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雑記帳 頼山陽の『日本外史』&『日本政記』(執筆中)

2019年06月04日 | 断想および雑談

雑記帳 頼山陽の『日本外史』&『日本政記』(執筆中)
February 08 [Thu], 2018, 10:45
頼山陽『日本政記』・・・・神武天皇から後陽成天皇(秀吉時代)までの天皇を基軸に据えた紀伝体の史書&政論(日本の歴史に即して治政の在り方を具体的に論評。執筆の目的はお国の為になるような為政者・支配者の実際的な政治論書の提供だった)。山陽政治思想史ともいうべき性格を持つ(『日本思想史体系ー頼山陽』、岩波、解題)。本書に関しては徳富蘇峰の頼山陽研究に詳しいらしい。『日本政記』の種本だが、16巻(正親町天皇)までは林羅山の三男林 鵞峰 (1618-1680)著「王代一覧」、「大日本史」、それ以後16巻の「後陽成天皇」部分は関藤陰藤執筆分で典拠は頼山陽の「日本外史」。分量的には1-9巻(神武天皇ー近衛天皇)までが過半を占める。14巻・北朝最後の後小松天皇までが分量的には全体の3/4以上、この部分は「大日本史」が種本、それ以後は「日本外史」からの引用。外史は正史に対する民間の史書:稗史のこと。論賛部分は新井白石『読史輿余論』、安積澹泊『大日本史賛叢』からの引用。この点は『日本外史』も同様。

『日本政記』12巻は後醍醐天皇編だが、間違った年月日の記載を含め(『楮幣』とよばれる新紙幣、貨幣の発行について言及しているが、これらは計画され、3月には「乾坤通宝」発行詔書が発行されているが、乾坤通宝の存在は確認されていないなど)不正確な事項の記載も多々あるようだ。こういう部分は頼山陽のライターとしての未熟さ・杜撰さの発露(。作田『続日本権力史論』、183頁に乾坤通宝・楮幣の話題)。

第十二巻:後醍醐天皇では名分は備わっているが、建武の親政の悪政ぶり(施策が性急すぎ『二条河原の落書』にあるような世の中の混乱ぶり)に言及し、天皇の支配者としての資質のなさを指摘(後醍醐天皇は『大日本史』がいうような仁政を布き民生を安んずる為政者の資質を欠く御仁だった)。「宮室を営むを以て急となし、妃嬪を悦ばせるを以て務めとなす」(『日本政記』 340頁)、と。作田高太郎も頼山陽の影響を受け後醍醐天皇を捉えて子供が30数人いる▽力×倫男呼ばわり・・・・(この種の認識は浅薄皮相な頼山陽以来の後醍醐天皇観の反映だが、これは紫式部の執筆した一種の「栄花物語」たる『源氏物語』を主人公・光源氏を中心としたハレーム=頽廃小説だといった捉え方と類似の困った誤解の所産だ。わたしの理解では、多くの子孫を残すためのハーレムを形成することは今流の感覚で言えばまことに嘆かわしいことではあるが当時としては正統な王権行使であった)。その治世は後鳥羽上皇時代と同様で上下をあげて頽廃的だった、と(『日本権力史論』 240‐241頁)。頼山陽が注目したのは、そんな後醍醐天皇の資質の有無ではなく、悲惨な状況にあった天皇のために命を投げうってまで忠義を尽くし”嗚呼忠臣楠氏墓”と命名して徳川光圀を感激させた臣下:楠木正成の生き様の方であった。後醍醐天皇の近習の中では一番家柄の劣る楠木をその功名は永遠だとも頼山陽は書いているので、これは幕末の勤王家たちを十二分に鼓舞するところとなったこと疑いなしだ。

『日本外史』は後醍醐天皇という帝王としてはいささか資質に欠ける人物の有する本朝伝統的権威(天照大神を信仰する人物)に対する忠義の示し方に応じて忠臣/逆臣を区別し、足利尊氏は後者の典型(註解では国賊とも記載)、北条・足利氏は姦雄。前者の典型として家柄が劣り出自のもっとも卑しい人物:楠木正成を忠臣の代表として形象化している。いわく「楠木正成公の広大な節義は巍然として山河と共に並び存し世道人心を万年の後までも存分に継ぎ保つもの、それに引き換え姦雄:北条・足利氏らの権勢の持続期間は高々数百(2,3百)年、楠木氏と彼らの優劣は」明らかだろうとばかりの激賞ぶり。時間論のduration(持続時間)面から言えば楠木の節義は永遠の価値を有するものだが、姦雄(足利氏)の権勢はたかだか数百年程度のものだ、と(頼山陽特有の巧みなレトリック)。徳川幕府の長い繁栄は北条・足利とは異なり新田氏時代の善行・忠義のおかげだとも。

『日本外史』解説としては『日本外史』、岩波文庫(上)の尾藤正英のものが要を得ており、それを参照のこと。


日本外史を一種の文学作品、長大な叙事詩だと・・・・納得!  学問的には史実に関してやはり誤謬が多過ぎらしい。


論賛部分には「大日本史」・新井白石の「読史余論」、北畠「神皇正統記」などを参照した形跡
頼山陽の名分論(「名分のあるところ踰越すべからず」)からすると新井の足利将軍=国王、当時は天皇というものは実質的に不在だったといった歴史理解にはもう反発。

頼山陽のいう「尊皇」至上主義は討幕とか天皇親政への待望とは無関係。そもそも本書は老中松平定信に提出された軍記物の衣装をまとった朱子学的名分論の書で、為政者たちにとってはお馴染みの当然「史記」の書法などを手本とする。頼山陽の名分論は藤田幽谷が松平定信に提出した正名論(「君臣上下の名分を正すことの重要性を強調しつつ、幕府が天皇を尊べば大名は幕府を尊び、大名が幕府を尊べば藩士は大名を敬い、結局上下秩序が保たれるようになるとして、尊王の重要性を説く」)と同類。その限りにおいて両者は幕藩体制を擁護する尊皇思想に言及したといえよう。


本編(『日本外史』・第五巻:新田氏前記)は臣下の名分(朱子学的な名分= 立場・身分に応じて守らなければならない道義上の分限)などといった儒教的倫理観を、中国の古典に登場する人物、中心的には楠木正成を引き合いに出しつつ我が国の軍記物語の中に注入・改作した作品なのだ。プロット構成の中では楠木正成を後醍醐天皇の「夢想」、建武の親政の「寿命」を大坂・天王寺蔵聖徳太子「未来記」を持ち出しわずか3年だと楠木自身に予め悟らせるといった筋書きになっており、このように神のお告げ的要素を表現する在り方の中で、頼山陽のおそろしくDoxa(憶断)に満ちた原始的心性は全開する。ここでは天命・天誅の「天」に相当する普遍的価値を担う部分に「聖徳太子」が当てられていることにも注目しておきたい。(徳富蘇峰『人間山陽と史家山陽』1932、民友社…大正11年東京築地での講演会で「頼山陽は世の中をひっくり返すぞといった危険思想の持主ではなく、国家主義と皇室中心主義の唱道者」80頁)。


『日本外史・第五巻(冒頭の文章)』皇室に対する忠勤(王事に勤むること:勤王の精神)の乱れ、皇室(権威)自体の乱れの中での臣下(権力者:源平、北条)の横暴

徳川家は新田氏系得河氏・得川氏の末裔を称したので南北朝期の新田氏をハイライト化し、その背後に楠木氏らを配置するといった明らかに徳川幕府(日本外史の最終巻では時間をかけて慎重に天下を取った家康公を持ち上げ、だから徳川氏の治世が長続きしたのだと豊臣氏を引き合いに出しつつ称賛)にゴマすりをする(=媚びをうる)やり方を頼山陽は取っている。因みに*新田氏前記・楠木をメインに中興諸将;北畠・菊池・名和・児島・土居・得能の各氏を付記⇔新田前記を読むと軍記物語の形式を借りた家柄・門地の面で劣位にあった楠木正成一族を『史記』中の人物に準えながら特徴付け、楠木の行動を引き合いに出しながら儒教的な倫理(忠義・仁・名などの徳目)を唱道したまるで浪曲台本のようだ(執筆中)、『日本外史』は文化文政期の文芸作品『里見八犬伝』などと同じ土俵の上で眺めてみるというのもありなのだろ(たとえば成功例とは思えないが井上厚史「『南総里見八犬伝』と『日本外史』の歴史意識」同志社国文学 (61), 514-503, 2004-11 )。

・・・日本政記

名分論:名分を乱したものは激しく攻撃、それを守ったものには最大級の称賛を与える立場から記述。
頼惟勤によれば楠木正成との出会いに関して後醍醐天皇の夢想が契機となったといった記述があるらしい(中公バックス『頼山陽』 日本外史 、234頁)。

「瑞夢石」(夢枕に現れた霊石)というお題の漢詩屏風(幕末明治期・沼隈郡今津村)・・・・頼山陽の生きた時代の生活世界の中には現実の世界と夢の中の世界のことは同一の座標系の中で矛盾なく共存していたことがわかるだろう。


確認したところこの箇所だ。


夢想というのは頼山陽の心性の在り方の反映か。夢想は鎌倉時代の代表的史書:『吾妻鏡』にも出てくる言葉だが、『日本外史』のメインテーマ部分でのお伽話めいた筋立て。本書の性格の一端が少しく透かし見えてきた。


当時は「和臭」を嫌う風潮が徂徠派を中心に関東では強かったらしいが、山陽は地名・人名・官名は中国風に改めることを避け、日本語表記した・・・・この点は無問題。江戸を中国風に「武陵」とか「武昌」と表記されたらそれこそ困りものだ。森田節斎は日本は中国文化圏内に在ることを力説していたが、頼山陽の歴史制作も当然に『大日本史』、中国の「史記」「後漢書」「三国志」等を手本(=準拠枠として過去を再構成)としたもの。頼惟勤は本書が山陽の「日本にて必要の大典とは芸州の書物と呼ばせ申したき」(33頁)思いといった芸州№1主義の発露に過ぎず、本書が後時間(=時代)的に帝国主義「日本」の思想、勤王家を鼓吹した歴史的事実があったとしても、別問題。本書自体の価値とは一旦分けて考えるべきだ(36頁)という。
ただ、頼惟勤が日本外史研究史の中の平泉澄・和辻哲郎(「尊皇思想とその伝統」・・・山陽は詩人だ。したがって歴史叙述は学問的というよりは芸術的、その功績は歴史叙述の上にあるのであって、歴史探究の上にあるのではない、と)・丸山真男・尾藤正英(岩波文庫『日本外史1-5』昭和43年、解題:「日本外史」は人物中心の武家時代史であり、その中では個々人の人物の人間像を描写し、その心情の美しさ、行動の正しさや勇ましさを顕彰することに主眼が置かれていた。読者は山陽の記述を通じて武士(和辻のいう「臣下」)としての生き方、日本人としての人生観を学ぶことが出来た、と、34頁)らの論考をハイライトした時点で、頼山陽が帝国主義「日本」の思想に与えた影響とか勤王家を鼓吹した歴史的事実を『日本外史』そのものから分離して考えるべきだという論拠は半ば失われているというべきだろ。

私自身は『日本政記』『日本外史』はまことに下らない本だという印象を深くした訳だが、作田高太郎を理解するためには最低限、このくらいは通読しておく必要があろうと思っているところだ。頼山陽には被支配者側の事柄は視野に入っておらず、言及領域は支配者間限定。『大日本史』は為政者論、『日本外史』は臣下忠勤論、作田の『日本権力史論』三部作は支配される側の立場から行論されている。

『福翁自伝』では賴山陽は子供時代の教えの中で信じるに値しない存在だと思い込まされたこと、そして『学問のすゝめ』の中では
『日本外史』が説いたような儒教的名分論は根本的に否定(例えば明治7年4月執筆の第8編「我が心を持って他人の身を制すべからず」)。名分論は陰陽五行説同様の妄説。忠臣義士の死は徒死(無駄な死)・犬死だったという福澤の主張は当時大批判をあび、その弁解を,明治7年11月7日付けで慶應義塾59楼仙万記のペンネームを使い、時勢論を持ち出して弁明。時勢論では昔は忠死だった、だが今は対外的な懸案事項も関係することだが、そんなことは徒死同然だという風に反論。福澤の考え方は英国の歴史家E・H,カー風にいえば「歴史とは尽きることのない過去と現在との対話の中にある」ものだという事になろう。福澤諭吉は当たり障りのないことは言わないタイプで、「ああ言えば上祐」風のところもある位の抜群に頭脳明晰な御仁だった。

福澤は拝金主義の宣教師であって学校教育で商売をする人物だと言う意味の評伝『学商福澤諭吉』明治33を書いた福山藩出身の渡辺修二郎は明治3年故郷中津に帰る途中の福澤に対して,多分岡田𠮷顕(岡田本人は東京に出向中だったので、洋学者江木鰐水)らが誠之館の視察をお願いした。それを快諾した彼の主たる関心事は自分の著書や翻訳書がどの程度、誠之館の寄宿生達の間に浸透しているか、そしてそれらは海賊本ではないか否かと言う点にあっただろう言った調子の渡辺一流の勘ぐりを(意地悪く)書いていた。

◆「古い革袋に新しい酒を盛る」

浜野靖一郎『頼山陽の思想 日本における政治学の誕生』、東京大学出版、2014

 『「天下の大勢」の政治思想史 -頼山陽から丸山眞男への航跡』, 筑摩選書 231, 筑摩書房, 東京, 400頁, 2022年

 


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