the late 1980s.)
モルッカ地方全域で繰り広げられた民族浄化(Ethnic Cleansing)にもグローバル・ジハーディズム→Global jihadism(聖戦の論理のグローバル化)の影がちらついている
この悲惨な実態を調査した報告書『Indonesia:Poso and Maluku』(2002)がこれ。実に綿密に調べ上げているので感心させられた。
セラム島中部(Maluku州Maluku Tengah県)にTeon Nila Serua郡という奇妙な名前の郡がある。




図中の赤丸が当該郡、紫色の■印はインドネシア内での位置関係 1979年の火山噴火で離島を余儀なくされたTeon島、 Nila島、 Serua島の島民(キリスト教徒、セラム島出身、漁民)たちの集団移住地(Kecamatan Teon Nila Serua 1982年)だ。彼らも1999年以後セラム島で迫害の洗礼を受けた。モルッカ地方の人たちの歴史は災害や戦争などによる定住と移住の繰り返しだったという部分もあるが、その悲惨さはこのレポにあるとおりだ。




バリ島やジャカルタでの爆弾テロといい、マルク地方における民族浄化といい、大義のない抗争を繰り返す、もの騒がせなラスカル・ジハードLaskar Jihadという組織である。
インドネシアの地図
アンボン情報(Ambon Information Website)この島は南蛮貿易時代は日本人傭兵が活躍し、また第二次世界大戦中は日本軍の基地が置かれたところ(敗戦後はオーストラリア軍が日本兵の捕虜収容所として利用)The Japanese Invasion of Ambon Island, January 1942
2001アンボン島におけるイスラム教徒とキリスト教徒との抗争:
A Village in Maluku
AMBON: The Battle of Waai and the Ambon Demo.2001

その他の詳細地図(地形図)はアムステルダム熱帯研究所(KIT)のサイトよりある程度入手可能。検索方法はこのBlog内にて言及している。

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「万延元年備後国名勝巡覧大絵図」中の沼隈郡表現

2019年04月09日 | 断想および雑談
万延元年備後国名勝巡覧大絵図が沼隈郡・御調郡および芦田川流域の芦田郡・品治郡・安那郡・深津郡に軸足を置き、その他の広島藩領・福山藩・天領・中津藩領に関しては情報面で手薄(背景化)であることは誰の目にも明らかだろ。こんごは沼隈郡に焦点を絞りつつ分析をすすめていくつもりだ。というのも本絵図は沼隈郡観光マップといってよいほど当該郡の名勝・巡覧情報が豊富だからだ。




古名として挙げられたのは平安中期の辞書:『和名類聚抄』記載の古代の郡郷名と荘園名(山南庄only)

【解説】竹内理三を中心とした一昔前の荘園研究によれば南北朝・室町期の史料に登場する「長和荘」、平安・鎌倉期に登場する「神村荘」「藁江荘」そして鎌倉時代の史料に登場する「高須荘」、そのほか荘名が存在するものとして()付きで「福田荘」・「山南荘」を挙げている。これが正しいということではないが、現在のところの沼隈郡における荘園分布の一般的な理解として通用しているところだろか。しかし、個々の荘園内部のこととか考古学的な発掘調査が進められた草戸千軒(草出津・神島)と長和荘などとの関係といったこの方面の深く掘り下げた研究というのは史料不足が災いしてほとんど皆無に近いのが現状。
古代の郷名ついては「万延元年備後国名勝巡覧大絵図」は津宇郷と赤坂郷、津宇郷と赤坂郷の4つすべての想定地を図示している。津宇郷と赤坂郷の2つは遺称地名から判断されたものだろ。その点、古代の郡郷・古城址の研究というのは盛んにおこなれていたらしい。
地図記号と文字注記から見た沼隈郡表現の分析


地性(海岸線など)線・河川・道路、郡界線、その他の文字注記には池の名前(瀬戸池)、芦田川の中州地名(草出地)、航路と関係港湾への里程、海底/海中に生息する貝類の説明。島のサイズ(全周)・・・・・若干誤記あり。
【解説】作図者嘯雲嶋業(実名は確認中)自身による絵図の解説文によれば用途としては社寺仏閣の巡拝、名所旧跡の遊覧そして商人の往来用案内図を念頭に置いていたようだが、幕末期のregionalな範囲での巡拝先(社寺)や観光地・遊覧先(名所旧跡)がある程度判明する。寺院の中にも葬式寺と拝観寺とがあり、ここに図示された浄土寺・明王院・常国寺・阿武兎観音(盤台寺)・福禅寺などは拝観寺として近在近郷から多くの参拝客で賑わっていたのだろうと思われる。商人の往来用案内図とあるが、携帯するにはちと大きすぎ(展開時1.4×1.2㍍、A4>折りたたみサイズ>B5サイズ)、地域情報面でも備後国図(regional)の体裁をとりつつも結構局地的(local)である。そういう面では戸外に持ち出したときの、その実用性に関しては限定的なものに止まっただろ。


島嶼部以外の名所旧跡=古蹟名注記の出自分類

神話的内容に実体性を付与するため、例えば芦田郡栗柄の南宮社境内に包摂する形で古墳を「孝霊塚」と命名。
山波の吉備津彦古跡は山波艮神社とその境内の巨大ウバメガシ(吉備津彦命が杖を立てたのが芽吹いたものとされる),直径1㍍程度の盥石(たらいいし)や芸能神事(一種の社会伝承法)などによって見世物化し吉備津彦命神話に可視的実体性を付与。
「磯間の浦」は浦崎ー常石付近(=田島辺り)と山手に記載されている。
『沼隈郡誌』(667-668㌻)によると阿倍継麿の古歌「月よみの/光をきよみ/神島の磯間の浦ゆ/船出す我は/」の故地に関して遣新羅使船が武庫の浦を出港した後で、この古歌の次に「室の木」(鞆)詠んだ歌が来ることから神島と山手との間か、田島辺りを詠んでものかと述べ、最後に『福山志料』のいう山手説を紹介。作図者嘯雲嶋業は松永湾を「遺芳湾」と注記するなど菅茶山らの説を把握できる立場の人物でもあったのだろか。
近世後期漢詩文芸と風景図屏風


備後地方の名所歌枕
一、朝 川・・・・但馬皇女の高市皇子の宮に在(いま)しし時に、竊(ひそ)かに穂積皇子に接(あ)ひて、事すでに形(あら)はれて作りませる御歌一首「人言(ひとごと)を繁(しげ)み言痛(こちた)み己(おの)が世にいまだ渡らぬ朝川渡る」巻二(一一六)で詠まれた朝川は大和国の初瀬川のこと。「見立て」(例えば讃岐富士)が日本各地で横行していた一つの証左。
二、蔀 山・・・・・「万延元年備後国名勝巡覧大絵図」中には複数箇所存在、例えば鞆近辺、深津郡の足利義昭館跡
三、武 倍(ムベ、併せて同山、同泊)
「郷分」あたりの武倍山→「古へ日本武尊西征の後、穴の湾にて悪神を誅し給ふに、武倍山(ムベサン)の御陣にて」。
四、鞆ノ浦
大伴旅人(万葉集)
我妹子わぎもこが見し鞆ともの浦の天木香樹むろのきは常世とこよにあれど見し人ぞなき
鞆の浦の礒のむろの木見むごとに相見し妹は忘らえめやも

五、密語橋(ささやきばし)→見立てで「能因法師の古歌「熊野なる おとなし川を 渡さばや ささやきのはし しのびしのびに」を引用して、広島県府中市元町の石州街道沿い名もなき川に対し「音無川」と命名し、それに掛かる橋を密語橋と名付けた」だけのもの。能因法師の古歌と府中市のこの川とは歴史的には何の関係もない。
六、室 野
七、口無(ノ)泊・・・・「万延元年備後国名勝巡覧大絵図」では千年の港のこと。
八、風早浦→東広島市安芸津町風早-
遣新羅使詠歌「吾が故に妹嘆くらし風早かざはやの浦の沖邊に霧たなびけり」(万葉集 巻15 3615番歌)
九、引 嶋
付、長 井

なお、鞆にある「小鳥の森」は歌枕とは関係なく南北朝期の古戦場(1349年足利道冬と高師直との合戦)
記紀神話から派生した古蹟:①山波の吉備津彦命旧跡・・・・「要約 沼隈郡の山波村に、吉備津彦命の杖から成長した馬耳の木(国際日本文化研究センターHP)」   
②幕末段階に吉備名方浜宮の伝承地の一つとして神村および今伊勢宮が名乗りを挙げていた→「名方の海」、「穴の海」も同類。
神渡し・・・・本来は出雲大社関連の語で、陰暦10月に吹く西風のこと。「万延元年備後国名勝巡覧大絵図」の神渡は単に芦田川の神島での渡渉点を指したものヵ
作図者嘯雲嶋業が動員したgeographical loreの手法とは、要するに記紀神話や万葉集で詠われた名所歌枕や芸能・芝居等を通じて流布した事柄を捉え、その故地を備後国内のどこかに比定(=重ね合わせ)する作業を行ったり、他者の行った同様の作業結果を受容することであって、その中で横行したのが何でもない備後地方の場所に意味を持たせるための方法としての故事付けだったようだ。託宣とか神のお告げが真に受けられた前近代の日本にあっては当時のgeographical loreにも人々の前論理心性が色濃く反映された。

なお、八日谷・長倉は山南の平家谷(幕末期における社会伝承としての平家落人集落譚の反映)。木下長嘯子(ちょうしょうし,1569-1647)は「九州の道の記」の執筆者木下勝俊のことで、その看月亭@山手。沼隈郡外のことになるが蘇民将来屋敷跡は戸手の素戔鳴神社。「早苗の松」も別当寺「早苗山天竜院天王寺」ゆかりのもので同神社関係(『西備名区』外編・品治郡の2、戸手村)。栗柄の蘇民将来屋敷跡は図中の南宮社(「孝霊塚」が境内にある)関係?(確認中)

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備後特産の「珍ちん麦」

2019年04月08日 | 断想および雑談



根岸 鎮衛『耳嚢』(『日本庶民生活資料集成・16』)より







大麦・裸麦(珍ちん麦ヵ)は炒った上で挽いた粉(はったいの粉)にしたものを携帯食用とした。
甘みと風味があり、それを水で練ったものは徳川家康の好物であったとか。焙煎したものは麦茶用。



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パソコンでは無理だった高島平三郎家探し

2019年03月29日 | 高島平三郎研究

融道玄の記述から自分の実家から言えば「すぐ向こう側にあった」高島の家。


明治21年に帰省した融道玄の実家というのは恐らく小田勝太郎の生家のあった天神町内のそれを指すだろう(徹道男『祖父 融道玄の生涯』、勁草書房制作部、2013、27頁 「福山市深安郡福山町安西」とあるのは大いに誤りで”福山城下”位にしておこう)。
浜本鶴賓『福山藩の文人誌』に小田包貞として天神町居住とある(173頁)。濱野徳蔵(親父は小川某、息子は漢学者浜野源吉)の一族と思われる濱野文造(浜野知三郎の親父)として東町居住。
『慶応元年福山城下絵図』(同類の『廃藩直前の福山城下絵図』)を見るとその辺りには2,3軒ほど高島姓の武家屋敷が存在(昭和55年写本では一軒は高島ではなく島)。当然江戸屋敷住まいの高島錡之助(高島平三郎の親父)家はそこには記載されていないはずだが、本家を含め高島平三郎の親戚が2軒(東町の高島猪平と天神町の高島半蔵)の中には含まれていたのだと思う。小田勝太郎屋敷の近辺には(天神さんに至る道路沿いを)「すぐ向こう側にあった」高島の家という感じで大正8年以前、高嶋辰之助所有の居宅(天神丁南乙130番地)があった。これを『廃藩直前の福山城下絵図』記載の屋敷に合わせると、そこは高島半蔵の屋敷だったところで、この図面の中には小田という名字の付いた屋敷はない。小田勝太郎が天神町生まれだったことに間違いがなければ、おそらく「士長屋(敷)」内に生家があったのだろう。東町の高島猪平と天神町の高島半蔵
もしそうだとすれば明治21年当時の高島平三郎の実家は福山西町上小学校の学区から天神町の方へ転居していたことになる。また、小田勝太郎の母親小田芳(明治5年に夫銀八死亡後は未亡人、芳は明治38年歿)は天神町界隈にいた高島一族の人間からいろんな形で世話になっていたことは十分に考えられる。
銀八家は典型的な下級武士(「西備名区」記載の阿部家中の中では俸禄:金4両、2人扶持の御郡同心-小頭、勝太郎の親父銀八はやり手だっただろう、阿部正弘時代に蝦夷地探査のメンバーの一人)で、明治5年に三代目銀八が亡くなると次男・三男(坊の融道玄)は寺に預けられ、長男勝太郎は家族を養うために17歳の時(明治11年)には松永小学校(当時の校長は高橋新太郎、史伝作家高橋淡水の親父)の教員として働き始めている。
もし高島平三郎さんの戸籍謄本が入手できれば、以上述べてきたことの点の真偽を含めて、より一層事実解明が進展することだろう。

高嶋平三郎の姉・鎰子(イツ)は吉津(天神町の隣村)の寺尾三千助に嫁いでいた。その息子の一人が寺尾辰之助(明治12,3年頃の生まれ・・『高島先生教育報国60年』、171-172ページに寺尾の寄稿文)。高島辰之助と寺尾辰之助とは意外と同一人物であったかも・・・(一つの検討課題として、そう口にしてしまった私だが当時は親戚間でそんなことがよく見られたというだけで確たる証拠はない

【メモ】「阿部家中系図纂輯」という手稿本に小田原時代からの足軽:高島四郎左衛門定儀の子孫の記載がある。ただし、高島平三郎家は曾祖父が信義、祖父が信賢となり、通字が「信」、高島四郎左衛門定儀の子孫家の場合は「定」。家筋が異なっていることが判る。高島平三郎の系統は曹洞宗泉龍寺(広島県福山市霞町4-2-3)の門徒(確認済)。現在は古い墓石は郊外の某所(神辺・新市方面)に移転と住職。いまは檀家に高島姓はないとのことだった。高島平三郎の父親の墓は泉龍寺境内ではなく、城北の木ノ庄墓地(城北中学北側・・・現存する門田重長墓近くだった)。
曹洞宗・真宗など最近は個人情報ということで坊さんは檀家のルーツに関してはほぼ沈黙(最近ある人物の墓石を調べてみたが、寺の住職は過去帳をPCで管理していて、私の目の前で正しく情報提供してくれたので、この辺は個人情報云々というよりもその寺院のPCなどを導入した最新の情報管理の存否の問題も影響していそう)。

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またしても城北探検

2019年03月28日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

本日は資料取りモードで出かけた。

北吉津の實相寺境内のモクレン。


山門を上ると・・・・  三浦・内藤など福山藩の重臣の墓地が目立った。上田勘解由は水野家の家老の家筋(上田玄蕃の弟)。この玄蕃は本庄重政の嫁の実家の人。副住職の案内を受けて小田勝太郎墓地へ。あとで小田勝太郎の写真帳を見せてもらった。すごく画質の良い簡易製本の写真帳だった。『法鏡山実相寺 復興の秘密』というタイトルの本(寺院観光用限定・・テレビディレクターを称する著者だが、中身はなし)を頂いた。なかなか気の利く住職夫人だった。


この寺でも雨乞行事が行われたようだ。


小田銀八夫婦・その子勝太郎(笠付墓、高島平三郎の友人、柔道家)夫婦の墓。小田勝太郎の弟が融道玄
銀八については『西備名区』に御郡同心として金4両・二人扶持とある(『備後叢書・3巻』、732頁内容的には寛政末年の分限帳のもの)。【追記】「小田銀八」の名前は幕末期に蝦夷地に派遣された福山藩士の中や文化13年改訂版「沼隈郡東村検地帳」(要確認)の検地役人(山林奉行か山奉行のような役職まで出世)の中でもお目にかかったことがある。


江木鰐水(てか、福山藩医家五十川)家の墓地だ。江木千之は5歳で亡くなった鰐水の次男。五十川は福山藩医の家系だが、鰐水の嫁さんの家と繋がる。偶然発見。その後注目して探してみたが五十川訒堂墓はいまのところ未確認。だが、ここにあるらしい(千之墓の隣の五十川某がそれか、要確認)。



近世墓の学習用画像、台座が台形、宝篋印塔の形状、お墓のサイズや形状は今津薬師寺墓地にある神村屋石井家の江戸中期墓と同じだが、戒名が・・・三浦氏は院澱号+大居士、石井家は信士。

実相寺から市内を展望・・・・遠方の山塊の右端部分に最高所:熊ヶ峰


木之庄5丁目の地神


高橋碧山の医学の先生:寺地強平のお墓@仁伍の神道墓地。『備後国名勝巡覧大絵図』に”序文”を寄せた人物だ。福山医学の祖。

仁伍の神道墓地(西端部分)のパノラマ写真。


門田重長墓(儒者墓というよりも神道系の墓石)より河相保四郎家墓地を展望。土塀囲まれた河相墓地の手前に福田禄太郎墓、門田重長墓周辺には墓じまいしたのか空き地が散見されたが、もしかするとまさにその場所を含めて、この一帯には高島平三郎の両親の墓があったか。『得能正通年譜2』にはこのように記述されているので其れで良いのだろうと思う。調査開始からまる4年、やっと高島賢齊墓の場所が判明した。


福山市木之庄町尾ノ上共用墓地全景


塀に囲まれた河相保四郎一家の墓地。外務省事務次官・河相達夫(松永浚明館で高島平三郎と出会った後の東京帝大医科教授永井潜の実弟)のお墓でもある。息子が太郎。




河相達夫の息子:河相 洌⇒孫:河相周夫(外務次官→侍従長→上皇侍従長)河相 洌と河相周夫の親族関係については要確認。



本日の最大の成果は①福山城博物館で『廃藩直前福山城下地図』の復刻版を購入。この中に。東町に高嶋」という苗字の士族屋敷が一軒、そして天神町に1軒あることが確かめられたこと(ただ小田という姓の士族屋敷は不在であった)。②文化期の江戸丸山藩邸屋敷図中に「高嶋」を見つけた。これが高島平三郎とどうつながるのか、つながらないのか今後の検討課題だ(併せて高島が入学したのは福山西町上小学校、天神町生まれの融は当然福山東町小学校 この辺の違いをどう理解するべきか)。
なお、『廃藩直前福山城下地図』中の江木鰐水(繁太郎)屋敷は藩校誠之館の北隣りにあった。
膝の具合がよくないので、効率的に調査活動を進めるため駅前からタクシーで目的地へ。あとは歩行。

北吉津の地神。木之庄でも地神をみた。


実相寺着・・・12時21分~12時58分
地神・・・・・・・13時13分
仁伍の神道墓地で寺地強平墓発見・・・・13時21分
河相保四郎一家墓地・・・・13時30分
城北中学通過・・・・・13時55分
福山城公園到着・・・・14時08分、館長に挨拶し、古地図類を購入し、早々に帰路に就く。・

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パソコン上で行う高島平三郎の旧居宅探し パート2

2019年03月25日 | 高島平三郎研究
今回は「パソコン上で行う高島平三郎(1865‐1946)の旧居宅探し」の続篇だ。
高島平三郎の友人小田勝太郎(1862‐1935)の弟:融道玄(1872-1918)が雑誌「新仏教」に掲載したエッセイの中にそれを考えるヒントがある。

融皈一という筆名で雑誌「新仏教」に投稿した文章の一部だ。この文の前に高楠順次郎のところに本を返しに行ったときに、高楠から密教の教理を研究するより、博物館がスタッフ不足で困っている仏教美術史家を目指したらどうかと言われ、融道玄は仏師の倅じゃあるまいし、こんなご時世に骨董品いじりなどしている暇などない、バカバカしいと憤慨していた。そういうプライドをもった鼻っ柱の強いところがあったのだろうか。そして最後に高島平三郎のことに触れ、つぎのように記述していた。
1903年、道玄41歳のことだった。


明治22年の夏休みといえば高島25歳の事。その数か月前に当たる明治21年10月22日に学習院幼稚舎取締になったところで、我が国における児童教育界のリーダー的存在に就き始めたころのこと。このとき融は18歳で第三高等中学校に入りたて。家が近所で、親同士が懇意で道玄の兄小田勝太郎と高島とが友人関係にあったことから融は高島とはすぐに仲良くなれたらしい。お互いにインテリ同志だという意識が強かったのか相当の英語かぶれだったようだ。参考までに高島と融の身長差は25センチ位はあっただろか。融道玄はいわゆる永井潜同様の神童で、典型的な山椒は小粒でもピリリと辛い&歯に衣を着せぬ人だった。
この文章から高島の家は道玄の実家の「すぐ向こう側」にあったらしい。ってことは高島は城北にではなく士族屋敷の一角を占めた天神町辺りに住んでいたのか。この辺の問題は徹底的に追究していくつもりだ。まず最初に

いずれにせよ「パソコン上で探す高島平三郎の旧宅探し」は前回提示の仮説の修正を急がなければなるまい。

参考までに融道玄(後年高野山大学教授)は東京帝大初代梵語学講座教授(1897年)の高楠順次郎(三原時代の長谷川櫻南の教え子)に盾を突くくらいの人間だったので姉崎正治のように東京帝大における高楠の後継教授にはなれなかったし、当時流行していた留学経験がなかったために3年先輩の鈴木大拙のように国際的な活躍をすることなく46歳の若さで亡くなってしまう。高楠も姉崎も留学経験が豊富で、相当の語学の達人だった。


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松永史談会2019‐4例会のご案内

2019年03月25日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会2019‐4例会のご案内

日時と場所
4月26日(金曜日)、午後1時半
3月例会と同じ、東村・石井さんのお宅

晴天時には15:30~16:30をめどに小学校の屋上より「屏風絵に描かれた『遺芳湾』」の実景を展望。

話題 福山の嘯雲嶋業(しょううんとうぎょう)編「備後国名勝巡覧大絵図(復刻版)」について。 


虚実を交えながら備後国および当該国内14郡の成立過程を説明。この中に嘯雲嶋業(メモ:金嶋嘯雲の方は明治25年に67歳なので、万延元年と言えば33歳。これが嘯雲嶋業その人であったのか否か。明治維新後さびれた福山から尾道に転居したヵ。どうなんだろ。)類似の人名の尾道図模写者:金嶋嘯雲)の神儒仏が渾然一体となったユニークな(=前科学的)思惟・思考の一端が垣間見れる(検討中)。

76-8 福山 嘯雲嶋業製 - 彫刀 西備福山 學古堂 萬延元年庚申二月發行 木版(彩色) 1舗 141.3×122.6cm(30.1×16.7cm) 舟里漁翁
印記: 蘆田文庫, 蘆田伊人圖書記
注記・解題: 袋付。出版者として「京都書林」とのみあり。その下は板木を削りとったと見える。袋の表に「清溪堂」「嘯雲字成賀」(朱角印)あり。裏に嘯雲堂著の近刊広告あり。この部分でも「皇都書肆」の下の板木を削りとっている。道路の朱は色刷り。

松平亮『東備郡村誌 高島』、天保8年

【解説】嘯雲嶋業と松平亮とはともに吉備国のルーツ説明を『大成経』の黄蕨譚に依拠。両者の違いは後者はこの典拠を明示の上、そういえばという形で高島宮旧跡付近には蕨が繁茂するというような話(根も葉もない話に現実味を付与.本居宣長『古事記伝』の主張を受け入れるかたちで、高島宮に関しては断定は避けながらも備前・高島は狭小すぎるとして、児島・宮之浦のほうがふさわしいと見ていた)を展開。ただ『大成経』が言うところの黄蕨⇒吉備説は疑問視し、代わりに寸簸(きび)⇒吉備説を提示。さらに備前の名山:箕山は「簸の山」の起源になった山だとし、ここからスサノオの八岐大蛇退治神話と連結した簸川⇒「簸(み)の山」説へと暴走。それに対し嘯雲嶋業の方は、どうも松平亮『東備郡村誌』の件は知っていたように思われるのだが、『大成経』の黄蕨(きび)譚を不正確に引用しながら、かつその典拠をさりげなく隠蔽(沈黙)、その上で五行思想の中での黄色の色彩象徴を下敷きにしつつ黄蕨国(「当国」=吉備国)が八州(=おおやしま)の中央だとの一歩踏み込んだ説明。神武天皇の高島宮の所在地を古都として捉え、その話は嘯雲嶋業の沼隈郡・宮崎村説へとつながっていく。この説は国府犀東『神武天皇鳳蹟志』(73-91頁)が紹介している通り、菅茶山『福山志料』説(巻之29、弁説・名勝雑事 「高島」)そのものだった。
嘯雲嶋業と松平亮といったある程度教養を身につけた御仁たちの学知的水準といったものも今から考えればその程度のものだったわけだ。
資料

ネット公開中の海図@東北大学

岩礁情報はこちらが豊富国土地理院の沼隈半島南部のゾワイ


『大成経』には言及のない神道研究家の労作。


国文学研究資料館蔵『備後国名勝巡覧大絵図

金嶋嘯雲関連のメモ
資料に関する注記

一般注記:
タイトル注記:原題簽存(中央双辺)。内題「備後国御調郡尾道市街地絵図」。
縹色表紙。表紙寸法18.5/12.9。書写者金嶋嘯雲は伝不詳。尾道の人か。
カテゴリ名:無し
資料の種別:地理 地図
資料の分類:一枚物-地理 地図 地方図 山陽道
公開範囲:ウェブ公開
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資料詳細
内容細目:
備後尾道市街の略地図。寺院と神社名、及び僅かの地名を注記する。彩色入り(山は緑、海は藍、道路は代赭色)。亀山士綱編『尾道志稿』(文化11年成)に拠るもので、図の右に尾道の建置沿革、諸方道法、名臣について補訂記事を記す。
(提供元: デジタルアーカイブシステムADEAC)
解題・解説:
冒頭に書写識語「此ノ図ハ文化十三年丙子孟春尾道処士亀山士綱著ハス処尾道志十一冊第十之巻中ニ図スルヲ模写スル所也余地図ノ癖アリテ此書閲センコト既ニ年アリト雖得ル不能一日葛西喜水翁ト閑談ノ折リ其書籍ハ予カ家ニ蔵セリト乃チ借覧ヲ乞フ翁コレヲ赦ス仍テ熟読スルコト再三ニ至リ頗ル地勢沿革ヲ悟リ心欣然トシ老筆ヲ揮ヒ僅カ脱漏ヲ補フ明治廿五年壬辰八月四日六十七歳ノ老夫金嶋嘯雲此日陰雲醸雨嗚呼暑熱難堪」。
(提供元: デジタルアーカイブシステムADEAC)








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太田屋杉谷氏の親類縁者は健在か

2019年03月24日 | 断想および雑談

31歳で病死した国太郎の戒名は「靖心義範居士」。弟が漢文体の墓誌に書いていたように、いい人だったのだろ。

お彼岸なので申し訳程度に榊が手向けられていた。よかったよかった

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なお、むかしの話になるが沼隈郡今津村に地権者としての杉谷氏はなし(ただし、松永町の今津島には地権者として杉谷姓あり)。
昭和10年代の神社総代に杉谷(渡辺)という人物。


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沼隈郡今津村にあったもう一つの中世宝篋印塔

2019年03月24日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
相輪部は宝珠・伏鉢部分が欠損、九輪部分も過半が欠失。笠部分の隅飾りは心持ち外側へ傾き、隈取が二重線(2弧)。塔身部の4面に薬研彫りのキリーク(金剛界四仏の種字)・・・東西南北の向きに誤り有。南面する正面側に阿閦如来(あしゅくにょらい)⇒東が来ている。基礎部分の格狭間(こうざま)は花頭曲線の左右方向への張りがあり、内側も彫りこんでいる。現在残っている部分の高さは110センチ。

歴代住職の墓石に交じり、中世の宝篋印塔。この宝篋印塔は事情が判らず、ここに運びこまれたもの。わたしの朧げな記憶では付近のどこかにあった宝篋印塔だ。


法量


これまでルポしてきた今津村の宝篋印塔(この宝篋印塔は現在は削平して駐車場になっている旧岡見山の上にあった。この一帯は中世の金剛寺境内地)



沼隈郡今津村における中世宝篋印塔が薬師寺関係の場所に存在した。
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『万延元(1860)年備後国名勝巡覧大絵図』-古地図研究の面白さ・3ー

2019年03月23日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
保安庁のHPからの引用だが、いかのような記述が目に留まった。
瀬戸内海の浅瀬名(普通名称)
 
 この海域の浅瀬名をその数の多い順に列記すると瀬、石、岩、磯、ソワイ (ソワ)、出シ、州、碆、礁、藻、ツガイ、ソノ、アサリ、喰合などがある。このうち「出シ」「ツガイ」「喰合」はこれら暗礁の位置を探し出す目的で付与された特別な呼び名で、航海・漁業用語ともいえるものである。

この「ぞわい」(隠顕岩=海岸などで干潮時には水面上に現れ、満潮時には水面下に沈んでしまう岩)という言葉自体は国土地理院の地形図にも記載があり、既知の事ではあったが、それが近世絵図にも記載されていた点が今回は注目された訳だ。この点は『備後国名勝巡覧大絵図』の大きな特徴を示すものだともいえよう。
この地図史料は広島県立博物館にも所蔵されているようだが、今回初めて満井石井氏からの紹介で知った。
この穏健岩の所在地を示すと思われる「ソワ」の注記のある『万延元年備後国名勝巡覧大絵図』がこちら。


宮内省書陵部のサイトより直接閲覧されたい→Googleで『備後国名勝巡覧大絵図』を検索。


蛇足ながら


当時一般に流通していたのは今津・剣社(古社)・陰陽石、高須・高諸神社(式内社)ということだったらしい。

こちらに比べると寛永の備後国絵図にみる芦田川の流域は相当に不正確だった。
使用されている地図記号・・・・当時流通していたものを採用しているわけだが、古城址のマークや神社マークなどは今日と同じものだ。

この種の地図史料の研究手順としては①記載された地域に関する情報密度の分布及び②近世地誌類との参照関係のチェックなどだが、第一印象としては比較的簡単に処理可能だ。郷土誌的には貴重な資料の一つだが地図史的には新鮮味はない。



金嶋嘯雲
資料に関する注記
一般注記:
タイトル注記:原題簽存(中央双辺)。内題「備後国御調郡尾道市街地絵図」。
縹色表紙。表紙寸法18.5/12.9。書写者金嶋嘯雲は伝不詳。尾道の人か。
カテゴリ名:無し
資料の種別:地理 地図
資料の分類:一枚物-地理 地図 地方図 山陽道
公開範囲:ウェブ公開
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資料詳細
内容細目:
備後尾道市街の略地図。寺院と神社名、及び僅かの地名を注記する。彩色入り(山は緑、海は藍、道路は代赭色)。亀山士綱編『尾道志稿』(文化11年成)に拠るもので、図の右に尾道の建置沿革、諸方道法、名臣について補訂記事を記す。
(提供元: デジタルアーカイブシステムADEAC)
解題・解説:
冒頭に書写識語「此ノ図ハ文化十三年丙子孟春尾道処士亀山士綱著ハス処尾道志十一冊第十之巻中ニ図スルヲ模写スル所也余地図ノ癖アリテ此書閲センコト既ニ年アリト雖得ル不能一日葛西喜水翁ト閑談ノ折リ其書籍ハ予カ家ニ蔵セリト乃チ借覧ヲ乞フ翁コレヲ赦ス仍テ熟読スルコト再三ニ至リ頗ル地勢沿革ヲ悟リ心欣然トシ老筆ヲ揮ヒ僅カ脱漏ヲ補フ明治廿五年壬辰八月四日六十七歳ノ老夫金嶋嘯雲此日陰雲醸雨嗚呼暑熱難堪」。
(提供元: デジタルアーカイブシステムADEAC)

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大正通りの今昔

2019年03月18日 | 断想および雑談
今日午後は大正町通り(大正通りを指す)を探訪した。黒金屋・”番頭=集金人”行廣房吉家(息子は元中学校校長、1932年生)を訪ねちょっと聞き取り調査。後日再調査(現在再調査中…住宅リホーム時に黒金屋関係の帳簿類をすべて廃棄ヵ 本日の聞き取り調査中興味深い一言を耳にしたので来週あたりから真偽問題含め、資料面から逐一確認予定だ)。


写真左端、ガード下に「悪水」が東西に通過(大半が暗渠)。これが沼隈郡今津村と松永町との境界(上図中の黄色太い線)。




大正町通りと旧九州往還(国道二号線に包摂)の交差点より、南側、「大正通り商店会」。


国道二号線との交差点以北。大正町通り脇に鉄板カバーで暗渠化された農業水路=安毛川

鉄板カバー下に暗渠化された安毛川。大正町通りは旧九州往還の南北でズレ。写真奥側にJR駅に通じる商店街。

大正町通りの九州往還以北での戦後の区画整理後出現した旧特定郵便局(松永日の出町郵便局)の今。


区画整理反対派の意思表示→首なし地蔵




大正10年に開通した大正通り建設記念碑(36年建立)・・大正期における駅前地区の整備事業を発起した立神誠一(1866-1931)・井上寅吉・行広房吉を顕彰。こういう人たちの貢献なくして昭和期の松永市(とくに松永・今津地区)の発展は望めなかっただろ。




協賛者名碑


写真左端の駐車場看板奥に大正町通り商店街入口。正面アーケード街が日の出町


スラム・クリアランスや都心再開発、そして都市更新urban renewalが進まないのは・・・・都市行政の無策か、それとも複雑な地権者状況や・・・か

関連情報

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「地方文化開拓者」といわれた男

2019年03月15日 | 断想および雑談

三原乙吉(1864-1946)は今津町471に居住した御仁だ。不動産は昭和32年に山形武に名義変更(相続)されている



三原喜七の息子だったようだ。喜七は屋敷を担保に村上重右衛門に借金したようで、明治33年3月3日に乙吉が村上から買い戻している。炊事場のほかに2間しかない粗末なかやぶき屋根の家だった。むかし後継者の山形武は玄関先で、仕入れたウナギを器用にさばき、店で出すかば焼きの下ごしらえをよくしていた。時には家の前の溝を泳いでいるドジョウを捕まえ、それをいきなりかば焼きにすることもあった。こういうwildなことをする山形武さんのことだからアナゴやウナギのかば焼きに混ぜてドジョウのそれをお客にふるまっていたかもしれぬ。奥さんに関しては私の記憶にはほとんど残っていないのだが、仲居さんだということを子供のころ祖母から一度聞いた覚えがある。昭和32年に国道二号線が建設され、以後山形家の人々の消息は不明だ。今回見かけたお墓に榊が手向けられていたので山形さんを含む三原乙吉さんの親類縁者は健在なのだろ。




「地方文化開拓者」という言い方は聞きなれないやや力んだ表現だ。
念のため、矢野天哉『人生画帳』を調べてみたが、わかったのは文選堂という新聞雑誌販売店を経営した御仁だったってこと。それを捉えて地方文化開拓者と称していたわけだ。なるほど、なるほど定期購読者を増やす業務(市場開拓)は活字に縁のない人々の中に分け入って行くわけだから明治後半期においてはまさしく文明のすそ野を開拓する行為そのものだったろ。三原はそのことに関してなにがしかの矜持を持ち、使命感を抱いていたのだろうか。その後、『松永市本郷町誌』・本郷町誌年表/明治25年の項目に「今津村三原乙吉新聞配達業を始む」(953頁)とあることを確認した。新聞配達店の開業はまさにそのくらい画期的なことだった事が判ろう。なお、三原という苗字はこの地方では駅家(万能倉)・赤坂(長者原)に多い。
大正2年本殿再建費寄付者芳名碑

下の方に三原乙吉の名前


大正2年本殿再建費寄付者芳名碑に見る高額寄付者



なんとなくだが西組(剣大明神鳥居前の薬師寺所有地に居住)の「栄虎」とはやはり見栄の張り方からして平櫛民治郎かなぁ。これはわたしの勘だからあまり大きな声では言えない。

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猪原軍兵衛と上村貞良

2019年03月14日 | 断想および雑談
柳津・善立寺にある墓石
一つは上村貞良、今一つは家塾の先生猪原軍兵衛
上村は幕末期に九州よりこの地に寄留してきた医者


猪原軍兵衛は読み書きそろばんの先生として未だに記憶されている塾の先生、門人が建てたお墓。形状がちょっと変わっている。


猪原は鞆津出身の人だろうか

類似の墓石:渡辺金兵衛@西町の定福寺


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阿部藩政をめぐるもう一つの断想

2019年03月12日 | 断想および雑談

本郷町の清光寺(無住寺)といえば本郷村の石井一統(上古屋・下古屋・下土居・増古屋・南などの屋号を有する石井一統)の墓地のあるところだが、明治40年に松永町に転居した端古屋の墓地は今津薬師寺の石井家墓地に移動していた。


笠付墓が5基(スペースの関係で2基は笠部分を廃棄)ある。『松永市本郷町誌』431‐433、712‐713頁によれば近世中期における本郷村きっての豪農だったらしい。初代庄左衛門(寛保3年歿)、二代目又三郎(宝暦2殁)そして三代目蘭蔵(文化)5年歿の時代にあたる。近世後期には藤江村の岡本山路家が江木鰐水らとの交流を重ねていたが、これは福山藩側からすれば太い献金のパイプを構築し、それを維持するためでもあったのだろ(幕府の御尋ね者で尊皇思想の唱導者森田節斎をかくまうに当たっては山路機谷と坂谷朗蘆・江木鰐水らは同志的連帯をした)。江木鰐水が書いた山路機谷編『未開牡丹詩』の序文には岡本山路氏に対する軍資金拠出の件が赤裸々に記載されているし、江木鰐水日記を読めば郡奉行の浜野徳蔵(濱野家は城下東町の足軽、子孫健在、徳蔵の息子は漢学者濱野章吉)が大量の鉄砲代金を献納(万延2年3月7日条、『江木鰐水日記』上巻、297頁)していたことが判る。能吏でもあった、この浜野の場合は幕末期の窮乏する藩に対する忠誠心の大きさが、民衆への負担増を強いる形で立ち現れ、それが結局のところ民衆的な反感をかうところとなった構図が手に取るように見えてくる。
【注】『江木鰐水日記』下巻は明治4年9月20日条において、沼隈郡芸領接界の農民騒乱の中では笠井治右衛門(浦崎、向って左側の墓誌の撰文は江木鰐水)と今津の河本(保平)が槍玉に挙げられたと記述している(58頁)。明治維新期に福山藩の意向を受けて新涯開発を主導した津川右弓・濱野徳蔵(戒名は「順善院義徳日行居士」。浜野家墓地は長正寺だが、徳蔵墓は行方不明、息子の浜野源吉墓は境内墓地北側壁に無縁墓石群の中にある。同じく北側壁墓石群中の津田右弓墓の近辺)、笠井治右衛門・久井屋栄介(沼隈郡柳津村・・「人夫らに提供した粥は米粒が少なく水ばっかりで、これを啜ると腹を壊したと人夫らは噂し合った」という意味のことが兵庫県在住の西久井屋の子孫の方の備忘録に記載されていた)らだが明治3年の海嘯(大潮)で堤防が不運にも破壊され、これが周辺住民の夫役負担を倍増。ために明治4年の農民騒乱時にこれらの人たちはことごとく焼討ちの被害を被ったと同書は記述。

沼隈郡本郷村における「藩政末期の献金」については『松永市本郷町誌』684‐690頁が参考になる。この段階には藩主信仰が浸透していたのか農村内部の富裕層に限らず村民こぞって拠出に応じている。

菅茶山らは中山南の何鹿桑田氏同様、この端古屋石井家との交流も密にした。こうした在り方は福山藩の政策として、少数の家中だけで藩領を支配することの困難さを熟知していた(他所からの来住型=よそもの)藩主水野・阿氏らが採った、広範な在地勢力を効率的に統制するために一部の住民に対して特権(例えば受とか受所=収税・徴税の業務委託、江戸後期のことであるが御用商人の顔を持つ在方扶持人資格)を付与する形で在方の豪農・豪商層に育て上げ、彼らに寄生する形で藩政運営を行おうとしたことの所産であった。菅茶山ら文化人たちの役割は藩主側から言えば自らとこれら在地勢力側との接点、接着剤として機能することであったはずだ。豪商・豪農たちはひと時の栄華の夢を見ることが出来たが、家運が傾けば、簡単に別の豪農・豪商たちによって交代させられ歴史の表舞台からは消えていった。近世中期に全盛を迎える神村屋石井家・端古屋石井家であったが、いづれも阿部藩政の上述のようなやり方に翻弄された悲劇的な旧豪農層の例であった。
私にはこういう構図が見え隠れするのだが、研究レベルの話としては夢想や妄想を排し、具体的な証拠を提示しつつ手堅く議論をしていく必要があろう。
さて、昨日は90歳近い品のよい老婦人と息子さんがお墓参りにきていたので早速挨拶をしておいた。墓地がきれいに手入れされ本日はまことに晴れやかな気持ちで帰途に就くことが出来た。

赤点マークが江戸中期の神村石井家の墓石
赤マーク墓石の中に高さ1メートル以上の塔婆型墓石5,6基あるが、いづれも福山市沼隈町枝広本家の寛文―元禄期の墓石。

細かく見ていくと完全倒壊のものも・・・


神村石井五郎兵衛近次とあるが、神村石井氏⇒和田石井氏第四代(『松永市本郷町誌』、317頁)のこと(享保4年=1719年墓)。


大型の笠付墓は宝永6(1709)~宝暦9年(1759 ),舟形光背墓や板碑型墓石は18世紀前半期のもの。薬師寺の場合は本堂裏手に局限。現在は枝広(子孫によって管理されている)・神村屋石井系、尾道屋高橋(ともに放置・放任状態)・・・その他は不明。






濱野徳蔵家との姻戚関係を通じて本郷町金原(東金原)氏は幕末期に急速に富裕化)
渡辺修二郎『阿部正弘事蹟』2、続日本史籍協会叢書、527-529頁に「山岡八十郎ノ諌死(かんし)」という項目があり、その中で安政元年3月の事として、山岡が近年異国船が頻繁に襲来し、そのための海防経費負担が福山藩内では上下を上げて生活困窮化に拍車をかけているという意見を、藩主阿部正弘に直訴する形で話した。藩主に直接意見を述べることは山岡の身分(元締め役)には許されないことであったようで、直訴が身分を越えた行為であるとの武家社会の慣例に従って、翌日切腹(諌死)をとげ責任をとったという。この話題は濱野『懐旧紀事-阿部正弘事蹟-』には登場しない。なお、山岡八十郎とは岡田吉顕の伯父。阿部藩政の犠牲者は御用商人(在郷商人=豪農)だけではなかった訳だ。

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