まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

大人とは何か?

2015-09-05 07:12:33 | 人間文化論
前回のてつカフェでは 「〈おとな〉 とは何か?」 というテーマで対話しました。
ご案内にも書いてあった通り、私と純ちゃんは7月に、
「ネオ・ソクラティック・ダイアローグ」 の研修を受けてきたばかりなので、
今回は、いつものように多様な意見が出されてそれでおしまいではなくて、
テーマに関して何とか一定の合意に至れるような議論を目指してみることにしました。
純ちゃんがファシリテーターと記録役 (ホワイトボードではなくただのパソコン打ち込み)という、
たいへんな二役を自ら買って出てくれましたので、
私は対話参加者のひとりとして合意形成に寄与できるような発言をしていくつもりでした。
結果としてはその意図はまったく果たされないまま、
私の発言はただひたすら議論を迷走させる方向に働いてしまいました。
誠に申しわけありませんでした。
詳しくは当日の記録を見ていただければと思いますが、
いちおう言い訳というか、なぜあの時私があのような発言をしたのかという、
私の意図だけ補足しておきたいと思います。

当日の議論は、合意を目指そうという私たちの意図をあざ笑うかのように、
いつも通りの自由奔放な展開を見せて進んでいきました。
一番最初に指摘された、「成人」 と 「大人」 の概念は区別すべきだという説には大賛成で、
「大人とは何か」 に関してはいろいろと自由に哲学的議論を深めることができると思いますが、
現実の社会としては法によって 「成人とは何か」 をはっきりと定めて、
これはもう、何歳であれ、とにかく年齢で区切るしかないと思うのですが、
ある一定の年齢を過ぎたら成人とみなし、成人たる資格・能力を有しているものとみなす、
(現実にそういう資格とか能力を有しているかどうかということとは関係なく)
というふうに決めるしかないだろうと思っています。
本当にその資格や能力を持っているのかどうかということを厳密に測定しようとし始めると、
この世には本物の大人 (成人) なんて1人もいないということになりかねません。
どなたかが 「成人とは自立して責任ある行動を取って社会に貢献することが求められる人。
大人は求められるのではなく、能力がある人ということになります」 と発言されていました。
その方と私が同じことを言っているのかどうか疑問な部分もありますが、
私としてはその方の意見に全面的に賛同いたしました。
大人というのがある一定の能力や資格を実際に持っている人のことを指す概念だとすると、
成人というのは、そうした能力や資格を現実に有しているかどうかとは関わりなく、
ある年齢を超えたら、法律上そうした能力・資格を有しているものとみなされる (=求められる)、
そういう人々のことを指す概念なんだろうと思います。
法的には厳密な能力主義に立つことはできず、けっきょく年齢で区切るしかないのだと思うのです。
そうでもしないと私や純ちゃんはいつまでも少年法でしか裁けないことになってしまうでしょう。

残念ながら当日の議論では、この成人と大人の区別が共有・合意されることなく、
その後一瞬、生殖能力の話が出たあと、そこからはどんどん文学的な方向に話が流れていき、
とてもじゃないけど合意に至れる雰囲気ではなくなっていきました。
そこで私は議論を整理するために、小浜逸郎 『 正しい大人化計画』 の冒頭に出てくる、
大人とは何かに関する定義というか、整理・分類を紹介することにしました。



小浜氏はこの本のなかで、大人を大きく3つ、さらに細分化して全部で7つに分類しています。

A 生理的大人
 (1) 年齢を経て身体が大きくなり運動能力が強くなっている
 (2) 生殖能力がある

B 社会的大人
 (3) 親から経済的に自立している
 (4) 仕事や家庭で責任を果たせる

C 心理的大人
 (5) 落ち着いていて、小さなことで騒がない
 (6) 場面に応じて態度を使い分けられる
 (7) いろいろな知恵・知識があってそれを伝えられる

私は7つの下位区分にまで同意しているわけではないのですが、
生理的大人、社会的大人、心理的大人という3分類はけっこう使えるのではないかと思っています。
このうちの3番目の心理的大人に関しては、人それぞれ大人の条件とみなすことが異なり、
このレベルでお互いの意見をいくら出し合っても合意が得られるとは思えませんでした。
今回のてつカフェで出されたほとんどの意見はこの心理的大人に関する各自の捉え方であり、
それはそれでいつものてつカフェの形式であれば十分面白く拝聴することができましたが、
今回に限ってはこのレベルで意見のやり取りをすることはある意味で控えて、
みんなの合意が得られそうなレベルに議論を集中するべきなのでは、
というのが私が言いたかったことです。

また、逆に第1レベルの生理的大人の話に関して言うと、
これはけっきょく別の言い方をすると動物レベルの大人 (成獣?) の話と同じであり、
それはもちろん人間の大人にとっての必要条件ではあるけれども、
十分条件にはなりえないように私には思えました。
てつカフェのなかで生殖能力に言及してくれた方も、
人間の場合は生殖能力を身に付けたからといってただちに大人だとは言えない、
と主張しておられましたし、私もその意見には賛成でした。
とするとけっきょく、今回の議論で問題にすべきは第2レベルの社会的大人概念であり、
もちろんこれに関してもいろいろな意見がありえるだろうとは思いますが、
時代や社会の変動条件を捨象して、もしも普遍的に大人とは何かを定められるとするならば、
それはこの社会的大人の概念に関してだけだろうと私は考え、
そこに議論を絞って哲学的対話を展開していくべきではなかろうかと提案したかったわけです。

残念ながらこの提案は受け入れられることはありませんでした。
それには私の論の進め方の杜撰さも関係してきています。
私は、ただ生殖能力を持っている生理的大人と、今回問題にすべき社会的大人とを区別するために、
人間の場合は他の生物と異なって、ただ子どもを産めばいいのではなく、
産んだあとに育てる (養育する=扶養+教育) ことができなければならない、
つまり親として子どもを養育する能力・資格があるかないかが社会的大人の基準だと思いました。
これはあちこちの中学校高校で話している、
人間とは 「本能の壊れた動物」 であって、そのために本能の代替物として
「文化を産みだし、文化を用い、文化を学んで、文化を伝えていく動物」 なのである、
という話と密接に関わってくる問題です。

ここで言う文化というのは、文化系/体育会系という対立軸での文化ではなく、
文化系/理数系という対立軸での文化でもなく、
文化/文明を対置させて理解しようとした場合の文化でもありません。
ここで言う文化は、文化人類学で言うところの 「文化」 であり、
これは言い換えると 「非遺伝的適応能力」 ということになります。
つまり、遺伝によって親から伝えられるのではない、
人類が生み出したものすべては 「文化」 であるということになります。
机や鉛筆や衣服など私たちの身の回りにある有形のモノはすべて文化であり、
言語や貨幣制度や一夫一婦制や学校制度などの無形の制度もすべて文化です。
人間はこれらの、遺伝によって受け継いだわけではない文化を使いこなさないと生きていけません。
これらはセミの生殖能力などとは異なり、遺伝によって親から子へと与えられてはいないので、
産まれたあとに後天的に習得 (親の側からすると伝達) しなければならないのです。
その点を表現するために、いわゆる生殖を表す 「再生産 (リプロダクト)」 という語を用いて、
「文化の再生産」 という言い方で表現してみました。
つまり、動物のようにたんに自分の遺伝子を受け継ぐものを再生産すればよいのではなく、
人間の場合は産んだあとに文化も伝達して文化の再生産もしなければならない、
したがって大人 (=社会的大人) とは、文化の再生産ができる者のことである、と論じたのです。

この 「文化の再生産」 という表現が皆さんの誤解を招いてしまいました。
今も、文化の再生産を説明するために2段落ほど費やさなければなりませんでしたが、
当日はそういう丁寧な説明をすっ飛ばして、安易に 「文化の再生産」 と言ってしまったために、
その後の議論は、上流階級の徳目の教育とか、アニメのリメイクとか、
革命と改革の違いとかの話に流れていってしまいました。
哲学カフェの精神に背いて、下手に専門用語 (しかも人口に膾炙していない新造語) を用いてしまったために、
てつカフェの議論をあらぬ方向にミスリードしてしまいました。
これは本当に反省すべき点だったと思います。
ふだんだったらこんな軽はずみな発言はしないのですが、
皆さんの合意を目指すというこの日のミッションに焦ったあまりに、
何とか助け船を出そうとしたつもりが、完全に裏目に出てしまいました。
本当に申しわけありませんでした。

けっきょくこの日の議論は合意に至ることはなく、
いつも以上に混乱したまま終了してしまいました。
もしも合意を形成することができたとしたら、はたしてどのような合意になったのでしょうか。
私の予想としては以下のようなことを想定していました。

どなたかも発言されていたように、
「大人」 という概念は 「子ども」 という概念と対になっている相対的概念です。
しかし私は、相対的概念だから定義できないというのは間違っていると思います。
てつカフェではさらに 「大人っぽい」、「子どもっぽい」 という概念対が話題に上りましたが、
これはもうたしかに定義や合意不能であり、大人であれ子どもであれどんな人間にも、
大人っぽい部分と子どもっぽい部分が共存しているということになってしまうでしょう。
「大人っぽい」 という語を定義しようとすると、
先ほどの第3レベルの心理的大人に関する各人各様の思いが無限に出てくるだけですし、
それよりも、そもそも 「大人っぽい」 とか 「子どもっぽい」 というのは比喩表現なのです。
私は授業ではよく、言葉の定義を考えるときに、
比喩表現を混入させてしまうと定義不能になるので注意するようにと話しています。
例えば、「戦争」 概念を定義しようとするときに、
受験戦争や冷戦のことまで含めた定義を考えようとするとドツボにはまってしまうのです。
これはもともと戦争とは全然関係ない受験や東西対立構造を、
戦争に譬えることによってその激しさを表現しようとした比喩表現です。
だから、戦争を定義する際には受験戦争や冷戦のことは考えなくていいのです。
テロリストの定義を考えるときにインリン・オブ・ジョイトイのことを考えなくていいのと同じことです。

というわけで 「大人っぽい」、「子どもっぽい」 という概念対で考えるのはやめて、
「大人」 と 「子ども」 という概念対で考えることにすると、
ヒントになるのは、「子ども」 という概念と対になるのは 「大人」 という語だけではなく、
「親」 という概念もあるということではないでしょうか。
もちろん親と大人は同じ概念ではありません。
親と子どもは血縁関係または法的関係で結ばれています。
大人と子どもの場合にはそうした関係は (あってもいいけど) 不可欠ではありません。
しかし、根幹には親と子どもの関係性と類似した関係が存在しているように思うのです。
そこから、時代とか社会とかの可変性、相対性を超えて、普遍的に大人を定義しようとするならば、
大人とは、「親になることのできる者」、
「子どもを養育する可能性を有する者」 と定義できるのではないでしょうか。
どういう能力や資格を備えたら親になることができるのかということに関しては、
時代や社会によってその内容は変わってくるでしょう。
が、できるかぎりこれも普遍的に言える条件だけに絞って挙げてみるならば、

(1) 親から自立している (親の養育を必要としない)
(2) 子どもが大人になるまで扶養できる
(3) 子どもや他人に文化を伝達できる (=文化の再生産)

てつカフェのときには小浜さんにつられて 「経済的自立」 という語を使いましたが、
石器時代にも通用することを考えると 「経済的」 という限定は外してもよいかと思いました。
逆に現代では血縁関係がなくとも親になることはできますので、生殖能力は入れませんでした。
また、議論のなかで私が経済的自立に言及したときに、
病気で入院している人は大人ではないのかという質問が出ましたが、
その他、要介護老人やニートといったケースに関しては、
最初に述べた、大人ではなく成人という概念ですくいあげればいいのではないかと考えます。

さて、どうでしょうか?
「大人とは、親になることのできる者である」。
ここらあたりで合意できないものでしょうか?
合意できるかな?
できないだろうなあ。
なんだかすでに一斉砲火の音が聞こえてきそうな気がします。
コメント欄でご意見、ご質問、お待ち申し上げます。

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6 コメント

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混乱 (仙人)
2015-09-05 08:09:38
オトナはNOTコドモという社会的概念、もっと言えば説明概念であって、それを実体として議論するのは不毛ではないかなどと議論を混乱させ、しかも途中から帰ってしまった僕は、小野原さんのこの文章を読んで反省しました。
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てつカフェのたられば (まさおさま)
2015-09-05 12:43:29
仙人さん、コメントありがとうございました。
てつカフェにたらればは禁物ですが、もしもあのとき 「文化の再生産」 なんて言葉を使わなかったら、
議論はもうちょっと合意の方向に向かっていたのでしょうか?
そういえば仙人さんは何も言わずに途中で帰ってしまわれたので、本をお渡しすることができませんでした。
またの機会に。
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お久しぶりです (かおりん07卒)
2015-09-05 12:55:22
「親になる」という文言は、それが出来るか出来ないかということだとしても、いらないかなと考えます。誰もが皆、「子ども」から「大人」になり、逆はあり得ません。だから、「大人」とは、自らが子どもとして誰かに養育されずとも生きていける状況になった人のこと(パートナーと伴にでも可)、全てをいうと思います。がしかし、同時に身体的な成熟も必ず必要なのであって、戦後身寄りがなくなって自立を余儀なくされた子どもたちには使えません。さらに、年老いたり病気があったりして、家族もしくは社会に世話になって生きていく人も一概に大人というのには違和感があります。テーマパークなどでも、障害者割引やシルバー割引などを用意して区別していますが、やはり労働で収入を得られる状況かどうかも大きく関わってくると思います。大人ではないというのではあんまりなので、私もそこは、ある一定の年齢を基準として「成人」としていくということでいいんだと思います。、、、、、てつカフェ行きたい(笑)楽しそうですね~
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例外はあるのか。 (エチカ四人mr)
2015-09-05 21:53:52
「大人とは、親になることのできる者である」なるほどすっきりしています。
ただし、“できる”ってなると、様々な理由から親になる可能性のない人は大人じゃないのかという思いが、前回のてつカフェの時も、ずっと頭にあって、思考がぐるぐるしてました。(親の定義が必要)
定義って例外は許容されるものなのでしょうか。
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いいかもしれない (まさおさま)
2015-10-17 03:03:24
かおりん07卒さん、コメントありがとうございました。
「誰もが皆、「子ども」から「大人」になり、逆はあり得ません」 という部分は、
常識的に言うとまったくその通りなのですが、てつカフェの議論ではその常識が通用しません。
当日の議論は、「子どもだって大人だ」 とか 「大人だって子どもの人がいる」 という話で持ちきりでした。
そういう話の流れのなかでまさに 「逆はあり得ない」 ような 「大人」 の定義を求めた場合に、
私が唯一思いついたのは 「親」 になれるかどうかという点でした。
しかし、かおりん07卒さんの言う通り、親になれるかどうかというふうに考えるよりも、
もう子ども (親に養育されるという意味での子ども) ではなくなった人が大人だと考えれば、
結婚したり子どもを作ったりしないような人たちも含めて大人を定義できるかもしれません。
もうちょっと考えてみたいと思います。
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例外は認めず (まさおさま)
2015-10-17 03:16:45
エチカ四人mrさん、コメントありがとうございました。
「様々な理由から親になる可能性のない人」 というのがどういう場合を想定しているのか、
コメントに書かれたことだけではよくわかりませんでした。
私の議論の場合、親子にとって血縁は必須ではないので、生殖能力は関係ありません。
様々な理由で子どもは欲しくないと思っている人はたくさんいるでしょうが、
可能性として子どもを扶養するだけの能力をもっていれば 「親になることができる」 とみなします。
その他どういう場合を想定されているのでしょうか?
もちろん定義は例外を許してはいけませんので、例外がすぐに思いつくようなら失格でしょう。
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