- 松永史談会 -

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「縄の比喩」のこと

2019年08月03日 | 断想および雑談


ヴィトゲンシュタインの「縄の比喩」とはギアツによれば以下のようなものだ。「縄というものは一本の縦糸端から端まで繋がってその独自性や特異性を定義し何らかの全体をつくっているのではない。重なり合うさまざまな糸が交錯しもつれ合う、一本の糸が終わるあたりに、別の糸が絡み、すべての糸がお互いに緊張を保って複合体をつくりあげ、部分的には途切れても全体的には繋がることになる」。ギアツはそうした糸をほぐし、複合体の複合性、つまり深い多様性を探ることこそ文化の分析が要請されているものだという。


ギアツの言う「縄の比喩」の原文をヴィトゲンシュタインの著書の中で探そうとしたが、いまだに果たせず。


ヴィトゲンシュタインの名言集

⇒「私たちが見ているのは、多くの類似性 ー 大きなものから小さなものまで ー が互いに重なり合い、交差してできあがった複雑な網状組織なのである」は雰囲気的には『縄の比喩』に似ている。

ウィトゲンシュタインにおける言葉の意味と哲学の意義



【メモ】この比喩を使った最初の論攷(1995年福岡アジア文化賞創設5周年記念フォーラムでの講演内容)で、クリフォード・ギアツ(小泉潤二訳)「文化の政治学-分解する世界におけるアジアのアイデンティティ-」、みすず416,1995,2-10㌻(クリフォード・ギアツ、小泉潤二訳編『解釈人類学と反=反相対主義』、みすず書房、2002,44-58㌻に転載)だ。むかし、事のついでに『ヴィトゲンシュタイン全集』の中にちょっと探してはみたのだが、そのときは発見できなかった。小泉はギアツの日本への紹介者として大いなる貢献をした人だ。ただ残念ながら、クリフォード・ギアツ、小泉潤二訳編『解釈人類学と反=反相対主義』、みすず書房、2002に関してだが、英語タイトルはGeertz著”The politics of culture:Asian identities in a splintered world and other essays”,2002という奇妙なものである。講演原稿など所収する形で小泉が「解釈人類学と反=反相対主義」なる独自のタイトル(英語版とはまったく異なるタイトル)のもと編集出版したものだ。本書において惜しまれるのは書名を『解釈人類学と反=反相対主義』とした根拠を説明するような小泉自身による説明が簡単な「注釈」「おわりに」で済まされ、しっかりとした論文解題が付されてはいないところ。Geertz研究者の中から彼を超えるような人は出ないとの印象を振りまいてきたのがまぎれもなく小泉潤二さんだった。

思うに、ギアツとの付き合い方だが、かれは自らの実証研究の至らなかった部分を文化人類学以外の学知(今回の場合は哲学者ウィトゲンシュタイン)を動員して補強しようとした人なので、まず、そうした実証研究中の問題点を洗い出しつつ、誤りを正していくことが先決だ。それが正しいGeertzとの付き合い方。  
ちなみにインドネシア・バリ島のNegara/伝統的小国家(藩国)をTheatre State(「劇場国家」)として措定したGeertzの在り方はビクトリア王朝期における英国(大英帝国)の国政の在り方を論じた.Bagehot(1826-1877)の”The English Constitution”(中公クラシックス『イギリス憲政論』、小松春雄訳)風の切口からインドネシア伝統的小国家Negaraを捉え、そこから透かし見えてきた儀軌を重んじ儀礼的細部に拘る社会的論理を必要条件としながら成立していた(人心を引きつけるための)Rajah/藩王の権威的側面だけをもって、これこそNegaraの本質だとしたもので、私などは、Geertzをかなり真剣に学習してきた人間だが、この人には古今の国家論を正面から捉え直すといったスケールの大きな学知的構えはまったく不在で、逆にインドネシアの離島に閉じこもって重箱の隅をつつくといった傾向が強く、そういうこともあって、Geertzのインドネシア研究には時として大いなる行き詰まり感を覚えさせられたものだ。

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